おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(12)

10巻では半匿名的ともいえる「手記」が三度挿入されており、太宰治の『人間失格』などについて触れられています。「手記」は重要であるがゆえに都合上、「手記」にある太宰治への距離感や「文学」については後述します。

9巻の「本物が欲しいという告白」と「私を助けてねという願い」を経て絶対的に距離感が近くなったような雪ノ下雪乃と、反対に由比ヶ浜結衣とは相対的に距離感を掴みかねているのが印象的でしょう。一緒に雪ノ下雪乃へのプレゼントを買いに行く際にも、比企谷小町を引き連れる形になっており、5巻にあったような以前よりも距離感への微妙な関係性への意識が顕在化しているともいえます。

プレゼントを贈るとは他者を思うことであり、他者との近さを演出するものです。6巻から8巻にかけての「知る」と「分かる」の隔たりの可視化から、「分かっている」とは言い切れなくとも少なからず「知っている」という――他者を真に理解する日は来るのかという問いは倫理的なものとなります。これまでみてきたように自意識を巡る問題から、他者性に接続して倫理的問題が浮上しました。「他者の不在」から他者の発見を踏まえた「生の他者」、ままならない複雑かつ膨大なメタデータをそのまま受容することはできません。それは「言葉と現実」の差異に重なる文学的な意味をも伴っています。他者とは無限の差異を意味すれば、ある種のバイアスや単純化・ラベリングを通した「物語化」という「仮構」によって他者の像を暫定的に結ばなければならない。そのこと自体は暴力的な眼差しであり、それ故に倫理的問題となり得る。そして、隔たりは「現実」的に他者として生じる。だからこそ、9巻の「本物」はロマン主義的な心性として彼岸的に対置されるとみることができるでしょう。

 

雪ノ下家の「しがらみ」が前景化してくるのも10巻からといえるでしょうか。言い換えれば雪ノ下雪乃雪ノ下陽乃の醸し出す絶対性や神秘性が「家」の問題一つに回収され、小さく纏まったともいえます。あるいは現実的な落としどころともいえるでしょうが、矮小化の気分は避けられません。

もちろん、学校や部活だけが「世界」ではありません。比企谷家の日常があれば、その他のキャラクターにも「家」があるのは当然でしょう。学校空間とは異なるプライベートな領域ともいえます。相手の家族の話や具体的な領域に触れる際に距離感はその都度揺れ、手探りを続けていくほかない微妙なニュアンスや自意識が記されていますが、「学校と家の往復」だけが恰も「世界」のすべてであるような学生時代において、当事者的に学生身分であるにもかかわらず他者の「家」に関わることはできるのか。つまり、どこまで人は他者と関わることができるのか。「家」を前景化させることは倫理と覚悟を問うものとなっていくでしょう。

物語は、進路選択を巡りながらも雪ノ下雪乃葉山隼人が一緒にいたところから波及した噂のグロテスクさが目立ちます。

 

その噂話とやらの厄介のところは必ずしも悪意が介在しているとは限らない点だ。

ただ面白いから、みんな興味があるから、耳目を集める二人のことだから。だから何でも言っていいのだと、そう解釈されて誰もが疑問に思うこともなく、話題にする。真偽を明らかにすることもなく、間違った情報を無責任に拡散させるのだ。そして、それによって誰かが不利益を被ったとしても、「噂だから」の一言で自身の責任を免罪する。普段は自分の存在を誇示しようとするくせに、都合の悪いときだけ、自分は有象無象の一般市民だと言ってはばからない。

それが、ひどく気持ち悪い。(P112)

 

葉山隼人雪ノ下雪乃の噂話が学校中で拡散している様子が描かれています。美男美女の2人の噂は目立つがゆえに「みんな」=有象無象の好奇心を掻き立てますが、そこに明確な悪意は介在していません。刹那的に熱中できる「ネタ」としての消費に過ぎなければ、他者をコンテンツ化しているゴシップの類いです。もちろん、アイロニカルな没入ともいえるでしょう。所詮、ネタはネタでしかないという無邪気な「遊び」があるにしても、当事者やその近しい者からすれば面白くはありません。現に比企谷八幡は不快感を吐露しています。

