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可哀相じゃない!

朝井リョウ『世にも奇妙な君物語』感想 だから「わたし」と「君」に着地する

この世は舞台、人はみな役者

シェイクスピア『お気に召すまま』

世にも奇妙な君物語 (講談社文庫)

世にも奇妙な君物語 (講談社文庫)

 

本稿は「脇役バトルロワイアル」のみを取り扱います。

主役と脇役が存在します。

自分の人生であれば、自分自身を主役と捉える。

それは言い換えるならば「わたし」と「他者」にもなり、「ぼく」と「きみ」ともなるでしょう。物語とは、その変奏として形になるのだから。その関係性が紡がれていく情報が、物語という形式たる所以でしょうか。

主観と客観は、物語の情報のフレームとして表れ、それぞれの記述方法として立ち上がります。

「わたし」や「彼ら」の目というレンズを通してしか物語や現実にタッチすることはできない。これは、カメラを通じて、つまり虚構を経ることでしか現実なるものとは接触できないことを意味するからです。今や現実を虚構のようにコーティングすることは日常的になり、画面の中に存在する現実への手触りは幻想を生み出しました。そこに身体性はありません。それでも、私たちは物語に没入していきます。物語に触れるという主体性について、身体的感覚としては「本を読む」といった目で文字を追い、手で項を捲る以外の動作はありません。それにも関わらず、虚構は容易に私たちの主体性を取り込み、主観的にあるいは客観的に形式的に情報のフレームを立ち上がらせます。

本作では「脇役」という虚構の設定を用いて、「脇役」というキャラ化の現実を描いています。

本作にとって重要な要素となる視点による語りの主観性と客観性があります。その要素について、朝井リョウは既に『スペードの3』で記しています。

 

スペードの3 (講談社文庫)

スペードの3 (講談社文庫)

 

 

同作では、複数の視点を複合的に用いた視点移動によって語り手のヒエラルキーを形成してみせました。ある人にとっての存在の「表と裏」を描くことで、単一的ではない「その人は誰にとっての存在であるか」という存在性を炙り出すことに成功しています。ある人物にとっては主役のような存在に映り、その人の立場では誰かの影によって霞むことで脇役に追いやられてしまうという存在性が持つ二重性は、一元論的に語れない複雑なキャラ化を意味していることでしょう。

人は自分が見たいように世界を見て、その有様を記述します。

また、自分の認識できる範囲内でしか語ることはできません。『スペードの3』が描いている存在性の二重性は、その複雑さを常に片側では担保しつつ、語り手の位置付けによっては語られることができない認識不可能性を証明しています。

自分が取捨選択した情報の断片をどのように解釈するかは、もちろん自由です。

例えば、ツイッターのTLの構築はまさにそうでしょう。玉石混淆なインターネット空間をどれだけ自分にとって都合よく快適に使用するか。その自主性によって選択可能なのが「フォローする」ということです。しかし、情報の近似性を期待してフォローしてみても、他人が思い通りに行動するかは別の問題です。同時に期待して構築されたTLはあくまでも個別的で、一面的に過ぎないことは確かでしょうし、それはツイッターが構成する気分の一部の代弁でしかありません。一面的ではなく、多面的に情報の裏側が存在し、自分が見ているのは断片でしかないことは意識すべきことでしょう。

これは、主観と客観の差異にも通じます。

 

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)
 

 

起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際は実に単純な、よくある話にすぎないだのだろう。

でも、私たち一人ひとりの立場からその全貌が見えることはない。物語の登場人物は、自分の役割の外側を知ることはできないのだ。

それぞれの人物が抱えている情報の断片が物語のフレームになり、強度になっていきます。その情報の断片の外側に触れることはできません。知らない用語を認知した途端に検索することはできても、知らないことを知らないまま検索することはできないように。私たちが抱えている「分からなさ」は外側に伸びていくことも瞬間的に可能ですが、常時的に内側に取り込まれてしまう機能を持っています。分からないことは分からないからです。

例えばセカイ系という言葉があります。詳細は記しませんが、「きみ」を見るしかない「ぼく」の物語とも捉えることができます*1

もちろん、システム=世界設定の底が抜けたという設定に放り出された「ぼく」が「きみ」を見ることで一定の客観性が温存されながら、なにもできない無力感による「ぼく」の自意識とセカイにおける「きみ」の存在感が肥大化していく物語構造だと記すことは可能でしょう。

このセカイ系における「ぼく」の「きみ」を見ていることしかできない不全感による目線は、物語を消費する読者の温度を重なることがあります。その物語体験は固有のものとし、「ぼくときみ」の物語が、読者という「わたし」の物語にもなっていく。

本作のタイトルにある『世にも奇妙な君物語』の「君」とは誰のことでしょうか。これは朝井リョウによる、君=あなたという読者を示していることは言うまでもありません。掲載されている短編を読めば分かるように、作中のキャラ同様に読者含めた「君の物語」という構成になっています。つまり最終的には「読者の物語」として決着しなければなりません。でなければ『君物語』というタイトルにはならないからです。

『シンデレラ』という作品があります。同作ではシンデレラになれる人がいる一方で、シンデレラになれない人々も描かれています。ガラスの靴が履けない人やシンデレラを苛めている人。主役がいて、脇役がいる。

他者からみえる「わたし」がいて、「わたし」からみえる他者が存在します。誰もがシンデレラのようにガラスの靴が履けると思いたいものです。

しかし、世の中にはシンデレラになれない人も当然います。だからこそ、シンデレラコンプレックスという言葉が生まれるのでしょう。果たして、シンデレラになれない脇役の嘆きは癒されることはあるのでしょうか。

「脇役バトルロワイアル」は脇役たちの悲哀を描いた鎮魂歌となっています。脇役という「わたし」のフィルターを通して、現実に接近していく物語なのだから。

そして、このレンズは読者の「わたし」=「君の物語」に重なるのか追っていきましょう。

「主役を選ぶための最終候補が年齢も性別もこんなにバラバラだなんて、そうそうないよね」

主役とは物語の中心人物です。

キャラ、ストーリー、世界観と分けることができますが、キャラの中心は主人公になります。作品を支える重要な柱の一つがキャラであり、物語の根幹を担うのが主役でしょう。

しかし、オーディションに集められた彼らは、脇を支えるキャリアを形成してきた人ばかり。主役を選ぶことは物語を支えるコンセプトであるために、バラバラな人材は避けられるのがベターですが、この舞台の設定は脚本家の意向により、作品主体ではなく人間主体の舞台となることが示唆されます。台本は物語ありきではなく、人間ありきで決定されるような舞台。つまり、誰にでもハマれる可能性があります。

ただし、脇役ばかりを集めることは一方では個性的とも受け取れますが、個性が集団化してしまうことで中和してしまうことがあります。存在感が馴染んでしまう。それは主役が放つ輝きとは別に、その場のバランスを提供してしまうものでしょう。存在感の磁場によって中心が形作られていくように、脇役が場を埋めてしまうことは磁場の引力を和らいでしまうことになります。*2それが如実に表れているのが本作のモチーフになるでしょうか。

主役を望む一方で、脇役として根付いてしまったキャリア。誰が主役をやるかという競争を描きつつ、「脇役の脇役による脇役のため」の作品になっているのが皮肉になっています。「脇役」というキャラに回収されてしまうためです。

このオーディションの舞台設定は人間主体とし、結果的に「脇役」のキャラによって舞台のコンセプト=物語が決定されていきますが、主役を望む彼らとは別として、「脇役」に回収されてしまう物語構造の皮肉があります。

本作は「脇役」に徹している俳優評とも受け取れます。同時に「ドラマあるある」ともなっており、それが脇役の悲哀にもなっていきます。

落ち込んでいる主人公を励ます学生時代の友人。堅い組織モノの中でコミカルに描かれる人物。感情の起伏が激しい主人公の相談役。組織における中間管理職などのように「脇役」という配置による軋みが、恰も朝井リョウの俳優評に乗っかって「言わされている」のがユニークに映ります。このように脇役には「言わされる」セリフがあります。その客観的な説明に基づいてドラマが動くからです。脇役が情報の整理や補足を「言わされる」ことで、主役と状況を固めます。脇役によって徹底的に客観性が担保されることで、物語は主人公の主観的に展開されていく。

脇役の自意識と「あるある」を整理するかのように語り手を担っている淳平は、かつて先輩俳優からこのように言われました。

「俳優は、特に主役をやるようなやつは、簡単にバラエティに出てべらべら喋るべきではない」

「主役にはミステリアスが大切なんだ。つまり、この人、本当はどんな人間なんだろう、と思わせることだな。お前みたいに空気を読んで、周りの人とバランスを取って、なんてこと、役者は本当はしなくていい」

「だから科目で不器用で、という人間が主役として愛される。客観じゃなく、主観で生きているやつが主役なんだ。宣伝コメントだって上手に言えなくていい、ニコニコせずただ自分が思ったことを言えばいいんだ。お前は器用すぎる。客観性がありすぎる。」

