おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(16)

14巻の冒頭では「たった一言。たった、一言伝えるだけなのに、随分と長い時間を掛けてしまった」と雪ノ下雪乃の独白があるように、個々人がもどかしく「たった一言」で言い表せない言葉のアポリアに終始執着してきたのが後期『俺ガイル』といえるでしょうか。『俺ガイル』を端的に表しているように思えます。「言えなさ」、もどかしさによる「言葉の貧しさ」をくぐり抜けてなお言葉を用いるほかない倒錯性を含めた言葉と他者との向き合い方。

 

その引き手から指を離した瞬間。

ひやりとした感触にはっとした。

指先には、まるで抜けない棘のように、冷たさがずっと残っている。

(…)

なのに、指先は。

あの扉に、最後に触れた指先だけは、今もまだ冷たいままだ。(P40)

 

指先の冷たさは「違和感」の暗喩となっています。

関係性の終わりとして、雪ノ下雪乃の「願い」は由比ヶ浜結衣の「願い」を聞くことでした。

言語化しているようでしていないような曖昧さがあり、「願い」をなんでも叶えるという非対称性ありきものですから、比企谷八幡の主体性はここでは特別に語られていません。潔癖的に欺瞞を許容することはできませんから、他者との関係性において「勝負」の件から「願い」を聞き入れる受動的な態度はみえるものの、比企谷八幡の意思はみえないようになっています。そのような歪さがあります。非対称性の固定化といえるでしょうか。それを遠ざけていたにもかかわらず、他者に委ねざるを得ないねじれは「勝負」や「願い」をエクスキューズにしている主体性の欠落といえるでしょう。

前述した9巻のボーイ・ミーツ・ガールの非対称性、その保守性とも重なっているようにも思えます。もちろん、これはラストにも関わってくるので後述することになるでしょうが。

雪ノ下雪乃による「願い」は歪な関係性の清算となります。潔癖的ともいえるでしょう。

「願い」を素直に引き受けることで、比企谷八幡雪ノ下雪乃の非対称性・権力関係は逆転しているともいえるでしょうが、ここで問われているのは比企谷八幡の主体性となります。

比企谷八幡由比ヶ浜結衣の「願い」を可能な限り聞くことで、ラブコメ的な微温な展開が繰り広げられていきます。

しかし三浦優美子からすれば、由比ヶ浜結衣に対して比企谷八幡が「半端」なことをしているようにも映っている。距離感の明示として。三浦優美子は比企谷八幡を気にしているというよりも、由比ヶ浜結衣を守るためといえるでしょう。三浦優美子は彼女の周りを常に気遣う様子は7巻でも象徴的に描かれていました。

比企谷八幡は誠実であろうとするものの、言葉は宙に浮いてしまう。況してや、それを言う相手も三浦優美子というわけでもありません。他者からの眼差しが現状の比企谷八幡を映し出すかのように、他者との遠近感と志向性――倫理的であるかどうかが問われていますが、少なくとも三浦優美子からはそうは見えていません。

ダミープロムの打ち上げの席でも、カラオケの場の雰囲気に酔えていない比企谷八幡。むしろ客観視してしまうのはある種「語り手」の性ともいえるかもしれませんが、そのこと自体が疎外感を浮き彫りにさせています。

彼によって語られるマイルドヤンキーとオタクの遠近感、親和性についてもカラオケの場では「仮構的」なものに過ぎないことが暴露されているように、スクールカーストもそうであるように、「リア充と非リア」の二項対立も「夜」と「昼」の仮構性もその相対化であることをみてきましたが、仮構性のなかで規定された遠近感と視座が「現実」の複雑性を立ち上げて「物語化」を認識させます。「現実」を意識しながらも仮構的な二項対立の余白を読むことが、倒錯的な小説の「奥行き」となるように、ここでは他者と「場」によって構築された遠近感と共同性が価値基準を攪乱していることでしょう。そのことに仮構性の価値があると考えられます。

 

 

比企谷小町の合格祝いについて、由比ヶ浜家でお菓子作りするシーンがあります。ノスタルジーと匂いに刺激され、季節が巡る度に思い出すことの経験的な正しさを知るように、弛緩した雰囲気はまさに「ラブコメ」でしょう。

料理の最高の調味料は「真心」とありますが、「手作り」については1巻からの反復といえます。プレゼントと同様に他者を想うこと。心を込めて具体的な他者を想像する志向性は倫理的ともいえるでしょうか。

気持ちは事実であり、例えば手作りバレンタインチョコ企画の11巻、あるいは対照的に雑貨屋を眺める13巻のように既製品には宿らない馴染み具合や生活感、ビジョンが醸し出す「本物」は具体的な手や人による「真心」に尽きていくことが示されています。手作りの時点で意味は過剰となるように、他者との非対称性を乗り越えるような「近さ」を演出することができます。

 

度々挿入されるPleludeは、雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣のやり取りが記されています。

比企谷八幡が語り得ぬ「沈黙」=秘密裏に進む並行的なストーリーラインであり、相互に織り成すことで物語を多角的に間主観性として作ることに成功している。ポリフォニー的といえるでしょう。具体的な2人が言葉を交わすことで、横たわっている他者との無限の差異、非対称性がこの瞬間だけは確かに了解しているような共同性がみえてきます。つながりの可視化。遠近感や温もり、差異もある意味では等価なリアリティがありますが、それを具体的な言葉では語りません。確定的な言葉を言わずに、2人は示し合わせているかのように対等的に「沈黙」している。比企谷八幡の視点からは語り得ない「沈黙」を明らかにするためのPlelude にしても、最終的には2人の共通了解としての「沈黙」に回収され、秘密の了解から2人の関係性の深さと近さを窺い知ることとなる。符号が非対称性を覆い隠すかのようにして「沈黙」の一致を読むことができます。