しかし、それにも構わず「物語」は無邪気に流通しますから、「悪意がない」ことのグロテスクさが際立つともいえるでしょう。人々の純粋な好奇心が他者の尊厳を食い散らすかのように。倫理を問うように。

「みんな」の暴力性は4巻や6巻でも描かれてきましたが、「空気」による支配、同調性がマジョリティの理屈となり、「友と敵」を形成する党派的な産物です。「みんな」から外れたところに比企谷八幡は「語り手」として決別していますが、「空気」の代替可能性にみえるアイロニカルな没入によるネタ化は無邪気であるからこそ責任を負うこともありません。「みんな」に代表者はいませんし、匿名的に責任自体が分散しています。「空気」や「みんな」という空洞的で実体がないからこそ、逆説的にいえばグロテスクな輪郭が可視化されるともいえるでしょう。無責任な「噂」が飛び交う悍ましさについて「空気」に入っていない比企谷八幡視点で語ることは、「みんな」なるものがどのように空洞的な集合体として形成されるのか、あるいは「熱狂」を外側から眺めることで逆説的に「空気」が醸し出す純粋な好奇心の気持ち悪さを炙り出すことができるでしょうし、所詮は「ネタ」に過ぎないというアイロニカルな選択によって無責任さは担保されている構造も目に留まるでしょう。

 

他者というプリズムと無限の差異から本当に他者を知り、理解することは可能なのか、という問い。この問いは後期において倫理的な位相となり、再三浮上してきました。また、葉山隼人たちの問題は遠近法的に奉仕部の二重写し的になることも。

葉山隼人の「分からなさ」や「沈黙」に対して、それでも「知りたい」と三浦優美子は言います。近くにいたい。距離感の問題として。

 

ただ、踏み込まれることを望まない相手に踏み込んでいくことが正しいのか否か、俺にはまだ自信がない。わざわざ触れなくとも、関係性の構築と保全はできるように思ってしまう。(…)

「それでも、知りたいか?」

嫌がられても疎まれても厚かましく思われても、たとえ傷つけることになったとしても、その一線を踏み越えていいのかと、そう問うたつもりだ。

三浦は答えるのに迷わなかった。(…)

「知りたい。……それでも知りたい。……それしかないから」(P178-179)

 

他者を知ることの暴力性。決して比企谷八幡ディスコミュニケーション的身振りの問題だけではありません。だからこそ倫理的問題となり得る。9巻で平塚静から問われたように人を傷つける覚悟、傷つけられることも含めた不可避的な可能性があります。その意味では比企谷八幡は他者を発見したゆえに倫理的に問われているからこそ、他者とのコミュニケーションに怯えているように映ります。果たして踏み込んでもいいか「分からない」ように。「まちがって」しまうから。当事者が「沈黙」して語らないならば、踏み込まない方が他者を尊重していることにはならないか。あるいは、たとえ語ったとしてもそれが正しいかどうかも「分からな」ければ、正しく受け取ることもできるか「分からない」。

しかし、三浦優美子の態度からは他者=葉山隼人が「分からなく」とも距離感を近くして「それでも知りたい」と願うことが、倫理的な他者とのコミュニケーションへの誠実さであるように映っています。「知る」と「分かる」の隔たりや「知ることの不可能性」を知りながらも、それでも「知りたい」とすることが、倫理的に他者と向き合うこととなるように。比企谷八幡が発した覚悟についての問いは、三浦優美子の姿勢を通して奉仕部にも同様に向けられているでしょう。

 

10巻は目立つ者の苦悩として「リア充」側を描くことに重点を置いています。

もちろん、「リア充と非リア」の対立構造自体が遠近法的に「仮構的」なものであることはこれまで見てきた通りです。「リア充」も苦悩しているといったような、葉山隼人たちの問題をあえて言うならば「リア充文学」的な要素と言い換えることはできるでしょう。今までの「文学」が描いてこなかった余白。「文学の健全化」、あるいは相対化ともつながっています。

