フトボル男

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麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』感想 新世界へ行け少女たち

 

友達以上探偵未満

友達以上探偵未満

 

麻耶雄嵩にしては普通である。

しかし、新しい。

世界を壊し、尽く読者を素晴らしく裏切ってきた作者・麻耶雄嵩にしては本作ではオーソドックスに徹することで裏切らない裏切りの冴えを見せた。

麻耶ワールドという本格ミステリの不文律の共有にしては薄味であろうか。

女子高生同士の遣り取りやネタ振りの語り口なんてライトであるし、麻耶雄嵩が「アナザーなら死んでた」というパワーワードを使う日が来るとは。

ミステリファンには堪らないサービス精神だ。

トリック自体は大人しく、隙の小さいからこそ犯人当ての邪魔をしない程度の配置と設定が光っている。それはつまり読者への挑戦状を挿入することで犯人当てとしての性質上、フェアプレイ精神を如何なく発揮するためのフリ(伏線)とネタ(制約)である。

本格ミステリを壊して再構築する世界観を期待されている麻耶雄嵩にとってはオーソドックスのミステリであるから、とても間口が広く入門編として最適ではないだろうか。

正直、麻耶雄嵩くらいの技巧があればお手の物だろうし、寡作の作者が遂にシリーズ化と量産がセットで最適化しそうな雰囲気も匂う。人気者の銘探偵メルカトル鮎は大変だから。

シリーズ化とそのジレンマの袋小路に突っ込むことで物語をシャットダウンする外無い麻耶雄嵩が、『友達以上探偵未満』ではシリーズ化の光明が見えなくもない。個人的には彼女たちにそれほど思い入れは持てないのだけど。

普通であると冒頭で記したが、2編目「夢うつつ殺人事件」は「遠くで瑠璃鳥の啼く声が聞こえる」のニュアンスとイメージを彷彿とさせるに加えて『名探偵木更津悠也』のエッセンスもあり、往年のファンへのサービスかと勘繰りたくなる。

 

名探偵 木更津悠也 (光文社文庫)

名探偵 木更津悠也 (光文社文庫)

 

 

また明らかに本作のメインは、探偵と助手の関係性への問題提起と再構築を描いた非常に麻耶雄嵩らしい3編目「夏の合宿殺人事件」だろう。

この問題の3編目「夏の合宿殺人事件」はまさに麻耶雄嵩らしさであるし、本作の〝麻耶み〟が薄味でも確かにメルカトル鮎や木更津や香月などを描いてきた麻耶雄嵩ならではだと唸る。

人間原理という話がある。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

 

本作では「探偵」を中心に置いた探偵原理とも言えるだろう。

「探偵」という中心の外に「犯人」が置かれているのか。或いは「犯人」が中心で「探偵」がその外であるのか。

この「犯人」は「群衆」がいつでもどこでも成り代わるものであり、物語の叙述によっては立ち代わるものだろう。例えば倒叙ミステリが代表的であり、あるいは身内関連を濃縮的に描けば法月綸太郎ロス・マクドナルドのようなドメスティックなものへと展開されていき、自然と「群衆=その他」は削り取られていく。

本作はももとあおの桃青コンビ、等身大な女子高生の行動力と行動範囲を意識して描かれている。安楽椅子探偵とまでは言わなくても立ち位置は受動的であり、世界そのものも狭い。捜査に積極的に加担する女子高生はオカシイ。

そして、作者の出身地でもある三重県というローカルの世界だ。

世界を縦断して横断するのは「名探偵」でもない一見普通の女子高生の行動範囲として不自然で、主体性に無理が生じないような整合性が取れている。 

犯人は創造的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎぬのさ G.K.チェスタトン『ブラウン神父の童心』

犯人がいるから探偵が存在できる。

または探偵がいるから犯人がいる。

そして探偵がいるから犯人によって崩壊した世界の秩序を回復できる。

これまで探偵と犯人の共犯的関係性は数多の作品で描かれてきた。

 

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

 

 

 

扉は閉ざされたまま (祥伝社文庫)

扉は閉ざされたまま (祥伝社文庫)

 

 

クドリャフカの順番 (角川文庫)

クドリャフカの順番 (角川文庫)

 

  

王とサーカス

王とサーカス

 

謎に対して推理をすることで探偵役としての肩書はインスタントに手に入る。

しかし、彼女たちが目指すのは名探偵である(銘探偵ではない)。

本格ミステリの地脈を受け継ぐ愛憎入り乱れる無欠のヒロイックな古典的名探偵像であり、その存在感を受容できる世界観と空気と狂気が当たり前として存在する器=物語が不可欠だ。

そのためには異常であることが、異端であることが、非日常的であるのに関わらず日常化することで心の殴り合い=暴露合戦を担保した西尾維新物語シリーズのように、どうしてもどこかで日常と距離を取る必要性がある。

 それが本格ミステリの不文律であり、慣習法である。

忍物語 (講談社BOX)

忍物語 (講談社BOX)

 

余談であるが、『撫物語』は〝エヴァみたい〟な引きこもり的A.Tフィールドを要し破壊していく過程で、自分が一番可哀想で可愛そうと自虐的に被害者面して加害者面に入れ替わっていく主体性の移動や分裂を通じて、自分を知って自己を見詰め直していく〝脱エヴァ的〟自分探し物語の中で、大きく見ていけば「探偵」的と「犯人」的めいた関係性が示唆的に描かれているので是非。

※更にセットで平野啓一郎『私とは何か』を読むことで補強される。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 

なぜ、このような話を持ち出しているのかというと、そもそも本格ミステリの共通言語は普通ではなく異常であるからこその特殊設定だからだ。

麻耶雄嵩はそのツイストを効かせまくった作風であるが、勿論作者自身も自覚的にエンタメとして昇華している。

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「僕自身の性分なんです。やるならとことん、少々破綻(はたん)しても突っ走ろうっていうタイプなんで。それが作品のとがったところになるのかな」

「たとえば、手間のかかる密室殺人は現実的ではないともいわれる。だが、「本格ミステリーは密室があったほうが面白い。だったら徹底的に密室が成り立つような世界にしてしまえばいい」。そして、こう続けた。「普通の社会のなかに密室があるから浮くのであって、密室が浮かないような社会というか、思考性になれば作品中では浮かなくなる。まあ、それだと作品が浮いちゃうんですけどね」

