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しまいには世の中が真っ赤になった。

『revisions リヴィジョンズ』感想 ハードな世界を生き残るには主人公であるべきなのか

谷口悟朗監督作『リヴィジョンズ』を観た。

 

よく出来た群像劇だと言えるのではないだろうか。

私は満足してしまった。

ここまで露悪的なキャラの造形と、それぞれの自立した故に相反する形の結晶化として目線が交差する一つの理想的な群像劇だったと考える。キャラの立ち位置を俯瞰で捉えながらも、運動させていたという意味においてバランスの良さが窺えた。

町口哲生のいう「ハード・サヴァイヴ系」に該当するのだろうけど、最終話では渋谷という社会と大人を完全に「外部」に置いて、超平和バスターズ的面々の5人の群像と、運命という名の因果律を一気に清算した構成であり、それぞれのキャラの目線と意思と、まさに超平和バスターズ的な絆を感じさせてくれた。

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

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正直、因果やタイムパラドックスの部分では、浅野慶作に荷を背負わせ過ぎな感じも否めない(まさに主人公的である)が、『魔法少女まどか☆マギカ』でいうまどか的に〝一身に引き受けていく〟のが浅野慶作であり、それはまさに主人公像そのものであるが、本作の主人公は間違いなく大介に違いないと言える。*1 

 

その堂嶋大介が、イキった安直な英雄願望から脱して、運命に裏切られて引き裂かれてもなお意志の力によってのみ転向していく事で主人公像を獲得していく超王道展開は熱い。その姿勢として、堂嶋大介はみなに承認され、つまり主人公としてみなを救い、そしてまた仲間たちに救われることでの共生関係を、最終話では大人や社会を外部に据えることで、5人の群像劇の帰結としてのドラマの絆を昇華してみせた。

私としては、これまで堂嶋大介からみる主人公像や11話の反転による主人公像への批評性について関心が高かった。

英雄願望のナルシズム君な堂嶋大介に、露骨にセリフで喋らせちゃうのというくらいに過剰な入れ込み具合が、まさに行き過ぎた正義は暴力に映る典型であり、学内の生徒らにテロリスト呼ばわりされてブチギレする主人公としての正しき〝錯覚した振る舞い〟があったり、それらは、みんなの正義の味方が高じてナルシズムの歪みが堂嶋大介であることを示している。

この辺の自意識って、どうしても『コードギアス』のルルーシュを思い出してしまう。どちらも谷口悟朗監督の作品である。誰にも承認されない・仮面を付けたルルーシュに対して、堂嶋大介は肉体として剥き出しに過剰に承認されたがっている欲望の権化でもあるけど、この振る舞いは未熟な自分をそのまま受け入れて欲しいという承認欲求可視化社会的でもあった。

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また、堂嶋大介の英雄願望と破滅願望が表裏一体であり、この状況下をどこか期待していた=ヒーローになるためには非日常性が必要だったわけであるが、渋谷という一都市の孤立・島宇宙化における亜種(リヴィジョンズ)との接触と戦闘の生存戦略はまさに格好のステージだったと言える。

そういう意味においても「運命」は堂嶋大介に微笑んだ形であった。

「ハード・サヴァイヴ系」としての極限状況という予測不能的に落とし込められている作劇上の都合で、主要人物や大衆が身勝手に描かれていたが、この状況下で秩序も倫理は無力化してしまう。脆弱なモラルは人々の安心を埋め合わせられるものではない。

それでもなお、ヒロイックな堂嶋大介の利己的なヒーロー活動が利他的に〝見えやすい状況〟にも関わらず、利己的に浮いてしまっているから物凄い魅力であるのだが、ナルシズムというのは「みんなのため」が免罪符として用意されていようが地の果てまでいっても利己的なナルシズムへの没入に過ぎないことを示している。

英雄になりたい事とは、同時に非日常的な破滅願望が付随しなければ、英雄になる機会は訪れないという意味において、いくら「みんなのため」と叫ぼうがそれを利他的と呼ぶのは難しいだろう。それを包み隠さず、「運命」の一言で処理して願っていた堂嶋大介という存在は、周りからすれば自分勝手で、他者としても転嫁しやすい対象ではあるには違いない。

