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さやわか『僕たちのゲーム史』感想 僕たち・歴史・未来

予め断っておくと、僕はゲームに詳しくない。

最後にプレイしたゲームはPS2の『バイオ4』になると思います。それくらいにはゲームに無頓着であるし、自分の可処分時間をゲームに充てるという生活サイクルではありませんから、本書に出てきた固有名の並びにも歴史的にどうこうとか特に引っかかることもないです。つまり「歴史」の是非を確かめる視点を持ちえない僕のような読者からすれば、その意味では無批判的に、ベタに読めるかもしれない「ゲーム史」の本でありますが、それ以上にこの本がスケッチしてみせた「歴史」との相関性という構造を「批評的」に読み解いていけば、こんな僕にも語ることは十分にあるのが本書の特徴になるでしょうし、まさしく「批評的実践」のフレームワーク的な提出(「歴史」の語り方、定義・位置づけ、記述方法)と見ることができるような本の構成となっています。

 

はじめに なぜ「ゲームの歴史」が必要なのか

 

冒頭から象徴的なように「ゲームの歴史」とカッコ付きであることから、一定の留保がされています。

どういうことでしょうか。

本書は「ゲームの歴史」をデザインしたものです。

しかし、根底にあるのは「歴史観」の提示だと言えるでしょう。「歴史」の見えなさと言えるでしょうか。過剰さによる不可視性が伴う「歴史の見えなさ」から、「本当に歴史はあるのか」という問いに結びつきます。「僕は、歴史には事実はあっても、正しさはないと思います」(P176)から、ポストモダン的状況における反省的な手つきがいかに歴史性を立ち上げることができるか、という構造的な実践が「批評」として成立している所以ではないかと考えられます。

『文学の読み方』のあとがきに、さやわかは「歴史とは創作物だという考え方を頼みにして本を書いてきたところがある」と記しています。つまり「歴史」とは「虚構的」であり「仮構的」なものであるという態度から、「歴史を語りうる」ための手続きと可能性が本書の性格であるでしょうし、そのような「仮構」された「創作的手つき」という回路から多様で過剰に見え難くなってきた歴史性を眺めるための「語り」自体が「歴史」を支えているとも言えるでしょうか。

本書では、ゲームが持つ「ゲーム性」と呼べるような定義を位置づけることから始まります。それは歴史的にみて「変わらない部分と、変わっていく部分」の判定を記述する試みで、その判定性を敷衍していくことで具体的な固有名に依らず、応用が効くものとなります。固有名をひたすらに列挙するような網羅的ではなくとも、規則(ルール)があればその範囲内で歴史性を構成・記述することはできる。どういった固有名を選択するか、といった取捨性の反映と表象が「物語化」であり、「何を捨てるか」という選択に「歴史」の意味や規則が宿ります。つまり、「歴史」というのは「仮構」された「物語」であり、すべてを記述することの不可能性と取捨性を前提に語りうることができる、というのが本書の歴史観の提示となっています。

 

歴史の本というのは、これまでに発表されたすべてのゲームのタイトルを並べるようなものではないからです。

もし、各ジャンルの進化に合わせてゲームを過不足なく掲載できたとしても、たぶんそれを一つの流れとして読むことは難しいでしょう。

だから僕は、「ボタンを押すと反応する」「物語をどのように扱うか」という2つのポイントに注目して、一つのゲームの歴史としてまとめたのです。(P321)

 

「変わらない部分」は「ボタンを押すと反応すること」です。これはボタンを押すことでの変化への快感や驚きの体験が、そのままゲームの核であるという理解です。

他方で「変わっていく部分」は「物語をどのように扱うか」という物語的展開と受容の変化を歴史的にみていくものです。

例えば、『スーパーマリオ』は現代的な理解でいうところのジャンプアクションゲームとして当初から売り出されたわけではなく、「アスレチックゲーム」として開発された経緯が記されています。「アスレチック」たる所以は「ボタンの役割」を一つに固定するのではなく、複雑性・複数性を担保しながらフィールド(エリア)との駆け引きこそが「アスレチック」感覚を与えるものとして設計されたものだったようです。

また、アクションゲームとしてではなく、アドベンチャー要素(物語性)があるとしていますが、この物語性というのは従来的な物語的理解よりも、世界の「謎」や隠し要素の「裏技」の発見を盛り込んだというアドベンチャー性=冒険と言えます。

そして、ボタンの役割を一つに固定化させない複数性が自由度の高い空間を冒険するようにして体験させる効果につながっていました。ボタンを押すことは、その応答と反映となり、体験による没入感を生む快楽と結びつています。

といったように資料・言説を補助線として引きながら、「歴史をいかに語りうるか」と具体的に記述されていきます。この試みは主観性に依存しない語り口だと言えるでしょうが、僕が興味あるのははじめに断ったように「ゲームの歴史」というよりも「僕たちの歴史性」の共通認識の立ち上げ方=批評的関心です。