「探偵」が当たり前に存在する世界観はやはり不自然だろう。

それが本格ミステリの文法であり、不文律だ。慣習法的と言っても差し支えないだろう。

「探偵」がいる異常が日常化している物語上の都合は、「探偵」というピースが予め用意されていて余すところなくハマる前提でのパズル画でもある。

麻耶雄嵩の作品群は、その文法が当たり前のように受け容れられる世界を描いてきた。

しかし本作の『友達以上探偵未満』では「名探偵になりたい」と志望する彼女たちの日常での息苦しさが表現されており、ジュブナイルとして現実と夢の距離を痛感させられる構成でもある。

「名探偵になることが夢」であると豪語する彼女たちは、次第に成長していくクラスメイト達から夢のようなことを言っている事実からドン引きされたり、否定的態度を取られる始末。

それが普通であり、等身大的なリアクションであり、距離感だろう。

探偵=異物を異物として消化することに抵抗感もなければ、夢見がちな彼女たちを押し潰していく現実とマジョリティが当たり前に存在するのは日常そのものではないだろうか。

つまり、本作は麻耶雄嵩が書いた本格ミステリ的日常系ライトノベルである。

本格ミステリの慣習ではなく、こっちの世界に寄り掛かっているけれども、それがやはり徐々に素直にズレていくのがまた作者らしいのであるが。

 解決への道しるべとして目的と手段の関係性が面白い。

「目的=動機」と「手段=ロジック」するならば、本作は犯人当てとして徹底的に目的を排除した作風であり、解答案は徹頭徹尾「目的<手段」で提示されている。

犯人としては第一に「目的>手段」であるが、そんなの知ったこと無いという態度というよりも結局当て推量での限界があるから脇に置いとこう精神がイコール純粋なフェアプレイに直結する構成となっている。

それもそのはずで「目的」を二の次に置いたことは物語上必然的であり、既成概念で固められた価値観へのカウンター含めた恋愛感情の縺れであるから困難だからだ。

「目的」から導くのは相当難易度が高い(一般的な2時間ドラマなどの文法ではなく、やはり本格ミステリ的ルール)のであれば、都合上「手段」から道を辿るしかない。それによってフェアプレイが担保される仕組みだ。

 

本作は探偵原理的と「探偵」の孤独を描いた。

名探偵を志す彼女たちが承認されていくことで孤独の渇きを潤していく。

ももとあおの関係は相互作用そのものだ。

「探偵」が観る者として、推理を通じた対話(承認と提示)を実践するためには他者のプライバシーを侵害することもやむを得ない不可抗力としての葛藤、また他者性を喪失していく探偵中心原理主義の傲慢さなどのアンビバレントな揺らぎが思春期の少女たちと合致した筆が走っている。

あおの空虚な胸はいつしかブルーオーシャンに充たされていた。豊饒な海の向こうにはやがて新世界が観測できるはず。でもそのためには、ももに失望されないように歩き続けなければならない。

あおは長い間、世界は観察する者と観察される者、つまり探偵と群衆の二つに分かれているものと思い込んでいた。それがひと月前、世界は探偵と群衆とワトソン役の三つに分類できることを知った。

そして今、世界は自分とももと群衆とワトソン役の四分割の様相を呈し始めている。だが果たして世界はそこで胎動を停止するのか。いったい世界はいくつに分割できるのだろう。まるで受精した卵子の成長を目にしているかのようだ。

正直、本作で一番印象的なのは推理や謎でもなく、引用したこのモノローグだ。

世界を分析して解体していく「探偵」が「新世界」への扉を見付けていく可能性を示唆している。

今まで「探偵」と「助手」の関係性とシリーズ化に伴い破壊されていく度に再構築されて息苦しくなっていかざるを得ない袋小路と直面するしかなかった麻耶雄嵩が、 袋小路手前よりも遥かに射程の長いものを描いたことに驚嘆した。

つまり、従来の麻耶ワールドの「入り口途中から袋小路まで」ではなく「入口手前=探偵未満」までを描くことで「入口=新世界へ」と既刊に比べて距離がある作品になっている。

「探偵=ゴール」となっている本作は、原理上犯人との利害も一致している。

 このゴールの設定が日常系を飛躍させる辺り実質『宇宙よりも遠い場所』だ(両作品が同時期であるから新世界系への空気は確かにある)。

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宇宙よりも遠い場所』は〝南極セラピー〟という精神上の名目のもと手段としてのフィジカルが機能(有効性はサン=テグジュペリ的)し、学校=世界の外へ展開されていく南極=非日常が日常化することで、「ここ」の否定から始まった「ここではない何処か」への逃避や選択は、最終的には「そこ」も「ここ」になるという、日常はどこでもどこまでも日常であること、学校の中で完結していたならば友達ではなかった彼女たちが学校=世界の外で友達になっていくまでが描かれた。

ゴールへ向かう日常から出発し、ゴールという非日常性を獲得した後に、その非日常すらも日常化していく。

『よりもい』では学校という世界=日常を飛び出して振り幅のある南極=ゴール=新世界へフィジカルを引っ張って描いた。

進撃の巨人』であるなら「壁の向こう側」とそのブレイクスルーについてになるだろうか。

本作のラストが描いた、日常から新世界への兆し=ブルーオーシャンの向こう側へ羽ばたくためには、一先ずは日常を書かないといけない。

つまり麻耶雄嵩の文法や不文律として共有されていた世界観では異常が日常化していたので、本作は従来の麻耶雄嵩のスタイルでは書けない。

そのために日常系ライトノベル的側面を加えた、本格ミステリとしての性格を帯びる必要性があった。

「名探偵=ゴール=新世界へ」ではなく「探偵未満=入口手前」なのだから、必然的に異常が日常化するのは難しい。ある程度の距離を取らないといけない。

引用したモノローグは生命や神秘の誕生、人間原理としての空気も感じられる。

しかし、それは日常から敢えて距離を取る性質=新世界への射程であり、麻耶雄嵩の文法が当たり前のように享受されている世界観への跳躍として。

ガール・ミーツ・ガールを通じて、群衆やワトソンを意識している時点で他の視点は置き去りになっていない。なぜなら第一に推理を開陳するということは(読者も含めた第三者への)対話による承認と提示であるからだ。