しかし結果的に、その恩恵ともいえる自己評価と他者評価のズレが、堂嶋大介の英雄願望をより肥大化させるから、魅力的な自意識のスパイラルが形作られるわけである。

このような肉体的自己評価と精神的未成熟のギャップを補完するものとしてあるパペットの存在=ロボットの文脈は、未成熟な少年が自己実現のために、また社会的に承認されるための身体の拡張という「ロボットあるある」でしかないのだけど、ここまで積極的にロボットに乗る動機があると清々しい。ロボットに積極的に乗る意義がある堂嶋大介は、ロボットに乗せるだけの必然性を描く際には最もシンプルに機能するキャラだったと言える。

ここまで、堂嶋大介について彼是と書いてきたが、このイキリ主人公にライドするための流れを作った作劇が凄いなと素直に思っている。

露悪的であるが、魅力的でもあるという点で、堂嶋大介はまさにヒロイックであるのだけど、第11話のラストで明かされた主人公たる所以と資格を、これまで「運命」で処理してきた堂嶋大介が、その「運命」自体は錯覚であったことが突き付けられた。

それが意味するのは「運命」に引き裂かれることであり、堂嶋大介からみると主人公像そのものが剥奪されることである。

主人公的な振る舞いをしていた堂嶋大介は、あくまでも群像劇の一人に過ぎないことが描かれたのが第11話であった。

作劇としては、必然的に描かれていた「運命」に囚われた堂嶋大介が、自分の望んだ「運命」ではなかったという「運命」と直視することで意思の転向をする熱い展開があった。これはまさに主人公的であって、主人公は「運命」で決まるものではないし、条件でもないことを意味する。

作劇上では「運命」的=必然性を持ってキャラの造形と行く末を描くものであるから、偶然性の「運命」とは程遠い計算され尽くしてパッケージ化したものである。

堂嶋大介が目にした〝思っていた「運命」とは違うという「運命」〟もまた作中としては偶発的なものでありながらも、作劇としては必然的な結果=「運命」であったことが暴露される。*2

『リヴィジョンズ』では、堂嶋大介のモノローグが多用されているから主人公的に映り易く、一人称的であるのだけど、実態はよく出来た群像劇で、三人称がメインであるはずなのに「運命」への狂信的態度から堂嶋大介への没入させる〝作劇の意地の悪さ〟によって、第11話の主人公像を剥奪する反転が起きるショックさを、堂嶋大介と視聴者に与える効果が上手く働いている。

そして、浮かびがあるのは本当の主人公だったはずの浅野慶作という存在=「不在の中心」であった。

物語の便宜上、モノローグが多用されていた堂嶋大介は「偽物の主人公」であって、浅野慶作が「本当の主人公」の資格を有していたと明らかになり、堂嶋大介のいう「運命」は実に錯誤的なものであった。そうなると、作劇としては浅野慶作が主人公たる所以、つまり一人称的に映るはずなのに、浅野慶作はニコラスと同期してしまっているので、『リヴィジョンズ』の実態として機能している三人称的群像劇から、浅野慶作という存在は距離を置かざるを得ない。途中退場の件も相まって、これらは実にミスリードとして仕込みやすくなっていたと考えられる。

つまり堂嶋大介からしてみれば、誰よりも運命を信じ、運命を肯定し、結果的に免罪符を得ていたからこそ利己的に振る舞わざるを得なかった未熟な堂嶋大介への痛烈な皮肉になっている。

「主人公」が運命を、信念を持つことこそが像を結ぶファクターであるのは数多の作品が証明してきたものであるわけであり、その「運命」が実は錯誤的=偽物であった時に、主人公像は機能しないのかというと、実はそうではないことも本作は描いている。

さて、堂嶋大介からみえる主人公像について接近する前に、一つの寄り道をしたい。

私が実は『リヴィジョンズ』で一番印象的だったのは、最終話EDに流れた「渋谷帰還」についてのニュースに対して、細やかながらもネットの意見が散見したシーンである。このリアクションは実に正当であり、渋谷以外の大衆からすると渋谷集団ヒステリーにしか思えないのも当たり前だろう。

