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可哀相じゃない!

森田るい『我らコンタクティ』感想 ロマンと現実を巡る功罪

 

我らコンタクティ (アフタヌーンKC)

我らコンタクティ (アフタヌーンKC)

 

『我らコンタクティ』とは何なのか?

と問われれば、私は「ロマンの功罪」だと答えることだろう。

それは言い換えるならば「光の功罪」でもある。

光があれば、影もできる。光と影の表裏一体性。

印象的な着火シーンが幾つも本作にはある。

例えば、エンジンの燃焼実験シーン。梨穂子が万札に火を着けるシーン。工場内での小火シーン。ロケットの発進シーン。

どれも人の心に火が着く象徴となっている。火の煌めき(火偏!)は魅力的でありながらも、その功罪という両義性も垣間見えるようにキャラやコマ内の輝きと陰影が配置されている。

火=光のアンビバレントさでいえば、カナエはポジティブな意味で魅せられたキャラであるし、一方で梨穂子はネガティブな意味で魅せられている。

そして、ラストが象徴的であるようにカナエも常にポジティブな火=光が当たるわけでもなく、現実的な対応が迫られたように、一面性というのは刻々と変化することも描かれている。

その両義性はロマンには付き物に違いなく、ロマンの光の側面だけをみれば万事幸せなのかもしれない。本作の、法的に、あるいは慣習的に行き過ぎた結果が本作の最終話で示されている結末だと簡単に述べることはできるが、しかし、それだけでもない。

不思議な作品だと思う。

計算高いカナエが、技術者のかずきを上手く利用して一攫千金を狙うかのような導入から、ロマンに導かれて思わぬ方向に物語は展開していく。

カナエとかずきは決して選ばれた者でもなければ、〝持つ者〟でもない。うだつの上がらないクソ環境で淡々と日常を送っているとも言える。

カナエがかずきのロマンに乗っかり、打算的な態度を示していたが、内在的にロマンを獲得していく姿勢の変化がある。あくまでも他人の夢で、儲け話程度に捉えていたロマンが、自身の夢の一つになっていくことで、当初のカナエが抱いていたであろう現実的に、合理的な金銭への交換ではなく、それを超越した結果(現実としては合理的であるが、カナエにとっては不利益となる事実)を甘んじて受け容れる態度にキャラの単一的な成長ではない、変化として描かれていることが分かる。

現実として彼女たちは逮捕されて作品は終わるので、アン・ハッピーエンドのように受け取れるが、ロマンの目的は達成しているために、現実を超克してしまった彼女たちのリアルが提示されている。単純にハッピーエンドやアン・ハッピーエンドと括れない魅力があり、その綱渡り様な両面性こそが『我らコンタクティ』が根底として宿しているマンガの上手さから誘発される物語=情報の魔力ではないだろうか。

この作品は、非リアがリア充になった末を描いているとも受け取れる。

青春に年齢は関係ない。青春に早いも遅いもないのは明白だ。

リア充になるかどうかは、ありきたりな日常風景にどのようにロマンを獲得するかが問われる。ロマンがあれば日常が彩る。充実する。

そのようなロマンは内的(心理)や外的(物理)と分けられるが、本作では宇宙空間にロケットを飛ばし、映画を上映することが目的であるから明らかに物理的な欲望となる。

その実現のために奔走する彼女たちのドタバタ劇であるが、この作品世界はとても狭い。ローカルでミクロな世界観である。決して対立する大企業や国家が出てくるわけでもない。地方の、民間の、下町工場が勝手にロケットを打ち上げるという倫理や法的拘束を度外視して行き切ってしまうロマンであり(端から見ればロマンの暴走)、その功罪を丁寧に描き切ったといえるのではないだろうか。

日常においてロマンを獲得することはリア充になる秘訣であり、どのようにロマンを昇華していくことが求められていく。

同時に距離感が図られていくことだろう。宇宙=ロマンまでの距離のみならず、カナエたちを取り巻く人間関係の距離感(第1~3話)やロマンと現実の距離感(エネルギー問題、金銭問題、打ち上げ問題といった現実との対立)を極々ローカルな世界観のみで示されており、それぞれの距離感が縮小しても、ロマンの規模に比べてキャラの数は段々と仲間が加わっていく構成にしてもそれほど多くなく、狭い内輪の物語だといえる(かずきの動機が宇宙人に映画を見せたいものであるから必然的な狭さであるが)。

この作品は「ロマンの功罪」であると冒頭に記した。

誤解を生みやすい表現であるが、ロマンと現実の衝突から教訓的に描いているわけでもなければ、ロマンが現実的に回収されるカナエたちの後始末を説教臭く描いているわけでもない。況してやロマンに身を委ねたカナエたちの破滅の美学といった高尚なものでもない。

本作のロマンは、映画という娯楽を森田るいの言葉を借りれば「宇宙に逃がした」という果てしなさにある。

それをドラマとして完結させた。

PC的にアウトであるとかの現実的なツッコミもありつつも、ロマンとして、物語として読ませたことに意味があると考える。このような閉塞的な空気感がある現代において、その空気の殻を破る代表的な作品とまでは言わなくとも、また社会反映論的にその気分を大いに表現しているとも言わなくとも、何かしらの大きな空気に接続させる(ここでは横柄な接続と書く)ものでもなく、現実という尺度で作品価値を図ってしまいがちな固定観念に対して、「ロマンの功罪」という点において「宇宙に逃がした」結果が齎す意味は計り知れない。

以下から具体的に各話毎に見ていこう。

第1話 仕事をやめられるかもの巻

冒頭から会社の飲み会でセクハラ、パワハラを受けているカナエの悲惨さが印象的な始まりが描かれている。このコマ内の情報だけで牽引力がある出足になっているのではないだろうか。

P.4の場末のネオン街に「ろくでなし」と読めなくもない看板があるのがユーモアが効いており、カナエの心理状況と風景が一致している。

夜の闇と光が対照的に、流れていく車の光に思わず独白するカナエ。

きれいだな

このモノローグは、コマとコマの間に配置されており、キャラの脳内思考そのものをフキダシで表現することはあっても、コマとコマの間に置く、完全なモノローグは本作では相当珍しい。これは、コマとコマのエアポケットをそのまま使用したコマ割りであり、カナエの心のスキマという心的表現をしているためだと考えられる。

ろくでもない日常に対して足取りが重そうなカナエは当然目線が下向きであり、だからこそ、歩道橋の下を走っている車の光の線に気付くといった目線の自然な運動性がある。

その直後にかずきと再会するものの、ストーカー疑惑が持ち上がり、ダッシュで逃げるカナエ。慌てて逃げたために足を踏み外したのをカナエの右手をかずきが掴んだのがP.8

そこから歩道橋にいた二人が、P.9ではかずきの工場内と場面転換が行われている。

かずきの工場から歩道橋を見るカナエ。かずきの発言に偽りが無いことが示されているが、歩道橋と車と工場のそれぞれの光と位置関係=距離感を示すシーンとなっている。

本作はとてもローカルな話で、舞台は工場と自宅とオフィスと場末のクラブと歩道橋であり、カナエとかずきは地元に住み続けているのが分かる。小学校時代の同級生が出会う必然性を考えれば、地元という土着性は必要になるからだ。

P.12 燃焼実験のシーンでは、見事に光と影がマンガ的に表現されている。

『我らコンタクティ』は夜の風景が多く、自然と灯に対して陰影が付きやすいコントラストな状況が描かれている。それは上記のような両義性を提示しているとも受け取れる。実験後のカナエの白目がインパクトが効いており、白と黒というモノクロ表現で、どれだけ色彩的な豊かさと奥行きを生み出せるか、とそのショックを表現できるかという意味において、コントラストが明確になっている。

燃焼実験後、ロケット開発が金になりそうで会社を辞められるかもしれないという予感を抱くカナエ(P.15)。エンジンがクリアに描かれず、光として描かれているのが象徴的で、つまり目印や希望を意味する。

この時点では、かずきのロケットを打ち上げる目的は明かされておらず、カナエにとっては儲け話の一つになるかもしれないという可能性の段階でしかなく、どのようにお金を集めて会社(冒頭の飲み会シーン)を辞めるか否かという個人的な現状への対抗案に過ぎない(P.17では、帰宅早々にクラウドファンディングベンチャーキャピタルについて調べているカナエ)。

P.25ではカナエの自尊心が垣間見える。母親にかずきとのデートを疑われたカナエであるが、かずきが恋愛対象外であると撥ね付けている。この物語において恋愛のベクトルは描かれず、仲間の友愛として飾られている。

かずきは変わり者のもやしっ子 友だち一人もいなかった

私は明るく元気でクラスの女子のリーダーだった

つりあうわけがないじゃない

かつてスクールカースト上位であったカナエとボッチのかずきという対比があるが、どちらも地元暮らしで、かずきは勿論のこと、カナエの友達らしきキャラは登場しない。またリーダー的存在だったカナエが、現状のセクハラ会社に不満を溜めているのは冒頭から明らかであり、金さえあれば会社をいつでも辞めるつもりでいる。それは現状の会社に満足しておらず、お金の為に従事しているだけとも取れ、かつてのリーダー的存在から遠く離れた現状のカナエの自尊心や実存性が見えてくる。

そして、かずきを見下ししていたカナエ。もやしっ子であったかずきの面倒を見ていたリーダーという構図から、時が経ち、身長や目線が逆転(P.25)。

P.35で、かずきの口からロケットを飛ばす目的が明かされる。

映写機も一緒に飛ばす

宇宙で上映する

燃焼実験は燃料が勿体無いからしないかずきが、なぜカナエだけに見せたのか。なぜストーキングしていたのか、がこの時点で分かる流れ。

小学3年生の時に学校で観た映画がすごく良く、その翌日に公園でカナエとかずきがUFOに遭遇した思い出のロマンチシズムが動機だった。

P.38のかずきの「UFO」というコマの構図。

「UFO」のフキダシに対して、二人の距離とミドルの構図。突拍子もないファンタジーなことを言ってのけたかずきのセリフの滑稽さと、全体を捉えるようなコマによって独特のテンポが生じている。

