おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(4)

依然として、3巻でも「変わらなさ」の象徴のように孤独を自己肯定する反復があります。一人ぼっちに対するイメージの打破、それ故の「他者」との衝突。過去の自分を引き合いにアイロニカルに「ネタ」にすることで自己防衛する比企谷八幡と、「他者」としての由比ヶ浜結衣とのすれ違いはラブコメとしては「まちがい」つつ、一周して王道のような展開だと言えるでしょう。言葉と現実がズレてしまうから「他者」までに伝わらないし、正確に届かない。

例えば、比企谷小町とのやり取りでも、コミュニケーションの不完全性について「ポイント制」のように客観的に数値化されていれば、不透明なコミュニケーションはズレることもないとするシーンがありますが、淡い願望が見えてくるようでしょう。結局は、主観でしかないからこそコミュニケーションは不完全であり、非対称的にズレてしまう。

由比ヶ浜結衣による新しい好意を受け入れることができないのは、比企谷八幡の徹底した主観的かつ経験的な「敗北」へのアイロニカルな信頼によるものです。敗北の経験は全く異なる「他者」を受容できません。経験の外に位置している「他者」との距離感が絶対的に明示されてしまうから。その意味では、由比ヶ浜結衣の優しさは距離を必要以上に近づけるものです。比企谷八幡からすれば事故の件について偶然的行為を「必然」として読み解くように、あるいは過剰に受け取っているように映る。比企谷八幡の言うように偶然に意味は無いけども、由比ヶ浜結衣が意味を読むかどうかの過剰さは自由ではあるように非対称性が担保されていると言えるでしょうか。

 

けど、それは優しさであり同情であり、ただの義務だ。(P29)

 

経験的なバイアスの問題として処理できるように思えますが、由比ヶ浜結衣の優しさを同情として捉えてしまうのは異性という「他者」の「分からなさ」に起因しています。2巻の延長にある応答のように経験として期待してしまうからこそ、あきらめた方がいい。敗北の経験がそう警告しているから。それ故に「他者」とのコミュニケーションに失敗し、ディスコミュニケーションに転倒してしまう。距離感を図りかねては非対称性が絶対的に肥大化していく。「分かり合えなさ」として。

由比ヶ浜結衣の優しさを「嘘」として「正しくない」とするロジックは、比企谷八幡の経験の外側にある「未知」=「他者」なものであると同時に潔癖的倫理観によるものであり、1巻から二項対立についてカウンター的に位置している彼からすれば「青春」における欺瞞と重なってしまうためでしょう。

不一致的に距離がズレてしまう「他者」とどう向き合うか。

由比ヶ浜結衣の「他者性」は近視眼的な比企谷八幡にはないものです。だからこそ「他者」を切断して、アイロニカルな経験的に応答してしまう自閉性が際立つ。

そこで、平塚静の介入は「他者」に手を伸ばさざるを得ないように促すものでした。ディスコミュニケーションな自己完結ではなく、「他者」との距離感を回復させるためのコミュニケーションの契機として物語的に自閉性から「移動」させる目的もあったでしょうが、「期待してしまうからこそあきらめる」異性という「他者」ではなく、まずは友達という関係性の曖昧さを担保し続けている「他者」(戸塚彩加材木座義輝)に目を向けるような構成となっています。同性相手ならば勘違いすることもないために、ある意味安全にコミュニケーションができる。それすらもある種のアイロニーではありますが、それでも自分には他人からどのように見られているかという「分からなさ」としての「他者性」と、自己の再発見は不一致的な距離感は友達であっても常に隠れている。主観的には見えてなくても、友達という曖昧な関係性が冗長なコミュニケーションと距離感を誘発させるようにして。重要なのは、主観的な問題だと言えます。由比ヶ浜結衣とのすれ違いもそうであるように、主観は主観でしかない。トートロジーですが、主観であるからこそ「他者」や「現実」をそのまま受け取れないし、歪曲化してしまう。そして、自己防衛するかのように自己正当化する過程で経験的に「他者」を取り除いてしまう。コミュニケーションが不完全であるからこそ、不一致による「素直な暴走」が経験的に自己正当化するロジックをアイロニカルに補強する/してしまう。だから、二人の言葉は主観的に距離を開いたまま宙吊り的に空回ってしまい、落ち着くところは主観的でしかなくなります。そこに間主観性はありません。言葉が「現実」に対して宙吊りとなり、決定的に不足してしまうからこそ「他者」に届かないし、受け取れない。「他者」との距離感を図りかねてコミュニケーションは失敗する。二人のすれ違いは主観的な問題であると同時に言葉に対する欠乏感でもあり、その文脈は後期の「言葉の貧しさ」における不信感という意味での「文学性」に素直に転換されていくと言えるでしょうか。

