おおたまラジオ

可哀相じゃない!

加藤千恵『ラジオラジオラジオ!』感想 肥大化した虚構としての東京と痛々しい自意識を巡る

 

ラジオラジオラジオ! (河出文庫)

ラジオラジオラジオ! (河出文庫)

 

地元のラジオ局で番組をもつ、高校3年生の華菜と智香。智香の声が好きでラジオに誘った華菜は、東京に行く日をひたすら夢見て、退屈な学校生活をやり過ごしている。リスナーを増やしたいとがんばる華菜だったが、ある日、収録中に突然、智香から番組を休みたいと告げられて…未来への夢がすれ違い始めた二人の友情を描く、せつなさ120%の青春小説。

 青春小説である。

半ば加藤千恵の自伝的小説として読めなくもなく、学生時代の実体験から着想があるようだが、あとがきで加藤千恵は自伝的側面を否定している。

この物語は決してラジオを職業とする「お仕事系」ではない。

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ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

 

 インターネットやラジオという媒体を通して、自己実現を図ろうと目論むロマンチシズムと圧倒的な現実の対立による軋みを味わう若者を描いている。

本編でテキスト化されているラジオの内容は、実に等身大の高校生であり、退屈極まりないのが印象だ。

加藤千恵は、そのラジオの退屈さに起因するものとして「何者かになろうとしている」若者のもがきを丁寧に描いているからこそ、本編のラジオはクソつまらないといけない。必然的退屈さが宿っている。

もちろん、それは何かを語っているだけで何者かになっているような自意識であり、本編で記されているように主人公の華菜の文化性は、テレビやオトナの友だちからの受け売りであることが分かる。つまり恰も何者かになったと錯覚させるメディアの力であり、何者かになる途中としての自意識のコントロールの難しさと痛々しい相克は青春模様ではないだろうか。

舞台は2001年の9.11直後の世界。

インターネットはホームページ時代であり、SNSや配信サービスはない。現代に比べてまだ配信することに対して敷居が幾ばくか高い。

そのため、地元のラジオ局から女子高生が放送しているという特権性がある種の自意識をコーティングする側面もあり、自分は他人よりもセンスが良いと思われたいという承認を求めている様は、主にSNSで可視化されているイマとなんら違いはない。

華菜たちが行っているラジオにメールは来なければ、華菜のホームページに具体的なリアクションが来るわけでもない。華菜は掲示板(恐らく2ちゃんねる)に自演をした過去があり(速攻で看破されているのも「らしさ」である)、メールもサクラをしようかと思っている。これは世間の反応に飢えていることを意味し、ラジオが始まる前は可能性が無限大だったにも関わらず、現実が降りてきたらラジオとして広がらない、頭打ちの後退戦をしているための反動だろう(まるでどこかのポッドキャストみたいダナー)。

 9.11後の最初のラジオで、台本にはテロの話をしようかしまいか悩んだかのように二十横線を引いた記述がある。

だけど、映像がドラマや映画みたいにしか思えず、話がつながっていかなかった。

少しは冷静になったはずの今でも同じことだ。何度となく見た、ビルに飛行機が突っ込んでいく映像の意味、いまだに理解できていない。この世界で起きていることの一パーセントも、わたしは拾えていないのかもしれない。

 あの映像がハリウッド映画みたいと意見は多く、宇野常寛は当時『パト2』を彷彿とさせ、虚構が現実に追い付かれたと語り、富野由悠季たちは思想がサブカルチャーに侵食された結果、行為自体もサブカルチャー的になったと述べたことがある。

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戦争と平和 (アニメージュ叢書)

戦争と平和 (アニメージュ叢書)

 

 虚構が現実を作る。メディアによって規定されてしまう。

昨今の聖地巡礼といったコンテンツ・ツーリズムは虚構によって現実の価値が上書きされたことを意味するし、ある種のインフラの結果として現実の風景が漂白化していく過程で、風景に対する歴史や文脈への形成に虚構が寄与することで風景への現実的価値観が拡大していっているのではないか。

詳しくは後述するが、本作の華菜が抱く東京ロマンと押井守の劇場版『機動警察パトレイバー』シリーズで語られた東京の風景に厳密なロマンチシズムの一致はないが、共通して虚構のビジュアルイメージを通して東京が更新されていっていると考えられる。

華菜は東京コンプレックスと同時に東京に夢を抱いている。

東京に行けば、自分も輝けると期待している。片田舎の自分に住む自分のセンスはまだ東京レベルではないが、地元への絶望と虚無は徹底しており、何者かになるために東京に行きたい、誰か連れ出してといったイマ・ココではない何処かへ行けば充足するかのような東京的シンデレラ・コンプレックスを抱いている。

わたしは東京で恋をしたい。どうせならドラマみたいなやつ。大学で知り合った年上の人と。バンドをやっているとか、映画を撮っているとか、特別な才能を持っている人がいい。テレビ局のスタッフだったらなおいいし、芸能人だったら最高だ。

そのための足掛かりになるのが、地元のラジオとインターネットだと信じている。

2001年なのでテレホーダイ時代であり、ある意味ネットサーフィンなるものが正しく機能していた時代の高揚感をPCを前にした華菜を通して体験できる。夜にカップヌードルのシーフード味を食べながら、現代に比べて過剰に繋がれていない時代だからこそ世界と繋がる瞬間の興奮と目の前にいない誰かに向けて言葉を発信する快楽。

自分が輝くためのステージに立ちたい。

そんな自己実現と承認への欲求。

華菜は、地元を偽物ではないけれどホテル感覚だと評する。つまり仮住まいであると。閉じられており、社会への実感が隔絶されている居心地だと華菜は考えている。

「なんかさ、わたしたちって水槽の中にいる気がしない?」

(略)

 自分たちは水槽の中にいて、あらゆることは水槽の外で起きている、という感覚。外のことは目にしているし時に心配もするけど、どうしても実際の温度とかそういったものは感じられず、かなり大きな事件でも、自分とは関係ないという気がしてしまう。(略)

 実感が伴わない以上、たとえラジオで話しても、ありふれた嘘っぽい意見しか言えなさそうで危惧している。だから実感のあることだけをラジオでは伝えたい。

 社会への実感、現実に対する希薄な感覚への象徴のようでもあるが、ラジオへの誠実さが窺える。

しかし、このつながれていない感覚は水槽という比喩のように箱庭的であり、自分の居る場所に対して懐疑的になっている。なので、イマ・コレカラと繋がっていないであろう勉強には身が入らないし、テストの結果も芳しくない。自己実現の中に勉強のファクターが薄いと考えているので、免許が無いと生活に不便である地方にいる華菜は東京に行く予定であるから、免許の必要性も無いとしているのも印象的だ。

東京でビッグになってやる!と言っていることは同じで、東京ロマンを求める夢追い人の様である。

一方で憧れの東京はインターネットのように繋がっている本物の場所であると述べており、自分と世界を繋ぐための具体的な場所としてインターネット=東京が描かれ、イマや部分的にしか繋がれないことへの軋みがある。

華菜が世界と繋がれていない感覚は、冒頭の9.11や上記の実感に通じ、自分事のように収めきれないスケール感への距離を突き付けられている。

対称的なのは、西加奈子の『i』という本がある。

これは、リアルタイムであらゆる事象や事件を自分事として物語化することで、自分ではない誰かへの想像力が結果的に自分に立ち返っていってしまった功罪と、それでもこんな世界を生きていくしかない自分への物語として問いを投げかけているが、物語化できない程の距離と、それを行えてしまう感受性の豊饒さと残酷さの人間心理への挑戦だと考えられるし、本作の華菜のように実感できない人間がいる一方で、『i』が自戒と癒しになる人間もいるだろうと想像ができることが、虚構といった物語構造のフレームに落とし込むことで、ピントを合わせて降り立つことができる地点ではないだろうか。

i(アイ)

i(アイ)

 

 

わたしのホームページで一番充実しているコンテンツは、テレビ感想だ。ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、クイズ、歌番組、の五つに分けて時々感想文をアップしている。(略)

 今日わたしのホームページを覗いた八人のうちに、テレビ局の制作スタッフは含まれているだろうか。書き込みはなかったが、もしかすると今日から読みはじめてくれている可能性はゼロじゃない。そのうちにメールを送ってくれるかもしれない。

 わたしはその瞬間を待っている。想像しただけで、口元がゆるみ、鼓動が速くなる。瞬間は未来へとつながっている。実際にわたしがテレビ局でプロデューサーとなって、作りたい番組を提案し、芸能人たちと関わっている、光り輝く未来。

 リスナーの中にも、そんなチャンスをくれる人がいればいいと願っている。わたしを見つけ出してくれて、明るい場所まで連れていってくれる人。ゼロじゃない可能性を信じて、わたしは毎週しゃべりつづけているのかもしれない。

 特別になりたい。みんなと同じことを考えて、みんなと同じような場所に行くのではなく、みんなが知らない音楽を聴いて、みんなが知らない本を読んで、みんなが知らない人と出会って、みんなとは違う形の感性を持ちたい。

 見事なまでにイタイ自意識が語られているが、水槽から脱け出して「特別」という実感を持ちたい子であり、要は「外」に出たい話である。この「外」は水槽の向こう側であり、華菜にとっては東京のことを示しているが、実際は自意識という檻から「外」に出るかという物語になる。

制服やパーソナリティといった記号を脚色し、特別になることで自分が何者かになったと承認されたい気分が生々しく記されており、他方で自分自身への手応えの無い虚無感と「何者コンプレックス」による反動であることが窺える。

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

  

ドラマをただ受け取って見ている側から、テキストにしていくことで、反対に、自分が手渡す側になる気がする。

 誰も指摘していないことに着目するような、わたしだけの視線を持ちたい。テレビ局のスタッフに、鋭い感性を持っていると思ってもらえるくらいの。

 自他共に非常に耳が痛い話。

こうして作品にぶら下がって書評モドキを書く行為自体が、書評といった表現はあくまでも二次創作の領域をはみ出さない、他人の褌で相撲を取るかのような行為に接近せざるを得ないという意識は常に働いているつもりだが、これも所詮言い訳でしかなく、好き・嫌いといったファンカルチャーで渦巻く作品観から距離を置こうとすればするほどに、自分がそこに線を引いているという図式が、何者コンプレックス自意識を爆発させるものであるからだ。

優れた二次創作はそれだけでも作品になる。しかし、拙い自己表現は何かしらを足掛かりとしたパフォーマンスでしかなく、その線引きは優れたアウトプットかどうかになる。

華菜も同様にテレビといったメディアの力に引っ張られて、借り物としての水を水槽に注ぐことで何者かになったつもりでいる。

東京ドリームを抱くのもテレビの影響(具体的言及は無いが月9やトレンディドラマ群だろうか)であるし、この時代ではテレビなるメディアが茶の間に機能していたことも読める時代の気分がある。確実にテレビなどによって東京が本物として更新し、ココではないどこかを求める若者たちのロマンとして、ブランドの華やさのように映っていたのは東京像の一つではないだろうか。

 

作中で大事な設定として、華菜には同じ高校の友達が複数人いる。その内の一人の恋愛話の愚痴に対して、何ら興味がないものの聞く耳を持つポーズを取っている。ボッチでいるよりかは、群れた方が得策であるかのよう内的な振る舞いがある上で、恋愛への興味はなく、ラジオをどうするかを常に考えている。なぜなら恋愛は東京に繋がっていないが、ラジオは繋がっているかもしれないからだ。

また、リスナーの一人でもある年上のなつねえさんとはリアルでも会う仲であり、彼女からの影響を多分に受けていることが散見される。貴重なリアルのリスナーであるから、ラジオの感想を求めがちな華菜に対して、なつねえさんの感想は実に淡泊に映る。これも酷な話で、ラジオに中身が無いから感想を持ちようがないと思う。

ここで痛烈なのは、他人はそこまで自分に興味がないことを知らないという華菜の自意識の未熟さゆえの自意識過剰であり、狭い感性であることだ。恐らく誰よりも特別でありたいと思っているからこそ、自分の興味関心に夢中で、自分の関心事に対して他人がどう考えているのかといった相手の存在が希薄になっていることを知らない。

もちろん、このズレは後半でパンチが飛んでくるようになっているし、センスの良さを開陳したい自意識が、内に囚われて引き摺り込まれてしまうことで「外」に目が当てられていないという水槽の箱庭的比喩が効いている。

貴重なリスナーの一人であるなつねえさんは、東京から地元に帰ってきた人間であることが紹介される。

華菜には東京から出戻ってくる心情が理解できず、東京にはいくらでも充足させてくれる物質が溢れているが、地元には存在しないことが東京への憧れを加速させているようにも見える。

なつねえさんは小説家志望だったが、その夢に破れた。だから帰ってきたのである。ロマンへの挫折としてなつねんさんは映るが、しかし後に結婚をすることが明らかになり、別の道を歩んでいくことが記されている。

ちなみに、なつねえさんは書店員で、ビジネス書コーナーを受け持っている。本人は文芸書をやりたかったらしいが、叶わなかったとさらりと書かれているが、文芸書はその店舗のエースが受け持つ仕事であるので、ここでも一つの挫折がある。 

また小説書いて応募すればいいじゃないですか、とわたしは言った。すると、なつねえさんは言ったのだ。

「現実が見えてきちゃったんだよね」

意味がわからなかったわけではないけど、その答えには謎が残った。

 挫折と前身は、この物語の肝である。

なつねえさんというモデルは華菜の先を提示しているかのように、華菜の自意識に他者として入り込める隙間になつねんさんは存在するが、華菜がそれを自覚していたわけではないことも明らかになっていく。

華菜にとって、なつねえさんは熱心なリスナーだと思っていたが、毎週更新を物凄いスピードで聴いて感想を送ってくれる存在の一人ではなかった。これは、露悪的に書けばパーソナリティとしては無条件に承認してくれている相手、つまり自分を見てくれている都合のいい存在ではなかったことを意味する。