小学3年生時代の思い出からずっとロマンを抱いていたかずきの真面目な狂信的態度と、果てしない欲望のギャップが明らかになったシーン。

ここで、森田るいのあとがきを引用すると。

私は映画が好きで、人類が滅んでも地球がなくなっても映画だけはのこってほしいという欲求から、映画を宇宙に逃がしました。

かずきの動機は映画を介した宇宙人へのメッセージとコミュニケーションであり、厳密にキャラと作者の動機は当然一致しない。森田るいが述べているように、宇宙人云々よりも映画という文化を保存するための措置として、どのように物語に落とし込むかという思考実験が、かずきのような動機が物語的な意味になったと考えられる。

ここで重要なのは、森田るい自身が宇宙人の存在を信じている・信じていないではなく、「映画を宇宙に逃がす」ためのロマン=目的を物語として成立させるためには、宇宙人へのメッセージというかずきのロマンへと変換した方が面白いということだ。

まぶしかったね

P.41~42では、工場内でのかずきの作業を眺めるカナエの顔に光が当たるシーンから、小学3年生時代の回想のUFO自体は明確に描かれなくとも、強烈な光が上部から照らされているという光の連続のシーンがある。

ロマンの神々しい光が、時間を超えて、小学3年生時代とイマをリンクさせるかのように映し出している。

第2話 八百屋お七で危機一髪!の巻

カナエは仕事を辞めずに仕事終わりそのまま真っ直ぐに工場へ。

今日 何 手伝えばい――?

カナエちゃんは来ないのがいちばん いい

この遣り取りからみても、第1話から数日は経ち、カナエは毎日のように通っているように受け取れる。

持ち上がるのはエネルギー問題。

どのようにエネルギーを獲得し、充足していくのか。ソーラーやケーブルは太陽系外へ飛ばすことを考慮すると現実的ではない。太陽系外というスケールに比例するエネルギーという現実的な問題である。なぜ太陽系外なのかは、UFOとの遭遇率を上げるためと他の人間に見付からないようにするためという極秘プロジェクトであるから。燃焼実験を見ているのも、カナエとかずきというロマンの規模に比べて少人数。理由はUFOを見たのがその二人だから。

ここで分かるのは、二人は同じ記憶と体験を共有する同士であり、仲間であること。この作品には前述のように性愛的描写はなく、あるいは単なる男女の友情物語に落ち着くものでもない。同じロマンを目指す同士としてカナエとかずきが描かれている。

P.50 夕飯を食べに工場から外に出ていくカナエとかずき。次のページでは2コマ分移動して、梨穂子のいる「みず色クラブ」に辿り着く。このローカルさと近さが印象的であるが、ここもクラブのネオンが夜景の中で寂しげにぽつんと光っている=目印になっている。

どこ行くの?

お腹すいた ごはん

こんなへんぴなとこに食べるとこなんてあんの?

地元民のカナエですら知らない辺鄙な場所に梨穂子のお店はある。

P.53 梨穂子のお店で、結果的にエネルギー問題を解決するモチーフとなるテラリウムを発見したシーン。自己充足しているシステムとして登場し、これが後の梨穂子が自己完結・自己充足していないが故にみせる嫉妬心との対比にも見える。

テッペイと不倫中の梨穂子には表の顔と裏の顔がある。

愛想よく振る舞う表の顔と、嫉妬に駆られ衝動的にお金に火を着けてしまう裏の顔。

この火は情動の表れであり、嫉妬や野心や希望として本作ではモチーフになっている。ポジティブな意味ではロケットのエンジンが代表的だろう。

P.60 カナエがかずきのお使いで外に出るシーン。吹きすさぶ風の中を歩くカナエから、コマの奥にはかずきと再会した歩道橋が見える。その直後にテッペイと梨穂子のゴシップのような不倫現場を目撃する流れであるが、この狭い生活空間から殆ど脱け出していない日常性が見て取れてる。

P.64 梨穂子が一万円札を燃やしている現場に居合わせたカナエ。猛烈に息を吹きかけて鎮火させたカナエは「いらないってことですよね これ 燃やすってことは いらないってことですよね くださいよ」と取り上げるお金への執着は相変わらずの様子。

P.66 梨穂子さんこそ大丈夫? お金だよ?

倫理的な問いかけであるのに、カナエがいうとお金への執着心という側面にしか見えなくもないのが面白い。

現実的にお金を渡せばコントロールできると思っているテッペイと、対抗したい梨穂子の女としてのモラルへの反逆の構図になっており、危ういバランスを感じさせる。

その後、カナエはテッペイからお金を貰ったら私に下さいと述べ(P.68)、代わりに梨穂子にLED焚き火をプレゼントした。このLED焚き火はテラリウムと同じく自己完結・自己充足的なアイテムとして登場している。梨穂子の為を想っての優しき行動であるのに、どうしてもメリットありきな念入りの行動に見えてしまうのがカナエ。

見下したいのよ

お金を渡すことで優位に立ちたいのよ!!

ちっちゃい男!!

しかし、カナエからプレゼントされたLED焚き火では飽き足りず(P.74では店内一人でいる梨穂子はLEDライトを捨て、万札に火を着けるコマが配置されている)、また酔っているカナエに対して火について熱っぽく語る梨穂子の執着というのが窺える。

ぜんぜん ダメだよ こんなん

ホンモノの火ってーのはねー

こーよ こー

きらめきがちがーの

放火癖とまではいかなくとも、燃える万札を片手に眺める梨穂子の異常性から、火の魅力というのがイコール光として表れている。

前述のように、この火=光の煌めきはネガティブな意味が付与されていると思われる。梨穂子の埋まらない孤独や火を思わず着けてしまう衝動や背徳感。それはまさに不倫と同じようにモラルへの対抗であり、常識的な領域で言えば梨穂子は放火未遂という罰せられてもオカシクナイ暴走をしてしまう。

テッペイの工場に灯油を持っていって火を着けようとするシーンから、テラリウム発電機(P.83)が、梨穂子がモチーフとなったことに感謝するかずきの構図まで、テラリウムの光が梨穂子とかずきの顔半分に当たり、陰影が出来ているところが、光と影の境界線的でもあり、梨穂子の光と影でもある。そのアンビバレントさは、工場に火を着ける動機となる嫉妬であり、孤独でもあった。

楽しそうにやっているカナエやかずき、あるいはテッペイに対して、梨穂子はなぜ自分だけ?という疎外感を抱き、何に対して転嫁すべきか分からない心の闇そのものとして描かれている。その衝動性が思わず火を着けてしまうという理性の暴走に繋がり、他人に転嫁することで自分への痛みを緩和させようとしている梨穂子の問題として表れている。

なんで みんな 楽しそうなの?

私だって 楽しいこと たくさんしてる はずなのに

ずるいよ

P.91も、放火未遂をした梨穂子に対してかずきがドロップキックを喰らわせた後のシーンであるが、梨穂子の顔は工場内の灯が届かない闇夜にあって光が届いていないために暗く、顔から下の身体は工場内の灯が漏れて光が当たっているということから、光と影の境界線が生まれている。

踏ん切りをつけるために、工場の敷地内で小火を起こし、発散のために炎の中にペットボトルを投げ捨てるかずき達。

P.95の梨穂子がペットボトルを捨てるシーンは、火=光に向かって投げる運動性が丁寧に描かれており、それまでの背景が真っ黒=夜だったのに対して大きなコントラストがある。

この第2話から、カナエが仲介役としての距離感を生むバランサーのような機能性が描かれている(第1話の松前社長を工場に案内した際も該当するが)。

例えば、梨穂子のお店で居合わせたテッペイとかずきの間を取り持とうとしたシーン(P.55)。

また、P.84以降のかずきと梨穂子の間に加わるようにコマに登場するカナエのように、それぞれの距離感の間を埋めるようにしてカナエが位置している。

さらにP.97もその一つであり、改心した梨穂子が「自分で解決できる気がしてきた」という台詞はテラリウムやLED焚き火と同じように自己完結を意味している。

第3話 お兄ちゃんと夜明けの巻

あーー直帰

だ~~いすき~~

カナエは仕事終わりにそのままかずきの工場へ。操業中の時間であるから暇を持て余すカナエであるが、テッペイの違う顔を見て「別人のようだな」と思う。

P.108 上っていたバイクから落ちたカナエに手を伸ばすテッペイ。バイクから落ちた音を聞いていたかずきはスルーをしていたが、テッペイは「こないだは俺が悪かったよ」と謝罪もした。

第2話とは打って変わったテッペイの両面性が描かれており、酒癖の悪さはそのまま第3話ラストにも繋がるが、梨穂子にその旨を話す(P.110)と、梨穂子目線でテッペイの両面性について的確に語っているシーンがある。

あ~~~

外ヅラがいいのよね~

そんで外ヅラの方を自分と思ってる ホントはちっちゃいヤツなのにねぇ

梨穂子の両面性が暴かれたのは第2話。

それを経て、梨穂子も自身の弱さや醜さを自覚した上での、このテッペイに関するセリフであるから説得性が高まっている。もちろん、不倫相手だった当事者性という事実もあるわけであるが、第2話を踏まえた梨穂子の経験から語られる外ヅラと内面性の埋まらないギャップは象徴的だろう。

そのままかずきとテッペイの兄弟間のコンプレックスの話を憶測で語る梨穂子。

ヤキモチかなって思うな

テッペイくんは頭カタイし プライド高いから

かずきくんみたいな振る舞いが

うらやましんじゃないかな

小道具として煙草をさり気なく取り出すシーンであるが、火を着けるのはカナエ。

テッペイの心中を推察をする梨穂子に火=光を近づけ、核心を突くべく究明しようとする態度とその目印としての煙草の光が、何気ないコミュニケーションの中でのモチーフとして表現されている(カナエが煙草を吸うのは第1話以来)。

ここで明らかになったのは兄弟間のコンプレックスであり、振る舞いにおける嫉妬や責任の問題。そのストレスから解放されているかずきと、長男として引っ張られてしまうテッペイという図式になっている。その理由を端的に「ヤキモチ」と表現した梨穂子の慧眼だろう。

その後、発電テラリウムが完成し、無事に映写機が回ることが確認が取れたカナエたち。

P.120では映画を観た梨穂子の感想が「ちゃんと映画見れたね」であることから、映画の内容どうこうではなく(映画についてはP99で興味を示している)、テラリウムの出来栄えに関する感想にすり替わっているのが興味深い。

しかし、その理由も音が出ていなかったことがカナエのセリフから分かる構成。

なんで

音 無かったの?

