2024年7月11日21時~7月13日12時までの断続的な生
これは日記。断片的な生の。細切れな時間の。
2024年7月11日~2024年7月13日に至るまでの、ひとまずの生存報告。
少なくとも、私たちはまだしぶとく生きているつもり。
アニメ批評について、『小市民シリーズ』の記事で書き切れなかったことを少し。あの記事は、ここ数年私が取り組んでいるアニメ批評のスタイルの集大成みたいなものではありました。つまり、画面を分析することで、内在的にも外在的にも読解や考察を重ねるというスタイルのひとつの完成形です。
— 才華 (@zaikakotoo) 2024年7月11日
でも才華さんのアニメ批評に対する一連の見解は疑問を感じた。アニメだから画面を見ようと画面を持ち上げるが、しかし実際に行ったのは画面のメタファーの分析で、画面そのものではない。僕はタイトルを見て、「線」そのものの分析を期待したが、結局「境界線」というメタファーの分析になっている。
— 紅茶泡海苔 (@fishersonic) 2024年7月12日
画面をもっと見ようという主張は近年結構流行っていて、私の周りも何人かいるが、しかしみんな揃って「画面のメタファー」の分析を行っている。なんでだろうなとずっと考えていたが、才華さんを見て少しわかった気がする。
— 紅茶泡海苔 (@fishersonic) 2024年7月12日
RT< 紅茶さんからコメントをいただき、逆に(?)かなり納得した。たしかにおっしゃる通りで、基本的に私は、画面から出発しているものの、内実としてははぼメタファー分析しかしていない。
— 才華 (@zaikakotoo) 2024年7月12日
もちろんこれは、アニメーションは即物的だから、その意味解釈をすべて拒絶するという意味ではない。そういう主張は例えば抽象アニメーションとか、ある種のモダリズムとして成立するが、しかしアニメ批評をやる人って、基本的に商業アニメを対象にするから、モダリズム的にいかないでしょう。 https://t.co/MfdfMgfEok
— 紅茶泡海苔 (@fishersonic) 2024年7月12日
もちろんこれは、アニメーションは即物的だから、その意味解釈をすべて拒絶するという意味ではない。そういう主張は例えば抽象アニメーションとか、ある種のモダリズムとして成立するが、しかしアニメ批評をやる人って、基本的に商業アニメを対象にするから、モダリズム的にいかないでしょう。 https://t.co/MfdfMgfEok
— 紅茶泡海苔 (@fishersonic) 2024年7月12日
もちろんこれは、アニメーションは即物的だから、その意味解釈をすべて拒絶するという意味ではない。そういう主張は例えば抽象アニメーションとか、ある種のモダリズムとして成立するが、しかしアニメ批評をやる人って、基本的に商業アニメを対象にするから、モダリズム的にいかないでしょう。 https://t.co/MfdfMgfEok
— 紅茶泡海苔 (@fishersonic) 2024年7月12日
RT< これもめちゃくちゃ分かる話で、ここで紅茶さんがおっしゃっていることの究極形は、「詩」だと思う。このやり方を、私は「言葉を引き裂く」という言い回しでこれまでも表現してきたけれど、むしろどこまで「引き裂か」ずに語れるかが肝になる。このやり方は私も模索中……
— 才華 (@zaikakotoo) 2024年7月12日
人文学研究をする中で教授からの「だから何(so what)」に応答し続けているから流石に学術における回答が先行研究へのコントリビューションである事は分かるわけですが他方そのものが後発の一次資料になる類の批評における回答は政治文化的価値判断(thesis)につきるのではないかって思いますね
— ケルビンヘルムホルツ不安定性 (@iroha7yuki168) 2024年7月11日
画面の即物性は分析にしかならないから「だから何」に陥るのではないんですか。モダニズムは無意識っていう潜在的「意味」に光を照らしたのであり物自体の話はしてないのではないですか。そもそも言語により物自体から意味を抽出するからこそコミュニケーションできるわけですよね。
— ケルビンヘルムホルツ不安定性 (@iroha7yuki168) 2024年7月12日
まずは、上記に貼ったリンク元の一連のツイート群を読んでみて欲しい。
才華さんによるアニメ「小市民」第1話への批評、それに対する紅茶泡海苔さんのもっともらしい疑問、それに応答していく形で議論や反省が活性化されては、ケルビンヘルムホルツ不安定性さんの指摘も眼前に飛び込んできたのが昨日(2024年7月12日)。
あなたはなにを思う?
