おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(15)

13巻の冒頭、プロム企画に問題が発生します。プロム自体が問題視されているように、「大人」の意見として「正しさ」が横行しています。あるいは多数派によって決定される同調性、「空気」の可視化とでもいうべきでしょう。「空気を読む」ことの裏返しには集団の閉鎖性と排他性をみることができます。そこから自己疎外している比企谷八幡の存在感・語り手の位置は、特権的な意味でオルタナティブとして機能しているといえるでしょうか。

比企谷八幡は自身の「悪癖」を自覚しながらも、「約束」のために雪ノ下雪乃を手伝うといいます。

しかし、その行為は雪ノ下雪乃の主体性の問題に深く絡みつき、彼女が「自立」しようとしている行動や選択を妨げる可能性を意味している。「依存」という関係性に「正しく」回収されてしまうのではないか、という不安が窺えます。

 

「うん……。まぁ、私としても依存という表現が正しいとは思わないが、こういうのは本人の捉え方だからな。バイアスに偏りがあると、いくら言葉を尽くしても届かないことは多い」

(…)

どれだけ自分を宥めすかして、曖昧模糊とした綿飴みたいな日々を送っても、どこかで見過ごせず、千言万遍費やしても誤魔化しきれずに突き詰めてしまう化け物じみた自意識過剰なまでの潔癖さ。結局今に至っても、その自意識の化け物は心に棲み続けて、いつも一歩後ろの暗がりからじっと自分を俯瞰しているような気がする。

だからこそ、わかるのだ。自分が抱いた自身への認識は簡単には払拭できない。それは雪ノ下も同様なのだろう。依存している、という言葉が真実であるか否かはさておき、少なくとも雪ノ下の中での認識はそうなっている。それをどんなに否定しても、納得することはおそらくない。(P33)

 

共依存」という言語化、ラベリングへの認識について平塚静が意見を述べるシーンとなります。

平塚静は一貫して「共依存」に疑問符をつけている立場です。「名前のない関係性」に名前をつけられたことによって、正否問わずバイアスが自ずとかかる閉鎖的な関係性の状況に対して、「外部」から意見を差し出す役割が充てられているといえるでしょうか。「大人」としての意見ともいえます。

名指されることで固定化する。「言葉」が主観をねじれさせるように、ここでは雪ノ下雪乃が少なくとも「依存」について「もっともらしさ」を抱いており、言葉が観念的に上滑りせずにリアリティを獲得していることが重要でしょう。イメージではなく、リアリティの問題として。

もちろん「錯覚的に」といえばそうなるでしょうが、言葉の持つリアリティの立ち上がり方によって関係性や状況が規定されてしまう。「鋳型」に嵌められるようにして、他者からみた「正しさ」が「私」という像に結びつくことでねじれていきます。

 

「やりたいことやなりたい自分がたくさんあった。やりたくないことも、なりたくない自分も、たくさんね。その度にちゃんと選んで、挑んで、失敗して、諦めて、また選び直して、その繰り返し。……未だにそうだよ」

(…)

雪ノ下雪乃の決意に、決断に、人生に、安易に手を貸すことが正しいのか。俺はあの時、雪ノ下陽乃にそう問われたのだ。

選択も挑戦も失敗も諦観も、本来すべては彼女一人に帰属すべきもの。そこに他人が介入することが許されるのか、その答えは出ていない。どんな肩書きでどの程度の関わり合いであれば、そこに触れることが許されるのだろう。(P35)

 

 

「……少なくとも、関わらないって選択肢はないと思います」

(…)

雪ノ下の意思がどうであろうと、俺の行動には関りがない。理由など、あのたった一言あれば充分だ。

これまでだってそうしてきた。俺が知ってるやり方なんて数えるほどしかなく、取れる手立てはいつも一つ。それ以外はうまくできた試しがない。まちがえないようにすればするほど、縒れて拗れて捻くれて結局すべてまちがえる。

だから、せめてこれだけは、俺ができるやり方で。(P36)

 