宇宙空間では音が伝わらないからという合理的な理由で削いでいたかずきであるが、宇宙人がどのように音を拾うか分からないのに、況してや人間の持つ常識的な理論ではない相手に対して、人間の都合で可能性を切り取るのは勿体無いのでは、と本質を突くカナエ(最終話P.254のスクリーンでは音が出ているので、この疑問は回収されている)。バカにしていたカナエがクリティカルな問いを発したことで、目から鱗が落ちたかずき。

この常識への問い掛けや疑いという面は、結果的にロマンの功罪を描いた本作の根底にある常識との対立とも受け取れる。

順調に技術システムを完成させているかずき達であったが、現実として立ちはだかる打ち上げ問題へと移行していく。この問題は最終話まで付き纏うものであり、大きな壁として存在していく。

スマホで調べるカナエたち。ここでもスマホの光が目印になっている(P.131ではカナエは食事中や入浴中にも調べ物をしている)。

ブリグズビー・ベア』でも作中で主人公が、映画を作る際にググって調べるシーンがいくつも出てくるように時代性を考えると、スマホやPCが登場するのは自然なことだろう(第1話でクラウド・ファンディングを調べているカナエの姿が描かれていたように)。

P.126 工場を離れて梨穂子の店へ向かう二人。歩道橋がコマの奥に相変わらず配置されており、背景と呼べる建造物は変化していないし、新たに登場することもないローカルさそのままが表れている。

また、暗い夜道が先行きを予感させるように灯=目印が不在のまま歩く二人。

……とはいえ

そーいや 作るのに夢中で

具体的な

打ち上げ手順とか

全然考えてなかった

 

まっしぐらだねー

2人とも

P.132 テッペイがロケットを壊そうとしているシーン。その音で深夜3時に目を覚ますカナエ。カナエの家と工場の距離感が示されている。この作品世界のローカルさが如実に表れている。

何時に何してんだよ

ホントに

こんな 田舎でよォ 

ロケットを壊そうとするテッペイに対してかずきが応戦し、かずきとテッペイの殴り合いが繰り広げられる。

ケンカもまともにできない弟なんて

最悪だよ

俺がいじめてるみたいになんだろが

なんかひとつでも

俺に勝ってくれよ

兄としての責任と威厳が捻じれてコンプレックスになっているテッペイの告白。

仕事や生活というレベルにおいても、楽天的なかずきに対してストレスを抱えており、兄弟ケンカをやるにも弱者相手ではイジメになると零す。つまり、ケンカは対等であるからこそ成立するものであると示されている。

1発の重さは負けるけど 酔ってる兄ちゃんには勝てるよ

あと

他は全部負けても

旋盤も溶接も磨きも俺のが上手い

兄弟としての比較、競争で一人の人間としての生活力では負けているが、一人の技術者としての能力で兄を上回るという自負を覗かせたかずき。その弟のプライドに気付かされたテッペイの顔に光が射す(P.144)。

かずきが技術者としては自立しており、頼られることで兄として確立していたテッペイの寂しさ(かずきに相談された時の嬉しそうなリアクションはP.147)が一つの要因として描かれているが、兄弟間の距離感が印象的である。

結果的に梨穂子の見立ては間違っておらず、テッペイの孤独や両面性が露わになったシーンであり、兄弟という立ち位置の中でどれだけバランスを見出していくのか、その距離感において一人の人間としてどのように自立していくのかが提起されている。

はじめて ケンカできて

今 ちょっと ウレシイ

このセリフは兄弟が、お互いがケンカを経て対等になった証となっている。

また、P.57でケンカをしたことがないと言っていたかずきのセリフと対応しているのは間違いないだろう。

第4話 絶対一緒にの巻

いつの間にか船の免許を取っていたカナエ。

無人島をレンタルしてロケットの打ち上げ計画を進行している様子が描かれている。

同時に付き纏っていたであろう金銭的な問題も、テッペイの尽力によって解決したことが分かり、打ち上げが成功するか否かというローカルな賭博にカナエの母と祖父が参加していることも後々判明するシーンがある(P.170)。

計画のために無人島へ毎週末渡航し、準備や資格習得や要点を抑えることを怠らない熱心なカナエだが、しっかりと儲け話への執着は第1話以降揺らいでいないのが見て取れる。

そんな儲け話

私が思いつきたかった!!

しかし、ロマンに対立する警察が登場するのが第4話。

この警察はイコール現実として描かれており、ロケット=ロマンとの二項対立的モチーフとして成立している。

警察に対して、ロケットのポイントを説明するカナエ。カナエの説明上手なシーンはこれまでも幾つかあった(P.102では営業トークをしているカナエが描かれ、その直後に梨穂子にテラリウムの説明するカナエのシーンがP.116にある)が、オタク気質な安川教授のテンションが上がっているのが印象的である。

これまでロケットの目的の説明をしてもリアクションが薄かった松前社長や警察(P.162)という現実に対して、ロマン派である安川教授だけは理解を示している。前後するが、ロケットを一目見たときの安川教授の「立派なもンですな~~」について、褒められて嬉しそうにしているカナエも描かれているように、一定のロマンの共有が果たされている。

そして、打ち上げの目的について宇宙人に映画を公開するためであることを明らかにしたかずき。それを「異星文明へメッセージ」と飲み込んだ安川教授のロマンへの一定の理解がある。

映画自体はUFOとの邂逅のツールになったものであり、言い換えるならロマンと現実を繋ぐアイテムでもあった。その、それぞれの距離感を媒介するのが映画であり、第2話以降で示されているカナエのようなバランサーの存在が、本作の根底にある距離感を生み出していると考えられる。

だが、当然ながら理解を示した安川教授によってロケットの打ち上げは危険判定を下される。これが後のロマンの暴走、つまり冒頭に記した「ロマンの功罪」へと雪崩れ込むことになるわけであるが、現実とロマンの折衷案としてロケットの目的を一般化させることを提案する安川教授。

しかし、その提案は本来ならば手段でしかない打ち上げることが目的になっており、かずき達のロマンである映画を宇宙人に見せるという目的が排除されているものであった。

ここで、現実的に打ち上げ問題の危機が描かれている。

P.170では帰宅後のカナエがソファーにダイブして不安を口にする。

現実問題として、身近に浮上したロマンの挫折と先行きの不透明さが表れており、その次のページでは朝7時にアラームが鳴り、起床するカナエが「月曜……キライ……」と一人愚痴るシーンがある様に、毎週末無人島に行くルーティンが出来ているカナエにとってはロマンが日常化した週末に対して、月曜というのはロマンが剥奪された当たり障りのない、ロマンから醒めざるを得ない日常が待っていることを意味するが、この直前に警察と安川教授から警告を受けているカナエにとっては、ロマンの危機的状況でありながらも、それでも「月曜日」という日常=仕事が平穏とやってくることに嫌悪感を抱いていることが読める。

その後、ロケットを緊急的に打ち上げようとするカナエ達であるが、尾行と無線を傍受されていたために露見し、未遂という結果で終わる(P178)。

また安川教授からかずきの技術力を見込まれてスカウトされるシーンから、妥協案を示され、承諾するかずきに対して明らかにショックを受けるカナエ。P.182からP.184は、カナエにとってはロマンが打ち砕けた瞬間であり、ロマンを共有していたかずきとの別離あるいは合理的な裏切りによって、目線が下を向いているように描かれ、虚ろとなっている。

P.186 尾行を巻いたかずきとの筆談シーン。

ここで描かれているのは、アナログとデジタルなコミュニケーションの対比である。前者は筆談やテッペイからの手紙。後者は無線や携帯電話。

アナログのコミュニケーションは対面でしか機能せず、だからこそ筆談シーンは象徴的であるが、デジタルは相手の距離感に左右されなくとも成立するという差異がある。

アナログで原始的という意味では、P.194からの海を泳いで島に向かうシーンも同様に身体性が如実に描かれており、先にリードして泳いでいくかずきと後方を泳いで溺れかけるカナエの構図から、小学生時代のヒエラルキーは完全に無化している。

カナエちゃんみたいなバカでも

一緒にやってて楽しかった

ずっと一人だったし

カナエちゃん来て いろいろ変わった

良くなった

ありがとう

初めてカナエに感謝を述べるかずきのシーン。また自己完結していたかずきが、他人との相互作用でかずきの現実が変化していったことについて語っており、カナエとの絆を感じさせる。

カナエが来てからかずきが変わったように、カナエもかずきと再会してから変化した(P241)。

『我らコンタクティ』という作品において、主人公は間違いなくカナエである。

カナエという仲介者によって、それぞれの距離感は変化したからである。梨穂子、テッペイ、ロマンと現実といったように、カナエ自身も淡々と業務をこなし、会社での飲み会ではセクハラやパワハラを受けている。かつてリーダー的存在だったカナエのポジションは大きく異なる抑圧的である現状に対して、ロケットの打ち上げについてかずきをサポートをしつつも、確実にポジションを確立していくことで日常が充実していく様子が読み取れる。ロマンという非日常性が日常に取り込んだら人生は充実する。

