フトボル男

「お前どっから来た?」「未来から」

おおたまラジオ第2回 バンクシーと芸術問題/『コンビニ人間』読書会/「なぜサッカー経験者はスタジアムでJリーグを観ないのか」仮説

おおたまラジオ第2回 バンクシーと芸術問題/『コンビニ人間』読書会/「なぜサッカー経験者はスタジアムでJリーグを観ないのか」仮説

諸事情により、以下のリンクからお聴き下さい。

聴いて下さった方ありがとうございました。

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 芸術の秋 バンクシー問題

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ブルーピリオド(2) (アフタヌーンKC)

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 読書の秋 村田沙耶香コンビニ人間』について

NewsPicks Magazine vol.2 Autumn 2018[雑誌]

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コンビニ人間

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スポーツの秋 

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摂取したもの2018年9月と村上春樹

9月は「村上春樹を読む」再デビューの記念となった。

10代の時に父親の本棚から『羊をめぐる冒険』を借りて読んで(サッパリ分からん)オシマイになっていたから、それ以来の挑戦だったわけだ。

イメージが変わった。

最近の発見としてハルキストって揶揄されているが、彼らは実は凄いのではという仮説。

春樹は難しい。特にデビュー作の『風の歌を聴け』は。

春樹の作品自体がジャンクでカジュアルな流行作家的であるが、意図的に切断された情報=死の匂いが使われていて作中のキャラはデタッチメントなのに読者は作品にコミットメントしないと構造が読み解けないみたいな。おまえら洋楽聴きながらくつろいでビール飲んでんじゃねーよと。無機質に女と寝てんなよと。

テーマや構造のみならず、小説の枠組みの中でそれぞれの文章が、比喩が、呼応しているような文章の連動性がある。

佐渡島康平は「無駄な文章がない」と記していたが、まさにデザインされ尽くした古文の授業を思い出した。

風の歌を聴け』は結構面倒で、小説を読んで久しぶりに(あれ、これ分からん)となったから、初手から春樹コンプレックスを拗らせてしまい、前途多難の様相を呈した…。

文体とか目線は確かにクールで、雰囲気だけ読んでビール飲みながら音楽掛けながら消費できる小説自体がファッションアイテムになっている思う。

マスメディアの影響でハルキストが各地に生息していて、まるで国民的なマジョリティのような受け取り方をして錯覚していたが、それでもハルキスト(恐らく一部of一部)の捉え方が変わった。

なんか春樹ってやけに毛嫌いされている。

ハイセンスやらセクシュアリティのイメージも相まって。

市場と受け手のこの辺のギャップってハルキストの乱痴気とノーベル文学賞候補と発売前の重版出来によるマスメディアと受け手の共犯関係的狂騒が要因として発生するアレルギーなのだろう。

そんでデビュー作の『風の歌を聴け』と2作目の『1973年のピンボール』を読む限り、少なくともハイセンスとかそんなことは無い。

抽象的でも観念的でもない。でも、構造としての「遊び」は難しい。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

その『風の歌を聴け』は女性に去られた男の話。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

デタッチメント=クールな姿勢になることで主体性が失われ、ディスコミュニケーションに至っていくまでが描かれ、「自分/他者」を一定の目線で追い掛けながらビールと本とレコードといったものを消費する日常。

これらの消費行動が自己表現になり、過去=記憶との対面によって現実感が浮かび上がり(自己の浮遊感と存在感)、意思と記憶のズレがそのまま通り過ぎていく日常と風景=風の流れ=受動的消費として表現されている。

両作とも意図的に切断された情報=死の匂いとパッチワーク的構造から、敢えて語らずに浮かび上がらせる形式になっている。ただ『1973年のピンボール』以降は物語性が増幅されているから親切設計。

小説として、流れている横の時間軸と縦に視点としてのキャラを配置してシャッフルすることで断片的であるが、全体を整理するとスッキリしていて作中では間接的な態度=デタッチメントでありながらも、村上春樹自身はどうしても物語への直接的な態度=コミットメントへを取らないといけない部分、人物を動かさないでどう物語を動かすかハッキリしていて、その因果や調整が作中のバランスとして揺れる様がある。

そういうのを含めてクールとかスタイリッシュとか評している巷の人たちってどれくらい読めているの?って純粋に気になる。

告白すると難しかった。正確に読めた気がしない。

だからハルキストの生態系が色眼鏡抜きで興味が出てきた。やっと。

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

1973年のピンボール』は循環としての「入口/出口」の話だ。双子やコネクトのための配電盤やリプレイ性が日常に非日常性を組み込み、現実とメタ現実のポストモダン的でもありながら、井戸=ユングが明らかにモチーフとして表れている。