 

たかがクラス替え、と思わなくもない。これまでは、そこにさしたる感慨を見出すことはなかった。わざわざ連絡を取ろうとはしなかったし、離れた分の距離を縮める。あるいは保つための努力はしてこなかった。(…)

顔を合わせなければ疎遠になるのは世の常。そして、また新たなに付き合いが生まれればその分だけ距離を詰めていく。環境が変わることに、人はすぐに慣れてしまう。

慣れて、馴れ合って、また離れる。左様であるならさようなら。

俺たちは、いつだってさよならをする途中にいる。(P197)

 

たしかに時間は有限であり、「先送り」できないこともあるでしょう。

人間関係にも「学校生活」というエクスキューズがあるからつながっている関係性もあるでしょうし、その場合、卒業したらどうなるのかと問題が浮上します。比企谷八幡にはその経験がありません。他者と関係してくための主体性・能動性がないことを意味しているともいえます。裏返していえば、比企谷八幡の受動性が発露しているわけですが、そのこと自体が非対称性を温存している。

関係性を解消したことで関わる理由が無くなった雪ノ下雪乃比企谷八幡のやり取りはぎこちないものの、「仕事」というエクスキューズがあれば話はスムーズに進みます。何かしらの「番い」があればコミュニケーションは楽になる。相対的な他者であるところの由比ヶ浜結衣がそうであったように。

しかし、2人ともどのように振る舞えばいいか分かりません。歪さを許容できず、「正しく」ありたいと思うことが、ある種の潔癖的な歪さともいえるかもしれません。「普通」のようにしても、「普通」を取り繕うことの不自然さに気づいていないように空転が起きている。

一色いろはから、関係性の「先送り」という甘く誘われるシーンがあります。魅力的な提案として。

 

「ぶっちゃけ一番現実的なラインだと思うんですよね~。可愛い後輩の可愛いワガママに付き合わされて、なし崩しになぁなぁの関係続けるのって悪くなくないですか?」

それはひどく魅力的な提案だった。もしかしたら、一番理想に近い形だったのかもしれない。

一瞬、自分の心が揺れたのを確かに感じた。

(…)

「……言い訳、わたしがあげてもいいですよ?」(P235-236)

 

一色いろはの提案は「目的」を作り、動く理由を与える温室的なものです。「モラトリアム」的でもあり、比企谷小町を動機にした8巻を想起させることでしょう。また、城廻めぐりが夢見た生徒会運営も兼ねている。

言い訳がないと動けない受動的コミットメントは何度もみてきたとおりです。ここでは、比企谷八幡の主体性が雪ノ下雪乃と同様に並行的に問われていくことになっていきます。

 

きっと、この位置関係がそんなバカげた想像をさせたのだ。

上手側と下手側に分かれて、片方は見上げ、片方は見下ろす構図。

それが、昔に見た舞台劇のようだった。

バルコニーの高窓と調整室の小窓とではえらく違うし、男女の位置もまるで逆、囁く言葉に至っては睦言からは程遠い、機械越しの業務連絡と、どこをとっても似ていない。だから、迎える結末だって、きっと似はしないだろう。

そんな想像をして、笑ってしまった。(P254)

 

暗闇から見上げる調整室の小窓はあまりに遠く、手が届きそうになかった。

届かない高窓に手を伸ばすなんてシチュエーション、まるでシェイクスピアだ。

私と彼の関係性も立ち位置も、何もかもが違っているのに、構図だけが同じだったせいでそんなことを思ってしまう。つい、自嘲的な笑みがこぼれた。(P258)

 

比企谷八幡雪ノ下雪乃は同じシチュエーションをイメージしています。非対称的な構図でありながら、そこに広がるイメージの豊かさは奇妙な一致をみている。皮肉とみるべきでしょうか。絶対的な他者性と言葉にならない構図的なコミュニケーションは、両者の諦観の姿を語りからロマン的に生々しく浮き彫りにさせている。

2人それぞれが抱いたイメージは他者に伝える/伝わるものではなく、主観的なイメージとしてアイロニカルに浮上しています。当事者同士では決して交差しないイメージの構図とその距離、非対称性が重なっているといえるでしょう。

関係性の「正しさ」をエクスキューズにした歪さを担保していることは前述しましたが、同時に諦念と倫理を巡る姿として表れています。

 

 

奉仕部の区切りについて比企谷八幡は具体的な言葉を持ちません。

主体性の問題は、受動的コミットメントを倫理的に問うものです。これまで「依頼」「相談」「願い」といったように、関わり合い方には何かしらのエクスキューズがありました。他者との関係における比企谷八幡の志向性は受動的であり、さほど語られてこなかったように倫理的にいえば物語構造的な「沈黙」といえるでしょう。受動的コミットメントして他者性と「問題」が常に先行しており、主体的な選択は「相対的」でありました。まさしく志向性の問題と「言葉と現実」が常にズレて遅れるように、「現実=他者」に対して遅延的な「言葉=私の思考」の相対的な構図を引き受けて、語り手でありながら他者への具体的な言葉は受動的コミットメント的に「沈黙」に組み込まれている。まさしく他者との関係性における受動性(ディスコミュニケーション)を指摘するようにして。

 

「……だって、あの子の願いは、ただの代償行為でしかないんだから」

(…)