 

由比ヶ浜結衣が、比企谷八幡雪ノ下雪乃の仲を勘違いするシーンがあるように「すれ違いから勘違い」へと問題がズレていきます。

 

誤解は誤解。真実ではない。ならそれを俺自身が知っていればいい。誰に何を思われても構わない。……いつも誤解を解こうとすればするほど悪い方向に進むしな。もう諦めた。(P94)

 

誤解を招いたり、誤解を解いたり、主観的な真実はそれぞれの胸中にあるためにそれ自体を正すかどうかは別の話であり、正確に他者に伝える/伝わるかどうかもまた別の話となります。ある意味ではポスト・トゥルース的な文脈での相対主義のような話にも思えますし、ニヒリズムの台頭を見ることは出来ます。その誤解を訂正するのも自意識過剰であるから憚られ、正す/正さない自由もある。比企谷八幡にとっては、自分が把握していれば十分とする独我論的なものに過ぎません。「他者」の不在と言っていいでしょう。自分しかいないことは孤独であることから展開した諦念と重なりますが、その結果、目の前にいる「他者」を切断しているだけとも言えます。シニシズムであり、主観的自己完結でしかない。

3巻の比企谷八幡由比ヶ浜結衣のすれ違いは、ディスコミュニケーションによる距離と齟齬の表れが「まちがい」でありながらも、同時に「正しさ」も孕んでいます。なぜなら、主観的な応答を経ることでしか共同的な視点(間主観性)やコミュニケーション=「交通」の「賭け」という「飛躍」、「移動」を形作ることは不可能でしょう。逆説的にいえば、ディスコミュニケーションによってコミュニケーションが要請されるというのはその意味であり、「まちがい」が「正しさ」を作り、また「まちがう」ことで次の段階を踏める、といったある種のループ構造に似た循環的ながらも意味や言葉は「交通」を経ることでズレることで「移動」していく。そのことが意味する猶予性はモラトリアムそのものでしょうか。停滞感のある「進まなさ」=成熟ができなさといったミクロな集積としてのドラマ性がモラトリアムな「日常系」の文脈に正しく回収されています。 

『俺ガイル』で重要な要素の一つとしては、雪ノ下雪乃は嘘を吐かないことでしょう。「嘘」を嫌う比企谷八幡は絶対的な潔癖として「嘘」から遠い雪ノ下雪乃を信頼できるし、一方的に憧れてしまう。同じ「一人ぼっち」という共通項がありつつも「期待」から程遠い距離感でもってコミュニケーションすることができるから、勘違いすることもなければ2巻のような轍を踏まなくてもいい。「期待」からある種のあきらめ前提の気楽さという意味での「信頼」となっています。アイロニカルな自己防衛も不要であるし、その点で「嘘」がないために非対称的に「言葉と現実」がズレることがないという意味で信頼できる。

しかし、それでも雪ノ下雪乃が衝動買いしたエプロンの理由に比企谷八幡は気付くことはできない非対称性は付き纏っているし、「分からない」からこそ「他者」として位置していることに、比企谷八幡は「嘘を吐かない雪ノ下雪乃」という潔癖という信頼の意味以外においては主観的に切断していると整理できるでしょうか。主観的に潔癖的な理想を見出しているとも言えますが、1巻で「青春」にある「嘘」を欺瞞として重ねたように、「青春」へのカウンターとして位置しているのが『俺ガイル』における比企谷八幡であり、前期の特徴でもあります。「嘘」に対して、絶対的な「正しさ」を独我論的・潔癖的に求めているからこそ「理想」や「本物」の後期的文脈が浮かび上がってきますが、「他者」とつながりを持っていくことで独我論的な潔癖的価値観は絶対化すればするほどに卑小的な意味で自己欺瞞的に空転してしまう。それが前期の孤独の肯定から「他者」の発見、そして「後期」への橋渡しとも言えますが、のちほど記していくことになるでしょう。

 

「理想は理想だ。現実じゃない。だからどこか嘘臭い」(P150)

 

「本物」への潔癖的思考は、現実主義者が価値転倒してロマン主義者になっていることを相対的に語ります。引用したようにもちろん「理想と現実」は異なります。現実を知れば知るほどに「理想」の輪郭は嘘臭さを増していくように、そして「現実」に塗れた結果、嘘臭さを脱臭することも難しくなってしまいます。