他者と関わる理由。

どこまで踏み込んでいいのかが問われているように、あるいはデタッチメントとコミットメントの狭間に立っているかのように、比企谷八幡という他者が雪ノ下雪乃の「家」や「将来」についてどこまで介入できる余地があるのか、倫理的な意味を内包しています。これまで踏み込んでいった経験がない未知の問いに対して、比企谷八幡は正確には言葉を持ちません。それでも言葉にするほかない。非対称性に自覚的に、そして言及的であるしかないように責任が生じていきます。他者とコミュニケーションしていくことで生じるズレを感じながら、他者という無限の差異を現前化するたびに倫理的問題=責任が立ち上がります。その倫理的な意味での責任はそのまま他者への応答可能性となり、他者との「交通」の回路が開かれざるを得ないものとなります。

ある意味、文学的には言葉にしていくことであり、他者を具体的に想像することと自然と近くなっていくことでしょう。「文学性」を意味するように、それは小説が言葉にならないものを言葉にしていく作業、記述をとおした倒錯性があるからこそ、むしろ言葉が内包するズレや「沈黙」を読み込む態度が倫理的に表れることと重なっていく。

比企谷八幡が独白する「まちがって」きたことは、多義的なコミュニケーションの非対称性(私と他者/言葉と現実)でした。ですから、対称性としての「本物」を対置してみせることで欺瞞を許容できない潔癖的価値観は彼なりの倫理と接続しており、その語りはどこかでアイロニーと転倒を含みながらも、根本的には他者との無限のズレを上滑りしてしまう言葉の空虚さと、それを用いるほかない錯覚にある「言葉へのねじれた疑い」という文学的な意味での倒錯性を想起させます。

 

俺の抱く感情も感傷も、そもそも言葉になどしようがなく、だからこそ、どんな形容もしうる厄介極まりないもので、きっとどう伝えたところで分かち合える類いのものではない。そんな不透明で不定形、不鮮明なものを杓子定規に既存の言葉に当てはめてしまえば、その端から劣化していずれ大きなまちがいを生む。なにより、たった一言で済まされてしまうのが気に入らない。(P63)

 

言葉への不信感、あるいは「言葉の貧しさと豊かな矛盾」を自覚していることの「疑い」といえます。小説的といえるでしょうか。言葉にできない「沈黙」を表現していくのが小説であるならば。

ここでは一色いろはに理由を問われ、「責任がある」と言う比企谷八幡平塚静には「約束」があるとし、今度は「責任」という言葉が出てきました。比企谷八幡なりの倫理的な応答になっていることは見逃せませんが、非対称的で受動的コミットメントの気配を読むことは難しくないでしょう。「依存」から「自立」しようとしている雪ノ下雪乃の主体性が問われているなかで、比企谷八幡の主体性をも問われています。

なぜ、そこまでして関わるのか。

たとえ誠実に言葉をひねり出してみても、どこか迂遠な響きを持ってしまう言葉。言葉の絶対的な「遅れ」が内面や「現実」に非対称性を突き付けるようにして、「私」を含めた他者との距離感を明示します。

 

共依存という言葉は俺だけでなく、彼女もまた理解しているのだと思う。

そのうえで、彼女はそれを良しとせず、まちがった関係性を正し、自身の足で立とうとしている。

片や俺は是非を問うことさえできずに、ただ模糊とした聞こえのいいお題目をのたまって、膠着した歪な関係性に拘泥していた。

(…)

「確かに、ここで俺が何もしなきゃそれでいいのかもしれない。けど、それは根本的な解決になってない。今までのやり方に問題があったなら、違うやり方とか違う考え方、違う関わり方を探して……」

もっとうまい言い方はないのかと言葉を探すが、こういう時に限って理性や自意識が牙を剥く。曖昧な言葉は口にする傍から形を得て、その度に、真からは外れていく。

(…)

こんな言葉で伝わるかはわからない。

「それで、……どういう結果になったとしても、その責任もちゃんととりたい」

こんな言葉、伝わらなくとも構わない。

「だから……。俺は、お前を……助けたいと思ってる」

ただ、俺が言いたいだけ、吐き出したいだけの自己満足だ。一方的な願望を押し付けているに過ぎない。

(…)

