おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

言葉と図式をめぐって

2023年4月4日 火曜日。

天気、晴れ。春。

天気を記すことが日記たる所作であると、荒川洋治『日記をつける』や古井由吉の小説から教わった。当然のように天気に手を加えることはできない。書くことそのものは虚構である、と堀江敏幸は書いたが、その意味では天気を記すことだけは虚構にならないのかもしれない。

日記にはなにを書いてもいいし、なにを書かなくてもいい。ヤマシタトモコの『違国日記』にもあるように、そんな書くことの虚構性においての不自由さにある、言葉が言葉にならないような未熟さとひたすらに向き合うほかない言葉との戯れと沈黙。書くことができない言葉と出会う体験。なんとなしの「声」はあるのに言葉にならない限りにおいて、その瞬間に宿る不自由と自由に引き裂かれることで成り立つ主体としての選択を引き受けること。アイロニーを抱えながらも、僕らは言葉を紡いでいくほかない。書く瞬間はまさに頼りなく刻むもののようで。言葉は誰かに届かなければならないように。その瞬間を待ち望むことで言葉が活きるように。アイロニカルな沈黙は正しいのだとしても、言葉と言葉の行間を深く読み込んでくれる他者を期待したいとしても、沈黙の裂け目から言葉をせり出すようなかろうじて痕跡のなかでしか僕たちは呼吸ができないのだから。そこで言葉と出会い、呼び込んでしまうのだから。

 

天気。人為的なものではない自然の産物。その自然は日々の過ぎ去っていく時間を静かに刻み続け、いわば死者たちとともに、まるで無意識的な地層として折り重なることように「その日」を淡々としるし付ける。しるし付ける感覚さえもない。そんなありふれた、そして確かな「日々」を特別だとは思わない。超時間的な、歴史的な意味をつねに感じ取っているわけではない。折りたたまれた目に見えない時間の流れ。だからなのか、僕たちは時間を単線的なものとして捉えてしまう。当然のように繰り返されるであろう、となんの根拠もなく、僕たちは「今日」や「明日」を生きると信じ(はたして「信じる」行為という次元にでもあるのだろうか。そんな意識にさえのぼらないのではないか)、約束を交わしていく。約束! ああ約束とはなんと無根拠で頼りないのだろう。しかし約束をする時点で、僕たちはわずかな未来を指し示す態度をかろうじて共有することはできよう。そんな頼りなさ、か細さこそが約束という言葉にある温もりであり、他者に触れようとする温度なのかもしれない。微弱でしかこめられない確かさのようで、リアリティや手触りという言葉はサイズ感なのだろう。たとえば小説は「家族」を描いてきた。僕たちにおける実感のあるスケールの単位はよくも悪くも「家族」なのかもしれない。身近な他者の像として。それもあくまでも像でしかないのだが。

 

「言葉に引き裂かれて」、通称コトヒキ会という読書会をやっている。メンバーと『GRIDMAN UNIVERSE』を観に行った。映画についての詳しい感想は才華さんが書いてくれるだろう。

 

www.zaikakotoo.com

 

メタフィクションとは自己開示であり、一面的には「現実と虚構」を揺さぶる装置だとは思うものの、他方で作者の権威性を強化する。映画そのものは自己反省と自己言及の塊であった。いわば「私」の強化ともいえるだろうか。日本文学には「私小説」というジャンルがあるが、「私小説」もメタフィクショナルな側面を少なからず抱えている。井口時男が論じたように太宰治の二人称性がそうだろう。その身振りは、読者との共同性を培養しては「生き方」の素材をパフォーマティブに取り込む劇場的な図式があったといえる。現代でいえば、芸人やアイドルは人生の断面をさらすこと(リアリティ・ショー化)で成立するある種のグロテスクさがあるように、「私」を切り売りしていく。

ただ「私」とは何なのだろうか。「私」って、そんな頼りになるものなのだろうか。たとえば「私」と書く私は明らかにズレている。私は「私」なんて言わない。「僕」であるがゆえに、未だに背伸びした感覚もある。「公」を意識した手つきに思える。そんな身振りを主語として置くことの嘘臭さそのものが、書くことの虚構性にもなり得るだろう。「私小説」にみられるズレを含んだ「私」の磁場こそが大きな反省につながっていく。その乱反射を含めた運動が「私」をなんとか形成していく。「私」語りが「物語」になっていくであろう、という剥き身。たとえば「血が出るような文体」。こんな紋切り型もそうであるように、言葉が血肉化しなければならないような素朴な文学観がある。言葉が空虚だから、そのアイロニーの現前化なのだろう。いかにして言葉に肉体的な感覚を与えうることができるだろうか、という問い。それは決して説明的な言葉ではない。あくまでも地に根差した肉体的な言葉を求めて、その過程なのだろう。言葉を振りかざすようにして、言葉に振り回されてしまう思考の感覚。その虚構性をいかに信じられるかどうか。

