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別にいいじゃない、鍵ぐらい

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』1巻 「まちがっている」ことで始まる二項対立のカウンターと反復的な温存性

 

 

青春とは嘘であり、悪である。

この一文から作品は始まります。

「青春フィルター」というバイアスは、比企谷八幡曰く全てを正当化するために「青春」が用いられ、その「まちがい」へのカウンターとして、冒頭の作文は「青春」と対立した「正義」を謳っています。

しかし、結果的に見れば自分自身も取り込まれていく様から、まさに「青春」はエコシステム的と言えるでしょう。このシステム自体は動的であり、また相対的に機能する。エコシステムを眺めている者も、いつしか自然に取り込まれ、その中で充足していくことは何ら不自然なことではありません。カウンターとして位置づけようとも、システムの保守性が温存されているからこそ、その効果は持続し、二項対立的な支えがあるからために脱構築も可能と言えます。

「青春」における「イマ・ココ」感という日常の磁場の強さ。また、この時点に留まろうとする意思や粘りによって生じる足掻き、葛藤は、ストレートに飲み下せるものから飲み下せないものまで多岐にわたります。それらのご都合主義的な価値判断は「青春」の名の下では、すべてが自己盲目的に正当化されることを「欺瞞」であると評したのが比企谷八幡でした。 

欺瞞、嘘、秘密、詐術は悪である、という潔癖的な態度が彼の真価であり、この純粋な絶対性が「青春」という動的かつ相対的なエコシステム内への懐疑となり、その価値判断は攪乱されていきます。二項対立自体もシステム的であるからです。

「青春」の名の下で正当化することは「悪」であり、その「青春フィルター」を用いていない側が「正義」である、という反証は比企谷八幡らしい皮肉でしょう。「青春」を自明とせず、その正当化をよしとするバイアスを担う「青春フィルター」への懐疑のみが「正しさ」を引き付けることが可能であり、「青春」という名の正当化が「まちがっている」と指摘すること自体が「嘘偽りない正義」とするのが彼の価値基準です。

これを「潔癖的なマチズモ」と呼んでいくことにします。

冒頭の作文の結びが「リア充爆発しろ」とあるように「リア充」というタームが機能していた時代精神と共に『俺ガイル』(2011年~2019年)はあったと言えるでしょう。「リア充と非リア」の記号的対立から、その失効までを描きました。

 

 〇

冒頭の作文を受けて物語は始まります。

平塚静比企谷八幡のやり取りの随所にはセクシュアリティ的かつエイジズム的なノリをギャグとして提出(年齢イジリ、おっさん臭い行動認定)されています。ここで難しいのは、オタクのホモソーシャル性の問題が一つにあります。オタク文化セクシュアリティの問題は、いわゆる「ポリコレ」に真っ向から相反します。

昨今、騒がせている「オタク絵」とフェミニズム的な闘争はしばしば「表現の自由」の問題範囲内で処理しようとする試みがなされています。しかし、互いの主張が「表現の自由」や「公共性」とは、に終始している印象を持ちます。本来は、記号的な存在である「キャラ」が如何に成立して、認識されているか、といった「現実と虚構」は果たして完全に分離することは可能なのか、という問題設定からではないと「対話」は困難を強いるのではないでしょうか。具体的には「キャラ」の身体を「現実」の身体と切り離して認識する、しないの話は、端的に「キャラ」を見つめる「こちら側の目」を通す必要性があります。その時点で「こちら側」=現実の身体は否が応でも肉薄し、「あちら側」へと眼差しや感情を仮託するまでに介在している地点へと無意識的に辿り着いているのですから。

ここでは、諸問題に細かく触れることはありませんが、「キャラ・記号化」の話は本作品にも重要な要素となっています。例えば、由比ヶ浜結衣を「ビッチ」と連呼するシーンや比企谷八幡の一人称が持つアイロニカルな「ボッチあるある」などといった、キャラの記号性とそこからはみ出ようとするアイロニーも含んだ読者とキャラたちが秘密裏に結ばれざるを得ないホモソーシャル性が、比企谷八幡の語りから生まれていると考えられます。

さて、平塚静への非礼と作文の反省を兼ねて、奉仕部へ強制的に入部することになります。

P23 「(中略)彼の捻くれた孤独体質の更生が私の依頼だ」

平塚静から雪ノ下雪乃への依頼という形式でもって、比企谷八幡は巻き込まれていきます。

奉仕について、作中にあるものを引用すると「持つ者が持たざる者に慈悲の心をもってこれを与える。人はそれをボランティアと呼ぶ」といったノブレス・オブリージュ的な精神が語られますが、「持たない者たち」が選択していく逆説性こそに『俺ガイル』の精神性があるとすると、この大いなるアイロニーが全体を包括していると言えるでしょう。

さらに、奉仕部の目的は平塚静曰く「自己変革を促し、悩みを解決することだ」となります。

その言い分に対して、つまり自己変革に対して反発するのが比企谷八幡です。

 

P41 「そうじゃねぇよ。……なんだ、その、変わるだの変われだの他人に俺の『自分』を語られたくないんだっつの。だいたい人に言われたくらいで変わる自分が『自分』なわけねぇだろ。そもそも自己というのはだな……」

 

安易な「成長」といった「変わる」ことへの忌避感は、これまでのボッチである「自分」を肯定しようと保ってきた同一性と「青春フィルター」へのカウンターとしての「自分」を組み込んだ防衛的な構造を形成してきた比企谷八幡の「自分」に対する「変化」への否定的なリアクションです。ここでは、自己変革はイコール「自分がない」ということになるのではないか、というアンチテーゼが掲げられます。

彼からすれば、この連続的なラインが「自分」を保つことを意味しているのですから、自然な応答でしょう。

P42 「変わるなんてのは結局、現状から逃げるために変わるんだろうが。逃げてるのはどっちだよ。本当に逃げていないなら変わらないでそこに踏ん張んだよ。どうして今の自分や過去の自分を肯定してやれないんだよ」

 