その意味では「現実と理想」の権化といえる雪ノ下陽乃が登場するのは3巻からです。理想形でしかない、現実感が希薄ともいえる存在として当初は描かれているのが特徴でしょう。しかし「理想」というイメージに過ぎません。自覚的に「理想」という記号的に回収されながらも、裏側に潜んでいる雪ノ下陽乃の「現実性」もまた魅力を買っているわけで、単なる理想的な記号で終わらない両義性は後に記されていきますが、具体的に「本物」という問いが立つのは後期からであり、この段階から「現実と理想」な記号=イメージの体現者を登場させ、逆説的にその「嘘臭さ」の一端を晒してみせたことは「本物らしさ」への種蒔きでしょう。もちろん、雪ノ下陽乃は「本物」ではない「強化外骨格」を身に纏い、理想化のための記号・方便です。「嘘」を嫌う潔癖であるからこそ、その「現実と理想」の捻じれを比企谷八幡は見抜いたわけですが、だからこそ転倒して「本物」をアイロニカルに求めてしまうのでしょう。絶対的で、どこか遠い、経験にない「他者」や価値を願うようにして。

『俺ガイル』の主要なテーマの一つに「本物と偽物」「真実と嘘」があると思います。どちらも「青春」というモラトリアムを蝶番にしている意味では重なりますが、形式として二項対立的に対置させてみせることで価値を転倒させていく試みがあるでしょう。

1巻から「嘘」に対する欺瞞を指摘するカウンターとしての潔癖性が二項対立的に露わになっていましたが、3巻では雪ノ下陽乃材木座義輝の「偽物」としての意思が「真実味」を帯びる逆説が展開されているとも言えます。

遊戯部とのやり取りでは材木座義輝の「偽物」、ジャンク性による表面的態度が問われます。それは「偽物」であり、「正しくない」とするように。サブカルチャー的であると。このサブカルチャーの意味は、江藤淳が警鐘を鳴らしたサブカルチャー化=虚構と同じニュアンスとも言えるでしょうか。サブカルチャーは「偽物」だとする江藤淳は、サブカルチャー化に対する無批判的かつ批評性のないサブカルチャー性を否定しました。トータルカルチャーとしての「文学」とサブカルチャー化する「文学」を緊張的に選別することが江藤淳の価値基準であったわけですが、サブカルチャーという虚構=ジャンク性は戦後の日本におけるアメリカという「他者」由来であったことが、江藤淳の批評という防衛戦線にあったことは重要です。後ほどに江藤淳サブカルチャーについては論じるので、ここでは深く立ち入りません。

しかし、『俺ガイル』のみならず江藤淳サブカルチャー観にも「本物と偽物」があったことはさきに提示させていただきます。

遊戯部の言い分に比企谷八幡は違和感を抱いたように、「文学」としての江藤淳に応答してみせるのがこの論考の一つの趣旨でありますからさきに提示したわけですが、「偽物」に対する「好きという気持ちは本当であり、本物」だとする由比ヶ浜結衣はある種のジャンク性をズラしたとも言えるでしょう。その偽物性に宿る意思を肯定してみせる。

しかし意思では不足してしまうから知識や技術を磨き、理論武装化することは「強化外骨格」に通じるかもしれません。それ故に「理想」ではなく「現実」が見えてしまう。「現実」に対するエクスキューズを求めてしまう。それすらも理論武装化し、ただただ「理想」を語る材木座義輝が薄っぺらく見えるのと同時に失った輝きを持っていることに羨ましさをも覚えてしまう。

 

素直に羨ましいと思った。

疑いもせず、悲観論から入らず、好きだからの一言だけで自らの行く末を決めてしまえる愚直さが。愚かしいにもほどがあり、眩しいほどにまっすぐすぎる。

好きだって、そう素直に言える強さがあまりにも眩しい。冗談交じりでも強がりでもなく心の底から言える無垢さは俺がしまいこんでしまったものだから。

その感触は現実であり、理想を目指すためのエネルギーになる。真っすぐであるがゆえに歩むべき道は示される。(P217)

 

 

いかに「純粋」であることが難しいか、ということでしょう。

「現実」によって擦り切れてしまうからこそ「純粋」を保持できない。それは「本物」と言い換えてもいいはずです。だからこそ潔癖的価値観にハマるようにして「本物」は絶対的であり、幻想でもあり、価値基準に必然的に要請されてしまうジレンマがあります。

「理想と現実」の生き方の問題として、理想や期待は「現実」ではなく「嘘」であるというのが比企谷八幡の経験でした。なぜなら「嘘=偽物」であり、その欺瞞が溢れるゆえに「本物」は絶対化します。「純粋」であり、潔癖的であるために。