本作で記されている脇役論とは相反するかのような主役論が並んでいます。逆説的に脇役は器用であるがために、そのようなキャラを求められてしまう。主観的な振る舞いが許される主役を引き立てるために、客観性のある脇役が配置される。

それは作劇における調和そのものでしょう。予めキャラ化に伴っている客観性が物語に組み込まれていく。本作も倣っているのが痛烈な脇役論になっています。

「だから、作品の中では俺たち脇役が補足や説明をする。それは当然のことだ。だけど」

渡辺はここで、唾を飲み込んだ。

「その関係性を、作品の外にも持ち込まれることがある」

物語におけるキャラが実存化していくことを意味しています。

虚構の背景が現実のように立ち上がってしまう雰囲気に対して、外部的/内部的評価としてキャラ化してしまう。ここで述べられている脇役=キャラ化のアイロニーは、作品の外に持ち運ばれた外部評価でありますが、その脇役の矜持すらもキャラ化の一つの恩恵=内部評価に回収されていることは見逃せません。

空気を読みすぎてしまう。調整の立ち回りを演じてしまう。

一方で主役のように空気を打破することは、染み着いてしまった脇役という客観性による既存のキャラ化の脱皮を促します。この物語の設定自体が、脇役が脇役たる所以をメタ認知していくことと解釈できるでしょう。

しかし、上述のように脇役というキャラ化の恩恵が矜持になり、あるいは免罪符にもなっています。それらの客観性という自意識の檻によって、主役のように振る舞えないジレンマが描かれています。キャラとして求められてこなかったために。

脇役の仕事は、状況をさらに補足することです。

本作は三人称視点で描きながら、淳平の内面を炙り出す様に展開されていきます。淳平のみにモノローグがあります。それは、淳平が物語における語り手の宿命を引き受けていることを示しています。

では主役なのか、と言われると単純でもありません。

物語上、語り手という主役的な扱いを要請されている一方、これまでに展開されてきた脇役論に余すことなく語り手としての性と役割が充てられています。記述自体は三人称的でありながら、淳平の目線が入り込んできます。淳平の目を借りて、読者は物語に没入していくことになります。それによって恰も淳平が主役=主観のような錯覚に陥りますが、本作のラストで分かるように結果的に説明役=脇役を担わされてしまいます。

例えば、主観的に「信頼できない語り手」は主役に相当するでしょう。

しかし、客観的に信頼できない状況への語り手は脇役となります。淳平の役割が該当します。ミステリとして読める朝井リョウの著作をそのように評価する人は一定数いますが、ミステリにおける語り手はワトソン役と称されることもしばしばです。これは淳平などの脇役が配置されるパターンでしょう。もちろん探偵役による語りも存在します。その場合、一人称であれ三人称であれ、探偵の思考の足跡を辿ることが醍醐味になります。なぜならミステリにおける輝きの一つには、謎を解体していくカタストロフィがあるからです。それが為される語りをする担い手は必然的に主役と称されるでしょう。

本作では謎=舞台設定へのコンセンサスは脇役によって図られます。誰もが主役を目指し、競争意識の中でルールと自意識を確認していく。

一体どうすれば主役になり得るのか。

適材適所という言葉が登場します。主役をやる人間がいるように、脇役をやる人間もいる。シンデレラになれる人がいるように、ガラスの靴が履けない人もいると同じ理屈です。これはナンバーワンではなくても仕方ない。オンリーワンでもいい、といったオンリーワン幻想による慰撫を促す側面もあるでしょう。

自分の人生ですら主役になれない人はいます。『スペードの3』で描かれたように誰かにとっての理想であると同時に、誰にかにとっての脇役でしかない現実もあるでしょう。脇役の肯定はある種のあきらめに通じると考えます。理想の挫折として着地する現実について、どのように折り合いを付けていくのか、は人それぞれでありますが。本作のように主役という共通の理想が目の前にぶら下がっている一方で、自分たちの立ち位置は現実として脇役に根付いている。キャラに回収されてしまう。

物語の外にいる人間はもちろん、物語の中の登場人物でさえ、空気を読まなければならない。実生活では客観性を持つことが大切だとされながらも、役者としてはそれではつまらないと言われてしまう。空気を読まない一言で映画の舞台挨拶をめちゃくちゃにしたあの女優だって、今ではもう、飾らないところがかっこいい、芯があってブレない人、だなんて言われている。淳平はあのとき、その隣で必死に空気をよくしようと努めていた別の女優の姿を見ていた。だが、結局評価されるのは、あの場を何とか成立させた脇役女優ではなく、客観性もない、空気も読まない、だけど圧倒的にその場の『主役』になれる人なのだ――。

しかし語り手の存在なくして主役は存在しないこともあります。

引用した女優であれ、それを観る・語り手がいなければ、その客観性のない痕跡は残りません。この物語がそうであるように、雄弁な語り手という存在性といったレンズやフレームをなくして対象を認識することは出来ません。繰り広げられている脇役論も、脇役がいなければ成立しません。

また並行的に語られる「理想」の主役論も、脇役が語ることで成立しています。ここに主役が存在すれば、「現実」としての主役論が語られると思うからです。

淳平は、世界は一人語りでは成り立たないと悟ります。

しかし物語世界は「わたし」と「きみ」の情報のフレームを自由に絞ることができます。ときには主役によって成立することもあるでしょう。単一的に徹底的に「わたし」の内面を描くとしても、他者=「きみ」との比較による軋みによって物語は変奏していくように、「わたし」という主役を配置しても、メタレベルでは読者という「わたし」でもあり「他者」との接触が生じます。その記された事と受け取った後の解釈の豊饒さこそが、物語を支えていくことに他なりません。

淳平が気付いた「世界への語り」は、確かに誰かによって見られているから成立します。結果的に誰にも見られていなくとも、誰かの目を気にして語られていればという前提も含まれます。それでは、主役は世界を語る術を持たず、脇役によって支えられていることを意味するのでしょうか。確かに脇役の説明によって物語を動かすことはできます。

しかし、物語を終わらせることはできません。現実とは違い、虚構はパッケージ化されたフレームを用いるからです。本作では脇役と淳平というフレームを借りて、読者は物語を受容します。物語として完全にパッケージ化された情報を受け取るにはピリオドが打たれる必要があります。*3

本作では「遅れてやってきた」芦谷愛菜という主役によって、物語が「終わることが出来るよう」にできています。

淳平ではなぜ終わらせることができないのか。彼が脇役だからです。

しかし、だからといって芦谷愛菜が「主人公」であるかというとそうではありません。いうまでもなくこの物語の主人公は脇役である彼らなのです。「主役の不在」を脇役に充てることによって、彼らの自意識が多面的に描かれ、「主人公的」に映ります。

物語を動かすために「言わされる」セリフをつい「言ってしまう」客観性の欠点的構造は「主役」が不在でなければ成立しません。脇役が集ったからこそ生まれた磁場なのだから。彼らが客観的に、空気を読んで語る事象に拠りかかることで存在感を保っている側面はあります。

キャラ化の功罪でしょう。

同時に主役も、彼ら脇役がいなければ「語られる」ことができないといった共犯関係的構図に引き込まれていきます。本作のラストは、それを具体化してみせました。

 

なんだよ。なんなんだよ、結局こうなるのかよ――淳平はそう毒づきながらも、心の中ではほっとしている自分がいることにも気が付いていた。

すう、と、息を吸い込む。

「『……やっと目が覚めたようだな』」

淳平の足元で、バタン、と音がした。

 

虚構の「わたし」というレンズを通して、読者は現実の誰かにとって脇役である「わたし」を確認していくような心地があります。

しかしながら「彼ら」と読者の「わたし」は厳密には一致することはありません。『スペードの3』のように存在性の二重化、複雑さを主観的な語りでもって「表と裏」側を常に認識させることに一定の効果はあります。読者は自ら物語のキャラに感情移入して物語を受け取る権利があります。解釈は様々あって然るべきですが、物語を追体験してもキャラと厳密に一体化できません。この物語は「わたし」のものであると解釈することは可能ですし、キャラを指して「これはわたしそのもの」であると受け取ることも自由です。

ただし、キャラと厳密な同化はできません。物語はあくまでもキャラ固有の物語として記されているからです。物語を経て、恰も自分自身が体験したようにシュミレートすることは可能ですが、物語に直接働きかけることができない読者ではなく、作品世界にコミットができるキャラありきで物語が構築されている事実がありますし、それを観る読者の存在によって「語られた存在性」が共生できる関係になります。

読者は「読書をする」という主体性を持つことで、主観的に物語に接することができます。「わたし」や「彼ら」を踏まえた客観的な記述方法であろうとも、どの細部や差異を解釈するかどうかは作者の手を離れて、主体的な読者の権利と解釈できるでしょう。

