近況報告*僕は書けなかった
書かなかった。書けなかった。
この違いは大きいわけですが、僕はどちらかに割り切れないまま往来するようにして悶々としていた。
スランプなんて格好いいものじゃない。野村克也に言わせれば未熟者にスランプは無いらしい。じゃあ、スランプは縁遠いものになっちゃう。悲しいね。
今の気分を述べるなら後者になる。これは日による、としか言いようがない産物で。
今、書き始めた僕の実感としては「これまでは書けなかった」とする他ないのだが、寝て起きたら「いいや、書かなかったんだ。これは沈黙するほかなかった意思表示である」と宣う可能性は否定できない。
だから、今の気分を大事にしながら書くとすると「ようやく書けた」になってしまう。驚きだ。薄い膜を纏わせて、隔たりながら書く。そんな距離感を大事にしようとしながら、とりあえず今のままを書いたら、こんなになるのだから。
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初めてブログを開設したのが高校生の時だった。クラスメイトから誘われたのがキッカケ。SNSなんて無い時代。ブログブーム全盛期。Mixiをやっているのが社交的には当たり前の日々。
最初のブログは、映画を観て、レビューを書くだけ。今とさして変わらない。何かについて書くことが好きだった。好きなもの、アツいものを取り上げていた。人の悪口は書かないようにしている。生産性が無いから、なんて良い風なわけでもない。だって、悪口は言うものだ。書いて痕跡が残ったらタチが悪いじゃない。
当時はガラケーとパソコンで、今はもう無いとある映画レビュー投稿サイトと自分のブログを書いていた。それこそツタヤから借りてきた映画を観ては、翌日の授業中にレビューを書くことくらいには夢中だった。インターネットで知らない人と本格的に交流を始めたのもそのくらい。
それから幾らかのブログを立ち上げては、移っての繰り返し。あまり腰を据えっぱなしよりも、色々と場所を変え、その時に文体や扱うジャンルも変えていた。「変身」しているつもりだった。マジメにインターネットの匿名性への安心感である。平野啓一郎の「分人化」は、ようは「キャラ」の話に過ぎないけど、「キャラ」を文体やジャンルで変えることが出来るんだといった開放感ったらありゃしない。現実の僕の身体はどうしようもなく揺らがない。変わらない。みすぼらしい身体が一夜にして劇的に変わるわけでもない。徐々に爪や髭や髪の毛は伸び、加齢と共に肉は落ちず、だらしない猫背が治るわけでもない。理不尽としか言いようがない。この「変わらなさ」は僕にとっては「良い方向に変わらない」ことへの憤りでしかなく、それに対して具体的に「変わらない」ことを担保してしまっている僕自身の「変わらなさ」に尽きてしまうのだからタチが悪い。
だから、ブログを転々して、幾らかの「キャラ」をバラバラにすることは僕にとっての変身願望そのものなのだろう。開放的な振る舞いが出来る。そのフリができる場所がある。それだけ充足していたと思う。
けれども、変わらないものは基本的にある。それをアイデンティティと呼びたくはないが、僕は怒りっぽい。宮崎駿くらい。しかし彼のような器量があれば生産性があるのだけど、それも違う。仕方ない。僕は宮崎駿ではないし。
余談だけど、僕が高校生時代のブログで力を入れていた映画記事がジブリだった。高校生という若さを特権化して書いた記事はそこそこな反響があった。「若さの割には」書けている評価だったのだろう。基本的には「若いこと」は特権化できるが、舐められているのだなとも思った。
話を戻す。宮崎駿は、僕にとって初めて「作家」というものを意識させてくれた存在だ。それは特別な意味を容易に持つけど、むしろ神秘性を解体させたい欲求はある。個人的な話として。
そう、すべては個人的な話だ。
とにかく「怒り」がある。
なぜ、僕がこんなことを書かないといけないのか。
なぜ、こんなことを書いているのか。
なぜ、面倒くさいのか。
これらは僕が僕自身を過大評価しているわけではない。「なぜ僕如きが」という気持ちでやっている他ならない。必要以上な卑下でも、況してや謙遜でもない。