完全に『リヴィジョンズ』はディストピア・シュミレートな作品であり、大きい意味での「他者」による干渉と来たるべき未来の災害(作中ではパンデミック)への警鐘を鳴らしていると思うが、その際の混乱と統一された価値観が引っくり返ってなおどのように生存戦略を立てていくのかという混迷(イデオロギーの対立)を渋谷という街を隔離させたことで箱庭的に観察の対象として描いたわけだが、渋谷以外の大衆の表現行為であるネットの毀誉褒貶や罵詈雑言や確信性のない意見の羅列は当然のリアクションであり、まさに情報のパンデミックそのものであろう。

いくら声高に叫ぼうが、突拍子はないし、ファクトチェックも一般的な大衆に期待するのは無理な話に違いない。

ここで、思い浮かべるのはポスト・トゥルースである。

本作『リヴィジョンズ』が丁寧に描いた群像劇という点から解体すると、最終的には5人のお話として帰着したみせた構成であったが、別に彼らだけがキャラではなく、渋谷で生活するモブキャラという大衆も欠かせない要素であったと考える。

なぜなら「ハード・サヴァイヴ」としてのパニックを描くには必然的に「群衆心理」に力点が置かれるもので、渋谷以外の大衆性=完全な外部という意味では、ラストのネットのシーンは大事なものである。

例えば『コードギアス』だったら「ゼロ」というフェイクで大衆を騙すものであったのに対して、『リヴィジョンズ』ではポスト・トゥルース的に個々のファクトチェックが難しいレベルであるが、不確定ながらも未来で起こり得る出来事に対して「観測者」のポジションによって情報の確信性が左右されてしまうことでのジレンマと、情報をどこまで操作するかという大衆と「当事者性」の問題として、イデオロギーの対立図式から作中の大衆をどのように説得するものだったかと思う。*3

つまり、その「観測者」のポジションの有無やレベルの高低における情報の獲得性こそが、作中での渋谷の大人の葛藤であったし、渋谷を留めるためのリヴィジョンズ計画そのもの(「観測」していないと渋谷を留めることに至らないということは「観測」レベルが求められていることを意味するもの)であり、それらを目撃してきた渋谷の大衆、またラストのようにネットなどで渋谷の面々のニュースを知る「渋谷以外の大衆」とフェーズ毎に情報量の強度が異なる。

そして、堂嶋大介たちは作中ではまた知り得ていないが、ロンドンでも同様にリヴィジョンズ計画が実行されている不穏なニュースを知っているのは、ミロと、「渋谷」をずっと観測してきた視聴者のみと、ここでも「観測者」のポジションレベルの話になっていく。

この情報の解像度を如何に獲得するか。

そのためのポジションとは。

『リヴィジョンズ』は、渋谷を巡る思考実験的でよく機能していた作品だったと言えるのではないだろうか。

ここでもう一度、堂嶋大介からみえる「主人公像」の話に戻るとする。

ここで挙げたいキーワードは「観測者」と「当事者性」である。

主人公像の一つにある思想なき主人公像として自己犠牲精神が存在するが、それに対して、思想・願望があり過ぎて駄々漏れ主人公が堂嶋大介と言えるだろう。

 

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終物語 (上) (講談社BOX)

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つまり、コミットし過ぎると利己的に暴走する反面教師として、またその肥大化した自意識の成長物語が、堂嶋大介というフィルターを通したものであると考える。

主人公とはそもそも存在自体が教訓的であり、示唆的なものであるはずだけど、堂嶋大介というキャラは、数多の主人公像から過剰に英雄思考を抽出した結果、反転してしまった姿としてリアリティがある。

だからこそ、堂嶋大介のような過剰性を突き詰めると、逆説的にここまで露悪的な描かれ方をしていると考えられるだろう。

 

堂嶋大介は「運命」を盲目的に信じ、その時を待ち望む(カタストロフィ)ことでヒーロー像を獲得できることを期待していた。それは、その時が来たら「運命」を引き受ける覚悟があったということを夢想していたことを意味する。

「嫌だ!戦いたくない」という『エヴァ』の碇シンジ君とはまさに対称的な存在ではないだろうか。

宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』にある「引きこもっていたら殺される」に代表される「サヴァイヴ系」*4

 

