2024年8月16日~2024年8月17日の記憶と志向性の在処
これもまた日記。
だらだらした散文。
2024年8月16日の21時30分から、俺ガイル研究会でジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』の読書会があった。
『火刑法廷』のラストの評価、ミステリにおける意義などのジャンル内の話をしたが、誤解を恐れずにいえば、私としては文学余技派、日常における通り過ぎてしまうような退屈しのぎという意味だけでは、つまりただの娯楽精神だけではすでに小説なる試みはしんどいだろうな、ということを日頃から小説が売れない現場にいる私は思ってしまう。
しかし、エンタメ小説に対して、いわゆる純文学を必要以上に持ち上げるわけでもなく(今更、純文学だけを高尚と考える文学オタクは素朴すぎるだろう)、そもそも純文学は売れないし、結局売れているのはエンタメ小説なのだけども、それよりもはるかに書店の現場では雑誌とコミックが売れないとどこもしんどいのは事実で、小説(文庫)はその次になる。例外はあるけど。
小説って何だろうと考える。
どうしたら小説なる試みをつなげていくことができるか。
書店員のひとりとして考える。
結局は読者の肉体を、感触を、人生さえも組み換えてしまう出来事としての小説を待望するほかないのではないか。
もちろん、ただの暇つぶしでもいい。余暇時間のひとつでもいい。趣味のひとつでもいい。
しかし、それだけでは、もう、小説って圧倒的に不足しているのでないか。
もはや小説のみならず、本を読むという営み自体がマイナーである現状、ただし、はてなブックマークやツイッターでは読書・書店関連の話は定期的に話題になっているように見受けられるが、それも極一部でしかなく、書店にいると「でも、アマゾンで買うからいいや」という声をよく聞くし、それはそれで別にいいと思うが、それよりも活字をひたすらに追いかけるようにして読むことで、かろうじて現前性を立ち上げるという負荷のかかる小説を読むという行為、ひどく断続的な時間などのコストがかかる読書という行為をどれだけつなげられるか。
私としては余技では済まされないくらいの人生に対する圧力、負荷を読者に必然的に触発させるような、肉体を感染させてしまうような交感のある小説でなければ、つまりその人の人生にとって小説という出来事を考えざるを得ないような「文学」という運動、そのなかで小説という文字数の多い文芸、サイズ感はしんどいのでは、と。コスパ・タイパとして。ただ、そういったコスパ・タイパ的な価値観から距離を適切に置くために小説とかがあるにしても(そういったナイーヴな議論が成立する前提もまた極一部であるのだけど)、残念ながら、人間の生における時間は有限であり、膨大な選択肢のなかで小説を読むという行為が奇跡的にあったとして、もちろん小説を読む・読まない自由もあり、人生には仕事の時間、生活の時間、恋人や友人と話す時間、表現・制作の時間などといろいろな時間があるのだから、私は俺ガイル研究会の『火刑法廷』読書会でも、『火刑法廷』が普通に出来ているエンタメだと理解していてもなお場に沿わないと自覚しながら、このくらいのエンタメでは足りないのでは、という話をした。
あと「ミステリとしてはよくできているけど、小説としては…」みたいな評価があるが、でもそれって読み物としては全然ダメでは、と思ってしまう。そもそも小説なんじゃないの?って。これも難しい話だけど。
2024年7月20日、江永泉さんとお話した。
もはや読書という営みにおいて、文章で読者に対して喚起させる、交感させる、肉体をジャックするような圧力、密度がないとしんどいという話をした。まさに私にとって大江健三郎がその典型になる。『叫び声』を読んだときに、肉体の内側から崩れるようにして実際に嘔吐感に苛まれた読書体験から「私と大江」ははじまったように。
私が俺ガイル研究会の『火刑法廷』読書会でミスマッチともいえるようなエンタメへの提言を展開し、いつものように大江健三郎の話をしたのは、いかに小説が読まれていない、日々の実感から来る危機感でしかなく、決して大江健三郎や小説を特権化するものではないけども、もはや読書という行為もマイナーな営みにおいて、小説を読むことはさらにマイナーである現状、もちろん時間を費やすべきものはいくらでもあるにしても、どうしたら小説という出来事、運動をつなげられるかというと、私にとっては余技では全然足りないし、人生において小説について「文学」という信仰にしないといけない、そんな気持ちがある。
それには親密さが生まれるための時間が必要になる。そのために時間を使う、費やす理由がいる。コストを払う理由がいる。なぜなら時間は有限であり、膨大な選択肢や自由において小説を読む理由はこれといってないのだけども、その人の人生において小説という出来事や時間をかける理由がどうしたら生まれるのか。
具体的にお話をすることがひとつあるだろう。