私が考えたのは(考えている今もなお…)、テクスト=画面を捉えることはできるのか?というそもそもの問い、そして「だから、何?」に集約できよう。
この問いはつながっているし、まさに今月の読書会に向けて読んでいる山本浩貴(いぬのせなか座)『新たな距離』が鍵になる、と信じていると書いたほうがいいだろうか。たぶん、もう、そこからしか始めることができないし、始めたほうがひとまずよさそうだ。
才華さんは「社会反映論」と「画面を見る」ことを大別しては、外在的な語りと内在的な語りとした。
しかし、紅茶泡海苔さんからの指摘にあるように、才華さんが論じた「線」とはフィクショナルな境界線、メタファーであり、それ自体の「意味」が支えているものは「社会反映論」のものとさして変わらないのではないか、というもの。これは鋭い。意味が結局は素材ではない「線」に還元されてしまっている、ということ。才華さんが論じた「線」も、紅茶泡海苔さんが指摘した意味の「線」もフィクショナルなもの。
「線」そのもの素材ではなく、画面上にあらわれるメタファーとしての「線」。
それははたして「画面を見る」という「表層」を読むことになっているのだろうか、という問い。
ただ、注意が必要なのは才華さん自身も語り口の野暮ったさがあるからこそ、「小市民」記事の文章には探偵行為=批評行為への自己言及、「ジャンプ」があるのは見逃せないが、これも留保でしかないともいえるか。留保ってあった方がいいとは思うけども、しかしというべきか、このような「ジャンプ」が文章を支えるフィクショナルなものだとは思うけども。
いや、開き直ってしまえば書くこと自体が「線」なのだ。
「書く」行為はフィクショナルである。
だから、そのまま「嘘」というわけではない。そういう「物語」になってしまう、そうなるからこそ流通するのだ、という姿勢に近い。その意味の流通があるから、私たちは会話ができるし、私たちはとりあえず呼吸を開始できるのだ。そういうことを信じるところからはじめよう。
批評は物語である。
批評誌『応答』での拙論「さやわか論」で繰り返した書いた問題意識である。
とはいえ、そこでとどまっていたら「だから、何?」となる。
「だから、何?」とは、同人たちに私が課した思考の枷。普遍的ともいえる重力。
あらゆるコンテンツと呼ばれるものがたくさん論じられ、語られることで、それが一体どうなって、結局、わたしやあなたにとって「だから、何?」ということから抜け出ることを目指すための指針。
批評誌『応答』は「だから、何?」を自分たち自身に呪いのように課して作ったわけだが、個別にコンテンツを論じたところでなにもならなかったのが2010年代だったとみると(飽和して個別の大小というサイズ感でもって、そこそこのレベルで論じられるだけに過ぎなかった)、功罪あれども「ゼロ年代批評」と呼ばれるものが立ち上げた物語、でっちあげた歴史、フィクショナルな語りのようなものをいかにして再演できるか、という問い。
もちろん「ゼロ年代批評」を再演しなくてもいいという意見もあるだろう。ただ、それではなにも「面」にはならないし、厚みすらうまれない。歴史化、物語にならないという問題もある。
いかに「面」をでっちあげるか。
その問いは「だから、何?」という設定意識、批評誌『応答』で「応答」関係を結ぶことで少しでも寄与できるのではないか、という選択だった。
「だから、何?」に対する具体的な行動。そのコミュニケーションと時間。
『応答』以後の私も才華さんも「だから、何?」という呪いは依然としてある。あり続ける。そうでなければ『応答』を作った意味がない。それゆえに才華さんは「小市民」記事である種の「応答」をしたのだろう(探偵行為=批評行為における留保と自己言及がそれだ)。
ただ、これは決して才華さんへの擁護でもない。私にとっても紅茶泡海苔さんの指摘に頷くところは多々ある。
社会反映論をテクストの「奥」を読むとして、「画面を見る」をテクストの「表層」を読むとしても、はたして本当に「表層」を捉えることはできるのか。少なからず言葉で論じることで、「表層」にある微細な運動は言葉というフレームでもって零れ落ちてしまうのではないか。