しかし、この作品は、その両義性を捉えているために最終話が描かれている。

絶対一緒に打ち上げよう

うん

P.203 無人島を目指すかずきとカナエ。ロマンへの覚悟と宣誓のシーンであり、共にロマンを果たすことをかずきの口から語られたことに意味があるだろう。

無人島にそびえ立つロケットが、ぼんやりと光っている=目印になっている。

最終話 あの映画やってるよの巻

この最終話は大コマの連続で、緊張感と高揚感を実に生み出すクライマックスを飾るに相応しい構成となっている。

やろっか

うん

P.208~209 扉が開いた瞬間に思わず立ち上がるカナエ。P.209は上から二人を捉える構図になっており、中段と下段のコマではかずきとカナエのそれぞれの横顔がアップで描かれている。それぞれの立ち位置と覚悟のシーンから、P.212~P.217までカウントダウンと打ち上げシーンの緊迫感を大コマで表現。

P.214~P.217 ロケットの火の光が圧倒的スケールとして描かれている。

これまでの火=光のシーンとは比較できないほどの強烈な陰影が色濃く表現されており、ロケットの打ち上げ=ロマンの昇華として展開された。

P.219ではロケットの見上げる人々がそれぞのコマで配置されている。梨穂子、テッペイ、カナエの家族、安川教授と黒スーツ、カナエとかずきと順にあり、ローカルな作品世界の全体のキャラ数がこのページ内で収まってしまうという、作品の持つロマンのスケールに反比例するかのようなミクロさが反映しているともいえる。

P.221 警察の船舶の光に照らされるカナエ。さきほどのロケットの光=ロマンの光とは打って変わって「現実の光」が登場する。

これ以降、カナエ達は容疑者になる。

その直後、一時的に取り押さえられるカナエに対して、市民の安全を脅かしたことを問い詰める警察=現実と、ロケット=ロマンの話に夢中な安川教授の対比が描かれている。

P.228 一段目のロケットの回収について知らなかったカナエが明らかになる。ロマンの代償とリスク管理をしていたかずきの技術力の高さが垣間見え、P.167では警察の警告を受けて、周りに配慮することもなく身勝手に今すぐ打ち上げに取り掛かろうとするかずきの暴走が描かれていたのに対して、このシーンではかずきのロマンに付随するエゴではない、他者への思慮という変化が窺える。

海に落として

まんいち人やモノに

被害があった方が

ダメージでかいと

考えて

押し寄せる警察=現実。モニターで見守るカナエとかずき=ロマン。

時間のカウントもあり、緊迫感とスピード感が、宇宙空間のロケットの描写も相まってダイナミックに、そして冷静に描かれている。

P.238 カナエからの現実的な提案が持ち掛けられるシーン。棲み分け、適材適所、あるいは自己犠牲とも読めるが、当初の一攫千金を狙う計算高いカナエからは想像の尽かなかったであろう金銭=現実ではなく、ロマンへの執着という結果で、カナエの現実や日常を超えていることが示されている。

かずきが第4話でカナエと会ってから変わったことに感謝したように、カナエもかずきと再会してから変化したことについて同じように感謝を述べる。その対応関係となっており、キャラの心情として暴露的にならざるを得ない主人公という特性上、況してやかつてのリーダー的存在というポジションを確立していたカナエの転落が現状のポジションであるかのような描かれ方をされているので、巧妙に、合理的に現状を変えるためには大金の獲得という現実的で即物的な欲求は極々自然なものであるために、その現実的な尺度から離れて、ロマンとして昇華したカナエの心的変化と現実との関わり方の変化という意味で一番の成長が見えると思う。

かずき

私も一緒にやってて

楽しかった

全部が変わったよ

ありがとう

最後まで一緒に

やれなくて

ゴメンね

夢の終わり、あるいは醒める瞬間として、現実に対応するカナエ。

逮捕シーンが描かれたP.242はカナエの右手が取り押さえられているのに対して、第1話の歩道橋から落ちそうになったカナエの右手を掴んだかずきの手として描かれており(P.8)、カナエの右手から始まった物語が、同様にカナエの右手で終わろうとしていることを意味する。

P.242 かずきの大声実況。遠くに行ってしまうカナエに届けるために声を張り上げるかずき。最後まで一緒に達成するためにライヴ感を演出しようとしている。

普段のかずきのフキダシは、常に小刻みに歪んでいることから、かずきの声の小ささや性格を表現したものであると考えられるが、このシーンでは対照的なフキダシが選択されていることに、日常性の中の特異点を見出せることだろう

その後、無事にスクリーンが起動。

宇宙空間に映画というメディア=メッセージが残り続ける。

そのことはロマンの昇華から、宇宙というロマンとかずき達のいる地平との距離があり、かずきとカナエの無線の遣り取りも物理的な距離が発生している。

また、UFOとの神秘体験(過去)をキッカケとなったであろう映画という媒体が(未来まで)残り続けるという時間的な距離も描かれており、ロマンをイマ・ココではなく、永遠性に閉じ込めた壮大さが象徴的となっている。

今からずっと

俺らが死んだ後もずっと!

P.254 宇宙空間では音は意味が無いとかずきが言っていたが、カナエの提案に乗っかっていたことが明らかになるように、宇宙空間で「ヒュ~イ~」と音が出ているラストの大コマ。

イマ・ココの現実から遠く離れた宇宙空間というロマンと、イマ・ココのかずきとカナエの「ヒュ~イ~」ダンスが同期的にリンクしており、それぞれの距離はあるにしても(宇宙ー地球、かずきーカナエ)、確かな現実の手触りとしてロマンとの合致と達成が描かれている。

「ヒュ~イ~」が結ぶ身体表現は、かずきとカナエは第1話のラストと最終話が象徴的であり、また第2話のラストでも梨穂子が加わったように、距離を結ぶかのような同期性があるように考えられる。

安川教授は映画を宇宙に飛ばす計画を聞いた際には「異星文明へのメッセージ」として解釈したように、言語や映像からどのような情報をピックアップするか分からない未知なる他者に対して、ヒュ~イ~ダンスという身体表現はキャッチーに映るかもしれない。であるからこそ、この「ヒュ~イ~」は最終話で明らかなように身体的・心理的な距離を媒介する表現としてあり、そのメッセージ性こそが映画的だとも言い換えることも出来るだろう。これらの距離とその同期性こそが、『我らコンタクティ』では功罪として描かれているが、両義性含めた常識への反発や問い掛け、価値判断の変化こそロマンの醍醐味ではないだろうか。

不思議でありながら、紛れもなく完成度の高い作品である。

 

村田沙耶香『消滅世界』感想 新世界に飲まれた僕たちの普通という暴力性

 

消滅世界 (河出文庫)

消滅世界 (河出文庫)

 

私たちが信じている価値観を基準に、作中の価値観から逆説的に差し引いたものが「普通とは」という問いに繋がっていくならば、これはどうしようもないほど『コンビニ人間』前夜として描かれたものとして納得のいく道筋になっていると考えられる。

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「新世界」の系譜になる小説の一つであるが、家族や性愛の従来の価値観が引っくり返っている。

性愛における動物化した人間=ヒトの価値観として代表的なのは、貴志祐介新世界より』で表現されたボノボ的性愛のモデルケースを突き抜けてしまった性の価値観と人との関わり合いが一つにあるだろう。

新世界より(上) (講談社文庫)

新世界より(上) (講談社文庫)

 

 

本作では途中から「人間」ではなく、「ヒト」表記にしてしまっているから動物的なモチーフとして確信的に扱っている。

既存の価値基準というこれまでの生きていた世界が崩壊し、「新世界」の常識や正常性に飲み込まれていく内に「ヒト」は順応し、洗練化していくことで、本来ならば人間が抱えている本能による「傷や痛み」が失われていく形は、まさに「楽園」であるとされている。その新世界=楽園における、従来の価値観の正常/異常が完全に浄化されていくまでを「世界を呑んだ新世界」と表現されており、新世界に行っても、新しい世界に喰われるぞという小説である。

「新世界」に行っても、別の世界に飲み込まれてしまうというのは、一つの場所から別の環境に移動しても、その環境に人間は規定されてしまうことと意味は同じだ。だから「新世界」に行く意味と、「新世界」で生きていく意味は丸っきり別物である。*1

そして『消滅世界』は後者に該当する。

楽園の「神とアダムとイヴとサタン」の比喩は聖書からそのまま直接的で、サタンの呪いを母性として引き受けた主人公が「新世界」に順化してしまうという意味で、従来の家族形態から距離を取っても、徹頭徹尾「アダムとイヴ」の実存性を突き付けられる実験小説になっていると言えるだろう。

「ヒト」という動物的本能を計算して合理化していく様子はグラデーション的であり、極端な世界が示されていても、その変貌ぶりは実に多彩でじっくりと語られている。このシビアに従来の「世界」が飲み込まれていく過程を、徐々に日常が侵食されていくドキュメンタリー風とも取れる。

この手の、極端であるにしてもディストピアの実験小説として完全に機能している作品であるが、現実の既存の価値基準から距離を取っている、これらの作品に対して、作品語りで私たちの現実を尺度に引き算して語るやり口は限界なのではないかという一つの価値基準の頭打ちを示してしまっていると思う。何かしらの現実を生きる私たちに還元されるであろう小説的体験を、現実の価値観を食べ尽くしてしまった「新世界」の系譜として機能している作品を、既存の意地悪くいえばオールドタイプの私たちが消化し切れるのかという問題が残る。