代償行為。

ある目標がなんらかの障害によって阻止され達成できなくなった時、これに変わる目標を達成することによってもとの欲求を充足するような行動。つまるところ、偽物でもって自身を誤魔化す欺瞞でしかない。(略)

「雪乃ちゃんも、比企谷くんも、ガハマちゃんも、頑張って納得したんだよね。形だけ、言葉だけこねくり回して、目を逸らして……」(略)

「うまく言い訳して、理屈つけて……。そうやって、誤魔化して、騙してみたんだよね?」(P287)

 

プロムを成功させて関係性の解消を図る雪ノ下雪乃たちをみて、雪ノ下陽乃は納得しません。

共依存」同様に名指すことの暴力性がみられますが、その言語化をとおして雪ノ下陽乃は「現実」を立たせます。「物語」を問うようにして。

彼女が指摘した「代償行為」は、それ自体が欺瞞的であり、「偽物」であるといったねじれを際立たせます。

表面上の、言葉の上で納得しようとみせる3人を倫理的に問うているのが雪ノ下陽乃といえるでしょうか。「本物」がみたいから。「本物」への志向性はある意味では倫理的とも重なりますが、言葉の持つ観念性がロマン主義的な心性と結びつくことで、具体的な「本物」への実在性が分からないともいえます。言語化するとなると、他者との「対称性」と距離へのリアリティといえるでしょうか。

ある意味では雪ノ下陽乃の「告白」ともいえます。諦めて「成熟」を引き受けようとしてもなお、やはりどこかで求めてしまう。

 

共依存か。いかにも陽乃らしい言葉選びだ。けど、陽乃の使い方は比喩みたいなものだよ。わかっているくせにわざとそういうことを言う。……君は余程あいつに気に入られててるんだな」

(…)

「だが、私はそうは思わない。君も雪ノ下も、由比ヶ浜もそんな関係性ではないよ」

細くたなびく白い煙が消え失せる。その間際、重苦しいタールの香りが漂った。

その匂いはもはや馴染み深いものになってしまった。この煙草を吸う人は俺の周りにいないから、いずれは懐かしいものへと変わるだろう。

共依存なんて、簡単な言葉で括るなよ」

(…)

「君はその理屈で納得するのかもしれない。けど、そんな借りてきた言葉で誰かの気持ちを歪めるな。……その気持ちを、わかりやすい記号で済ませるなよ」

じっと俺の目を見つめて、先生は優しく問いかける。

「君の気持は、言葉一つで済むようなものか?」

「……まさか。たった一言で、済まされちゃたまんないですよ。だいたい言葉なんかじゃ、うまく伝わらない」

今だって、思考も思想も感情も、何も表しきれていない。そこに意味を伴っていないのなら、こんなのは鳴き声と同じだ。一つの感情に当てはめてくれるなと吠え声立てて、伝わるわけがないと牙を剥き、そのくせ伝わらなくてもいいのだと尻尾を丸めているだけだ。

歯がゆさに知らず、手の中の缶コーヒーを強く握る。

だが、先生は俺の肩から手を離すと満足そうに頷いた。

「自分の中で答えはあるのに、それを出す術を君は知らないだけさ。だから、わかりやすい言葉で納得しようとする。そこにあてはめて済ませてしまおうとしている」(P304-305)

 

他者との関係性における主観的、あるいは間主観性のように、雪ノ下陽乃の言った「共依存」を「比喩」だと平塚静が指摘すると同じく一つの見方でしかありません。「共依存」ではなく、関係性に一定の名前を付けられたことによる認知バイアスになるでしょうか。他者からの借り物の言葉で鋳型に嵌められたままイメージとリアリティが先行してしまうズレ。

だから、平塚静は「記号」で済ませるなと諭します。「言葉」は「現実」とズレているから。言葉では伝えきれないことを言葉で用いる他ない倒錯性とアポリアは「小説的」であることをその都度確認してきましたが、その「貧しさ」のジレンマを出発点にすることで、言葉への懐疑とアイロニーから「言葉と現実」の非対称性を距離としてみることができる。一定の言葉の空虚さを抱えるようにして、それでも――いやだからこそ、平塚静比企谷八幡言語化を促します。

 

「一言で済まないならいくらでも言葉を尽くせ。言葉さえ信頼ならないなら、行動も合わせればいい」

ふっと煙を吐いて、平塚先生はその行方を目で追った。俺も平塚先生の横顔越しにそれを見ていた。

「どんな言葉でもどんな行動でもいいだ。その一つ一つをドットみたいに集めて、君なりの答えを紡げばいい。キャンバスの全部を埋めて、残った空白が言葉の形をとるかもしれない」(P304-305)

 

平塚静の言葉は9巻の延長にあるとみていいでしょう。存在するだけで歪むように、関わることで歪み、あるいは関わらないことでも歪んでしまう。コミュニケーションであっても、ディスコミュニケーションであっても、関係性へのコミットメントとデタッチメントは他者を巻き込み、傷つけてしまう暴力性を常に内包しています。だから構造的に、キャラクター倫理的に「沈黙」してしまうからこそ、目の前にいる具体体な他者に対する倫理的行動(言動)が重要となるように。

受動的コミットメントであった比企谷八幡の主体性。他者に言葉を尽くすことは、デタッチメントやディスコミュニケーションを転化させることになります。

「記号」に頼らず、行動と言語化をとおすことで「沈黙」=「空白」さえもが「言葉」になる可能性は、他者に語ることで饒舌に、あるいは語らないことがメタ・メッセージを内包するように、「言葉と現実」のズレを「言葉」を経由して可視化するものでしょう。その非対称性は眼前の他者と言葉を交わすことで具体的な距離として表れます。