潔癖的なマチズモによって、ある種の保守性に対するカウンターとして独立的に「イマ・ココ」の証明をしてきたつもりの比企谷八幡の経験を否定しようとする奉仕部の目的とは対照的に映ります。彼なりの志向的に整理する過程でのネタ化、ユーモアによって対象を相対化させ、さらなる矮小化を経て、連続的に同一性に組み込むことで「イマ・ココ」という不変的な自己をより一層強化させていく機能があります。

ある意味では、成熟を拒否する自閉的な精神性が独立的なマッチョさに見えます。その「引きこもり性」は、物語上では必ずコミュニケーションを要請される。なぜなら、ディスコミュニケーションは転倒してコミュニケーションを要する構造になるからです。欠落を回復することは物語のスタイルとしてあります。その転倒は比企谷八幡がボッチであるから、といったものではありません。彼がこの物語の主人公であることに他ならないからです。主人公である以上は、何かしらに関わらざるを得ない。そうでなければ、何も物語として起きません。物語でなければ「引きこもり性」は温存されることでしょう。そのまま成熟を拒否し続けることも。

変わることを促される比企谷八幡の拒絶は、潔癖的にいえば、変わることは逃避であり自己否定に映ります。現状の「イマ・ココ」の集積でもって、自己肯定で踏ん張るこることで「安易な成長」への意義を唱えることこそが、彼の経験則を誰よりも肯定できる構造となっているに他なりません。

「成長」への奴隷を退け、変化をすることへの嫌悪感による一周回った自己肯定です。これは今までがボッチであり、それが当たり前だったゆえに、ボッチであることが軽んじられる風潮に異議を差し込む形となっています。丹念にボッチへの理解として独立していることを突き詰めた結果とも言えますが、寧ろ、突き詰めるしかなかったことが「潔癖」を形成していったと推察できるでしょう。

 〇

第4章「それでもクラスはうまくやっている。」からクラス内での描写に重きが置かれていきます。それまでの章では奉仕部という「外」で繰り広げられ、具体的な比企谷八幡の立ち位置は見えないようにされていました。奉仕部の中での雪ノ下雪乃平塚静からの他者評価を経由して、アイロニカルに昇華している振る舞いはあれど、それでは「中」での位置づけはどうなっているのか。そこに応答するために3章から由比ヶ浜結衣が登場し、その文脈を引き受けつつ、4章として具体的に展開されました。

スクールカースト描写として、オタクといった非リアとリア充を中心に据えています。そのどちらにも居場所がない比企谷八幡の「外的」視点というある種の不在の中心による語りがなされているのが特徴的でしょう。「リア充と非リア」の二項対立としてのカースト描写を経て、それぞれの居場所が確保されながらも、その場のノリを形成するムラ的同調圧力=建前や「空気」があります。建前的に機能しているために本音が介在するとどこか不都合が生じる。それで以て「空気」による選別を行い、「ノリやキャラ」を建前的に用いることとなる。

しかし、『俺ガイル』のスクールカースト描写は、便宜上のためと言えるでしょう。それこそ「建前」的なものであり、「本音」は脱構築するためだと考えます。「空気」や「キャラ」、記号的なものから「先」や「空白」を描くまでの方便でしょう。

『俺ガイル』では、スクールカースト上位のリア充と下位のオタクたちは意識的に描かれています。前者は葉山隼人たちを捉え、後者は有象無象の一部として登場する程度です。

それぞれのコミュニティがあり、ボッチではないことが窺えます。その場所毎のコミュニケーションがあり、ボッチである比企谷八幡の「外的」視点を通して上位と下位のコミュニティが可視化されていく。意識的に上位と下位を描くことで中間層を空洞化している構造は、やはり厳密なるスクールカーストの顕在化が目的ではないと読めます。二項対立としての「建前」くらいの「スクールカースト性」と言っていいでしょう。

そして、この作品の持つ「スクールカースト性」は、上位には上位の「空気」があることに尽きます。「空気」に従属するしかない下位に対する上位からの無自覚な振る舞いだけではなく、上位も同様に形成された「空気」に組み込まれている日常的な光景が広がっていることが比企谷八幡から見えてきます。

この物語の主人公である比企谷八幡のモノローグのウェットさには際立つものがあります。自分自身がボッチであることを他者の目を踏まえながらも、自身のプライドを考慮しつつ、自虐や他人からのイジリをネタとして回収しては昇華するある種のタフさがあります。

自らコンプレックスや黒歴史を開陳することで、経験的なエビデンス・ベースとしての語りで他者を妙に納得させ、自分自身のダメージコントロールを図ることすらもネタ化した一人称です。

また、比企谷八幡は「働いたら負け」といったインターネットに表れているような価値観を引っ提げっています。この標語もある意味では古びていますし、かつてはそれを言えるだけのリソースがあったとも考えられるでしょうか。男女共同参画社会、ワークシェアリングといったヒモ擁護の理論武装のように理論は後から付いてくるもので、正論風に装うことの安易さが透けて見えてきます。同時に理論武装自体のみっともなさを突き付け、意味を巡り、構築する社会に居るからこそ意味が付いてくる、再発見してしまう病の表れではないでしょうか。

ここでは、理論武装自体への揶揄はあまりなされていませんが、比企谷八幡の腐った目に表れている捻くれた根性の更生が挙げられています。端的に「顔が悪い」といった美的感覚ではなく、「目が腐っている」ことに代表されているある種の「残念さ」があります。

ここで一つ例を挙げます。

さやわか『一〇年代文化論』は「残念」という用語から、時代と若者文化のイデオロギー的消費を受け、批評的な切断性と横断性を統一的な感性の用語で置き換えることで以てパラダイム自体を組み替えるような試みがなされた著書です。

 

一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)

  • 作者:さやわか
  • 発売日: 2014/04/25
  • メディア: 新書
 

 

「残念」は辞書的なネガティブな意味合いを持ちながらも、「残念なイケメン」のように微妙なニュアンスとしてポジティブな意味も付与されていった変容があります。

比企谷八幡は「残念」です。周りが述べる意図はネガティブなものですが、当人はポジティブに聞こえなくもない「残念」な錯覚があります。それは何故なのか。この「残念」は主観的、客観的には厳密に一致しているのでしょうか。比企谷八幡はアイロニカルにネタ化することで、ネガティブをポジティブに反転させるかのように「ネタ」的に「マジメ」に清濁併せのむ「残念さ」を引き受けています。この「残念」はアイロニーのように相手を位置づけながら、自己の位置を転移させてみせることで相手との差異を示しつつ、錯覚的なものでしかない「残念さ」に回収されます。