この辺は『シャーロック・ホームズ』的になる『羊をめぐる冒険』へ継承されて「いるかホテル」が登場する。

死の匂いや情念はこれまであったが、今作では「死者」との交流も直接的で、目的や意味となる探し物=ピンボールが無意味的に映りつつも、葬式という行為による内面のロマンの切断と転換が劇的となっているのが特徴的といえるか。

 

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

 

 

ダンス・ダンス・ダンス』は一般的には喪失感と孤独からの再生を描いていると言われているが、時折挿まれる資本主義への警句と抵抗と諦念が本質なのでは。

まさしく資本主義で記号論的に消費していく日常を絶望的に捉えながらも、それでも踊るしかないよねという肯定と諦念だ。

春樹初期作品に通じる受動的な「消費」のテーマは「生/死」や「肯定/否定」と「入口/出口」と「現実/異界」と「男の欲求を満たす女」といったピースを機能的に描いているが、『ダンス・ダンス・ダンス』が一番クリアに書かれている。この辺の「消費」への違和感、春樹の場合は60年代で打ち砕けたわけでその60年代の亡霊を引き摺りながらも「何をしても仕方ないのだからデタッチメントで維持」として70年代を生き、そんで『ダンス・ダンス・ダンス』では80年代で無事に完成されている経費で何でも落ちる資本主義=かつて打ち倒そうとしたシステム自体で消費するしかない、私たちはダンスするしかないんだという作品。

だから亡霊としてのアップデートの過程において、70年代の亡霊が80年代に適合できない=トレンディじゃないシステムや人間像の「壁(=システム)」とぶつかる話。

遠ざけていたものが目の前に立ちあがっているその眼差しは、かつての亡霊との対面であり、「死者」として組み込まれている。

ただ、春樹は厭世観というよりも消費文化としての資本主義を揶揄しているが、2018年現在グローバル資本主義世界においてそんなこと言ってられないわけだ。そういう意味では時代性に耐えられるほどのものではないし、トレンディではない。傾向ではなく普遍性への提言や敗北宣言して皮肉るのもただただ消費されていくだけに繋がるので、この小説自体に救いは無い。

果たして『ダンス・ダンス・ダンス』って物語的にはハッピーエンド的なのか…?

ちなみに春樹はそれを自覚的に書いていると思うので興味深い。

おおたまラジオ番外編 村上春樹と村上龍/西加奈子と朝井リョウの時代性の違い - フトボル男

 

大塚英志『教養としてのまんが・アニメ』

東野圭吾『むかし僕が死んだ家』

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス 下』

田口幹人『まちの本屋』

NR出版会『書店員の仕事』

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス 上』

大塚英志物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』

大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』

松本大介『本屋という「物語」を終わらせるわけにはいかない』

フレドリック・ブラウン『現金を捜せ!』

京極夏彦鉄鼠の檻 一 二 三 四』

黒瀬陽平『情報社会の情念』

森見登美彦『太陽と乙女』

山本博文『流れをつかむ日本の歴史』

村上春樹羊をめぐる冒険 下』

村上春樹羊をめぐる冒険 上』

鹿島田真希『冥土めぐり』

沼田真佑『影裏』

島田荘司『アトポス』

内田樹『寝ながら学べる構造主義

村上春樹1973年のピンボール

内田樹内田樹の大市民講座』

村上龍『海の向こうで戦争が始まる』

山下澄人『しんせかい』

内田樹 白井聡『日本戦後史論』

伊集院静『不運と思うな。』

西加奈子サラバ!下』

西加奈子サラバ!中』

西加奈子サラバ!上』

森見登美彦『美女と竹林』

森博嗣スカイ・イクリプス

森博嗣クレイドゥ・ザ・スカイ』

河合隼雄『日本文化のゆくえ』

村上春樹風の歌を聴け

内田樹 平川克美 名越康文『僕たちの居場所論』

森博嗣『フラッタ・リンツ・ライフ』

森博嗣『素直に生きる100の講義』

森博嗣『「思考」を育てる100の講義』

西加奈子『i』

宇野常寛『日本文化の論点』

大江健三郎『死者の奢り・飼育』

森博嗣ダウン・ツ・ヘヴン

東浩紀『弱いつながり』

押井守『やっぱり友達はいらない。』

森博嗣『孤独の価値』

森博嗣ナ・バ・テア

鈴木敏夫『風に吹かれて』

おおたまラジオ番外編 村上春樹と村上龍/西加奈子と朝井リョウの時代性の違い

村上春樹村上龍/西加奈子朝井リョウの時代性の違い

 

今回はゲリラ放送でした。

聴いて下さった方ありがとうございました。

収録は最後唐突に終わっていますが、この音源にあるようにそれぞれの個別の作品について詳しく触れるものではなく、作家と時代の根底にある共通項を取り上げる内容です。なのでディティールは大きく省略されており、一部分の本質のみ触れています。

作品毎についてはいずれ書き起こすなり、喋るなりしたいですが。

しかし、時間の都合上、明らかに説得力が欠けている部分がいくつかあります。

それは時代性の違いについて。

なぜ村上春樹村上龍が初期に描いた時代性ならば許容されていたのか。ラジオ内では60、70年代と口にしていますが、正しくは60~70年代を受けた上での70年代以降の空気です。言葉が足りていません!