言葉への距離とジレンマ。言葉のアポリア

一言で言えればいいのに言えない。常に過不足であり、徹底的にズレている言葉への違和感があるからこそのデタッチメントな遠回りは、コミュニケーションが多義的なズレを表面化してきた「まちがい」によって慎重に形成されてきた迂回路的ともいえるでしょうか。その道筋は『俺ガイル』の物語構造を「言葉と現実」のズレのように、おそるおそるなぞっているといえます。

 

きっと、終わらせることそれ自体にまちがいはなくて、ただ、終わらせ方をまちがえていた。

借物の言葉に縋り、見せかけの妥協に阿り、取り返しがつかないほどに歪んでしまったことの関係は俺たちが求めたものではおそらくなくて、どうしようもない偽物だ。

だからせめて、この模造品に、壊れるほどの傷をつけ、たった一つの本物に。

故意にまちがう俺の青春を、終わらせるのだ。(P309)

 

主体性を発露する比企谷八幡の内面となります。明確に能動性が言葉にされています。動機の言語化。歪んだものは「本物」ではなくて「偽物」であるから、交換不可能な「対称的」である「本物」を志向しています。

もちろん潔癖的ともいえますが、前期のような独我論的なものではなく、他者に開かれているといえるでしょうか。欺瞞的なディスコミュニケーションではなくて、あるいは「沈黙」でもなく、関わること、言葉にすることの暴力性を主体的に自覚してコミットメント的に引き受けようとする倫理観が語られていきます。

 

「でも、ひとつだけ納得できないことがある……」(…)

「あいつが何かを諦めた代償行為として、妥協の上で、誤魔化しながら選んだんだとしたら、俺はそれを認められない。俺が歪ませていたなら、その責任を……」

言いかけて、やめた。

口にしながら違うと自分でわかっていた。

危うく、くだらない言葉遊びで逃げようとしてしまっていた。こんな遠回しな理屈でいまさら何を糊塗しようというのだ。

俺が言うべきことはもっと別のことだ。

(…)

「悪い。今の無し。なんかかっこつけた」

くるっと由比ヶ浜に顔を向けて言うと、彼女は目を丸くし、二、三度目を瞬いた。そして、ふっと噴き出す。

「なにそれ」

虚を衝かれたのか、由比ヶ浜は妙にツボってくすくす笑う。俺も我がことながらかっこ悪くて笑えてきた。

本当に悪い癖だ。いつもいつでも無駄な自意識が俺の中には存在していて、それが知らず知らずのうちに、彼女に少しでもいいところを見せようとしてしまう。(P332-333)

 

比企谷八幡が建前ではなく、本音を語るシーンとなります。なんのエクスキューズもない、主体的な比企谷八幡の動機の言語化。それは雪ノ下雪乃と関わっていたいという志向性と感情でした。

しかし、この気持ちを話しても伝わらないであろうという諦観をも兼ねています。言葉は言葉でしかないから。

それでも言葉で伝えるべきだと由比ヶ浜結衣は言います。比企谷八幡ディスコミュニケーション――「沈黙」は言葉のアポリアに託けて伝える努力を放棄していると看破する由比ヶ浜結衣の言葉は、他者との無限の差異と距離を明示化するものでしょう。その手前で佇む「比企谷八幡」を指摘しています。

しかし、そうであるからといって言葉や距離に対して、記号的に絶望するものでもありません。その距離を見つめることで他者に誠実であることができるように、言葉を尽くすことがはじめてできます。

 

「一言言えばいいだけなのに」

「一言程度で伝わるかよ」

普通はそれだけでいいのだろう。

けれど、俺は鋳型に入れたような言葉一つでは、とても納得できない。それだけでは足りない気もするし、多すぎる気もする。過不足のない表現などできる気がまるでしなかった。なにより、その程度で済まされてはたまったものじゃない。(P393)

 

言葉のズレ、迂遠さ、信用できなさの発露といっていいでしょうか。それらの言葉へのねじれは他者とのコミュニケーションで経験的に「まちがっていく」ように反復されることで、『俺ガイル』という物語に落とし込まれていきました。

同時に、言葉のアポリアとしての「言葉と現実」のズレや倒錯性は、小説が言葉で記述されうることの小説的な意味と自然と重なっていくことは見逃せないことも反復的にみてきました。

「沈黙」や「空白」は言葉では言い切れないからこそ、もどかしさがゆえに言葉にならない意味を過剰に持ちます。そのような言葉への距離やニュアンスを「沈黙」をとおして言葉にすることで小説が書かれては、読まれるならば、豊かな矛盾を乗り越えるようにして言葉と他者と向き合う時間が与えられることでしょう。テクストと出会う経験と運動性を意味するようにして、「現実」と不一致を起こしている「言葉」のねじれを自覚することで、その運動性を確保しようとするのが言語表現としてのリアリズムであるならば、そのように書かれた小説を読むことの時間的・空間的なズレは、言葉で書かれるほかない言語空間の構築に伴うようにして遅れて生じるであろう運動性の相対的な産物(経験)になります。「現実」を活写できないズレと、そのズレを引き受けて言葉として記述することが小説たる所以でしょうか。そのような遅延的な「時間」のズレは「現実」に流れる時間すらも相対化させる文学的な意味を含んでいます。

 