各々が生きているなかでいくつものの時間を走らせつつも、実際に日程を調整して、共通の課題本を読んで読書会する、そんな当たり前のことではない奇跡や、家族や恋人や友達と時間をあわせてお話ししたりすることが人生において大事なように、そういう時間のように小説という運動を持ち込めれば、その人の人生における「文学」という志向性があれば、小説という出来事の時間はつながっていくと信じている。
そのとき、少なくとも小説は小説でしかないのだけども、山本浩貴(いぬのせなか座)『新たな距離』にもあるように「小説とは生きるということ」を含んでいくことだろう。小説をとおして生きることを考えるのではなく、小説から生きることを考えるのでもなく、生きることを、考えるようにして、生きることの営み、その運動としての小説という出来事、その生。
小説に限らず、多かれ少なかれ表現は「私」や家族を描くか、「歴史」を描くか、二つの極があるのではないか。もちろん二極として大別はできても、厳密にはこれらは区分けできないもつれがあるが、歴史や家族を描きながら「私」を位置づけたり、二極のなかで振れることの度合いがその都度あり、その表現は表現者の自己慰撫に落ち着くための「私小説」的なものになっていくことが多い。
ひとりの読者としては、表現者の「私」や家族とかのゴタゴタに対して、そんなこと読者としての私には関係ない、という批判精神がありつつも、少なからず「私小説」的なものとしての関心のひとつにゴシップがあり、それでも表現者を追いかけてしまう読者の態度、それに付き合う(付き合ってしまう)時間がある。たとえば大江健三郎、古井由吉、小島信夫などの作品にある読み味、つまり提出されている反復的ともいえる時間にある読者を選定してしまう「感じ」をどのように考えるか。
しかし、その反復ともいえる、残響している時間の呼吸をだらだらと読んでしまう「感じ」とはいかに。
今、考えているのはこれも具体的な時間なのだということ。その人の話を聞こう・読もうと思う態度のあらわれ。
具体的に人と話して、具体的に聞くことの時間。現場。あらわれとしての生。いや、執着。足掻き。
2024年8月17日、TERECOの米原将磨さんと江永泉さんの配信「光の曠達」2024年8月号の現地観覧に行った。
今回は批評誌『応答』を一緒に作った同人のコトヒキ会(才華さん、三澤蟻さん、私)で伺った。ほかにも現地観覧に『BANDIT』主宰の坂田散文さんもいらしていて、具体的に同人活動のお話をした。
「光の曠達」には三澤蟻さんと直近二か月で一緒に現地観覧しているが、圧倒されてしまう。まさに自由闊達なコンテンツ語りに偽りなく、課題図書を読んでいなくても、独自のアプローチにある語り口が、それこそジャンルの内在的な語りではないオタク語りな文法に乗らず、あらゆる領域を横断しては、大雑把に抜粋、圧縮して、要素を再接続する営み。それを直に目撃すること。
批評の現場のひとつだと思う。
3時間超えの配信企画。ひたすらに聞くことは正直、疲れる。具体的に人の話を聞くことは疲れるのだ。それでも具体的にこの時間に付き合おうと思える。一か月以上前から仕事と予定を調整して、具体的に米原将磨さんと江永泉さんの話を聞きに行き、そしてお話をすることの時間と現場。これらには具体的な時間しかない。そうすることで、そうしてまでも付き合おうと思えるような親密さというべきか。コストを払う理由。身体を移動させ、時間を調整して、具体的にやり取りをすること。
どうしたら小説はもっと読まれるだろうか。
どうしたらもっと小説という出来事はつながっていくだろうか。
具体的なやり取り、時間しかないのだ。小説にコストを払おうという態度、その志向性。
書店にいると分かる。人が欲望して、売れるものはさほど変わらない。金と健康だ。いかに自分の人生に役立つかどうか。残念ながら小説には「使える」視点に立つまでに、自分事として捉えられるまでには、それなりの高い壁がある。他人のお話に付き合う義理はないとか、そもそも小説なんて空想ではないか、とかそんな稚拙なレベルに留まっているのが殆どだから。
そもそも小説はそのような虚実のあらわれ、タイパ・コスパ的な視点から距離を置くものであるとしても、いかに自分の生に「使える」かが重要なように(重要になってしまうように)、そのためには時間というリアリティ、説得力、理由がいる。
小説とは、生きること。
ものすごく分かる。それはその通りだ。私という生。小説という生。その二重性の時間が断続的に、そして不可分に走ることの運動。
しかし、それだけでは足りない。その言葉だけでは足りない。
小説とは生きることだとしても、その時間のあらわれ、現在をどう生きるか。どう使うか。そのための時間を、小説という出来事はどのようにして具体的につなげられるか。私は具体的につなげていきたい。
だから、時間をかけて具体的にお話をしていきましょう。
いつか「本当のこと」が言えるように。その準備として。これもまた日記。だらだらした生の足掻き。
