おおたまラジオ

読書、サッカー、など。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(6)

4巻冒頭では、夏目漱石の描いた「淋しさ」を「個人化」と読み解き、敷衍するようにしてぼっちの肯定をします。ぼっちを肯定すること自体は、これまで見てきた通りに反復的と言っていいでしょう。孤独は「個人の精神性」を表し、文学的に内面としての「淋しさ」は当然のものとなったとするように「個人化」=ぼっちの主張を繰り返す。もはや「個人の精神性」がデフォルトとなり、人はそれぞれの内に「淋しさ」を抱えています。それぞれの個人的な問題として。

「個人化」を経た人と人との「分かり合えなさ」はコミュニケーションを通して、相互に隔てる虚無的かつ絶対的な距離を「命がけの飛躍」という「賭け」がその都度行われていきます。非対称的なアンバランスな歪さを内包しながら、「賭け」の度に虚無的な距離が明示されていく。3巻で描かれたように、比企谷八幡雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣といった相互の差異は「分からない」という距離であり、「他者」との「分かり合えない」距離はすれ違い、コミュニケーション(言葉と現実)のズレとして物語化されていました。

第1章は、比企谷八幡の夏休みが語られています。一人で過ごす価値を描きながらも、他方で戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃とのニアミスが生じる。具体的な「他者」との接触はなくとも、顔見知りを見かける「狭さ」と近さがまさしく「他者」とのズレを示していく中で、個人としての自分の「淋しさ」を見つめ直す構成となっているでしょう。「淋しさ」や個人という単位を日常として捉えながら、一人としての「変わらなさ」の反復となっています。

 

かけがえのない存在なんて怖いじゃないか。それを失ってしまったら取り返しがつかないだなんて。失敗することも許されないだなんて。二度と手に入らないだなんて。

だから、俺は今、自分が築いている関係性とも呼べないような関係性がわりと好きだ。何かあればたやすく切れて、誰も傷つかない。(P30)

 

「他者」との距離感への恐れともいえるでしょう。人生というリセット不可能な一回性のうえで「まちがいたくない」ことが関係性の微温的な温存・停滞を許容する。同時にこの独白の関係性としては後期の「本物」を巡る文脈だとも考えられます。「かけがえのない」ものが欲しくなったという転換ですが、ここでは自己と「他者」を傷つけることに対する責任を負いたくない逃避、つまり自己防衛に見えてきます。自分一人であれば「個人の精神性」の範囲内で自己責任として処理できますが、「他者」というのはある種の躓きであり、ノイズを齎す存在です。個人化した自分は「内」に、そして「他者」は「外」に位置しています。自閉的な「内」を攪乱するのが「外」であり、そのような「他者」というノイズが自己に向くことでベクトルを「外」側に転換させる存在として。もちろん、「他者」との距離には一定以上の隔たりがあります。それこそ虚無的かつ絶対的な距離感を前提に「交通」は伝達可能性と不可能性をアンビバレントなズレとして内包しています。言葉や想いが正確に届くかは「分からない」。「分かり合えない」という虚無が個人の「淋しさ」を包むことはあるにしても、依然として「交通」の困難な飛躍は不変的であり、だからこそ「賭け」そのものを断念して「内」に留まるのでしょう。比企谷八幡がそうであるように。

しかし、ここでは「他者」として「外」に位置しているのが由比ヶ浜結衣でした。彼女とのニアミスではない接触が「外」としての具体的な距離感を明示させます。その距離感というのは3巻以降の「始め直し」たものであり、経験にない比企谷八幡からすれば「分からない」もの。未知なる「始め直し」であるからこそ、判断を保留するようにコミュニケーションは途切れながら進行します。曖昧さを担保しながら。

ここで印象的なのは風景に語らせる内面の「告白」でしょう。内面を風景に照射させることで「沈黙」でもって応答するように、風景と内面の「告白」を一致させる「文学」的試みが一つにあることは見逃せません。

 