でも、やっぱり言葉は出ない。

言葉なんて、出ない。

好きだなんて、たった一言じゃ言えない。

それ以前の話で、それ以上の問題で、それどころじゃない感情だ。(P345)

 

 

由比ヶ浜結衣のinterludeからの引用となりますが、言葉の過不足さが慎重を要して「沈黙」に直結している様子が赤裸々に語られています。「言葉と現実」のズレの現前化。一言で言えばいいと自分自身では言っていたにもかかわらず、一言では言えない矛盾を抱えるようにして由比ヶ浜結衣の言葉にならない「沈黙」は重く響いてきます。

Interludeは「私」を引き受けることで、ポリフォニー的にキャラクターの立体感を演出しては、比企谷八幡の語りの「空白」の痛烈さを言葉でもって豊かに語られるのと同時に、言葉にならない感情によって引き裂かれるような「肉声」が描写されてきました。言葉になることもありながら、言葉にならない「沈黙」の二面性を常に湛えているように、佇んで届き得ない語り得ないことも含めたズレ(余白)に、「私」と他者との距離を明示するようにして「言葉と現実」のズレを引き受けるような「声」が刻まれています。

 

 

比企谷八幡は主体的に合同プロムを行うことで、関わり合いたい雪ノ下雪乃を動かしていきます。非対称性を自覚しながら、言葉では済ませない分を行動に含めて。

合同プロムの問題が浮上した際に、またしても交渉の席には雪ノ下陽乃と雪ノ下の母親が再登場します。

雪ノ下陽乃から、雪ノ下雪乃の主体性と「依存」に関わることは「家」について口を出すことを意味すると線引きを図られますが、この警戒心は反復的なやり取りとして表れてきました。その反復的コミュニケーションに対して、いつも「沈黙」していた比企谷八幡が「責任」について口にします――応答可能性として。他者の「家」に踏み込む覚悟と責任。誠実に雪ノ下雪乃と関わり合いたい、という言葉にならない気持ちの表明にほかなりません。そのための交渉であり、言葉。交渉相手は雪ノ下雪乃、ただ一人に向けられた想いであることが明らかになっていきます。

 

海辺からずっと長く続いていた道も、やがて、国道に行き当たる。ここを左に折れれば、俺の家へと向かう道にぶつかるはずだ。

だが、一緒に歩いて話しているうちに別れるタイミングをすっかり逸してしまっている。……いや、違う。ここまで来る間にもそのタイミングはあったはずで、俺はそれをことごとく見過ごしてきたのだ。

国道を越えるための陸橋に差し掛かった時、俺は確かな足取りでもって、迷うことなく、自転車を押した。(P389)

 

分岐点のメタファーといえます。能動的選択。比企谷八幡の主体性についてはこれまで語られてきませんでした。それこそ「沈黙」として組み込まれるようにして、受動的コミットメントに紐づけられたディスコミュニケーションが主だったといえるでしょう。

比企谷八幡の主体的な言語化。9巻の平塚静の言葉と14巻の言葉を体現するかのように、雪ノ下雪乃と関わり合いたい感情を言葉にします。

なぜ、非対称的に他者を歪めるかもしれなくともそれでも関わろうとするのか、とコミュニケーションにある権力関係について自己言及的な応答可能性として、そして他者に伝わるように努力をしようと比企谷八幡が絞り出している言葉には、他者との無限の差異と距離から伝わらなくとも言葉にすることの意味として倫理的態度がみえます。言葉にすることで語られてこなかった「沈黙」と他者との距離を埋めるようにして。

 

 

けれど、理由はあるのだ。

たった一つ、譲れない理由が。

「……手放したら二度と掴めねぇんだよ」

自分に言い聞かせるように、否、自分に言い聞かせるためにそう言って、俺は手を伸ばした。

片手で自転車を押しているせいで不格好だし、手汗は滲んできてるし、どれくらい力を籠めたらいいのかわからないけれど。

それでも、俺は雪ノ下の袖口を握った。(P393)

 

比企谷八幡の「手」。「違和感」によって冷えていた「指先」の行方は、雪ノ下雪乃の袖口を握りながら「言葉と現実」がズレないように「言葉と行動」を伴った主体性の発露となっていきます。

 

 

「責任をとるなんて言葉じゃ全然足りてなかった。義務感とかじゃないんだ。責任、とりたいというか、とらせてくれというか……」

言っているうちにあまりの自己嫌悪で力が抜けていく。こんなことを口にしている自分が気持ち悪くて仕方がない。雪ノ下の手首を掴んでいた手は、するりと外れ、そのまま力なく降りていく。

けれど、雪ノ下は逃げることもなく、その場にとどまっていた。袖口を直すようにさすりながら、掴まれていた場所を自身の手できゅっと握る。視線こそ合うことはないが、少なくとも話を聞く意志はあるらしかった。そのことに安堵し、俺はゆっくりと口を開いた。

「お前は望んでないかもしれないけど……、俺は関わり続けたいと、思ってる。義務じゃなくて、意志の問題だ。……だから、お前の人生歪める権利を俺にくれ」(P394-395)

 

 

本当に、他にあればよかった。けれど、俺にはこれしかないのだ。

もっと簡単に伝わる言葉があればよかった。

もっと単純な感情ならよかった。

単なる恋慕や思慕ならきっとこんなに焦がれない。二度と手に入らないなんて、そんな風に思わない。

「人生歪める対価には足りないだろうけど、まぁ、全部やる。いらなかったら捨ててくれ。面倒だったら忘れていい。こっちで勝手にやるから返事も別にしなくていい」

雪ノ下がすんと鼻を鳴らし、頷く。

「私はちゃんと言うわ」

そして、俺の肩口にそっと額を当てた。

「あなたの人生を、私にください」

「……重っ」(P399-400)