他者性を感知しながら切磋琢磨していく少女たちの新世界への助走から、異常が日常化する前日譚とも取れる作品である。

少女たちが入口の扉を開ける場合、それは新世界が描かれる可能性だろう。

袋小路の手前から物語を開始する作風とジレンマからも距離を取り、前振りとしての可能性を提示しただけの本作は確かに麻耶雄嵩らしくないかもしれない。

ただ、その〝前夜〟としての記録は貴重である。

ある意味「新世界後」を描いた作風、極地への到達とした『メルカトルかく語りき』とは対照的であり、長い道しるべだ。

メルカトルかく語りき (講談社文庫)

メルカトルかく語りき (講談社文庫)

 

 

 

ブログって

時々ブログを書いていて思うことは、別にブログという形態に拘らなくてもいいんだろうなと。

書くのが滅茶苦茶好きだとしてもだ。

ツイッターよりも長い文章を書かないと内容が詰められないからブログをしているだけで、他の表現方法があれば迷わずそちらに移るんだろうなと。

それが最近始めた『おおたまラジオ』だったりするのだけど。

現状、音声配信はどうしても固定時間を奪うものなので、それだけの時間を費やすだけの価値を高められるのかが重要だが前途多難。

喋りも稚拙であるし。

テキストならば、好きなタイミングで好きなペースで進められるし、個別で掛かる時間も違う。

 

まー要するに作品やコンテンツをインプットして、それをアウトプットできる環境があれば私自身の欲望は容易く満たされるわけだ。

電車などの移動時間や隙間時間に読書したり、映画なりアニメなりテレビを観て余暇を楽しむ。

それを自分なりにアウトプットして、他の信頼している方々の意見を参考にするサイクルで結構満ち足りてしまう。

常々、誰が何を言うかよりも、何を言うのかが大事と思うが、情報が氾濫してしまっている現代で常に半匿名性の内容の精査をするだけの時間は誰しも捻出できない。

そうなると誰もが、誰が発信しているかでインスタントに判断して首肯するかどうかはクリック一つでOKみたいな。

結構きな臭い感じだが仕方ない。

自分で思考して判断する時間さえもショートカットできるほどの資料が溢れているし、専門家の言葉に耳を傾ければ「そんなもんか」となりやすいし。

どれだけ情報をキャッチできるか、どれだけ情報を捨てられるかの整理整頓が上手い人が、<中>のコンテクストや情報の<外>も含めたリテラシー能力を高めて生活しやすくなっている。

私自身は自分で調べて考える方が好きだから、この辺の付き合い方やら棲み分けは不器用だ。

父親から「人に訊く前に先ずは自分で調べろ」という教育を施されたために、スペシャリストの棲み分けが大事だと感じながらも習慣化されている弊害でもある。

そんな時間と労力の使い方が下手で頑固な私でさえも、やはり信頼している/参考にしている人は勿論いて、その辺はおおたまラジオ第1回の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』で一部喋ったが、ブログなりラジオなり友人たちとコンテンツに触れてアウトプットして共有する時間は楽しい。

自分では表現できなかったであろう凄いテキストだったり、自分には無い着眼点や審美眼や引用されているリソースからコンテンツを通した2次的情報まで自分で食指を伸ばしていく時とかも充実度を図る上での大事なベンチマークだ。

正直、色々とシンドイ時もある。

コンテンツに触れてらんない時もある。

ただ、インプットからのアウトプットが分かり易い充実のパラメータであるから。

インプットが無いとそもそもアウトプットは出来ないので最早ライフサイクルとして意識して、大変な時でもインプットはするように心がけている。

逃避もあるけど、精神衛生上、インプットからアウトプットしていない方が負荷が掛かることもあって。

インプットしない方が負担が大きい人生だ。

 

それらを語り合って共有することは楽しいという話。

印象的な思い出として。

高校卒業以降、20代前半まで独り暮らし始めた高校時代の友人宅に泊まり込んでアニメや漫画を読んだのは20代の輝かしい青春の1ページだ。

一年に3~4回の頻度、つまり1クールに一度くらいに複数のオタク友達と雪崩れ込んで、近場のスーパーで酒や鍋などの食材を買い込んで徹夜鑑賞会をしていた。

完全にオタク合宿だった。

そこで触れたからこそ『ガンダムUC』や『魔法少女まどかマギカ』は私にとっても大事な作品になったし、摂取しないまま終わっていたかもしれない作品(『よつばと』とか)もあっただろう。

『新劇場版ヱヴァ』やノイタミナ作品について語ったり(当時は『フラクタル』や『放浪息子』だった)とか、『蒼穹のファフナー』などのロボットアニメもそん時だったか。

当時のジャンプやサンデーやマガジンの連載作品についても色々と語ったのもこの頃がピークだったか。

しかし、今となっては彼らとは就職や進路の関係で疎遠になっている。

一部を除いて改めて作品を摂取したからといって彼らに連絡することも無い。

ロボットアニメを観ても、今更彼らと話すことも無い。

彼らはこのブログやおおたまラジオの事も知らない。

でも、またいつか彼らと語りたい。

だからこのブログが彼らに伝わるくらいバズれば…とかは思っていなくて。

ブログというのはそもそも自意識過剰な自己紹介めいているし、名刺の一つと言っても差し支えないだろう。

このブログなりを紹介すれば事足りるが、それはあくまでも私からの矢印しか向いていない一方的な承認でしかなくて。

確かに彼らの承認は欲しいけれども、それよりも彼らの意見や情報こそに価値があると思っている。

相互関係だから、語り合うからこそ満たされる空間だった。

リアルであのような空間を持てていたのが素晴らしいことだったわけで。

今となってはネットで「そこ」を見付けることは容易いだろうし、「そこ」に入るためのフットワークなんて誰もが持っているだろう。

私としては「あそこ」を体験した身なので、結局オフラインまで持っていった関係が物を言うんだろうと思うが。

このブログやらラジオやらインターネット万歳だからこそ、ターゲット層が全く設定されていない傾向のテキスト群が、顔の見えない「みんな」ではなく誰かに向けて刺さるといいなという無謀さ加減が性に合っているし、現状はこの形でのアウトプットが自己充足的に気持ちいい。

ブログに初めて触れたのが2007年。

それから転々と住処を変えてしぶとく縋っている。

プラットフォームの開発や更新があって随分ブログ村の空気は変わったけれども。

これだけ情報が溢れて、短文で済ませた方が更に良くなってきている時代で、LINEのように短い遣り取りで集中的に連続的に行えるツールがマッチしている時代で、わざわざ長文仕様のブログをやることとは。