また、比企谷八幡という語り手を据えることで孤独な人間の内面、「夜の文学」と上記を仮構的に並行的に描いてきたように、従来の「文学」との接近と交点といえるでしょうか。「昼」と「夜」の遠近感。そのことを意識づけるのが10巻であり、そのための「手記」だといえますが、後述することになります。

 

葉山隼人の孤独、中心であることの被害性が「噂」によって炙り出されたのが10巻だといえるでしょう。これまで中心に位置する者の無意識的な加害性は2巻のチェーンメールのときにもありましたが、中心に位置づけられること、期待されることで葉山隼人を孤独にさせているという見方ができます。果たして「理解」している者はいるのか、と。進路選択を巡りながらも、本当の問いは「葉山隼人とは何者か」にちがいないでしょう。

比企谷八幡と4巻、6巻、7巻、8巻、9巻のときにやり取りを重ねてきたからこそ、多重性・複雑性が可視化されてきたといえます。それでも掴みづらいのが他者であり、それぞれが葉山隼人への複数的な印象があって、像がプリズム的に形成されては倫理的に主観の狭さや遠近感を指摘します。他者に近づくとはそういう意味を含んでいます。見ているものとのズレ。「言葉と現実」のねじれ。不可能性ともいえる空虚さ。現実の描写しきれない複雑さは、他者のままならなさや言葉の不自由さとして小説的にいえば「豊かな矛盾」と重なっていきます。

たとえば、自然主義的リアリズムは見ているものを自然的に描写することでリアリズムを獲得してみせようとする言語運動でしたが、キャラクター文芸は、キャラクターとしての他者の単純化、物語化を一度構造的にくぐらせたのちに自然的に描写しきれない剥き出しな他者を、キャラクター同士の応答性から遅延化した言葉でもって構築していきます。そうした遅れやねじれは単一的にスケッチできない複雑な輪郭を作り、言葉によるリアリズム(描写)の限界に自然と接近していきます。コミュニケーションの不可能性と言語的表現の小説の矛盾がふくらみながら相乗しているのが『俺ガイル』とするならば、だからこそ「豊かな矛盾」であることにちがいなく――小説とは倒錯的な言語表現を踏まえること――それでもなお言語的には共同主観的なプリズム(描写)でしか遠近法的な他者を描けないのは、現実に対してある意味では貧しくなってしまう言葉を通して描くほかないジレンマを乗り越えるような小説における「現実と他者」という無限の差異への抵抗運動そのものでしょう。小説とは倒錯的であるからこそ抵抗的に映ります。そうした矛盾を孕みながら、『俺ガイル』は物語的には他者とのコミュニケーションに孤独と隔絶を見出すことが倫理的位相であると文芸的な活写を選択したともいえます。

雪ノ下陽乃は、葉山隼人は「期待していた」と言います。見つけてくれることを願って。つまり、「分かって」くれることを期待していたと言い換えることができるでしょう。厳密に言わなくとも「分かる」距離感。他者との関係性。

また、海老名姫菜は葉山隼人ならば「回避してくれる」と願っている。

 

「隼人くんはきっとうまく避けるし、優美子もそれはわかってると思う。このクラス替えが理由で決定的に瓦解するってこともないんじゃないかなぁ」

(…)

「なるほど。えらく信用してるんだな」

「そういうことでもないけど……。隼人くんは誰も傷つけない方法を選んでくれるんじゃないかなって思ってるだけ。信用っていうより、勝手な願望だよ」

(…)

おそらく、以前までの俺であれば、海老名さんの言葉に疑問なんて抱かなかったに違いない。葉山隼人とはそういう人間であると、どこかで決めつけていたと思う。

ただ、今は違う。明確な、形のあるものではないけれど、それでも何かもやもやとした違和感が奥底で蟠っていた。

だから、聞いてみたくなる。

「なぁ。なんでそう思うんだ?」

「……みんなの期待に応えてくれるのが、隼人くんだから」(P232)

 