また、朝井リョウ西加奈子らの作品、つまりなぜ2010年代は自意識の檻から抜け出せない若者像のコミットメントまでの足掻きを描かないといけないのか。

ここでは後者のみを取り扱います。前者は後々。

以前にブログで記したのは森博嗣の『スカイ・クロラ』を引用すると。

摂取したもの2018年8月 - フトボル男

3.11を機に考えが変化した。

あの「時代と日常の切断」あるいは「空気と共同体の分断」によって〝終わらない日常〟が〝終わりある日常〟だと突き付けられた時、退屈で変わらない日常的な厭世観とその少しの超越性を描いた『スカイ・クロラ』の噓くささが恐くなってしまった。読めなくなっていた。遠ざけた。

ゼロ年代の「空気系」「日常系」は変わらない日常=終わらない日常の増幅としてループする構造、そこにはサブカルチャーと日本のガラパゴス的展開していったインターネットの接続があり、ニコ動や2chなどのプラットフォーム(現在ならSNS)を駆使することで双方向性のあるお祭りが生まれ、誰もが「ネタ」と「メタ」を使い分けて「メタフィクション」と同時に「コミュニケーションのためのコミュニケーション」を消費していきました。

その大いなる退屈さ、成長できない変化の無さ、虚無感と哀愁は狂騒的で祝祭的だったと思います。だからこそゼロ年代を懐古する時に〝エモかった〟となるわけで。

しかし結果的に3.11による分断性によって、「終わらない日常」は「終わる日常」だったと痛感させられ、「変わらない日常」は「変わらないといけない日常」へと変換せざるを得なかった。

妙にシンクロニシティが発生した『魔法少女まどか☆マギカ』や『STEINS;GATE』や『輪るピングドラム』を観れば観るほどに時代と社会の切断は明らかで、90年代~ゼロ年代の空気そのものを徹底的に吊るし上げたのは事実としてあります。

これらの空気感を前提として踏まえた上で、西加奈子らの作品を読むと「クールに気取ってんじゃねえ!」となります。リアルタイム性を突き詰めた結果、対岸の火事でもある悲劇をニュースとしてしか消費できない私たちに向けて「今」の危機感を描いているのだから当然です。

だからこそ悲劇を隣人以上の距離として同居する強烈な感受性を痛切に描くことで、私たち読者との距離を一旦取りながらも、徐々に影を重ねざるを得ない=交差していく瞬間に徹底的に殴られる感覚。

以上の空気が前提としてありましたが、ガッツリ省略してしまいました。

申し訳ありませんでした。

サラバ! 上 (小学館文庫)

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i(アイ)

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風の歌を聴け (講談社文庫)

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新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

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1973年のピンボール (講談社文庫)

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海の向こうで戦争が始まる

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羊をめぐる冒険

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桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

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何者 (新潮文庫)

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魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray]

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自然と人工の二元論からの解放

しばしば自然が人工や人為と対立する概念として挙げられる。

一方で、環境は固定的な実態を意味する概念ではなく、流動的な状況を示す。

自然は、主体が何であるかに関係しない概念であり、環境は、主体としての人間や生物に依拠した相対的な概念だ。そのため、ある事象を環境として捉えることは、必然的に事象と主体との間にある相互関係で捉えることになる。

そこには主体でありながらも観察者としての人間による認識・評価が加わる。観測していない事象は存在を認知できないように、主体と客体の関係性を収める必要性が生じる。

生態系とはある地域に存在するすべての生物と地域内の非生物的環境を纏めたものである。

生産者、消費者、分解者、非生物的環境といった要素で構成されている。生物の環境を構成する要因として、非生物的環境、気候的要因、土地的要因、生物的環境、種内関係、種間関係がある。そこに主体と環境と生態系が組み込まれて、相互作用が発生する。それらが環境下でのパフォーマンスを生み出す。

関連した概念としてニッチがある。生物が生存しうる固有の場や他との関係性で見えてくる居場所を指す。さらに基本ニッチと実現ニッチに分かれ、環境条件によって生息パターンが変化する。