藍色と茜色とか入り混じる黄昏時。その境目を見極めるにはまだしばらくの時間がかかりそうだ。(P40)

 

ある種の「先送り」――モラトリアム性の告白になります。

由比ヶ浜結衣との距離感が分からず、留保するほかないような判然としない様子が「黄昏時」に照射されています。距離感が未知なる不透明性であるからこそ、内面描写でもって具体的に語るよりも風景とその「沈黙」の一致が曖昧さを担保しているでしょう。語らざるとも「沈黙」で応じるような告白です。カメラ(語り)を内面という「内」に向けるのではなく、「他者」や風景といった「外」に向けることで生じるある種の自分語りという仮構性による「言葉にならない沈黙」が読み解けてきます。ここにも「分からなさ」という距離、「賭け」の前提が見え隠れしています。

 

スクールカーストの交わらなさは1巻や2巻で既に記されていました。「上位」と「下位」に分かれ、それぞれのカテゴリーで充足している。「中間層」を敢えて捨象していることは前述しましたが、サイレントマジョリティであることも関係しているでしょう。「中間層」と数の論理は6巻が顕著でしょうか。

スクールカースト階級闘争ではなく、それぞれの階級という箱庭における「不干渉」が定説とするような交わらなさが二項対立を成立させているとも言えます。たとえ争いが起きたとしても同じ階級・区分けの中であり、「上位」と「下位」の直接的なものではありません。そのような区分けが無化されるのが4巻だとも言えるでしょうか。「上位」も「下位」もない階級の混合。区分けの解消。そのような二項対立自体を無化するのが後期であり、4巻からの文脈でもありますが、具体的には比企谷八幡葉山隼人の距離感に表れていきます。区分け=記号から離れるようにして距離を置くことは「上」も「下」も、性善説性悪説も解体して生々しい「他者」の具体性を伴っていきます。

 

「これもいい機会だろう。君たちは別のコミュニティとうまくやる術を身につけたほうがいい」

(略)

「比企谷、違うよ。仲良くする必要はない。私はうまくやれと言っているんだ。敵対するわけでも無視するわけでもなく、さらっとビジネスライクに無難にやり過ごす術を身につけたまえ。それが社会に適応するということさ」(P77)

 

平塚静がいう「上手くやる」とは「社会化」を意味しています。階級や箱庭に安住するのではなく、混合したコミュニティという剥き出しな場所に身を置くことで社会化という自己変革を促している。

そもそもスクールカーストにおける区分けも同調性と社会性による賜物とも言えるでしょう。「他者」との触れ合いは「空気」に晒されることも含みます。「空気」を読むように社会化していくことは同調するように要請される側面は否定できませんし、「他者」とコミュニケーションをして「上手くやる」ことは剥き出しなフィジカルに仮面(ペルソナ)を着けることと同義でしょう。潔癖的な比企谷八幡からすれば、その「偽物性」は誤魔化しの産物となり得ます。コミュニケーションという建前(嘘)に映らざるを得ない。

また、平塚静のいう社会化が意味するのは個人が個人でいることの困難さを示しているでしょう。比企谷八幡夏目漱石を借りて「個人の精神性」を読み、個人主義的な意味で孤独という自由の謳歌していました。その自由が「他者」によって脅かされたのが4巻の千葉村のシーンとなります。この何気ない事実は既に比企谷八幡が一人ではないことを如実に示しているでしょうし、つながりによって「個人の精神性」とは異なる社会化を促されていると見るべきでしょう。

これまで見てきたように、孤独の肯定と「他者」と触れる距離感への恐れは両立していますし、反復的に語られてきました。理解と無理解の非対称性――「分かり合えなさ」はコミュニケーションに常に纏わりつき、その事実が「他者」との距離や自意識の肥大化をアンバランス的に働きかけているのですが、このような歪さが逆説的に「交通」の絶対的な隔たりを意味しては「命がけの飛躍」を要請せざるを得ないのでしょう。

 