海老名姫菜による葉山隼人という人間評になるでしょうか。

期待に応えるように「回避」してくれる願望は、中心でありつづけることで生じてしまう衝突やジレンマと向き合うことで生まれます。それでも「葉山隼人」ならば、と期待してしまう。「みんな」の葉山隼人であることは、同時に7巻で露呈したように主体的に「選べない葉山隼人」のイメージを維持することになります。だからこそ、比企谷八幡は単純な物語化した「葉山隼人」を鵜呑みにできません。本当は「見つけて貰いたい」「分かって欲しい」としても、葉山隼人の孤独な渇望は空しく響きます。

葉山隼人は期待に応える」という理想、その期待に応え続けないといけません。「葉山隼人」であるから。「みんな」の葉山隼人であることが、彼のアイデンティティであり、経験から導かれた最適解なのだから。

しかし、それでも「みんな」に見つけて貰えるものなのだろうかという問題が生じるでしょう。所詮「みんな」は代替可能であり、匿名的で責任を負うものでもないのは前述の通りです。

さきに触れたように、葉山隼人の選択肢が多いことが結果的に「選べない」ことにつながっているとするならば、選択肢を削ることで選ばざるを得ない状況を作ろうとする比企谷八幡という対比ができるでしょうか。これは平塚静比企谷八幡の会話にある「選択肢を増やしてあげることと削ってあげる」ことから引き継がれていますが、両者ともに差異がありながらも「選べなさ」が共通的にあるのはアイロニーとして映り、そのこと自体が「夜」と「昼」、「リア充と非リア」の仮構性を指摘しているともいえるでしょう。

 

――君が思っているほど、いい奴じゃない。

その言葉を信じるなら、葉山隼人は、彼自身だけは間違いなく、自分のあり方に疑問を抱いている。自分ひとりだけは、そんな奴のことをいい奴だと思えずにいる。

誰も彼もが褒めそやすのは気色悪い。だが、それに応えてしまう人間がいるということがなお気味が悪い。悪辣なる虚偽で傲慢なる自己満足であると知りながら、それでも人の期待に応え続けるなんて、本当に気持ち悪い。

誰かが言った。自分を犠牲にするのはもうやめろと。馬鹿言え、他人の期待に応えるために、他人を傷つけないためになんて、それこそが自己犠牲じゃないか。(P283)

 

「自己犠牲」というワードから、葉山隼人比企谷八幡の差異と遠近感といってもいいでしょう。あるいは剥き出しな自己評価と他者評価のズレ。他者との非対称性。期待されて求められるようにして、他人を傷つけずに応答することは「自己犠牲」的であるとみる比企谷八幡。「自己犠牲」への主観としてのアイロニーがみえるようで、選ばない/選べない葉山隼人という他者と、結論は似ていても過程は異なるところに不思議とぐるりと一周して重なり合ってしまう遠近感があります。

そんな状況の葉山隼人を認識できたのが比企谷八幡であり、非対称性や差異を伴っていても対等な立ち位置が構造的には透けてみえます。

ラソン大会の2人だけの会話は生身の身体性が剥き出しとなり、非対称性が露呈しているといえるでしょう。葉山隼人が結果的に「自己犠牲」に映ってしまうのは彼の主体性が問われているから。「選べなさ」という意味での主体性の揺らぎが、葉山隼人という他者に対する安易な理解を阻みます。葉山隼人が利他的で、期待に応える姿は「上手くやる」ためのものですが、もちろん「上手くやれていない」こともある。明確に語られない雪ノ下雪乃との過去のように。また4巻、6巻、7巻といったように。物語としては比企谷八幡の「相対化」のようによくも悪くも「選ばざるを得なかった」ケースに流れていきましたが、その裏返しとして葉山隼人は「上手くやれていない」=選べなかった結果(コンプレックス)ともいえます。そのような物語の負債ともいえる非対称性が問われています。

 

 

「君に劣っていると感じる、そのことがたまらなく嫌だ。だから、同格であってほしい。だから君を持ち上げたい、それだけなのかもしれない。君に負けることを肯定するために」

「……そうか」

それはきっと俺も同じだった。葉山を特別な存在に持ち上げて、自分を納得させるための、嘘を押し付けてきたのだ。葉山隼人は疑うまでもなく絶対的にいい奴なのだと。(P308)

 