「残念」だから友達がいない。つまりボッチであることは「残念」な状態である。

これらの「残念」はマイナスの意味が付き纏います。この「残念」を経験的に昇華させ、自己肯定とすることでプラスに転倒させるような働きが現状をアイロニカルに追認してみせることで、二重化された「残念」が増幅する結果となります。

重要なのは、その内面に「嘘」や「欺瞞」はありません。捻くれた形で正当化された潔癖性だけがあり、上の増幅したものが結びついてマッチョ的に読めてしまいます。

一方で、友達がいない「残念」な状態に対して、比企谷八幡雪ノ下雪乃は引け目を感じているわけでもありません。ある種のトラウマをネタとして昇華しては強化している自意識の構造があります。

〇 

ブコメ展開への疑いこそが「青春ラブコメはまちがっている」の基本的姿勢だとすると、放課後に「残念」な学年一美少女兼成績優秀者と二人きりでいることは、ラノベ的ラブコメでしょう。

 

P27 その名の如く、雪の下の雪。どれほど美しかろうと、手に触れることも手に入れることもできず、ただその美しさを想うことしかできない存在。

 

高嶺の花としての雪ノ下雪乃

しかし、彼女とのやり取りはありがちなラブコメ展開を容易く拒絶します。最悪な出会い、ファーストインプレッションからラブコメ展開はむしろ典型であり、常套手段でもあります。

翻ってラブコメへの期待ともいえるような「残念」ツンデレ美少女という記号的理解が進みますが、ツンデレ美少女の定型から「敢えて外す」ように展開すれば、「残念さ」相まって冒頭の作文は一周して強化されます。これらによって「青春」との距離を明示化させ、「青春フィルター」という嘘や疑義は、それを素朴に信じない側からすれば益々正当な主張となります。

 

P47 やっぱり青春は擬態で欺瞞で虚偽妄言だ。

安易なラブコメへの牽制や懐疑は、自分自身が「内」に入れないために生じる要素です。

雪ノ下雪乃との密室でのやり取りは、まさにラブコメのテンプレを外しながらも、端から見ればラブコメ的なエコシステムに乗っかっています。なぜなら「何も起きないこともある」というメタ的視点からみれば、恰も「ラブコメっぽさ」に回収されているように見えてしまう。相互のベクトルが合っていない都合も含めて。

記号的な美少女としての雪ノ下雪乃を「他者」とする作用は、友達いない同士といったカテゴリー理解、ランク分け、ラベリングといった記号化作業への懐疑が起点となります。記号から人間を描くようにするには、「いかに人間を見るか」といった余剰さ、空白が重要であり、『俺ガイル』の「スクールカースト性」は脱構築するための建前でしかないことと同様です。

友達いない同士といったカテゴライズも厳密に見れば異なります。周りから好かれなかった比企谷八幡と好かれすぎた雪ノ下雪乃。プラスとマイナスのベクトルの差異は「求む、求められるか」の噛み合わなさに起因します。

当初は「友達いない」カテゴリー同士だった比企谷八幡雪ノ下雪乃でしたが、徐々に記号的にはみ出るように差異が見えてきました。彼にはボッチであるがゆえに集団心理が分かりません。

一方で、彼女には集団に属していた経験があります。その経験則は、絶対性に対して共通の敵として排除に団結する可能性はあるが、リソースとしては排除に向かうことで向上心にあたらないとすることが語られます。友と敵に分け、党派的に自分たちの居場所を確認する作用としての排除や攻撃という力学によって、二項対立的に保たれる構造でしょう。

集団に属さないボッチと属せないボッチの差異として、前者は集団から妬まれ、除かれた雪ノ下雪乃。後者は「空気や内輪」に入れない比企谷八幡(まるで空気のように!)。

それらの力学が自分にとっても、周りにとっても、プラスにもマイナスにも作用することがあります。絶対的な意味、存在における力の作用は、それを眺める側の妬みのリソースとなり、ある種の「加害―被害」や「友と敵」のような党派的な連続性を見出してしまいます。それゆえに正しさ、優しさ、美しさが常に一定の意味と価値を示し続けているわけでもありません。その絶対性も、まさにエコシステム的な要領で動的に相対化されていきます。 

だからこそ、正しくない現状に正しさを貫くために変革を目指す雪ノ下雪乃がいます。他方で、比企谷八幡は弱さをルサンチマン的なマッチョさに同一化することで予防している節があるのは、経験的に弱さを見つめ、一周して肯定しているようなイマ・ココからの離れなさに起因しています。

「世界は正しくない」。騙して、誤魔化して、嘘や偽りがあるために不満が蔓延してしまう。正しさが正しくあれないことも含めて。そんな中で出会った雪ノ下雪乃は嘘をつかないと判断します。この潔癖的価値観は、ある意味での誠実さという名の下での似たもの同士という別のカテゴリーに組み替えます。

この過程を踏まえて「友達」という意味を相互に引き付けられるのではないか、と比企谷八幡は考えて提案しますが、彼女に断られます。

このようなアンチラブコメをしている側としての「ラブコメっぽさ」は、正常にテンプレ的なラブコメが機能しないからこその異化としての「まちがっているラブコメ」と組み換えていると言えるでしょう。

ここで繰り広げられる雪ノ下雪乃との安易な「ラブコメっぽさ」への期待を裏返すような自己言及性は、タイトルにあるように「まちがっている」ために成立していきます。

さて、話は前後します。奉仕部の精神について作中で以下のようにあります。

 

P87 「飢えた人に魚を与えるか、魚の獲り方を教えるかの違いよ。ボランティアとは本来そうした方法論を与えるもので結果のみを与えるものではないわ。自立を促す、というのが一番近いのかしら」

 

初めて依頼を持ち込んできた由比ヶ浜結衣のクッキー作り話は、如何にもギャル系の女の子が「手作り」にこだわるのは「キャラ」に合わないといった記号的な話です。彼女は周りの顔を見てばかり。「キャラ」に収まらないと「空気」に合っていないと安心できない。スクールカースト上位の由比ヶ浜結衣という女の子が抱く家庭的への憧れは、ある種の「キャラ」からの逸脱であると描かれています。