畢竟、人とうまくやるという行為は、自分を騙し、相手を騙し、相手も騙されることを承諾し、自分も相手に騙されることを承認する、その循環連鎖でしかないのだ。

なんてことはない。結局それは彼ら彼女らが学校で学び、実践しているものと同じ。

組織や集団に属するうえで必要な技能であり、大人と学生を分けるのはスケールの違いでしかない。

なら、結局それは虚偽と猜疑と欺瞞でしかない。(P79)

 

コミュニケーションに宿る欺瞞を潔癖的に拒絶している比企谷八幡の「変わらなさ」は相変わらずだと言えます。

平塚静のいう「上手くやる」ためのコミュニケーションという社会化は、適応に託けた自分と相手を偽るような誤魔化しでしかないとする態度は一貫していますし、欺瞞的に映る「青春」という「嘘」とコミュニケーションの虚構性が重なっています。それらは「本物」ではありません。「正しく」もない。比企谷八幡の語りでは、潔癖的倫理観において許容できない線引きがはっきりと明示され、「空気」を読んで「みんな」に迎合する同調性や社会化の「嘘」をカウンター的に個人の観点から語っています。コミュニティに適応することを半ば要請されている一方で、コミュニケーションの欺瞞にある許容できない側面から冷静にならざるを得ない自己と「他者」との距離感の絶対的な開きがあり、「個人の精神性」と潔癖的倫理観から「みんな」という共同幻想を見ていくのが4巻だと言えるでしょう。

 

鶴見留美の「孤立」から集団の「空気」と「孤独」との差異を描きました。鶴見留美の「独り」は望んだものではありません。「空気」によって排除された強制的な結果です。自分の意志とは異なる主体性が疎外された産物として、孤独であることが「みんな」から浮いてしまう、といったネガティブとしてのぼっちの可視化が鶴見留美を通して描かれている。これまでの比企谷八幡によるぼっちの価値や語りは、あくまでもアイロニカルであっても主体的でポジティブなものでした。だからこそ一貫して孤独の肯定が語られてきた。その孤独は「まちがい」ではない、とするようなある種のマチズモさえ感じられる純粋さが見えるものでした。

しかし、同じ「一人ぼっち同士」でも彼と彼女は違う。孤独を潔癖的に自己肯定につなげるのが前期の比企谷八幡であるならば、鶴見留美は「みんな」に対して冷めたフリをすることで排除された結果としての惨めな自分を守ろうとしているに過ぎません。グループから外れることの異質さは、距離感の非対称性が詳らかに暴露されて自身のコンプレックスを刺激します。遠さと不可視な壁を肌身で感じては「みんな」から異質な劣等的な自分を追認せざるを得ない。アイロニーでもって処理できる比企谷八幡と鶴見留美の差異とも言えるでしょうが、孤独と孤立とでは主体的に選んだかどうかの精神性に多くの違いがあるでしょう。

鶴見留美の孤立を通して語られているのは、「みんな」や「空気」といったサイレントマジョリティによる暴力性です。「友と敵」のように対立的に異物を排除することで、内輪でつながりを確認しながら同調性を維持し、一方向的に共同性を確保していく。「友と敵」に分けるような排他的な行為によって孤立を生み出し、その異質さでもって集団を纏める「内」の力学が安全圏にいる「みんな」というグロテスクさにあります。異物さと「みんな」の対立は6巻の「敵の設定」に通じていると言えるでしょうか。4巻の鶴見留美と「みんな」にある「友と敵」の命題を比企谷八幡に同化するようにして敷衍したのが6巻のカタルシスとも言えるでしょうから。

千葉村でカレーを作るシーンがありますが、ごちゃ混ぜのメタファーのように思えます。平塚静のいう「上手くやる」ことは別のコミュニティとごちゃ混ぜになっても適応することを意味しますが、葉山隼人リア充の「上手くやる」コミュニケーションの作法は「青春」やリア充を糾弾した比企谷八幡からすれば矛盾に満ちた欺瞞として映ってしまう。「仮構的」な「昼」と「夜」の区分けが明確にありながらも、スクールカーストの区分けは無化するようにカレーのごちゃ混ぜみたいに投げ込まれた状況が4巻ですが、いくら葉山隼人が優秀で、リア充が「上手くやる」ことに長けていてもコミュニケーションは文脈的・状況的なものであり、一面的ではありません。鶴見留美の孤立に対しては「上手くやれていない」ことが描かれます。