しかし基本的には「他人の物語」を眺めることに対して、読者は傍観者でしかありません。物語に対して、作者のように直接的なアプローチが出来ないですし、キャラのように直接働きかけることも出来ません。

ですが、これまで「わたし」を通して語られる固有性も、メタレベルにおいて物語を受容して消費する読者の観察者的実存や倫理はあらゆる技法で問われてきました。

『君物語』は「あなたのための物語」であると解釈できます。再三述べているようにキャラと読者は厳密にはイコールにはなれません。目線は共通であるにしても、物語を体験するキャラを読むことで追体験するに留まるのが読者です。

本作のように脇役がピックアップされて「主人公」になることで、物語という形式上置いていかれていたキャラが繰り上がるにしても、読者の実存は動きません。

それらに対して実験的な作品があります。

 

qtμt キューティーミューティー 1 (LINEコミックス)

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さやわか・ふみふみこ『キューティーミューティー』は、魔法少女モノといった(物語構造的に戦えなくなってしまった歴史において)男性の不在の中、代わりに戦って悲劇に遭うことで、彼女たちが持つ少女性が搾取されていく物語形態のある種の神話化に成功した『まどマギ』以降の路線を継承した作品だといえるでしょう。

ただ『まどマギ』のそれ以上に大胆に少女性を侵すことによって、キャラの「性と死」を消費していくことに物語の快楽が宿るかのように、物語としての包括的なアイロニーを受容する読者という本来ならばメタレベルの視点に対して、明確に作中のキャラの実存レベルに落とし込むことで容赦なく「物語を読む」という消費する行為を突き付けました。

私は、大きな括りで魔法少女モノ(男性不在)を正確に更新した作品だと思っています。

『キューティーミューティー』では、作中キャラの「性と死」の消費感覚を読者と同じメタレベルに引き上げる運動性があるのと同時に、読者の実存を一部のキャラに落とし込む運動性があります。この二つの運動性によって、肥大していく物語消費の欲望の可視化を一致させる試みがあったといえるでしょう。

このようなキャラの実存をメタレベルに引き上げる運動性と読者の欲望を可視化するように落とし込む運動性の一致は、「脇役バトルロワイアル」にはありません。

しかし、ラストの視点のショッキングさは一定の効果を生んでいます。ラストで分かるように物語には綺麗にピリオドが打たれています。「これ以上語れない」といった幕引きは、まさに語り手の不在を意味する側面もあります。つまり、「それ以上読むことができない」読者の実存が、物語構造として一致していく運動性があります。

最後は、淳平が落下して終わります。

物語を記述する人間、語り手の不在によって観察する術がないからです。

しかし、きっと物語世界では、オーディション会場で誰もいなくなった部屋で目覚めた芦谷愛菜がいることでしょう。その様子をオーディション記録用のカメラが捉えているに違いありません。この作品においては、カメラの役割を担っていたのは淳平です。そのレンズを使って読者は物語を読んできました。読者には淳平が居なくなったことで、主役である芦谷愛菜を観るカメラがありません。

つまり、主役を観る手段を読者は持っていないのです。

だけどきっと、カメラ前に主役はいることでしょう。その様子を捉えることができないのは淳平という語り手の不在によって齎されたものです。脇役でありながら主人公である淳平の不在によって、それ以上を観ることができず、読者というメタな存在は物語世界を覗けないことが問われています。これは脇役という語り手のキャラに読者が取り込まれ、脇役同様に、主役のように「振る舞うことができない」ことも示しています。

なぜなら物語に働きかけることができるならば、主役を認識できるでしょう。

主役は物語の中心であり、主体です。この物語では淳平たちが主人公としていますが、彼らは脇役という現実に落ち着きました。「主役になれない脇役たち」という主人公でです。それが主役の不在を描くことで、逆説的に主役を取り巻く環境にコミットしているのが本作でしょう。その環境に読者は取り込まれます。

淳平の落下と同時に物語を観ることができないのは、淳平という脇役の実存に読者が組み込まれていってしまうからです。そのために読者ですらも「物語を語れない/観ることができない脇役」として幕を閉じるのです。

だからこそ、これは「わたし」の、「君」の物語になってしまいます。

つまり朝井リョウから贈られた『君物語』なのです。

この終わり方では「脇役は脇役に過ぎない」といった適材適所を推し進めるように映るでしょう。空気を読んで、客観性が担保されて、そんなキャラ化に矜持や免罪符を獲得している自意識すらも仕方ないと。あきらめを促されているように。それは一面的には否めないでしょう。

朝井リョウが描いたのは熱っぽく「君」を励ますのでもなく、適当な温度で自分自身を受け容れていくことだと考えます。

淳平も主役を望みながら、最後はほっとした一面を覗かせていました。自己のキャラを肯定することは、現状の足場を確認することにも繋がります。過剰な自意識すらも取り込む確かさは磁場になります。

この物語は、脇役という磁場によって描かれています。キャラ化が横行してしまった脇役が発するルサンチマンが、主役の不在だからこそ逆説的に主人公として映えている。ここで、主役の座を獲得することは、脇役にとっては外部評価のリセットでもあり、自己評価への足掛かりになりますが、脇役というキャラ化で生じた安定もあることでしょう。その酸いも甘いも知っているはずです。

定着したキャラへの眼差しを自己批評的に向ける。

脇役という虚構が、現実的なキャラとして侵食していくことで、内在的な自己への目線が表層的に炙り出されたように。脇役の客観性が立体化したように。現実における「わたし」が、脇役という虚構と切り離せない規則性を見出してしまったように。

本作で描かれた脇役たちによる脇役論は、彼らの主観=「言わされている」が、コンセンサスを獲ることで客観的になりました。自分語りが「自己幻想」を補強していってしまう中で、客観的に明示された脇役論が、結果的に彼らを癒していきました。

決して器用な自己肯定ではありません。不器用な自己肯定の過程が描かれているのです。「君」への処方箋になるとして。

 

futbolman.hatenablog.com

*1:詳細は前島賢セカイ系とは何か』を参照してください。

*2:並行として『桐島、部活やめるってよ』は「中心の不在」を描くことでその磁場の周辺を立体的にさせました。

*3:週間連載などのように現在進行で続いている作品も一話完結として提供されているように、それぞれの形式であれ、切断されることでパッケージ化されています。でなければ、情報を完全に受け取れることができないため。

ヤマシタトモコ『違国日記』2巻感想 記号化された対比への祈り

 

違国日記 2 (フィールコミックスFCswing)

違国日記 2 (フィールコミックスFCswing)

 

 

futbolman.hatenablog.com

2巻は「対比」が多く用いられている。

詳しくは以下で記していくが、本稿は上記の1巻感想記事からそのまま引き受けた上で出発しているのでご注意を。

朝が両親の死から初めて「自宅」に帰り、家財を整理するシーンから始まる。

槙生は「人がいないと家って空気が動かないせいかこもるからね」と言い、あの日から誰も帰ってこなかった家の空気の停滞感を口にした。現実として眼前に誰もいなくなってしまったことで「むわっとする空気」を作り出してしまった非日常性と家という日常的な空間の空洞化の対比がある。

無造作に投げ出された風景を見て、居なくなった人々の喪失を描く。風景に感情を投射する技法はハードボイルド小説で多く見受けられるものであるが、意味が空洞化してしまった風景が目の前に無機質に広がるシーンから、朝が当事者であるが、その彼女ではなく、槙生を中心に物語は動く。

それは槙生の心理的整理という通過儀礼を示唆するような構成である。物を整理していく内に拒絶していた姉のイメージとのギャップが生じていく。思い出に固執するかのように制服を捨てず、また麻の服を買っていたりと槙生の知らなかった姉の存在を追認していく作業が淡々と繰り広げられる。

姉という立場から強権を振りかざすことを躊躇しなかった彼女に対して、槙生は踏み躙られた過去があり、それが同調圧力的「普通コンプレックス」となっている。

来るはずだった「来週」

取り込まれるはずだった小さいタオル

クリーニングで出すはずだったストライプのシャツ

水をもらえるはずだった植木たち

期限どおり返されるはずだった図書館の本

誰にも見られるわけなんかなかった使いかけのコンドームと

レンズがぼんやり汚れた たぶん家用のメガネ

世界から忽然と存在が消える

 前項までに槙生の視点から「来週が来なかった存在性の現実」と過去に取り残された風景が局所的に用いられ、上記のモノローグは白く淡々と、心の行間を埋めるかのように描かれている。

「世界から忽然と存在が消える」のシーンでは、ページに明暗のコントラストが入り、まるで存在性のONとOFFのような意味に取れる。それはイマというリアル=ONな槙生たちが、既に「来週」を迎えることなく過去として通過してしまっている=OFFな存在性が浮かび上がる風景に没入させるからであるだろう。

