大玉代助を作った100冊
りこさん(@pistolstar_1742)がやっているのを拝見してやってみたくなった。
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正直、100冊を選ぶのは苦心した。読書をしているわりにはそれほど影響を受けていないのかもしれないと感じるくらいには。
しかし、ここに挙げた100冊は間違いなく僕の人生に影響を与えたものであるし、人生の羅針盤になっている。だから同じような素材に集中してしまっているから、面白みはないのかもしれない。いわば「いかに生きていくべきか」という問題が中心にあるからだ。
室生犀星の詩に『初めて「カラマゾフ兄弟」を読んだ晩のこと』があるが、これらの100冊にもそれぞれの読んだ時の感覚、印象、記憶がこびり付いている。室生犀星が「カラマゾフ兄弟」を読んでもなお、いっさい内容に踏み込まずに自身の記憶や環境に向き合ったように、誤解を恐れずにいえば、そのような体験によってひらかれた記憶はいわば本の内容よりも僕の人生、生き方には重要である。そんな記憶や印象があるから僕を作ったともいえよう。
1 西澤保彦『依存』
本格ミステリにおける幾人のシリーズ・キャラクターを抱える「語り手」の盲点、可能性をみた。それゆえに「終わり」も感じさせる。永遠はないのかもしれない。
2 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』
「陰謀論」と「伏線回収」の近さに自覚的な伊坂幸太郎のキャリアを睨むうえで重要だろう。「批評」や「考察」にもそれらは非常に近しい。
3 伊坂幸太郎『砂漠』
青春が炸裂している。
中学生時代にひたすら読んだ。三国志とダウンタウンの話で盛り上がった友人は、もうそのことを覚えていないだろう。
5 岡田秀文『本能寺六夜物語』
語りのプリズム。陰謀論のエンタメ化。背中が冷えながらも手と目は止まらなかった。
父が高倉健のファンで、その影響を受けた僕は読書感想文の題材として採用した。冬の冷たさ、人情とドラマ、心は静かに感傷的に燃えた。
読書家だった父の影響から読んだ。いつかこのような大人になれたらいいなと思ったが、僕にとってよくも悪くも「父の二重性」を感じさせる本。
完璧な冒頭の入り乱れ方。鍾乳洞の描写の粘り気。
ナルシシズムと「絶対性」への美学が反転する狂いへの近さ。
10 立川談春『赤めだか』
立川談志のことを考える。そもそも「保守」とはラディカルを意味するのだろう。
11 七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』
一読しかしてないが、決して忘れられない。今後の人生で読み返すときはあるのだろうか。
12 麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』
本格ミステリの臨界点であり、隘路。この先はあるのか?
13 麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』
日本の新本格ミステリのシーンを振り返る際に『十角館の殺人』と並ぶような重要な一冊。作家たちの「実験」や「構築」を素朴に促したのではないか。
「探偵」のナルシシズムの急所を突いた青春における全能感の操り方。
「他者」や「距離」のことを考える。ときには「観光客」のような「ゆるさ」も大事であり、また「当事者」の「きつさ」も大切なのだろうが、そうではない可能性についてどうすればいいのだろうか。
16 法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』
「探偵」の内省は自己批評になり、この長さが必要な旅路に思える。
17 ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』
ラストに至るまでの雰囲気作り。小説の構築性に現実は容易く相対化される。
18 G・K・チェスタトン『木曜の男』