そして「表層」を読むようにしても言葉で語ることで、テクストの「奥」を語ることと同じような「意味」に必然的に接近しては包摂されてしまうのではないか。
言葉がどうしてもメタファーを増幅させるからだろう。意味を縮減したり、増幅させたり。解釈がその都度加速してしまう。残響しているのは言葉をとおして解釈してしまう身体、この「私」がいるという当たり前の事実。「表層」に留まりきれずに逃れてしまう隙間が絶え間なくあること。
たとえば、保坂和志が小説を論じたさいに作り出したテクストの「手前側の生」という発見、そのリテラリズムの在処に、いぬのせなか座だけではなく私も影響を受けてきた。
テクストの「奥」、「表層」、「手前側」にある生が常にある。それぞれの度合いがある。厳密には区分けはできないのだろう。それぞれの度合いが、読む・書くさいに生としての出力のレベルが異なるだけかもしれない。
山本浩貴『新たな距離』はそれらを一元論的にまとめあげようとする「技術」の書であるが、常に既に肉体、「私」という残響、その演算としての在処があるからこそ、テクストとの交感を経て変身するようにして組み換えられていく身体、あるいはその後の人生、生き方としての、読んで、書いて、生きるという問いになっていく必然があった。それゆえ、というべきだろう。『新たな距離』は「私」や「あなた」の肉体を生と死から反復的に、あるいは強迫的に書いている。その厚みが「面」を作ろうとしている。物理的にも、抽象的にも。それが<アトリエ>。
リテラリズムとは「そのまま読む」こと、「真に受ける」ことである。
保坂和志は繰り返しメタファーとする読みを斥ける。その「読み」が私にとっては決定的に新しかった。本当に、そうであれたらどれだけか。どんなことか。カフカを読むことの経験を、「不条理」だとか「悪夢」だとか「官僚機構」や、『変身』を「介護小説」とする読みの退屈さがあって、それなら批評を読むより小説(素材)を読んだ方がいいじゃん、となる。そう、なってしまう。なぜなら、作品のほうがはるかに雄弁であり、多様にこだましているから。
解釈とは副産物的であり、メタファーである。メタファーになってしまう。そんな意味に紐づくようにして解釈する者としての「この私」という演算があり、時間と空間を巡り、記憶と印象がその都度立ち上がる、という物語だとして、だから「この私」しかない、とする批評の態度は分かる。
リテラリズムのように「そのまま読む」ことでメタファーを遠ざけて、「そのまま読む」ことのある種の信仰に憧れてしまうが、ただ、リテラリズムは可能なのか?というと、ひどく困難でしかない。
保坂和志は小説の全文を記憶することとしていたはずで(もちろん、そんなことは不可能だ)、また、それがかろうじて、途方もないコストと努力と誠実さで適ったとしても、それを言葉にする時点でメタファーが付き纏うだろう。
いわば保坂和志の小説についての信頼は、イヴァン・イリイチの『テクストのぶどう畑で』で記されていた「読み」への信仰につうじている。
そのままとは何なのだろう。
そのままって言えるのだろうか。そのまま書けるのだろうか。そのまま読めるのだろうか。
なるほど、リアリズムとは罪な言葉だ。アイロニーでしかない、と言い切りたい。
実際にそのままを書くことはできないし、そのままを「抽出」も「再現」もできない。リアリズムはアイロニーの線を引きずりながら持続しようとする微細な言語運動でしかないとしても、その不可能性を認識したうえで、それでも行おうとすること崇高なものなのだ、という意識も「なんだかなー」と思うことはある。「なんだかなー」はその日の気分に左右されるけど。「なんだかなー」と思うときもあるし、やっぱりそれしかないよね、と思うときもある。これ自体も「線」であるか。
だから、そのまま書くことができないからこそ「この私」がこのように見たという意味をも含めた「この私」が重要なのだ、という問いに回帰するのは宿命なのだと思う。