経験的に言えば「偽物」で終わるはずだった由比ヶ浜結衣との関係性は、リセットしてゼロベースにするものでありました。リセットして終わるのが比企谷八幡のこれまでの経験に基づく「現実」だったからです。由比ヶ浜結衣を助けたのは「偶然」であり、それ以上の意味はないとするのが比企谷八幡の主張です。彼からすれば特定的ではない「偶然」の産物であるからこそ、由比ヶ浜結衣の行為・優しさは特定的で必要以上なものに映ってしまっている。この前提ですれ違っていることが明確ですが、しかし比企谷八幡にとっては由比ヶ浜結衣の行為は「過剰」であり、それ故に「現実」を歪めてしまっているように見えています。それは「嘘」であり、必要なものではないとするしか期待してズレることを止める術を持たないからでしょう。そのこと自体が自意識過剰でありますが、だからこそ自己防衛しているとも言えます。二人が主観的にすれ違っているのは、現実と言葉と気持ちがズレたままコミュニケーションが非対称的に進行してしまうためで、ここに間主観的な目線は存在しません。「他者」を気にかけているように見えて、「他者」が切断されている自己本位的な語りが終始している印象です。そこで、雪ノ下雪乃の提案は間主観的なものであったと整理できるでしょうか。二人の差異・ズレについて「被害者」同士という共通項、同一性でもってすれ違いの前提を編み直し、始め直すというロジックを雪ノ下雪乃が二人に与えました。「加害者」に負い目を向けることで、二項対立的に「被害者」同士の連帯を促す。

リセットしてきたために、始め直すという経験が比企谷八幡にはありません。そのような発想がそもそもない。ですから「他者」によって、自分で選ばずに動機やロジックを与えて貰ったことが「まちがい」だとも言えます。徹底的に「他者」とのデタッチメントであり、それゆえに別種の距離感が明示されました。

 

俺たちと彼女とを明確に分けるもの、その事実に、あるいは真実に気づくのはもう少し先のことだ。(P244)

 

由比ヶ浜結衣と始め直すという結果は、経験を超越した「現実」であり、嘘偽りないものでしょう。前提が噛み合わなくとも、差異はあるにしても「意思」が「本物」であるとするのは「本物と偽物」を重ねることができます。材木座義輝の慟哭のように。あるいはジャンクでしかないことを自覚せざるを得ないサブカルチャー特有の捻じれのように、「本物と偽物」は簡単に処理できるものではありませんが、「本物と偽物」を留保するようにして、経験では片づけることのできない「他者」との関係性の第一歩が由比ヶ浜結衣になっていくとするならば、他方で雪ノ下雪乃との距離の顕在化が起きるラストは象徴的でしょう。この非対称性はまさしく「他者」による「分からなさ」です。由比ヶ浜結衣との不一致が恰も解消されたかのように、「加害と被害」の二項対立によって纏め上げることで、別の距離感・不一致が生じる「分かり合えなさ」は「他者」として浮かび上がるものでしょう。一つのコミュニケーションがうまくいったと思えば、一方でズレてしまうように。由比ヶ浜結衣とは異なる「他者」として当然雪ノ下雪乃もそうですが、新たな隔たりが距離感を形作り、「他者」とのコミュニケーションがディスコミュニケーションに容易に転換されてしまうのは「分かり合えなさ」という不一致的な差異によるものでしょう。言葉を用いるコミュニケーションに対して現実が常にズレてしまうように。差異という隔たりがディスコミュニケーションの壁として機能するかのように。

「嘘」を言わない雪ノ下雪乃ですらも言ってないことはある。「沈黙」を「嘘」としたのが「まちがい」だとも言えますが、この潔癖的な「理想」の押し付けは5巻、6巻で明らかになります。

捻じれた関係性の始め方から、前提の情報が食い違っていてもやり直しが利くことを由比ヶ浜結衣とのやり取りで描いたのが3巻だったとするならば、比企谷八幡の主観を通した前期から後期にかけての文脈は「まちがった」まま始まったものを「正しくリスタート」することで新しく「まちがう」物語と言えるでしょうか。「まちがい」のループ構造=モラトリアム性から、選べない/選ばれない比企谷八幡が選ぶまでの物語だとすることはできるでしょうが、選べないからこそ孤独で、内輪から外れることで「空気」に抗い、二項対立的にカウンターになり得る。

しかし、その孤独なカウンターが「他者性」によって攪乱され、機能不全になる距離感が見て取れてしまいます。そのような「他者」との関係性――「分からなさ」(コミュニケーション/ディスコミュニケーション)の第一歩が3巻でした。

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