おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

俺ガイル研究会の同人誌に寄稿しました

来る12月31日コミックマーケット101「土曜日東地区 "ペ " 11b」に出品する俺ガイル研究会の同人誌に寄稿させていただきました。

 

 

詳しい告知はこれからですが、気になる方がいらしたらアカウントのフォローをお願いします。

同人誌に文章を寄せるのは今回が初めてとなります。

同人誌を出すこと。

長年抱いていた夢が叶うこととなりました。

20代半ばから、いずれは朝井リョウ論や西加奈子論、竹宮ゆゆこ論といったいわゆる既存の文芸評論が相手にしないけども、大衆には受容されているような明確なズレが生じている文芸をまとめた同人誌を考えていました(その後、朝井リョウ論と西加加奈子論は出てきましたが)。その試みはあくまでも「文学」のアプローチを広げる野心であり、たとえば文芸評論が歴史=言説や作品の価値との共犯関係にある当たり前の事実を山本芳明『文学者はつくられる』などが列挙していますが、同人誌というプロとアマにおける往復「運動」が持ちうる「場」や言説を構築していくとするならば、いずれ僕もその「場」に加担したいと考えていました。

ぼんやりと30代の夢の一つとして。

futbolman.hatenablog.com

酒の勢いもあったと思う。そんなことを友人の前でふと零した。すると、友人は言いました。「今すぐやらないと動けなくなるぞ」。

それから幾年が経ち、30代になったものの同人誌を出す目途は立たず、たしかに友人が言ったように「動けなくなる」ことを実感していました。

消耗していく日々。季節の変わり目の早さ。そうして一年が過ぎていき、人生と生活をやっていくほかないばかり。友達の言葉がよく響いてきました。

 

長い文章を書くぞ!と意気込んだのは2020年ころだったでしょうか。このブログ上で長い『俺ガイル』論を書き始めました。

『俺ガイル』との出会いはアニメの第1期からです。当時、長文のタイトルアニメへの嫌悪感から観るつもりはなかったのですが、偶々夜更かしをしてテレビを観ていたら第1話がやっていました。

比企谷八幡の痛い独白。ニヒルな立ち位置。自意識と屁理屈による「現実」との相対化。

第1話のAパートの時点で、「原作が一人称視点で書かれていたならば効果的な面白さ」を期待できるだろう、と考えていた僕は第1話を見終えた翌日にTSUTAYAで原作を買っていました。

なので、アニメ1期が終わるまでに既刊分を読み終え、恰も僕は原作勢の面をしていました。オタクとは階級闘争する生き物だからです。そこから基本的には原作を中心として『俺ガイル』に触れ、最初に出来たのが書評的なニュアンスが強いであろう文章でした。

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 サブカルチャーの現場から文学への素朴な応答(12万字)が最初となりました。

futbolman.hatenablog.com

しかし、どこか「逃げた」自分がいることを後悔していました。タイトルにある「サブカルチャー」の文脈が弱い点、江藤淳の「サブカルチャー」を引用の仕方にも我田引水であり、月日が経つにつれて不満が募っていきました。

だから、この文章を全面的に書き換えることで生まれたのが 現時点での僕の代表作ともいえる試論、サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(合計21万字)です。

futbolman.hatenablog.com

 

この文章を解説するわけではありませんが、ネット上で転がっているミームである「『俺ガイル』は文学だ!」という言葉について自分なりに考えた結果です。

そこで言われている「文学」とは何なのだろう。ある種のレトリックではあるにしても、「文学」という言葉に仮託するほかない(その「貧しさ」?)、宿ってしまう真に迫るような情念の生々しさ。あるいは還元できないゆえの純粋な残滓として「文学」という言葉が召喚されているならば(しかしその名指すことができないものが「文学」であると信じられていることの「文学」への過剰な寄り掛かり?)、その気持ちにどのようにして肉薄できるのか。そのことを考えて文章にしました。

ですから、一般的に想定されているような「考察」ではありません。たとえば「比企谷八幡が言った『本物』とはなにか」の定義も多少は触れているにしても、厳密に捉えようというものではなく、「本物」という言葉が持つ「運動」に着目するものでしょう。その「運動」とは上記の「文学」とも重なりますが、「本物」としか言いようがなかった感情、思考といったドロっとした何か。曖昧な言葉でしか言い表せない具体的な噴出。一応は「本物」と名指すが、名指し切れない何か。「運動」の可能性。