葉山隼人という中心による無自覚な暴力性は2巻のチェーンメールの際に記しましたが、葉山隼人の存在感が鶴見留美の孤立をコントラストとして引き立ててしまう。それは周囲から異質的に浮くことを実感させるもので、彼女のコンプレックス(「内」に入れないことを逆説的に際立たせる)を肥大化させる。「上手くやる」とは非対称な距離感をコミュニケーションの「賭け」を通じてなるべく埋めて近づいていくものだと理解されますが、距離を一方的に詰めすぎるのも「上手くない」ことを示しています。その意味では非対称性のなかでインタラクティブな関係性をどのように構築していくか、がコミュニケーションの「賭け」を成功させるためのベースとも言えるでしょうが、葉山隼人の「上手くやる」ための親切心=社会化は状況・文脈によっては逆効果を生むことが鶴見留美を通して描かれています。そのような一面性ではない状況が「上手くやる」ことの困難さであり、「リア充と非リア」、「昼と夜」の二項対立を無化させていくようなごちゃ混ぜの意味が社会化を要請していくことは「先送り」ではない成熟を巡る問題設定でしょうが、この4巻では二項対立自体を吟味するところに重心が置かれていることはさきに述べておきます。

鶴見留美を排除する「空気」や「みんな」は都合のいい反転可能・交換可能な虚構的なものでしかありません。その意味では実体のない「偽物」であり、都合のいいインスタントな正義感を数の理屈でもって構築しては圧倒する暴力性を常に孕んでいます。「空気」による支配と暴力性は「内」を構成しますが、そのためには生贄が前提にある。「友と敵」のように排他性と同調性に基づいたコミュニケーションで構築された「狭い」空間・関係性であることが共同性を維持することに必要です。「内」を保持する力学は仮構的かつ恣意的な党派性というロジックの欺瞞を示し、孤独な比企谷八幡からみれば「上手くやる」コミュニケーションの「空気を読む」嘘臭さに重なるものです。そのような「都合のいい」コミュニケーションの結果として鶴見留美の孤立があり、内輪で「上手くやる」ことの行為の表れとも取れるでしょう。

この4巻で問われていることの一つに、当事者ではない外部の存在が内部の集団にコミットできるかどうかがあります。鶴見留美を集団に溶け込ませるための「上手くやる」サポートが更に状況を悪化させていくのは、葉山隼人の存在感がアイロニカルに証明しました。距離を詰めることだけが「正しい」とは限らない。「上手くやる」コミュニケーションは一方的・一面性ではなく、常に個別的な文脈に左右され、孤立であることの状況と状態を理解せずに優しく手を差し伸べても空回ってしまうことを示したと言えるでしょう。

かといって、鶴見留美の現状に同情しては「無力な自分」を慰撫するエクスキューズもコミットメントしないロジックを補強するだけの欺瞞でしかありません。可哀想であると同情してあげるだけの優しさは自分自身の気遣いと「無力さ」を正当化するための方便になりかねない。

当事者とそれを眺める外部――「他者」は距離感に表れているように非対称的で、絶対的に埋まらない「分からなさ」があります。同情と共感はその距離感を容易く埋めると錯覚/実感させるものですが、行為の具体性を欠いたものであれば癒えない状況や文脈が個別的にある。鶴見留美への距離感は無力さを誘発させやすいものであり、安易にコミットメントができない典型であると言えます。

さて、どのように働きかければいいか。

鶴見留美の孤立は環境によって規定された恣意的な産物です。環境とは「みんな」や「空気」を指しますが、明らかに「個人の精神性」とは異なる「淋しさ」が露出した形であり、ポジティブな孤独とネガティブな孤立との差異を描いていたことは前述の通りです。環境に適応することはある意味では諦めることで、「上手くやる」とは誤魔化して進める欺瞞であると潔癖的に許容できるかどうかですが、比企谷八幡はそのような「空気」を醸成する土壌を許すことは出来ません。