また、同時に友達をも勝手にリスナーにカウントしていたが、彼女たちはリスナーですら無かったことへの自分勝手にショックを受ける都合のいい部分が露呈していくように描かれている。そもそも視界に入っていないラジオの話よりも恋愛話をしたい友達と、その友達の恋愛話よりも文化やラジオの話がしたい華菜の感覚的なズレは残酷的であり、自分の興味関心がまるで世界と繋がっているという短絡的な思考は、まさに自分の価値観に対して相手がどう解釈しているか、受容しているかの想像の域にすら達していない徹底的な自意識における箱庭的な話だ。

現代のように常時接続ではない。部分的なインターネットのようなつながりではないリアルへの感覚は、リアルのままでつながっているのにつながれず、殆どつながれていない故のもどかしさと瞬間の煌めきについて『リズと青い鳥』が箱庭的に閉じ込めたモチーフであるが、本作ではラジオという媒体を通してリアルとして目の前にいない人間に語る物理的・心理的距離が、果てしない東京ロマンと地方に根付く現実の対立でもあり、それらを閉じ込めた自意識を巡る青春小説だと考えられる。

 

 その後、恋愛話を仕掛けていた友達が案の定失恋する。その失恋話をラジオのネタにする華菜は、彼女自身は友達へのエールのつもりであったが、失恋した友達にとってはラジオのネタに利用されたと感じ、憤慨する。

「番組自体、自分ではおもしろいとか思ってるのかもしれないけど、超つまんないよ」

吐き捨てるような言い方というのは、まさにこういうものだと思った。

短い言葉で、毎週積み重ねてきた三十分がまとめられてしまう。つまらない番組。それはすなわち、しゃべっているわたしが、つまらない話をしているということだ。

 拍手喝采の名シーンだろう。

意図的につまらないラジオを書くことでしか、この味わいは表現できない。

自分に都合のいい解釈を、他人がどう受け取るか想像していないイタイ自己完結型の末路として相応しいと思う一方で、他人事ではない冷えた感覚が走る。

ここで記されているのは、水槽の比喩(地方と自意識)として温室で生きていて、そこに対して息苦しいとは言っても、その恩恵は少なからずあることだ。自分のことしか考えなくてもいい。「外」に出たいと憧れても、「外」への実感がないまま水槽に浸ることで満たされているものもあるからだ。

なので水槽が保険になる。免罪符になる。

女子高生、パーソナリティという記号はいずれ剥奪されていく。それらが抜け落ちて、何者でもなくなる瞬間が訪れるが、仮初でも、彼女の言う東京のように本物ではなくても、アイデンティティとしての足場であった時間と記憶が確かに存在する。それらが漂白されて、忘却していく中で原風景化していくことでしか自分を問い直せないものもある。

それはまた、東京という風景も文化的に漂白していく現代というレイヤーも重なるように、無くなっていくものから新たに抽出して更新する、例えば聖地巡礼のように虚構のレイヤーが現実を上塗りすることは自意識と歴史的、文化的に折り合いを付けることだろう。

自意識過剰に向きあうまでの物語であり、際限のない「外」へと向かうためのメタ認知を獲得していくための青春の工程でもある。これらは朝井リョウ西加奈子が描いている自意識として、シニカルやセンスで外装して居座ることへの痛烈なしっぺ返しであり、その先の地平をそれでも歩まないといけない痛い処世術なのだから。

華菜が通るであろうある種のあきらめ=漂白は、裏返せば挫折からの出発であり、自己肯定としての受容になっていく。

青春としての挫折と自意識を巡る物語となる。

だからこそ、どうしようもないくらいに青春小説なのだ。

わたしはわたしの水槽の中にいる。

(略)

何か大きなニュースに触れるたびにイメージしていた水槽の中には、最初からわたししかいなかったのだ。中にあるように感じられていたものも、全部錯覚。いたのは、わたしたった一人。なつねえさん、智香でさえもいない。

 

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桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

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ここからは、前述のまま詳細を放置していた東京への話となる。

華菜が抱く東京ロマンは、トレンディドラマ群に代表されるような煌びやかなイメージであるが、バブルという時代性を捉えた作品に『機動警察パトレイバー the movie』がある。

機動警察パトレイバー 劇場版 [Blu-ray]

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『パト1』はバブル批評として読める作品にもなっている。

開発とインフラ整備に伴う「失われていく東京の風景」を靴底を擦り減らしながら丹念に調査をする松井たちを描きながら、風景にノスタルジーアイロニーを投影させることに成功した。

そこに東京の煌びやかなイメージは存在しない。

確実に在った風景が、徐々に、そして気付かないまま失われていっては新たな都市の風景として飲み込まれていく様子が丁寧に展開されている。

東京ロマンのイメージが都内のみならず、地方でもメディアの影響で肥大化していく喧騒の最中、その豪華絢爛なブランド性にリアルとしての風景が侵食されていくように、東京という風景にどのようにピントを合わせるかによって、生まれていく風景があることは同時に失われていく風景へのアイロニーも込められていることを痛切にメディアとして機能しているといってもいいだろう。

もちろん『ラジオラジオラジオ!』は東京ロマンが打ち砕けるような話ではない。作中で東京への憧れは度々登場するが、リアルの東京は一切描かれていない。メディア的、文化的な東京のイメージしか華菜にはなく、地方で東京へのイメージと自意識を育んでいるだけだ。これは水槽の中でリアルの実感が持てないまま、虚構としての東京が伝播していることを意味するだろう。

例えば新海誠は東京の風景を美麗に描く。

しかし、実際の東京はあんなにイイものではない。ただ、現実以上に綺麗に描くことで風景に意味を与えることも出来るのは確かな技法の一つでもある。

華菜にとって東京は本物であり、何者かの象徴である。東京に行けば何者かになれるかもしれない。イマ・ココの等身大なリアルではなく、メディア的な虚構としての東京に心惹かれている。その東京にはドラマのような風景が広がっており、『パト1』のような風景へのアイロニーは含まれていないことだろう。

虚構による東京へのイメージが幾層に塗り替えられても、自分の都合のいいピントの合わせ方がある様に、風景はいくらでも様変わりする。認識できる範囲は限られているために、そこにリアルは存在しなくてもいいことになる。

虚構としての東京を生きる意味を『パト2』では描いているが、物語終盤において柘植が東京が蜃気楼に見えると言う。幻であると。その違和感を風景映画として、また虚構に飲み込まれてしまっているがためにリアルへの手触りを確かめようと試みるテロリズム(だから最後は手と手が触れる)自体も、虚構のフレームから一時的に脱却してもなお別の虚構に取り込まれてしまう不可逆的なイメージを捉えてしまった。

この虚構の都市というフレームにピントを合わせることへの欺瞞について、風景のリアリティのみならず、そこで生きることに対するアイロニーと忘却性が付随しながらも、蜃気楼のような中を歩くしかないという現実がある。リアルが無いままの確かな手触りという一縷の可能性もまた一つのイメージであるのだから。その一つ一つのイメージの蓄積が幻のような都市を生み、リアルなるものは心象風景化していく過程に宿る感情という一つの事実にもなっていく。華菜が抱く東京への憧れはリアルのように。

華菜にとっては、ココではない何処かへのイメージの具体としての東京ではあった。イマ・ココ、そして忘れていくかもしれない様々な風景や記憶を東京ロマンではなく、原風景化させていくことで、新たな拠り所として見つめ直すことが示唆されている。

東京という風景を捉え直す。

そこまでの射程が『ラジオラジオラジオ!』にあるわけではない。

しかし、虚構のロマン化した東京と自意識との折り合いの物語である。それでも蜃気楼のように実感が持てないまま生きていく過程で、どのようにリアルの積み重ねをしていくのか。

虚構というモニターで捉えることができる現実には、直に触れない不確かさが宿っている。モニターの中のリアリティがいくらか増しても現実なるものにタッチできない。柘植が演出してみせた一瞬露わになる現実ですらも虚構になってしまうからだ。虚構というフレームを通してしか接近できなければ、そのフレームから別のレイヤーとして存在するであろう外部という現実には決して飛び込むことはできない。

そうであるから、ラジオというメディアと東京への肥大化したロマン=虚構を意識的に描くことで、「外」に出られないままその場で足掻く自意識の話になるのは必然的だろう。内的にリアルな問題として、18歳という何者でもない多感の少女を据える一方で、相対的に虚構としての東京ロマンは現実的なものから希薄になるばかりか、虚構が肥大化していくといったように。

メディアや虚構によって規定されている。

その自己実現の途中での軋みを華菜を通して描き、誰かに発見されることで可能性が開いていくことについて、インタラクティブな関係性のインターネットへの期待感も当然ある。

しかし彼女が行っていることは閉じていないけれども、拡散もしない。誰もリアクションしない。それでも、インターネットの海に発信する行為の可能性を信じている。何かしらの手触りを求めている。

ここでアプローチとしてラジオの存在がある。

メディアが、虚構があるかもしれない自己実現したいつかのわたしを形成していく青写真でもありながらも、現実の反応がメディアに乗っかることだけで恰も何者かになったかのような錯覚を醒ます。

現実の延長にあるはずなのにメディア(虚構)に飲まれていくような感覚は、現実に反比例するかのように燦然と輝く東京へのロマンが肥大化するのに通じているだろう。発信することで、何者かになる感覚。それは一時的であり、部分的でありながらも確かにメディアに規定されるもので、それもまたある種の水槽=フレームに違いない。

私は、この飽くなき承認を巡る流れをバケツに例えている。

水をバケツに注ぐことで満足するが、イマのバケツでは物足りなくなっていく。水が溢れてしまうからだ。どうすればいいのか。それには更なる大きなバケツを用意すればいい。そしてまた水を満たしていく。溢れたらもっと大きなバケツに水を注げばいいといったように、承認とステージは比例していくものだろう。

華菜は現状に不満を持っている。自己実現と承認は満たされていない。イマは東京にもいない。それでもイマはココにいる。

ラジオとは寄り添えるものである。

それは作中で海老沢が語った「受け手との距離が近い」からこそ、ラジオにしかできないこともあると信じているように。

華菜は、無自覚的に自分勝手で都合のいい他者を身近に置いていた。他者に寄り添うためには自分が距離を適切にしなければならない。それはラジオという媒体でも、リアルにおいても。ラジオを通じて、他者へのコミュニケーションを考える契機となった華菜。

ラジオはコミュニケーションを強化させる。

なぜならリスナーは選択するという主体的行為から受動的に聴く行為に没入する一方で、パーソナリティ=「わたし」は能動的に働きかける。部分的なインタラクションな関係性がありながら、生放送であれ録音配信であれ、まるで同期的したかのようなそこに居る相手に向けて仮想して語りかけるメディアだ。

「わたし」からピントが合っていなかった「他者」へ。

大きく言えば物語は「わたし」と「世界・他者」の関係性を手を変え品を変えたかのようなフレームの変奏であり、そこで発生する意思表示という祈りでもある。

フレームの「外」に対する認識不可能性は本作でいう「他者」の存在性への空虚さであり、ラジオを通じて、「他者」とそれを見つめる/働きかける「わたし」の関係性は強化される。

自意識によるイマ・ココの否定ではない。

虚構(メディア)を通して、イマ・ココの蓄積による小さく確かなリアルな手触りを求めていく。

その実感としての距離への近さこそ、ラジオならではないだろうか。

 

おおたまラジオについて

インターネットラジオのおおたまラジオを聴いて下さっている方、聴いていた方々どうもありがとうございます。

おおたまラジオは昨夏から毎月1本という更新ペースで配信していたわけですが、ラジオ2年目というタイミングだからこそ今後のコンセプトの具体的な模索についてえる・ろこさんと話していたので、第12回がなかなか配信ができない状態でした。

配信した内容は後日にこのブログでテキスト化しているので、音源を聴いていなくてもテキストには目で触れた人もいると思います。この文章だけを読んでいる人は流石にいないでしょうから。

しかし月1更新ペースといっても質量は伴わず、毎度フィードバックもシンボリしたまま次の配信テーマを考えるといったことが当たり前だった1年間でしたので、ペース的に余裕があると思いきや常に〆切に追われている謎感覚だったわけですが、ここいらで今後の展開を見据えた上で足場作りをしないといけないと話し合いになり、最初のコンセプトにあったように不定期配信に戻りました。

不定期にしたところとて、質が上がるかというと未知数です。

ある意味、前までは月1ペースが内なる免罪符として機能していたわけですからね。

それが暴かれて剥き出しになるわけですから、よりストイックに質を求めないといけない。だからこそ尻込みするために不定期という形式を歪みっぽく採ったと思われれば、それも別の免罪符になるのでしょうか。しかしこの場合は内的免罪符よりも、寧ろ不定期という形式のガワの方が優位的であると考えられるのではないか。ある種のエクスキューズが成立していた以前とは内的に異なるでしょう。

その圧が、質に結びつけばハッピーなんでしょうけど。

それと昨夜に気付いたことなんですが、従来の配信方法がサービス終了していて一つの終わりを迎えました。

これだけ配信サービスが氾濫しているのに、私とえる・ろこさんが求める配信方法が見付からないという情報弱者の極みを晒しており…その点も模索していきます。

今後のネットラジオはどうなるか分かりません。だからといって止めるわけではありません。それはえる・ろこさんと共通理解になっています。

いずれインターネットの片隅で配信する日が来ると思います。多分。

その時がきたら、従来通り読者・聴き手の方々はテキトーに相手してやってください。お願いします。

ヤマシタトモコ『違国日記』1巻感想 他者性という祈りと孤独への準備

 

違国日記 1 (フィールコミックス FCswing)

違国日記 1 (フィールコミックス FCswing)

 

1巻を読んだら傑作だった。

とても素晴らしいマンガだったので、感想を如何に記していく。

「他者性」へのアプローチを丁寧に紡ぐ物語であろうか。

35歳、少女小説家。(亡き母の妹) 15歳、女子中学生。(姉の遺児) 女王と子犬は2人暮らし。
少女小説家の高代槙生(こうだいまきお)(35)は姉夫婦の葬式で遺児の・朝(あさ)(15)が親戚間をたらい回しにされているのを見過ごせず、勢いで引き取ることにした。しかし姪を連れ帰ったものの、翌日には我に返り、持ち前の人見知りが発動。槙生は、誰かと暮らすのには不向きな自分の性格を忘れていた……。対する朝は、人見知りもなく、“大人らしくない大人”・槙生との暮らしをもの珍しくも素直に受け止めていく。不器用人間と子犬のような姪がおくる年の差同居譚、手さぐり暮らしの第1巻!

