おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

読書

言葉は言葉でしかなく

2023年4月8日 土曜日。 天気 曇り。 「言葉に引き裂かれて」、通称コトヒキ会で鑑賞した『グリッドマン ユニバース』について才華さんが素敵な文章を書いた。 www.zaikakotoo.com さらに、補足として才華さんがツイートした内容が僕には刺さった。この日記は…

言葉と図式をめぐって

2023年4月4日 火曜日。 天気、晴れ。春。 天気を記すことが日記たる所作であると、荒川洋治『日記をつける』や古井由吉の小説から教わった。当然のように天気に手を加えることはできない。書くことそのものは虚構である、と堀江敏幸は書いたが、その意味では…

大玉代助を作った100冊

りこさん(@pistolstar_1742)がやっているのを拝見してやってみたくなった。 happyend-prologue.hatenablog.com 正直、100冊を選ぶのは苦心した。読書をしているわりにはそれほど影響を受けていないのかもしれないと感じるくらいには。 しかし、ここに挙げ…

「『俺ガイル』は文学」について

「『俺ガイル』は文学である」という言葉を考えて『俺ガイル』論を書いてきた気がする。今思えば、そのように考える、考えるほかない読者に向けて、僕は『俺ガイル』についての文章を書いたのだろう。 note.com futbolman.hatenablog.com 今度の12月31日コミ…

「本物」ってなに――『俺ガイル』ノート

『俺ガイル』9巻で「本物が欲しい」と告白する比企谷八幡。 「本物」とは何なのだろうか。 『俺ガイル』に触れてきたことがある人をいくらか悩ませてきた「本物」。 これまで俺ガイル研究会の人たちと議論を重ねてきた結果、「本物」とは否定神学的である! …

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(17)

これまで続いてきたこの『俺ガイル』試論もまとめに入るときがきました。 『俺ガイル』とはどんな作品だったのでしょうか。その問いをみつめていきましょう。 前島賢が朝日新聞で連載していた書評では、『「残念」なキャラクターたちの部活もの』という紹介…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(16)

14巻の冒頭では「たった一言。たった、一言伝えるだけなのに、随分と長い時間を掛けてしまった」と雪ノ下雪乃の独白があるように、個々人がもどかしく「たった一言」で言い表せない言葉のアポリアに終始執着してきたのが後期『俺ガイル』といえるでしょうか…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(15)

13巻の冒頭、プロム企画に問題が発生します。プロム自体が問題視されているように、「大人」の意見として「正しさ」が横行しています。あるいは多数派によって決定される同調性、「空気」の可視化とでもいうべきでしょう。「空気を読む」ことの裏返しには集…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(14)

「本物」を選ぶことで生じる純粋な想いに相反するかのように、潜む欺瞞的な歪みや非対称的な暴力性に目を瞑ることは、「先送りの病」=モラトリアムに回収されてしまう恐れがあります。「モラトリアム」とロマン主義的な心性は、対置的な意味での後期が抱え…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(13)

11巻はバレンタインイベントを中心に、チョコのように甘い空間とビターであろう「違和感」について両義的に描写されていき、コミュニティの問題として他者との関係性と「私」の主体性を巡るものとなっていきます。 あの教室の、あの場所が暖かそうだったのは…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(12)

10巻では半匿名的ともいえる「手記」が三度挿入されており、太宰治の『人間失格』などについて触れられています。「手記」は重要であるがゆえに都合上、「手記」にある太宰治への距離感や「文学」については後述します。 9巻の「本物が欲しいという告白」と…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(11)

8巻で「まちがい」彷徨した行方の「守りたかった日常」は、9巻では「空虚な時間」として記されています。8巻が7巻の「まちがい」によるディスコミュニケーション的空間であったとするならば、9巻では8巻の関係性を「空虚」に、それこそ「形式的」に取り繕っ…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(10)

8巻では修学旅行後の決定的に「まちがえて変化した」日常が描かれていきます。物語として6巻のようなある種の「成功」という反復を許さないようにして、そこからの「前進」の自覚(「他者を知る」こと)を欠いた「まちがった」反復的構造に陥ったことを示す…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(9)

「他者を知る」までが前期の条件とするならば、7巻は他者との距離感の変化から外界を経由した自己(否定)の発見といえます。 7巻では6巻の相模南の件から、変化として存在を悪い意味で認識されて衆目に晒される比企谷八幡の居心地の悪さが描かれています。6…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(8)

これまで見てきましたが、6巻までに比企谷八幡の独我論的な潔癖的倫理観は、自己肯定から自己嫌悪への反転を促しました。この転化はある意味では前期の集大成ともいえるし、後期の「まちがう」構造的反復性の起点になるのが6巻である、その目安ともいえるで…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(7)

5巻では、比企谷八幡が相対的な「他者」と触れ合いながら孤独の肯定を反復的に行い、そして潔癖的倫理観が独我論とイコールである、と平塚静に指摘されることが印象的です。これまでの「潔癖」は5巻から引用してきたものでしたが、その「一人性」を正確に突…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(6)