例えば、『コンビニ人間』は「コンビニ人間」から「普通とは何か?」を浮き上がらせる形式で、異常であること自体が正常化してしまった「コンビニ人間」の「普通」さえも、「普通」という価値観に個人的にも順化してしまうことで、一つの日常=物語に収斂する違和感をどのように読者は捉えきるのかという実験だったのに対して、『消滅世界』は「普通の世界」が「新世界」に喰われたその後において、「新世界」で生きることにおいて異常な倫理が正常化して「普通」になってしまったという、モラルのグラデーションを描きながら極端な「新世界」を配置することで「普通とは何か?」を問題設定するようにメタにもう一度再帰させる仕組みになっている。

なので前者では「コンビニ人間」から「普通」を浮かび上がらせ、後者においては「普通」から始まるであろう価値観が引っくり返った「新世界」から、もう一度逆算させるように「普通」を眺めさせるような構造になっていると考えられる。

両者ともにテーマ設定自体は似ているようで、実際の小説から受け取る違和感や、それらを入口からの出力の掛け方がまるで違うのは明白である。

「普通・常識」が引っくり返って「新世界」に飲み込まれても、それもまた「普通化」すれば「ヒト」は適応してしまうディストピアとして『消滅世界』は描かれているが、東浩紀は「人間は環境に規定されています」と記している。変わるには環境を変える必要があるとも。

 

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本作は希望という名の絶望的な非倫理的な新常識が、「普通化」することで「ヒト」はいずれ順化してしまう習性を説いている。それによって共通幻想としての安心が得られるという意味で、その「新世界」で生きていくための証やモラルや安心はその環境に左右されるという好例になるだろう。

つまり、『消滅世界』は安心やモラルは常に新たな世界に喰われてしまうことで新しい安心を〝獲得させるため〟の本能としての物語を露悪的に描いたとも言える。

一方で『コンビニ人間』は「コンビニ人間」という主人公を、嫌悪感を抱いた故に叩いても罪悪感を覚えさせない程の彼女の異常性について、「普通」という暴力に読者も乗っかってしまう機能性を示した。それは平然と通過してしまう同調圧力という一般的価値観を、「コンビニ人間」という逆側の視点の物語から突き付けたことを意味する。

無自覚な暴力性を孕む「普通」という概念への危機感や嫌悪感は、マイノリティへの無理解であると同時に、多様性の理念に対して、当事者性を持ちえないが故に根本的に暴力として機能してしまうマジョリティの視線という感覚も含めると、常に攻撃性と隣り合わせであるのだ。

社会学はどこから来てどこへ行くのか

社会学はどこから来てどこへ行くのか

 

 

*1:約束のネバーランド』が前者であれば、石黒正数『天国大魔境』が後者になる。

安里アサト『86―エイティシックス―』感想 壁の外で生きるということ

 

86―エイティシックス― (電撃文庫)

86―エイティシックス― (電撃文庫)

 

 戦線から遠のくと楽観主義が現実にとって代わる。そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特にそうだ。『機動警察パトレイバー2 The Movie後藤喜一

2010年代後半において、もはや「新世界系」のように「壁の外に出る」や新たな場所を目指すこと自体はテーマとして古いのだと実感した。*1

本作の『86』は最初から倫理観度外視で「壁の外」に放り投げられてしまった人々の生きた証と、それらを傍観するしかない「壁の中」の楽観主義的平和と無力さというジレンマを描いているのだが、「壁の外」という剥き出しの場所で放り出された人々はどうやって生きていくのかという問いに真正面から取り組んでいる。

既に「壁の外」なのだから平穏ではない。

守ってくれるものは何もない。

秩序もない。倫理もない。

乱世そのものだ。

そこで倒れていく人はいるし、尊厳も奪われてしまうこともある。

剥き出しの大地において倫理など介さず余地もなく、状況は刻々と変化している中で、どのように「壁の外」で、彼らは尊厳を見出していくのかという話である。

あざといほどの差別のモチーフを扱うことで、ここまでストレートに問題設定として描いちゃった作品であるから印象深い。

勿論、モチーフとなった被差別者の歴史はつまり尊厳の剥奪と直結し、人間が、社会が、秩序を構築し、箱庭の中で、それ以外の人間を困窮させてきたものであるからだ。

『86』では、仮初の秩序は犠牲の上で成り立っていることを前景化させた上で、彼らと彼女の立ち位置の非対称さを残酷までに炙り出しつつも、「壁の外」の絶望と、その状況下だからこそ見出される唯一の希望が、差別被害者の尊厳と証明に直結していく展開と、「壁の中」の平和という絶望との物理的・心理的距離を真正面に剥き出しにしてしまっている。

「壁の外」で生きることの目的は、国民国家という概念を超越して、個人の尊厳と生きた証を獲得することとなる。ぶっちゃけ国が亡ぼうが、個人の死でさえも、非倫理的状況下において救済となる指針のように見出されるものが、個人が生ききった証明があれば、その目的のために生きるという生存戦略を描いているので、やはりテーマとして「外」に出ることはもう違うと思わざるを得ない。

もはや「外」で如何に証を獲得していくのかというフェーズにある。*2

既に1巻単体でモチーフが完結していたと思っていたので、次巻以降どのように変化させていくのか楽しみで堪らない。

従来の戦争モデルと同様に戦線が、都市から離れていて殺戮が行われている一方、戦線から距離があれば平和が成り立つという、そのための礎を尊厳を略奪され侵害された差別被害者が担わなければならないルールの不条理さの中で倒れていく。

戦線維持が疲弊して、打ち砕けていく運命が定まっているのに関わらず、国によって捨てられた彼らが死ぬまでに、死ぬために戦う理由探しが、そのまま救済と鎮魂になっているという、一面的な希望としての「生きるための戦い」ではないのを一周して逆算的に描いているが、結果としての彼女と彼の物語をどのように展開していくのか。

戦場で戦う彼らを遠い平和な地から支援することしかできない彼女のジレンマと、命燃やして散っていく彼らの生きた証や誇らしく死んでいく存在性について、彼女の役割はあくまでも観察者の視点に過ぎないものであるが、この物語を眺める無力な読者と自然的に重なる。

では観察者は、遠い世界での出来事にどうコミットするのか。

それは彼らを忘れないでいること、見守ることも一つの救済になることであり、記憶することはつまり名を刻む。それは紛れもない証の一つになることを示した強烈な作品である。*3

 

*1:そういう意味では、石黒正数の『天国大魔境』が扱っている「壁の中」と「壁の外」の同時並行性がどのような絡み方をしていくのかは一つの指針になるかもしれないという期待がある。

*2:HUNTER×HUNTER』は現在は「王位継承編」が描かれているが、上陸後の「暗黒大陸編」は証がモチーフになっていくと予想している。問題は連載休載回数が嵩張れば嵩張るほどに、「暗黒大陸」という新天地を目指すことの意味やモチーフがどれだけ効力を有したまま連載を迎えられるのか不安であるところ。

*3:ONE PIECE』のヒルルクの名言と同様である。

『revisions リヴィジョンズ』感想 ハードな世界を生き残るには主人公であるべきなのか

谷口悟朗監督作『リヴィジョンズ』を観た。

 

よく出来た群像劇だと言えるのではないだろうか。

私は満足してしまった。

ここまで露悪的なキャラの造形と、それぞれの自立した故に相反する形の結晶化として目線が交差する一つの理想的な群像劇だったと考える。キャラの立ち位置を俯瞰で捉えながらも、運動させていたという意味においてバランスの良さが窺えた。

町口哲生のいう「ハード・サヴァイヴ系」に該当するのだろうけど、最終話では渋谷という社会と大人を完全に「外部」に置いて、超平和バスターズ的面々の5人の群像と、運命という名の因果律を一気に清算した構成であり、それぞれのキャラの目線と意思と、まさに超平和バスターズ的な絆を感じさせてくれた。

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

 

正直、因果やタイムパラドックスの部分では、浅野慶作に荷を背負わせ過ぎな感じも否めない(まさに主人公的である)が、『魔法少女まどか☆マギカ』でいうまどか的に〝一身に引き受けていく〟のが浅野慶作であり、それはまさに主人公像そのものであるが、本作の主人公は間違いなく大介に違いないと言える。*1 

 

その堂嶋大介が、イキった安直な英雄願望から脱して、運命に裏切られて引き裂かれてもなお意志の力によってのみ転向していく事で主人公像を獲得していく超王道展開は熱い。その姿勢として、堂嶋大介はみなに承認され、つまり主人公としてみなを救い、そしてまた仲間たちに救われることでの共生関係を、最終話では大人や社会を外部に据えることで、5人の群像劇の帰結としてのドラマの絆を昇華してみせた。

私としては、これまで堂嶋大介からみる主人公像や11話の反転による主人公像への批評性について関心が高かった。

英雄願望のナルシズム君な堂嶋大介に、露骨にセリフで喋らせちゃうのというくらいに過剰な入れ込み具合が、まさに行き過ぎた正義は暴力に映る典型であり、学内の生徒らにテロリスト呼ばわりされてブチギレする主人公としての正しき〝錯覚した振る舞い〟があったり、それらは、みんなの正義の味方が高じてナルシズムの歪みが堂嶋大介であることを示している。

この辺の自意識って、どうしても『コードギアス』のルルーシュを思い出してしまう。どちらも谷口悟朗監督の作品である。誰にも承認されない・仮面を付けたルルーシュに対して、堂嶋大介は肉体として剥き出しに過剰に承認されたがっている欲望の権化でもあるけど、この振る舞いは未熟な自分をそのまま受け入れて欲しいという承認欲求可視化社会的でもあった。