奇妙な同居生活。

血の繋がりに頼らない疑似家族的でありながら、各々が飼い慣らしている孤独を相互承認によって補完する「イエ」設定であるのが特徴的だ。

第1話では、進路が差し迫っているであろう時期の高校3年生の朝と、その同居パートナーの槙生が描かれている。所謂、血縁関係から離れたイエの形態であり、朝が成長して自立していくまでの過程というと、恰もビルドゥングス・ロマンのような響きが混じるかもしれないが、「大人」を連呼する朝と「大人」であるのか曖昧な槙生との同居生活は、まるで「一般的」ではない他者性を向い入れることを示している。

「大人」とのカジュアルな距離が描かれ、「大人」という固定観念を持つことで揺らぐ朝が1巻では象徴的である。

かつての朝にとって「大人」は親と先生しかいない世界を生きており、朝の先入観としてある「大人」らしさから槙生ははみ出ているからだ。

ここではある種の「大人」という成長モデルの提示が無い。

大人への階段を登るといった形式上のイニシエーションの話ではなく、所謂「大人らしさ」というものを抱えていなくても立場上、「大人」として見なされる。そんな「大人」としての立場を取る、15歳の少女の人生への決定的な責任と不安を持つことになった槙生と、素直な朝との同居生活を経て精神的なケミストリーが発生するであろう物語というべきか。

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朝にとっての一般的に収まる「大人」の定義と、槙生という「大人」から外れるモデルとのズレによってしか生み出せない成長物語はあるはずなのだから。

冒頭から特に会話もなく(「ただいま」と「おかえり」のあいさつは当たり前のように見えるが、当たり前であるものではなかった事実が後述されていく)、生活描写のための食事シーンが淡々と描かれている。暮らすということは食べることであり、食べるということは生きるということでもあるからだ。

主人公の朝が食事を作り、後見人の槙生は小説執筆に没頭する。

朝は、そんな槙生の姿を「違う国に行っている」と表し、食事の時に「現実」に戻ってくるといった「違う国」を行き来している様子が見て取れる。ここで、少女小説家という自立する女性として、また「違う国」を取り仕切る女王として槙生が描かれ、子犬のような姪としての朝がそっと側に立っている。

二人の同居生活における風景のバランスの一部が垣間見える。

なんか ちがう国?

槙生ちゃん 仕事入り込んでいるとき ちがう国に いるもん

第1話では朝が高校三年生であり、物語は2話以降からは中学3年生へと時系列が戻る構成になっている。作中の二人のイマの距離感を冒頭に描き、二人が出会った季節に時計の針を戻すことで、どのように「他者性」を掴み、バランスを取っていったのかという時間と精神的空間を詰めるアプローチの物語だろう。

槙生ちゃんの

叩くパソコンのキーボードの音

たまに迷うように止まって たまに殺すようにたぶん 消去を連打する

紙をめくる音と 深いため息

おざなりに消された電気と あけっぱなしのカーテンから入る 遠くのコンビニの明るさ 枕元の本の山の隙間で眠る

わたしの好きな夜

ちがう国の女王の 王座のかたすみで眠る

 このモノローグに象徴されているように、朝が「好きな夜」を獲得していくまでの物語であり、違う国の女王である槙生との生活、思いがけないキッカケから獲得した他者性を取り込んでいき、「イエ」を喪失した朝が「イエ」=違う国で「好きな夜」を過ごすまでなのか、それ以降の展開があるのかは現時点では分からないが、第1話の段階では二人の関係性は見え難い。

それは1巻を通して見ることで、冒頭を飾った1話の何気なさに立ち返っていく構成を取っているからであり、そんな「当たり前」が「何気ない当たり前になっていく」までを描く丁寧な意思が窺い知れるようだ。

しかし便宜上、「あたりまえ」という言葉を用いたが、「あたりまえ」や「普通」への距離を大事に扱う二人の関係性を中心に描いているので、この言葉は適当ではないと考えられるし、第2話で槙生は朝に対して「あなたを踏みにじらない」と言ったように、「あたりまえ」ではないことが「あたりまえ」になっていくのも、また「あたりまえ」によって「あたりまえ」ではないことが弾かれていくことも「あたりまえ」という価値観に集約していいものではなく、また蹂躙していいものでもなく、それは槙生だからこその寄り添える優しさであり、「盥」なのだと考えるためには安易に「あたりまえ」になっていくまでの物語としてのズレからの回復、としていいものか悩ましい限りだが、どうしても「あたりまえ」という言葉を使用せざるを得ないことを容赦していただきたい。

2話以降は朝が中学3年生。

槙生は姉へのコンプレックスがあり、そんな姉、つまり朝の母の死によって二人は邂逅する。この時点での二人の不器用な距離感と、あまりにも突然の出来事に身体と心が追い付いていない様子が描かれている。

朝は自分が悲しいのかも分からないといった分かり易いショックが無いことによる混乱が渦巻いており、そんな足場が揺らいでいる朝に、槙生は日記を付け始めるといいとアドバイスを送った。

この先 誰が あなたに 何を言って

……誰が 何を 言わなかったか

あなたが 今…… 何を感じて 何を感じないのか

たとえ二度と開かなくても いつか悲しくなったとき それがあなたの灯台になる

槙生のセリフにある「灯台」は居場所を示す光であり、日記として記録を残すことでの意味は、現在足場が無い朝にとって希望になるかもしれないという思いやりだと考えられる。後述の「砂漠」とは対応関係になっている。

次のページでは、朝にとっては両親の唐突な死によって、親戚をたらい回しされるかもしれない親戚同士の会話が繰り広げられる。それを聞き流す朝と、噂話をする大人たちの構図。ここでは親戚の大人たちが完全にモブとして描かれており、辛うじて人間と認識できる造形であることに、このシーンに込められたヤマシタトモコの朝への優しさと悪意が見える。

わたしは

あなたの母親が 心底嫌いだった

死んでなお憎む気持ちが 消えないことにも うんざりしている

だから

あなたと彼女が 血が繋がって いようといまいと

通りすがりの子供に 思う程度にも

あなたに思い入れる こともできない

でも

あなたは

15歳の子供は

こんな醜悪な場に ふさわしくない 少なくともわたしは それを知っている

もっと美しいものを 受けるに値する 

15歳の少女への言葉を送る少女小説家としての槙生。

世界に受け入れていいはずの幼気な15歳の少女が、美しいものを享受する資格を有するはずの純潔な少女が、「大人」たちの勝手な都合で蹂躙される様子へのカウンターとして描かれた世界=明確な他者でもある槙生からの言葉はとても清く、美しい。

それに対して自身がたらい回しされている言葉の暴力を受け流すことで平静を装っていた朝が、これから帰る場所を自ら求めたシーンへと続く。

たらいは「盥」と書くが、槙生が「臼に水を入れて下に皿を敷くと書く」と朝に教えるシーンでは、自身が受け皿となる槙生の宣言でもあり、臼の中の水は朝であるというメタファーにもなっている。

しかし啖呵を切ったのはいいものの、一日経った後では人見知りが発動してしまう槙生。一人の城を築いていた槙生の生活範囲に、完全な他者でもある朝が紛れ込むことによって奇妙な同居生活が始まる。

朝にとっても大きな変化でもあるが、槙生にとっても変化であり、主人公を朝という単体の目線で読んでいくと、その感触はハマり切らない印象を持つ。この『違国日記』は朝と槙生のダブル主人公だと捉えると、第4話以降がスムーズに消化出来るようになっており、真摯でありながら不器用な槙生と、素直に孤独を抱える朝といった完全な他者同士による相互作用の観察「日記」なのだろう。

第4話で奈々は槙生に言う。

…きみさ 人生 かわるね

エポックだ

朝にとっての変化と、槙生にとっての変化。

決して交わらなかった他者が、イマ混在することでケミストリーとしてどのように紡がれていくのか。

二人で本当に暮らしていくことになることになったが、センシティブな距離感があり、とても初々しい。

槙生から日記を書くといいと言われた朝が、ノートを貰って(ノートのタイトルは「LIFE」)いざ書き始めようとするが、上手く書けないシーンがある。

日記には情報の整理と事実の列挙による感情の送り出し方が一つにあり、それが結果としてイニシエーションとなるが、依然として麻痺している状態の朝はまだ具体的な悲しみも襲って来ず、砂漠に放り出された感覚だとして描かれている。砂漠のモチーフはサン=テグジュぺリの著作に表れているように不安や足場の不確かさの象徴だろう。

 

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

 

 

 

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

日記が書けない朝。

それは砂漠にいるから。

先おとといとイマでは確実に時間と精神的な分断とがあり、心の不安定さは「イエ」の空っぽさ、つまり家族の不在に起因する孤独でもある。

まだ悲しくない

マヒしているのか

私が少しおかしいのか

わあわあ悲しむのは

ドラマの中だけなのか

わからない

でもお父さんも お母さんも もういない

いないんだーと思うと 砂漠のまん中に 放り出された ような感じで ぞわーっとする

みぞおちのところが ジェットコースターで急に 落とされたときみたい

大人にもそんな 砂漠はあるんだろうか 

15歳で放り出された砂漠という孤独とどう向き合っていくのか。

家族の喪失を、槙生との同居で補填していく疑似家族的物語になっていくのは第1話で示された二人の現在の距離感が一つのアンサーだと思われるが、所謂「大人らしくない」槙生が一般論としての「大人」のように朝を導いていくとは別として、「違う国」だからこその補完関係、相互作用の緻密な関係性になっていくのが描かれる予感がこの作品にはある。

朝にとって書けない日記を書いていくことでしか見えない景色があり、それは砂漠の中での「灯台」への道しるべにもなっていく行為なのだろう。感じたことを認めていくことは、孤独を迎え入れていくための砂漠への足跡になる。

日記は

今 書きたいことを書けばいい

書きたくないことは書かなくていい

ほんとうのことを書く必要もない

 …なんか

なんか書こうと思ったんだけど…

なんか

ぽつーん

ぽかーん

と しちゃって 何を書きたかったのか……

…うん

……わかるよ

「ぽつーん」は

きっと「孤独」だね

 砂漠の中で生きていくには、槙生のようにテントを張ることで飼い慣らす大人もいることを知る朝。その感覚は朝からすれば「へんな人」であり、今まで自分自身が体験してこなかった「ぽつーん」は喪失による孤独であることを、日記を書けないという事実が感情を前景化させたようでもある。

その孤独であることを共に理解しようとした槙生は、朝の周りの「大人」には居なかった人種であり、朝にとって大人は「親」と「先生」であったが、 槙生や奈々は大人らしくない大人という未知なる存在。

奈々と槙生の遣り取りをみて、朝は大人も「友だちしている」ところを初めて見たかのようなリアクションをする。また、槙生の見たことのない笑顔も同時に見て、槙生と自分の関係性は「友だち」ではないことも認識する朝。それは同時に二人の関係性に名前はあるのかという問いを含み、朝は何かしらのモヤモヤした気分を抱える。

血のつながりもない。

絶対的な足場がない朝にとっての砂漠の中で、槙生との関係性は何なのだろうかという話に今後なっていくのだろうか。

その関係性に名前はあるのだろうか。

河合隼雄『家族関係を考える』に「永遠の同伴者」という記述がある。

家族関係を考える (講談社現代新書)

家族関係を考える (講談社現代新書)

 

アイデンティティと言えば、われわれ日本人は「イエ」の永続性の中にそれを見出してきた、ということができる。

 河合によれば、日本人は「イエ」の中に「永遠の相」を求め、永遠の同伴者としての祖霊を大切にしてきた。

しかし現代の日本人はイエや祖霊を否定しようとした中で、代わりにイエや祖霊以外に何を持つことが出来るのだろうかと不安に気付きはじめた人々は、もう一度立ち返るように頼ろうとする心理的作用が働いているとのことで、家族にまつわる通過儀礼がその一環として顕在化しており、物質的豊饒さに反比例するかのように精神的貧困があり、どうしようもない不安の拡大がモノの豊かさで埋まり切らない世界になっていると書かれている。

これからの家族は、その成員の各々にふさわしい永遠の同伴者を見出すことに、互いの協調と、時には争いをも辞さない家族となるべきだろう。

 砂漠に放り出されてしまった朝は、自身にとっての「永遠の同伴者」を見出していく過程にあるのだろう。それは唐突な「イエ」の不安定さと分断から生じた槙生との疑似的「イエ」=「違う国」による生活が、「永遠の同伴者」を見付けていくための足掛かりになるのかどうか。

例えば、細田守の『未来のミライ』は「血」のつながりが肯定的に描かれた。

その様は信奉的と言っても過言ではないだろう。

作品への評価は一先ず措いといて、ビルドゥングス・ロマンのフレームの中での肯定的に紡いできた細田守という作家性の集大成として『未来のミライ』は存在感を発揮していると考えられるし、『サマーウォーズ』以降の他者性を血縁関係の強度に頼って描いてきた作品群へのアンサーとして『未来のミライ』は捉えられるに違いない。