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は戦わないと生き残れない思想の地続きにあるものとして、「俺が戦ってみんなを守ってやる思想」という正しきヒーローの思想が、正直に過剰に逸脱した盲目的態度が「代表性」になっていくまでを「運命」として処理してきてしまった堂嶋大介から窺えることだろう。

例えば『SSSS.GRIDMAN』の主人公・響裕太は、結果的にヒーローとしての使命感の「容れ物」として存在していたことが判明する。作中の響裕太はグリッドマンであって、「本物の響裕太」ではなかった。それが意味することは「本物の響裕太」は、作中で新条アカネではなく宝多六花が好きであるという唯一性を獲得していたためにグリッドマンになるための資格を有していたことであり、それは些細な日常の差異つまり違和が引き起こしたものであった。

なぜなら、作中の世界は新条アカネという創造主によって作り込まれたものであり、彼女にとって都合の良い世界であったためである。誰しもが新条アカネに好意を抱くのが必然的な世界において、唯一として「本物の響裕太」だけは細やかながらも抵抗という意識はなくとも日常の差異を獲得していたことが明らかになる。

しかし、ここで気を付けたいのは、「本物の響裕太」の感情は見えくるモチーフであるが、ヒーローにおける思想というものは見えてこないのが肝であることだ。

結局のところ、作中で「響裕太」というのは分からない。良い奴であることは友人代表の内海のセリフで証明されているが、宝多六花に好意を寄せている少年像でしかない。

つまり主人公=ヒーローの思想ありきではなく、響裕太が容れ物として機能したように、誰にでもグリッドマンのように門は開かれていることが意味されているわけであり、だからこそ内海は最後〝ビー玉〟を手に持っている。

重要なのは思想性がなくとも、特別なヒーローの条件がなくとも、主人公になれることが描かれたことである。

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主人公というのは物語における「当事者」であり、代表である。

もちろん、本作の主人公は堂嶋大介に他ならない。

「運命」を乗り越えるために意志の転向をしてみせた堂嶋大介の在り方は、まさに主人公そのものであったのだから。 

では、どのように主人公になっていくのか。

当事者になっていくのかが鍵になるだろう。

既に述べたように「観測者」と「当事者性」を獲得していく事は、ポスト・トゥルースと対応していく。

『リヴィジョンズ』のラストで描かれたネットの意見や渋谷の大衆をみてみても、ファクトチェックしていくには然るべきポジションが存在し、接近していくためにはどのように「当事者性」を獲得していくかという話になる。

主人公ではなかった堂嶋大介が主人公像を獲得していく過程には、過剰な思想性はあったにしても、ヒーローの条件や「運命」ではなかったことが証明された。

例えば「当事者性」から敢えて距離を置いたところに主人公を配置(「観測者」というポジション)し、その悲痛な叫びを描いた西加奈子『i』があるが、本作では「当事者性」というポジションをフルに回転させてコミットさせていく暴走の結果も描いており、どちらも極限の状況下=日常を食い破ってしまう程の非日常においては「当事者性」の有無関係なしに状況に飲み込まれてしまうことを意味している。

それは、代表性が無くとも「当事者性」は常に付随してまわり、日常的に組み込まれてしまっているわけでもあり、ポジションレベルに左右されていくものだからだ。

i(アイ)

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また、ポスト・トゥルースとしての思考実験的として渋谷を区切ることで外界と切断させたことは、その極限状況だからこその倫理観や秩序やファクトチェックの困難さという、特殊でありながらも相対的なポジション(観測の有無)を情報レベルとして反映してみせたと思う。

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終末少女 AXIA girls

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この渋谷を巡る集団的実験は、作劇的にはアーヴとリヴィジョンズの攻防自体が一つの実験であり、それをメタレベルで観る視聴者という「観測者」の存在と共に、実際は何が起きているのかという(作中のキャラは視聴者のようなメタとしての観測レベルを持つことは困難であるが)断片的で膨大な情報量をどのように獲得していくのかは「当事者性」と「観測位置」のレベルによるものである。