また、比企谷八幡の主夫選択も男性の役割、「キャラ」の多様性の一つであり、「キャラ」との一致性に安心するか、都合が悪いかの差異と見て取れます。

しかし、単に「空気」を読むことが是である価値判断はされていません。なぜなら由比ヶ浜結衣は「空気」を読むことが建前だと知っているからです。

 

P108 「でも、本音って感じがするの」

 

この本音は「本当の手作りクッキー」の文脈と接続されています。まさに建前は「手作り」ではありません。

ここでは、比企谷八幡非モテという卑近な例を出し、男子の単純さ、愚かさを経験的に用いて、手段と目的を転倒させる明示的な語りがなされます。このマイナス思考がアイロニカルに一周して、シニカルにリスクヘッジをすることでポジティブに転化している比企谷八幡の「残念」なモノローグは特徴的であるのは既に記しました。アイロニーとは「分かる人と分からない人」に線を引くように距離を明示化します。比企谷八幡アイロニーは「分かる」に集中しており、「分かる」ことによって自然と内輪を形成するように強く引き付けてしまいます。この錯覚めいた引きつけさえも「内」に入れないが故の「外的」な彼からすれば皮肉的でありますが。

さらに「キャラ」や属性としての中二病キャラの材木座義輝が登場します。彼は「キャラ化」していることで救われているキャラと言えます。「キャラ」や「空気」に悩むこととは正反対のキャラです。ワナビ、ボッチ、設定を作る思考という観念で現実を二次創作していて、何もない日常にストーリーを上書きしています。そこで生まれた「自分の世界」が、自作を通して他者に触れ、他者性が侵入した他人の目によって「自分の世界」が揺らぐ。相手の顔が見れることは、誰に向けて書いているのかを問いかけるものです。誰=具体的な他者が見えてくる喜びは、ある種のボッチ思考からの脱却への糸口でもあり、しかし「自分の世界」といった確かな自己=安定した「キャラ化」が前提となります。

 

P182 歪んでても幼くても間違っていても、それでも貫けるならそれはきっと正しい。誰かに否定されたくらいで変えてしまう程度なら、そんなものは夢でもなければ自分でもない。だから、材木座は変わらなくていいのだ。

 

比企谷八幡の「変わらない」ことを美徳とする素朴な態度は、不変性への信頼や潔癖に尽きます。「自分」という足場への信用として。それしか持たない者ゆえの決断としての砦は、エコシステム的な空間の中で純粋性や絶対性としてしばしば昇華されていきます。比企谷八幡雪ノ下雪乃に抱く潔白さがそうでしょう。そのような比企谷八幡の一人称には、自分という強固さによるある種のシニカルかつミニマムなマチズモ的なズレが見えてきます。

 

P228 結局のところ、この奉仕部というコミュニティは弱者を搔き集めて、その箱庭の中でゆっくりと微睡んでいるだけのものなんじゃないだろうか。ダメな奴らを集めて仮初めの心地いい空間を与えているだけなんじゃないだろうか。

それは俺が嫌悪した「青春」と何が違うのか。

 

上述のように「青春」をエコシステム的と評しましたが、内部に取り込まれる磁場の強さがここでも読めます。果たして「外」なんてあるのでしょうか。既に記しましたが、アイロニーの作用は無自覚的に「分かる人」を引き付けてしまいます。それは「内輪」と呼んで差し支えないでしょう。

また、メタ的にいえば物語はパッケージ化して提出されます。ボッチの一人称のまま何の関係性にも入らずに何も動かないことはありません。そういう意味では、物語も「語られ始めた時点」でエコシステム的な動線を引き受けてパッケージ化されている、と言えます。物語を動かすためには関係性に混ぜる必要性があり、受動的な「巻き込まれる」体験によって内部化していく。そこへの疑義は常に付き纏いますし、なおさら「内部」や「青春」を疑っているのが本作の主人公でしょう。その視点を持つことで、比企谷八幡は「主人公たり得た」とも言えるのではないでしょうか。「外」と「内」を往来しながら、混在するカウンターとして。それが、ある種の保守性に引っかかっていることがシステム的と考えています。

 

P233 誰かの顔色を窺って、ご機嫌とって、連絡を欠かさず、話を合わせて、それでようやく繋ぎとめられる友情など、そんなものは友情じゃない。その煩わしい過程を青春と呼ぶのなら俺はそんなものはいらない。

ぬるいコミュニティで楽しそうに振る舞うなど自己満足となんら変わらない。そんなものは欺瞞だ。唾棄すべき悪だ。

 

冒頭の作文の反復が読めます。こういった反復性が『俺ガイル』のある種の記号的な要素であり、その度合いがグラデーション的になっていく変容は記号を解体していくものとなりうる。

「青春」とは異なる「そうではない側」に消極的であるがコミットメントする理由が、自分としての正しさを証明している。「青春」という嘘の仮面を被らないことが純粋的な正しさではないかと。「青春」への疑いから「青春ラブコメ」への展開を拒絶されたり、怪しんだりすることで一層自身が掲げる正しさが際立ちます。自分自身が内部化することへの懸念を挿むことで、「外」に出ようとする力とイマ・ココに引っ張られ、それを担保してきた語り、スタイルとしての異化効果がカウンター的に日常化します。つまり「まちがっている」ことが日常的であるといったように。

具体的には第8章からは「青春フィルター」への嫌悪が述べられています。自分たちの輝かしい瞬間としての記録と記憶は「青春」と名前を付けられることで、正当化された実存への承認が行われます。そんな「青春」と称した「欺瞞的なぬるいコミュニティ」から切り離して、自分たちの居場所へ帰ることこそが「そうではない側」としての「自分たちの居場所」になっていくとしたら、それは同様に内部化の作用によって「ぬるいコミュニティ」へと変貌していくことを意味するでしょう。

例えば、葉山隼人のいう「みんな」とは誰でしょうか。また「みんな」に入れない者として比企谷八幡がいます。「みんな」をノリ、祭り、純粋な有象無象の無形的「空気」とするならば、比企谷八幡にとっては「みんな」が枷にも呪いにもなります。