例えばミズゴケのように、分析パターンの違いは種間関係によって齎される。人間含めて生物は環境のストレスに晒されるものである。生き物には最適なパフォーマンスを発揮する環境がある。例えば陸上選手が記録を更新する際には、温暖や風の向きや湿度といったコンディションに左右されるように生き物にはベストな環境が存在する。アスリートに通じる相互作用的概念として、ミックスアップがある。ボクシング用語として有名であるが、互いに高め合うという意味で互いにパフォーマンスを引き出し合う競争関係が相乗効果を生む。

またニッチ内において、環境へのストレスに強い生き物は成長などといったスピードが遅く、ストレスに弱い場合はスピードが早い。これらは単純に優劣を示すものではなく、それぞれの生き方の違いである。

結果として棲み分けになることでニッチが発生する。ニッチが重なることやそれぞれが独立することで、生物の多様性を表し、環境という概念が含む多様性や広がりを生み出す。

環境において、植物は種として繁栄すべく生存している。

人間に男女の違いがあるように植物にもあるが、植物の性は異なる性が2つ以上ある種が存在する。中には7つの性を持つ植物の存在はもはや人間の尺度では図れない。人間一人が持つ限定的で偏向的な価値観において、こうした他個体をはじめとする自然から見る世界との対比は己の矮小さと向き合う機会にもなると思う。

植物には無性生殖と有性生殖がある。

前者は基本的にクローンである。例えばセイヨウタンポポは、人間は2セットであるが、この植物は3セットあるので配偶子を作る時のみに行われる細胞分裂である減数分裂が出来ない特徴がある。

無性生殖の代表格として挙げられるのがアメーバの分裂である。単細胞生物であるアメーバでは、母体が2つ以上に分裂して、2個体以上の親とほぼ同形の新個体となる。クローンのイメージそのままである。

同じように多細胞生物のヒドラでは、木の芽が出るように出芽城と呼ばれる部位から、体細胞の一団が親と同形の小さい新個体をつくって出芽し、母体から分離して独立する。個体の数を増やすことに関して、有性生殖よりも無性生殖の方が2倍有利であることはシンプルな真理である。

だからといって、有性生殖を行う動植物が劣っているという話ではない。数というシンプルで圧倒的なデータを前に惑わされるものではなく、二元論で語るものではない。

しばしば自然の情報を見直すと、観察者としての人間が安易に嵌り易い思考の罠として、既存の枠の中に押し込めようとすることは危険である。

有性生殖とは雄と雌が生殖に関わる特別の細胞を作り出し、両者の接合によって新しい個体を作り出すこと。

有性生殖のメリットとして、遺伝的多様性の増加による予測不可能な様々な環境に対応できることが挙げられる。赤道面上での染色体の並び方がランダムであり、個々の染色体がそれぞれ独自に分配されると、次世代に新しい遺伝子の組み合わせを齎すことができる。

また、病原体の攻撃を躱すことができるのは赤の女王仮説と呼ばれている。

この仮説は『鏡の国のアリス』から引用されているもので、大腸菌から人間まで何かしらの存在に脅かされていることを指す。つまり、現状を維持するためには、環境の変化に対応して進化しなければならないことを意味し、無性生殖よりもコストがかかるにも関わらず、有性生殖が行われる理由に挙がっている。

そのフィールド、環境で胡坐をかくことは種としての停滞を意味する。常に歩みを続けていないといけないというのは、自然というフィルターから与えられる警告なのかもしれない。

 

自殖と他殖がある。自殖の有利性は、他個体と花粉の遣り取りが要らないこと。両性花と花を作るためのコストを下げることができる。異性の他個体が近くにいなくてもいいことが挙げられる。その中で、花粉菅の伸長速度の違いによって起こる自殖による補償において、自殖というシステマチックなコントロールによる配分が見えてくる。これは個体のバランスとそのリカバリー能力を端的に示している。一方のみではないことから、種としての能率性が分かり、補完的でありながらも個体同士の連結という繋がりがある。前述のように自殖のメリットには他個体からの独立があるが、自立しながらも一つのコミュニティ、社会として組み込まれているのが分かる。

光合成との関連で植物が形を変えることも生き残るためのメソッドである。

暗所では傘型となり、枝と枝の間隔の成長が暗所では詰まるので、水平に形が広がる。面積を獲得しようとすることで、背の高さでは劣る植物が零れてくる光を得ようとするための適応を意味する。

一方で明所では円錐型がある。節間の成長が活発で垂直になっていく。高さを得ることで、光を手に入れようとする。

この2つのパターンから、形状を変えて互いに重ならないように光合成をするという提携感は奇妙な味わいがあるが、どれも個体としての生存本能から来るものであって、奇妙のように映るのは観察者の領域内である。