とはいっても、まだ当面は辞められそうにない。

アウトプットする場を模索しながら。

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志村貴子『青い花』 壊れてしまいそうな閉じた世界

 

アニメ『青い花』を観た。

百合とか分からん身分であるにしても、志村貴子の作品で繰り広げられる世界は徹底的にマイノリティであることを自覚し、普通ではないことを痛感していく彼ら彼女らの物語だ。

世界はマイノリティの彼女らに優しくないし、寄り掛かってくれるわけでもない。

寄り辺となるほどまでに、風当たりを塞ぐ衝立のように強くできていない。

脆いのは世界ではなく、人間そのものであるとしても。

理解を示すのは世間ではなく、気心知れた友人のみ。

しかし、それだけで救われる心もある。

静かな作品だった。

あまりに静かで、美しく、息を止めて見入ってしまった。

まるで息をしてしまうと、繊細なガラス細工のような何かが壊れてしまうのではないかと思うくらい静謐な空気が流れている。

期間限定のリミット感覚がある思春期真っ盛りの少女たちが精一杯背伸びをしているのに対して、伸びきった背つまり明確な大人が描かれていないので他者性を感じられないから恐ろしく純粋な構成=掬われた世界観として、演劇的な芝居がかったお伽話のような夢物語、花物語として閉じた世界=秘密の花園を覗き見る気恥ずかしさと罪悪感が生じる。

普通とは違う。

マイノリティであることに負い目を感じている。

本来ならばマジョリティに乗っかった人間がツッコミ、NOを突き付ける態度を描かれるであろう物語ではなく、ありのままを受容的態度として描くことで綺麗で恥ずかしいクリアな嘘=一過性の物語として描いたと思う。

そして、この世界そのものが肯定してくれるものではなく、実は一部だけで、当然描かれている世界も一部として閉じたものだけ。

物語、世界の展開というのは感じられないが、閉じた世界の孤独や対話の静けさが沁みていく。

 

志村貴子の漫画は決して国民的作品にはならないかもしれない。

なぜなら志村貴子が描くのはマイノリティの世界だから。

性愛に奔放で振り幅がある漫画の描き方をしていて、これは万人に持て囃されるものではないから。

しかし、これからもカルト的人気は誇っていくだろうし、私も彼女が紡ぐ世界を愛していく。

漫画好きの友人と話したことがあった。

漫画を読む際に「なぜ漫画であるのか?」という評価軸、映像や小説ではなく漫画でしか表現できない技法や演出をどれだけ築かれて掬えるか。

私自身は決して漫画の読書量は多くない。

非常に偏った主観的経験値であるが、志村貴子の漫画はもはや<志村貴子>というジャンル化しているのではないだろうか。

『わがままちえちゃん』を読んだ時、そう確信してしまった。

真偽つまり虚実が入り乱れて惑う感覚なんて私が愛したかつてのテレビの距離感に近似しているものであるし、それは20世紀的映像表現の虚構性でもある。

なぜ『わがままちえちゃん』ではこのような複雑な構成・入れ子構造をデザインしたのかという知的好奇心やコマからコマとその余白を目で泳ぐことで得られる想像力を素晴らしく駆り立てるものでもあるし、漫画ならではの表現力に感覚は刺激されまくった。

わがままであることが彼女の贖罪であり、断罪でもある。

そこまでして彼女が赦されたいのは不浄なる心そのもので、肉体的な犠牲や痛みも伴う結果で、不器用な後悔と愛の物語で。

青い花』は、志村貴子の空気や空間をアニメに落とし込んだ演出があったと思う。

空気を吸うことすらも忘れてしまうようなくらいに綺麗で。

今にも壊れしまいそうな、そして彼女たちの外れてしまいそうな機微が保たれている決して優しくないけれども、静かに在り続けるものとして。

この作品を観た日、朝5時まで眠れなかった。

夜明けは早く、朝日が刺し込む部屋で胸のざわめきを紛らわす為に思考に没頭することを止めようとするように。

胸が張り裂けた。

まさにそれ。

 

 

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている12巻』 比企谷八幡のジレンマ

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本記事は上記のリンク記事の補論として書かれたものである。

その前提で展開されていくものであるから、ご容赦いただきたい。

12巻の終盤にて、本作のトリックスターであり、唯一の贔屓目ではないバランサーとして、また外部の視点として機能している雪ノ下陽乃によって、比企谷八幡由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃たちの関係性を「共依存」と切り捨てられた。

12巻のハイライトだと考える。

陽乃の立ち位置は、ある意味では竹宮ゆゆことらドラ!』の川嶋亜美的だと思った。

 

とらドラ!1 (電撃文庫)

とらドラ!1 (電撃文庫)

 

 

とらドラ!』で展開されていた疑似家族と本当の家族の関係性、家族への絆を唯一として絶対的とせずに、他の共同体の可能性を模索しつつ、疑似家族も本物の絆になり得る未来を描き切った。

その過程で、完成されてしまっていた主人公たちの疑似家族に入り込む余地が無く、物語の舞台にコミットできず、上がれないまま終幕せざるを得なかった川嶋亜美の視点は、切ないほどに徹底的に諦念的で外部的であった。

陽乃は、彼女が切り捨てた八幡たちの関係性に羨望したり、嫉妬したりといった動機で「共依存」という言葉を選択したわけではなくても(諦念による取捨選択してきた過去を匂わす程度)、八幡たちのコミュニティを外から観ていることで吐くことが出来る唯一の存在だろう。

自分よりも優秀で有能な人間に承認≠信頼されることって気持ちいいでしょ?という話として。

「ちゃんと言ったじゃない、信頼なんかじゃないって」

陽乃さんは楽しげにくすくすと笑っていたかと思うと、その笑みを淫靡に歪め、さらに続けた。

「あの子に頼られるのって気持ちいいでしょ?」

 

ボッチを自称する八幡は、これまで如何なるコミュニティでも承認されることなく自己完結してきた人間であるから、雪乃をはじめとする恋愛の狭間で揺れる共同体による相互承認がある現在に居心地の良さを感じている。

