おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

「本物」ってなに――『俺ガイル』ノート

『俺ガイル』9巻で「本物が欲しい」と告白する比企谷八幡

「本物」とは何なのだろうか。

『俺ガイル』に触れてきたことがある人をいくらか悩ませてきた「本物」。

これまで俺ガイル研究会の人たちと議論を重ねてきた結果、「本物」とは否定神学的である! と暫定的にいうことは可能だろう。そう、暫定的でしかないというべきか。

 

 

「本物」とは「偽物」でもなければ「模造品」でもない。「〇〇ではない」の集積の結果に辿り着くものであり、いわば空虚な中心ともいえるだろうか。「ない」ということが「ある」といったような当事者にとってのもっともらしさという錯覚、リアリティ、あるいは空虚さのみが確かな手触りともいえる心持ちが重要であるように。それを求めてやまず、信じることが尊いというべきであって。話を広げれば象徴や神秘性の話に絡むだろうか? 大文字の象徴が剥ぎ取られ、個人の実存を傾ける小さな世界観の保持の林立における、否定神学という象徴さえもやはり荒涼した風景であるように。

はたして「本物」のように「純粋」なものなんてあるのだろうか、と考える。その意味で「純粋」も「本物」と同様に否定神学的であるが、その混交度合い、所詮は濃淡の産物に過ぎないのではないだろうか。

ここでは「本物」の厳密な定義論に踏み込むことはない。「本物」についての考察記事はインターネットを漁れば玉石混交に違いない。

そもそも僕には定義論への関心はない。言葉そのものが痕跡でしかなく、変容してしまうものであるという理解であるし、言語ゲーム的に、あるいは社会的な領域で共通了解を指し示す錯覚めいた記号でしかないのが言葉の在り方ではないか。その意味では「文学の言葉」は言葉に血肉を与えなければならないのはその通りだろうが、果たして言葉に血肉を付けることはできるのか、そもそもそのレトリック自体が素朴な信仰でしかないのではないか、という見方はできるだろう。

ここで言いたいのは「本物」が「文学の言葉」であるということではない。言葉がどうしても現実以上に生々しく上滑りしてしまう響き方に興味があるのだから。

立川談志は「人間とは人と人の間で生きるから人間なんだ」と言っていたが、言葉もそのあらわれともいえよう。人間は言葉で思考しては、言葉を用いる。言葉の圏域からはなかなか逃れられない。たとえばヴィトゲンシュタインが沈黙したように、言葉の宇宙に飲み込まれていく態度。ただ、それゆえにある程度包摂されるであろう思考、言葉の在り方そのものが「社会的」ともいえるのかもしれないが。

血肉のある「文学の言葉」が要請されるのは、裏返していえば言葉に「力」がないからだろう。しかし「力」がないから悪いという短絡的な話ではない。「言葉と現実」は常にズレてしまうことで矛盾や衝突を生まざるを得ないもので、リアリズムといった自己運動におけるアイロニーとしての言葉の引き裂かれ方や軋みにこそ意味があるのだから。その響きに振り回されるのが言葉と肉体の関係だろう。

 

ただ、定義論に踏み込まずに「本物」を問うことはできるかと言われれば、可能であると断言できよう。

どうしても否定神学的に映ってしまう「本物」であるにしても、当事者的には「本物」としかいいあらわせない〝何か〟を言おうとしている情念の集合を読むことはできるだろうから。ただただ主観的な物言いだとしても、「本物」としかいいあらわすことができなかった言葉、それ自体に仮託しようとする微力な告白に絶えず言い切れない〝何か〟という残滓を見て取ることができる。その「言葉にできなさ」にみるような沈黙さえも、比企谷八幡の主体を引き裂いてしまう言葉のあらわれであり、告白の身振りにおけるどうしようもなさの結果でしかない。その事実が重要である。「本物」としか言いようがなかった誠実さと、言葉の未成熟さのあらわれともいえるか。

だから、「本物」が指し示す意味よりも、「本物」としか言いようがなかった――「本物」という言葉によって立ち上がる印象の肉感を言葉の問題として考えたい。言葉として現前化する不確定性の痕跡。

もちろん、比企谷八幡が「本物」を求めたことの意味・価値はあるのだろう。独善的で、モノローグ的な価値観から他人への志向性、関係への欲望を見て取れるのだから。

しかし「本物」という言葉の意味に着目するだけならば、あくまでも比企谷八幡個人やあるいは彼らの関係の問題でしかない。僕がこだわりたいのは「本物」という言葉から醸し出される印象であり、そのような曖昧な言葉でしか言いようがないものの具体的な沈黙と意思のあらわれをも包摂してやまない言葉の自己運動、それ自体というべきか。

 

 

「弱者」と「物語」の親和性は高い。「弱さ」からの成長を描くことが物語の曲線を構築していくことに適したものであり、だからビルドゥングス・ロマンが作られていくのだろう。「青春」も同様に移行期を示すうえで重要な言葉に違いない。そのイメージを当て嵌めやすいというべきだろうか。

昨今の批評シーンにおいて、江藤淳の『成熟と喪失』が素朴に参照されることも「成熟」の困難さによる「成熟」への身振りに敏感になっている証拠だろう。江藤淳が見届けた「父」にはなれないが、「父」としか演じるほかない荒涼とした風景に佇む「弱さ」。

「弱さ」、「物語」、「青春」、「成熟」。

これらを複合的に論じることは可能だろうが(『シン・エヴァ』など)、「青春の終わり」として描いたとしてもなお「青春」の圏域にあるように、それらの固執や措定自体が圏域に回収されてしまうようなめまいを覚える。

ここから脱け出すことはできるのだろうか?