 

地球は水の惑星だ。その環境下では、水生植物と陸生植物と分かれるのは必然である。摂取できる水の量、温度変化の大小、紫外線によるDNA破壊の度合いを妨げる水の有無などといった比較性がある。

水生植物の利点、陸生植物の利点はどちらにも往々としてあり、それぞれが環境下に独自に適応していった過程で分岐した結果だろう。ツンドラ南極大陸にも植物が生えている。乾燥や重力の対応だけではなく、過酷な環境下でもそれに適応した生物が、当然のように存在している客観的事実は種の対応力の幅広さを意味する。

しかし、どの分野でも世代交代は訪れる。新世代へのバトンタッチは種としての希望である。

世代交代の一種に攪乱がある。生物の生育環境を大きく変え,空いた空間,つまり次世代の個体が利用できる生息場所を生み出すことだ。

攪乱がもたらす樹木の更新は代表例である。ギャップ更新はギャップの発生により光が射すものであるが、どこにギャップが生まれるか分からないために、数を撃てば当たるケースのように拡散力が必要である。縞枯れ更新は冬の偏西風が関係して木が枯れた結果、届いていなかった光が地表面に届くことでシラビソの稚樹が並ぶ。倒木更新は木が倒れることはその木の死を意味するが、それによって代替としてのスペースが空く。

そして、倒れた木の表面で成長する種子の存在も欠かせない。倒木の表層で種が生き残り易い例もある。生存競争と相互作用が次世代へ繋ぐ強さを死してもなお教えてくれる。焼け跡更新は煙草や焚火の不始末といった人災のみではなく、落雷という天災による山火事によって山が燃えて無くなること。

特異なのがジャックパインと山火事の関係性である。火事によって失われる生命は数多くあるが、火事という大規模な更新が無いと世代交代そのものができない例もある。それがジャックパインの種子である。

このように撹乱と再生のプロセスから、生態系に多様性が生み出される。

ニッチにおける共生、破壊と再生は循環している。左のようなサイクルは仏教用語の輪廻に通じ、ヘラクレイトスの「万物は流転する」などに共通しているが、歴史的に人間が発見してきた叡智は自然、世界との対話から齎された結果だろう。

同じように『星の王子さま』や『鏡の国のアリス』といった古典から見える自然の法則というのは、普遍的であり本質そのものを突いている。それらが人間に生きる術、気づきを与える。

前述の通り、人と自然の二項対立で語られることが多いが、自然・環境の中に人間が存在する。

人間が知恵を駆使して文明を築いたことにより、自然と境界線を引いたような錯覚に陥っているが、天災などで見つめ直す機会がしばしば設けられる。

自然との共生は、人間が生活していく上で永遠の主題である。

人間が環境問題などで自然に対して寄り添っていくという形式で語られがちであるが、環境における人間という主体の小ささは逆説的に自然の包括的概念の懐の深さを気付かせてくれる。

また、自然の中でも生き方の違いから様々な比較などがある。

人間は自然からの享受や恩恵を通して、自然の本質的な仕組みは二元論といったもので図れることではないと知る。普遍的で互いに働きかけているものだ。

片方にスポットが当たっていても限定的な尺度ではなく、幅広い視野と身近にあるという気づきを自然は人間に語る。

そこに共生の鍵があると思う。

私たちは環境、社会という円の中で自然と人間の立ち位置に触れることで、自然の美しさと暴力的でグロテスクな両義性と融合していくことでしか生きていけないことを痛感するのだ。

 

鏡の国のアリス (角川文庫)

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星の王子さま (新潮文庫)

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もののけ姫 [DVD]

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摂取したもの2018年8月

読書体験として8月は圧倒的だった。今年これ以上の充実感を生産できるか分からないかもしれない。是非とも今後も素晴らしい出会いを求めていきたいが。

再読も多く、今まで見えていなかったものが見えたというか新たな地平が拓けたのは進歩といっていいのではないだろうか。明らかに10代の時とは違う。やはり年齢を重ねるのは楽しい。更新する素晴らしさよ。見えなかったものが見えるのと同時に今のままでは見えないもの=よく分からないダークマター的なものの存在を認知できるのは嬉しい。要するに分からないものが増えたことが分かるのは喜びだ。

先月から続いていた西尾維新強化月間も一先ずピリオドを打った。西尾維新は達者だ。巧い。名前も作品も売れる理由は必然的だ。「ファイナルシーズン」までの『物語シリーズ』で描いたものによって感化され、庵田定夏ココロコネクトシリーズ』を再読して認識と自己批評的観点を据えたキャラ像をアップデート。結果的に『ココロコネクト』の補助線にもなったし、作品群の抽象的な部分がリンクして明瞭になった。