スクールカースト上位の一般論的な「みんな」へのカウンターとして「外」的な比企谷八幡がいます。だから、二項対立が起点としてあるために成立しています。「外」にいるから、「みんな」ではないから、一人であるために「青春」への疑いが作用する。

これは、ボッチであることが悪いのか。いや、そうではないことを証明したいと考えているのが比企谷八幡です。

自分自身が「まちがっている」とは思わない。自分なりの正しさがあり、そういうこともあるだけです。否定しないし、されたくない。ボッチ経験からの昇華によって確立したスタイルは「変わらない自分」を確かとして、「青春フィルター」を経由しないことで逆説的に正義そのものに接近しているのでは、という理論でした。物語的にはこのような「まちがい」を回路として組み込むことで正しさを問う構成となっています。

そして「男女のラブコメ」を期待していると、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃のラブコメが一要素として始まる気配があります。それも含めて「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」なのでしょう。友達関係として接近していく由比ヶ浜結衣は、雪ノ下雪乃の領域に入っていきます。由比ヶ浜結衣に友達として歓迎されることで、雪ノ下雪乃の無意識的な友達探しの文脈に接続されるところを比企谷八幡視点で恰もラブコメ風に描いています。

ここで、安易に友達探しの文脈に主人子である比企谷八幡は接続されません。彼は逆説的に孤独への肯定を証明しようとしています。一人であるからこそ獲得した知恵と弱さを反転させた強さ、そして持たぬ者ならではのある種の能動性を展開していきます。

人間の人生はゲームのように例えられますが、セーブポイントもリセットボタンもありません。乱暴にいえばリセットできない人生という一回性が、人間とキャラとの違いでしょうか。例えば、キャラにはループ機会やリセットできる可能性を持つことがあります。また、二次創作的に恰も別の人生を生きているかのように描かれることもできます。

しかし、キャラは物語としてパッケージ化されて「その後やその先」を生きることができません。そのために厳密に人生と物語は一致しません。「その後やその先」の保証がない一過性としての性質は似ているにしても、キャラ自体はそれを見ている人間がいなければ成立しません。同じ一回性の中でもパッケージ化という暴力性を経ずとも、人間は自立して存在できます。けれども、キャラはパッケージ化や自分を見つめる視線といった暴力性を引き受けなければ存在できません。それを受けて、物語化されていくことでキャラは「その先」を生きるという形式でもって語られることが可能ですが、それは人間がキャラに命を吹き込む作業なくして成立はしないのです。その意味では『俺ガイル』はゲーム性を極力排除しようと努めた作品だと言えるでしょう。ゲーム性が良い・悪いといった話はここではしませんが、出来る限り一回性のもとでキャラを人間に近づけようとしています。記号的な組み合わせによる非リアリズム的な見地から、いかに「内面」を描き、生身の身体を持つ人間に近づけるか、といったリアリズムへの方法の矛盾を回路として用いる。読者がいて成立するキャラの存在できるために生じてしまう「内面」を一人称でもって現実と接続させるように。その一回性の問題が地続きに横たわっています。

さて、比企谷八幡の「肯定」は、リセットできない一過性的な日常というイマ・ココを包摂した経験的強度への転用から、自立してみせようとする藻掻きに見えます。その葛藤を経た主観的な正しさの発見は、何度も記したような潔癖に繋がり、それ以外は「悪」に映ります。 

まさしく「青春フィルター」は世界の見え方を変えます。その変化が主張されているならば、アンチテーゼとして機能するのが彼の主張でしょう。比企谷八幡も主観的に変わるかもしれません。客観的に、物語的には、何の関係性にも組み込まれていなかった彼が奉仕部というコミュニティの内部化に取り込まれた時点で見え方は変わっているわけですが、そういった「外」への力を内面に留めていなければ「まちがっているラブコメ」は描かれません。

「青春フィルター」を忌み嫌い、安易なラブコメを遠ざける「まちがったラブコメ」を起点とした物語は、客観的には、読者的には十分にラブコメの様相を呈しています。ある種の「まちがっているが、タイトル的にはまちがっていない」ラブコメであると思うくらいには微笑ましい。

比企谷八幡の作文の結びがタイトル回収の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」にあるように、「やはり」とある自虐的かつ主観的な一人称の文体が上滑りしないようになっています。

捻くれた自覚的なラブコメとして「まちがっている」が、『俺ガイル』という物語においては「まちがっていない」といった「まちがっている」ことが逆説的な正しさとして機能しています。この捻じれはまさに「青春」への嫌悪感を述べた冒頭の作文の反復性と通じるでしょう。「青春ラブコメ」へのカウンター、システム的な「まちがい」から出発し、包摂としての「まちがい」こそが「まちがっている青春ラブコメ」であり、つまり物語的なある種の正しさであると。反復的な二項対立といったある種の保守性のもとで「正義」を引き付けようとする都合の良ささえも含めた「まちがっているからこそ物語的な正しさ」を「まちがって」温存し、内面化しているシステム的な構造だと言えるのではないでしょうか。

futbolman.hatenablog.com

近況報告 僕は書けなかった

書かなかった。書けなかった。

この違いは大きいわけですが、僕はどちらかに割り切れないまま往来するようにして悶々としていた。

スランプなんて格好いいものじゃない。野村克也に言わせれば未熟者にスランプは無いらしい。じゃあ、スランプは縁遠いものになっちゃう。悲しいね。

今の気分を述べるなら後者になる。これは日による、としか言いようがない産物で。

今、書き始めた僕の実感としては「これまでは書けなかった」とする他ないのだが、寝て起きたら「いいや、書かなかったんだ。これは沈黙するほかなかった意思表示である」と宣う可能性は否定できない。

だから、今の気分を大事にしながら書くとすると「ようやく書けた」になってしまう。驚きだ。薄い膜を纏わせて、隔たりながら書く。そんな距離感を大事にしようとしながら、とりあえず今のままを書いたら、こんなになるのだから。

初めてブログを開設したのが高校生の時だった。クラスメイトから誘われたのがキッカケ。SNSなんて無い時代。ブログブーム全盛期。Mixiをやっているのが社交的には当たり前の日々。