雪乃のみならず、陽乃や葉山といった優秀な人間に承認され、教室の片隅で孤独で生きていた八幡の生活する空間は確実に拡張されていき、かつては自己完結していた自己肯定が他者を通じて更に味付けされていく。

元々ボッチだった八幡は、今ではボッチとはとても言えない状況である。

三角関係めいた結衣と雪乃の共同体、スクールカースト上位の葉山たちとの交流、カーストから解放されている戸塚との友情など、教室の片隅と自宅で完結していた八幡の世界は確実に広がっているように描かれている。

最早ボッチではない。

それによって、ボッチだからこその八幡の斜め下/上の解決方法といった屈託が揺らいでいるわけだ。

気付いているけれども、気付かないフリをして鈍感になって先延ばしにしている八幡たち。

それを見越した上で陽乃はわざわざ出しゃばって「共依存」と言い放った。

ここで疑問がある。

果たして「共依存めいた関係性が悪いのか」という問題だ。

依存状態というのは自覚症状が無いからこそ、他者性のフィルターを通して勧告されるものだとするならば、陽乃の存在意義はまさにこのセリフのためだったと考えても過大ではないとすら思えるが、一般論で言うならばナアナアな関係性も悪くないのではないだろうか。

学校こそが世界そのものである学生にとって、学校という空間から外に出ることで確かに関係性が解消されることはある。

その代表的なイベントが進路選択と卒業だ。

八幡たちは高校2年生であり、進路選択が現実的な射程に入ってきている。

しかし、学校や進路が別々になったからといって全ての関係性がクリアになるわけでもリセットになるわけでもない。

当たり前のことだ。

ある程度の清算があるにしても、変わらずに残り続けるものもあるだろう。

わざわざ高校卒業や進路選択で必ず決断しないといけないわけでもない。

卒業以降、つまり大学進学などで先延ばしにしても構わない問題ではないだろうか。

学校という世界から解放されて、各々の進路を選択していくのは当然であり、だからといってそれがイコール締切というわけでもない。

決断の先延ばし、保留が必ずしも悪いことではないだろう。

西尾維新物語シリーズ』では、「逃げる」ためには問題を前向きに捉える必要性を説いた。

「逃げる」ためには直視しないといけない。ただ単純に目を逸らすのは「逃げる」ではなく、後ろ向きな態度であると表現している。

陽乃によって「共依存」といった依存状態を自覚していくしかなくなった八幡たちが、問いの設定に対して、恐らく「逃げる」という選択をしないのが『俺ガイル』の作者でもある渡航の決断になっていくと考える。

何故ならば、八幡の「本物が欲しい」発言がフックとしてあるからだ。

改めて12巻でも、それ以前でも小町との関係性は対比的に描かれていることが分かる。小町は八幡の妹であり、絶対的な「家族」だ。

八幡は、お兄ちゃんとして小町の成長を嬉しく思いながらも、徐々に変化していく小町を眺めている。

家族の関係性はずっとあり続けるものとして、小町との関係は年齢や環境によって相対的な変化があるにしても「家族」という形態は変化しないからだろう。

つまり、八幡のいう「本物」の関係性は、小町と築いたような関係に近い。

「家族」のように「本物」で変わらないであろう関係。

だからこそ疑似家族や共同体は、それへの返答になるだろう。

現在、結衣や雪乃たちとの関係性は限りなく近接しているかもしれないが、まだ最終防衛ラインが2本存在している。

それが八幡のジレンマとなっているから恐ろしい。

一つは男女の友情からの恋愛感情への展開。

もう一つは八幡のお兄ちゃん気質問題である。

両者の線はどちらも交わるもので、要は八幡が恋愛の機微に敏感でありながらも過去のトラウマからの教訓や防衛機能として一線を越えないようにしている。

本来、聡いはずの八幡が〝鈍く〟なっているのは確信的にお兄ちゃん気質による承認状態だ。

それは一色いろは達に看破され、八幡の無自覚的な態度が暴露されたのも12巻だった。

小町との関係性のようにクローズドでドメスティックな家族的なものに対して、オープンな「本物」が欲しいと八幡は願いながらも、ナチュラルなお兄ちゃん気質で線を引いてしまっている。

これまで疑似家族が家族の関係性を超越する、或いは乗り越えた作品は多数描かれている。

『万引き家族』を観た人間と未見の人間が語る - TwitCasting

『万引き家族』の続き - TwitCasting

『俺ガイル』は「友達探し」がテーマの一つとしてある。

庵田定夏ココロコネクト』が、八幡のいう本物への近接として共同体としての強度が理想的であるならば、八幡が抱える自己犠牲精神、自分が傷つくことも厭わない環境への応対は、「みんな」のために奔走する主体性=「みんな」に寄り掛かることでしか表現できない「自分」や「思想」の無さを自覚していった八重樫太一や『物語シリーズ』の阿良々木暦などが抱える自己肯定/自己否定などの自己批評問題そのものに直結している。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6 (ガガガ文庫)

 

 

本物が欲しい八幡のお兄ちゃん気質問題は、小町と接するようにと同じく、つまり疑似家族的な態度であるから、ある意味八幡なりのナチュラルな「本物」的への姿勢とも取れる。

しかし、その態度が明確に停滞を生んでしまっているのも事実だろう。

だって「本物」が欲しいならば「家族ごっこ」ではダメでしょ?

と八幡は考えるだろうし、陽乃はその関係性への態度を「共依存」と切ったのだから。

しかし一般論でいえば、保留や先延ばしもアリだし、家族ごっこもアリ。

ただ、八幡自身がそういった欺瞞や陶酔を嫌い、「本物」=変わらない純粋さを引き換えに欲しているために「逃げる」ための道を閉ざし、袋小路に突入してしまっているジレンマがある。

八幡自身の欲求や願いが、八幡自身の性質や問題によってアンバランスに整理され、居心地の良さを感じていた空間が気持ち悪いもの=停滞だと自覚的にならざるを得なかったのが陽乃による「共依存」発言だった。

 

学校=世界であり、不器用な彼らは世界の外を知らない。

特に八幡と雪乃は、学校=世界の中での関係性に終始してきた経験があるからこそ、学校の外でも関係は続くという可能性を肌感覚で体験してこなかった。

卒業したからと言って完全に終わるものでもなく、世界=学校の外にも世界はあるのに関わらず、閉じた空間で生活している彼らは外を知り得ない、分からない。

それを知覚するためには、まるで学校こそが世界そのものであるという錯覚(確かに10代にとっては…)に対して、ツール(SNSなど)や経験や能力や資格によっていくらでも外へ接続することで可能になる。

