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批評と私

僕に「批評」は書けない。だから、僕は「批評」に憧れている。

これまで書いてきた記事は少なくとも「批評」と呼べるものでもない。カテゴリは分からない。なんと呼ぶかは自由ですが、「批評」だと思ったことは一度もありません。

「批評」とは何か。

端的に記すことは非常に困難ですが、敢えて言うならば「景色を変える」ものでしょうか。景色を変え、価値を、世界を転倒させるもの。

そんな力学に憧れてしまう。僕には程遠い力の作用。自分が無力でしかないことを実感しているからこそ、なおさら「批評」に惹かれてしまうのだろう。少なくとも僕は「景色を変えられた」側の人間であるから、どうしようもない程の身体的な意見として書いている。

最近の記事の書き方は自分なりに「書く」ことが纏まってきた気がしています。ようやく書き方が分かってきたかもしれない。

否定の論理を裏返したい。

そんな欲望に憑りつかれている。それこそが生産的であると疑わないかのように。そもそも生産性自体を否定したい欲望はあるにしても、それでも僕はテキストを書いてしまっている。矛盾を抱えて――。もっと「くだらなくて」いい。生産的であることが世の価値だと思わなくてもいい。そんな世界は豊かであるかもしれないが、同時に窮屈でしかない。そう考えている僕ですら、何かしらに影響を受け、そして「価値転倒させるための価値」を創出することを願ってしまっている。「批評」がまさにそうだ。

生産性なんてクソ!と思っていても、こうして何かを書いている。「批評」を書きたいと思っている。生産性そのものに否定の論理を加えて突っついてるのはどうしようもない無力な僕だ。それすらもある種の生産性に包摂されていると知りながらも、書かないことから離れることはできない。それを否定することはできない。だからこそ、迂回してでも裏返したいのかもしれない。生産性と自己否定を。

話を戻す。書き方が分かってきたと記しましたが、具体的には「~ではない」を覆すことに重心を傾けています。「~ではない」言葉を作っていきたい。あまり読まれていないけど、僕にとっては『SSSS.GRIDMAN』の記事がそうでした。

futbolman.hatenablog.com

「AはBではない」という否定に対して、「AはBであるからこそCでもある」と価値を転倒させてブリッジさせる。そういう意識で書いた記事は「批評」と呼べるかは分からないが、僕なりの「批評精神」であることには違いなかったのです。それこそが価値転倒であると信じている。

僕には位置づけたい欲望がある。現代は位置づけが不足していると思う。あらゆる情報が氾濫している中で、マッピングの作業が追い付いてない。「語り」はなされていますが、幾らかは切断的であると思っています。どのように位置づけることができるか、という作業は横断的なものです。何かを紐づけることは客体化を促し、位置づけるまでの道を整理します。

物事や対象がどのような位置づけで語られていくのか。人間の営みにおいて「物語化」されていくのか。そのためには位置づけなければ、前に進めません。そういう意味では素朴に進歩的であるし、生産性を疑っていないことになる。でなければ、自分のテキストすらも肯定できないわけですが――本来的に生産性を否定するなら自分のテキストも否定するべきですが、そんなツライことはできないのが自己矛盾の弱さでしょう――「~ではない」という否定を転倒させるだけではなく、安易に肯定に囚われることも避けたいと思っているからこそ、どこか違うところに耐え得るだけの具体的な足場を求めている。そのような粘りを位置づけるのが「批評」であると思っている。

もちろん、位置づけることは暴力であるし、恣意的でもある。なにかを「物語る」行為自体がそのような力学から離れることはできない。「A」という態度や意見を表明することは、「~ではない」という「B」=否定を裏側に引き寄せることもある。そのような否定を吟味することで「AとB」の価値を疑い、語ることの豊かさを再発見していくことが今の僕の書き方になっています。つまり「否定を否定する」と纏めることはできるでしょうが、「C」までに価値転倒させれば粘りのある具体的な足場を構築できるのではないか。単なる否定の裏返しではない別の運動性を捉えることができるのではないか。そして「景色を変える」。それが「批評」なのではないか。僕はそう考えています。

位置づけるためには、何かしらを表明する必要があります。ある種の自分語りは避けられません。例えば柄谷行人のテキストがそのように。

僕は以前にテキストの最終目標は「非人称的」であると書きました。僕は、僕というフィルターを壊したい。自己を介さずに思弁的に観念的に働きたい。遠くに行きたい。生産性を否定したいのも一つの表れでしょうか。そのような欲求があります。

futbolman.hatenablog.com

しかし、書く行為は身体的でしかありません。「ここ」から離れることはできません。必ず自分というフィルターがかかります。僕は「ここ」にいることを実感するしかない。

文体を「ですます調」に変更したのは形式的文体であることの有効性を活かすことで、少しでもある種の無機質な遊離性が「非人称」につながるのではないかと考えていたからですが、他にも影響を受けた作家の文体であるとか、「である調」よりもハッタリが利かない逃げ場の無さとか、圧力をかけないスタイルが「ですます調」という形式的なニュートラルさや目線の低さがあるからとか、色々理由はあるにしても突き詰めていくと僕は、僕であることを晒すのが恐いのだと思いました。形式に依存していたのです。インターネットで公開されているからプライバシーがどうとかではなくて。僕は「他人」を信じていないからこそ、ある種の自分語りを忌避していたのでしょう。もちろん、自分語りは自己というフィルターを活用しなければ発生しないオリジナルティですから、自分を消したい・離れたいと思っている僕には距離があるとしても、です。その意味では「他人」を消し、自分を消したいと思っている僕は徹底的に自己完結的でした。

でも、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観ると「他者って大事」ってなるんですよね。他人を信じること。他者といること。それは僕が恐かったものの一つです。自分語りができない要因でしょう。

僕が今書いている『俺ガイル』の連載記事では、江藤淳の批評に対してのある種の応答を目指しているので、もちろん江藤淳の批評が接続していた「他者」も考えているところなんですが、そんな中で『シン・エヴァ』を観たらつながってしまったんですよね。江藤淳の「他者」は厳密には文脈が異なりますし、柄谷行人の「他者」とも違う。「他者」といっても、自分から「他者」を眺める水平的・垂直的な距離感が異なるわけだったり、また「他者」からの眼差しを経て自分を再発見すると機能性が違いますから一口に「他者」とは言えるものではなくても、「手と手が触れ合う温度感」のあるような意味で「他者は大事」ってなるんですよ。その近さというか。開ける感じというか。『エヴァ』のような私小説という自分語りであるからこそ、その応答に開放感があったんですよね。自分だけではなく、他者もいる。あのような「語り」だからこそ機能する、してしまう。自分しかいなかったら、あのような語りにはならないんですよ。『エヴァ』という物語における自家中毒的ではない閉塞感からの脱出=他者性の接続は形式的な隘路を突き破った。大袈裟ではなく蒙が啓かれました。まさしく「景色が変わった」。

そういうものに僕は憧れてしまう。そんな自分語りでした。