最初のブログは、映画を観て、レビューを書くだけ。今とさして変わらない。何かについて書くことが好きだった。好きなもの、アツいものを取り上げていた。人の悪口は書かないようにしている。生産性が無いから、なんて良い風なわけでもない。だって、悪口は言うものだ。書いて痕跡が残ったらタチが悪いじゃない。

当時はガラケーとパソコンで、今はもう無いとある映画レビュー投稿サイトと自分のブログを書いていた。それこそツタヤから借りてきた映画を観ては、翌日の授業中にレビューを書くことくらいには夢中だった。インターネットで知らない人と本格的に交流を始めたのもそのくらい。

それから幾らかのブログを立ち上げては、移っての繰り返し。あまり腰を据えっぱなしよりも、色々と場所を変え、その時に文体や扱うジャンルも変えていた。「変身」しているつもりだった。マジメにインターネットの匿名性への安心感である。平野啓一郎の「分人化」は、ようは「キャラ」の話に過ぎないけど、「キャラ」を文体やジャンルで変えることが出来るんだといった開放感ったらありゃしない。現実の僕の身体はどうしようもなく揺らがない。変わらない。みすぼらしい身体が一夜にして劇的に変わるわけでもない。徐々に爪や髭や髪の毛は伸び、加齢と共に肉は落ちず、だらしない猫背が治るわけでもない。理不尽としか言いようがない。この「変わらなさ」は僕にとっては「良い方向に変わらない」ことへの憤りでしかなく、それに対して具体的に「変わらない」ことを担保してしまっている僕自身の「変わらなさ」に尽きてしまうのだからタチが悪い。

だから、ブログを転々して、幾らかの「キャラ」をバラバラにすることは僕にとっての変身願望そのものなのだろう。開放的な振る舞いが出来る。そのフリができる場所がある。それだけ充足していたと思う。

けれども、変わらないものは基本的にある。それをアイデンティティと呼びたくはないが、僕は怒りっぽい。宮崎駿くらい。しかし彼のような器量があれば生産性があるのだけど、それも違う。仕方ない。僕は宮崎駿ではないし。

余談だけど、僕が高校生時代のブログで力を入れていた映画記事がジブリだった。高校生という若さを特権化して書いた記事はそこそこな反響があった。「若さの割には」書けている評価だったのだろう。基本的には「若いこと」は特権化できるが、舐められているのだなとも思った。

話を戻す。宮崎駿は、僕にとって初めて「作家」というものを意識させてくれた存在だ。それは特別な意味を容易に持つけど、むしろ神秘性を解体させたい欲求はある。個人的な話として。

そう、すべては個人的な話だ。

とにかく「怒り」がある。

なぜ、僕がこんなことを書かないといけないのか。

なぜ、こんなことを書いているのか。

なぜ、面倒くさいのか。

これらは僕が僕自身を過大評価しているわけではない。「なぜ僕如きが」という気持ちでやっている他ならない。必要以上な卑下でも、況してや謙遜でもない。

根源的な「怒り」があるだけだ。卑屈さは後からいくらでも付いてくる。理屈と一緒。そんなもんでしかない。その「怒り」は、僕が必要だと思うことや読みたいことが無い時に生じる。じゃあ、自分で書けばいい!と思うのは相当億劫だ。面倒くさいし。正直、書かないで済むならそれでいい。誰かやってくれ、と。

こういう書き方をすると誤解を生むかもしれない。そうそう、都合が良いわけないのも分かっている。ただ、僕が読みたいと思っていることを僕自身が書くのは相当面倒くさい。端的に、イメージに身体や能力が追い付いていない。この作業は、僕が僕自身をハックせざるを得ない状況でしかないが、これが意味するのはインターネット上の変身願望よりも自身の身体感覚の限界や生身を突き付けられる嫌なものだ。

いや、待てよ。「キャラへの変身」もそうそう変わらないんじゃないかと思うかもしれない。これはエクスキューズがある。ある種の突き詰めよりも、変わり映えの速さによる薄っぺらさが「キャラ化の功罪」の一つとなるからだ。嫌となったら離れればいいし。

で、ポッドキャスト「おおたまラジオ」や直近の更新記事で壁に躓いた痛みは、インスタントな「変身」ではどうこういかなかった。面倒くささが刺さったままで、書かなかったし、書けなかった。

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その結果「怒り」が空転したような着地をしてしまい、ウエルベックとか読んで穏やかになっていた。そう「穏やか」になってしまっていた。

ブログを書き始めた頃から「怒り」しかなかった僕が「穏やか」になったら書けない。そりゃあ、そうだ。それに対する焦りも別に無かった。焦りがないという焦りもなく。ただただ「穏やかだなー」って。

断言しよう。ウエルベックには鎮痛剤の効用がある。

そんなある日、とある人と長話をしていた。そこでふと零れた違和感が、僕の「穏やかさ」に波風を立ててしまったのだから始末が悪い。それは「怒り」しか知らなかった僕が、自分と他者への目線を攻撃的に支配してみせようする「怒り」ではない別のアプローチだった。「怒り」のベクトルは返ってくるのも含めて一方向的でしかない。どのようにベクトルを操作し、異なった向け方ができるか。この問いに対して「怒り」ではない「穏やかさ」を伴いながら、書けそうだと思ってしまった。この「穏やかさ」は別に人に優しいわけじゃない。人には厳しく、自分には甘く。殊更優しくなろうとも思っていない。「穏やかさ」は「怒り」とは異なる出力で書けなかったものが、書けそうだなという淡い期待。自信があるわけじゃない。やったことないし。よく知らんけども、書けなかった自分が、「怒り」しかなかった自分が書けそうだと思ったのだから、それでいいじゃんって話。

ここで、僕が見つけた「テーマ」を書くことはない。

今後、書いていくものに表れるだろうから。そこまで読み込む奴はいない。残念、知っている。僕がこの書き方を扱えるか。そんな実験なのだから別にいい。

ただ、これから僕のテクストを読む人は「この人はもう怒っていないらしい」と分かってくれればいい。個人的な話だから。もちろん「これで穏やかなのか」と思ってくれても構わない。僕は「穏やか」だから。「怒らない」から。人に優しくありたい。