それを決定付けたのは『少女不十分』という作品。西尾維新という作家の姿勢、あるいは物語への寄り添い方が赤裸々的だった。告白そのものだ。これを〝パンツを脱いだ〟仕事と言わないでどうするんだって話。西尾維新の作家としての矜持を読んだ。

さて、森博嗣スカイ・クロラ』は再読。ハッキリ言って「分からなくなった」という感想に尽きる。初めて読んだのは18歳の時。『スカイ・クロラ』は一生を共にしていきたいと思った。いつまでも本棚に収めていたい作品になった。つまり結婚した。

大学のゼミ形式の講義で自己紹介をした際に、好きな作家は森博嗣だと答えたのを憶えている。その場にいた教授含めて全員がポカンとしていた。ハッキリ言ってクエスチョンマークの嵐。好きなものが他者に伝わらない孤独はとても冷めていて寂しいものであるが、あの時の自分を誇らしいとさえ思っていた。

しかし3.11を機に考えが変化した。

あの「時代と日常の切断」あるいは「空気と共同体の分断」によって〝終わらない日常〟が〝終わりある日常〟だと突き付けられた時、退屈で変わらない日常的な厭世観とその少しの超越性を描いた『スカイ・クロラ』の噓くささが恐くなってしまった。読めなくなっていた。遠ざけた。だから今まで再読が出来なかったが、久しぶりに読んでみて一筋縄でいかなかった。18歳の時に読んだ時の衝撃と作品への理解は確かに刻まれている。

しかし、今は「分からない」。作品への距離が開いた。あれだけ、そう、18歳の時に『スカイ・クロラ』を一番分かっているのは自分だと思っていたにも関わらずだ。

何故なのだろうか?それすらも分からない。やはり長い付き合いになるようだ。そういう運命だ。

村上龍はやっと読めた作家。過去に何度か断念した。『限りなく透明に近いブルー』は読書体験時間と作品内の時間の流れ方が違うのが面白い。文章表現の渦に飲まれた。中毒的でありながらも、作中の彼らは享楽的に映り得ない。何も変わらず消費していくだけの息苦しさという閉塞感とそこから抜け出せない絶望と虚無が暴力的に描かれている。全然、気持ち良くない。なのに、なぜ鮮やかなのだろうか。

町田康も初めて読んだ。まるで落語の中にいるよう。立川談志を思い出した。

ミステリとしては『身代わりの樹』と『ブルックリンの少女』が印象的だ。というかルース・レンデルはやはり上手い作家。

 

ルース・レンデル『友は永遠に』

佐藤尚之『ファンベース』

椎名誠『孫物語』

森博嗣スカイ・クロラ

ルース・レンデル『身代わりの樹』

町田康夫婦茶碗

村上龍『69』

町田康『くっすん大黒』

村上龍限りなく透明に近いブルー

円居挽『誰が死んでも同じこと』

押井守『勝つために戦え!監督稼業めった斬り』

ルース・レンデル『石の微笑み』

川上量生『鈴木さんにも分かるネットの未来』

エドワード・D・ホック『怪盗ニック登場』

横溝正史『女王蜂』

川上量生『コンテンツの秘密』

宮内悠介『カブールの園』

西尾維新『少女不十分』

長谷川宏『幸福とは何か』

西尾維新忍物語

宮内悠介『ディレイエフェクト』

西尾維新結物語

平野啓一郎『私とは何か』

西尾維新撫物語

麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』

麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』感想 新世界へ行け少女たち - フトボル男

西尾維新業物語

小川一水第六大陸2』

小川一水第六大陸1』

佐渡島康平『We are lonely but not alone』

西尾維新愚物語

ドナルド・E・ウェストレイク『逃げだした秘宝』

庵田定夏ココロコネクト プレシャスタイム』

庵田定夏ココロコネクト アスランダム 上 下』

庵田定夏ココロコネクト ユメランダム』

庵田定夏ココロコネクト ニセランダム』

庵田定夏ココロコネクト クリップタイム』

庵田定夏ココロコネクト ミチランダム』

庵田定夏ココロコネクト カコランダム

庵田定夏ココロコネクト キズランダム』

庵田定夏ココロコネクト ヒトランダム』

ギヨーム・ミュッソ『ブルックリンの少女』

辻村深月スロウハイツの神様 下』

摂取したもの2018年7月

西尾維新強化月間。

物語シリーズ』は『偽物語』まで読んでアニメも観ていた時に、「西尾維新が書きたい青春ってこの辺で頭打ちになるんじゃね」と思った。というか『偽物語』が良かったからなんだけど。そんでセカンドシーズンはアニメだけを惰性で鑑賞して中途退学していたわけだ。だからファイナルシーズンは未読未見だったのだが、まあ、読んでみたら有り体にいえば西尾維新は凄かった。平伏した。こりゃあ達者。小説が上手い。