代表性の5人と一部の大人たち、当事者となった渋谷の大衆、最終話にあった渋谷以外の大衆、そしてメタとしての視聴者、と段階毎にポジションが組み込まれている。

つまり「当事者」という大衆の対称的な位置として、「傍観者」という大衆があり、また同時に「観測者」という大衆も存在する。「観測者」はポジションによって状況に反映し、「当事者」としてコミットできるが、「傍観者」にはそれが決してできない。

堂嶋大介らに代表される主人公に「傍観者」は含まれず、必ず何かしらの「当事者性」や「観測者」のポジションを獲得している。

この「ハード・サヴァイヴ」な世界に対してコミットするには「当事者」か「観測者」であることが求められるわけだ。

そうでなければ、このハードな世界を生き残れないことを示唆している。

堂嶋大介という反面教師的な存在は、自己評価と他者評価のズレという自意識の空転の怪物でもあり、コミットメントの暴走の象徴である。

しかし冷静に状況を受け止め、意志の力で、自意識の満たされない承認欲求を他者に転嫁してきたかつての己ではなく、ありのままの「運命」と自分を受け容れた堂嶋大介の転向から、主人公像への教訓という二重化がある。*5

誰にしも堂嶋大介のような一面はあり、かといって堂嶋大介のようになれと推奨されているわけでもない。少なからず露骨に描かれてきた堂嶋大介への嫌悪感は、視聴者と一定の距離を生んだことであろうし、それを乗り越えた上で堂嶋大介にライドさせる物語を描いたという点で製作者側の成功だったと言えるだろう。

第11話以降「運命」に囚われることが救いであり、それが証だった堂嶋大介は主人公像を剥奪された後に、正当な主人公像を踏襲してみせたことによって、極端な露悪的な仮初の主人公像から脱却し、王道的展開へと雪崩れ込んでみせた。それには自己の意志と相互作用的な他者性の恩恵があり、「運命」を頑なに信じ、正直にまた過剰に肯定していた堂嶋大介自身が、一つコミットメントに対して距離を置いてみることで、「運命」を受け容れる、否、「運命」を直視して抗い、乗り越えた姿勢つまりポジションは「当事者性」から「代表性」へという最大のコミットメント=獲得であり、皮肉な反面教師ではなく正当な訓示の一つだろう。

本来、主人公ではなかった堂嶋大介が主人公になっていくまでの獲得の物語という点において、誰でもが主人公になれるとし、誰もが主人公でもあると肯定している一面的な部分と、誰もが主人公ではないという部分の両義性を決して否定していないのは特徴的だ。

この要素は、朝井リョウスペードの3』が明らかなテーマとして描かれている。

スペードの3 (講談社文庫)

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この作品は、トランプゲームの「大富豪」をそのままモチーフにしている。作中の登場人物たちの力関係をトランプの絵札のように配置しているのが特徴的であり、最終話の「ダイヤのエース」では、これまで作中で連作的に描かれてきた、誰しもが憧れる主人公として君臨していた存在=スターが、実は他の視点からみると、その人自身の物語からしても絶対的な主人公ではなく、強烈な別の存在=主人公的によって脇役に据えられてきた事実が明らかになる。

つまり、他者からみて主人公的であったとしても、どれだけ華々しかろうが、評価のギャップが存在することを突き付けている。

端的にいえば『スペードの3』は主人公像との自意識の折り合いの話であり、『スペードの3』において描かれた、「自分の物語」というのはイコール主人公になりやすいバイアスが掛かるところを(連作短編という作品として描くことでの視点の多様性を各人物に配置することで誘発している)、敢えて裏切る、自分の人生であったとしても、絶対的な主人公になれない存在性を問題として浮かび上がらせている。

しかし、これは既に記したように『リヴィジョンズ』における堂嶋大介という「偽物の主人公」であった存在が、結果として超克してしまった形が答えになるだろう。

たとえ自分の人生であったとしても、「運命」としては主人公として定められていなかった堂嶋大介が、自分の力とそれぞれの絆で、「運命」を書き換えてみせた=当事者から主人公という代表性への昇華を果たした。