「昼」と「夜」の交点から、葉山隼人という他者の遠近感をスケッチしてみせた「告白」といってもいいかもしれません。比企谷八幡との非対称性や差異を抱きながら、「絶対的に分かり合えない」立ち位置(他者性)を獲得して、それゆえにねじれた葛藤があります。仮構的にいえば「リア充」にも悩みがある。コンプレックスがある。単一化できない複雑な他者性がある。それらを単純化した「物語」のように眺めるのは視線を送る側のエゴであり、ある種の暴力でもあります。それでも葉山隼人でいえば「期待」とも言い換えられるでしょう。

しかし、必ず切断された他者性があります。そのようには収まりきらない絶対的な複雑さがある。「文学」では「言葉と現実」のズレを読むところに倫理が浮かび上がりますが――つまり「文学」とは過剰に倫理を読み込むための倒錯的な「器」ともいえるでしょうか――、『俺ガイル』ではキャラクター文芸的に他者とのコミュニケーションを介したズレを読むことで他者との「分かり合えなさ」が横たわりながら、「言葉と現実」の不自由さや遅延を倫理的に読むところに「文学的」に重なっていきます。

これまで見てきたように、人は都合のいい「物語」を構築しては読み込んでしまう主観性の問題は他者を巡る倫理的な問いとつながっていきます。その暴力性をどのように引き受けるのか、物語的には問われていきます。

ラソン大会後の三浦優美子の葉山隼人への想いや態度は素直の一言に尽きるものでしょう。

 

 

「そういう、なに……めんどいのも含めて、さ」

そして、くるっとターンするように振り返る。コートの裾と艶やかな金髪がふわりと舞った。

「やっぱいいって思うじゃん」(…)

そんなシンプルな言い方があったのだ。短絡的で、簡潔で、単純で、だからこそ、純粋な憧れ。(…)

「そっか……。それで、いいんだ。もっと簡単でよかったんだ……」

呟く声に振り返ると、由比ヶ浜はぎゅっと、自分のコートの胸元を握りしめていた。その隣に並ぶ雪ノ下は呆然と、驚いた表情で三浦を見ている。

けれど、驚くようなことではないのかもしれない。修学旅行の時だって、三浦は葉山の意図も海老名さんの意志もちゃんと把握していたのだ。だったら、ふわふわした感情だって、本物に至る可能性は充分にある。(P328)

 

「本物」という非対称性を乗り越える伝達可能性、交通の飛躍的応答性は、シンプルに、そして理論的ではない「曖昧な感情」でも値する可能性を含んでいることが直観的に指摘されています。9巻で露わになった比企谷八幡の「本物」発言=告白は「他者との対称性」を意味しており、三浦優美子のような直観的な一言が可能性として示唆されていますが、「言葉と現実」の差異と重なる他者とのコミュニケーションの非対称性の葛藤が『俺ガイル』であり、言葉への懐疑や不自由さが根底にあるでしょう。

だから、その一言が言えない迂遠なコミュニケーションの多重的なズレが『俺ガイル』とも言い換えることができるでしょうし、「言葉がままならない」からこそ倫理的に、あるいは存在論的にその一言を言えないもどかしさは「命がけの飛躍」の前段階としての非対称的な立ち位置を構成しては言葉の絶対的なズレや「言葉への信用できなさ」を露呈します。しかし、昇華していえば「文学」は「言葉の空虚さ」を見つめることから始まります。「空虚」に陥ってしまう言葉でもって語るという矛盾を抱きながら、その「迂遠さ」や遅延を他者とのコミュニケーションの非対称性に引きずり込むことで、『俺ガイル』はキャラクター文芸として文学的な意味での「言葉の空虚さやジレンマ」に立ち返ったともいえるでしょう。素朴な小説観が滲み出ているといえますし、他者論的な手つきともいえます。

 

 

さて、後回しにしていた「手記」について記したいと思います。この「手記」が『俺ガイル』の特異性を意味しているでしょう。

「手記」の直後のページには必ず比企谷八幡が読書を止める描写がなされていることから、連動的に「手記」の独白も変わらず彼によるものと錯覚しやすいものですが、それぞれの「手記」は決して比企谷八幡に固定した独白ではないように読めます。あえて匿名的に行うことでの複数人の多層的・集合的な「声」の反映とでもいえるでしょうか。もちろん、それが意味するのは葉山隼人雪ノ下陽乃のようにも考えられますが、ここではキャラクターの「声」を精緻に読むのではなく、これまでの論考と結びつけながら「手記」が示しているところをみていきます。