この作品では主人公の家の中庭に植えられている樹木が、比喩でありながらファミリーツリーのインデックスとしてそのまま登場し(サイバースペース的な描き方は細田守のこれまでのキャリアから必然的であるが)、家族の歴史観と日常の蓄積によってイマ・ココに至るという、主人公が本来は認知できない事実と小さく確かな先人たちの想いが、血縁というデータベース化していることをファンタジーとして象徴化した。

この血を取り巻くインデックス的な描写は、主人公とその家族が持つ固有の「永遠の同伴者」であり、その家族観は恐ろしいほどの絶対性と祖霊への信奉への回帰だと考えられる。

しかし対照的に、『違国日記』では朝と槙生の間に固有の絶対的な物差しは存在しない。血のつながりが無い二人にとっては、河合のいう「永遠の同伴者」を見出すための取っ掛りの一つでもあった「血」が欠落している。

それ故に朝と槙生の二人が抱える各々の不安や孤独を癒す「永遠の同伴者」は如何に準備されていくのだろうか。

物語としては二人の「名前が無い関係性」に没入していきながら、河合が記したように各々がふさわしい、それぞれの「永遠の同伴者」を見出していくことになっていくのだろう。

血に頼らない他者性の強度を見出していくのが『違国日記』の面白さであるからだ。

 

第4話のラストで「圧」に弱いと告白する槙生。

それに対して笑いながら朝は母の言葉を引用する。

「こんなあたりまえのこともできないの?」と。 

朝にとって「圧」は母との思い出の笑い話であるが、槙生にとっては姉へのコンプレックスのキッカケの一つである。あたりまえではない、普通からはみ出た槙生にとってのコンプレックスであり、その普通の同調圧力を強いてきた姉の肖像=母が、朝との温度差として表れている。

 

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橋本治『いま私たちが考えるべきこと』で言及されているように「個性的」は「一般的」に傷が付いたものである。

それは「普通」からはみ出たものであり、「個性的」を飾ってもアブノーマルさはいずれ和らぎ、群体としての「普通」に昇華されていく。橋本によれば「個性的」の先は「没個性的」であって、「個性的」は傷であるから良いものではないとする理解への距離というものは、必然的に「普通」や「一般的」への憧憬や圧力といった傷を抱えているからこその孤独という話に接近していく。

この意味は本作の槙生に通じるものであり、その対比としての象徴が姉になるだろう。

あたりまえ、普通への強要はハミ出た者たちへの同調圧力になってしまう。そういう意味で「個性的」になりたいくない心理と、実際的には「個性的」にラベリングされて映ってしまうことへのギャップが生じ、不安による生きづらさを増大させていく。

朝は「普通」の「イエ」から外れた現状に居て、「普通」からはみ出てしまったが故の孤独=イエの喪失に伴う砂漠化に覆われてしまっている。その孤独とどう迎い入れていくのかは、同じように孤独を抱えている「普通」や「あたりまえ」からはみ出た槙生だからこその寄り添い方があり、奇妙な同居生活を精神的に支えていくことだろう。

孤独を理解することは、同じく孤独を知る者でしかない。

朝にとっての槙生であり、同時に槙生にとって朝という他者はどのように変化を彩っていくのか。

孤独であることこそが、不器用な祈りになっていく。

そんな優しい「違う国」を往来する物語に期待したい。

いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫)

いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫)

 

 

古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』感想 あきらめによるモラトリアムの延長と成熟という名の幼稚化の拡大を図る

政夫:今日は古市憲寿さんの『希望難民ご一行様』という本、2010年に刊行された本について僕らが頑張って読み解いていこうと。

 

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

 

 

何故この本をチョイスしたのかというと、現代にも通じるんですけど、この本自体が持つ効果というか、後はろこさんのような自分探しという内面性を一度クリアにしておきたいなと。

要するにおおたまラジオで自己の内面みたいな話はこれでオシマイですよって話ですかね。

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ろこ:(笑)

 

政夫:だって、毎回ろこさんのお悩みなんかやっていたら、聴かないじゃん、誰も。

 

ろこ:でもね。

 

政夫:そんな話していていいのかという気がしません?

 

ろこ:そうですけど。これも俺の自己表現というか。

 

政夫:それはろこさんの話なんですよ。

 

ろこ:消費活動ですよね。

 

政夫:ろこさんの消費を、内面を消費したことによる自己実現なんですよ。それはおおたまラジオ的には全然大きくないですよ。全然小さいというか。

 

ろこ:自分語りをやめろと。

 

政夫:自分語りは良いんですけど、お悩み的な(笑)何かに託けた自分語りでしかないから。

 

ろこ:でも、俺の日々の活動範囲は半径5Mですよ。

 

政夫:もうちょっと広めてくださいよ。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:バズるインフルエンサーが言いそうな半径5Mじゃないですか。じゃあ、バズってくださいよ(笑)

 

ろこ:俺の日常はそんなもんだぞと。

 

政夫:僕は5M以上の話がしたいということですよ。

 

ろこ:やる前に一個だけ確認というか。聴き直した時に、こいつヤバいこと言ってなというリスクヘッジとして、格差の問題が来そうなんだよね。ポジショントーク的な感じが、来るかなと予想していて、政夫君が宮台さんと落合陽一の動画を送ってきたじゃないですか。コメント欄はエグイ程バッシングがあって、宮台さんは敢えてやっているのか知らないけど、なんか怖いじゃないですか。要は主観と客観がごちゃ混ぜになるというか。それは危ないこともあるじゃないですか。それを整理というか。俺は何を喋るか分からないから。

 

政夫:なに始まる前から(笑)どういうポジションなんですか、それ。

 

ろこ:半径5M以内で生きている超ゆとり市民という感じで。

 

政夫:小市民ですよね。

 

春期限定いちごタルト事件 (創元推理文庫)

春期限定いちごタルト事件 (創元推理文庫)

 

 

ろこ:そうそう。

 

政夫:小市民的な話は『希望難民ご一行様』がそういう本じゃないですか。

で、コミュニティが処方箋になっている世の中ですよね。本書で出てくる社会的排除という単語は、貧しさや寂しさが合わさった概念なんですけど、その処方箋としてコミュニティがあると。

古市は、本書でそれを「承認の共同体」とし、マジック的に捉えていない。つまり承認の共同体があれば何でもOKや処方箋になるよと全面的に肯定して捉えていないし、処方箋としての機能以外に着目しているのが本書ですよね。

コミュニティへの疑問と諦めの目線を提供しているのが本書ですよ。

 

ろこ:「冷却」って書いてあったね。

 

政夫:そうです。

冷却論の話はまたしますけど、なぜコミュニティが処方箋として機能しているかというと、この本では村上龍の『希望の国エクソダス』が引用されていて、「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけない」という台詞が引用されているじゃないですか。

 

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

 

 

これは、『希望の国エクソダス』が描かれた状況的にバブル崩壊後の閉塞感を意味していて、希望や未来がなく、ただ不安がある状態。ただ、今よりも自分が輝くステージがあるんじゃないかと希望を抱いてしまうことによって、現実と理想のギャップが生じて苦しんじゃう人を希望難民と呼ぶのが本書の位置付けで、希望難民というのはギャップと日常の閉塞感による生きづらさによって難民している人たち。

 

ろこ:うん。

 

政夫:三浦展の『下流社会』という本で、下流意識が強い若者ほど自分らしさや自己実現志向が強いと。下流意識が強い若者が自分らしさを求めてしまうのは、地盤がないんですよね。成り上がりたいんですよ。中流、上流を目指す上昇志向。ろこさんが下流意識があるのかは置いといて。

 

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

 

 

ろこ:ありますよ。

 

政夫:その処方箋というのがコミュニティなんじゃないの?ってのが、この本の大前提にあるもので。でも、それって怪しくない?って。

なんで希望難民って生まれちゃうのっては、本田由紀の「ハイパー・メリトクラシー化する社会」という単語が出てきましたが、メリトクラシーってのは能力主義みたいな。良い大学から良い会社みたいな物語があった時はそれで良かったけど、大学は沢山作られ、バブルは崩壊し、良い会社に、そのままレールに乗れなくなっちゃった。物語として。そういう時に何を見るのかというと、人間力コミュ力ですよね。ポスト工業社会では、それ以前は工業化された人間だったけど、それよりも人間力コミュ力というアバウトな基準による人間的なものが求められてしまった。

本田由紀はこの後ちょいちょい出てきますが、本書の解説と反論を書いていますよね。この人はゼロ年代ニートやフリーター、ロスジェネ問題に関わっていて、古市さんのあとがきにもあるように師匠の一人であることは間違いないと思うんですけど(上野千鶴子もそう)、ハイパー・メリトクラシー化した社会で、良い大学に受かっても良い会社に入れるとは限らない。その保証が無い。

 

「ニート」って言うな! (光文社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)

 

 

じゃあ、どうするのってなった時に、受験というレールの外ではベンチャーやアイドルや漫画家といったある種学歴から離れたところでキラキラしたロマンがあると。これは、もう朝井リョウですよ。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:『何者』とか。

 

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

 

あれは就活生と劇団の対比を。現実に生きる就活生と理想に溺れたい劇団員の対比があって、それをナナメからみて馬鹿にしている主人公が最後とんでもないことになってしまうというお話で、『武道館』はアイドルを素材にした物語で、アイドルも簡単じゃねーよというもので。

 

武道館 (文春文庫)

武道館 (文春文庫)

 

 

ろこ:朝井リョウなら『死にがいを求めて生きているの』を俺は読んだけど、凄い出てくる人は息苦しい人生の内面性を書いていて、誰かに必要とされているのも実は苦しんだよという逆の立場をいきながら、小中高大学時代と生きながら芽生えていくというか。

 

死にがいを求めて生きているの

死にがいを求めて生きているの

 

 

政夫:生きづらさですよね。『希望難民』とも重なるじゃないですか。

 

ろこ:そうやな。

 

政夫:本書の主張が「若者よ、あきらめてくれ」じゃなくて、「若者をあきらめさせてくれ」じゃないですか。古市自身はあきらめきれない若者ではなく、あきらめさせてくれない社会を問題設定にしていて。その朝井リョウの本は未読ですが、あきらめさせてくれない側の話をしていますよね。

 

ろこ:そうやな。生きづらさの葛藤を。

 

政夫:あきらめさせてくれないが故の生きづらさを描いているというか。

 

ろこ:もっと小さい目的のために生きるという立場や、そんな大きくなくて良いし。夢みたいな響きじゃなくてもいい。言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど。

 

政夫:その路線というのが、ピースボート効果による冷却された彼らの小市民的意識に近いんじゃないですか。

 

ろこ:あー。

 

政夫:本書の古市の結論に近いと思うんですよ。

 

ろこ:近い。近い。

 

政夫:それはあきらめきれない若者が問題ではなくて、あきらめさせてくれない社会が問題だというのが本書の立ち位置なんで。そこまで朝井リョウが踏み込んでいるかは分からないですけど。

 

ろこ:もうちょっと時代性というか、ちょっとズレている気もするけど、そこは一緒かもしれんな。

 

政夫:ここからザックリ入っていきます。

第1章って結構凄くて。2、30ページでここ最近の社会学的トピックを網羅しているんですよ。ザックリなんですけどね。あれは本当は要点を細かく掘り下げないといけないんですけど、一応流れとして書かれていて。

近代の曲がり角として1973年頃と1991年頃という風に古市は書いているんですけど、1970年頃からポストモダン大きな物語の終焉とかいわれ、つまり近代化がある程度成就し、一定の成長の限界があり、その後日本は高度経済成長が終わった頃ですね。

環境汚染があり、水俣病イタイイタイ病とか。あとはエネルギーや資源問題、また人口爆発があり、経済成長した後どうするの?みたいな、つまり高度経済成長期では経済の成長というロマン=物語があったのだけど、それがある程度落ち着いた時に、そのロマンが語れなくなってしまった時代だと。

そうなった時に、アンソニー・ギデンズ存在論的不安だと記していて、これはアイデンティティの危機だと。なぜ脅かされているのかというと、ローカルな共同体に個々人が正確に組み込まれていた近代に比べると、ポストモダン以降は流動的で自分が何者なのか分からない。存在的に不安であり、悩んでしまう。これは近代的不幸みたいな話に近くて、これは文豪ですよ。森鴎外夏目漱石などが描いてた近代的自我、近代化による歪みや軋みを描く、揺れてしまう自我を捉えていたからこそ文学というのは処方箋になっていた。

以前、おおたまラジオで喋りましたが、『文豪ストレイドッグス』というアニメがありまして。

 

 

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これはとても文学的なんですよ。そういう意味では。現代的な自己肯定感が低い若者が、どのように立ち直っていくのかという物語で、成長物語でもあると同時に自分が何者なのか?や自分というコンプレックスや傷を抱えながらも、それでも生きていかないといけない祈りのような物語でもあるんですけど、これは文学なんですよ。

つまり、近代化以降は自分探しが終わらないんですよ。文学がその一端を担っていた。

 

ろこ:サブカルチャーもそうだったって書いてあったよね。

 

政夫:そうです。これまでが1975年頃までで、91年頃はバブル崩壊なんですけど、バブルが実際に崩壊したなと実感があったのは95年とかも言われているんですけど、それは東京と地方だと別なんでしょうね。バブルの実感は。

 

ろこ:それは話せないでしょ。

 

政夫:ここで言いたいのは、この段階で家族・教育・仕事の三角形のレールが機能しなくなってしまったという。近代で作られていたレールが歪んでしまった。バブル崩壊からロスジェネ、就職氷河期世代の問題になっていくんで。

 

ろこ:もう、導入が社会学ぽいよな。

 

政夫:社会学なんだって(笑)

 

ろこ:(笑)

 