素直に今の気分で書きたいことを書いてしまった。翌日には後悔して消したくなるかもしれない。激情的に。

このブログを消そうかと思ったことがあった。別の場所で「変身」しようかとも。それは結局、ぶつかった「怒り」の縮小再生産でしかないことも分かっていた。だからインスタントに出来なかった。マジメすぎた。この開放感とは正反対の重さ。本末転倒じゃないか。そんなものを望んだわけでもないことに気付いていからは「変身」自体を見つめるしかなかった。そんな「変身」をしていていい時は過ぎ去ってしまっていたのだから。

そんな折、僕は加藤典洋の著作を色々と読んだ。こういう読み方は大いに嫌いなんだけど、僕は励まされた。そう。これは、今の僕にとって大事な本ではないか、と。僕だからこのような読み方が出来ているのではないか、と。本当に自己啓発的な読み方で、気持ち悪くて堪らないけども、救われた。

だから、大袈裟なことを書こう。

今、僕が書けているのは、あの日長話に付き合ってくれた彼と加藤典洋のお陰だ。そして、ウエルベックも少し。

そんな「近況報告」である。

山崎亮『コミュニティデザインの時代』を問う 公共性と「活動」の再編

futbolman.hatenablog.com

本稿は上の文章の延長にあるので、まずはそちらを参照していただきたい。

取り上げた山崎亮の本に対して、私はハンナ・アーレント的であると最終的には位置づけた。不透明になった公共性と「私」と「公」を結ぶ中間領域(つながり)を整備するための空間がコミュニティであると。山崎によればハード面の整備よりもソフト面の拡張が求められるのが21世紀的発展であるとして、従来の開発における価値観の更新が欠かせない。

要するに21世紀的な開発は異なった価値観のもと行われるべきで、ポスト工業社会の在り方として表れる。

しかし山崎が記したコミュニティデザイン論は、従来の価値観を素朴に再獲得するための再提出であったと言い換えることができる。これは前述とは矛盾するようで、同居する事実が読めるのが重要であり、その具現が中間項と公共性である。両者のつながりと喪失していった人々と空間のつながりという二重性は両立する。そのためにコミュニティをデザインする試みがなされていると言える。

「制作」や「労働」よりも上位にある「活動」への理念を通じて、公共性という目的とつながりの再獲得の過程のセットが意味するのは「活動」に対する従来の価値観という普遍性であり、素朴に回帰するためのデザインにも読めてしまう。

もちろん、デザインする意義としては公共性よりも人々と空間のつながりに比重が置かれている。「活動」にしても過程として表れるのがポイントである。公共性、中間項やつながりが両立するからこそ、それまでの視点を再提出するための過程をデザインする行為にはポスト工業社会における21世紀的な意味、また従来の一般論的に立ち戻るための助走が見て取れる。この二つの意味は引き裂かれないまま丸く収まっているのが強みと言えるだろう。手段としては前者のように価値観の刷新が求められ、目的にあたる後者は普遍性の獲得を謳っている。

私は強烈に意味を感じながらも一方で居心地の悪さもあった。この捻じれは「活動」の意味が従来通りである所以だろう。だからこそ、アーレント的なヒエラルキーに対する違和感があるために捻じれを見て取ってしまう。

目的性と共同性の同時獲得をしたコミュニティの例として「活動」的であるのも頷ける。そうでなければ公共性は復権しない。

しかし山崎が目指す「一般化」について、万人が、例えばサイレントマジョリティのように、公共性を獲得できるとも思えない。公共性などの「活動」的な要素が脱臭された、「公」の意味では屈折しているそれ以外の空間と人々とのつながりに素直な価値が見出されるように。これは相対的な話であるが。

やはり「活動」へのアレルギーは一定数あると考える。公共性が喪失したゆえの反応とも言えるが、「活動」以外にも活動があるといった反発もあるだろう。「制作」や「労働」の観点からも、アーレント的なヒエラルキーについての再構築が求められるのではないだろうか。

前述した手段と目的の価値観の捻じれは、素朴な普遍性を謳っているように取れてしまう居心地の悪さがある。少なくとも私が「制作」や「労働」の視点から再編すべきだと思っている。ある種の外部的表現、文脈的に原理的に独立した外部的であるからこそ担保されていた「制作」の価値を再獲得すべきだと考える一方で、公共性なるものとどのように折り合いを付けていくか、メタレベルの外部的な意味を問い直すことも求められているのではないだろうか。

 

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この本では、地縁型コミュニティとテーマ型コミュニティと大別してつながりを記している。つながりはムラ的であればしがらみに変化してしまう。そのためにつながりをつながりのまま構築することが重要であるが、そこに対する言及が弱い。

「バランスが大事」や「人それぞれ」は最終的な結論として陥りやすい。ある種の普遍的解答である。私はずっと違和感を持っていた。「何か良いことを言っている風でしかなく、誰でも言える何も言っていないに等しい欺瞞」だと捉えてきた。バランスが大事。それは前提ではないか。その実を話していくべきではないかと。バランスという抽象的・個別的に棚上げすることに不満を持っている。

ここでは「しがらみ」への処方箋として「ゆるいつながり」がテーマになると考えている。以前の記事では東浩紀の『弱いつながり』の観光客タイプを引用した。「ムラと旅」を往復する振る舞いが自明であることの自由の具現として。

つながりが強くなりすぎると息苦しくなる。しがらみとなる。しかし、つながりが無さすぎると生きづらくなる。ある程度の「ゆるさ」のイメージが観光客と置くことが出来るだろう。つながりをしがらみにしない「ゆるさ」である。

「ゆるいつながり」とは何だろうかと考えると『ゆるキャン△』と『宇宙よりも遠い場所』をイメージする。

futbolman.hatenablog.com

 

宇宙よりも遠い場所 4 [Blu-ray]

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どちらもコミュニティ論というよりも「友達探し」のニュアンスが強いが、つながりの観点として読める。

前者は、キャンプという行為を通して定住(日常)と移動(非日常)の往復性から「ゆるさ」を担保している。その相対化は部活動を強いるものではなかった。個別的に、時に交差していくつながりの接触があった。