彼の狙いは環境の破壊でした。「みんな」の解体であり、人間関係のリスクを内包する関係性・共同性を解体することでそもそも無化させてしまう。「みんな」を等しく犠牲というスケープゴートの状況に追いやることで、温存されていた生ぬるい「空気」を反転させるようにして突き付けてしまうことで共同性の欺瞞を暴きました。

その過程で「共通の敵」の存在でもって「みんな」の団結・共同性の拡大を図ることを願っていたのは性善説的な葉山隼人でした。これもある意味では6巻の文脈につながると言えるでしょう。他方で「みんな」を解体させてグロテスクに現実を前景化させるようにして「イマ・ココ」的にフォーカスする手法を採用したのは性悪説的な比企谷八幡。二人の非対称性が鮮やかで、明確な「分かり合えなさ」としての絶対性=他者があるとも言えます。

 

〝みんな〟が言うから〝みんな〟がそうするから、そうしないと〝みんな〟の中に入れてもらえないから。

でも〝みんな〟なんて奴はいない。喋りもしなければ殴りもしない。怒りも笑いもしない。

集団の魔力が作り出した幻想だ。気づかないうちに生み出していた魔物だ。個人のちっぽけな悪意を隠すために創造された亡霊だ。仲間外れを食い殺して仲間にすら呪いを振りまく妖怪変化だ。

(略)

だから俺は憎むのだ。

〝みんな〟であることを強要する世界を。

誰かの犠牲の上で成り立つ下劣な平穏を。

優しさや正義で塗りつぶし、悪辣なものに仕立て上げ、時を経てなお棘を残す、欺瞞でしかない概念を。(P261~)

 

「みんな」という共同幻想の虚構性を告発しています。「みんな」に所属することで安住する空虚な集合意識でしかないことを、単独的であるから「みんな」とは離れた位置でもって糾弾しているカウンター的な比企谷八幡のグロテスクな指摘でしょう。

「みんな」から外れる恐怖は、つながれないことへの不安です。「淋しさ」から離れるようにして「みんな」とのつながりを求める。「個人の精神性」とは対照的とも言えるでしょう。だからこそ比企谷八幡がカウンターとして、その差異を敏感に嗅ぎ取れるわけです。「みんな」などないのに恰も「みんな」であることを強要されてしまう同調性とその共同性の気味悪さはマジョリティの一方的な理屈(メカニズム)であり、一つの暴力性として働きます。鶴見留美の状況のように。そのような集合的な加害性は何らかの犠牲の上で構築されるのが「みんな」でありますし、自分はマジョリティであるから「マトモ」として「空気」を読み、「みんな」に半ば加担していく。マジョリティの理屈を形成するのは「空気」「みんな」に帰属して安心したい精神性であり、空虚なつながりの概念だと比企谷八幡は告発しますが、その「空気」を壊す手段と結果が「先送りの病」として鶴見留美たちの不確定な末路を描いたのは印象的でしょうか。解決ではなく、解消という意味で「先送り=モラトリアム」的でありますが、事実上の撤退戦でしかありませんでした。持続的に関わることのできない外部の人間が一過性的に内部にコミットメントするしかないという限定的な「狭さ」における「その場しのぎ」が、比企谷八幡のアンチ・ヒーロー的選択によって確立していく過程でおざなりになっていたものを掬い取るのは後期のひっくり返しの構造に組み込まれています。それは「先送りの病」の比企谷八幡の主観ではなく、「先送り」にされることで派生した物語における間主観性と整理できるでしょう。「先送り」された一時的な解消でしかない問題の清算が相対化の結果、ズラされたことによる負債として追いかけるように比企谷八幡の「責任」=倫理に重なっていくように。

 