「一番の原因は私だわ。いつもあなたと由比ヶ浜さんに任せきりで……、だからこんな中途半端な状態になってしまった。それをちゃんと清算しないと、誰も前に進めない。責任を取るべきなのは、私」

「……そうじゃない。その責任は俺にもある」(P81-82)

 

責任の取り合いをする比企谷八幡雪ノ下雪乃。2人とも雪ノ下陽乃が言った「共依存」という言葉のリアリティに囚われている。主観的に正当化をしているのは、まるで「言葉と現実」がズレていないかのような錯覚と緊張があるからでしょう。相互に主体的な主張をしては奇妙なすれ違い、不一致を起こし、非対称的な他者としての輪郭をなぞるように言葉が交わされていく。

誠実でありながらも、ある意味では空虚に響いてしまう言葉。伝達できるかも分からなければ、他者も分からない。言葉の貧しさを自覚しては、言葉で語るほかないアポリア。その倒錯性、矛盾がコミュニケーションあるいは言葉に「声」として内包されているからこそ、その都度倫理的に「言葉という他者」も含めて他者と向き合うことになる。

ここでは、言葉が上滑りしてしまうディスコミュニケーションによる一致として、他者との遠近感は彼ららしい身振りともいえるでしょうか。

直後に一色いろはのinterludeがあり、彼女の独白が描かれています。比企谷八幡雪ノ下雪乃の1巻の反復と変化を知らない一色いろはの疎外感と客観的な態度から、語り手の比企谷八幡が与り知らぬところで「終わりを意識している」雪ノ下雪乃が語られます。

雪ノ下雪乃は目薬を拭ったはずの目でしたが、一色いろはからは泣いているように見えたという描写。本当に泣いていたかは分かりません。表現の余白としての「沈黙」であり、語られない言葉が情景を作っている。ある意味、一人称視点のねじれをみることはできるでしょうか。キャラクターの立て方としてinterludeを挿入して多角的に描いても、空白は必ず生まれます。描けない決定不能性が生じる。言葉にならない言葉――「沈黙」。言葉と感情のうごめきが静的な運動性を持ち、内面として吐露されていくような裏返しとしての「告白」の立ち位置とみるべきでしょう。

しかしinterludeにしても、あるいは由比ヶ浜結衣の独白にしても、語り手の比企谷八幡でも「決定的な一言」は言いません。抽象的にしか語らない。具体的に言わないのは言葉では決定的に足りないからでもあるし、本人のなかで了解が取れていて、あえて多くは語らないともいえます。この空白はキャラクター倫理的にも物語構造的にも「沈黙」に組み込まれるようにして、言葉にしないことで確定させない連続性を確保している。意味の宙吊り。鋳型に嵌めないように、「沈黙」でもって応答しているともいえます。ですから、読者は推察するほかありません。キャラクター同士のコミュニケーションに具体的な言葉や意味を見出すかのように、多声的な独白、語りをキャラクターたちがある程度了解していても、読者はメタレベルにいるからこそ疎外感を抱かざるを得ない構図でしょう。メタレベルが担保されているゆえに当事者的言語感覚を持ち合わせられない。メタレベルにいても決定できない「分からなさ」、抽象性、言葉にしない意味の宙吊りに対する不安は読者の疎外感に拍車をかけます。

その意味では、言葉の空虚さというアポリアに代表されるようにしてキャラクターと読者との非対称性、他者性が問われているように考えられるでしょうか。「沈黙」的なディスコミュニケーションが迂遠なコミュニケーションに転倒しているように。

物語をみていくと、比企谷八幡雪ノ下雪乃と対立構造を作ります。ダミープロムという「相対化」を演出しては、二者択一的な状況に持ち込むために。対立構造に持ちこむ二択問題は、一色いろはとの「お汁粉とマックスコーヒー」と比企谷小町との「鍋の白菜と豚肉」がモチーフとなっています。どちらでもいいけど、どちらかを選ばざるを得ない状況を意図的に作り出すことで、どちらか一つを潰したら消去法的に心理的にどちらも選ばないことに抵抗が生まれ、消極的に選んでしまう傾向が伏線となっています。

しかし、ダミープロムの発案にしても比企谷八幡は「まちがえている」感触があります。

 