必然的に状況に対するポジションの度合いが、ハードな世界を生き抜いていくことでの処世術になることは間違いない。 

思えばゼロ年代前半の文化的感性には「セカイ系」や「サヴァイヴ系」のモチーフとなる「引きこもり」が象徴していた。

しかし、その形作られた「きみとぼく」のセカイというのは自閉的な安寧に過ぎず、2010年代には効力を失い、正直にコミットする姿勢が貫かれたと考えられるであろう。

結果的に本作品は、渋谷を隔離してみせることで渋谷の命運=世界の「運命」とし、「きみとぼく」以上の関係性と渋谷を巡る大人と社会と秩序を島宇宙化してみせることで描き切った。

ここに「中間項を挿むことなく」完結する自閉性は存在しない。

渋谷を意図的に独立させ、クローズドサークルのような物理的閉鎖状況に設定させることで、大きな社会という外部を縮小させている。この一社会のミニチュア的状況は、選ばれし少年少女たちの未成熟な身体性を拡張させるためのロボットと、社会的奉仕という接合点になる承認装置として十分に機能したのではないだろうか。

崩壊した世界に渋谷を転送することは、「壁」も何もない剥き出しの世界に一つの社会をそのまま温存することによって、新たな環境に適応しようとする人間とシステムの規定が行われることを意味する。それはつまり、既存のアイデンティティや帰属すべき対象の揺らぎが描かれ、それぞれの所有感をも脅かすものとなる。

全体的な不安や何かしらによる剥奪されてしまうのではないかという恐れを渋谷を切り取ることで、「壁」もない開放的で常に危険と隣り合わせな環境下で、人間がどのように社会を温存し、再構築していくのかという話になっていくので、「中間項」自体がミクロ化したままクローズアップされる。

であるにしても、渋谷にセカイの運命を乗っけるかのような試み自体は、確かに「中間項」を縮小生産したものであるために、結果的に「中間項」は最小規模になってしまっていて、「彼らの物語とセカイ」という自閉性は担保されているのではないかと指摘されかねないが、ラストシーンで明かされたように「リヴィジョンズ計画」は世界各地で同時発生しているという描かれ方をしているので、渋谷単一の出来事として捉える事は不可能になっている。

これが意味することは、確かな気分としてあるのは、どこにも逃げる場所は存在しないという閉塞感という現実のシビアさが広大にあることだ。

それはまさしく2010年代に蔓延する空気感、どうしても2011年が代表するであろう「ハード・サヴァイヴ」の系譜やポスト・トゥルース問題において、どのように戦っていくべきなのかを問うことである。

完全無欠の物凄いヒーローでもなければ、また「運命」に味方されているわけでもない大衆の極々一人に過ぎない私たちが、どのように直面していくべきなのか。

これまで私も、作り手に倣って堂嶋大介を「露悪」的に記してきたが、堂嶋大介自身は「悪」を一身に引き受けているわけでは決してなく、寧ろ「善」を行使しているという陶酔感に浸っていた。

しかし、カタストロフィと付随した利己的な英雄願望から脱却し、正直にコミットしていく過程で捉え直すことによって、タイトルにあるように〝revision〟してみせた堂嶋大介の「運命」の物語として素晴らしかったと思う。

*1:まどマギ』では、最終話まで傍観者の一人だったまどかが、宇宙法則を捻じ曲げるという超越した神に匹敵する概念として存在することを選択する超論理が展開されて昇華したものであるから、厳密にいうとまどかと浅野慶作とはスケールが違う。しかし、主人公像としてあたかも全部を背負い込んで引き受けた姿は共通的だと言えるのだろう。また両作ともに終末的ディストピアとしての世界観が共通しており、これは2010年代の空気を表していると考えられる。

*2:想定していた「運命」では浅野慶作が「本当の主人公」であったのに対して、堂嶋大介の過剰な振る舞いがそれを引き受けてしまったために「運命」という未来予測がズレたことは作中でも言及されている。

*3:区長と黒岩の対立が代表的である。そして、その結末もまた「ハード・サヴァイヴ」において混乱を極めることを象徴したものであった。

*4:町口哲生の提唱する「ハード・サヴァイブ系」は、この「サヴァイヴ系」の概念にハードな状況設定を組み込んだものであるから、2010年代のアップデートと捉えられる。

*5:第11話以前の堂嶋大介と、それ以後の堂嶋大介の存在性は前者では反面教師的であったものが、後者では正当に引っくり返った形として表れている。