現代では、ゲームは、インターネット接続や別世界への没入感を狙う大作主義、現実の隙間時間を意識した「軽さ」が売りのカジュアルゲームの台頭から導かれるのは、「現実のコミュニケーションを充実させるネットゲーム」、つまりコミュニケーションの拡張を目的とするようにしてゲームを道具(蝶番)とした体験の共有性と言えます。この共有性では現実の時間とゲームの時間が地続きに重なっています。オンライン/オフライン問わず「コミュニケーションの充実」を物語る過程において、ゲーム的なデザイン・体験が現実との二重写し化しているコミュニケーションと消費(プレイ)空間の一致にみられます。このような状況は、ゲームのメタゲーム化と結びついています。プレイヤーという現実の側に立つ存在をも含めたゲームの外の環境・空間さえもメディア的に、状況的にも「物語化」するようにして、あるいはメタゲーム化によって物語性がないゲームでさえも、コミュニケーションや体験がゲーム的にデザインされていく。本書でも取り上げられている第4章のゲームセンターの歴史や、第7章の『ポケモン』の「交換と対戦」からコミュニケーション・関係性の充実を狙ったメタゲーム化のデザインから、現実とゲームのコミュニケーション時間の二重写しが顕著となっていったように。

メタゲーム化を含めたゲームは文字通り多様化していきます。歴史的にみても「ゲームとは何か」と(メタゲーム化含む)ゲームを巡る総体が過剰に増えていく一方で、「ゲームの定義」自体が判定できない不可視的状況となり、多様化していったさきにはプレイヤー・ジャンルごとの島宇宙化が起こるのは必然的です。一定の内部での共有性があるにしても、ゲームの体験そのものが個々人的、バラバラになる「歴史の見渡せなさ」も含めた語り難い状況が成立していきました。

島宇宙化への抵抗が本書となります。

例えば、本書の参考文献には東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』があります。『ゲーム的リアリズム』は「文学」と「ゲーム」の横断を目論んだ批評でした。ある一定のジャンル内に留まらず、外部に流出するようにした横断性こそに批評的営為とその価値があるわけですが、その受容は素朴的に、島宇宙的に内部化していく分析(考察)という消費を引き起こし、本来ならば批評的エッセンスであるはずの横断性そのものが捨象されていったことへのゼロ年代批評の反省が、本書の出発点にあるように思えます。ゼロ年代の教訓を踏まえるようにして、ファンダム的反映・内部化に対するカウンターとして資料・言説をベースに語らせることで、本書のように「批評言語」や「固有名」に依存しない注意を払いながら批評性を構築することは、共通的な「構造・フレーム」を提出する語りが本書のタイトルにある敷衍していく「僕たち」を立ち上げます。つまり、その構造的達成が島宇宙の外部へと「僕たち」を流出させることができる。不可視になっていく「全体性」への意識を見通すために、「僕たち」の歴史化・物語化を誘発させる目論見が本書にはあります。

ここで、タイトルにある「僕たち」とはどういうことでしょうか。

この本にあるのは、島宇宙化による「歴史の不可視性」と多様性です。まさしく「僕たち」の体験はバラバラになっていき、「歴史」さえも主観的で個々人の物語となっていきます。仮に自明的であると思われている共通的な「歴史」(共同幻想)というのがあったとして、その認識自体に懐疑的なのが本書の立ち位置だと言えるでしょう。なぜなら、連続性においての不可視さ、不透明さをどのように「一致的」に見ることができるか、という実践に「僕たち」の意味があります。

つまり、同一性や共通感覚を疑う不信感が出発点にあると言えるでしょう。同一性に収まらない個々人の差異や恣意性、主観的な記憶の不確かさに対しては、記録や言説をベースに、それこそ「歴史的」にみて共通的に持っていたであろう認識を整理して再構築するといったオルタナティブな「物語化」を図るための時間的・空間的な試みだった、と整理できます。

「正しい歴史は本当にあるのか」という疑い、そこから生じる距離の可視化と「いま・ここ」から離れられない人間だからこその応答可能性があります。「歴史」を語るということはどういうことか。歴史を引きつける行為はむしろ歴史から問われることを意味し、逆照射されていることを眺めざるを得ないからこそ、資料や言説から引き受けて展開することが歴史への応答可能性ではないでしょうか。

そのことを踏まえると『僕たちのゲーム史』に見られる「僕たち」というタイトルの意味が際立ちます。一定の共同幻想を疑い、オルタナティブに語り直すことで読者――「僕たち」――までに反映させるように引き上げるまで調達する構造的実践は、多様化した個々人の認識の差異(島宇宙化)から「僕たち」という同一性を再構築するものです。

このような試みは、島宇宙的なファンカルチャーならではの距離の密接さが強度として捉えられる現代において、容易に斥けられることも想定できます。本書にあるようなフレームワークとしての「歴史」は、「私の」や「俺の」とは違うとして、「僕たち」に含まれることに抵抗がある、まさに内部化していった「僕」がいることでしょう。