きっと俺は既にまちがえている。

だから、せめてこれ以上、まちがえることのないように。

今までのような安易な手段ではなく、もっと違うやり方を、見つけなければならない。(P149)

 

「まちがっている」はこれまで多義的なコミュニケーションのズレに起因するものとしてきましたが、ですから確定できないことによる揺らぎともいえるでしょうか。「自信のなさ」を告白している。その態度から出発することで、他者への責任を持つかのような誠実さこそが応答可能性といえるでしょう。

独我論的な理論武装としての自意識と「相対化」がみられてきたのが前期(他者の不在)とすると、後期は「他者の発見」とつながりによって前期のような自意識であることの空転が描かれました。その経験から他者に応答することを問われることは、語ってこなかった動機の言語化へとつながります。内面を素朴に語ること。言葉や他者を信頼すること。そこには絶対的な差異が横たわりながらも、貧しくとも言葉を尽くすこと、誠実に語ることでズレを埋めていく態度こそが倫理的といえるでしょう。もはやここでの倫理は独我論的ではありません。眼前としての他者に志向している。

曖昧な言葉で「先送り」にしてきた比企谷八幡が他者との対話可能性、目的に対して誠実に言語化しようと試みる契機となっていますが、これまでの「まちがい」の反復から抜け出すように言葉を「先送り」しない姿が象徴的でしょうか。

 

このまま終わりまで見るか。

あるいは、また最初から始めるか。

それとも、これまでと変わらず、見ないふりをして続けるか。

悩む間もなく、エンドロールは流れ始める。(P206)

 

流れるエンドロールは止まらない時間、関係性の進行を意味しています。

由比ヶ浜結衣は「モラトリアム」を甘受することで「終わらせたくない」。

しかし、エンドロールは「終わりの始まり」として表れます。由比ヶ浜結衣が関係性や状況に鋭敏であるからこそ、彼女の内面の雄弁さが物語のクライマックスを引き立てているかのような多層的な語り口は、読者も同時に終わりを意識せざるを得ません。まさしく「先送り」できないように。

 

「あたし、ちゃんとしようと思ってる。これが終わったら……、ちゃんとするの。……だから、ゆきのんのお願いは叶わないから」

(…)

「……そう。私は、あなたのお願いが叶えばいいと思ってる」

そう告げた彼女の微笑みには愁い一つ見えず、ただ真摯な祈りがあるように思えた。

だが、由比ヶ浜の表情は晴れることがない。浅い呼吸を二、三度すると、まるで縋るような眼差しで雪ノ下を見た。

「あたしのお願い、知ってる? ちゃんとわかってる?」

「ええ。たぶん、同じだと思うから」

雪ノ下は躊躇うことなく答える。慈しむような微笑には確かな情愛が滲み、その清廉な瞳には迷いがない。

「そっか……、なら、いいの」(P234)

 

ここでも何一つ具体的で確定的な言葉は言われていません。当事者同士がなんとなしに了解しているかも本当かどうかは分からないという意味で、語り手の比企谷八幡も疎外されていますが、そのこと自体がイコール客観性を担保しているわけでもありません。

本当に一致しているかもしれないし、非対称性を隠しているだけかもしれない。意味の宙吊りに耐えられないのはメタレベルに位置している読者であり、当事者=キャラクターとの非対称性がみられます。

具体的に言葉にしなくとも、非対称性を乗り越えているかのような雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣。それを眺めている比企谷八幡も具体的には語りません。三者三様に「沈黙」している。この「沈黙」は非対称性をある意味では隠蔽して、「言葉と現実」のズレを埋めるブラックボックスのような機能があることがみえます。

 

相変わらず俺たちは伝えるのが下手すぎる。言ったつもりで、知ったつもりで、わかったつもりで、それが積もり積もって今に至るのに、何も成長していないように感じる。

本当はもっと簡単な伝え方があることを俺も彼女も知っている。

けれど、それが正しいと思えないから。

だから、せめてまちがえないように。

祈るような気持ちで、俺は二人を見つめていた。(P237)

 