存在の有無が突然的に決定されてしまうことへの不条理に対して、そんな非日常性が日常性に取り込まれるまでの「そこに居た」残り香を槙生たちが掬い取る作業が物理的心理的整理となり、無機質に停滞した場の空気は。リアルな存在性によって動かされていく。

冷蔵庫の整理のシーンでは、槙生とは対照的な整理が行き届いていることが分かる。自家製ピクルスを保存している瓶を見付けては槙生の母が作っていたことを思い出し、姉も倣っていた事実のように、制服の件と一緒で思い出に執着する印象を与える。

朝は母のことを現在形で語る。それは突然の死を、喪失感を受け止めきれていない現実への希薄さを意味する一方で、槙生との対比にも繋がっていく。

槙生は過去分詞の例を出し、現在完了進行形のニュアンスを明確に伝える。

過去のわたしから 今 少し未来のわたしへ 繋がる

 続いている

それを強引に断ち切る必要はない

 現在完了進行形としてイマにも続いている朝と過去完了形で語る槙生。

朝にとっては現実というイマ・ココの整理であり、槙生にとっては過去の整理の最中であることを意味する。これは居なくなった・消えてしまった後のイマの整理をせざるを得ない状況について、朝にとってはイマであり、日常だったものである現在完了進行形で捉えることができる一方で、槙生には過去完了形で断ち切ったはずの過去が、イマとして覆うことで姉の知らない一面を知る行為となっているのが印象的だ。

また「強引に断ち切る必要はない」と言った槙生のコマでは、上段では指先を描かないカットから、下段では指先のみを描くカットへと繋げることで対照性にクローズアップしている(背景にコントラストが入っているのも同様)。つまり強引に断ち切った側としての槙生の実感であり、過去完了形の所以であることが示されているが、これは過干渉からの距離を指し、他者との距離そのものだろう。過干渉自体は姉の象徴であり、ラベリングされた側の槙生の息苦しさの一つだったと推察できるが、朝とは「家族」でもない他人同士でしかない。固有の感情は大切に配慮されるべきであり、踏み躙られるべきものではないというのは1巻のセリフの意味するところだが、それは姉への反動であり反面教師とも取れる。

もちろん、それは厳密には描かれていない。槙生の回想でしか姉は登場しないし、槙生の中での姉像は確立してしまった後のイメージのまま断絶が生じているからだ。

しかし、その事実が、朝という少女と共にいることを選択した槙生にとっては「呪い」のような存在性が槙生の背後で確実に立ち上がるものとなっているのは皮肉ではないだろうか。

ゴミ出しのシーンでは、日常的風景をかつて眺めていた人間の存在性の不在を痛感させることに成功している。風景に意味を与えるのではなく、ここでは風景を見ていた存在に意味を与えているからだ。この風景への意味の捉え方は冒頭とは違う。しかし、それでも風景や日常は広がっている。

過去完了形といっても完全に完了していなかった槙生を中心に据え、まだ夢心地のように平然と寝ている(寝るしかない)朝との現実感の濃度としての対比がある。物語として先に槙生の「呪い」に触れることで、朝がこれから抱えざるを得ない時限爆弾へのリミットが起動するようにしたことも見逃せない。朝を中心に据えてしまうと「親子」と向き合わないといけない。それはイマの槙生との関係性への名前が付けられない曖昧な関係性だからこそ担保されている手触りが、物語の展開としてより立体的に生々しくなってしまうことが避けられずに、この早いタイミングでその爆弾を押すものではないだろう。そもそも『違国日記』は、あらゆる磁場から離れたような居場所の心地よさを名前が無い関係性で記していく物語だと考えているので、現在完了進行形である朝ではなく、もう一人の主人公である過去完了形の槙生の視点から、どのように姉(共通の「他者」に対しての自己イメージとのギャップ)と向き合っていくのかという展開をしていくならば、「朝と母―槙生と姉」という「家族」における二層構造から後者のラインを動かすことで、前者のラインを保存したまま、つまり朝の非日常から日常への回復の困難さについて、槙生の視点のまま非日常的な断片を掬い上げることが出来る。この目線はイマ広がっているリアルと失われたリアルの同居を導くものだろう。

間違いなく風景が心的に意味を与えている。

 

卒業式に向かう朝。制服を誤って捨てたかもしれないとバタバタする傍らで、槙生は「家族だと思わず相手を責める言葉が口をついて出るものだったな」と独白するが、この二人の関係性は前述のように家族以外の名前であり、そもそも固有名詞を付けられないものだ。関係性として名前がない。しかし、抽象的であるかというとではない。名前の付けられない関係性として個別的で具体的であり、それ故に生じる温度がある。『違国日記』はその手触りを記述していくはずだから。

制服という記号は制服を身に纏うことでインスタントに獲得できる。それは記号性に没入させるものであり、日常への一時の回帰にもなる。

しかし、友達のえみりの親伝手から、先生やクラスメイトに朝の件が知れ渡ってしまっていた。朝の預かり知らぬところで勝手にラベリングされてしまう恐怖と不条理。可哀想な子として大衆的にパッケージ化されることは「普通」への距離そのままだろう。勝手な大人たちの都合によって日常性への回帰が切断され、もう後戻りできない朝。

みんなもうあたしのことを あたしじゃなくて

「親が死んだ子」ってしか思わない!!

ふつうで卒業式に出たかったのに!!

人には「普通」という記号が拠り所になることがある。その記号の持つ「呪い」は槙生を傷付けてきたものであり、朝はイマそれを望んでいる。自意識として、外装として記号を望むことで「普通」のパッケージ化がなされることへの朝の主体性に対して、いざ知らずにラベリングされて他者に勝手に立ち入られる権利などはなく、固有の感情は自分自身ものであるという槙生の言葉が朝の回想として復唱されるコマ割り。「普通」の記号を求めていたが、それが適わなかった際に与えられた言葉が心の支えになるようにシフトしている。

このシーンでは、いわゆる「大人」と槙生との対比になっている。先生や親といった大人だからこその言葉と槙生だからこその言葉は「違う国」だ。公的な言葉と私的な言葉の違いは、それぞれの立場を示すものであるが、他者としての朝に対して投げかけるべき言葉の責任はまたそれぞれ違うのも当然だろう。 ここで出てきた「大人」と槙生との対比によって生じる「大人」という概念はこの2巻の重要なモチーフの一つであり、それは後述する。

怒り絶望した朝が本能的に帰った家は、前まで家族で住んでいた家だった。足元を見つめるカットは、1巻の「砂漠」で「ぽつーん」と立ちすくんでいる朝のシーンを彷彿とさせる。どちらも共通しているのは足場の不確かさに起因していることだろう。

朝にとって思わず逃げ込みたい場所として、それは槙生の家ではない。帰り道が思い出せないことは、どこに行けばいいのか分からない不安定さであり、自分の帰るべき「家」=日常との切断が表れている。それは「普通」ではない。ラベリングされて他者に理不尽に踏み込まれたことを自覚的に追認する結果となった。「普通」という記号に惹かれている自分が、制服という記号を纏っていても「砂漠」に放り出されてしまうような感覚は朝の思う「普通」ではないからだ。記号が剥奪されて、新たなる記号に取り込まれる。レッテルを貼られる。その記号を認識しているリアルの複雑さは、朝が幻想を抱いている「大人らしさ」にも通じていくものだ。

その間にも、えみりからLINEのテキストメッセージが届く。その場に相手が居なくてもメッセージが届くツールは、地理的距離をゼロにしているが、心理的距離は別であることを指しているし、これは後の手紙との対比になっている。

わたしだって仕事したいよ めんどくさいな

めんっ…なにっ…なにそれ!?

お…おかあさんはそんなの絶対言わなかったっ

 不貞腐れて帰ってきた朝の態度を面倒臭いと一蹴する槙生。朝のこのセリフにあるように母的な面影について、母的な役割・立場を受け持つであろうと期待されている槙生*1への何気ない一言であるが、朝の母=槙生の姉と槙生について求められていくナイーヴな対比がここにある。

しかし、それは槙生の役割なのだろうか。気遣う責任はあるにしても。*2

ここで卒業式を抜け出してきたことと友達とケンカしていることを打ち明ける朝。「形式的」な卒業式に対して、「実質的」な友達の存在性は比較できない、と槙生は友達の重要性を説く。彼女の友達でもある醍醐と居る時の槙生と朝と一緒に居る時の槙生の態度の崩れ方は大きく異なる。この変化には朝も気付いており、槙生とは「友達」ではないからだと受け止めると同時に、「血」というつながりのある絶対的な家族でもないからこそのデリケートな安定と不確かさを内包としたイマ・ココは、この後に物語の展開として訪れるであろう個別的で具体的な関係性に対して、記号性が漂着する問題への布石になっているのかもしれない。

…他ではかえがきかない

 槙生の言葉を聞く朝の横顔のまま、槙生の顔は描かずにクローズアップしている。友達の掛け替えのなさを槙生と醍醐が一緒に居る記憶を回想しながら聞く朝。

「かえがきかない」ことにスポットを当てるための演出であり、「普通」との対比にもなるであろう「特別」な関係性を指す。家族とは違う友達の存在の固有性という回路はあるべきだろう。