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また、堂嶋大介の英雄願望と破滅願望が表裏一体であり、この状況下をどこか期待していた=ヒーローになるためには非日常性が必要だったわけであるが、渋谷という一都市の孤立・島宇宙化における亜種(リヴィジョンズ)との接触と戦闘の生存戦略はまさに格好のステージだったと言える。

そういう意味においても「運命」は堂嶋大介に微笑んだ形であった。

「ハード・サヴァイヴ系」としての極限状況という予測不能的に落とし込められている作劇上の都合で、主要人物や大衆が身勝手に描かれていたが、この状況下で秩序も倫理は無力化してしまう。脆弱なモラルは人々の安心を埋め合わせられるものではない。

それでもなお、ヒロイックな堂嶋大介の利己的なヒーロー活動が利他的に〝見えやすい状況〟にも関わらず、利己的に浮いてしまっているから物凄い魅力であるのだが、ナルシズムというのは「みんなのため」が免罪符として用意されていようが地の果てまでいっても利己的なナルシズムへの没入に過ぎないことを示している。

英雄になりたい事とは、同時に非日常的な破滅願望が付随しなければ、英雄になる機会は訪れないという意味において、いくら「みんなのため」と叫ぼうがそれを利他的と呼ぶのは難しいだろう。それを包み隠さず、「運命」の一言で処理して願っていた堂嶋大介という存在は、周りからすれば自分勝手で、他者としても転嫁しやすい対象ではあるには違いない。

しかし結果的に、その恩恵ともいえる自己評価と他者評価のズレが、堂嶋大介の英雄願望をより肥大化させるから、魅力的な自意識のスパイラルが形作られるわけである。

このような肉体的自己評価と精神的未成熟のギャップを補完するものとしてあるパペットの存在=ロボットの文脈は、未成熟な少年が自己実現のために、また社会的に承認されるための身体の拡張という「ロボットあるある」でしかないのだけど、ここまで積極的にロボットに乗る動機があると清々しい。ロボットに積極的に乗る意義がある堂嶋大介は、ロボットに乗せるだけの必然性を描く際には最もシンプルに機能するキャラだったと言える。

ここまで、堂嶋大介について彼是と書いてきたが、このイキリ主人公にライドするための流れを作った作劇が凄いなと素直に思っている。

露悪的であるが、魅力的でもあるという点で、堂嶋大介はまさにヒロイックであるのだけど、第11話のラストで明かされた主人公たる所以と資格を、これまで「運命」で処理してきた堂嶋大介が、その「運命」自体は錯覚であったことが突き付けられた。

それが意味するのは「運命」に引き裂かれることであり、堂嶋大介からみると主人公像そのものが剥奪されることである。

主人公的な振る舞いをしていた堂嶋大介は、あくまでも群像劇の一人に過ぎないことが描かれたのが第11話であった。

作劇としては、必然的に描かれていた「運命」に囚われた堂嶋大介が、自分の望んだ「運命」ではなかったという「運命」と直視することで意思の転向をする熱い展開があった。これはまさに主人公的であって、主人公は「運命」で決まるものではないし、条件でもないことを意味する。

作劇上では「運命」的=必然性を持ってキャラの造形と行く末を描くものであるから、偶然性の「運命」とは程遠い計算され尽くしてパッケージ化したものである。

堂嶋大介が目にした〝思っていた「運命」とは違うという「運命」〟もまた作中としては偶発的なものでありながらも、作劇としては必然的な結果=「運命」であったことが暴露される。*2

『リヴィジョンズ』では、堂嶋大介のモノローグが多用されているから主人公的に映り易く、一人称的であるのだけど、実態はよく出来た群像劇で、三人称がメインであるはずなのに「運命」への狂信的態度から堂嶋大介への没入させる〝作劇の意地の悪さ〟によって、第11話の主人公像を剥奪する反転が起きるショックさを、堂嶋大介と視聴者に与える効果が上手く働いている。

そして、浮かびがあるのは本当の主人公だったはずの浅野慶作という存在=「不在の中心」であった。

物語の便宜上、モノローグが多用されていた堂嶋大介は「偽物の主人公」であって、浅野慶作が「本当の主人公」の資格を有していたと明らかになり、堂嶋大介のいう「運命」は実に錯誤的なものであった。そうなると、作劇としては浅野慶作が主人公たる所以、つまり一人称的に映るはずなのに、浅野慶作はニコラスと同期してしまっているので、『リヴィジョンズ』の実態として機能している三人称的群像劇から、浅野慶作という存在は距離を置かざるを得ない。途中退場の件も相まって、これらは実にミスリードとして仕込みやすくなっていたと考えられる。

つまり堂嶋大介からしてみれば、誰よりも運命を信じ、運命を肯定し、結果的に免罪符を得ていたからこそ利己的に振る舞わざるを得なかった未熟な堂嶋大介への痛烈な皮肉になっている。

「主人公」が運命を、信念を持つことこそが像を結ぶファクターであるのは数多の作品が証明してきたものであるわけであり、その「運命」が実は錯誤的=偽物であった時に、主人公像は機能しないのかというと、実はそうではないことも本作は描いている。

さて、堂嶋大介からみえる主人公像について接近する前に、一つの寄り道をしたい。

私が実は『リヴィジョンズ』で一番印象的だったのは、最終話EDに流れた「渋谷帰還」についてのニュースに対して、細やかながらもネットの意見が散見したシーンである。このリアクションは実に正当であり、渋谷以外の大衆からすると渋谷集団ヒステリーにしか思えないのも当たり前だろう。

完全に『リヴィジョンズ』はディストピア・シュミレートな作品であり、大きい意味での「他者」による干渉と来たるべき未来の災害(作中ではパンデミック)への警鐘を鳴らしていると思うが、その際の混乱と統一された価値観が引っくり返ってなおどのように生存戦略を立てていくのかという混迷(イデオロギーの対立)を渋谷という街を隔離させたことで箱庭的に観察の対象として描いたわけだが、渋谷以外の大衆の表現行為であるネットの毀誉褒貶や罵詈雑言や確信性のない意見の羅列は当然のリアクションであり、まさに情報のパンデミックそのものであろう。

いくら声高に叫ぼうが、突拍子はないし、ファクトチェックも一般的な大衆に期待するのは無理な話に違いない。

ここで、思い浮かべるのはポスト・トゥルースである。

本作『リヴィジョンズ』が丁寧に描いた群像劇という点から解体すると、最終的には5人のお話として帰着したみせた構成であったが、別に彼らだけがキャラではなく、渋谷で生活するモブキャラという大衆も欠かせない要素であったと考える。

なぜなら「ハード・サヴァイヴ」としてのパニックを描くには必然的に「群衆心理」に力点が置かれるもので、渋谷以外の大衆性=完全な外部という意味では、ラストのネットのシーンは大事なものである。

例えば『コードギアス』だったら「ゼロ」というフェイクで大衆を騙すものであったのに対して、『リヴィジョンズ』ではポスト・トゥルース的に個々のファクトチェックが難しいレベルであるが、不確定ながらも未来で起こり得る出来事に対して「観測者」のポジションによって情報の確信性が左右されてしまうことでのジレンマと、情報をどこまで操作するかという大衆と「当事者性」の問題として、イデオロギーの対立図式から作中の大衆をどのように説得するものだったかと思う。*3

つまり、その「観測者」のポジションの有無やレベルの高低における情報の獲得性こそが、作中での渋谷の大人の葛藤であったし、渋谷を留めるためのリヴィジョンズ計画そのもの(「観測」していないと渋谷を留めることに至らないということは「観測」レベルが求められていることを意味するもの)であり、それらを目撃してきた渋谷の大衆、またラストのようにネットなどで渋谷の面々のニュースを知る「渋谷以外の大衆」とフェーズ毎に情報量の強度が異なる。

そして、堂嶋大介たちは作中ではまた知り得ていないが、ロンドンでも同様にリヴィジョンズ計画が実行されている不穏なニュースを知っているのは、ミロと、「渋谷」をずっと観測してきた視聴者のみと、ここでも「観測者」のポジションレベルの話になっていく。

この情報の解像度を如何に獲得するか。

そのためのポジションとは。

『リヴィジョンズ』は、渋谷を巡る思考実験的でよく機能していた作品だったと言えるのではないだろうか。

ここでもう一度、堂嶋大介からみえる「主人公像」の話に戻るとする。

ここで挙げたいキーワードは「観測者」と「当事者性」である。

主人公像の一つにある思想なき主人公像として自己犠牲精神が存在するが、それに対して、思想・願望があり過ぎて駄々漏れ主人公が堂嶋大介と言えるだろう。

 

ココロコネクト アスランダム 上 (ファミ通文庫)

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終物語 (上) (講談社BOX)

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つまり、コミットし過ぎると利己的に暴走する反面教師として、またその肥大化した自意識の成長物語が、堂嶋大介というフィルターを通したものであると考える。

主人公とはそもそも存在自体が教訓的であり、示唆的なものであるはずだけど、堂嶋大介というキャラは、数多の主人公像から過剰に英雄思考を抽出した結果、反転してしまった姿としてリアリティがある。

だからこそ、堂嶋大介のような過剰性を突き詰めると、逆説的にここまで露悪的な描かれ方をしていると考えられるだろう。

 

堂嶋大介は「運命」を盲目的に信じ、その時を待ち望む(カタストロフィ)ことでヒーロー像を獲得できることを期待していた。それは、その時が来たら「運命」を引き受ける覚悟があったということを夢想していたことを意味する。

「嫌だ!戦いたくない」という『エヴァ』の碇シンジ君とはまさに対称的な存在ではないだろうか。

宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』にある「引きこもっていたら殺される」に代表される「サヴァイヴ系」*4

 

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

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は戦わないと生き残れない思想の地続きにあるものとして、「俺が戦ってみんなを守ってやる思想」という正しきヒーローの思想が、正直に過剰に逸脱した盲目的態度が「代表性」になっていくまでを「運命」として処理してきてしまった堂嶋大介から窺えることだろう。