4巻冒頭では、夏目漱石の描いた「淋しさ」を「個人化」と読み解き、敷衍するようにしてぼっちの肯定をします。ぼっちを肯定すること自体は、これまで見てきた通りに反復的と言っていいでしょう。孤独は「個人の精神性」を表し、文学的に内面としての「淋しさ…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(5)

高校2年生の一年間を丸々と描いたのが『俺ガイル』になりますが、もちろん高校生活は語られないだけでそれ以降の3年生、あるいはそれ以前の時間(1年生)があるにも関わらず、なぜ2年生という一年に物語を集約したのかはメタ的に読むならば、1年生時の比企谷…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(4)

依然として、3巻でも「変わらなさ」の象徴のように孤独を自己肯定する反復があります。一人ぼっちに対するイメージの打破、それ故の「他者」との衝突。過去の自分を引き合いにアイロニカルに「ネタ」にすることで自己防衛する比企谷八幡と、「他者」としての…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(3)

2巻では川崎沙希の登場もあり、ヒロイン候補の拡張が行われていきます。作中のハーレム展開=マルチヒロインとするならば、1巻から登場している戸塚彩加が本編中でもネタ的にジェンダーに配慮した「ヒロイン化」の描写があり、平塚静も同様にエイジズムに対…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2)

青春とは嘘であり、悪である。 1巻の冒頭にある比企谷八幡の自覚的なアイロニーは「青春」が醸し出してしまう欺瞞に込められています。「青春フィルター」を介することで、自己陶酔と自己欺瞞を正当化するリア充たちは「嘘であり、悪」であるから「正しく」…

さやわか『僕たちのゲーム史』感想 僕たち・歴史・未来

予め断っておくと、僕はゲームに詳しくない。 最後にプレイしたゲームはPS2の『バイオ4』になると思います。それくらいにはゲームに執着があるわけでもないし、自分の可処分時間をゲームに充てるという生活サイクルではありませんから、本書に出てきた固有名…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(1)

いわゆる「文学」とコミックやアニメといったサブカルチャーとしてくくられる領域の接近や作家の創作スタイルの類似、もしくは作者自身のジャンル間の移動として受けとめられがちであり、ぼくもまた一方ではそのような側面に必要があれば言及してきた。けれ…

吐き気という身体性の発露--ブログを書く理由

あけましておめでとうございます。 2010年代の総括という名の私的な記事がちらほらと目に留まるようになりました。もちろん、私的であろうが主観的に記録として残すことは大事な営為であることには違いありません。 むしろ2020年代は「コレだ!」的なイデオ…

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』4巻 漱石『こころ』から鋳型に入れたような性悪説と性善説への留保

夏目漱石の『こころ』に関する比企谷八幡の読書感想文が4巻では象徴的な意味を持っています。 彼にとって『こころ』は人間不信の物語であり、ハッピーエンドを否定していると読み解けている。ただそこには人が個人として抱かざるを得ない孤独があり、それを…

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』3巻 すれ違い・客観性・自意識の保守性

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。3 (ガガガ文庫) 作者:渡航 発売日: 2012/11/02 メディア: Kindle版 孤高こそ最強である。 これまでのようにボッチの正当化の反復が見られます。つながりは弱さを生むものであり、即ち孤高である自分は強いとする2巻…

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』2巻 非同期的な不完全的なコミュニケーションの始まり

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。2 (ガガガ文庫) 作者:渡航 発売日: 2012/11/02 メディア: Kindle版 ボッチであることを正当化する内省は、比企谷八幡自身の矜持のように描かれています。 群れることを弱い草食動物のように例え、逆説的に孤高であ…

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』1巻 「まちがっている」ことで始まる二項対立のカウンターと反復的な温存性

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫) 作者:渡航 発売日: 2012/11/02 メディア: Kindle版 青春とは嘘であり、悪である。 この一文から作品は始まります。 「青春フィルター」というバイアスは、比企谷八幡曰く全てを正当化するために「青…

山崎亮『コミュニティデザインの時代』を問う 公共性と「活動」の再編

futbolman.hatenablog.com 本稿は上の文章の延長にあるので、まずはそちらを参照していただきたい。 取り上げた山崎亮の本に対して、私はハンナ・アーレント的であると最終的には位置づけた。不透明になった公共性と「私」と「公」を結ぶ中間領域(つながり…

山崎亮『コミュニティデザインの時代』感想 つながり、中間項、「活動」を求めて

コミュニティデザインの時代 - 自分たちで「まち」をつくる (中公新書) 作者:山崎 亮 出版社/メーカー: 中央公論新社 発売日: 2012/09/24 メディア: 新書 コミュニティデザインとは何だろうか。 最初にコミュニティデザインについて単語毎に分けて見ていく。…