 

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

 

 先ほど記したようにLINEと手紙が対比になっている。言葉が心の支えになるように、それはテキストでも同様だ。LINEはコミュニケーションが届く距離をゼロにし、また簡易的なログ化も果たしている。手紙は書いてから相手に届くまでに時間と距離があるが、物質的なログとして存在し続ける。どちらが優れているかという話ではない。心の深度にどれだけ関わったのか。誠実な言葉があったのか。LINEや手紙はそれを伝えるための手段でしかないのは共通している。

学生の頃に槙生は醍醐から手紙を貰った。それはとても何気ない様に装っていた。このシーンでは手紙として残っていたことに、また残されていたことに価値がある。厳密には物理的に手紙が残っていなくとも、心までに言葉が届いた事実が残っていることに意味があるだろう。

「6年間 きみがいなかったら 私は息ができなかった」

 …槙生ちゃんは どう思ったの その手紙を読んで

「生きていていいんだ」と思ったよ 大げさじゃなくね

 他者の承認による存在理由になったと槙生は言う。同様に醍醐にとっても息をする場所であったように、互いの存在性という磁場が発生することでの心地よさの肯定だろう。それは必ずしも「イエ」ではなくてもいい。頼れる/頼りたくなる居場所があるということは、自分を受容するために快く息ができるように酸素で満たしてくれるものだから。それが友達の存在性の「かけがえのなさ」となる。

かつて、えみりが朝に零していた「なんか朝といるときだけほんとのあたしっぽい」という言葉は、空気の支配によるキャラ化・分人化コミュニケーションの弊害だろう。「本当の自分」を想像して、イマの自分を否定するロジックは想像上の先にある「本当らしさ」や「もっともらしさ」を強固にする。

内田樹が「ペルソナ」について人間関係の中で、過剰に他者を傷付けない、過剰に傷つけられない防衛システムであると述べている。

 

呪いの時代

呪いの時代

 

 ペルソナは「双方向の暴力をコントロールするための装置」であるとしているが、えみりの言う「ほんとのあたしっぽさ」はペルソナなどの過剰なキャラ化とは別として存在し、それらを内包しつつもコントロールされているから滅多に露わにすることができない息苦しさを示していると考えられる。えみりの言う「朝といるときだけ」が、醍醐が槙生に手紙に認めた「息ができなかった」という言葉と同じように、空気の支配が双方向の暴力性を孕む結晶であり、そこから脱け出すための、息をするための居場所が無いと心身は疲弊していく。どちらも友達の存在にどれだけ救われているのかを意味するものであり、感謝の言葉に他ならない。

 

笠町と対面をする朝。

「大人」に映る笠町に対して、朝は無邪気に分からない事をズケズケと踏み込んでいく。朝にとって一番「大人っぽい」のが笠町だと述べられており、この話では先ほど置いていた「大人らしさ」を中心に据えている。

「大人」にも分からないものがあると不思議に思う朝。彼女にとっての「大人」というのは母が代表格であったために、ある種の幻想を「大人」に抱いている。

「大人」とは一貫性があり、理路整然とし、ロジカルだと思っている。しかし「大人」=強いわけではない。「大人」だってフツーに繊細で傷付くからだ。それは槙生の様子からも見受けられる。

笠町のいうように「大人」は「大人」をしていることもあるし、突然「大人」になるわけでもない。これは「普通」や「もっともらしさ」という記号が抜け落ち、コンプレックスを抱えたまま「大人」になった側の告白でもあると同時に「大人」幻想を更新するための「大人」の存在である。

内田樹『呪いの時代』では「大人になることはだんだん人間が複雑になる」と記されている。表情や感情も複雑になり、様々な人格が混在していくのが「大人」の実状であると。

ある意味、ロジカルだった朝の母に対して、槙生ら「大人っぽくない大人」の複雑は朝にとっての新しい刺激になっていくだろう。この「大人らしさ」や大人幻想は朝が抱えているものではない。立派に「大人やれているのか」と不安になる「大人」の側も抱いくものだ。それは彼女らが「普通」の記号に対してコンプレックスがあるからだろう。「大人」に成りそこないの記号が付与されているのではないかという不安と痛み。「大人」という責任の重さに耐えるための成熟がある程度は果たされているかどうか。この複雑さは朝の視点ではなく、槙生たちの視点でpage10にて触れられている。

かつて笠町の母が弁当日記を書いていたという話になる。

朝も槙生から言われた後に日記を書いており、その様子は自由奔放。『違国日記』は自由と局所を往来することで、多様性が担保されるべき物語であるはずだ。日記という生活の記録を残すことによって書き手と記述された人間が浮かび上がり、それぞれの「違う国」を記すことができる。それは「生」の象徴だろう。書く自由があると同様に書かない自由もある。

弁当、食事というのは自分を形成してきたものの記憶となる。『違国日記』では食事のシーンを大事にしている。それは日常の断片であり、クローズアップすべき強固な「生」の瞬間でもある。ここで生きているという証。何を食べていたかは思い出せない弁当のまるでアンチテーゼのように食事のログがあり、確かなイマ・ココの手触りの一部分として描かれていると思う。それは「砂漠」に対する「灯台」の一要素にもなるだろうし、「灯台」が照らす自分の足跡なのだから。

おれを育てる ってことと

愛情とはすごく別のところにあった気がするんだよな

彼女は自分が「完璧だ」と思うものをおれに与えていれば

おれが彼女の望む「完璧な」息子になると 多分どっかで思ってた

 育てることと愛情の乖離。

これは笠町親子の話であるが、愛せなければ育ててはいけない/愛せなくても育てられるという視点は槙生と朝の関係性に肉薄している。形式的と実質的の対比にもなっているだろうか。

親の望む子と、親の期待に応えられるかどうかの子の想いは別。子は親の願望充足ではなければ、自分の人生のリベンジを図るための存在でもない。育てる≠愛するは別としてあるからこそ、コミットができる親のエクスキューズにもなる。親から子へ、子から親へ、この符合は必ずしも一致しない。それが普通ではないか。恰も一致するかのような幻想は圧力を生み出すが、「普通」から外れた子たちを踏み躙っていいロジックにはならない。

これは槙生の姉に対する拒絶に繋がっていく。

朝の前では小説家であることを肯定していた姉の像が露わになる。「槙生ちゃん」呼びは母譲りであったことが判明したシーン。

しかし、過去に彼女は槙生が小説に傾倒することを否定していた。

「恥ずかしくないの 妄想に世界にひたってて」

「小説だか何だか知らないけどもう少し現実に向き合えば?」

 

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辻村深月スロウハイツの神様』には本ブログ・ラジオで命名した「拝島問題」がある。これは「若いから物語に傾倒ができるのか」という問題設定であり、さらに広げれば「虚構に耽溺することは未熟の象徴であり、現実と向き合いきれていない所作に他ならない」というメッセージにも通じる。

このテーマ自体は『違国日記』ではどのように折り合いを付けるのかは分からない。2巻ではこの部分しか登場していないからだ。姉へのコンプレックスを肥大化させたかのような象徴的なシーンとして描かれ、それは槙生がフィクションに傾倒することで拠り所としていたであろう足場を根底から崩す現実的な言葉でもあったはずだから。小説家になった槙生がどのような答えを持っているのかは注視していきたいが、この問題設定自体は別段と新しいものではない。

スロウハイツの神様』はなぜ物語が必要なのかを問い詰めた作品であるし、相沢呼呼の『小説の神様』や門井慶喜『小説あります』などは「なぜ小説は読まれるのか」「なぜ小説でなければならないのか」を描いている。

『小説あります』は徹頭徹尾読者目線の主人公が充てられ、『小説の神様』などは読者から派生した書き手の意識を経由して再帰的に読者目線を導く違いがある。『小説あります』は「日常の謎」の系譜ながらも、架空の作家の人生を通して、机上のままリアリティを温存しつつ繰り広げられる作家論と小説研究などからメタフィクショナルとして物語ることのフレームの意味を、架空の設定をフルに活用してみせることで(それこそが醍醐味であるため)、読者目線の主人公の知的好奇心と活発な議論によって「なぜ小説を読むのか、つまりなぜ小説であるのか」に執着するところにリーチしている貪欲な姿勢が印象的だろう。
小説の神様』などは書き手の自意識から読者を結ぶまでの「物語への希求と祈り」の物語になっているので、『小説あります』のように「なぜ小説でなければならないのか」といった(物語至上主義的ではない)形式至上主義の読者の自意識を設定したかのような違いがあるのは付け加えておく。

槙生の持つ解が明らかにされる日は来るのだろうか。

ちなみに北村薫は、なぜ小説が読まれるかについて「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」と記している。

 

小説の神様 (講談社タイガ)