政夫:そのロスジェネの、若者の労働問題というのは、さっき本田由紀さんの名前を出しましたが、ゼロ年代以降の社会学や論壇の一つのムーヴメントになったわけですよ。もちろん、90年代から噴出していたわけですけど、具体的に語られ始めたのはゼロ年代以降で、それはつまり経済格差と承認を巡る問題なわけですよね。コミットできないから承認も獲得できない。寂しい、貧乏だという問題が付き纏っていた時に、赤木智弘さんが「希望は戦争だ」みたいなことを書いたわけですよ。

要するに、赤木さんは戦争望んでいるわけじゃないんですが、戦争のような大きな状況によって引っくり返ってくれないかと希望を込めて戦争を言っているんですよね。これは、萱野捻人さんに承認が欲しいだけの格差に対する異議申し立てに過ぎないと一蹴されてしまいまして。その承認の問題は90年代後半から続くナショナリズムブームとも関係していて。ナショナリズムが癒しになると。

 

ろこ:デモですか。

 

政夫:デモは当事者性の話で、後で出てきます。

要するに国民国家という歴史の問題が、自分に安定感を与える。ナショナリズムが自分の承認になる。

 

ろこ:愛国心かな。

 

政夫:簡単にいえば、ネトウヨですね。承認の欠如というのは居場所の問題なんですよ。居場所の話はおおたまラジオで何回か取り上げていますが、その処方箋になっているのがコミュニティなんじゃないのって。つながりの話なのではと。今でいうオンラインサロンやSNSです。あとは家族論や疑似家族論。これは『スロウハイツ』でもやりましたけど。

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あとは、おおたまラジオのプレ配信で石川善樹さんの本で「5つのコミュニティに所属していると幸せになれる」んじゃないかという話もしましたよね。

 

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

 

 

で、さっきろこさんが言ったように、中西新太郎さんがサブカルも一つの拠り所になっていると。好きなアニメがプロフィールとして機能したりとか。アニメアイコンやbioに作品名をただ羅列しているだけで、作品を語ることがイコール自分語りになっている。自分のアイデンティティになっている。

だから、ろこさんがセレッソ好きです、銀杏好きですとか言っているのも、銀杏とろこさんには厳密的には関係ないけど、それが(恰も)イコールとして結びついてしまう、仮のアイデンティティとして。

そのような効果があって、宮台真司さんが言っていた島宇宙化、クラスタ化にどんどんなっていく。文化による共同性が、存在論的にクラスタ化していく。細分化していく。

 

ろこ:安定しているのかな(笑)

 

政夫:自分の拠り所にはなる。立ち位置が分かる。これは鈴木謙介さんが、それを確保することで承認の共同体って重要なんじゃないのって。承認の共同体を通して自己肯定感を癒すと言っているんだけど、ぶっちゃけ共同体ってどうなのよ?って。

共同体に組み込まれちゃうと、目的性が冷却されちゃうんじゃねーのが本書ですよね。

 

ろこ:そうだね。その反論が本田由紀さんの。もうちょっと補足という側面もあるのだろうけど、巻末の方が説得力があったなと思ったりしたよ。

 

政夫:共同体にイデオロギーや理念みたいなものが、ネタやお祭り的に消費されて、ただただ人間関係をぬくぬくと温存するだけ。

で、最初に組み込まれていたイデオロギーは冷却、忘却されちゃうのではというのが古市の仮説だったわけですよ。それをピースボートを通して眺めたのが本書の構成になっていて、一部重複するんですけど、なんで若者は旅をするのだろうところの話になるじゃないですか。一応、カニ族というバックパッカーの起源とも言われている彼らは60年代後半に北海道を目指したと。北海道って重要なんですよ。村上春樹の『羊をめぐる冒険』は北海道を目指す小説ですからね。

 

羊をめぐる冒険

羊をめぐる冒険

 

 

ろこ:え、そうなんや。

 

政夫:是非、読んで下さい。この本はハトトカの中村慎太郎さんが一番好きな本です。

 

ろこ:マジで(笑)

 

政夫:マジです。中村さんが書いた『サポーターをめぐる冒険』のタイトル元です。

 

サポーターをめぐる冒険 Jリーグを初観戦した結果、思わぬことになった

サポーターをめぐる冒険 Jリーグを初観戦した結果、思わぬことになった

 

 

ろこ:そうなんや。俺からしたら北海道はね…

 

政夫:これ、60年代後半の話だから。

 

ろこ:そうだね。全然生まれていないや。

 

政夫:生まれているでしょ。

 

ろこ:やめい(笑)

 

政夫:おじいちゃん、もうご飯食べたでしょ、さっき。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:近代的不幸の話を文学と混ぜて喋りましたが、小熊英二さんが戦争や貧困というのが近代的不幸だったのに対して、現代的不幸というのは高度経済成長や大量消費文化の中で若者たちの閉塞感や虚無感がそれだと。つまり、自分とは何者なのか?と。

さっきも言いましたが、これは朝井リョウが描いてきたものです。アイデンティティ・クライシスで。60年代末なら学生運動があって、宇野常寛が揶揄しているワードに「自分探し系左翼」というのがあるんですけど、まさに言論と政治と運動が結びついてた時代だけど、あくまでも左翼にとっては自分探しでしかなかったという意見もあったり。それに絶対否定は入るんですけど。

1980年代にはHISが業務開始し、『地球の歩き方』が出版され、沢木耕太郎の『深夜特急』も刊行され、『電波少年』の猿岩石がバックパッカーになると。有吉ですよ。

この辺りから冒険がコンテンツ化する流れがあって、これは今でも続いています。『イッテQ』がそうですね。あとは、街ブラロケというのも日常の中で小さな冒険を行うという、こんなところにこんなお店があったんだという冒険ですよね。その冒険をシェアしているのがSNSや仲間・友だち。

これは『よりもい』ですよね。南極を背景に、自分や仲間を探す物語は『よりもい』がやっていたじゃないですか。

 

 

要するに冒険がコンテンツ化していたんですよ。でも、若者は旅離れが起きると。最近、旅をしていますか?

 

ろこ:なんや(笑)最近、行けていない。

 

政夫:なんでしていないかというと、貧困によるもの。

 

ろこ:間違っていないよ。

 

政夫:この流れから、三浦展さんの新・団体旅行がありまして、大人数で旅をすれば自分探しの孤独も癒えるんじゃねーのみたいな。語学留学やNGO訪問やボランティアがそうですね。ピースボートもこの流れですよね。

 

ろこ:ボランティアブームもあったな。でも、俺が自分探し=旅は中田英寿を思い出す。

 

政夫:そうですね(笑)速水さんの著作で中田英寿は出てきます。

 

自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)

 

 

ろこ:海外放浪しますって。サッカー選手辞めるんだから、それなりのインパクトはあったよね。

 

政夫:宇多田ヒカルも自分探しで休業しましたね。

 

ろこ:確かに。

 

政夫:人間活動という名目でしたけど。

 

ろこ:捉え方が今とは違うよね。今、中田をみるとアレとか。彼の年頃なら普通なのかもしれんけど。

 

政夫:引退した時って28歳とかでしたよね。

 

ろこ:28、9だったと思う。

 

政夫:30前でしたよね。

 

ろこ:うん。

 

政夫:ヒデが自分探ししちゃう年齢なんだから、ろこさんも自分探ししても良いという結論になるかもしれないな、この放送も(笑)

 

ろこ:やめろ(笑)話を戻せ。

 

政夫:ピースボートの歴史を紐解くと、政治的理念の実現が、目的性が漂白されていった歴史がありまして。最初は戦争を想起させるものだったのが、90年代頃から環境や国際交流組織、NGOとか世界平和とかアバウトなものにすり替わっていく。

98年以降は完全に今のイメージにある地球一周の旅。メッセージとしては地球市民、平和。イデオロギーから政治的に中立化していくという。

これはつまり漂白された目的性という、これはピースボートの理念なんですが、古市の仮説にある共同体に組み込まれてしまえば目的性は漂白、冷却されてしまうのではないかというのは、ここ繋がりなんですよね。

 

ろこ:掴み辛いから、もうちょっと手前の話をね。ピースボートに乗る若者の目的は色々あるけど、将来何かやりたいという目的があって。

 

政夫:観光と自分探し、自己実現も含めてですけど。

 

ろこ:その中で、同じ目的が共同体を作り、最初に持っていた目的が冷却されてしまって、戻った時に目的って何だったっけ状態。

 

政夫:昔のピースボートはガチガチに政治的だったんだけど、過去の戦争という後ろ向きなものよりも、地球や平和みたいな感じで、前向きなんだけど何も言っていないじゃんみたいな。なんか言った風になっているだけで、でもこれからみんなで考えていかないといけないんだからね、みたいなそんな当たり前のことを、アバウトなものを使うことによって場を演出しているのがピースボート。一番引っかかるのは古市が分類したセカイ型の若者たち。この後出てきますが、セカイ型と文化祭型と自分探し型と観光客型と4つに類型されていまして。これも結局、ナショナリズムで埋めるのと大体一緒なんですよ。

 

ろこ:うん。

 

政夫:世界平和とかを通して若者たちの承認のリソースにしている。個人の内面を大きな物語に結びつけて承認を獲得しているというのは、宇野常寛さんがいうような自分探し系左翼もそうですが、個人の内面の流れは変わらないんじゃないかと疑問があるんですけど。

さっき、ろこさんが言っていましたが、乗船動機は観光メインなんですよね。本の中のアンケートによると。退屈な日常を抜け出したいらしいです。あとは交流したいとか。今までの生活から抜け出して、自分を変えたいという自分探し。

 

ろこ:俺の時代は、周りに海外志向が強い奴が多かったな。海外で仕事をしてみたいというグローバルな(笑)この言葉も薄っぺらいけど。要は大きなものに、日本から出たいじゃないけど、夢を持っている奴が多かった。

 

政夫:僕は承認と自己肯定感ってバケツってイメージがあって。バケツに水を注ぐじゃないですか。たっぷり入ったら満足するんですけど、溢れちゃうじゃないですか。となると、もう一回り大きなバケツが必要になるんですよ。それでバケツを積み重ねていくと、結局自己肯定と承認は埋まり切らないんですよ。大きなバケツを用意することは、つまり一個上のステージに行くということなんで、またそのバケツを注がないといけないから、際限がない。

 

ろこ:分かり易い。確かに。

 

政夫:自分探し系の話は『よりもい』もそうでしたが、終わりなき日常の連続性に対してどう向き合うかみたいなところで、このピースボートの本が出たのが震災前というのが一つのポイントで。2011年には宇野常寛の『リトルピープル』と古市の『絶望の国の幸福な若者たち』が出ているんですよ。是非とも後者は読んで欲しい。これはピースボートの発展形です。セットです。

 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

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ろこ:だから、サヴァイヴできんの?みたいな。

 

政夫:サヴァイヴというか、震災後に古市憲寿という学者、書き手がある種若者の処方箋になってしまった。こんなんでもいいんじゃないのって。そういう風に後押ししてくれたというか。

内田樹が言っていた自分探しの旅というのは、要するに自分についての外部評価のリセットが目的なんじゃないの?って言っていて、これは居場所論なんです。自分の今の居場所に不満があるから。これは今でいうなろう系小説、異世界転生に近い。

ここではない何処かへ行けば、自分最強みたいな。異世界に転生すれば最強みたいな精神性にかなり近いんですよ。

 

ろこ:居場所探しか。

 

政夫:自分とは何者なのか?みたいな疑問は現状の環境や外部評価に不満があるからではないかというのが内田さんの指摘であるんですけど、それ含めて小熊英二の現代的不幸という生きづらさがあって、その処方箋がコミュニティなのではないかと。

現代ではアイデンティティや自分の内面というのは政治の外側の領域にあって、政治とは結びつていないんですよ。さっき左翼の話をした時に、言論と政治が繋がっていたと話しましたが、内面性というのは違くて、内面は内面、政治は政治という風に切り離されている。要するに個々人の問題であると、生きづらさは。だから現代病なんじゃないかと。これは本屋に行けば分かりますよ。

 

ろこ:そうやな。

 

政夫:自己啓発本コミュ力上げるための本とか。ダイエット本や超訳ニーチェとか。

 

ろこ:どうやって幸せになるのかというのを探し出した。

 

政夫:なんとなく心の問題なのではないかなと、それに対する処方箋として、メリトクラシー化する社会において、人間力とかが求められているから、じゃあどうやって上げればいいのかなって、自己啓発本がある。だから本屋では自己啓発本が多いんですよ。売れるから。

 

ろこ:危ないよね。

 

政夫:ろこさんは危ないですよ。

 

ろこ:(笑)自覚していますよ。

 

政夫:是非とも良いオンラインサロンに入って下さい。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:さっき4つの類型を出しましたが、セカイ型はピースボートの理念とかに素朴に共鳴している。世界平和を謳うことで、それを通じて承認のリソースにしている。大きな物語に接続していることから、セカイ系ですよね、ゼロ年代のオタクカルチャーの。セカイ系の話をすると、エヴァの話をしないといけないのでゴメンナサイ。

 

セカイ系とは何か (星海社文庫)

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ろこ:(笑)

 

政夫:エヴァだけでも…セカイ系の話は複雑なので。

 

ろこ:ネトフリで配信開始したから、俺は観れる環境でもある。

 

政夫:それが炎上しているのも知っています。

 

ろこ:それは番外編でね。

 

政夫:やりません。文化祭型は場所があればOKという、政治的関心はないけどお祭りは好きと。

 

ろこ:パリピですか。

 

政夫:まあ、何も考えていない人たちですね。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:自分探し型というのはセカイ型ほどコミットしなくても政治的問題に興味あると。で、自分探ししている。

観光型はピースボートの共同性にコミットせず、理念にも共感しない。一番冷めている。一番客観的。

 

ろこ:俺は、これかも。

 

政夫:あー、そうなんですか。セカイ型や文化祭型にとって世界は背景に過ぎず、仲間たちとのコミュニケーションやコミュニティがあれば、場所がどこであろうともお祭りになっちゃう。仲間!絆!地元みたいな流れ。代表的なのは憲法9条の9条ダンス。

 

ろこ:ありましたね。

 

政夫:憲法9条守ろうという護憲活動の理念の一つなんですけど、9条ダンスを通して9条が自分の問題になっていく、自分事になっていくという。これはロマン主義個人主義がブリッジする。9条が自分の問題かのようになる。9条に対する政治的な話ではなく、9条と自分という自分探しのリソースになる。

要するに9条を語るなら政治的な目的の話をしないといけないんだけど、彼らにとっては承認のリソースの手段でしかないんですよ。目的ではない。

 

ろこ:ただ踊りたい。

 

政夫:ナショナリズムを自分の実存と結びつけるのはありがちな感じだし、大きなものと個人の実存が繋がっているのは精神性でいえばセカイ系の話でもあるし、セカイ系というのは自己の変革によってセカイも変わるという話なので、ピースボートでセカイを体験することで自分事のようになっていき、現代的不幸である生きづらさを癒していく最中。

セカイ系でよく挙がるのは新海誠の『ほしのこえ』というアニメ映画がありまして、これは、僕は新海誠ベスト3に入る作品ですね。

 

ほしのこえ [DVD]

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一番好きなのは『言の葉の庭』です。『君の名は。』は入りません。

 

ろこ:『君の名は』は入らないの?