例えば、『宇宙よりも遠い場所』は〝南極セラピー〟という精神上の名目のもと手段としてのフィジカルが機能(有効性はサン=テグジュペリ的)し、学校=世界の外へ展開されていく南極=非日常が日常化することで、「ここ」の否定から始まった「ここではない何処か」への逃避や選択は、最終的には「そこ」も「ここ」になるという、日常はどこでもどこまでも日常であること、学校の中で完結していたならば友達ではなかった彼女たちが学校=世界の外で友達になっていくまでが描かれた。

また「友達探し」でいえば、西尾維新の『物語シリーズ』の阿良々木暦は「友達を作ると人間強度が落ちる」といった理由で孤独であるところから始まる。

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孤独を肯定的に捉えながらも、友達、承認から他者を求めていく流れに対して、ボッチはアンチテーゼとして機能しやすい。そこから他者に触れることで孤独としての渇きを本質的に知ることになる。

僕は友達が少ない (MF文庫J)

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再三述べているように、別に学校の外でも終わらない関係性は当然ある。

その当然という前提を八幡は、体感していないので現在持っている、掴みかけている関係性を純情に「本物」へ昇華していくことで変わらないまま保存したい願いを不器用に切実にジレンマ的に描いた。

 『俺ガイル』は「本物」発言によって明確に線を引いた。

自意識として高校生活での決着と擬似家族や共同体に対して。

「偽物」=疑似家族や共同体=友愛や弱いつながりが、「本物」=家族めいた強い関係に成り代わるものとして、どのように提示されていくのか。

 

これまで学園モノといえば、高校生の部室や教室が定番だった。

つまり学校の中で完結していた。

しかし、学生はなにも高校生までではない。

外と接続しやすいキャンパスライフも立派な学園モノでもあり、大学生モノへと展開していった竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』や伊坂幸太郎『砂漠』などがある。

 

 

砂漠 (実業之日本社文庫)

砂漠 (実業之日本社文庫)

 

 

大学生になっても関係性がリセットしないものは当然ある。

物理的距離が生じても変わらないものは当然ある。

これらは青春モノとしてのルサンチマンや自意識の気持ち悪さを自覚的に描きながら、「ありえたかもしれない青春の可能性」を提示している。コミュニティの中では気付き難い青春模様や互恵関係を調整的に表現し、素晴らしき青春にどれだけコミットできるかどうかは、その共同体に居ないといけないと『砂漠』で触れられている可能性は、誰もが選べて入れる自由である。

その青春に直面するためには「そこ」に居ないといけない。

「そこ」を選ぶことは自由であるし、「そこ」に居ることも自由だ。

今、「そこ」に居ることの価値基準は高い。

「そこ」に居るための回路は誰もが持てるツールはあるし、機会もある。

あとはどれだけ選択し、「そこ」で自由を謳歌できるかどうかだ。

八幡が願う「本物」、つまり家族のような関係性を八幡自身のお兄ちゃん気質問題と鈍感になる=空気を読むことで停滞を生んでいる現状において、袋小路の外へ出る必要性がある。

かつてボッチだった故に自己完結するしか手段が無かった八幡には、今は雪乃や結衣たちがいる。

彼女たちとの居心地の良さとバランサーとしての機能が、八幡の屈託を揺らして嫌っていた自己欺瞞から「逃げる」ではなく目を逸らす態度にNOを突き付けたのが12巻だとすると、「そこ」に居ることを選択した八幡たちが、袋小路の壁を破るための協力や協調が今後描かれていくことだろう。 

上記の八幡のジレンマや問題を抱えたまま前進させないといけない作者の渡航は滅茶苦茶大変に違いない。自身が設定した問いに対して、生みの苦しみと真っ向から立ち向かわないといけない。

お兄ちゃん気質による線引きと友愛=疑似家族めいた共同体に確かなラインを築いてしまった、「本物」=家族めいた関係性までをきちんと捉えないといけないのだから。

これまで提示してきた、家族めいた関係を乗り越えていくだろう不確かな八幡、結衣、雪乃たちの共同体を、現状では「共依存」と断定した功罪と八幡自身のジレンマをセットで清算していくことになるだろう。

自身で設定した欲求と、自身が持ちうる関係と「そこ」の環境への整合性をどれだけ表現していくのか。

とても大変な作業だ。

修羅の道といってもいいのではないだろうか。

どのような態度が描かれていくのか。読者としては楽しみに待つしかない。

広く弱くつながって生きる (幻冬舎新書)

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化物語(上) (講談社BOX)

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ココロコネクト ヒトランダム (ファミ通文庫)

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ニナ・サドウスキー『落ちた花嫁』 読書感想

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落ちた花嫁 (小学館文庫)

落ちた花嫁 (小学館文庫)

 

 アバウトなおおたまラジオ文字起こし

紹介したい小説はニナ・サドウスキーの『落ちた花嫁』です。先月(6月)に出たばかりの新刊です。
あらすじは本に書いてあるやつをそのまま読み上げますね。

ニューヨークの瀟洒なアパートに暮らし、順調にキャリアを重ねてきたエリーの夢は結婚だった。ロマンスを求めて六年、ようやくめぐり会えた相手は投資会社のアナリストで、エリーはまもなくプロポーズされた。彼女の幸福な未来も、そのとき確かに約束されたはずだった。だが結婚式当日、パートナーのロブからある事実を打ち明けられ、エリーの人生は一瞬で暗転する。そして式を終えた彼女は、カリブ海の高級リゾートホテルの一室で、凄惨な光景を目にすることに―。エンターテイメントの本場ハリウッドの映画プロデューサー、衝撃のデビュー小説!