西部邁の著作でしばしば引用されるチェスタトンとの像の結びつきから想起されるであろう人間の多面性をみる喜劇。
19 エラリー・クイーン『第八の日』
神や真理を巡る〝エラリー・クイーン〟にとっては必要な一冊では。
20 エラリー・クイーン『十日間の不思議』
はたして神はいるのだろうか。
21 ウィリアム・ケント・クルーガー『ありふれた祈り』
僕のパズラー的なミステリ観にひびを入れた作品。謎解きではなく、死者と向き合うこと。
10代のとき好きな作家は?と訊かれた際には、森博嗣と殊能将之の名を挙げていた。
23 孔田多紀『立ち読み会会報誌』
同人誌を作りたいと思わしてくれた同人誌。ブログをはてなブログにしたのも孔田さんの影響。
「イメージ」や「想像力」の重要性を作家が語る際に、僕はどのような祈りに満ちた雄弁な言葉よりもこの作品にある「業」について考える。
自由なようにも思える空も不自由であり、言葉もまた不自由である。物語の重力。
26 朝井リョウ『何者』
就活中の友人に読ませたら、恨まれた。しかし、よくも悪くも朝井リョウはここから抜け出ていないのでは。
27 川内有緒『パリでメシを食う。』
友人にプレゼントした本のひとつ。実際に手を動かして「生活」に根差すということ。「生活」に手を加えていくこと。
28 吉村誠『お笑い芸人の言語学 テレビから読み解く「ことば」の空間』
バラエティを好んでみる僕としては「言葉」に鋭敏になることを決定づけられた本のひとつ。
29 てれびのスキマ『1989年のテレビっ子』
「テレビの終わり」はあるのだろうか。
える・ろこさんとやっていたおおたまラジオでも取り上げた。勝手に命名した「拝島問題」という「現実が充実していれば、物語に触れる意味を感じない」ことを指すが、「現実と虚構」における「賭け」とは「愛」に通底する。
31 オスカル・P・モレノ『バルセロナが最強なのは必然である』
サッカーのことをサッカーの「外の言葉」でサッカーについて考える批評の在り方。言葉は単一的ではない。
32 マルティ・パラルナウ『ペップ・グアルディオラ』
ペップ・グアルディオラ以降の現代サッカーの進化の凄まじさ。パンドラの箱を開けたのかもしれないが、その箱は「古典的」でもあった。
33 中村慎太郎『サポーターをめぐる冒険』
「現場」の劇的な面白さに触れ、僕はスタジアムに行く。
34 木村俊介『善き書店員』
よくも悪くも覚悟が決まった。
35 大江健三郎『叫び声』
文体のエネルギーと僕の身体感覚が確実に貫かれては溶け合い、「吐き気」を確認した。
36 サン=テグジュペリ『人間の土地』
何度読み返しても同じシーンで涙ぐむ。ああ人間。
37 サン=テグジュペリ『夜間飛行』
夜の闇、孤独に立ち向かう人間の仕事の高貴さ。それでも人間はたしかな手触りを求めて仕事をやっていくほかない。
38 宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』
緊張しながら読んでは読後に肩の力が抜け、社会の重力から少しは軽くなった。
39 さやわか『文学の読み方』
「文学」とは言語ゲーム的である。「歴史」の恣意性、主体の在り方についてただしく影響を受けた。
40 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』
「文学」の可能性をひらくのと同時に、「文学」に可能性をみていないからこそ描けた批評。
41 大塚英志『サブカルチャー文学論』
たとえば東浩紀の『ゲーム的リアリズム』が「文学」を信じていないからこそ書けたとするならば、大塚英志はまだ「文学」を信じているのだろうということが分かる。
42 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』
マンガ批評はこの先を描かなければならない。
43 橋本治『負けない力』
ジャーナリスティックに朝井リョウを読む人はこの本を読みましょう。
「橋本治は優しい」といわれるが、批評とは遠近法的倒錯にもとづく愛のようにも思えた。
45 プラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』