 

大江健三郎が死んだ。僕はたまたま昨年の秋から今にいたるまで大江健三郎を読み返していた。だから大江のことを考えてしまう。とりわけ大江の後期の作品が好きだ。明らかに「私小説」化していくものの、書くこと、読むことの歴史、宿命、業を引き受けては魂の救済を求める態度を示し続けた背中はあまりにも大きい。本を読むこと、文章を書くことの、孤独でありながら孤独ではない、死者をふくめた他者に支えられている言葉の在り方、言葉は自分のものではないことを問う他者の感覚の意味では古井由吉と重なり、それはきっとささやかな態度でしか示せない。しかし多くの小説、言葉の痕跡を書き続けることでしか書くこと、読むことの感動はわからないように、その姿でもって実践した大江の存在感は言葉をとおして魂の在り方、安らぎを考えていた。それは言葉で刻むことの業を巡るようにして。

『GRIDMAN UNIVERSE』を観ているとき、僕は大江健三郎のことを考えていた。メタフィクションという装置と自己反省。たとえば、世界の危機と恋愛の行方のようにバトルパートと日常パートの二極に引き裂かれながらも、キャラクターの掛け合いにみられる意図的な「生っぽさ」にあるような質感は言葉が言葉であるかぎりは「だらっと」するものであるが、それをすべて、つまり反省や説明の身振りを言葉で描くようにして刻むことはいまのところ小説が小説たる特権であり、映像媒体では説明的、「図式」的になってしまうのだろう。

 

僕は「図式」にこだわっている。霊感的な文章の読み、書きを江藤淳の文芸評論によくも悪くも影響を受けている。だから僕の文章は江藤淳が仮想敵になる。霊感がなければ文章を書けないし、「文学」を読めないと思う一方で、霊感が江藤淳的な陰謀論との結びつきの近さを如実に示していることは警戒しなければならない。

言葉の空虚さや曖昧さ、「印象」に引き寄せられてしまう人間の弱さとでもいうべきだろうか。「図式」や「修辞的」にならざるを得ないという意味で。

江藤淳の『成熟と喪失』や『自由と禁忌』にみられるような一面的な「図式」の整理は、あくまでも江藤個人の問題を被せたうえでの自己分析・自己開示に近いような擬似問題でしかない。もちろん、そんな「擬似問題」をある程度読ませるから江藤淳の文章は面白いところがある。一貫して他者という問題をどのように捉えるか、にこだわってきた江藤淳は同時に他者から反射する「私」をも描いてきた。その在り方が「戦後日本」と「私」を重ねた「擬似問題」なのだろう。

江藤淳の一面的な図式整理はいわば平面的でしかない。たとえば坪内祐三『「別れる理由」が気になって』の冒頭で、江藤淳の『成熟と喪失』における小島信夫の『抱擁家族』論を批判している。江藤の論は「図式」的でしかなく、小文字の他者に対して大文字の他者として過剰に捉えすぎており、江藤における個人的な問題を被せた擬似問題に過ぎないとみることができる。その意味で坪内祐三や倉数茂の指摘は正しい。

ただ、平面的であるからこそ江藤淳が「喪失」や「不在」について考えてしまうところに「擬似問題」を成立させるための「空間」=「余白」がある。危うい「深み」がある。個人的な問題を普遍的な問題につなげるための「芸」とでもいうべきところに、いわゆる文芸批評の快楽があると思うが、それゆえに思考のダイナミズムを「呼び込んでしまう」のではないか。ある意味では江藤淳の批評は霊感に支えられている。いわば批評おいて大文字の他者を導入・接続することで、読みの恣意性をマクロとしてつなげる「印象」や「象徴」はよくある手つきともいえる。その「呼び込み」の恣意性こそが「飛躍」であり、「賭け」なのだから。