それでもやっぱりセカンドシーズンは結果的に『猫物語』以外は乗れなかったのだけど、ファイナルシーズンは巧みでした。明らかに書きながらシリーズとして着地点を軌道修正しつつ、エポックとしての自己犠牲精神の主人公に自己肯定と自己否定と自己欺瞞と自己陶酔とその自己批評を捧げ、その一刺しをしてシリーズを清算したのだからスタオべ。なんかプロの仕事ってこんな感じ。

あとは、朝井リョウの『武道館』。 

『武道館』は朝井リョウがドルオタのあまりに『アイマス』的なステージ上の自己実現と模索を描いたのものだと当初は思っていたが、よりラディカルでリアルフィクションとしてのアイドルとドルオタの距離感、中景としてのインターネットの「みんな」との距離感そのものを炙っちゃう叫びだった。もうね恐ろしい。

「ネットであるからこその悪意≠人間にインターネットは早すぎた≠性悪説」みたいなのを小説にナチュラルに組み込んで、登場人物たちを甘やかさずに追い込んでいく朝井リョウって素敵な作家だなというお話であるが、本作はアイドルの鉄血の掟である恋愛禁止論と恋愛自由論についても掘り下げようとしているし、ドルオタ以外にも勧められる。ネットの悪意の表層化なんて朝井リョウは現代のトップランナーじゃないの?『何者』を読んだ時に確信したが、これぞネットだ!

私なんかはドルオタと呼べるものではないけども、平成を彩るコンテンツに48グループを外せないし、アイドル戦国時代だからメジャーなものは最低限履修しただけだが、当時デビューしたばかりの欅坂46サイレントマジョリティー』を聴いた時にぶっ潰された気がした。48グループと坂道グループ、あるいは欅坂46乃木坂46との違いや欅坂の袋小路感や新たなアイドル像と恋愛ルールは色んな人と幾度なく話しているが、『武道館』を絡めつつどこかで形にできれば。

ちなみに推しは元乃木坂46橋本奈々未でした。

 

辻村深月スロウハイツの神様 上』

西尾維新暦物語

西尾維新『本題』

多島斗志之『不思議島』

西尾維新続・終物語

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西尾維新終物語 上・中・下』

西尾維新憑物語

スティーブ・ハミルトン『氷の闇を越えて』

多島斗志之『感傷コンパス』

西尾維新恋物語

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西尾維新花物語

西尾維新傾物語

朝井リョウ『武道館』

西尾維新猫物語 白』

西尾維新猫物語 黒』

西尾維新偽物語 上・下』

榎本博明『自己実現という罠』

田中芳樹銀河英雄伝説 10』

田中芳樹銀河英雄伝説 9』

米澤穂信『王とサーカス』

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 12巻』

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古沢広祐『みんな幸せってどんな世界 共存学のすすめ』

田中芳樹銀河英雄伝説 8』

田中芳樹銀河英雄伝説 7』

田中芳樹銀河英雄伝説 6』

田中芳樹銀河英雄伝説 5』

幸福の定義に関する中間報告

幸せとは何だろうか。

幸せの定義とは人それぞれだ。

カネで買えると言う人もいれば、カネでは買えないという人もいる。

時代によって価値観や倫理観は違うが、一般論として語るならば、好きな人と一緒になり、子どもと共に成長していけるような人肌の温もりを感じられる家庭を築き、愛や承認が公私ともに充実して満たされている状態。

これも幸せの一つの形であるはずだ。

しかし唯一の正解ではない。あくまでも蓄積されてきた一つの事実であろう。

彼らは、自分の家の四つの壁に取り囲まれ、衣裳箱とベッド、テーブルと椅子、犬や猫や花瓶に囲まれて幸福になれるのである。

ハンナ・アーレント『人間の条件』

家族のプライバシーが求める幸せの形だと追求した結果、外側から隔離された空間を生み出した。外側つまりパブリックな空間に対する参加する自由を削いでいると逆説的にハンナ・アーレントは批判したことがある。