 

非対称性(私と他者/言葉と現実)を痛烈に自覚しながらも、他者を傷つけてしまう可能性を含めて、それでも具体的に関わっていきたいとコミュニケーションをする態度は、その責任=応答可能性としての倫理的な主体的選択といえるでしょう。

目の前の具体的な他者に言葉と行動を尽くすこと。ディスコミュニケーションやデタッチメントに傾いてしまう自意識をくぐり抜けるようにして、他者と向き合うこと。言葉にならないことをそれでも言葉にする不確かさと貧しさといったジレンマを乗り越えるように、主体的な意志について自己言及しながら他者への倫理的な行動として現前化すること。

「私」と他者のねじれと距離をみるように、一言では済まない迂遠さや伝わらなさとして言葉のアポリアがあります。「言葉と現実」のズレが剥き出しになったとしても、この瞬間だけは言葉のある種の熱と空虚さを両立させた誠実な響きを奏でながら、他者との非対称性を起点にした「命がけの飛躍」の応答可能性を意味しています。言葉と他者に具体的かつ倫理的であること。

また、この瞬間、刹那的符号に「対称性」をみることはできるでしょうか。「言葉と現実」はズレるものですが、ここでは権力関係の歪みも含めて意識的に言葉にされているように、非対称性(私と他者/言葉と現実)を相互に自覚していることで符号しています。言葉にある他者への責任=応答可能性の軌跡(「命がけの飛躍」)をみることができるでしょうか。

ボーイ・ミーツ・ガールの保守性、非対称性の構図に対して、言葉にならない言葉や「沈黙」を主体的に語る「告白」を「対称的」に行うことで、ねじれに自覚的であるといえます。

しかし、それでも保守的な意味での非対称性を温存しているともいえるでしょうか。9巻の段階で指摘したマチズモ的「図式」は変更していないという点で免れないでしょう。「本物」を「対称性」としてみてきた本論ですが、非対称性の構図にありながら半ば覆い隠されているようにも思えるかもしれません。たとえば、そのことを保守的な意味での欺瞞としてみることは可能でしょうが、作中のキャラクター間の倫理的な言動=「告白」の結果を、交換不可能なコミュニケーションの「対称性」としてみることができますし、この瞬間だけはどちらも「対称的」な言葉を口にしたことでの言葉をとおした他者への距離と、言葉がつなぎとめ規定しては分節するような「物語」の立ち上がり方に着目することはできるでしょう。おそらく『俺ガイル』が迂遠に避けてきた物語構造としての倫理的な主体性の「沈黙」を「告白」するものであり、そのような「ズレ」や徹底的な「遅れ」が無限の差異としての他者とのズレを生み出しては、だからこそ眼前の具体的な他者に倫理的に向き合うことが要請されるのでしょう。その距離から無限ともいえるような応答可能性=責任が内面化されるように。

いずれにせよ「本物」についての決着は、平塚静の言葉を受けてから展開することになります。

「青春とは嘘であり、悪である」から始まった『俺ガイル』。一見するとルサンチマン的であり、「リア充と非リア」の仮構を起点にしていましたが、その仮構性が遠近法的に解体されていった「私」と他者の距離感はこれまでみてきたとおりでしょう。同時に、その迂遠さは他者とのコミュニケーションにおける言葉への距離にも表れてきましたが、だからこそ「沈黙」と「告白」をとおして主体性の輪郭を迂回路的になぞってきたともいえます。

平塚静から「本物は見つかったか」と問われ、比企谷八幡は「分からない」と返します。

 

「共感と馴れ合いと好奇心と哀れみと尊敬と嫉妬と、それ以上の感情を一人の女の子に抱けたら、それはきっと、好きってだけじゃ足りない」

(…)

「だから、別れたり、離れたりできなくて、距離が開いても時間が経っても惹かれ合う……。それは本物と呼べるかもしれない」

「どうですかね。わからないですけど」

肩を竦めて、俺は皮肉げに笑って見せる。

自分たちの選択が正しいかどうかは、きっと、ずっとわからない。今もまだまちがえているんじゃないかと、そんなことを思う。

けれど、他の誰かに、たった一つの正解を突きつけれられても、俺はそれを認めることなんかしないだろう。

「だから、ずっと、疑い続けます。たぶん、俺もあいつも、そう簡単に信じないから」(P505)

 

言葉を疑うように「本物」をも疑い続ける意識が述べられています。

「対称性」は刹那的であり、その意味では漸次的に「疑う」という思考の運動性を自覚して「先送り」にしているともいえるでしょうか。コミュニケーションにおける非対称性と対称性の往還に他者への倫理的な応答可能性がありますが、小説という倒錯性を内包した言葉の空虚さと過剰な意味のズレ、言葉にならない「沈黙」を読むこととして応答する態度と文学的な意味での他者への想像力は重なっていきます。

しかし、前述したようにボーイ・ミーツ・ガールの非対称性、保守性は「本物」を対置してみせてもラディカルに更新されるよりも、かえって男性主人公の優位性(マチズモ)を担保していることは気になるところかもしれません。比企谷八幡雪ノ下雪乃が「対称性」として、それこそ「パートナー」と関係性をあえて言葉にしてみても「詭弁」のにおいは免れないように。