「自然に帰れ」というわけではなく、自己と文明と生活を内省する場所はどこにいてもすでに内なる「自然」か。
46 アンナ・カヴァン『氷』
小説の持つ圧迫感は世界に触れる緊張感。
47 ポール・オースター『幽霊たち』
構造を呼び込む「固有名」のマジックとパラノイアの折り畳み方。
ありふれた孤独を確認する度に、鴨長明がお経を唱えた「虚しさ」を想起する。
49 夏目漱石『それから』
大玉代助の「代助」は長井代助から。「花」の描写、匂いの官能性が気持ちいい。
50 夏目漱石『明暗』
江藤淳が「全体小説」として褒めた点を含め、心理と人間関係の高密度の結晶を抱えた立ち回り方の巧みさ。
51 夏目漱石『行人』
三角関係の炙り出し方、エゴイズムの暗い輝き。
52 柄谷行人『畏怖する人間』
存在論的位相と倫理的位相の構造的分裂に着目した柄谷の「構造」をみる力を経由した批評の描き方。
53 柄谷行人『探究Ⅰ』
「交通」や「他者」は僕の人生を決定づけた。
54 江藤淳『一族再会』
江藤淳を語るならば、この本を経由して欲しいとは思う。江藤の言葉と沈黙における「喪失」を想う。
55 江藤淳『成熟と喪失』
江藤淳とは「喪失」の人だろう。文芸批評における素材の引き付け方、恣意性、名づけという営為の藝と業。
「時空間」というモチーフの効かし方、引用のうまさが「散策」への潜り方に通底する。
57 平山周吉『江藤淳は甦える』
資料的価値の高さ。江藤淳について考えるうえでは外せない。
「対話」とはこうありたい。
「喪失」「欠落」にもとづいた江藤淳論。メタファーではなく、この先を描けるか。
60 村田沙耶香『消滅世界』
小説の豊かさなイメージのふくらみ。この情報量といかに勝負するか。
61 朴裕河『和解のために』
「他者」との「対話」は常に緊張感に引き裂かれるものだろう。そして、新たに話し合う。
62 野崎まど『2』
野崎まどの「天才」の描き方、説得力は言葉に支えられている。だから読む。
63 津村記久子『ポトスライムの舟』
言語空間の緻密さ。どこにも抜け出られないくらいの生活のたしかさ。でも、ここで生きていくしかない。
64 保坂和志『小説の自由』
65 保坂和志『小説の誕生』
66 保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』
よくも悪くも僕の小説観は保坂和志の影響を受けているのは事実だろう。叙述の純粋培養、ナラティブ、「私」をめぐる不確かさ。思い切った引用の長さ、リズムがすでに小説的。
67 保坂和志『未明の闘争』
言葉が言葉である限り、それをいかに脱臼してもなお言葉に囲われる。その円環。
江藤淳『成熟と喪失』からいかに離れるか。小説の保守性とラディカルさの響き合いを語っている。
69 小島信夫『美濃』
小説を壊してもなお再構築される小説の磁場とは、書いては読まれる永続的ともいえる運動の営為。
70 滝口悠生『愛と人生』
父は「寅さん」が好きだから、この小説を読ませたところピンと来なかったよう。言葉の遊離性、「現実と虚構」の遠近感が効果的ではない人にどのようなアプローチがあるのだろう。
71 古井由吉『仮往生伝試文』
生き直すようにして言葉の印象の立ち上がり方の円環。書く、読む、生きていく。だから、死をみつめる。
72 古井由吉『野川』
後期・古井由吉は同じような素材をいろいろな角度から語り直している。主体と記憶の曖昧さ、輪郭をなぞるように。そのささやかさが視覚的に支えられたわけではない、五感の稼働。
音楽的な文章というと思い出す。「生活」の時空間が滲み出ている。
どこまで小説の「語り」はひらかれるのだろう。ひらくとは閉じつつも、その局所を再帰的にみつめていく主体の在り方。
75 滝口悠生『長い一日』
現代日本文学の「私」のゆらぎ、時間のモチーフの一つの集大成。人は言葉を語りながら、どこか逸脱してしまう。そのズレの露呈。
76 堀江敏幸『河岸忘日抄』
秋冬に読み返す本。世界が白く目に映り、静かに聞こえる。
77 町屋良平『ほんのこども』