 

政夫:全然大したことない。

 

ろこ:『秒速』は?

 

政夫:『秒速』もいいですね。

大きな問題を自分事のようにしていく。短絡的に結びつけてしまう。

 

ろこ:俺が思い描いていた学生の後のルートってそうだったかも。会社に入って、会社の目的を達成していく。会社に溶け込んでいく、生きていくみたいな。入る前は頑張って薄っぺらいことを面接とか、だから就活なのかな、自己分析とか(笑)

 

政夫:何の話(笑)

 

ろこ:ピースボートは理念があるじゃないですか。そう思って入るけど、理念は無くなって目的性が失われてしまうという構造だったと。

 

政夫:そうですね。

北田暁大さんが、若者たちがナショナリズムにコミットする理由の一つに、それが置き換え不可能というロマン的定義が刻み込まれた置き換え可能な記号だからと言っていましたけど、ロマンが自己の実存と置き換えることができる記号性ということですね。国民国家レベルのナショナリズムもあるし、世界や平和がそうでもあるし。これは90年代にナショナリズムブームの際に愛国ロマンがあった時に通じるというか、もちろん若者だけじゃないんですよ、この話は。

ただ、より若者は社会への基盤が無いから、不確かなアイデンティティを補うために共同性に寄り添ってしまう。自分らしさが不安定だから共同的に祭りに参加することでフォローする。宮台さんが言っていた島宇宙的に共振的なコミュニケーションがそれを指すんですけど、箱庭に閉じこもるということですよ。凄い自己中心的ですよね。セカイ系ってそういうもんだし、とても閉じた箱庭の話だから。

ピースボートの精神性というのはゼロ年代のオタクカルチャーぽい。90年代の憂鬱さからの引きこもり精神というか、モラトリアム、終わらない日常を生きていくための手段でもあり、目的でもある。

ただ、ピースボートに乗って分かったのは不確かなアイデンティティをカバーすることは出来なかったという結論ですよね。この本だと。ピースボートに乗って世界各国を巡っても人生を変えるような劇的な体験は無かったし、彼らにとって世界は背景に過ぎず、異国での交流や仲間との連帯は自分たちの祭りや感動する演出するものでしかなかったと。

 

ろこ:うん。

 

政夫:もちろん初めて9条の話を聞いたり、意識したりして、ナショナリズムや意識の変化はあるにしても、アイデンティティ自体が変わるかというとそうでもない。そのくらいの変化でしかない。ピースボートを降りた彼らがその後どうなったのかというと、古市が追跡したところ、セカイ型と文化祭型はピースボートの外でも共同性を維持し、でも政治性は漂白されているのが特徴。セカイ型はピースボートの理念に共鳴していたんだけど、コミットしていたはずなのに、9条ダンスとかで。

でも、それが冷却されてしまう。じゃあ、彼らは集まって何をしているかというと、ピースボートの思い出話。ピースボートの理念の世界平和という目的性じゃなくて、それを置き換えた上で箱庭の生活をただ振り返る。要するに目的性は存在しなくなっちゃった。

観光型は何事もなく日常に帰り、共同性にコミットしていたわけでもないから価値観や思想信条の大きな変化はないと。何も変わらなかった。モラトリアムですよ。でも、モラトリアムにピリオドを打てたという意味では自分探しの終わりに近い。

自分探し型というのは、ピースボートを終えて自分探しの欲求が高まるのがポイントだと。海外志向やクリエイティブ志向が上昇し、ピースボートで獲得した人脈が、更なるつながりへと。要するにピースボートは現代的不幸を癒す装置として機能せず、しかし自信とつながりを獲得させ、ピースボートの外の架け橋となると。

ここでようやく冷却の話になりますけど、承認の共同体は政治性や目的性を担保しないのではないかと。若者たちの希望や熱気は共同性によって冷却しちゃうんじゃないのって。だから、共同体ってそんなにいいの?が主張の一つでもあるんですけど。

この冷却論は、アヴィーング・ゴフマンが元ネタで、失敗をうまく受容し、平穏に戻れるようにする所作というところから来ているようですが、古市は冷却論を上手く使って、現代的不幸が解消されるのではないかと。生きづらさや自分探しの価値観に縛られているじゃないですか。

でも、ピースボートに乗って大きな話、世界平和など一旦接続して、それを経由してから冷却することで別の物語へシフトさせることができると。良いように言っていますけど、自分探しとかウダウダ言ってんなら、大きな物語に結びつけて、どうせバカだから忘れちゃうから(笑)という。そうすれば別の物語が開けているんじゃないのって。身も蓋もない言い方をすると。

 

ろこ:宮台さんの例もあったよね。

 

政夫:共振的コミュニケーションですね。共同性の話ですね。共同性によって、何かしらの理念が積み上がっていくんだけど、その目的性は冷めちゃうんじゃないのって。でも、冷めることで現代の若者が抱える屈託は癒えるのではないかと。それはダメじゃんという観方もある。

本田由紀が解説と反論で書いているんですけど、古市は、良いんじゃない正直(笑)みたいな意見なんです。つまり、現代的不幸は社会的承認ではなく、共同体の相互承認によって癒すことができるんじゃないのって。その共同性に目的は要らない。どうせ冷却するから。何が残るかというと、友だちの存在、つながり。

そして古市は、最終章にあたる第7章で「だからあなたはあきらめて」と書いてあるんですけど、ピースボートの遺産というのはムラ的な共同体だと。その共同体は目的性が冷却されていて、相互承認の共同体という「やさしい」場所しか残っていない。

でも、古市はこれを否定しているわけではないんですよ。

 

ろこ:そうだね。

 

政夫:古市は「ムラムラする人々」と記述しているんですけど、これは『絶望の国の幸福な若者たち』でより深掘りされているんですけど、これは何かしたいモヤモヤ・ムラムラした気持ちを同じように繰り返す。その反復構造に取り込まれるムラの中で反復的に居る彼ら。

 

ろこ:めっちゃ分かるよ。

 

政夫:日常の閉塞感から、どのように出ようかなといったようにずっとアレコレ彷徨っていると。これは村社会から来ているんですよね。

 

ろこ:俺がフェスに行くのはそういうことだと思う。

 

政夫:どういうことですか。

 

ろこ:基本的にはフェスのつながりは、そこだけにしかないところがあるから、それに会いに行っている。そこで熱狂を感じることで、癒しになっていると思うから。だから、ムラムラしていますよ。

 

政夫:(笑)

コミュニティの話になっちゃうんですけど、農耕の村社会があって、近代化が起きるじゃないですか。近代の曲がり角は本書では70年代と91年頃とし、そこから現代的不幸という戦争や貧困というところからくる近代的不幸ではなく、現代の生きづらさ、承認がない状態を今どうするかという話で、テクノロジーを使用して、コミュニティ、SNSやオンラインサロンやシェアリングという思想だったり。

 

ろこ:デジタルコミュニケーションね。

 

政夫:テクノロジーを一回経由して、コミュニティを作ると、結局クラスタ化しているからそこも小さなムラになるわけですよ。ムラ社会から離れて近代化したのに、現代的不幸を癒すにはもう一回ムラ化しないといけないという、結局中間共同体が無いんですよ。

ムラ社会をみんなバカにしているけど、ムラ社会的に取り込まれている。オンラインでも。じゃあ、どうすればいいのか?という話になりますが、開放性ですよ。共同体における目的性が冷却してしまっても、少しずつ変化していく、ほどよいオープンさ。

 

ろこ:ムズっ。

 

政夫:難しいです。それはコミュニティの温存でもあり、人々のゆるいつながりなんですよ。強いつながりだとムラ社会的だから。ゆるさが大事なんです。

 

ろこ:『ゆるキャン△』ですか。

futbolman.hatenablog.com

 

政夫:かもしんない。確かに。友だちの友だち感覚ありますものね。『よりもい』だとガッツリ「友だち」にコミットしちゃっているけど。『ゆるキャン△』はゆるい連帯感はありますね。やっているキャンプはガチだけど。

 

ろこ:そう思うのは現実が努力したら報われるよという道筋があんまり見えないから、選択肢として取りに行っている感覚よね。

頑張るしかないけど、埋めに行っている感覚はある。ゆるさを埋めているというか。

 

政夫:一応この本では、セカイ型のように目的性にコミットしていても共同性に組み込まれちゃうと冷却しちゃうと。コミットしすぎると冷却しちゃうから。

だから、ゆるさが大事だと。要するに共同性に回収されちゃうんだけど、ロマン主義大きな物語、自分探しというのは、自分の物語や仲間!に吸収されてしまう冷却効果=あきらめがある。それによって社会的承認を手に入れるステージなのに、友だち同士の相互承認にすり替わってしまう。これは目的性が無いから。内輪になってしまう。

だからピースボートから出てきた彼らは、セカイ型や文化祭型はピースボートの思い出話をすると。ただ共同性は温存される。そういうものに対して、コミュニティへの疑問が生まれるじゃないですか。

 

ろこ:絶対生まれる。

 

政夫:友だち的なもので憂いを癒す一方で、社会的承認はあきらめを促されてしまうのではないかと。冷却しちゃうと。結局、地元!仲間!でOKだったらダメじゃんって。でも、社会的にはそういう風に要請されているのではというのが古市の立場で、だって人生はクソゲーでしょって。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:クソゲーなのに自己啓発を勧めてくるから、なんでこんなに社会はあきらめさせてくれないんだろうと。

 

ろこ:めちゃめちゃ分かる。

 

政夫:希望を見させ過ぎなんじゃないのって。だから俺たちは希望難民になってしまう。自分探しというのは、冷却や漂白されてしまう前の彼らの物語なんですよ。冷却されたら自分探しはしないんですよ。もう、地元ウェーイみたいな(笑)

 

ろこ:(笑)

 

政夫:これは凄いバカにして喋っていますけど。

 

ろこ:大阪バカにするなよ、お前。

 

政夫:大阪バカにしていない(笑)

ただ、古市は、承認の共同体と冷却の側面を示しつつ、今の社会構造に問題がないとは言っていない。若者へのセーフティネットだったり、キャリアラダー問題だったり。

人生はクソゲーなのに夢を追い続けることが美徳とされている一方で、あきらめさせることも重要なんじゃないのって。そのシニカルさが、文体が特徴というか、文体から作られている。価値観としては凄くクールなんですよね。友達と楽しければ良くない?友達と休日にBBQとかモンハンとかしていれば楽しくない?みたいにモラトリアムも否定していないんですよ、古市は。

あきらめさせてくれる装置として共同体を評価しているんですよ。でも、現代的不幸への処方箋として共同体が求めらていて、ある種共同体にしか希望が無い状況、それが希望難民への処方箋としてあるんだけど、ではどうやってあきらめさせようかという論の流れがありまして。

 

ろこ:なるほど。今、俺、やっとちょっと分かったというか。自分の中でのあきらめと違ったかも。

 

政夫:古市は全然否定はしていないです。肯定も殆どしていない。

 

ろこ:あきらめはシャットアウトのイメージだった。手放す感じ。執着を決めている感じがする。選択肢として、そこの共同体に居ることを決めているのが強いというか、だからいつまでツイッターでダラダラしている感じ。

 

政夫:あきらめさせて欲しいんですか。

 

ろこ:(笑)いやいや、そういうことなんだよなって。

 

政夫:この本の大事なことは、あきらめない人を否定はしていないことです。若者よ、あきらめてくれ、じゃなくて、あきらめさせてくれない社会って何なのってプロセスを踏んできたわけですけど、かといって人生はクソゲーって何だよそれ俺はあきらめないぞって人を別に否定はしていない。やる人はやるでしょって。冷却されない人もいるでしょ。

そういう人が目的性が冷却されないで運動ができるんじゃないのって。でも、全員に全員にそれを求めるのは無理じゃない?って目線があるから、じゃああきらめない人にやって貰おうと凄い他力本願ですよね。

 

ろこ:めちゃめちゃ分かりますよ。

 

政夫:他力本願でありつつ適材適所なのではないかと。これも居場所の話ですよね。なんとなく若者の政治とかへの興味って、政治とかよく分からないから分かる人だけで頑張ってくださいみたいな流れがあるじゃないですか。

 

ろこ:はい、ありますよ。

 

政夫:それに近いですよ。勝手にやってくれよ、頭いい人たちで。

 

ろこ:話変わるかもしれんけど、香港のデモがあるじゃないですか。凄くないですか。

 

政夫:凄い。

 

ろこ:変わっちゃったじゃないですか。デモで。

 

政夫:声を上げるべきことで声を上げる大事さ。

 

ろこ:アレ、日本には絶対ないというか。

 

政夫:SNSですよね。

 