小説の神様 (講談社タイガ)

 

 

 

小説あります (光文社文庫)

小説あります (光文社文庫)

 

 朝は無邪気になぜ母を嫌っているのか、槙生に訊いてしまう。

もちろん回答を拒絶されてしまうわけだが、その時の朝のモノローグを引用する。

群をはぐれた狼のような目

わたしは 彼女の群にはまだ入れてもらえないのだった

わたしの群も もはやないのに

 狼の比喩は1巻でも登場している。朝の天涯孤独の運命を退けた時の孤高な迫力を狼に例えた。

一方で朝は子犬と評されている。帯文でも、作中でも子犬のような純情さという比喩だ。

ここにも対比がある。どちらも群がいない狼と子犬の同居生活。狼は独りにも耐えられるが、子犬は群に入ることを求めている。同じ家に住んでいても、群に入れるかどうかは分からない。この不安定さが朝の現状になっている。

イノセントに振る舞うことが許容される・免罪符を持つ15歳の少女。狼がその無邪気さに振り回され、飼い慣らすとは違う方向の関係性で以て同居する設定の妙だろう。

 

page10では槙生を取り巻く友人たちとの宴席のシーンが中心。

意味するのは朝から離れることで、槙生の現状と感情を客観的に示す場所となっている。槙生と朝とでは零れない話が、責任が乗っかった言葉の重さから分かるように実感として語られている。当事者としての本音が建て前抜きで。

朝を養子として引き取る選択肢は責任の象徴となるから、槙生は現時点では考えていない様子。

…うーん なんか そこまでの責任 とゆーか

繋がりは…

…それ自体しんどい… 

 そもそも槙生にとって一定以上の「つながり」は負担でしかない。これは友達との会話でも明らかである。

「つながり」を必要以上に意味するものが「親子」=家族ではないだろうか。家族的繋がりは、姉との繋がりを過去完了形として強引に断ち切った槙生が、それを背負い込むことになるかもしれない運命の皮肉がある。

姉の子である朝を愛せないかもしれない予感は、姉を拒絶して愛せない想いとどうしても重なってしまう。槙生にとって姉の存在が、朝を通じて立ち上がってしまうからだ。姉は姉、朝は朝でもあるはずなのに。論理的ではない。感情における「つながり」の問題として槙生に付き纏っている。

この子はあの人の子なのかと思うと体がすくむ…

朝には関係ないところでの関係性による身体的な拒絶。 それは槙生も自覚しているからこそ、より「血」のつながりを強固にさせてしまっている。フェアに接しなければいけない論理と「血」に囚われて感情と身体が先行してしまう事実が並行的で、それはそれ、これはこれ、という対比構造であるにしても、姉への感情はフェアなものではないのは一貫しており、それを予め朝に宣言した槙生の最大の誠意でもあることは窺えるだろう。

槙生の影には姉へコンプレックスがあるように、朝の背後にもつながりとしての姉を見てしまう。朝とのつながりを強くすればするほどに、断ち切ったはずのつながりを再起させてしまうようなジレンマを孕んでいる。

なんかねー よく 大人になれたなあとって思わない?

だからーなんか それだけでだいぶ満点!!

 学生ノリを引き摺ったまま強い「大人」ではない彼女らが、大人幻想、大人コンプレックスという同調圧力は、そのままこれまでに上述してきた槙生の姉や「普通」の押し付けに重なる。それは記号性への希求であり、朝にも常識のように刷り込まれている。

しかし、笠町が言ったように突然「大人」になることはない。それぞれが抱える「大人らしさ」は幻想であり、いつか本当の自分が到達するかもしれない先を行く像に過ぎない。ここで彼女たちが言うように「大人」になれたと思う実感だけがリアルなのだから。大人幻想は共通的であるにしても、リアルな「大人」像はそれぞれ違う。採点基準は自分自身に委ねられている。これは「違国」的でもあるだろう。

例えば日記のようにそれぞれが書く自由がある様に書かない自由もある。言葉には責任が伴い、「大人している」時もあれば、そうではない時も許容される。それは「違国」的であるとし、自分が自分を規定するための手段であり、責任の取り方を示す。これを理解して実践することは十分に「大人」なのではないだろうか。

 結婚するまでさあ 自分が結婚に向いてないなんて思わなかったの

皆してるし 自分にもできると思い込んでいた

そしたら 違ったんだけどさ

 友人の一人である、もつが帰り道で零すシーン。

これは結婚のみならず、当たり前とされている価値基準に乗っかっている事象に対して、「普通」から抜け落ちてしまうことの日常性を意味している。皆がしているから自分もそうであろうという思い込みもまた幻想であるように、それぞれが違う痛みを抱え、それでも「大人している」までに成長した彼女たちの実感は、読者への処方箋になると思う。自分は「そうではない側」だとラベリングされても、息をする場所があるように。

本稿では、これまでに幾度となく「対比」のモチーフを抽出してきた。対比によって露わとなる多様性の温存が垣間見えたと考える。

「そうではない側」や記号から離れてしまったが、それでも特別な固有性に溢れる「もっともらしさ」は、一般的な「もっともらしさ」や「確かさ」とは違うベクトルで独立していることを示しているに違いない。それは「違国」の比喩であり、それぞれの価値観の尊重となっている。

だからこそ、この物語は紛れもなく優しいのである。

槙生の「呪い」は、朝への態度としてはフェアなものではないかもしれない。

しかし、その「呪い」を抱えている槙生だからこそのフェアな姿勢はあるだろう。*3

槙生にできる違う立場があると思うし

そしたらきっといいんだよ

愛せなくっても

 子犬のような朝は群を恋しく思っている。それを認識できない孤高の狼である槙生。必ずしも一致するわけではない。それも幻想だ。

しかし、このズレが出発点にあるからこそ公正かつ誠実に態度ができないわけではない。その立場だからこそできる思いやりは存在する。家族や友人とは違う関係性として。

古傷を子犬に噛まれても許せる日が来るのだろうかと槙生は書いた。それは一般的な「大人」という強い幻想ならばやり過ごせてしまうものかもしれない。

しかし、そこから離れているものでしか壊せないカウンターとしての「大人像」が槙生たちであり、その関係性との共生は他者を全て受け容れるということを意味するものでは決してない。朝という他者を受け容れていく過程には、必ず背後に存在する断ち切ったはずの姉とのつながりが立ち上がっていくことだろう。姉とのつながりに対して過去完了形の槙生と現在完了進行形の朝が共生していくということは、内田樹が『呪いの時代』で書いた「複雑な他者を構成する人格の一部分について自分自身の断片と同じだと認める」理解が求められていく。

群を求める朝と独りでいたい槙生。

ここまでで「群」と「姉=母」が丁寧に炙り出され、共生していくための断片的な対比的要素が散りばめられている。

私は、これから祈りに近い感覚で読んでいくことだろう。

*1:もちろん、それは大きな誤解であるが、この時点では「家族」における役割という意味において母なる存在の巨大さと、その母の妹である槙生の立場を混同してしまっている。母的な存在と槙生の存在は朝にとっては共通的ではないのだから。しかし、それを希求してしまうかのような切実さと己の意思とは関係なしに投げ出された現実の淡泊さが表現されている。

*2:後述する。補助線として内田樹『呪いの時代』があるので興味がでたら読んで!

*3:内田樹の『呪いの時代』において、内田的ノブレス・オブリージュへの言及がある。それは「万人はそれぞれ固有の仕方で「ノブレス」であるという解釈」であり、特異性・多様性・個別性を指す言葉として理解していると記されている。ここで明らかなように、社会的大人が取り持つ責任と槙生が抱える責任は必ずしも一致しなくてもいいといった固有性が担保されている可能性だ。それは責任の放置ではない。厳密に一致することはなくとも、それぞれの公正な立場と態度があり、それは個別的なものとして意味することに他ならない。

加藤千恵『ラジオラジオラジオ!』感想 肥大化した虚構としての東京と痛々しい自意識を巡る

 

ラジオラジオラジオ! (河出文庫)

ラジオラジオラジオ! (河出文庫)

 

地元のラジオ局で番組をもつ、高校3年生の華菜と智香。智香の声が好きでラジオに誘った華菜は、東京に行く日をひたすら夢見て、退屈な学校生活をやり過ごしている。リスナーを増やしたいとがんばる華菜だったが、ある日、収録中に突然、智香から番組を休みたいと告げられて…未来への夢がすれ違い始めた二人の友情を描く、せつなさ120%の青春小説。

 青春小説である。

半ば加藤千恵の自伝的小説として読めなくもなく、学生時代の実体験から着想があるようだが、あとがきで加藤千恵は自伝的側面を否定している。

この物語は決してラジオを職業とする「お仕事系」ではない。

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ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

 