例えば『SSSS.GRIDMAN』の主人公・響裕太は、結果的にヒーローとしての使命感の「容れ物」として存在していたことが判明する。作中の響裕太はグリッドマンであって、「本物の響裕太」ではなかった。それが意味することは「本物の響裕太」は、作中で新条アカネではなく宝多六花が好きであるという唯一性を獲得していたためにグリッドマンになるための資格を有していたことであり、それは些細な日常の差異つまり違和が引き起こしたものであった。

なぜなら、作中の世界は新条アカネという創造主によって作り込まれたものであり、彼女にとって都合の良い世界であったためである。誰しもが新条アカネに好意を抱くのが必然的な世界において、唯一として「本物の響裕太」だけは細やかながらも抵抗という意識はなくとも日常の差異を獲得していたことが明らかになる。

しかし、ここで気を付けたいのは、「本物の響裕太」の感情は見えくるモチーフであるが、ヒーローにおける思想というものは見えてこないのが肝であることだ。

結局のところ、作中で「響裕太」というのは分からない。良い奴であることは友人代表の内海のセリフで証明されているが、宝多六花に好意を寄せている少年像でしかない。

つまり主人公=ヒーローの思想ありきではなく、響裕太が容れ物として機能したように、誰にでもグリッドマンのように門は開かれていることが意味されているわけであり、だからこそ内海は最後〝ビー玉〟を手に持っている。

重要なのは思想性がなくとも、特別なヒーローの条件がなくとも、主人公になれることが描かれたことである。

SSSS.GRIDMAN 第4巻 [Blu-ray]
 

 

futbolman.hatenablog.com

主人公というのは物語における「当事者」であり、代表である。

もちろん、本作の主人公は堂嶋大介に他ならない。

「運命」を乗り越えるために意志の転向をしてみせた堂嶋大介の在り方は、まさに主人公そのものであったのだから。 

では、どのように主人公になっていくのか。

当事者になっていくのかが鍵になるだろう。

既に述べたように「観測者」と「当事者性」を獲得していく事は、ポスト・トゥルースと対応していく。

『リヴィジョンズ』のラストで描かれたネットの意見や渋谷の大衆をみてみても、ファクトチェックしていくには然るべきポジションが存在し、接近していくためにはどのように「当事者性」を獲得していくかという話になる。

主人公ではなかった堂嶋大介が主人公像を獲得していく過程には、過剰な思想性はあったにしても、ヒーローの条件や「運命」ではなかったことが証明された。

例えば「当事者性」から敢えて距離を置いたところに主人公を配置(「観測者」というポジション)し、その悲痛な叫びを描いた西加奈子『i』があるが、本作では「当事者性」というポジションをフルに回転させてコミットさせていく暴走の結果も描いており、どちらも極限の状況下=日常を食い破ってしまう程の非日常においては「当事者性」の有無関係なしに状況に飲み込まれてしまうことを意味している。

それは、代表性が無くとも「当事者性」は常に付随してまわり、日常的に組み込まれてしまっているわけでもあり、ポジションレベルに左右されていくものだからだ。

i(アイ)

i(アイ)

 

 

また、ポスト・トゥルースとしての思考実験的として渋谷を区切ることで外界と切断させたことは、その極限状況だからこその倫理観や秩序やファクトチェックの困難さという、特殊でありながらも相対的なポジション(観測の有無)を情報レベルとして反映してみせたと思う。

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

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終末少女 AXIA girls

終末少女 AXIA girls

 

 

この渋谷を巡る集団的実験は、作劇的にはアーヴとリヴィジョンズの攻防自体が一つの実験であり、それをメタレベルで観る視聴者という「観測者」の存在と共に、実際は何が起きているのかという(作中のキャラは視聴者のようなメタとしての観測レベルを持つことは困難であるが)断片的で膨大な情報量をどのように獲得していくのかは「当事者性」と「観測位置」のレベルによるものである。

代表性の5人と一部の大人たち、当事者となった渋谷の大衆、最終話にあった渋谷以外の大衆、そしてメタとしての視聴者、と段階毎にポジションが組み込まれている。

つまり「当事者」という大衆の対称的な位置として、「傍観者」という大衆があり、また同時に「観測者」という大衆も存在する。「観測者」はポジションによって状況に反映し、「当事者」としてコミットできるが、「傍観者」にはそれが決してできない。

堂嶋大介らに代表される主人公に「傍観者」は含まれず、必ず何かしらの「当事者性」や「観測者」のポジションを獲得している。

この「ハード・サヴァイヴ」な世界に対してコミットするには「当事者」か「観測者」であることが求められるわけだ。

そうでなければ、このハードな世界を生き残れないことを示唆している。

堂嶋大介という反面教師的な存在は、自己評価と他者評価のズレという自意識の空転の怪物でもあり、コミットメントの暴走の象徴である。

しかし冷静に状況を受け止め、意志の力で、自意識の満たされない承認欲求を他者に転嫁してきたかつての己ではなく、ありのままの「運命」と自分を受け容れた堂嶋大介の転向から、主人公像への教訓という二重化がある。*5

誰にしも堂嶋大介のような一面はあり、かといって堂嶋大介のようになれと推奨されているわけでもない。少なからず露骨に描かれてきた堂嶋大介への嫌悪感は、視聴者と一定の距離を生んだことであろうし、それを乗り越えた上で堂嶋大介にライドさせる物語を描いたという点で製作者側の成功だったと言えるだろう。

第11話以降「運命」に囚われることが救いであり、それが証だった堂嶋大介は主人公像を剥奪された後に、正当な主人公像を踏襲してみせたことによって、極端な露悪的な仮初の主人公像から脱却し、王道的展開へと雪崩れ込んでみせた。それには自己の意志と相互作用的な他者性の恩恵があり、「運命」を頑なに信じ、正直にまた過剰に肯定していた堂嶋大介自身が、一つコミットメントに対して距離を置いてみることで、「運命」を受け容れる、否、「運命」を直視して抗い、乗り越えた姿勢つまりポジションは「当事者性」から「代表性」へという最大のコミットメント=獲得であり、皮肉な反面教師ではなく正当な訓示の一つだろう。

本来、主人公ではなかった堂嶋大介が主人公になっていくまでの獲得の物語という点において、誰でもが主人公になれるとし、誰もが主人公でもあると肯定している一面的な部分と、誰もが主人公ではないという部分の両義性を決して否定していないのは特徴的だ。

この要素は、朝井リョウスペードの3』が明らかなテーマとして描かれている。

スペードの3 (講談社文庫)

スペードの3 (講談社文庫)

 

この作品は、トランプゲームの「大富豪」をそのままモチーフにしている。作中の登場人物たちの力関係をトランプの絵札のように配置しているのが特徴的であり、最終話の「ダイヤのエース」では、これまで作中で連作的に描かれてきた、誰しもが憧れる主人公として君臨していた存在=スターが、実は他の視点からみると、その人自身の物語からしても絶対的な主人公ではなく、強烈な別の存在=主人公的によって脇役に据えられてきた事実が明らかになる。

つまり、他者からみて主人公的であったとしても、どれだけ華々しかろうが、評価のギャップが存在することを突き付けている。

端的にいえば『スペードの3』は主人公像との自意識の折り合いの話であり、『スペードの3』において描かれた、「自分の物語」というのはイコール主人公になりやすいバイアスが掛かるところを(連作短編という作品として描くことでの視点の多様性を各人物に配置することで誘発している)、敢えて裏切る、自分の人生であったとしても、絶対的な主人公になれない存在性を問題として浮かび上がらせている。

しかし、これは既に記したように『リヴィジョンズ』における堂嶋大介という「偽物の主人公」であった存在が、結果として超克してしまった形が答えになるだろう。

たとえ自分の人生であったとしても、「運命」としては主人公として定められていなかった堂嶋大介が、自分の力とそれぞれの絆で、「運命」を書き換えてみせた=当事者から主人公という代表性への昇華を果たした。

必然的に状況に対するポジションの度合いが、ハードな世界を生き抜いていくことでの処世術になることは間違いない。 

思えばゼロ年代前半の文化的感性には「セカイ系」や「サヴァイヴ系」のモチーフとなる「引きこもり」が象徴していた。

しかし、その形作られた「きみとぼく」のセカイというのは自閉的な安寧に過ぎず、2010年代には効力を失い、正直にコミットする姿勢が貫かれたと考えられるであろう。

結果的に本作品は、渋谷を隔離してみせることで渋谷の命運=世界の「運命」とし、「きみとぼく」以上の関係性と渋谷を巡る大人と社会と秩序を島宇宙化してみせることで描き切った。

ここに「中間項を挿むことなく」完結する自閉性は存在しない。

渋谷を意図的に独立させ、クローズドサークルのような物理的閉鎖状況に設定させることで、大きな社会という外部を縮小させている。この一社会のミニチュア的状況は、選ばれし少年少女たちの未成熟な身体性を拡張させるためのロボットと、社会的奉仕という接合点になる承認装置として十分に機能したのではないだろうか。

崩壊した世界に渋谷を転送することは、「壁」も何もない剥き出しの世界に一つの社会をそのまま温存することによって、新たな環境に適応しようとする人間とシステムの規定が行われることを意味する。それはつまり、既存のアイデンティティや帰属すべき対象の揺らぎが描かれ、それぞれの所有感をも脅かすものとなる。

全体的な不安や何かしらによる剥奪されてしまうのではないかという恐れを渋谷を切り取ることで、「壁」もない開放的で常に危険と隣り合わせな環境下で、人間がどのように社会を温存し、再構築していくのかという話になっていくので、「中間項」自体がミクロ化したままクローズアップされる。