あくまでもこの試論はベタな「他者論」を中心に据え、「『俺ガイル』を小説として読む」ことで文芸評論の枠組みから『俺ガイル』の立ち位置を探ることを目的にしていましたが、その試みが成功したかは分かりません。

 

今回、俺ガイル研究会に寄稿した文章はエッセイとなります。

ある意味では『俺ガイル』試論の延長といえるでしょうか。試論を読んでいない方にはめちゃくちゃハードルが上がったように思えるかもしれませんが、そんなことはないです。別に読んでいなくても読めるようにはなっているはずなので。

試論で考えた「他者」や「言葉」について、江藤淳柄谷行人の言説をなぞりながら(そして自分の身体感覚として使いながら!)、文芸評論的な枠組みを借りて「小説として読む『俺ガイル』」を意識した文章になっています。

その意味では、僕の想定する「批評」を目指したエッセイとなっているかもしれません。大雑把にいえば「批評」が軽視され、「考察」中心となっているように思える現代において、寄稿した文章がどれだけ機能するかは分かりませんが、少なくとも僕のやりたいことはつながっているという実感はあります。「他者論」という意味ではなく、前述したように想定していた朝井リョウ論などといった既存の文芸評論の枠組みからは外れるもの。『俺ガイル』もその一つでしょう。書評的な意味ではなく、またライトノベルというジャンル内でしか評されないという意味ではなく、僕は枠組みを越境して広げたい。そのようなブリッジや転倒によってしか生じ得ない価値転換、あるいは言説=歴史の「場」。その足掛かりの一つになると幸いです。

まだ告知の正式段階ではないので、寄稿した文章について細かく触れるわけにはいきませんが、昔に書いた文章があります。

futbolman.hatenablog.com

とある作家がライトノベルと純文学の距離が広がった、という話をしていました。

これは本当に耳が痛い話です。

かつてゼロ年代にはライトノベル文学史の距離の縮まり方、あるいは当て嵌め方の可能性があったシーン(時期)がありました。

しかし、今やその距離は縮小するどころか拡大化していき、島宇宙化していった。それが今のジャンル間の距離感であることは確かでしょう。ライトノベルライトノベルという島宇宙のなかで。島宇宙が悪いとも言い切れないのは確かです。けれど、常に外部を意識することは欠かせないと思います。

僕が書いている『俺ガイル』連載は、ゼロ年代批評の復古を目論むようなものではありません。文学史的に『俺ガイル』を位置づける、というものでもありません。そうした可能性はゼロ年代の亡霊的に映るでしょうし、それも吝かではありませんが、むしろ島宇宙化したジャンル間で「外部と内部とは何か」を問うことでの発見が一つの目的でもありますから、江藤淳の「サブカルチャー化する文学」への警鐘に対する「サブカルチャー」的応答として『俺ガイル』のいわゆる文学性――後期的問題――を引き付けて語ることができるかという問題設定があります。

しかし、そうした試みは一見すると『俺ガイル』を文学的に位置づけるものに映ってしまう危険性があります。「『俺ガイル』は文学である」と。

僕としてはその精神性を引き受けつつも、島宇宙的なジャンル間の越境的可能性ではない、『俺ガイル』から「サブカルチャー化した文学」の話をしたいと考えています。そういう論点を後期で展開できたらいいなーと。

『俺ガイル』試論の役割の一つ、マニフェストみたいなものでしょうが、今回のエッセイはよりダイレクトに「『俺ガイル』は文学である」みたいな問題意識を僕なりに引き受けては、そこで受容されている「文学」とは何か、という話ではなく(そのことは仮に『俺ガイル』を「文学」とするならば、どのようにして「文学」として言えるのかという理論立ては試論でやりました)、「『俺ガイル』は文学である」とするならば、江藤淳が文芸評論でこだわってきた「言葉と沈黙」という主題、つまり行間に吸い込まれるような静けさ、運動といった読書体験を文章にしたものとなっています。それが「藝」になっていれば「批評」として読まれるものとして堪えうることができるでしょう。

同人仲間や友人からは「柄谷行人論」という言葉もいただきましたが、意識して江藤淳的な文章にはなっていると思います。

その意味において「小説として読む『俺ガイル』」論となっているでしょうか。

どう転ぶかは分かりませんが。

詳しい話は後ほど、ということで。

冬コミで僕と握手!