ろこ:SNSを活用して、マスクを着けて、あれは中国の管理社会への抵抗みたいなもので、活用の仕方が凄いと記事に載っているんだけど。

 

政夫:おおたまラジオも時事問題を斬っていく流れかな、これは。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:アニメとかよくない?みたいな。そんなこと言ってられなくないって話ですよね。『よりもい』とか話してスミマセン。

 

ろこ:いやいや(笑)今の政治とかへの興味って、俺は言ったってしょうがないかなという発想だから切り替えていくしかないと。逆に「死にがい」を求めているみたいな側面もあると思うけど。

 

政夫:やってくれる人はやってくれるでしょという他力です。

 

ろこ:俺は民主主義の勝ちかなと。中国は独裁じゃないですか。

 

政夫:北京政府が。

 

ろこ:デモにあれだけ参加する人がおったということは、要は数の暴力も価値に担保されるんだろうなと。物凄く浅いけど、思っちゃった。

香港に友達がいるんだけど、デモについて遣り取りしたのよ。そしたら、香港をめっちゃ出たいと言っていて。あれが可決したら住み辛いことが確定しちゃうから、もう、あきらめているスタンスで速攻で引っ越しの準備をしていると。グローバルな考え方だと思うんだけど、そういう人もおる。中国側もみんながみんなそう思っていないと思うけど、彼らは、記事で読んだのはめっちゃ『進撃の巨人』だと。

 

進撃の巨人(28) (講談社コミックス)

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中国本土の「壁」を破りに行く危機感で、若者が立ち上がっているよと。そういうシステムで守られていない若者たちにとっては、もっと考えて、SNSの運用とか、ちゃんとしてんだなって。これ、日本じゃ無理だなって。

 

政夫:日本もあったんですけどね、そういう流れは。

 

ろこ:でも、若者の感覚はそういうの無さそうだなって。

 

政夫:安保法案の時ですよ。集団的自衛権の。誰も話題にしなくなった。憲法改正の時に再燃すると思うんですけど、憲法の解釈の話になっていくんで。

 

ろこ:政夫君は政治への参加とか無いやろ。

 

政夫:いや、めちゃめちゃですよ。立候補もするし(笑)

 

ろこ:(笑)

 

政夫:おおたまラジオは、次は雨傘運動以降のデモの流れをやることになるんですかね。ジャスミン革命と雨傘運動を参照しつつ。

 

ろこ:中国と香港の戦いの歴史を紐解くとかね…やめましょやめましょ。

 

政夫:話を戻しますけど、人生はクソゲーだからあきらめた方がいいんじゃないのって処方箋として実は機能しているのが、この本でもあり、コミュニティが処方箋となるといっても冷却しちゃうじゃん、でも目的性が無いけどつながりだけで仲間と祭りしていても結局よくない?それで。運動とか無理じゃん。やれる人だけでやってくれよ。

という若者像のアップデートも図ろうとしている。そういう意味であきらめを促している。

だから、成熟モデルの変化を促しているんですよ。従来の成熟モデルはもう無理だよと。みんな、それに乗っかれないよと。そういう意味で若者像をアップデートしようという企みがあるのがこの本で、それに対して巻末に本田由紀の解説と反論があるんですけど。

まあ、若者が何をあきらめたのかが分からないと本田由紀は書いてありますが、僕が読んだ感じだと、ロマンをあきらめたんじゃないかなと。自己の実存の肯定と承認の共同体を通して生活するだけで良くない?ロマン主義はもう無理じゃんって。大きなものを、大きなままで語れないから。

だから結局、憲法9条みたいなのを政治性の話ではなく、9条ダンスのように自分の身体性に取り込んで、自分の内面の問題にしていく。9条と私が繋がっているんだと。そういう話じゃないんですよ、9条って。

 

ろこ:うん。

 

政夫:ただ、ピースボートの理念は世界平和だったから、9条との親和性は高い。交戦権の否認と戦力の不保持で、平和的理念だと思いますけど、でも結局ロマンは冷却しちゃうじゃんって。自己と結びついちゃうだけだから…という話だと思うんですけど。

 

ろこ:そういう提示している人は貴重かもね。

 

政夫:だから、古市は若い書き手として一気に名が売れた。若者のことをある意味突き放しているし、そんなのダメでしょって言ってくれる大人が必要、本田由紀さんみたいな。それ、ダメじゃない?って。あきらめちゃダメでしょ、が本田由紀さんの見解なので、でも無理なものは無理なんだよとしてアップデートを図ろうとしているのが古市なんですよね。

本田由紀さんによると、ピースボートは日常からの隔絶のレベルが、時間的にも、空間的にも、社会的にも、一つの儀式として機能しているのではないだろうかと。通過儀礼として見える。一応、古市は本の中で通過儀礼のように見えなくもないと書いてあるんですけど、本田由紀としては通過儀礼的であると。

で、なにかを共有することであきらめるということは、区切ることが顕在化しているのではないだろうかと。だからといって、お金が無くても仲間いればOKって本当なの?って疑問が本田由紀さんからありまして。

古市は、いやいやそれでいいんだって。あきらめきれない人だけにやって貰おうと。当事者性の否定をしているわけですが、本田さんは、いやいや当事者性は必要でしょって。

というのがこの本の巻末の流れなんですが、当事者性というのは、さっきのデモやSNSのつながり。デモはその体現ですよ。自分たちの権利が侵害されている。脅かされているということで、当事者性が然るべきタイミングで声を上げた結果ですよね。

 

ろこ:そうやね。

 

政夫:というのが、この本の概略だったわけなんですが、ちょっとこれで整理したと思うんですけど、当事者性とかどう思いますか。

futbolman.hatenablog.com

ろこさん的には。古市の意見と、それは従来の成熟したモデルは無理だからやれる人はやってくれよと。こっちはあきらめても良くないか?と。一方で、本田由紀さんは、あきらめちゃ駄目でしょって。

 

ろこ:俺は多分、朝井リョウ的というか、引っ張られるところがあって。当事者じゃなければ無責任なことを一杯言えると思うんだよね。

 

政夫:非常にインターネットですね。

 

ろこ:そうでしょ。要は自分から、行動できないという部分もあるけど、行動できないとか自分ができないとか認めちゃったら、そのまま無感情に生きていくだけかなという気もして。朝井リョウは、平成は絶対的な物差しがなくて、誰にでもチャンスがある時代だと捉えていて。

 

政夫:希望難民の原因ですよね。

 

ろこ:仮に俺が自分らしさを探していても、別に不幸ではない。何か生きる上での表現というか、大袈裟かもしれないけど、受け取っている感覚はあるんだよね。無いものを探している感覚か。これは当事者の回避かもしれんけど。

 

政夫:距離感の問題はどうなんですか。受け取っている距離というか、限りなく当事者性に近いんですか。

 

ろこ:ラジオで近付いているよ(笑)でも、SMAPの『世界に一つだけの花』でオンリーワンがあるじゃないですか。

 

世界に一つだけの花

世界に一つだけの花

 

 

朝井リョウが言っていたのは、競っている中でオンリーワンを探せというのは、めちゃめちゃ良いと。SMAPがナンバーワンだから言えていることもあると思うけど。

 

政夫:毒を吐きますね。

 

ろこ:いやいや(笑)

全員がナンバーワンになれないんですよ。でも、オンリーワンになれという押し付けも嫌じゃないですか。そこの塩梅を、寧ろ俺はそういう場所に行ったら覚悟がいると思うんだよね。ナンバーワンかオンリーワンかは置いといて。

 

政夫:当事者性の話ですからね。

 

ろこ:それが無いと、やっぱり自分が許せない部分もあると思う。

 

政夫:本の流れ的には古市の意見と本田由紀さんの意見の流れとしては、どちらに傾くんですか。

 

ろこ:本田さんの意見って教育チックな部分がありませんか。

 

政夫:そうですね。教育というかあるべき姿を促している。今の状況よりも一つ押し出そうとしていますよね。

 

ろこ:そこへの雁字搦めは、やっぱり、今の子たちというか俺は逃げ道を用意してくれよと思っちゃう。だから、古市さん的かもしれない。

 

政夫:僕はズルい言い方をしますが、どっちも必要だなと思います。

 

ろこ:ズルっ(笑)

 

政夫:本田由紀的な考え方がなければ、古市憲寿的な考えもないんですよ。従来の価値観が無いと、古市の本書の主張は機能しないんですよ。だから両論あって然るべきというのが、僕が読んだ時のスタンス。

 

ろこ:本田さんはある種絶対的な物差しがある人だったと思うんですよね。古市さんは、そういう時代じゃないところで生まれてきた世代というか。

 

政夫:現代的不幸をまざまざと突き付けられてきた世代。

 

ろこ:そうそう。俺は、古市さんは違うところでロマンを売って欲しい。

 

政夫:だから、この古市の主張がロマンなんですよ。あきらめさせてくれよ、社会というロマンなんですよ。それに乗っかると、あきらめさせてくれないなって、でも人生クソゲーだし、どうしようかなって悩んでいる若者がこの本を読めば、そうかあきらめさせてくれない社会が悪いんだ、となって、社会の問題と自分の実存がイコールで結びつく。それは、声を上げるかどうかは別ですけど、一つの当事者性を獲得するわけですよ。古市さんは、当事者性を確保してもやる人はやってねって。みんなにそれを強要はできないよねっていう立ち位置で。

でも、本田さんは当事者性を確保したなら声を上げなくてはいけなくない?って。

 

ろこ:獲得したら、そうやな。

 

政夫:今の例に出したのは若干ズレていますが、古市さんは共同性に組み込まれたら目的性は冷却されちゃうから、それも無理じゃない?ってところから出発しているから。

 

ろこ:なるほど。さっき、政夫君の言っていた成熟のアップデート。

 

政夫:成熟というか幼稚化をデカくした方がいいじゃないかと。

 

ろこ:そこを規定するものは物凄く複雑だと思う。だから、自分の話をしているわけで。

 

政夫:この本を読むにあたって参考にした本があって、『現代日本の批評』という本があって、そこで2006年頃から若者の労働問題が前景化したと書いてあるんですよ。

 

現代日本の批評 2001-2016

現代日本の批評 2001-2016

 

 

ニートやロスジェネ問題ですね。そこで本田由紀さんも出てきて。

批評というものが実存的で個別的になっていくと語られているんですけど、つまり社会学エビデンス主義になり、現場主義化していくのがゼロ年代以降の流れがあるんですけど、この『希望難民』も外れていないですよ。ニッチなトピックを若者像として捉える試みが、この本なので。だって、ピースボートに実際に入って、アンケートを採って、エビデンスがあって、現場主義があるわけじゃないですか。

ロマンが処方箋になっているのがゼロ年代だと記されており、不況や若者の労働問題がロマン主義的に癒されていくというか、問題を抱えている社会の構造よりも個人の実存における自意識や不安というものが語られていく。

確か『希望難民』の方でも、実存や承認を喋っていないで、社会の構造を話せという意見も書いてあって。

 

ろこ:あったね。

 

政夫:でも、そうじゃなくて、流れとしては実存による自意識や不安というものが語られていく。さっき、赤木智弘さんの「希望は戦争」もモチーフとしては同じであって、つまり個人を語ることがイコール社会を語ることになっていたわけですよね。

それはセカイ系と同じ精神性というのは喋りましたが、若者の承認欲求のような実存の話が、社会のトピックとして労働問題とパラレルに、そして混ざり合っていた結果、複雑になっていくんですよね、レイヤーが。

 

ろこ:うん。

 

政夫:今更古市の話ですが、ゼロ年代が終わって、2010年になって『希望難民』でデビューしたわけですけど、セカイ系という単語が出てきたりとか、それを意識したセカイ型が出てきたように、あるいは実存やロマン主義という実存を語ることが社会を語ることであり、エビデンス主義でもあるというムーヴメントをちゃんと継承されている。この本でも。

ただ、ロマン主義を冷却させる共同体の話なんですけど。その後、震災後には『絶望の国の幸福な若者たち』という本で、将来への不安を苦笑い交じりで癒す効果として書かれたわけですけど、『希望難民』もそうじゃないですか。苦笑い(マジ)みたいな。だから肯定も否定も基本的にはしていないけど、本としては政治的に活動することはあきらめないで。当事者性ある人はあきらめない人はあきらめないでやってくれよ、という話なんだけど、あきらめてもいいんだよというのが「ピースボート」だから。

ここで、つながりの問題の捉え方が変わっていくというか。友だちとぬくぬく遊んでいるだけでも良くない?と。それは否定していない。

 

ろこ:それは若者ではない人ら?

 

政夫:これは2010年の本だから、安保法案や2011年以後の当事者性は全く想定されていないんですよ。だから、当事者性の問題が深刻になっていくわけです。

何度も言っていますけど、共同体ってどう思う?って話ですよね。冷めちゃうけど、別の物語に移行できる。ロマン主義を捨てられる。それはつまり、当事者性の棄却というか放棄になるんですよね。ロマンがあるから動ける。

でも、それが無くなっちゃうから。でも、それでよくない?いや、ダメでしょが本田由紀さんの語り。

どうですか、コミュニティとしては。

 

ろこ:めちゃめちゃ分かりますよ。

 

政夫:おおたまラジオという世界各国に流布している巨大コミュニティですけど。

 

ろこ:流布(笑)

 

政夫:グーグル、アマゾン、おおたまですよ。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:GAO(笑)僕は、ろこさんが僕よりもコミュニティを考えているんじゃないかと踏んで、この本をチョイスした部分もあるんですけど。

 

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ろこ:そう?