 

どうでしょうか。このあらすじ。ネタバレしないで後々紹介したいと思いますが、まずは概略というか。
 
で、この作者ニナ・サドウスキーはハリウッドのプロデューサーで本作で小説家デビューと。
映画はジェニファー・ロペスの『ウェディング・プランナー』などらしいですが、流石映像畑の人間ということもあって小説内の描写が、カリブ海のリゾート感や小道具の見せ方、また再三記述されているベッドシーンとか含めて映像化しやすそうだなって分かるんですよ。映画とかでもシリアスなのになぜかベッドシーンが入るみたいな。緊張状態やら吊り橋効果の延長でよろしくやってんな!!みたいな。
ただ、構成的にはカットバックが多用されているのでシリアスな現在視点から彼と彼女がどのように出会ったのか。如何にして蜜月な関係を築いてきたのかの回想シーンなどでテンポをある程度を壊さずに守っているイメージがあります。
 
翻訳も硬くないですし、海外文芸にアレルギーがある人でも気軽に読めるライトさがあって。というか近年の翻訳者の文章って相当読者の目をケアしているなと思いますね。だからといって昔の翻訳が駄目というわけではなくて、常に訳がアップデートされていくことで同じ作品でも印象が変化していく楽しみというのが翻訳ものの素晴らしさなので。
色んな訳があるのは当然で、例えばサン=テグジュペリだったら堀口大學の訳が一番だと思っている人間なので。読み易さや気軽さとなると堀口大學以上の訳はあったりするわけですが、文章としての硬質性と醸し出される叙情って千差万別なので。
 
この小説は現在パートと過去パートが交互に差し込まれる構成です。これ自体はあまり珍しくないのですが、過去パートの時系列がシャッフルされていてなんだか輪郭が掴み切れない。手が届きそうな距離をずっとはぐらかすような巧みさがありまして。
ま、夫婦つまり男女というものは友愛で結びついているけども、本作では愛情たっぷりです。愛に溢れて幸せの絶頂から幕が上がります。
でも、そんな男女間でも互いに秘密はあるよね。
それって知った方がいいのか知らない方がいいのか問題なんですが。
知らない方が幸せかもねみたいなストーリーであることには違いなくて、でも、100%相手を知りたい分かりたいという気持ちって誰しもあると思うんですよ。それが傲慢と言われようが、男には女の、女には男のことなんて結局は分からないみたいな境地であろうが。
それでも互いに距離を詰めて、歩み寄るのがコミュニケーションじゃないですか。
その結晶体ですよね恋愛って。
相手のことを知りたい知って欲しいみたいな無垢な気持ちが本作が描いている暴力的なジェットコースター的物語へとなだれ込むわけですが。
みんな後ろ暗い過去や秘密を抱えていると思います。
それを晒すことでスッキリする自分と、聴かされた側のモヤモヤみたいな。
なに、てめえ一人で気持ち良くなってんだよ!って。カミングアウトした側からすれば、それで純粋さが引き換えに手に入ったとするでしょうが、信頼されて話された側にとっては重いとか耐えられないとかぶっちゃけありがた迷惑なこともあると思うんですよ。
それでも、秘密やトラウマを共有して一緒に乗り越えてこそパートナーじゃないの?までは描かれていませんが、その代償としての大変さが展開されています。
 
で、本作の主人公はヒロインの花嫁です。戦うヒロインです。
夫が監禁されて、救うべく戦うフツーの花嫁です。
スーパーマリオでいうところのピーチ姫が、マリオを助けるために走る感じでしょうか。
この戦うヒロインというか戦う女性的な物語って、日本だと魔法少女系なんですよね。女の子たちに戦って貰う。女の子たちを過酷な運命と戦わせるみたいな。
なんで、女性に戦わせているのかというと、男が戦えなくなった歴史があるからなんですが。
ザックリですが昔で言えば、ドラクエみたいな英雄譚が流行していました。
あの時のテーマって主人公になるにはどうすればいいのか?それは魔王を倒すことだったと思います。
でも、結果的に正義を獲得すると言う事においても人を傷付けていることが明らかになりました。例えば桃太郎でも、鬼からすればある種の「理不尽な暴力の行使」だと取れます。
そうなると、視点の転換が行われ、アンチヒーローが流行りました。
評論家の宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で記した決断主義の文脈で語られているところです。『デスノート』の夜神月や『コードギアス』のルルーシュなどです。
人を傷付けるなら最初から敵になって自身の正義を論理を振りかざせばいいという流れで、この辺りから敵をどうやって作るのかも難しくなってきました。
9.11後の想像力でいえば『ダークナイト』のジョーカーは外せませんし、敵の暴力性の無頓着な自由さ、無差別さという目的なき暴力が描かれたように、戦場の設定も大変になりました。
戦場といえば、日常と切り離された仮想空間や特殊空間、宇宙とかでしたが、今は戦場の日常化が行われいます。テロによって当たり前の風景に暴力があります。
それらのセットの解決策としてアンチヒーローが組み込まれたわけですが、みんなが夜神月とかにはなれないんですよ。大義のために出来ないんですよ。
自分が一番可愛いから。そりゃあそうですよね。
大義のためにとか耐えられないけど、個人の目的の為ならば戦うしかないんだ!ってのが本作のヒロインの行動力です。
幸せのピークでとんだドラマに巻き込まれ、回復しなきゃという使命感というか幸せへのハングリーさやストレスなんですよね。
大事なのは主体性よりも巻き込まれた結果であるにしても、戦うためには逃げていないで身体性も引っ張らないといけないよねという戦うヒロインです。
彼の為に、幸せや愛のためにを掲げて。
 
ここまで色々喋ってきましたが、このヒロインは特別強くは有りません。普通に怒りますし、ストレスを受けていますし、捌け口を求めている感じです。
それでも戦わないといけない。
なぜなら男が戦えなくなったから。先ほど言った魔法少女系にしてもそうです。
男のマッチョさが失われた流れがあります。
戦えないよって引きこもった碇シンジという少年もいます。
代わりに誰が戦うのってなった時に、ポケモンデジモンに戦って貰うみたいな流れもありましたが、その延長線で女の子たちに頑張って貰う、大変だけど頑張ってみたいな。その絶望と孤独を描いたのが『魔法少女まどかマギカ』以降の作品群というイメージです。
この辺って単純に男の草食化と結びつけていいのか難しいのですが、ザックリいえば自信や身体性の喪失なのでしょうかね。アメリカでもこんな感じなんだと思いました。
でも、一つは明らかに女性の社会進出がポイントだと思いますが、本作は幸せの回復のためにサヴァイブする花嫁ということで。
なんだかアンチヒーローと重ねてこの作品を語りましたが、そんなオーバーなものではないと思います実際。
家のことは奥さんがやって、旦那は仕事に行く。みたいな価値観が既に揺らいでいるじゃないですか。
奥さんも家の外、社会と接続するのが当たり前の時代だからこそ、外に出るということは自分で戦わないといけないんだよっていう認識と、相対的に男が戦えないから君も頼むよみたいな感じでしょうね。
しかし、本作の男つまり彼がショボイというか弱くは描かれていません。ヒモでもないですし、設定はエリートなので彼自身も戦わざるを得なかった過去があることが明らかになっていきます。それが秘密となり、清算していく中で巻き込まれていくといった感じですね。
ヒロインがか弱い彼を母性として守るみたいな書き方はされていませんし、あくまでも男女間としての男性性と女性性でのバランスといいますか。
彼も彼女も特別弱いわけでもなく、それなりに人生経験を積んでいて影の部分を引き摺りながらも戦っている。
要するに、戦って傷付いた二人なんですよね。
その彼のピンチに花嫁は頑張ります。決して愛らしいわけでも、個人的には応援したいキャラとしては読んでいなかったのですが、二人の行く末にハラハラしたサスペンスでした。
アマゾンでは星3のレビューがありますが、内容はともかく星の数は実は同じなんですよね正直。
でも、こういう楽しみ方もあると思うので。
以上が僕の『落ちた花嫁』紹介でした。

