おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

2021-01-01から1年間の記事一覧

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(14)

「本物」を選ぶことで生じる純粋な想いに相反するかのように、潜む欺瞞的な歪みや非対称的な暴力性に目を瞑ることは、「先送りの病」=モラトリアムに回収されてしまう恐れがあります。「モラトリアム」とロマン主義的な心性は、対置的な意味での後期が抱え…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(13)

11巻はバレンタインイベントを中心に、チョコのように甘い空間とビターであろう「違和感」について両義的に描写されていき、コミュニティの問題として他者との関係性と「私」の主体性を巡るものとなっていきます。 あの教室の、あの場所が暖かそうだったのは…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(12)

10巻では半匿名的ともいえる「手記」が三度挿入されており、太宰治の『人間失格』などについて触れられています。「手記」は重要であるがゆえに都合上、「手記」にある太宰治への距離感や「文学」については後述します。 9巻の「本物が欲しいという告白」と…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(11)

8巻で「まちがい」彷徨した行方の「守りたかった日常」は、9巻では「空虚な時間」として記されています。8巻が7巻の「まちがい」によるディスコミュニケーション的空間であったとするならば、9巻では8巻の関係性を「空虚」に、それこそ「形式的」に取り繕っ…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(10)

8巻では修学旅行後の決定的に「まちがえて変化した」日常が描かれていきます。物語として6巻のようなある種の「成功」という反復を許さないようにして、そこからの「前進」の自覚(「他者を知る」こと)を欠いた「まちがった」反復的構造に陥ったことを示す…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(9)

「他者を知る」までが前期の条件とするならば、7巻は他者との距離感の変化から外界を経由した自己(否定)の発見といえます。 7巻では6巻の相模南の件から、変化として存在を悪い意味で認識されて衆目に晒される比企谷八幡の居心地の悪さが描かれています。6…

『俺ガイル』・小休止・メモ

先日、『俺ガイル』連載シリーズの前期(1巻~6巻分)が終了しました。 futbolman.hatenablog.com 前期と後期に分けているのは僕の都合でしかありませんが、こんなに長いのに変わらず付き合っていただいている読者のあなたの存在で僕は救われています。本当…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(8)

これまで見てきましたが、6巻までに比企谷八幡の独我論的な潔癖的倫理観は、自己肯定から自己嫌悪への反転を促しました。この転化はある意味では前期の集大成ともいえるし、後期の「まちがう」構造的反復性の起点になるのが6巻である、その目安ともいえるで…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(7)

5巻では、比企谷八幡が相対的な「他者」と触れ合いながら孤独の肯定を反復的に行い、そして潔癖的倫理観が独我論とイコールである、と平塚静に指摘されることが印象的です。これまでの「潔癖」は5巻から引用してきたものでしたが、その「一人性」を正確に突…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(6)

4巻冒頭では、夏目漱石の描いた「淋しさ」を「個人化」と読み解き、敷衍するようにしてぼっちの肯定をします。ぼっちを肯定すること自体は、これまで見てきた通りに反復的と言っていいでしょう。孤独は「個人の精神性」を表し、文学的に内面としての「淋しさ…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(5)

高校2年生の一年間を丸々と描いたのが『俺ガイル』になりますが、もちろん高校生活は語られないだけでそれ以降の3年生、あるいはそれ以前の時間(1年生)があるにも関わらず、なぜ2年生という一年に物語を集約したのかはメタ的に読むならば、1年生時の比企谷…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(4)

依然として、3巻でも「変わらなさ」の象徴のように孤独を自己肯定する反復があります。一人ぼっちに対するイメージの打破、それ故の「他者」との衝突。過去の自分を引き合いにアイロニカルに「ネタ」にすることで自己防衛する比企谷八幡と、「他者」としての…

批評と私

僕に「批評」は書けない。だから、僕は「批評」に憧れている。 これまで書いてきた記事は少なくとも「批評」と呼べるものでもない。カテゴリは分からない。なんと呼ぶかは自由ですが、「批評」だと思ったことは一度もありません。 「批評」とは何か。 端的に…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(3)

2巻では川崎沙希の登場もあり、ヒロイン候補の拡張が行われていきます。作中のハーレム展開=マルチヒロインとするならば、1巻から登場している戸塚彩加が本編中でもネタ的にジェンダーに配慮した「ヒロイン化」の描写があり、平塚静も同様にエイジズムに対…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2)

青春とは嘘であり、悪である。 1巻の冒頭にある比企谷八幡の自覚的なアイロニーは「青春」が醸し出してしまう欺瞞に込められています。「青春フィルター」を介することで、自己陶酔と自己欺瞞を正当化するリア充たちは「嘘であり、悪」であるから「正しく」…

さやわか『僕たちのゲーム史』感想 僕たち・歴史・未来

予め断っておくと、僕はゲームに詳しくない。 最後にプレイしたゲームはPS2の『バイオ4』になると思います。それくらいにはゲームに執着があるわけでもないし、自分の可処分時間をゲームに充てるという生活サイクルではありませんから、本書に出てきた固有名…

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(1)

いわゆる「文学」とコミックやアニメといったサブカルチャーとしてくくられる領域の接近や作家の創作スタイルの類似、もしくは作者自身のジャンル間の移動として受けとめられがちであり、ぼくもまた一方ではそのような側面に必要があれば言及してきた。けれ…

『SSSS.GRIDMAN』 響裕太への批判・屈託のなさ

今、再放送を観ていますが、懐かしい。 その当時も、リアルタイムで観ていて色々語った記憶はありますし、それなりにインターネット上では盛り上がっていたはずではあったけども、今となっては宝多六花と新条アカネのWヒロインへのフェティシズム以外「人気…

吐き気という身体性の発露--ブログを書く理由

あけましておめでとうございます。 2010年代の総括という名の私的な記事がちらほらと目に留まるようになりました。もちろん、私的であろうが主観的に記録として残すことは大事な営為であることには違いありません。 むしろ2020年代は「コレだ!」的なイデオ…