根源的な「怒り」があるだけだ。卑屈さは後からいくらでも付いてくる。理屈と一緒。そんなもんでしかない。その「怒り」は、僕が必要だと思うことや読みたいことが無い時に生じる。じゃあ、自分で書けばいい!と思うのは相当億劫だ。面倒くさいし。正直、書かないで済むならそれでいい。誰かやってくれ、と。
こういう書き方をすると誤解を生むかもしれない。そうそう、都合が良いわけないのも分かっている。ただ、僕が読みたいと思っていることを僕自身が書くのは相当面倒くさい。端的に、イメージに身体や能力が追い付いていない。この作業は、僕が僕自身をハックせざるを得ない状況でしかないが、これが意味するのはインターネット上の変身願望よりも自身の身体感覚の限界や生身を突き付けられる嫌なものだ。
いや、待てよ。「キャラへの変身」もそうそう変わらないんじゃないかと思うかもしれない。これはエクスキューズがある。ある種の突き詰めよりも、変わり映えの速さによる薄っぺらさが「キャラ化の功罪」の一つとなるからだ。嫌となったら離れればいいし。
で、ポッドキャスト「おおたまラジオ」や直近の更新記事で壁に躓いた痛みは、インスタントな「変身」ではどうこういかなかった。面倒くささが刺さったままで、書かなかったし、書けなかった。
その結果「怒り」が空転したような着地をしてしまい、ウエルベックとか読んで穏やかになっていた。そう「穏やか」になってしまっていた。
ブログを書き始めた頃から「怒り」しかなかった僕が「穏やか」になったら書けない。そりゃあ、そうだ。それに対する焦りも別に無かった。焦りがないという焦りもなく。ただただ「穏やかだなー」って。
断言しよう。ウエルベックには鎮痛剤の効用がある。
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そんなある日、とある人と長話をしていた。そこでふと零れた違和感が、僕の「穏やかさ」に波風を立ててしまったのだから始末が悪い。それは「怒り」しか知らなかった僕が、自分と他者への目線を攻撃的に支配してみせようする「怒り」ではない別のアプローチだった。「怒り」のベクトルは返ってくるのも含めて一方向的でしかない。どのようにベクトルを操作し、異なった向け方ができるか。この問いに対して「怒り」ではない「穏やかさ」を伴いながら、書けそうだと思ってしまった。この「穏やかさ」は別に人に優しいわけじゃない。人には厳しく、自分には甘く。殊更優しくなろうとも思っていない。「穏やかさ」は「怒り」とは異なる出力で書けなかったものが、書けそうだなという淡い期待。自信があるわけじゃない。やったことないし。よく知らんけども、書けなかった自分が、「怒り」しかなかった自分が書けそうだと思ったのだから、それでいいじゃんって話。
ここで、僕が見つけた「テーマ」を書くことはない。
今後、書いていくものに表れるだろうから。そこまで読み込む奴はいない。残念、知っている。僕がこの書き方を扱えるか。そんな実験なのだから別にいい。
ただ、これから僕のテクストを読む人は「この人はもう怒っていないらしい」と分かってくれればいい。個人的な話だから。もちろん「これで穏やかなのか」と思ってくれても構わない。僕は「穏やか」だから。「怒らない」から。人に優しくありたい。
素直に今の気分で書きたいことを書いてしまった。翌日には後悔して消したくなるかもしれない。激情的に。
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このブログを消そうかと思ったことがあった。別の場所で「変身」しようかとも。それは結局、ぶつかった「怒り」の縮小再生産でしかないことも分かっていた。だからインスタントに出来なかった。マジメすぎた。この開放感とは正反対の重さ。本末転倒じゃないか。そんなものを望んだわけでもないことに気付いていからは「変身」自体を見つめるしかなかった。そんな「変身」をしていていい時は過ぎ去ってしまっていたのだから。
そんな折、僕は加藤典洋の著作を色々と読んだ。こういう読み方は大いに嫌いなんだけど、僕は励まされた。そう。これは、今の僕にとって大事な本ではないか、と。僕だからこのような読み方が出来ているのではないか、と。本当に自己啓発的な読み方で、気持ち悪くて堪らないけども、救われた。
だから、大袈裟なことを書こう。
今、僕が書けているのは、あの日長話に付き合ってくれた彼と加藤典洋のお陰だ。そして、ウエルベックも少し。
そんな「近況報告」である。