であるにしても、渋谷にセカイの運命を乗っけるかのような試み自体は、確かに「中間項」を縮小生産したものであるために、結果的に「中間項」は最小規模になってしまっていて、「彼らの物語とセカイ」という自閉性は担保されているのではないかと指摘されかねないが、ラストシーンで明かされたように「リヴィジョンズ計画」は世界各地で同時発生しているという描かれ方をしているので、渋谷単一の出来事として捉える事は不可能になっている。

これが意味することは、確かな気分としてあるのは、どこにも逃げる場所は存在しないという閉塞感という現実のシビアさが広大にあることだ。

それはまさしく2010年代に蔓延する空気感、どうしても2011年が代表するであろう「ハード・サヴァイヴ」の系譜やポスト・トゥルース問題において、どのように戦っていくべきなのかを問うことである。

完全無欠の物凄いヒーローでもなければ、また「運命」に味方されているわけでもない大衆の極々一人に過ぎない私たちが、どのように直面していくべきなのか。

これまで私も、作り手に倣って堂嶋大介を「露悪」的に記してきたが、堂嶋大介自身は「悪」を一身に引き受けているわけでは決してなく、寧ろ「善」を行使しているという陶酔感に浸っていた。

しかし、カタストロフィと付随した利己的な英雄願望から脱却し、正直にコミットしていく過程で捉え直すことによって、タイトルにあるように〝revision〟してみせた堂嶋大介の「運命」の物語として素晴らしかったと思う。

*1:まどマギ』では、最終話まで傍観者の一人だったまどかが、宇宙法則を捻じ曲げるという超越した神に匹敵する概念として存在することを選択する超論理が展開されて昇華したものであるから、厳密にいうとまどかと浅野慶作とはスケールが違う。しかし、主人公像としてあたかも全部を背負い込んで引き受けた姿は共通的だと言えるのだろう。また両作ともに終末的ディストピアとしての世界観が共通しており、これは2010年代の空気を表していると考えられる。

*2:想定していた「運命」では浅野慶作が「本当の主人公」であったのに対して、堂嶋大介の過剰な振る舞いがそれを引き受けてしまったために「運命」という未来予測がズレたことは作中でも言及されている。

*3:区長と黒岩の対立が代表的である。そして、その結末もまた「ハード・サヴァイヴ」において混乱を極めることを象徴したものであった。

*4:町口哲生の提唱する「ハード・サヴァイブ系」は、この「サヴァイヴ系」の概念にハードな状況設定を組み込んだものであるから、2010年代のアップデートと捉えられる。

*5:第11話以前の堂嶋大介と、それ以後の堂嶋大介の存在性は前者では反面教師的であったものが、後者では正当に引っくり返った形として表れている。

『ゆるキャン△』感想 ゆるいからこそ担保される多様性

私の基本的な『ゆるキャン△』感想の文脈は以下にある通りであるので、本記事はその総括という名の補足です。

ゆるキャン△ 3 [Blu-ray]

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第1・2話以降から、話の根底にあるモチーフは揺らいでいないのが特徴だろう。

文脈からズレることがないというのは、丁寧な作り込みだとも言えるし、あるいは想定内とも言えるのだけど。

ゆるキャン△』は、リンちゃんのソロ充の文脈と相対的に位置するため並列としての野クルと、それらの価値の相対化における工夫の凝らし方を等身大感覚な美少女に詰め込んだ見せ方だと思っている。そこで、キャラ間のセンシティブな距離として、リンちゃんの納まり所に集約する構成なので、どうしても彼女の「ソロ充」が否定されるのかどうかが最大の焦点になっていると思って観ていた。*1

そして、最後まで価値の相対主義による並列化(比較することは決してない)のまま、ジャンル毎の楽しみ方をアレンジを利かせて楽しみ方はそれぞれあるんだよという、多様性=クラスタ化の棲み分けの文脈が、根底から一切メタやネタにズレることなく、ゆるいガチのまま行ってしまった。

アニメ『ゆるキャン△』は、最終的には志摩リンも斎藤も野クルに入らないまま終わった。

作中で、彼女らを積極的に(半ば強引に)取り込もうとする野クルの動きもなく、あくまでもゆるい勧誘程度で、帰宅部とソロキャンと野クルの棲み分けをした描き方によって多様性が担保されていた。

ゼロ年代やその橋渡しとなった「学園部活モノ」の作風からは考えられない選択だと思う。これらのある種の「部活絶対主義」から距離を取り始めた作品の一つになるだろう。

最終話のラストで、斎藤が野クル勧誘をゆるく断ったことで、志摩リンというソロキャンガールのラインを別の方向=帰宅部という理由を持ち出した斉藤によって結果的に補強したのが印象深い。

そして、なでしこもソロキャンをしたように(結局リンと合流したが)、作中での「所属」や「態度」が何も否定的なニュアンスではなく、また安易な他者性に吸収されることも無いままブレることもなく丁寧に描かれていた。

つまり『ゆるキャン△』は部活モノから距離を取ることで、一つの部室内という箱庭における「価値観の押し付け」ではなく、価値観の許容という多様性を採用している。

この辺の「ゆるさ」が大事だと考える。

山岳部やアウトドア同好会などのガチ感ではなく、野クルという「ゆるさ」がまさに名を冠している所以といったところ。「ゆるさ」があるために自由と解放感がある。制約を規定するものから解き放たれる。

寛容的な描かれ方だと思う。

アニメ最終話では、野クルは規模を拡大することも無く、きちんとした部室を充てられることもなく、そのための部員も増員することもなかった。つまり正式な「部活動」=ガチから一つ距離を置いているのも、このような規模や所属が示しているだろう。

なので、従来の「学園部活モノ」(大半は謎部活ばかりだが)の括りには入れ難い。であるから、一つの「ゆるさ」が導入されているともいえる。*2

しかし、かといって作中ではガチを否定することもしていない。

代表例は志摩リンの祖父だろう。寧ろ、ガチは憧れの対象になっている。

彼女たちはあくまでも「ゆるさ」の下であるからこそ、本格志向に憧れながらも、しかし金銭的にも、あるいは女子高生の行動力の範囲的にも無理がある中で、それぞれが楽しむ為に知恵と工夫を凝らしてキャンプに臨む。その過程においてガチにおける価値観を纏め上げるような同調圧力を自然的に排し、楽しむという同一の目的があるからこそ「ゆるい」ために多様性が担保されているという観方もできる。その小さな事実が、野クルに入ることをしなかった志摩と斎藤の存在によって補強された結果だと思う。

「イマ・ココ」の充足感としてみると『ゆるキャン△』も『ブリグズビー・ベア』もそうであるし、キャンプという期間限定の遊動生活における非日常性によって「イマ・ココ」が拡張される辺りは『よりもい』の旅と重なる部分であったりする。*3

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双方ともにメインは「友達探し」であるんだけど、第1話では「ソロ充の提示とその肯定」があり、2話以降は一貫してそれぞれの工夫と相対化がモチーフとして描かれ、それぞれの楽しみ方があって、それぞれが提示されて肯定されるという文脈でみるとリンちゃんはリンちゃんのままでいいというお話で終わった。

その中で否定が一切描かれていないのも特徴的であるのは既に述べたが、1話ではソロ充だった志摩リンが、11話までに数回ジャンル違いの楽しみ方に触れて実感していくリンちゃんを描きつつ、ジャンル違いにもバラエティがあり、人的・環境的な相互作用としてダイレクトに表現されるのがキャンプでもあるとし、ソロキャン自体もオプションとして提示したまま、「クリキャン」を迎える。

「日常系」にありがちな「終わりのない日常」=本来、箱庭に閉じ込めて時間の進みを感じさせないところに、キャンプという四季折々の自然をダイレクトに反映する表現行為を組み込むことで、ゆるやかな時間の流れを導入しているのも印象深い。

「ゆるい」けどガチなキャンプと、ゆるいまま(完全に棲み分けしない/線引きしない漂流的)人間関係と日常風景の組み合わせで、文字通り「ゆるキャン」といったところである。

また、SNSのゆるく繋がる現代性をそのまま取り込んだのは面白い試みであったと思う。

SNSの疑似同期性(作劇としては遣り取りを連続的に行う必要があるから同期的になるが)のゆるさとして画期的なのはSNSの描写をそのまま表現したことによって、その場では、その時間では、画面上では一人しかいなくてもSNS上では友達とゆるいコミュニケーションを取っていることで、画面的には単一的であるが「独り」ではない常時接続を示した。SNSのメッセージ上では(擬似)同期的で、その場、その時間をシェアして、ボッチであることへのアンサーとして、ソロ充の在り方を描き切ったと思う。

だからこそ、作品としての「ソロとSNS」の親和性を超えてみせたラストのオンラインではない、キャンプという行為のリアルのシェアという帰着を第1話の二人の出会いの偶然性をそのまま引いて――そのままゆるく合流するリンとなでしこ――第1話のモチーフを反転させるアレンジの結果、「日常系」の中でもゆるく時間の流れを反映させてみせた意味は大きいと思う。

 

 

*1:ソロキャンガールが野クルにすっかり入るということはソロキャン自体に対して、ボッチ/ソロはいくら楽しもうが他者性に取り込まれてしまう構図になりがちだから。

*2:勿論、目的としての部の設立と「ゆるさ」を醸し出している彼女たちの存在性は共存するかどうか、つまりどちらが先かというお話になりやすいが、部を設立すること自体は手段でしかなく、部を構成する共同体としての「ゆるさ」が本質として先にあるだろう。

*3:引き合いに出したどの作品も、ある一定の環境から脱け出した後を描いた作品は共通的である。『ブリグズビー・ベア』であるなら疑似家族という偽物の両親からであるし、『宇宙よりも遠い場所』は青春を謳歌しきれないまま腐敗していく学校を飛び出してみせた。言うまでもないが『ゆるキャン△』ではなでしこの転校が該当する。