性善説的な葉山隼人性悪説的な比企谷八幡の非対称性は、まさしく漱石を借りて「鋳型」=記号的なものと言えるでしょうが、鶴見留美の行動はその二項対立を無化させるような記号的なものではありませんでした。彼女の「みんな」が「偽物」だと知りながらも手を差し伸べた尊さ自体は「本物」と呼べるかもしれない行動でありますが、その真意を確認する術は持ちません。「先送り」にした結果、「みんな」は林立しながらも鶴見留美とのディスコミュニケーションは進行していますから、外部から記号的に理解することは出来ない。そのことが記号から離れるようにして反転可能性を含めた「鋳型への留保」とも言えます。相対的に現実と言葉は常にズレるために鋳型に収めることは正確には出来ませんし、また、他者の「分からなさ」としての距離が顕在化するように、鶴見留美の「沈黙」が重く響くような結末は微温的でしょう。

それは鶴見留美のみならず、葉山隼人も同様です。「まちがえた」ことで、本来ならば交わらなかったであろう葉山隼人比企谷八幡を正しく認識し、同時に比企谷八幡葉山隼人を認識したのは、前期でみせたキャラを後期では両義的に捉え返す構成が取られているので重要な「まちがい」であったと言えますが、一面的=記号的ではないキャラを一面的に扱わない『俺ガイル』の両義性を問うものでありますし、「昼と夜の淡いと揺らぎ」の調和=「夕性」を仮構的に図るものではないでしょうか。その文脈が4巻から生じたとみていいでしょう。

葉山隼人比企谷八幡の相互認識はスクールカーストの垣根を事実上無化するようにして、「上」も「下」もないニュートラルな目線を注ぐ形を作りました。記号的ではない、一人の人間としての認識は複雑性をそのまま受容するための前段階だったと言えます。比企谷八幡葉山隼人とは4巻で互いを正しく認識し始めた。スクールカーストの最上位と最底辺の単なる邂逅に留まりません。単なる記号的なイメージといった前提から、「他者」を「知って理解」することの距離として具体的な絶対的あるいは相対的な手触りとなるのは後期にかけての文学性になるでしょうが、イメージというのは自分の都合に過ぎず、どうしても安易に認知バイアス的にイメージを押し付けてしまう。固定的に記号的な理解をしたつもりになります。現実の複雑さそのままを受け止めることは出来ませんから、簡易的に記号に落とし込むことで情報レベルを敢えて落とす。三次元の膨大なメタデータを二次元に表象することで「現実感」を錯覚するのと同じ要領でしょう。その手法や目線はいくらか共同的あるいは間主観的であったとしても、真に絶対的・相対的な「他者」への接近と理解は可能になるか。記号的かつ不確定な情報の可能性の中で、どれだけ具体的な「他者」と距離感を双方的に見つめることができるか。その距離感について「本物」という鍵用語が『俺ガイル』では重要だと理解していますが、4巻では葉山隼人のセリフを受けて「あの言葉に嘘など何一つない」と「直感」した比企谷八幡の構図では、嘘がないコミュニケーションの一致=対称性が偽りなく正しい認識を導き出し、現実と言葉が奇跡的にズレることもなく、それでも二人の距離は「他者」として絶対的に「分かり合えない」ことを雄弁に語っています。コミュニケーション=交通が「上手くいった」としても、距離は絶対的・相対的に発生しては隔絶を如実に示しているところが「分かり合えなさ」という認識を形成するといっていいでしょう。

葉山隼人との距離がそうであるように、一方で雪ノ下雪乃とのディスコミュニケーション、非対称性は「交通」の「上手くいかなさ」から距離の不透明性であり、「他者」の存在感につながっていきます。だからこそコミュニケーションは「賭け」になり得るわけですが、それ故に「まちがえてしまう」。不透明な距離感がそのまま「分からなさ」に通じていて、雪ノ下雪乃の「沈黙」は比企谷八幡の饒舌さと非対称的に映らざるを得ないでしょう。生々しい「他者」としての重さを伴って。

 

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