小説とは他者であるといえるが、書く、読むことの暴力について内省せざるを得ない。ずっと考えていくしかないのだろう。
78 岡真理『記憶/物語』
町屋良平『ほんのこども』とセットで読んで欲しい。「文学」が捉えるべき地平。
79 ジャック・デリダ『歓待について』
接客のとき、本気で考えている本のひとつ。かぼそい他者への倫理。
80 モーリス・ブランショ『最後の人/期待 忘却』
小説とは他者であり、言葉もまた他者である。だから豊かであり、ふくらむのだ。
81 湯浅博雄『応答する呼びかけ』
他者論を描く際に想起する。他者論とはつまり倫理の話であるが、人間にとってこの冗長さと語り直しが必要不可欠ではないか。
82 乗代雄介『旅する練習』
風景にみる言葉と沈黙。風景が語り得ない言葉を記憶と感情として静かに支えている。
83 李静和『つぶやきの政治思想』
人間が語る言葉の可能性。やはりどこか「文学」を信じたい気持ちにはなる。
84 福嶋亮大『らせん状想像力』
「文学史」が失効した平成の日本文学において、この先を描くことが「文学」と歴史への向き合い方になるだろう。
いま・ここという局所的な生の留め方。それだけがすべてのように錯覚してしまう人生の問題。
僕はまだ「海炭市」に行ったことはないが、「海炭市」を知っているとはいえる。
87 後藤明生『挟み撃ち』
人生に因果などないように、小説にも因果はない。そのような視野狭窄、主観や記憶の不確かさを挟撃する過程の旅もまた時空間である。
88 川村湊『言霊と他界』
富士谷御杖を知る契機となった本。「沈黙」をいかに打ち破るか、言葉の微弱な可能性を信じたい。
89 堀江敏幸『その姿の消し方』
文章の流れ方に身を浸す。この心地いいズレこそが他者を求める所以なのかもしれない。
90 嘉村磯多『業苦 崖の下』
書く「私」の粘り気をひたすらに読む感覚。刻まれた言葉を見逃すことはできない。
91 古東哲明『<在る>ことの不思議』
言葉と沈黙をめぐる問題は他者と倫理の話であるが、いわば「いかに生きるか」のような問いにも重なる。その実在感は疑えない。
言葉が絶えずズレているかもしれない悲喜劇。その不安=宙吊りに堪えるほかない人間と言葉の関係。
93 ミハイル・バフチン『小説の言葉』
小説をとおした<メタ言語学>への問題もいわば他者の問題である。その掴めなさ、抗えなさに言葉の重力と自由をみる。
94 田中小実昌『ポロポロ』
語ることの倫理を語ることで物語となる。語り手の記憶、印象の危うさから内省に踏み込むことで明確に言葉として輪郭を形成する小説という「場所」。
95 山本芳明『文学者はつくられる』
素朴に同人誌をやっていこうと思えた本。作品、批評、歴史、主体の緊張関係から抜け出ることはできない当然の事実。
歴史の継承は、いかに人は生きていくべきかという根源的な地に立つための問いにもなる。
運動的な名づけをすることが「文学」や「歴史」であるならば、意図的に名づけをしない「沈黙」という運動さえもまた似たような所作や業であり、語り直すことが唯一の輪郭を伴った倫理となる。
98 貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン』
17歳のとき、読んだ僕はぶっ壊れた。そして、誇張ではなく僕は僕になった。
他者や言葉について考えるときに離れることができないモチーフになってしまった。僕は『俺ガイル』をひとつの回路として、今後も「文学」を読んでいくことになるだろう。
100 俺ガイル研究会『レプリカvol.1』
念願の初同人誌。論じた「橋と交通と他者と」はこれまでの大玉代助の生き方であるとするならば、今後の課題はいかに他者を求めていくのか、という話にもなるか。今まで僕は「人間(他人)に興味ないですよね」と別々の方に3回言われたことがある。そんな僕が他者についてずっと考えているという意味では、僕もまたひとつの他者であるということが分かってきた。言葉そのものも同様に。そのままならなさと向き合っていくように、書いていくし、読んでいく。そして、人生はとりあえずのところ続いていくのだろう。