自由とは状態そのものを指すものではなく、行為の態様を示すものであるという前提で、小さな空間に閉じこもっているか、壁を打ち破るかの選択肢自体は自由を指すものであるが。

jp.reuters.com


幸せとは主観的な価値観である。

客観的に、端からみて貧困で充足感が無さそうな人でも、当人からすれば余計なお世話ということもあるだろう。同情するなら金を寄こせ馬鹿野郎。

カネがあるから心が豊かであり、ないから貧しいというわけでもない。

しかし、カネはあればあるほどに困るものでもない。悩みの種は税金くらいだ。

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 とある記事に書かれていたのを引用しよう。

重要なのは、幸福の感じ方や生き方に対する価値観は個人差が大きく、多様性があるという認識だ。

 この手の幸福度指数ランキングが公表されると、日本は大概低い数値を叩き出す。

そして、「先進国のわりには」と紋切り型の文句を並べ、傷に塩を塗り込むくらい。

当人が幸福であればそれでいいものだ。

しかし、どうしても比較と競争は避けられない。それがストレスに繋がっていると分析されているが、それはそれで。

 

 

ここからは無粋な話。

幸せの定義、尺度というのを敢えて大別的に分けるなら、「時間」、「空間」、「資産」になるだろうか。

これらの総称を「環境」と呼称しても差し支えないだろう。

「環境」が整っていれば、幸福は満たされるものだと実感している。

例えば、私は本が好きだ。

本を買うのも読むのもどっちも好きだ。書店で本を大量に購入したとする。購入するためにはお金が勿論必要だ。大量に買ったその本を家に持ち帰っても、収納するための置き場が無いと不便である。本棚だったり、一か所に置いとける場所が欠かせない。本というのは不思議なもので、いくら積んでも困らないもので。それは精神的にはであるが。しかし、確実に空間を蝕むものである。そして、本を読むためには時間が必要だ。本というのは読むものである。積本の山を崩す快感を得るには、本を読まないといけない。積読を断捨離という言葉で切り崩すのは言語道断である。

 

 さて、「環境」を整えるということは、「時間」、「空間」、「資産」なくして成り立たない。

しかし、これから私が提示する幸せの価値、定義は上記とは一味違う。

記事中に持ち出しておきながら幸福度指数のように幸せなるものを敢えて数値化すること自体が野暮ったいものであるが、データとして出されたら人間は気になるものだ。

それを肴に憂うのも悪くないし、ルサンチマンを気取りながら「あれ、ニーチェって誰だっけ?」と酒を飲むのも良いだろう。

ここで、幸福を意図的にバロメータ化するための尺度を示したい。

私は、さきほど大別的にした「時間」、「空間」、「資産」ではなくより厳密な幸せの定義を発見した。

  • 「飲む」、「打つ」、「買う」。

「飲む」

には、飲むための酒が必要だ。酒を買うには金が掛かる。酒を飲む場所も必要だ。まさかテキトーな公園や電柱の陰で飲むのは危険だ。親父狩りを誘っているのも同然だから。俺をボコボコにしてくれと言わんばかりだから。また、酒を一杯引っ掛けるだけなんてそれは寂しいもので、飲まれに飲まれていくのが酒の魅力であり、程よく酔うためには時間もある程度確保することが求められる。ちなみに滅法飲めなくなったので酒が嫌いだ。

「打つ」

には、打つための金が必要だ。また、合法的に打つための場所が必要だ。マカオとかラスベガスとかいずれお台場も。カジノ法案通ったぞ。トランプ大統領ハンパねえ!マカオに行くための金も必要になるだろう。マカオに行くための時間とマカオで観光する時間とマカオで土産屋を素見す時間も大事だ。勿論、ディーラーとの心理的駆け引きや金銭的リスクなどを考慮するための時間もなくてはならないし、大敗けしてずらかる時間、黒スーツの連中から愛撫して貰う時間も空間も必要である。ちなみに賭け事は苦手だが、ドラクエのカジノだと強気だ。

「買う」

には金が必要だ。買うための場所も同様に。そもそも売ってないと買えないから。もろもろ合法的な場所。適切な配当率で。そこに行くまでの時間も必要だ。理解も大事だ。共感は別として。そもそも何を買うかって?女?んなわけないだろ。女性に優しくしろよ馬鹿。俺にも優しくしろよ馬鹿。買うのは現実だ。現実の地続きとしてある確かな夢を獲得するための現実である。それを得る=「買う」には金だ。金。金。金。

宝くじを買う人っているじゃない。あんなの、普通に買ってて当たるわけがないのにさ。それなのになんで買うのかと言えば、「夢を買ってる」って言うんだけど…、その言葉を聞くたびに私なんかは思っちゃうわけだよ――『現実を買え』 阿良々木月火

偽物語(上) (講談社BOX)

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以上のように、「飲む・打つ・買う」は「時間・空間・資産」といった包括的な尺度になる。

まだ仮説の段階であるが、私は今後も研究を重ねていく。

そのためにはフィールドワークが欠かせない。

クロフツ型みたく靴底を擦り減らしてこその現場主義。机から離れたこともない地理学者とは違う。*1

まずは現実的な話として、宝くじを買うところから始めるとする。

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