言葉にしないもどかしさと迂遠なコミュニケーションですが、だからこそ「命がけの飛躍」が見て取れるでしょうか。

多義的なコミュニケーションのズレを「まちがい」とするならば、言葉そのものを信用せずに、敢えて具体的に使用しないディスコミュニケーション的な転倒が奇妙なコミュニケーションを形成しているといます。

 

「比企谷……。君のやり方はまちがっている。君がすべきなのはそんなことじゃないはずだ」(…)

お前だけだ。

お前だけがそれを言ってくれる。

どうしようもないほどに正しくて、どうとでも取れるほどに曖昧で、どうでもいい言葉。

お前が、葉山隼人で本当によかった。

誰かが傷つくことが見過ごせず、誰かを傷つける奴を許せない。だから、お前は今も自分を許せない。

誰も傷つけまいとして、その結果、大切な人を傷つけてしまったくせに、それでも自己と他者とが作り上げた自分自身を裏切ることができず、そのあげく袋小路に追い詰められ、そんなにも苦しそうな顔で、意味のない正論を吐いて、今も自分を傷つけている。

自分にできないことだと知りながら、俺ができないことだとわかりながら、それでも言わずにはいられない。

こいつのこういうところが心底気に入らない。

本当に嫌いだ。

だから、俺も言うことができる。

きっと、他の人間相手ならばこんなことは言わない。

酷く共感できて、けれどまったく理解できないお前だから、俺は言うのだ。同じところなど一つとしてなく、なのに似ている部分が多すぎて、違う部分を許せないお前だから、俺は言うのだ。決してまちがわず、いつも正しいままのお前だから、俺は言うのだ。

(…)

見当違いなやり方は知ってる。でも、他にない。他のやり方なんか知らない。

結局そんなやり方でしか伝えることができないのだ、俺たちは。(P255-256)

 

葉山隼人という他者との「絶対的な分かり合えなさ」はこれまで記してきましたが、それゆえに差異を起点にぐるりと一周しては重なってしまうように映る遠近感がありました。これまで「夜」と「昼」の交点、攪乱としてみてきましたが、どちらも「正しさ」として倫理的な志向性があります。他者との関係において「なぜ上手くやれないのか」と「分かり合えなさ」が横たわっている。絶対的な隔たりがあるからこそ、葉山隼人比企谷八幡の距離感が明示されているともいえるでしょうし、具体的に描かれてきました。そのような非対称性はスクールカーストの「仮構性」を換骨奪胎してみせて、他者としての遠近感を創出したといっていいでしょう。

葉山隼人は、なぜそのようにしかできないのかと比企谷八幡に問います。それは「まちがっている」と「正論」を言うことで葉山隼人であるように。

しかし「正しさ」ばかりで人は動けません。リアリズム(正しさ)の限界ともいえるでしょうか。むしろリアリティ(もっともらしさ)が重要で、感触と主体性はつながっています。動機の言語化比企谷八幡は「共依存」ではないことを証明しようとしています。雪ノ下雪乃の主体性があり、比企谷八幡の志向性があること。他者と関わっていくこと。

葉山隼人から「その感情はなんていうか、知ってるか」と訊かれた際には、比企谷八幡は「男の意地」とアイロニカルに「嘯く」ように、比企谷八幡が「沈黙」してきた言葉にできなさが「嘯いて」みせる態度で如実に表れています。

葉山隼人のinterludeで、雪ノ下陽乃は「本物」を見たいと言います。「紛い物」であったとしても、そこを起点に成長する想いもあると葉山隼人は語りますが、その実在性を経験的に疑っているのが雪ノ下陽乃であり、だからこそ対置として「本物」のリアリティ=感触を求めている。

 

たとえそれが紛い物であったとしても、この世でただ一つの歪な贋作であるならば、誰も偽物と呼べないはずだ。

もしも俺がそれを手にしていたなら、きっとこの歪な形に一つの名前をつけられたのに。(P263)

 

名指すことでイメージの喚起、リアリティの獲得はたとえば「共依存」がそうでしたが、比企谷八幡たちは主体的に言葉にしません。一つには言葉のアポリアを自覚しているから。名指す、名前を付けることは言葉にしていないものを言葉にすることであり、ある種の暴力性がはたらきながらも、言語化をとおして手触りが付与されていく。敷衍していえば、言葉にできない/していないものに言葉を与えていく、記述していく行為の倒錯性は「物語」をくぐらせた小説といえるでしょう。『俺ガイル』を重ねて読むことが難しくないと考えられます。

