未完全集

大玉代助、1991年生まれ、高卒。

未完全集⑩

素描17

鈴木一平『教育装置のある生活――新しい生活(表現)様式としての「日記」』から引用していく。

書き手自身の内面とテキストのあいだの結びつきを前提としているということだ。言い換えれば、日記はみずからの構成要素に自叙伝的なものを含んでおり、それなしでは単に日記の体裁を取った表現として他のジャンルに吸収されてしまいかねない。

鈴木一平『新しい生活(表現)様式としての「日記」』、p.6

私小説、自叙伝、日記の問題として取り出せるものが、ここにある。「私」の濃度について、保坂和志は『小説の自由』で触れていた。「私を見ろ!」という主張が強いのが私小説であり、かならずしも現実の素材やモデルを使用しているからイコールで私小説にはならない、と斥けていたのが保坂だった。では、日記はどうか。日記に「私を見ろ!」という濃度があまり強くない気がする。日記そのものの流通、形式に纏わりつくイメージによる。あくまでも「私」は記録している。もちろん、その濃度に濃淡はあっても、「私を見ろ!」よりも「私は見る!」のが強い。ここに人称の操作、つまり視点の位置にもとづいた叙述の設計が関わってくる。この要素をいじる、調整するのが言語表現の技術になっており、「書き手自身の内面とテキストのあいだの結びつきを前提」しなくてもよいものとなっていく。語り手、キャラクター、カメラの置き方。

 

ポール・ド・マンは「摩損としての自叙伝」において、自叙伝と呼ばれる表現ジャンルを《主流の文学ジャンルの正統的位階》(八七項)に位置づけたり、そのために自叙伝を定義化しようと試みたりする際の不毛さについて述べている。(中略)急いで付け加えれば、それはすべての自叙伝がフィクショナルな要素を含んでいる、ということを意味しない(とはいえ、すべてが真実であるような自叙伝は当然ながら存在しない)。そうではなく、自叙伝とそうでないテキストとの区別を可能にする歴史的事実がテキストの外部に存在している(はず)であるという前提こそがここでは疑われているのだ。

鈴木一平『新しい生活(表現)様式としての「日記」』、p.6

あたかも歴史的事実=外部というメタデータ性が、テキストを読むことでしぜんと召喚される不思議、その疑いの話。テキストは自叙伝にかかわらず、フィクショナルな要素をふくんでいる。書くこと自体が、フィクショナルなものだ。素描12で触れた、「本当の事を云おうか」や告白とする身振りでしか、「云」えない、書けないものがある時点で、それはフィクションとして成立している。やはり、その身振りは、歴史的事実=外部を、あたかもテキストの内部に織り込むようにするものだ。その手つき自体がフィクショナルなものとしてある。

 

未完全集⑧ - 未完全集

それは書くという行為を経て事後的に変化するのではなく、特定の表現のフォーマットを土台として書こうとする過程、つまり実際に書くことを意図し行為に移そうとする手つきのなかですでに始まっている。書くという行為のただなかにおいて、私たちは具体的に選ばれる言語との関係、具体的に選ばれる表現ジャンルと関わりながら、みずからの思考を変形させていくのだ。

鈴木一平『新しい生活(表現)様式としての「日記」』、p.10

書く行為とフォーマットの連動が、鈴木一平によって指摘されている。別稿での鈴木による鷲田清一の「折々のことば」論もそうだったが、書き手は形式、流通に密接に関わりあうことで「みずからの思考を変形させていく」。日記という形式にかぎらず、多かれ少なかれジャンルに束縛される。福尾匠が、「批評は自由な散文」としたら、富田ララフネは「小説が自由な散文」としたように、それぞれが形式のなかで「みずからの思考を変形させていく」過程で自由を求め、逸脱を試みている。その踊りが成立するのは、やはり形式上にある程度許容されうるもので、いかに動き続けられるか、という話におもえる。

日記とは「実在する書き手の生」を(標準的な身体を持つようなかたちで)補填し、テキストに癒着させる表現であるとともに、それによって書き手自身の経験や環境とおもわれる何事かが記述の周囲に動員されていくような読みを読み手に強いることになる。そうした事態はド・マンが《読みや理解の比喩》と位置づけたところの自叙伝の問題と呼応しているだろう。

鈴木一平『新しい生活(表現)様式としての「日記」』、p.13

鈴木が記した「何事かが記述の周囲に動員されていくような読みを読み手に強いること」は、テキストの外部にあるメタデータ性の話につながっていく。それ自体が「私」と環境ともいうべきものだろう。思い出そう。山本浩貴が示す「人体という喩」は、このテキストの外部に位置するメタデータ性としてある「人体」の使い方の話だったはずだ。私が素描9で記したものを引用する。

未完全集⑤ - 未完全集

山本さんが記した、「人に歴史がある、深みがあると感じられてしまうこと自体が、老いの重要な面であり、表面にリテラルにあらわれない何かを感じてしまう、その圧こそが、人体が表現において果たす機能の核にある。」という文章に関連しながら、私はハイデガーの『存在と時間』にガツンと食らってしまったのだとおもう。存在の時間性の話、存在そのものが語られる方法、技術、その語り口にある歴史、根拠といったものになる。そのような人体、いや存在が「喩」として機能することが表現、制作の身振りであり、思考が触発され、応答されていく連鎖、文化になっていくための「圧」が、とりあえず限定的な形式になってしまうにしても本にはある。それだけの分量を抱え込むのは、結局は本よりも、メタデータとしての人体、存在になるが、その存在を一時的に担保できるものとしての本。

はたして、これらのテキストはどうか。「未完全集」と名付けられたいくつかの素描のレッスンは。これはけっして日記ではない。あくまでも「メモ以上日記未満」というコンセプトで、作品にもなりえない。書き手の私自身の「内面とテキストのあいだの結びつき」はある。ド・マンを参照した鈴木のテキストを引用した、いまでは、これらのテキストは自叙伝的になるし、なってしまうだろう。そういう意味では私は、「私」をモデルとしてひたすらに消費している。この気味悪さはなんなのだろう。なぜ、「自由な散文」を求めながらも、「私」の濃度に回帰してしまうような気分のことだ。おそらく、自叙伝にかぎらず、書くことにあるフィクショナルなもののいやらしさは、ここだ。暴力と倫理の話になってしまうこと。