また、ボーイ・ミーツ・ガール特有におけるマチズモ的図式にみえてしまう「傷ついた女の子を所有する男」にある非対称性とその素朴さへの批判をみることができるでしょう。そういう意味では「本物」というのは非対称性を乗り越える「対称性」であるはずなのに、非対称性の「内部」に留まっているという見方はできます。

「パートナー」関係を結び、「本物」を疑い続けるという一定の「留保」はあるにしても、「形式的」には非対称性は変わっていない。暫定的・モラトリアム的・部分的な応答に留まっているといえる。

さらにタイトル――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』にあるように、メタレベル的にも自己言及的にも「まちがっている」ことが「青春ラブコメ」への脱臼・逸脱であったわけですが、むしろ正しく「青春ラブコメ」として回収されていることでオルタナティブな「語り」は失効したともいえる批判も可能でしょう。

もちろん、それらの批判は「部分的」には外していないといえます。

しかしながら「疑い続ける」留保の重ね方にみる運動性が常に暫定的な思弁であり、「まちがえて」現実とズレる可能性をも含めて、言葉の固有性・固定性にさえ懐疑的にするという距離感を内包している比企谷八幡のある意味徹底した内面はみてとれるでしょうか。あくまでも比企谷八幡の主観、語りにおいての「留保」になります。比企谷八幡の語れなさにある「沈黙」と言葉への距離を含めた言葉と他者への「留保的」なナラティブへの橋渡しとするならば、小説的には比企谷八幡の内面の運動性=成長と変化でもって閉じているといえます。

なぜなら、明らかに他のキャラクターたちと比較すればそうでしょうが、この「留保」の置き方からみても『俺ガイル』は「モラトリアム」と「成熟」の途上に立つ比企谷八幡の成長物語=ビルドゥングスロマンと読むことができるからです。

それゆえに比企谷八幡の内面をみていきましょう。

他者とつなぎとめる言葉のアンバランスさ=ジレンマを比企谷八幡のアイロニカルな語りという思考の運動性によって、ロマン的な心性=「本物」とそれに反発するような懐疑的な態度が両立した「疑い」が漸近的に差し込まれているといえます。この運動的な「留保」が「まちがっている」ことを「疑い」、さらに外部的な読者の立ち位置で決定される意味での「マチズモの図式」に対して、内部的には「留保」を重ねているとみることはできるでしょうか。図式とは外部的な眼差しであり、内部的には暫定的な「留保」が見て取れるように、「本物」を疑うことは「対称性」を疑い、非対称性に自覚的かつ倫理的であることを促していきます。「留保」する態度にある運動性は、他者との距離やズレをみることへの比企谷八幡の自覚的な態度があるのだから、内部的には権力関係的な図式にさえも、「本物」を「疑う」ように自己言及的ともとれるでしょうか。視線の立ち位置が異なっているという意味で、ここで成立している「外部」と「内部」のズレは「言葉と現実」のように表れているといえます。

もちろん、好意的な誤読かもしれません。そのように「留保」をすること自体が逆説的に「図式」を温存しながらも際立たせることもあるでしょうし、そういう意味では『俺ガイル』からは、図式的な意味でのボーイ・ミーツ・ガールにみるマチズモの温存を破ることは難しいでしょう。況してや「本物」でもって、図式を更新することは困難を有することは『俺ガイル』そのものの「留保」と迂遠さ=「疑い」にもつながっているといえます。

ここまでは比企谷八幡雪ノ下雪乃との関係性にみる比企谷八幡なりの内部的な「留保」をみてきましたが、問題は物語のラストに位置しているハーレムエンドになるでしょう。これは事情が異なります。由比ヶ浜結衣が結果的に加わるようになったハーレムエンドもメタレベル的にはタイトル通り「まちがっている」としていますが――1巻の反復とその相対化の産物として表象化されている――、「図式」は強固に温存するように形成されているところは見逃せません。

物語が閉じた段階でハーレムエンドが作られることは「ラブコメ」的であるのと同時に「留保」と重なるようにしてそれらは「先送り」される危うさがみてとれます。たとえタイトルからメタレベル的に「先取り」するように「留保」していたとしても、マチズモ的図式の非対称性は、ハーレムエンドにみる比企谷八幡の意思とは異なるが規定されてしまう受動性とタイトルにある――「やはり」と言わざるを得ない反復的な確信性によって温存されているところは「本物」=「対称性」からは程遠いとみるべきでしょう。

もちろん「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」にみるタイトル回収の余韻はアイロニカルな響きを含んでいます。そのように読むべきものでしょう。「やはり」にみるある種の諦念と経験的反復と確信性のニュアンスは「残念系」の系譜としてみることができます。

しかし、メタレベルなタイトル回収で物語本編が閉じられるからこそ、作中の内在的存在であるキャラクターのロジックと、外在的である読者のロジックと視線がメタレベルという「保証」において一致してしまうことで、内在性と外在性が溶け合い、図式的な非対称性(マチズモ)が際立つようになります。

さきの比企谷八幡の内面=内部とは異なった剥き出しともいえるでしょう。メタレベル的決着であるからこそ、内在的・外在的にも図式の隘路に入り込んでしまうといえるかもしれません。

これまで非対称性(「私」と他者/言葉と現実)を倫理的にみてきたのが、この試論となるのはいうまでもないことでしょう。それは『俺ガイル』にみる物語の「慎重さ」から要請されるようにして読んできました。ですから、このことを指摘しないのは欺瞞といえるでしょう。