「第一の手記」では太宰治の『人間失格』が取り上げられています。そもそも太宰治はメタフィクショナルな作家の一人であり、言葉と物語を通した「虚構と現実」の作用と侵入による存在論的な構築を意識していたと考えられるでしょう。

人間失格』は「私小説」のようにも読めます。「私小説」とは、作家の「私」とキャラクターとしての「私」を結びつけて読むのが一般的ですが、さらに語る「私」が媒介することでそれぞれの「私」の強度が連関するようにして緊張関係を結ぶのがいわば「私小説」であり、「虚構と現実」の作用による「私」の存在論的な揺らぎとも重なっていきます。そこに『人間失格』は二人称的な意味での読者という「私」をさらに巻き込み、複数的な「私」が自己同一化するようにして、まるで「自分のために書かれた小説」があるかのような錯覚とリアリティを与える二人称性と結びつけた代表的な作品ともいえます。

かつて吉本隆明は「自分のために書かれた本だと思わせること」が「いい小説」の条件として挙げていましたが、太宰治はそのように二人称性的に「自己同一化」を促進するような手触りを残しながら、近代文学以降の「夜の文学」ともいえる「暗い明滅」を描いてきました。

しかし、「第二の手記」では明確に「私」による拒絶や葛藤が記されています。ある種の「文学」への自己同一化を阻むような「乗れなさ」であり、太宰治との存在論的な差異とでもいえるでしょうか。近いはずなのに決定的に異なってしまう「私」という孤独。「私」にとっては、小説にある語りかけに対して「類似」や「差異」が絶望的に映ってしまう。二人称性と「私小説」的なメタフィクショナルで自己同一化を図りやすいであろう太宰治でさえ、「寄り添ってくれなかった」事実が骨身に沁みてしまうように。応答してくれなかったことへの「私」という語り残しの卑小さ、自他の輪郭が際立ってしまうことへの抵抗感と諦念が混じり合いながら没入できない距離感に対するアイロニー「夜」太宰治からも見捨てられたような錯覚=絶望を抱かせます。

 

 

きっと自分は『人間失格』で描かれた存在よりも、もっと矮小で卑怯で低俗なのだ。太宰が一顧だにしなかった、もっと軽々しい問題に煩わされている。

だったら、自分は人間失格以下の存在ではないか。邪知暴虐の王よりもよほど孤独で疑心に満ちているではないか。

さらに。ごく個人的な問題の答えを得るためにだなんて、そんな極めて私的で利己的なことのために権威ある文学を利用している自分に嫌悪する。なんと浅ましく、愚かしく、醜いのだろうか。この本を手にした理由は、禊のためでも教養のためでもない。

ただ、自分はシンジツによって糾弾されたかった。おためごかしのお道化を見抜いて欲しかったのだ。(P279)

 

ここで「私」によって語られているのは二人称性的な「太宰治」を利用した「自分探し」のようなものであり、実存的な不安による「文学」への傾倒ともいえるでしょう。虚実ともにある「私」と「文学」の共犯関係ですが、しかし「私」の孤独は「シンジツ」によって糾弾されることもなく、見つけて貰いたかった「私」の矮小さだけが残ってしまうように、近しいはずなのに「絶対的に分かり合えない」ことによる差異が現実的な痛みとして刻まれていく。その痛みは錯覚にはなり得ない。「文学的シンジツ」によって糾弾されることで「私」と「文学」の共犯関係を取り結ぶことは、「私」にとっての私的問題と差異という落差を埋めてくれるものと期待していたわけですが、「文学」というある種の他者から、太宰治=他者からみても「私」の抱く存在論的な不安は「文学」から零れ落ちていたことによる、ひどく矮小的ともとれる明示された「絶対的な分かり合えなさ」とでもいえるでしょうか。