しかし、なぜ人はそのように「図式」に引きずり込んでしまうのか、という反省は必要だろう。読むこと、書くことの反省がなければ容易に僕たちは複雑性に対して「単純化」を促してしまう。だけども、そのダイナミズムを支えるアンビバレントな霊感があるからこそ「芸」にもなり得て、「批評」や「考察」、そして陰謀論的な霊感と接近しては、批評における曖昧さを覗き見るような「飛躍」や「賭け」に通じていく。

「文学」への感応性の豊かさが江藤の文章にはある一方で、書くことを支えている個人的な問題、そして書くことの虚構性によって凝縮される平面性が「図式」的に見えてしまうきらいはある。

「図式」的なものへの距離感、忌避感がある。それが書くこと、読むことに対して「刻む」感覚となり、躊躇いにつながる。たとえば村田喜代子『飛族』や阿部和重アメリカの夜』も「図式」的に読めてしまう。整理されすぎている気配すら感じてしまう。いわば書きすぎているともいえるし、読者を信じていないともいえるのかもしれない。

ただ、二項対立のような「図式」をそもそも提出しなければ、描こうとしているそんな「淡い」さえも描けないとみることもできる。「図式」から逸脱するもの、零れ落ちるものを掬い取ろうとする問いの設定が「文学」である(しかし、それを「文学」として名づけた時点でさらに零れる永続的な運動だろう)と一応はいうことができるならば、「淡い」を調和する語りによって留めていた「図式」の線引きをかろうじて痕跡化してしまうようなものを期待するが(そんな行間を読み込んでくれる他者を)、しかしそれすらも「淡い」のような「だらっとした生っぽさ」とでもいうべきだろうか。この先には、読み、書きの感覚を徹底して描くことに努めている保坂和志的な小説観に回収される隘路がすぐみえる。

保坂和志の小説観にある「小説とは何か?」を問うような、「小説が小説たる所以」にはよくも悪くも僕も影響を受けている。小説とは「小説であることの説明できなさ」のような読むことの現前性、時空間の運動の提出、語りの多義性・重層性による主観的な体験に宿るとする「だらっとした」さま。小説とは「運動」にしかないとみるのは、いささかハイコンテクストな器になっては閉じてしまう危機感は一方ではある。

既に矢野利裕が現代文学における「物語・主題の欠落」を指摘している。他方で語り口の複雑性、重層性にこそ「文学」の所作があり、虚実に紛れ込ませるような佇まい、つまり「虚構」であるからこそ「真実」を語ることができるといった文学観に素朴に共鳴してしまうような糸口の頼りなさを信じたい気持ちもある。その絡み合いにあるような、か細さこそが読むこと、書くことにおける微弱に明滅してしまう態度のように。

言葉はその意味ではおおいにアイロニーを含み得るし、それゆえに可能な語り口は成立する一方で、言葉は当然裏切るようにしてズレていくことを確認しては「図式」的に、「修辞的」に映らざるを得ない徒労感を覚える。そんなアイロニーを切り離すことができない。

しかし僕としては「図式」に囚われてしまう、捉えてしまうことの弱さにこだわりたい。

江藤淳由良君美に「印象批評」として批判された。しかし、なぜそのように「印象」が立ち上がってしまうのか、「図式」を読み込んでしまうのか、という問いが重要に思える。言葉は印象を抱えている。いくつかの像を内包している。常に印象として読みながら、書きながら反省の痕跡を一時的に留めていかなければならない。それでも結局は「修辞的」に「図式」を振り回すことになり、「象徴」を読み込んでしまうのだろう。思考の飛躍、直結性、いわば霊感は常に付き纏うものであり、そうでなければ「文学」は読めないとは思うが、危険性を常に含んでいる思考の両義性、曖昧さになるだろう。それ自体が言葉が言葉である限りの反省ともいえる。

小説にある言葉とは、書かれた言葉の物質性の痕跡を読者が読むことでかろうじて成立する時空間とみてみよう。そんな曖昧で「だらっと」した感覚はまさに保坂和志が論じた「小説が小説たる所以とは必然的に小説のような小説論」のハイコンテクストな装置となっては閉じていくのだろう。密かに閉じていく微かに支えているたしかなサイズ感、手触りこそが「もっともらしさ」になってしまうように、その「内部と外部」と分け、重層的な語りを引き起こそうとする運動的な差異こそが言葉であり、小説でもあると記すときも、同じように思考がぐるぐると運動するほかない「だらっと」したこんな文章になってしまう。

「図式」から距離を置きたいと願うものの、結局は「図式」と「だらっと」したものを振りかざすことでしか書けない言葉に引き裂かれながら。

だから、この文章は日記でしかない。