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」にある「やはり」という確信的な自己言及性からメタレベル的に位置している「留保」と「残念な先取り」――反復的産物――を皮肉としてみることができますが、それ故にメタレベル的な「回収」を行うことで、外在的にみるマチズモの図式とキャラクターたちの内在性の発露の整合性が取れてしまう「皮肉の二重性」としてとるほかありません。

前述した比企谷八幡の「本物」を「疑う」ことでの「留保」では、キャラクターの内在性と読者の外在性にみる図式的な観方ではズレがあるのではないか、と読みました。

だから、マチズモ的図式にも一定の「留保」があるとみましたが、それとは別にあるハーレムエンドにおけるメタレベル的な自己言及性によって引き上げられるようにして図式が担保されてしまったことは倫理的には見逃せないこととなります。この図式的隘路を突き破る力は『俺ガイル』にはありませんし、むしろ強固に温存されてしまったとみるべきでしょう。そのこと自体をタイトルにある自己言及性とアイロニーを重ねて読むことはもちろんできますし、非対称性の「動かなさ」から「本物」をロマン主義的に対置せざるを得ない物語展開とつなげることはできるでしょうか。

そのようなアイロニーからひっくるめて総合的に「残念系」の系譜に位置することもできるでしょうし、事実、そのように読まれている一面はありますが、内部的な「留保」そのものがメタレベル的な位置で転倒してしまったことで生じた内在的・外在的な「合流」による図式的な保守性ともいえることへの批判は免れないと読むべきでしょう。

タイトル回収をすることで――タイトル的にはメタレベル通り「青春ラブコメ」を相対化させている「正当性」がありましたが、比企谷八幡の意思とは異なるようにして図式そのものは相対化されず、むしろ「まちがっている」ことが自己目的化するようにメタレベル的に引き上げられて強固に温存されてしまった転倒を批判的に捉えることはできます。

もちろん、そのような「瑕疵」で『俺ガイル』の試みの価値が極度に下がるわけでもありませんが、ボーイ・ミーツ・ガールにみる非対称性や権力関係にどれだけ自覚的で相対化しようとしても、メタレベル的な意味を携えて図式的な権力関係に「回収」されてしまったことは「本物」の到達不可能性を逆説的には捉えたといえるでしょう。メタレベル的にその都度「タイトル通り」であることが参照されるように――「まちがっている」ことの目的性――自己言及化してみせることで、タイトル回収によってキャラクターの内面と読者のメタレベル的立ち位置が合致しては、図式は剥き出しのままごろりと俎上に投げ出される。アイロニカルな余韻を引き受けるようにして――まさしくハーレムエンドと「まちがっている」ことに言及する比企谷八幡のように!――非対称性を眺めるほかありません。

これまで倫理を要請されるようにして、あるいは素朴に物語展開をみてきました。その結果がこの試論といえるでしょう。

「青春ラブコメ」をコミュニケーションにおける「対称性」と非対称性の往還とするならば、「まちがっている」ことは「青春ラブコメ」の脱臼であり、相対的な目的化ともいえるでしょう。これまでみてきたように、ハーレムエンドにおける図式的隘路は非対称性の拡大であり、倫理的な「読み」からは遠いものです。たとえ「本物」=「対称性」を対置してみせても、グロテスクに図式がメタレベル的に担保されてしまう皮肉までみてきました。まさしくタイトル通りとして――「やはり」にある経験的反復的直観とメタレベル的な目配せから、この物語展開そのものを裏切るような「本物」=「対称性」を「疑う」ことで「留保」してみせる運動性から非対称性に自覚的であるはずなのに、図式的隘路にみる非対称性は拡大化してしまった倫理的な意味での「失敗」とみるべきか。あるいは「青春ラブコメ」の相対化という目的性に則った上での逸脱――ズレてしまうことの不可避性――に対する自己言及として倫理的な意味もズレざるを得ない小説的な「奥行き」としてみるべきか。

この問いかけは読者に委ねられていることでしょう。

さて、ここまでみてきたように図式的にみれば「本物」は規定できないものになります。外部的に規定できない、内部的な「留保」に収まるほかないのが『俺ガイル』の「言葉と現実」のズレからみる結論になります。比企谷八幡をとおしてそのズレをみつめてきたともいえますが。

そういう意味では「本物」は詩的直観性の産物ともいえるでしょうか。これまで「本物」を「対称性」としてみてきましたが、そのような関係性は常に運動的なものであり、言葉で規定・分節した瞬間にまたしても距離が生まれてしまう。果たして言葉で捉えられるかは分からないし、「言葉」をとおして「現実」と重ね合わせてもどこかしら「まちがっている」ものだから。それゆえに言葉への距離が生まれたのが『俺ガイル』でしょう。

正確に「本物」を描けない/描かないことの表現の空白=「沈黙」は、言葉にならないものを言葉にしようとする直観性と倒錯性を捉えて、疑いながらも考え続ける「文学」と符号すること自体が「錯覚的」ではありますが、そのような曖昧さを過剰に受け止めることは物語をとおして言葉と他者をつなぐ小説といえるでしょうから、読むことの緊張関係として「交通」を開いていきます。そのコミュニケーションは「私と他者」と「言葉と現実」にあるズレを過剰に読むことで成立していく。このようなズレをとおした迂遠な手続きや経験があったからこそ、「一言では済まされない」言葉への距離と他者を介した「単純化」を拒絶してみせたのは、まさしく「まちがい」への倫理的かつ主体的な応答といえるでしょう。

非対称性と距離を鋭敏にみては、キャラクターの自意識にくぐらせて意識の束を記述してみせた『俺ガイル』がそうであったと読めるように。

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