その意味では別に『俺ガイル』は「終わり」を描いているものでもない。あくまでも移行期に過ぎない。宙吊り的でしかない。

しかし物語で「本物」が提示された時点で、「本物」を獲得していくようなゴール設定に映ってしまったきらいがあるだろうか。『俺ガイル』が示す宙吊りはそのゴール設定の脱臼・逸脱にあったとしても、彼らがその「弱さ」をどのように克服していくのか、という目線に立てば「本物」を獲得していくことは物語上のカタルシスを生むものに違いないと読者に「先読み」させるものだったであろうか。

ただ、「本物」とは獲得できる言葉なのだろうか。そんな疑問が過る。だから宙吊り的に映ってしまう最後に、「本物」に到達していないことへの不満とつながっていくのだろうか。問いかけられた「本物」が投げ出されたかのように錯覚してしまうことで。

おそらく「本物とは何か?」という問いの設定では、宙吊りで指し示された「沼」から抜け出ることはできない。

ここに「本物」としかいいあらわせなかった言葉の問題がある。

比企谷八幡の「私」の言葉でありながらも、他人と曖昧ながら共有されることで「公」、外部的に反響する言葉の在り方。言葉とは外部的でありながらも、「私」の内から湧き出るものでもある。その「中間地帯」に根差すことでしか生きられない言葉は思うように操作できず、もどかしさを募っていく。「失語症」的な言い難さを伴いながら(現実に対して常に言葉とは遅れて出てくるものであり、その行間を埋めるために言葉は意識的に沈黙を追いやっていくほかない)、言葉それ自体と「私」という主体のままならなさを確認していき、その間合いこそが「私」という肖像を再定義していく。

言葉とは「他者」である。川村湊が記したような意味での「他者」である。『架橋としての文学 日本・朝鮮文学の交叉路』にある『「他人」として切り離すことができず、〝身内〟として自分のなかに抱え込むこともできない「他者」』は、言葉とともに「中間地帯」として重なるという意味で「私」との距離を測り、「私」というモザイクを彩っていく。「本物」という言葉を放つことで比企谷八幡の欲望が可視化されるといったように。

もちろん「本物」という言葉の言い難さ、あるいは凡庸さには「本物」としか言いようがなかった情念が響き渡るばかりで、「現実」に対して上滑りしてしまうような言葉のままならなさがあるだろう。

現前化する言葉の欲望と不確定性とでもいうべきか。単なる言葉ではない。言葉は痕跡でしかない。「本物」としか言いようがなかった「私」に言葉が完全に操作できない、帰属せずに「本物」という言葉を発話するまでのこれまでの経験や時空間=歴史を立ち上がってしまうような「声なき声」の集合があり、「私」の言葉でありながらも「私」の言葉でもないような……。言葉への没入感。感覚の溶け合い。

「本物」への確かな情動と手触りが残り難いであろう凡庸ともいえる沈黙と重なり合っていき、その痕跡でしかない言葉を読むことで言葉の奥行き、向こう側に位置するであろうものを見立てることが小説を読む行為だろう。読者は見立てることを重ねていき、そのぼんやりした集合を血肉化していくように。痕跡の立体化。その意味ではロマン主義的な心性やナルシシズムとひどく近しい位置に読者の主体がある。読書という行為は、ある意味では孤独な個人主義を経由しては小説を読むことで触れる「他者」の手触りがその主体を攪乱しては再定義を促し、「私」を明示化していく。

たしかに「本物」という言葉について考えてしまう〝何か〟はある。それが言葉の「力」なのだろうか。観念的で上滑りしている言葉の軋みであることにちがいないが、それゆえに人は意味を求める。言葉を肉体化してしまいたくなる欲求か。あるいは小説のもつ時空間の流れ方に没入する言葉という「星座」の在り方なのだろうか。

小説の言葉に触れ、記憶や経験が反響してしまう時空間とその意識の痕跡。その時空間が小説なのだろうか?

言葉と思考をつないでは「星座」を描くようにして、見立てることの向こう側。「本物」という言葉で現前化してやまない否定神学的な印象、その痕跡。言葉の引き裂きによる自己運動としての痕跡、位置が出現する言葉との出会い、小説。語る言葉が印象をぽつぽつと立ち上げ、沈黙に飲まれていく。行間に言葉が吸い込まれていく「私」。「私」という言葉で語られる「他者」もまた。僕は今も言葉をもてない。……。