ただ、「私」とテクストは同一化はできない。テクストは他者だから、といってもいいだろう。絶え間なくズレがある。その余白、ズレは意味や解釈といったそのままの距離による。距離こそが言葉へのフレームを決定づける。もちろん、言葉にしても、いや言葉は言葉でしかないのだけども、単なる記号や恣意性であっても、それ以上の何かを対応させてしまうことが余白としての距離だとして、そのままの距離から抜け出ることはできるのだろうか。
いや、リテラリズムへの「信仰」があるにしても、テクストの、その手前側に位置する「私」というどうしようもない生の在り方にとって、そのフレームに対して「使える」ことがはるかに大事なのだ。
だから、リテラリズムにしても、「私」という読んで、書いて、生きることの態度としての「私」という「手前側」になる。「手前」という位置づけからして距離はあるのだ。その距離からしか、言葉に引き裂かれた「私」からしかはじまらない。
『新たな距離』にしても「この私」の肉体の交感・交換を徹底的に「奥」と「表層」と「手前側」にある「私」という生と肉体について、テクストとの関係から負荷をかけながら組み上げようとしていた。そんな作用を経た「技術」とは「だから、何?」に留まらないための実際的に使えるものになりうるために。
そう、私たちは『新たな距離』を使わないといけない。『新たな距離』をどのように「使う」かが重要なのだ。
本当は『新たな距離』読書会に向けた読書メモ・感想を書こうと思って、この日記を書き始めた。
しかし、当たり前のように思い直した。
いや、そういうものではないんだ。『新たな距離』を使わなければ、「応答」しなければ、この本に書かれていることを「読んだ」とは言えないのだ。「技術」として使わなければならない。読書会に向けた読書メモを公開して、「私はこのように読みました」として、それが「だから、何?」。
読書会という負荷を用意して、『新たな距離』から「新たな距離」を設えることがはるかに重要なのだ。
批評誌『応答』に書いた「さやわか論」の後に、私がまとまって書くことがあるとするならば、読者論・読書論・書店員論になるだろう。『新たな距離』を踏まえながら、徹底的に使いながら、言語表現としての読書、読む主体としての読者の「この私」と、地方都市で働くひとりの書店員としての実感から生活と制作と読書を組み合わせ、書く主体に重きを置かれてしまう制作論ではなく、私も含めて、たとえばブランショのように「書くことができない」者としてかろうじて書くこと。
結局、ブランショも『新たな距離』も「書く人」の話だと思った。読んで、書いて生きるからこその「転向」の話。それは表現に纏わるもの。読んで、書いてしまったからはじまるもの。「書ける人」たちの話。
しかし私は彼らのように書けないのだから、「読む人」に留まるほかない者として(劣等感とかそういうものではないし、優劣の問題でもない)、それを違う形で肯定する在り方を探りたい。結局はそれを表現すること自体が「書く」ことになってしまうジレンマはあるのだけども。また、言葉にする徒労感があるにしても、それでも言葉しかないという想いはあり、言葉によって「使える」ものになればいい。『新たな距離』というコストのある書物がそうであるようにして、「技術」としてひらかれているように(しかしその「技術」が選民的であるのも事実だろう)。
ただ、話したいのは可能性の話だ。大江健三郎や保坂和志を読んで影響を受けた山本浩貴たちにひどく共鳴しながらも、別の可能性を探りたい。「読む」とはそういう経験だろうし、小説とはひとまずはそういうものであるからだ(現在形で書く意思)。
だから、今日も読んでいく。「だから、何?」と断続的に囁きながらも、思索を巡るようにして読む。読むことに留まろうとしても、書いて表現することで、ズレてしまう距離も含めての「私」として。そんな言葉の身振りはダラダラしたものにしかならないのだろう。
2024年7月13日午前中の、そんな私のとりあえずの在り方。まとまらない記録。