 インターネットやラジオという媒体を通して、自己実現を図ろうと目論むロマンチシズムと圧倒的な現実の対立による軋みを味わう若者を描いている。

本編でテキスト化されているラジオの内容は、実に等身大の高校生であり、退屈極まりないのが印象だ。

加藤千恵は、そのラジオの退屈さに起因するものとして「何者かになろうとしている」若者のもがきを丁寧に描いているからこそ、本編のラジオはクソつまらないといけない。必然的退屈さが宿っている。

もちろん、それは何かを語っているだけで何者かになっているような自意識であり、本編で記されているように主人公の華菜の文化性は、テレビやオトナの友だちからの受け売りであることが分かる。つまり恰も何者かになったと錯覚させるメディアの力であり、何者かになる途中としての自意識のコントロールの難しさと痛々しい相克は青春模様ではないだろうか。

舞台は2001年の9.11直後の世界。

インターネットはホームページ時代であり、SNSや配信サービスはない。現代に比べてまだ配信することに対して敷居が幾ばくか高い。

そのため、地元のラジオ局から女子高生が放送しているという特権性がある種の自意識をコーティングする側面もあり、自分は他人よりもセンスが良いと思われたいという承認を求めている様は、主にSNSで可視化されているイマとなんら違いはない。

華菜たちが行っているラジオにメールは来なければ、華菜のホームページに具体的なリアクションが来るわけでもない。華菜は掲示板(恐らく2ちゃんねる)に自演をした過去があり(速攻で看破されているのも「らしさ」である)、メールもサクラをしようかと思っている。これは世間の反応に飢えていることを意味し、ラジオが始まる前は可能性が無限大だったにも関わらず、現実が降りてきたらラジオとして広がらない、頭打ちの後退戦をしているための反動だろう(まるでどこかのポッドキャストみたいダナー)。

 9.11後の最初のラジオで、台本にはテロの話をしようかしまいか悩んだかのように二十横線を引いた記述がある。

だけど、映像がドラマや映画みたいにしか思えず、話がつながっていかなかった。

少しは冷静になったはずの今でも同じことだ。何度となく見た、ビルに飛行機が突っ込んでいく映像の意味、いまだに理解できていない。この世界で起きていることの一パーセントも、わたしは拾えていないのかもしれない。

 あの映像がハリウッド映画みたいと意見は多く、宇野常寛は当時『パト2』を彷彿とさせ、虚構が現実に追い付かれたと語り、富野由悠季たちは思想がサブカルチャーに侵食された結果、行為自体もサブカルチャー的になったと述べたことがある。

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戦争と平和 (アニメージュ叢書)

戦争と平和 (アニメージュ叢書)

 

 虚構が現実を作る。メディアによって規定されてしまう。

昨今の聖地巡礼といったコンテンツ・ツーリズムは虚構によって現実の価値が上書きされたことを意味するし、ある種のインフラの結果として現実の風景が漂白化していく過程で、風景に対する歴史や文脈への形成に虚構が寄与することで風景への現実的価値観が拡大していっているのではないか。

詳しくは後述するが、本作の華菜が抱く東京ロマンと押井守の劇場版『機動警察パトレイバー』シリーズで語られた東京の風景に厳密なロマンチシズムの一致はないが、共通して虚構のビジュアルイメージを通して東京が更新されていっていると考えられる。

華菜は東京コンプレックスと同時に東京に夢を抱いている。

東京に行けば、自分も輝けると期待している。片田舎の自分に住む自分のセンスはまだ東京レベルではないが、地元への絶望と虚無は徹底しており、何者かになるために東京に行きたい、誰か連れ出してといったイマ・ココではない何処かへ行けば充足するかのような東京的シンデレラ・コンプレックスを抱いている。

わたしは東京で恋をしたい。どうせならドラマみたいなやつ。大学で知り合った年上の人と。バンドをやっているとか、映画を撮っているとか、特別な才能を持っている人がいい。テレビ局のスタッフだったらなおいいし、芸能人だったら最高だ。

そのための足掛かりになるのが、地元のラジオとインターネットだと信じている。

2001年なのでテレホーダイ時代であり、ある意味ネットサーフィンなるものが正しく機能していた時代の高揚感をPCを前にした華菜を通して体験できる。夜にカップヌードルのシーフード味を食べながら、現代に比べて過剰に繋がれていない時代だからこそ世界と繋がる瞬間の興奮と目の前にいない誰かに向けて言葉を発信する快楽。

自分が輝くためのステージに立ちたい。

そんな自己実現と承認への欲求。

華菜は、地元を偽物ではないけれどホテル感覚だと評する。つまり仮住まいであると。閉じられており、社会への実感が隔絶されている居心地だと華菜は考えている。

「なんかさ、わたしたちって水槽の中にいる気がしない?」

(略)

 自分たちは水槽の中にいて、あらゆることは水槽の外で起きている、という感覚。外のことは目にしているし時に心配もするけど、どうしても実際の温度とかそういったものは感じられず、かなり大きな事件でも、自分とは関係ないという気がしてしまう。(略)

 実感が伴わない以上、たとえラジオで話しても、ありふれた嘘っぽい意見しか言えなさそうで危惧している。だから実感のあることだけをラジオでは伝えたい。

 社会への実感、現実に対する希薄な感覚への象徴のようでもあるが、ラジオへの誠実さが窺える。

しかし、このつながれていない感覚は水槽という比喩のように箱庭的であり、自分の居る場所に対して懐疑的になっている。なので、イマ・コレカラと繋がっていないであろう勉強には身が入らないし、テストの結果も芳しくない。自己実現の中に勉強のファクターが薄いと考えているので、免許が無いと生活に不便である地方にいる華菜は東京に行く予定であるから、免許の必要性も無いとしているのも印象的だ。

東京でビッグになってやる!と言っていることは同じで、東京ロマンを求める夢追い人の様である。

一方で憧れの東京はインターネットのように繋がっている本物の場所であると述べており、自分と世界を繋ぐための具体的な場所としてインターネット=東京が描かれ、イマや部分的にしか繋がれないことへの軋みがある。

華菜が世界と繋がれていない感覚は、冒頭の9.11や上記の実感に通じ、自分事のように収めきれないスケール感への距離を突き付けられている。

対称的なのは、西加奈子の『i』という本がある。

これは、リアルタイムであらゆる事象や事件を自分事として物語化することで、自分ではない誰かへの想像力が結果的に自分に立ち返っていってしまった功罪と、それでもこんな世界を生きていくしかない自分への物語として問いを投げかけているが、物語化できない程の距離と、それを行えてしまう感受性の豊饒さと残酷さの人間心理への挑戦だと考えられるし、本作の華菜のように実感できない人間がいる一方で、『i』が自戒と癒しになる人間もいるだろうと想像ができることが、虚構といった物語構造のフレームに落とし込むことで、ピントを合わせて降り立つことができる地点ではないだろうか。

i(アイ)

i(アイ)

 

 

わたしのホームページで一番充実しているコンテンツは、テレビ感想だ。ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、クイズ、歌番組、の五つに分けて時々感想文をアップしている。(略)

 今日わたしのホームページを覗いた八人のうちに、テレビ局の制作スタッフは含まれているだろうか。書き込みはなかったが、もしかすると今日から読みはじめてくれている可能性はゼロじゃない。そのうちにメールを送ってくれるかもしれない。

 わたしはその瞬間を待っている。想像しただけで、口元がゆるみ、鼓動が速くなる。瞬間は未来へとつながっている。実際にわたしがテレビ局でプロデューサーとなって、作りたい番組を提案し、芸能人たちと関わっている、光り輝く未来。

 リスナーの中にも、そんなチャンスをくれる人がいればいいと願っている。わたしを見つけ出してくれて、明るい場所まで連れていってくれる人。ゼロじゃない可能性を信じて、わたしは毎週しゃべりつづけているのかもしれない。

 特別になりたい。みんなと同じことを考えて、みんなと同じような場所に行くのではなく、みんなが知らない音楽を聴いて、みんなが知らない本を読んで、みんなが知らない人と出会って、みんなとは違う形の感性を持ちたい。

 見事なまでにイタイ自意識が語られているが、水槽から脱け出して「特別」という実感を持ちたい子であり、要は「外」に出たい話である。この「外」は水槽の向こう側であり、華菜にとっては東京のことを示しているが、実際は自意識という檻から「外」に出るかという物語になる。

制服やパーソナリティといった記号を脚色し、特別になることで自分が何者かになったと承認されたい気分が生々しく記されており、他方で自分自身への手応えの無い虚無感と「何者コンプレックス」による反動であることが窺える。

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

  

ドラマをただ受け取って見ている側から、テキストにしていくことで、反対に、自分が手渡す側になる気がする。

 誰も指摘していないことに着目するような、わたしだけの視線を持ちたい。テレビ局のスタッフに、鋭い感性を持っていると思ってもらえるくらいの。

 自他共に非常に耳が痛い話。

こうして作品にぶら下がって書評モドキを書く行為自体が、書評といった表現はあくまでも二次創作の領域をはみ出さない、他人の褌で相撲を取るかのような行為に接近せざるを得ないという意識は常に働いているつもりだが、これも所詮言い訳でしかなく、好き・嫌いといったファンカルチャーで渦巻く作品観から距離を置こうとすればするほどに、自分がそこに線を引いているという図式が、何者コンプレックス自意識を爆発させるものであるからだ。

