おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

暗中模索・書くことの難しさ

ブログ上ではこの数か月、『俺ガイル』読解に費やしてきたわけですが、4巻の記事を書いたところから具合が悪くなってしまった。正確には5巻の記事の準備に取り掛かっている辺りで。

健康の問題というよりも「このまま読んで、書いてみても、想定していた以上には上手くハマらない」予感が日に日に増大していったからで。「書くこと」が窮屈に思えてきました。ある種の寒気を抱えて。具合が悪い。やはり、これは身体的な問題には違いありません。

僕が夏頃から『俺ガイル』記事を書き始めたのには理由がありました。それは誇張ではなく、思想的な理由といっても差し支えは無かったと考えていますが、今後ブログを書いていく上で、あるテーマを持って連続的に記していくことを密かに掲げていました。そのテーマを一々詳らかにするのは躊躇うものであり、それは偏に「なぜ『俺ガイル』に拘るのか」と連綿と続く内在化したコンテクストに他ならないからです。そのテーマ自体を形成して共有できるかという問題設定は、個人的なテーマに沿う形として『俺ガイル』を媒介にすると具合が良いだろうという予感は、明示的な距離感として表れています。

しかし個人的な距離感の話をしても仕方ありません。読解を通じて思想を煮詰めても、追認するだけに終始する可能性を捨てきれない。現にそういった「書き方」をしてきてしまっていたのは僕の弱点でもあります。だからこそ、そのテーマを別の距離感へとブリッジさせる必要があります。テキストが誰かに読まれるために存在するならば。

何らかの奇跡的な符号により、このブログに辿り着いた読者の方々には「コンテクストの内面化の共有」を図れるようにする書き方、読者層を想定する形で考えていました。その些細かつ綱渡り的な行動が結果に結びつていたかどうか、は現段階で知る術を持ちません。

寧ろ結実したか定かではない「書き方」に問題が生じたという話よりも、具合が悪くなった方が大きな問題となったのは前述の通りですが、別の「書き方」のトラブルが覆い被さったと記す方が適切かもしれません。

僕の書き方は「声」を聴くことに傾けています。スピリチュアルな「降って来た」ものではありません。比喩的にいえば「掘る」に近いでしょう。ベクトルが異なります。特定の「声」であり、具体的な他者の存在です。

いわば僕の書くテキストの冗長性は「声」との対話や応答によるものです。「おおたまラジオ」というポッドキャストの配信が終わっても、ブログ名として看板を下げていないのは「ラジオ」的な冗長性を確保しているエクスキューズです。念のため。

そして、恣意的に「声の主」を一番初めの具体的な読者として位置させています。ただ、最近その「声」を聴くのが難しくなったと言えばいいでしょうか。やはり身体性の問題として、応答が出来難くなってしまった。リフレインするのは内面化している僕の「声なき声」のみで。空洞化してしまった。

もの凄く神秘的な内容に沿っているように思えますが、敢えてそのような書き方をしています。大真面目に書くものではないでしょう。そうか?

しかし、ある種の失語症と呼べるかもしれません。「声が聴こえなくなった」という話ですから。つまり、具体的な他者を失ったことには違いありません。もちろん『俺ガイル』記事には他にも想定した読者がいますが、僕にとっての「声」は想定以上の具体性を持った存在であり、冗長的な伴走をしてくれる他者です。今、書いているこのテキストも彼に向けて発信しているようなものです、実は。このような形でしか応じることしかできない、そういう具体的な距離感のために「声」を探しています。

あなたはそこにいますか? 『蒼穹のファフナー

「声の不在」は虚ろな空間を明示させてくれます。『八つ墓村』の鍾乳洞のような良いものでありません。まるで言葉が中抜きされてしまった。響くのは「沈黙」の重たさです。「声」に依存していた僕にはその「沈黙」に堪えられない。いや、その「沈黙に堪えられた言葉こそが活きる」ものであると記したのは江藤淳でしたが、ある種の失語症を経由して、はじめて「声なき声」を追いかける徒労感に捕まられている。終わりのないはじまりのようにして。冗長性の裏に潜む沈黙的重力が空洞化した空間の輪郭を引っ張る。「声なき声」を追いかけ、絡め捕られることで「経由した内省的な声」と向き合うといった自覚するところまでは行き、それまでの内面的な「書き方」の窮屈さから、ひとたびに開放されてしまった戸惑いの色が濃い。その躊躇いは『俺ガイル』4巻の記事で触れた夏目漱石との関係性と距離感に容易く、しかし恐る恐る接続されることで「沈黙」の重たさに触れたことに起因します。