そのことさえもある意味では「僕たち」という個々人に回収されるようにして、「僕たち」のバラつきに自覚的であることから始まっていると言えます。そこを起点として「僕たち」と語られた対象との相関の集積が「歴史」ならば、その共同幻想を問うこと自体が距離を相対化した上で「本来的に個人としてズレが起こっている『僕たち』が同一性の認識を作ることはできるのか」という模索と準備だったのではないでしょうか。

だからこそ、資料を前提に語り直す。

「僕の」といった個人的体験や認識のような島宇宙的な時間的・空間的な距離を相対化させながら、「語り口」自体を主体化させていくことで、「物語」のように「僕たちはどのように認識してきたのか」、そして「どのようにズレていったのか」と距離に宿る差異を見つめていく作業が本書には「歴史」として記されています。具体的に対立軸の交差性、複数性をマッピングして、歴史的観点から連続的な文脈を抽出することで「物語」のように流れを読めるようにしており、島宇宙的に閉じてしまうだけの内部化ではなく、全体性を疑いながらも全体性を意識するように個々人の多様な差異を捉えながら「僕たち」といった同一性をオルタナティブに再構築できるか。

本来的な個人のバラバラさ、多様性、分かり合えなさといった差異を回路として組み込まないと新たな共通的認識は作れません。常に「僕ら」はズレ合ってしまっているからこそ、「僕たち化」ができるのではないか。

認識のズレ、不一致性に対してオルタナティブな解釈を構築し、そのズレが生じてしまった「僕たち」それぞれに輪郭を与え、「僕たち化」という「語り」にするまでに昇華させることさえも「物語化」することで、初めて共同幻想的な同一性(全体性)そのものを捉えられるのではないか。そのような「物語」に組み込まれた「僕たち」に投げかける構成になっていると読めます。

再帰的な「僕たち化」から「僕たち」自身が、その同一性は「どのようにして成立するのか」という自己言及的な問いは、「僕たち化」を通してファンダムを脱臼させるようにして島宇宙的内部を相対化せざるを得ません。否が応でも全体性(外部)を意識させるものとして。

本書を通じた「僕たち」という記述された「歴史性」・「物語」を基準・目印とすることで、「歴史」の共有性を立ち上げることができます。

仮に本書が「僕たちの歴史」として機能しないならば、さらにオルタナティブに「歴史」を構築してぶつけるような形で応答できることでしょう。その応答可能性で「ゲーム史」そのものの厚みが増していくでしょうし、そのこと自体が歴史化=物語化となる実践的可能性を持っています。そのためのフレームワーク・視座は本書が既に示したように、「僕たち化」を通した「僕たち」の手の中にあります。オルタナティブな応答可能性は開かれています。本書のように。

「正確な歴史はない」という疑いを前景化した語りに纏めることはできるでしょうが、ニヒリズムではありません。そのような「仮構」された視座に立たなければ成立しないのが「歴史」という「物語」だと言えます。

 

人々にとって『スーパーマリオ』と同じか、ひょっとしたらそれ以上に身近な娯楽としてのゲームは、既にたくさん生まれているのです。

それは僕たちにとって、『スーパーマリオ』とは全く違う、ほとんど同じ歴史上にあるものとは思えないようなものかもしれません。ひょっとしたら、僕たちには全く理解できないけど、誰かが猛烈に支持しているかもしれません。

それは当然なのでしょう。なぜならそのゲームは、他ならぬ『スーパーマリオ』がそうだったように、過去のゲームの価値観を覆して生まれてきたものなのです。

しかし同時に、そのゲームもきっと「ボタンを押すと反応する」「物語をどのように扱うか」を軸にした日本のゲーム史のうえに、並べられるものに違いありません。

過去を継承しながら、過去にないものを作っていく。

そういう矛盾をはらんだ営みの連続を、人は歴史と呼びます。

僕たち全員がその先端にいて、たった今も、未来のゲーム史を作っています。(P328)

 

「歴史の終わらなさ」、「閉じなさ」といったように「歴史」は未来に常に開かれています。誰にも歴史の全体像を把握して記述することは不可能ですが(歴史の切断性・取捨性は暴力的とも言えるでしょう)、同時に本書から渡されたフレーム・構造はもはや「僕たち」が持っています。その共通認識をも「僕たち」を強固に形成するでしょうし、本書を読み終えた後には「僕たち」は個々人的にバラバラに構成されていながらも、全体性(「僕たち」、オルタナティブ共同幻想)を意識して、どこかでフレームとしてゆるやかにつながれているような気分(回路)を抱かせるでしょう。島宇宙化に抗うように。

そのようにして開かれたフレームを敷衍していく。「僕たち」が「歴史」を紡いで、語っていくために。『僕たちのゲーム史』からの展開、応答可能性として。

「歴史」は終わらず、今もここから、未来に、開かれています。

「僕たち」に。

 

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

  • 作者:さやわか
  • 発売日: 2012/09/26
  • メディア: 新書