 

政夫:いや、現代的な処方箋になっているのがコミュニティなんだから、ろこさんは窺っているわけじゃないですか。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:どう思っているのかなって。

 

ろこ:すべては承認されたい欲から来ていると思うんだよね。

 

政夫:社会的承認が排されちゃうんですよね。ロマンの成就によって達成するんですけど、ロマンが放棄されちゃうから、冷却されちゃうから、社会的承認ではなく相互承認にすり替わってしまう。これはセカイ型や文化祭型が陥った構造なんですよ。ただ、以前僕はコミュニティを運営していたこともあるんで、経験則からいうと目的性がないと厳しいです。

 

ろこ:説得力あるね(笑)

 

政夫:目的性はある程度達成されるし、漂白されちゃうんだけど、その都度ゆるやかに展開しないと、目的性を維持しないと、コミュニティというのは段々古市が示したように身の上話に花を咲かしてワイワイやっているだけになっちゃう。

それは、別に悪いことでもないよね?が古市の主張ですけど。

 

ろこ:どうなんやろね。でも、今はシンドクナイですよ。今の感じの、こうこうこう思いますという感じではなく、保留していますという感じはシンドクナイんです。

 

政夫:自分探しもそういうことですよ。この時間内に決めないといけないものでもないです。自分のことは自分が一番分かっているのだから。自分らしさというのは、なぜそういう言葉が生まれるかというと、他人から通した自分を見ているからなんですよね。自分を見ていないんです。他人を見ているんです。そのギャップに悩んでいるだけなんですよ。

 

ろこ:はいはい。

 

政夫:自分というのは自分であるのだから、他人を鏡として見ずに、自分として自分のままに見ていくと、自分らしさって言葉は本来使われないわけで、そういう風に振る舞えるし、自己完結できるし、自分探しは『希望難民』でも自分探し型が出てきましたが、ピースボート期間を終えてもより自分探しの欲求が高まると。自分探しの日常に帰っていくとオチのように書かれているんですけど古市が否定していないように、僕も否定していない。自分探しはいつまでもやってもいいと思う。別に今すぐ答えろと要求されているものではないから。それをやらないと試験受からないものでもないから。

 

ろこ:でも、政夫君はこのラジオで区切りを着けろよと(笑)

 

政夫:言いましたよ。おおたまラジオ的な文脈では区切りを着けて欲しいということで、ろこさんは自分事として引き摺っていていいよと。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:ラジオ的にはシンドイよねって意味で(笑)ただ、自分探しはいつまで経ってもやってもいいと思っているし、僕もモラトリアムは拡大化していると思っている人間なので、在学中だけがモラトリアムじゃないし、ある種の幼稚化が進んでいる、退行が進んでいるのはそういう形の一つなのかなと思うんですよ。

本田由紀的な成熟モデルとは別に、古市憲寿が提示している成熟モデルに僕は惹かれながらも、本田由紀の意見も強く分かると、分裂しているんですよね。

ただ、それは矛盾はしないなって。両論ともに、片方が抜け落ちていたら論理が成立しない組み方だから、どっちも選べないじゃんって悩む必要性もない話でもある。そういう問題じゃない。じゃあ、さっきなんで選ばさせたのかという話になるけど(笑)

 

ろこ:こういう話はな…

 

政夫:目的性が冷却されないためにはどうするかというと、程よいゆるいつながりが必要になるのではないかと。さっき言ったように中間共同体が求められていると。あるいは石川善樹さんの言っていた5つのコミュニティに所属していると幸せになれるもそういうことを意味しているというか。5つあれば、横断できれば気持ちのいい乗り方ができるのではないかと。

そのヒントになるのが、東浩紀の『弱いつながり』に書いてあるんですけど、人間というのは環境に規定されると。

 

 

だから環境を変えるしかない、人間は。環境を変えるには移動するしかない。つまり観光客化を推奨している。東は。

東自身は、かけがえのない個人などは存在せず、思考すること、欲望することは環境に依存し、誘発されていると。アマゾンで買いたいものやYoutubeで観たいものは自分好みに組み込まれている。これは自分が観たいものなんだけど、プラットフォーム的に操作されていると同じなんですけど、インターネットというのは偶然性よりも強い絆を強くさせる機能があって、それはさっき言ったようにオンラインのコミュニティもどんどんムラ化していく。

でも、偶然性の強い弱いつながりの方が可能性は増えるんじゃないのって。環境的に依存し、規定されてしまう人間だからこそ、村人タイプではなく、村人タイプというのは一つの場所に留まって今の人間関係を大事にし、コミュニティを深めるのではなく、また旅人タイプでもなく、旅人タイプはどんどん環境を変えちゃう、じゃなくて、東浩紀が言っているのは観光客タイプであると。

村人であることを忘れずに、旅に過剰な期待をせずに、クールに旅を利用することで横断していく。ゆるさですよね。この東浩紀が言っているのは、平野啓一郎の「分人化」への批判なんですよ。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

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ろこ:そうか。

 

政夫:分人化はムラへの処方箋になると言われていますが、それは結局キャラでしかなくて、面倒臭いじゃんって。ムラ毎に顔を変えないといけないから。

でも、観光客タイプならば程よい距離感だから、顔を変える必要が無い。そのままスッと行って、スッと離れられる。観光客だから。村人ほど強くなく、旅人より弱くない距離感ですよね。だから、観光客というのはお客さんのような立場で、距離感で、渡り歩くことでのバランスが大事だよね、が東浩紀の主張でもあるんですけど、観光客タイプを活かせば目的性は冷却されないんじゃないかって。なおかつ5つのコミュニティを横断すれば、もしかしたら目的性は漂白されずに、コミュニティが現代の処方箋ならばそれなりに充実するのではないかと。承認としても。

 

ろこ:完璧じゃないですか。

 

政夫:完璧なんですか(笑)

 

ろこ:アンサーですか?

 

政夫:ここで問題があるんですよ。弱いつながりへの不安です。ここでようやく出てきましたよ。『さらざんまい』というアニメがありましてね。

 

 

これ、「欲望を手放すな」がキーワードなんですけど、要するにつながりに溢れた今の話なんですよ。どういうアニメかは見ないと説明できない(笑)

ただ、つながりの物語です。「欲望を手放すな」があるように、欲望が無いと繋がれないよねって謳っているんですよ。過剰に繋がっている今、つながれない人やつながり過ぎている人というのがいて、時にはつながれないこともあるじゃないですか。

 

ろこ:ありますよ。

 

政夫:例えばラインの既読にならなくて恐いとか。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:小さなレベルでいえば。

ただ、つながろうとすればつながれるんですよ。電話を掛ければいいじゃんって。

つながっていないことを恐れるんじゃないよ、というのが『さらざんまい』の最終的な物語なんですよ。これはネタバレにはなっていないですよ。こんなんでは伝わらないんで。

ただ、つながりすぎている世の中だからこそ、つながれないことを恐れるなと。つながりは欲望なんだぞと。だから「欲望は手放すな」が最初からずっと言われているんですけど、つまり何が言いたいかというと、コミュニティにコミットし過ぎると冷却されちゃうんだったら、弱いつながりでいいじゃんと。でも、観光客タイプだとつながっていない時もあるから、恐くない?って。でも、つながっていない時もあるだろうけど、そういう時を恐れちゃダメだよ、が『さらざんまい』なんですよ。だから『さらざんまい』を観れば、みんな幸せになるんじゃないかな(笑)結論はね。

 

ろこ:なるほど(笑)

 

政夫:もう、レジュメ10枚分終わったんで…

 

ろこ:今の話を聞いて、それなりの自分の中でアップデートは行っています。

 

政夫:どういう感じですか。

 

ろこ:逃がさんな(笑)えっと…

 

政夫:アップデート中ですか。

 

ろこ:救済してくださいよ。

 

政夫:いや、つながっているようで、つながっていない時もあるから。『さらざんまい』!

 

ろこ:(笑)救済という話じゃないかもしれないけど、自分のラジオで話そうという問題があるじゃんか。設定というか。それは、いざラジオをやるとリーチ出来ていないと。

結局、俺が話そうとしているのは、時代的な話と普遍的な話と、レイヤーが合わさっていると政夫君は言っていたけど、結局抽象的な話ができないから俺は。

 

政夫:だから実存的な話になってしまう。

 

ろこ:そうそう。

 

政夫:ゼロ年代のモードがそれっぽいというか。個人の実存を語ることが社会を語ることだった。でも、実存ではなく社会を語らないといけなかったのが、ゼロ年代の反省でもあるんですけど、なんで社会が語れなくなったかというと、1975年頃の、本書で書いてありますが、ポストモダン大きな物語の終焉ということで、要するに社会がという枠組み、あるいはロマンが見えなくなってしまった。流動的になり、その流動化に伴い、個人の実存、存在論的不安によって脅かされてしまう。それが生きづらさになっているというのは、冒頭に話した通りに喋っていますが、そっちに、実存にいきがちなんですよ。ただ、僕らは震災とか経済成長的にそうも言ってられない、当事者性として、現代を生きる一人の人間として。個人の実存を語ることは、社会のモードを語ることとイコールであったから、それは間違っていないんだけど、それは個人の実存でしかないんです。

社会というのはもっと複合的なものだから。個別のトピックがニッチ化していて、その集合体が一つの社会として見えなくもないけど、社会ってのはもっと色んなものがあるんじゃないのって。

 

ろこ:そこを認識できていないですよ。

 

政夫:メタ認知の話だと思うんですけど。そういう本は自己啓発本に紛れているんですよ。本当に(笑)そういうのを含めると、メタ認知化も、社会のフレームワークを認識するには必要な手段であるんだけど、実存に帰ってきちゃう問題というか、そういう消費されちゃうんだなって。

だから、ろこさんが実存を語るのは、半径5Mの世界で生きていますと言っていたじゃないですか。それは象徴していると思う。一方で、半径5Mだからこそ探れるものもあると思うんですよね。否定も肯定もしているわけでもないんですけど。そういうので、おおたまラジオがバズってくれればいいなという気持ち。ろこさんの半径5M以内のトピックに引っかかって。

 

ろこ:俺は、ラジオがあるから。目標を掲げていないと不安になるというのはある。

 

政夫:目的性がないと不安になる(笑)

 

ろこ:これは承認の話じゃないですか。そこは現実と非現実というかね。

 

政夫:社会実験的には、今回の配信を踏まえた上で、おおたまラジオに人を呼び、ろこさんの目的性が冷却するのかしないのかという実験をした方がいいのかな。

 

ろこ:(笑)そうやな。

 

政夫:(笑)

 

ろこ:それが生きがいなのかもしれん。

 

政夫:生きがい?

 

ろこ:分からないんだけど、何かを持っていないと、そういう自分でいないと、手段になっているのかなって。いや、ゆるく生きていたいんですよ。

 

政夫:ゆるく観光客を意識して。どんどんコミュニティに入っていく。ゆるく。つながっていくのは欲望だから。「欲望を手放すな」よって。『さらざんまい』!

 

ろこ:ちょっと、ついていけないんですよ。観ていないから(笑)観ますけど。

 

政夫:観なくていいですよ。

 

ろこ:なんだろうね。自分を受け容れているんですよ。

 

政夫:うん。

 

ろこ:だから、令和は頑張るよ。

 

政夫:よし。本の感想を教えて下さいよ。

 

ろこ:結構、話したと思うけど(笑)本田さん的な意見かもしれんけど、成熟って言ったらアレかもしれんけど、自分が努力できる範囲も見えてくるじゃないですか。

でも、少しでもより良い自分というか。現状とかと照らし合わせて頑張って生きていくことも大事だと思う。だから冷却…

 

政夫:冷却も当事者性もそうだけど、ゆるく生きたいよねって話ですか。バランスですよね。

 

ろこ:バランスか。

 

政夫:バランスってマジックワードを言っちゃうと、なんか語っていたのに、これからも考えていこうぜみたいになっちゃう。それでいいのかという気もしますけど、ゆるさというのは大事だなって。冷却せず、ある程度目的性が担保されながらも。

 

ろこ:一回なにかをあきらめているのは、ゆるさが倍増されるかもしれない。

 

政夫:ピースボートの理念が漂白された後、ピースボート内の内輪話に花を咲かせるというので、お祭りがゆるく移動している。どっちにしろ、彼らにとっては、政治的理念だろうが内輪話であろうが、ネタに過ぎないんだろうけど、ネタにできるのも一つの当事者性なんですよね。

 

ろこ:その流れも自然なんじゃないかなってのが感想。

 

政夫:でも、政治的なものならば、社会的承認という社会的達成があるんだけど、身内同士の相互承認にすり替わっちゃっている話で、なんのロマンも達成されず、承認が満たされるだけ。でも、それがコミュニティの機能の一つなんじゃないのって。皮肉な目線ですよね。

 

ろこ:そうですか。

 

政夫:そこに興味があるから入ったのに、あきらめちゃうから、寂しくない?って。

 

ろこ:刹那的な感じもするけど。

 

政夫:だからロマンは温存するには大きなものではないといけなくて、大きすぎるとただのロマンと個人がブリッジするだけだから。現実感が無いんですよ。世界平和とか。ピースボートでいうと。だから承認のリソースにしかならない。9条の話をしても、政治性とか分からなくて、9条を通して実存を穴埋めする。自分事の問題にする。それは9条の政治性とは別なんですよ。9条に託けた自分語りなんですよ。とてもセカイ系ぽい。短絡的に結びつくというインスタントさによる認識は、とても、自意識の肥大化ですよね。それゆえの箱庭なんですよ。

 

ろこ:語れないというところがな。

 

政夫:社会というものを語れないんですよ。そこが、多分希薄なんですよね。実存を語る方が現実的なんですよ。そこの敗北なんでしょうね。

 

ろこ:死ぬしかない。

 

政夫:(笑)

 

ろこ:死にがいを求めて、死ぬしかない。

  ※この記事は6月に配信した音源を一部文字起こししたものです

おおたまラジオ第11回 古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』 現代的な生きづらさに起因する若者像と成熟モデルのアップデートを図る

聴いて下さった方々、ありがとうございました。

『さらざんまい』を観て下さい。それだけを望みます。

欲望を手放すな。

 

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