「私」と「文学」との距離感だけがアイロニカルに明示化されることのリアリティは生々しいもので、肥大化した「私」の自意識とは異なるようにして、ひどく矮小化させられた「私」の問題は「文学的シンジツ」に足るものではない、とするような事実が再帰的に痛感させるものとなっています。

「夜の文学」から零れ落ちている「私」の卑小さ。近視眼的なイマ・ココの空虚なざわめきが「手記」で語られています。

 

三島さんは太宰治という作家が嫌いだと言ってますが、それは太宰が夜の人である文学者の象徴のように思われたからです。文学は、夜の暗闇でもって、人が寝静まった頃、何か頭を妄想で一杯にしてつくりあげるので、文学は夜の思考からできていると三島さんは考えていました。晩年の三島さんは、自分の文学者としての資質は、夜の思考型とはぜんぜん違う白昼の太陽を志向するものだと言っています。 

吉本隆明『未収録講演集(9) 物語とメタファー』

 

「夜」や「昼」のメタファーは既に記したように吉本隆明によるものですが、ここでは孤独な内面としての「夜」でもなければ、葉山隼人のように「夜」を相対化させる「健康的」な「昼」でもない。仮構的な「夜」と「昼」の交点とでもいえるでしょうか。その陰りに意味を見出すかのように語り残されてしまった、その境界線上で狭く揺れる近視眼的なイマ・ココによる相対的な局所的な産物としての「夕」があるのではないか。それこそサブカルチャー的に。相対的に零れ落ちたものを拾い上げるように。

結果的に、「私」は太宰治から距離を取って相対化することでしか存在論的な差異を指摘することはできないように、「夜」に対して相対化するように対置してみせたのが「昼」であっても、たとえば「昼」を葉山隼人のように代表させてみても、しかしそれでも救いきれないものがあるような交点としての細分化・相対化したのが局所的な意味での仮構的な「夕」=サブカルチャーがあり、それは「文学」が描いてこなかったことへのイマ・ココ的な抵抗ではないでしょうか。

この論考の念頭にあるのはタイトルにあるように、江藤淳の「サブカルチャーと文学の緊張関係」を論じた大塚英志が『サブカルチャー文学論』で結果的に遠ざけた「ライトノベルというサブカルチャー」が第一にあり、そして江藤淳が緊張的に忌避しては「トータル・カルチャー」と対置させてみせた「局所的な意味でのサブカルチャー」があります。それらは仮構的な産物であり、「制度」的なものといえるでしょう。まさしく「文学」がそうであるように。

しかし、2つのサブカルチャー的な観点から、あえてそのまま引き受ける「サブカルチャーの二重性」とも取れるような仮構的な可能性をみることで、「サブカルチャーと文学」の相対的な距離感を炙り出すことができるのではないでしょうか。いうまでもなく仮構は仮構でしかありませんが、その中で攪乱される価値があるでしょう。その倒錯的な仮構性に「小説」があり、『俺ガイル』も重なっているとみています。

「第三の手記」では、物語上「本物」への懐疑が語られています。人の心や言葉の信用できなさ、不自由さは物語的にはキャラクターの関係性やコミュニケーションの非対称性から重点的に記されてきました。虚構的であり、空虚さを抱えているからこそ、それを信じることはできないといったように。

「真実」や「本物」なんてあるのでしょうか。

しかし、得てして物語は「真実」を語ろうとします。その夢=錯覚を見せようとしますが、そのことへの疑いが「手記」では綴られています。それ自体も空虚であり、言葉でしかないとする、「私」のアイロニーがみえます。「物語上の結末」を疑いながら、「本当の結末」を希求する「私」の態度は物語が与える夢=錯覚のおぞましさを指摘しています。

「本物」という対称性は他者との倫理的な関係から望まれるロマン主義的なものですが、ここでは言葉をとおすことで「現実と虚構」の間を反復するようにして、その夢=錯覚への疑いを挿み込むことで過剰にも現実的な倫理観を引き寄せているともいえるでしょう。言葉の空虚さを見つめるところから小説が始まるように、過剰に倫理を読み解こうするところから「文学」の地点に立つことができるように物語は展開されます。

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