後者は友達のルールにおける同調圧力、「空気の支配」がマナーとして表れている一種の倫理的に自然的に罷り通っている息苦しさに対して、塗り替えるために別の目的による共同性でもって超越してしまえるゆるやかさがあった。友達とのつながりを再修復する必要性もないと言わんばかりの痛烈さがあった。倫理的にはそれを許容することが「空気が読める」とされているが、その同調圧力への反抗が別の共同性を育み、その発想自体がいかに「空気に飼いならされているか」を突き付けたと言えるだろう。

この二つの作品にある「ゆるさやか」は目的性に基づいた共同性を起点とした「空気」へのカウンターとなっている。ゆるいからこそ相対化され、個別的でありながら交差する接触もある。このつながりはしがらみになり得ない空間性があると言えるだろう。

このような「ゆるさ」を現実のコミュニティに定着させるには、テーマ型コミュニティとなる。しかし「ゆるい」ということは交差する可能性を高めながらも、時には軽減する設計が求められる。接触率が高ければつながりは強度を増すが、一方で緊張感が高まればしがらみに転化する可能性も増す。

このバランスを見越した上での空間設計は一定の制限による自由が相対化した結果のゆるさとなるか、が重要だろう。

ただし、ゆるすぎるのも難しい問題が孕んでいる。

共同性、偶然性といった空間設計をいかに調整しながらつながりをデザインしていくことは、しがらみにならない程度の切断したつながりの温存とも言える。

例えば、街中で歩いていてもすれ違った人に関心を持つことは少ないだろう。コミュニティとなると、そこに集まった人数と空間の規模によるが、接触する可能性は比例していく。限定的であればある程にクローズドになっていく。場所の開放性と偶然性が比例していくように「ゆるさ」の保険を掛けながら、ある程度の切断的な決定が求められる。

しかし転倒しやすいリスクがある。その切断性に宿る共同体のつながりの維持は「内と外」を分けることで、結果的にしがらみの内面化を促してしまうのではないか。ここでの「ゆるさ」というのは交換可能であるかどうかが重要であり、そのために相対化と交差する偶然性の担保と言い換えることができる。

空間と人々の設計は、ある一定のリテラシーの固定化が求められる。「空間のリテラシー」がない場合、その空間の抽象性が高まってしまう。それでは使用する人はより限定的になる。「ゆるさ」を担保しながらリテラシーを普遍的に構築することは難しい。そのバランスは容易にムラ的になる。しがらみから自由になったことで、つながりを喪失してしまった現代。そのつながりの場所を再設計することで、しがらみになる可能性も生じている。完全に排することは難しいだろう。空気の入れ換えをしてみても、別種の空気が醸成されると同じである。この「皮肉なつながり」を抱えてしまうのは宿命的である。

宇宙よりも遠い場所』では観光客タイプと新たな共同性を構築しながら、最終的には離れる結論に至る。それによってつながりが壊れることを意味しない。もはや地理的・環境的には依存しないつながりを獲得したためである。この精神的紐帯はしがらみにならない程にゆるやかに、つながりとして太い。

「皮肉なつながり」は空間的に規定されてしまうからこそ生まれてしまう。空間と人々との掛け合わせから、ある程度の切断的であることで共同性が培養された後に、いかに「つながりにおける内と外」を分けないまま空間を飛び越えるか。そのダイナミズムこそが、コミュニティが「デザインされた後」のテーマになるのではないか。

これは、正しくはコミュニティデザインの領域ではないだろうが、自走したコミュニティが陥る内面性に触れないのは不自然であると考えたので、補論として書いた。

 

前回の記事でもポジティブなあきらめから出発している本書だと記したが、そのレイヤーから個別的に相対化したゆえに更なる肯定的ニヒリズムに回収されていることは見逃せない。その文脈を切断するには多少のクローズドさが求められる。

しかし、それはゆるさとリテラシーを維持できるのか、が同時に問われていく。つながりによる癒しを一面的に捉えるのは難しい。共同性と目的性は「活動」の過程に宿るとしても、その移ろいの中にはつながりによる呪いの側面もあり、ゆるさと空間のリテラシーを都度調整していかなければならない。それは自走してもなお個別的で相対的なモデルとしてである。そのために、この逃げられない磁場のような肯定的ニヒリズムは「一般化」への壁を高くする。

山崎はコミュニティデザインのマニュアル化は出来ないと記した。教科書を作ることは難しい。なぜなら、キャラクターとケースモデルに左右される現場的判断によるためである。そのジレンマが、逆説的に対話機会や共同性を設けていったとするならば、個別的ゆえのポジティブなあきらめは「一般化」の壁として立ちはだかる。限定的であるしかないアンビバレントな要素が、アーレントヒエラルキーの「活動」回帰を素朴にさせているように。この引き裂かれないまま肯定的ニヒリズムに帰着した意味は、さきの手段と目的の捻れにあるように従来通りにはいかない、普遍的な意味での公共性を立ち上げることに対する再編と再提出が必要となるのではないだろうか。「一般化」の壁と向き合い、個別的にやるしかない「公」として。

つまり、個別的であることの集積が雑多なモザイク的な公共性を立ち上げるための要素であるならば、「私」と「公」の私的な連続性が見て取れる。つながりによる私的領域の拡張が「公」と「活動」と不可分でありながら、従来のモデルとは幾分かの再編が必要なのではないかと考える。モザイク的な公共性に対して「一般化」することの困難さがあるなら、その価値観も更新すべきだろう。ここで述べたいのは、手段と目的の捻じれのレイヤーとポジティブなあきらめのレイヤーの相関性への違和感である。

さきに記したように公共性と「活動」の領域の刷新には、相対的なゆるさが鍵となると見えている。個別的であるしかなく、モザイク的に帰結するならば、素朴に回帰するのでは不足してしまう。これは相対主義的な領域と対面しなければならない。

本書にある捻れに違和感を持つのは、目的の普遍性がそのままに位置していることにある。

しかし、その集合的イメージもモザイク的であるなら、意図的に問い直すこともできるのではないか。そこに生じるゆるさが更なる公共性を立ち上げると考えなければならない。