葉山隼人の虚しさは言葉にする機会すらも持たない転倒があるからでしょう。言葉を持て余している空虚さがある。

他方で比企谷八幡の虚しさは、言葉の貧しさを知り、倒錯的に言葉に託すほかないジレンマへの疑いがあること。どちらにせよ空転する自意識と言葉の虚しさを意味しています。もちろん絶対的な差異はありますが、両者の虚しさのズレを読み込むところに小説の持つ言葉の逆説的な「豊かさ」があるといえるでしょうか。

 

俺の行動を海老名さんなりに解釈すれば、ペシミズムに似た答えになるのだろう。それを正しいとは言わないが、遠く外れているわけでもない。ただ、その微妙な差異が確信を抱かせる。

やはり俺と海老名姫菜は違うのだ。共感こそすれ、最後の結論は同じではない。その距離感はある意味、俺と葉山隼人の距離感に通じるものがある。

似ていても、近くても、同じように見えても、それぞれ違っていて、俺はこの一年かけて、それをずっと確かめてきたのだと思う。

おそらくは、俺と彼女もまた、同様に。(P286)

 

他者のリアリティとしての絶対的あるいは相対的な分かり合えなさにみる距離感。非対称的で、無限のズレを伴うものであるから「私」と他者は倫理的な結びつきを要請される。それはある意味では小説を読むこと、テクストと出会うことと重なるでしょう。

カメラの撮影者と被写体の非対称性のように、どこかで分かれて差異があったとしても、どこかで重なるように遠近感を得る。同時に不均衡が生じる。その不均衡という「バランス」で成立しているズレ=他者を思考することが、言葉にすることとつながっていきます。他者への志向性として。

雪ノ下陽乃にダミープロムをリークして貰おうとする比企谷八幡

 

「わかんないのは、なんで君がこんなことしてるかってこと……。ちゃんと教えてあげたじゃない、君たち三人の関係」

笑みを含んだ声音にはからかうような響きがあるのに、どうしようもないほどに悲しく聞こえる。まちがいを苛むように、あやまちを嘆くように、彼女が紡ぐ一語一語が、まるで神経に氷水を流し込んでいるみたいに、すっと俺を凍てつかせる。(P321)

 

「まちがい」と「あやまち」が、漢字ではなくひらかれていることでメタレベル的にいえばタイトル的なニュアンスを含んだ多義的なコミュニケーションのズレを意味しているでしょうが、雪ノ下陽乃の言葉も彼女の主観的なものをとおして、比企谷八幡もある程度のリアリティを抱きながらも「疑い」つつ「確定的」ではないことを暗に示しているといえるでしょうか。

共依存」と雪ノ下陽乃が言ったのは12巻。比企谷八幡雪ノ下雪乃に関与していくことで、彼女の主体性を奪い、むしろ「共依存」は温存されるのではないかという疑問を投げかけている。

しかし、比企谷八幡は「自己満足」であり、能動的に行っているものだから雪ノ下雪乃の「自立」には関係ないという態度をみせます。そうすることで雪ノ下雪乃の主体性は確保されており、「共依存」ではないとする比企谷八幡の言葉は、観念的なものに過ぎず、実態=現実とは異なる「言葉と現実」のズレを雪ノ下陽乃は指摘します。

なぜ、そうまでして比企谷八幡雪ノ下雪乃に関わるのか、と。「約束」だから。「男の意地」だから。「奉仕精神」だから。周りに話した数々の言葉。

肝心の当事者には言語化していません。常に言葉は一定の空虚さを内包しており、その信用できなさを自覚しているのと同時に主体性が問われています。

本来的には「共依存」という言葉もその空虚さ、ズレからは免れません。比企谷八幡平塚静の言葉を受けて「一つの見方」とはしていますが、彼も雪ノ下雪乃も当事者的にそれなりのリアリティを得てしまっている。「共依存」という言葉の持つイメージに関係性が適合してしまっていると納得している。言葉が現実とズレず、規定されている。言葉が主観的にふくらむように、暴力的にイメージは過剰さを帯びていきます。それこそ他者の目線が侵入していくように。