それが「書くこと」の具合を悪くさせましたが、さらにもう一つ。

僕は良く言えば柳田國男的な書き方をしています。一つ一つのメモを断片として扱います。それをユニットという単位まで膨らませて整えます。

そして、その断片化したテキストを縫合するように書く。そのようなパッチワーク的な書き方をしています。

昔は、はじめから終わりまで順番通りに書いていましたが、今や断片的に書いては順番を並び替えて整合性を取る書き方しか出来なくなった。このような短いテキストならば順番通りに書くことはできますが、あるコトとの距離を見つめ、論じる際には断片化することでしか立ち向かえない。確か漫画のネームの書き方に「付箋を使ってコマを割る」作者がいたと思いますが(誰かは失念してしまいました…)、付箋は使わなくとも脳内的に視覚的にも同じような手法を採っていると言えるでしょうか。

今まさに取り組んでいる『俺ガイル』読解記事も同様の書き方をしていますが、先に述べたように「想定していた以上」にハマっていません。当初は『俺ガイル』を論じていく足掛かりとして、つまり前提条件の一つに全14巻分を書いていく予定を組み立てていました。その14巻分の記事を挙げることで、はじめて今後に論じられる段階を踏めると考えていましたが(だから「なぜ、そこまでして『俺ガイル』なのか」は書いたコンテクストに潜ませているつもりではあるんですが)、「想定した」通りの「書き方」に終始する一方で、見通しがクリアになりすぎている危機感を抱きました。どういうことでしょうか。

僕のパッチワーク的な書き方は、整合性が取れたあとはある程度の見通しが立てやすいものです。自然とクリアさを追認するものに近くなりすぎてしまいます。まるで消化試合のような静けさが残ってしまう。まさに「声」との応答を経た残像をさらっていくようなもので。

当初組み立てた以上の捻りや接続が生まれることに「書くこと」の快楽があると思いますが、これまでの『俺ガイル』記事(1巻~4巻分)は「想定以上」ではありませんでした。残念ながら。5巻の記事を用意しているところで、この違和感を捨てることが出来なくなりました。

この構想を持ち始めた問題意識からはみ出ることなく、寧ろ主体的に再確認していくことは地図をなぞるだけに過ぎません。いや、地図の確度の高さ、構想している問題設定の外延と中心を捉えていることに喜ぶべきなのかもしれませんが、脳的な快楽よりも身体的な違和感に目を向けたい。なぜなら身体的な問題だからです。身体的に「声」が聴こえないことを回路とした内省に素直になれば、その地図は「想定以上」にはなり得ないのではないかと予感してしまっているからです。この構想に目を配れば追認という結果でさえも満足感は得られることでしょう。しかし「それ以上」ではない。当初の地図よりも面白くなるかどうか。いくら耳をすましても「自己意識的な声」しか残響しません。既に「声」は聴こえなくとも「声なき声」から、空洞化した空間に放り出された後の身体的な寒さに耳を傾けるべきではないかと。

そこで、上で挙げた「声の不在」と地図上のパッチワーク的「書き方」の問題を繋ぎ合わせることはできないか。この具合の悪さ、身体的な違和感を起点として展開する「書き方」を模索していく。そう、考えています。

養老孟子的に言えば、僕の「書き方」は脳的なものです。脳(自己意識的)で自己完結してしまっていた。逆説的に言えば「書く」こと自体の身体性を疎かにしていました。身体的な違和感よりも、地図を作り、なぞる快楽に溺れていたと言えるでしょう。地図=脳の肥大化を回路として繋げ、身体性を最小限に抑制していた。

ただ、内省を通した「身体の発見」は、僕が目を逸らしていたシグナルを掴んで離しません。

分かっていた。いや、分かっていなかった。書くまでは。だから僕含め人は書くし、書く他ない。この苦しみと快楽の自己矛盾は書く喜びに直結しているでしょうし、それ故に「書く」身体的な重力に付き纏われるのでしょう。

futbolman.hatenablog.com

この記事は今年の頭に書いたものですが、ずっと後悔がありました。批判意識を敢えて取捨してしまっていたことに対する欺瞞があり、違和感自体に目を瞑っていたのは『俺ガイル』を読んだ者として大きな「嘘」でしかなかったと言えます。お前は一体、何を読んだんだと。どういうメッセージを受け取り、捨てたのかと。ある意味では「やり過ごす」ことが態度の一つではありますが。

一先ず、全体的に改稿するという形で、このテキストそのものに応答していこうと考えています。

今後もおおたまラジオをよろしくお願いします。