おおたまラジオ第1.5回目『落ちた花嫁』

おおたまラジオ第1.5回目『落ちた花嫁』

 

落ちた花嫁 (小学館文庫)

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ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

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DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

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ポケットモンスター 緑

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結城友奈は勇者である-結城友奈の章-Blu-ray

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2018年上半期マイベスト本 - フトボル男

桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

宇野常寛が論じた「サヴァイブ系」の系譜に入る作品で、作中での「実弾主義」は生存競争における武器を持って戦うためのコミットメントを端的に表現している。

引きこもり貴族な兄=ロマン、シティな転校生=現実から離れたファンタジー、ローカルな主人公=徹底的な現実主義者の三点のバランスを描きながら、不安定な心の拠り所として「家族愛」や「親愛」をコミットの目的と対象として。

歪な依存状態=共依存により、安心と甘えが孤独と自立から距離を取り、自立して戦わないと生き残れない/中二病的武器だけでは生き残れない主人公=リアリストから、転校生=テロリストの依存状態へと展開していく。

互いに甘えることで飢餓感を和らげ、離れさせないようにしているものはまるで「砂糖」的で、強くなれない少女たちの傷の舐め合いは「迎合」そのものだ。

しかし、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』し、戦うことができない。

砂糖菓子の弾丸=ファンタジーでは生きられないことを残酷的に知っていく少女たちの思春期を経て、大人へとなっていく通過儀礼だ。

その中で、愛とは「痛み」であることをグロテスクに表現し、ダメージそのものが愛の証明になる悲しい物語だ。

「愛」や「生」の実感を痛みでしか与えられない親子像に欠けていたのは母性であり、このアンビバレントなコミットメントを歪なまま享受できてしまう家族という形態と、実際に手段としての武器を持っていない「実弾主義」の少女が戦えないが、戦うしかない非現実的かつ圧倒的現実から目が離せなかった。

 

 編集後記

お聞き下さった方ありがとうございました。

マイクの調子が悪く、特に序盤は所々聞き取り辛いかと思います。

なので後日、文字起こししてブログに上げようかと。正直、二度手間です。

これもこれもマイクですわ!

切実に音声トラブルでおおたまラジオに支障が出ているので、える・ろこさんに迷惑をかけてしまっている感じをどうにかしないといけないのですが。

今回のおおたまラジオ番外編は『落ちた花嫁』という海外のサスペンス小説を紹介してみました。

ラジオ内でも触れているように、やや過剰に脚色した語り口になっていると思いますが、作品と作品(群)が個人的にリンクした瞬間というのは感動的です。

自分だけ勝手に腑に落ちる快感ってありふれた幸せの形の一つだと思っています。

まだ、一人喋りが慣れていないので劇的さというのは伝わり辛いでしょうが、自分的には面白い発見をした心情に近い、例えると少年時代、夏休みに近所の公園でクワガタを見付けた時みたいな。

あの時のような興奮ですよ。

私自身は虫が大嫌いなんですが。

 

 

 

第1回おおたまラジオ『ブルーピリオド』/寿命論/フットサル/『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

第1回おおたまラジオ『ブルーピリオド』/寿命論/フットサル/『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

 

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

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子どものまま漂う私と、大人になる覚悟を決めた銀杏BOYZ – liverry(ライブリー)

 

twitter.com

 

フットサルの魅力と難しさって繋がっている説 - フトボル男

 

 

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [DVD]

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文学とは何か (角川ソフィア文庫)
 

 

編集後記

遂に第一回目が出来ました。

聴いて戴いた方々に大いなる感謝を。

動画時間のあれこれは今後考えていきたいと思います。個人的にはお耳汚し程度のラジオ感覚で聴いて戴けたら幸いと考えているので、必然的に長い動画になりがちですが、その辺は上手くして行きたいと思っていますのでご容赦ください。

 

動画時間

~15分 山口つばさ『ブルーピリオド』の話。

~42分 える・ろこさんによる寿命論、コンテンツに纏わるノスタルジーとの直面話。

~1時間21分 フットサル、夢を持たないのって悪い事なのか問題、サッカーとフットサルの距離感、Fリーグと現場と体験によるストーリー性とビジネスモデルの提示によって付加価値はどうなっていくのか、続・寿命論。

エンディングまで 映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』とその評価、批評空間、ラジオのバッドエンドへ。

 

初回ということもあって、なんだかトークの内容もフワフワと慌しい感じで。

綿密な打ち合わせを重ねてぶつけるというスタイルは私自身があまり好みではなく、本番でえる・ろこさんのトークの初出しを楽しみたい性といいますか。

相当言い訳めいていますけども。

初回のメインテーマはえる・ろこさんのコンテンツの寿命論だったわけですが、本来ならば、ここから(排他的ではない)オタク論といいますか棲み分けの話に繋がるはずだったのですが、上手いこと聞き役として深堀り出来なかったのは実力不足です。

次こそは!って。

次回の内容は未定ですが、日時は近いうちを予定しています。

今度はフットサルを具体的に話していく可能性が高いですが、なにか面白い本や映画を観たらそっちを…その辺も今後打ち合わせしていきたいと思います。

今後とも、おおたまラジオをよろしくお願いします。