そもそも雪ノ下陽乃が物語に関わってくるのは「本物がみたい」からでしょう。諦念を引き受けた「成熟」の過程におけるロマン主義的な心性としての「本物」。だから、「紛い物」や欺瞞を許せない。

他方で由比ヶ浜結衣には「本物」が分かりません。欲しいとも思っていないのはinterludeにもありましたが、それでも「痛み」としてのリアリティが「共依存」のイメージを内破しているかのように、「言葉」のイメージではなくリアリティのある「痛み」と「現実」を知っている由比ヶ浜結衣には「まちがえ」ようのない事実=気持ちという確信を抱いています。

言葉=共依存というフィルターではなく、現実=痛みとして「言葉と現実」が常にどこかズレていることを由比ヶ浜結衣は知っているから。そのことを自己言及的に作品として問うているのが『俺ガイル』ともいえるでしょう。

 

雪ノ下陽乃を通じてダミープロムを保護者にリークしてもらい、雪ノ下母を召喚することに成功します。

そこで問われているのは「何を言うか」よりも「誰が言うか」という影響力です。雪ノ下母が「女王」という駒であり、駒としての「女王」の奪い合いがプロム実現の交渉の鍵だったことが明らかになるシーンになりますが、比企谷八幡の前期で表面化した「交通事故」の件から、彼が名前を明かすことで当事者的には意味が過剰になるように描かれています。雪ノ下家にとっては「比企谷八幡」という固有名は過剰な意味を持つ。まさしく「誰が言うか」というリアリティが倫理的な意味を帯びるようにして。

そしてダミープロムの当て馬は成功して、プロム企画は見事に「大人たち」の理解を得られました。

比企谷八幡雪ノ下雪乃は「勝負」の件を巡って「それなりの言葉」を費やしますが、比企谷八幡雪ノ下雪乃の「願い」を聞くことで終わりを迎えます。

 

「こんな紛い物みたいな関係性はまちがっている。あなたが望んでくれたものとはきっと違う」

独白はそう結ばれて、エンドマークが打たれたことを知り、俺はようやく彼女の顔を見る。

「私は大丈夫。もう、……大丈夫。あなたに助けてもらえた」

光る雫を指先で払い、雪ノ下雪乃は、綺麗に笑った。

「だから、この勝負も、この関係も……、これで終わりにしましょう」

それが彼女の答えなら、俺が否やを唱える理由はない。

助けるという目標は達成され、関係の終了をもって共依存は解消され、男の意地も貫いた。奉仕の精神などもとより持ち合わせていない。部活も仕事もこれで終わりだ。

だから、何もない。俺が彼女に関わる理由はすべてなくなった。(P356-357)

 

比企谷八幡が望んだ「本物」ではない関係性であり、雪ノ下雪乃は「紛い物のまちがった関係性」を終わらせようとします。もちろん「共依存」が念頭にあるでしょうが、関係性の清算をすることで潔癖的に対処するようにして、雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣の「願い」を聞いて欲しいと「願い」ます。

「勝負」の件を受けて、イニシアティブは雪ノ下雪乃にあるにもかかわらず後景化しようとすることは「沈黙」を意味しており、比企谷八幡も受動的に「沈黙」するほかありません。「勝負」であるから。両者にみる「沈黙」の間を「命がけの飛躍」が生じていますが、コミュニケーションの非対称性(私と他者/言葉と現実)を警戒するかのように迂遠な言葉が繰り出される。ディスコミュニケーション的な転倒といっていいでしょう。

しかし、その迂遠さやもどかしさが『俺ガイル』が描いた「言葉と現実」のズレにみる言葉と非対称性への距離感による手触りといってもいいと思います。その空白にみる「命がけの飛躍」が他者をみることを要請しては、「私」を内省的に要求する。その度に「私」を捉え返し、迂遠な言葉や「沈黙」が距離を明示化しては、言葉への距離と語られる主体と語られない主体との構図を暴露する運動性でもって具体的な他者に向き合うことになるのだから。

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