優れた二次創作はそれだけでも作品になる。しかし、拙い自己表現は何かしらを足掛かりとしたパフォーマンスでしかなく、その線引きは優れたアウトプットかどうかになる。

華菜も同様にテレビといったメディアの力に引っ張られて、借り物としての水を水槽に注ぐことで何者かになったつもりでいる。

東京ドリームを抱くのもテレビの影響(具体的言及は無いが月9やトレンディドラマ群だろうか)であるし、この時代ではテレビなるメディアが茶の間に機能していたことも読める時代の気分がある。確実にテレビなどによって東京が本物として更新し、ココではないどこかを求める若者たちのロマンとして、ブランドの華やさのように映っていたのは東京像の一つではないだろうか。

 

作中で大事な設定として、華菜には同じ高校の友達が複数人いる。その内の一人の恋愛話の愚痴に対して、何ら興味がないものの聞く耳を持つポーズを取っている。ボッチでいるよりかは、群れた方が得策であるかのよう内的な振る舞いがある上で、恋愛への興味はなく、ラジオをどうするかを常に考えている。なぜなら恋愛は東京に繋がっていないが、ラジオは繋がっているかもしれないからだ。

また、リスナーの一人でもある年上のなつねえさんとはリアルでも会う仲であり、彼女からの影響を多分に受けていることが散見される。貴重なリアルのリスナーであるから、ラジオの感想を求めがちな華菜に対して、なつねえさんの感想は実に淡泊に映る。これも酷な話で、ラジオに中身が無いから感想を持ちようがないと思う。

ここで痛烈なのは、他人はそこまで自分に興味がないことを知らないという華菜の自意識の未熟さゆえの自意識過剰であり、狭い感性であることだ。恐らく誰よりも特別でありたいと思っているからこそ、自分の興味関心に夢中で、自分の関心事に対して他人がどう考えているのかといった相手の存在が希薄になっていることを知らない。

もちろん、このズレは後半でパンチが飛んでくるようになっているし、センスの良さを開陳したい自意識が、内に囚われて引き摺り込まれてしまうことで「外」に目が当てられていないという水槽の箱庭的比喩が効いている。

貴重なリスナーの一人であるなつねえさんは、東京から地元に帰ってきた人間であることが紹介される。

華菜には東京から出戻ってくる心情が理解できず、東京にはいくらでも充足させてくれる物質が溢れているが、地元には存在しないことが東京への憧れを加速させているようにも見える。

なつねえさんは小説家志望だったが、その夢に破れた。だから帰ってきたのである。ロマンへの挫折としてなつねんさんは映るが、しかし後に結婚をすることが明らかになり、別の道を歩んでいくことが記されている。

ちなみに、なつねえさんは書店員で、ビジネス書コーナーを受け持っている。本人は文芸書をやりたかったらしいが、叶わなかったとさらりと書かれているが、文芸書はその店舗のエースが受け持つ仕事であるので、ここでも一つの挫折がある。 

また小説書いて応募すればいいじゃないですか、とわたしは言った。すると、なつねえさんは言ったのだ。

「現実が見えてきちゃったんだよね」

意味がわからなかったわけではないけど、その答えには謎が残った。

 挫折と前身は、この物語の肝である。

なつねえさんというモデルは華菜の先を提示しているかのように、華菜の自意識に他者として入り込める隙間になつねんさんは存在するが、華菜がそれを自覚していたわけではないことも明らかになっていく。

華菜にとって、なつねえさんは熱心なリスナーだと思っていたが、毎週更新を物凄いスピードで聴いて感想を送ってくれる存在の一人ではなかった。これは、露悪的に書けばパーソナリティとしては無条件に承認してくれている相手、つまり自分を見てくれている都合のいい存在ではなかったことを意味する。

また、同時に友達をも勝手にリスナーにカウントしていたが、彼女たちはリスナーですら無かったことへの自分勝手にショックを受ける都合のいい部分が露呈していくように描かれている。そもそも視界に入っていないラジオの話よりも恋愛話をしたい友達と、その友達の恋愛話よりも文化やラジオの話がしたい華菜の感覚的なズレは残酷的であり、自分の興味関心がまるで世界と繋がっているという短絡的な思考は、まさに自分の価値観に対して相手がどう解釈しているか、受容しているかの想像の域にすら達していない徹底的な自意識における箱庭的な話だ。

現代のように常時接続ではない。部分的なインターネットのようなつながりではないリアルへの感覚は、リアルのままでつながっているのにつながれず、殆どつながれていない故のもどかしさと瞬間の煌めきについて『リズと青い鳥』が箱庭的に閉じ込めたモチーフであるが、本作ではラジオという媒体を通してリアルとして目の前にいない人間に語る物理的・心理的距離が、果てしない東京ロマンと地方に根付く現実の対立でもあり、それらを閉じ込めた自意識を巡る青春小説だと考えられる。

 

 その後、恋愛話を仕掛けていた友達が案の定失恋する。その失恋話をラジオのネタにする華菜は、彼女自身は友達へのエールのつもりであったが、失恋した友達にとってはラジオのネタに利用されたと感じ、憤慨する。

「番組自体、自分ではおもしろいとか思ってるのかもしれないけど、超つまんないよ」

吐き捨てるような言い方というのは、まさにこういうものだと思った。

短い言葉で、毎週積み重ねてきた三十分がまとめられてしまう。つまらない番組。それはすなわち、しゃべっているわたしが、つまらない話をしているということだ。

 拍手喝采の名シーンだろう。

意図的につまらないラジオを書くことでしか、この味わいは表現できない。

自分に都合のいい解釈を、他人がどう受け取るか想像していないイタイ自己完結型の末路として相応しいと思う一方で、他人事ではない冷えた感覚が走る。

ここで記されているのは、水槽の比喩(地方と自意識)として温室で生きていて、そこに対して息苦しいとは言っても、その恩恵は少なからずあることだ。自分のことしか考えなくてもいい。「外」に出たいと憧れても、「外」への実感がないまま水槽に浸ることで満たされているものもあるからだ。

なので水槽が保険になる。免罪符になる。

女子高生、パーソナリティという記号はいずれ剥奪されていく。それらが抜け落ちて、何者でもなくなる瞬間が訪れるが、仮初でも、彼女の言う東京のように本物ではなくても、アイデンティティとしての足場であった時間と記憶が確かに存在する。それらが漂白されて、忘却していく中で原風景化していくことでしか自分を問い直せないものもある。

それはまた、東京という風景も文化的に漂白していく現代というレイヤーも重なるように、無くなっていくものから新たに抽出して更新する、例えば聖地巡礼のように虚構のレイヤーが現実を上塗りすることは自意識と歴史的、文化的に折り合いを付けることだろう。

自意識過剰に向きあうまでの物語であり、際限のない「外」へと向かうためのメタ認知を獲得していくための青春の工程でもある。これらは朝井リョウ西加奈子が描いている自意識として、シニカルやセンスで外装して居座ることへの痛烈なしっぺ返しであり、その先の地平をそれでも歩まないといけない痛い処世術なのだから。

華菜が通るであろうある種のあきらめ=漂白は、裏返せば挫折からの出発であり、自己肯定としての受容になっていく。

青春としての挫折と自意識を巡る物語となる。

だからこそ、どうしようもないくらいに青春小説なのだ。

わたしはわたしの水槽の中にいる。

(略)

何か大きなニュースに触れるたびにイメージしていた水槽の中には、最初からわたししかいなかったのだ。中にあるように感じられていたものも、全部錯覚。いたのは、わたしたった一人。なつねえさん、智香でさえもいない。

 

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桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

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ここからは、前述のまま詳細を放置していた東京への話となる。

華菜が抱く東京ロマンは、トレンディドラマ群に代表されるような煌びやかなイメージであるが、バブルという時代性を捉えた作品に『機動警察パトレイバー the movie』がある。

機動警察パトレイバー 劇場版 [Blu-ray]

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『パト1』はバブル批評として読める作品にもなっている。

開発とインフラ整備に伴う「失われていく東京の風景」を靴底を擦り減らしながら丹念に調査をする松井たちを描きながら、風景にノスタルジーアイロニーを投影させることに成功した。

そこに東京の煌びやかなイメージは存在しない。

確実に在った風景が、徐々に、そして気付かないまま失われていっては新たな都市の風景として飲み込まれていく様子が丁寧に展開されている。

東京ロマンのイメージが都内のみならず、地方でもメディアの影響で肥大化していく喧騒の最中、その豪華絢爛なブランド性にリアルとしての風景が侵食されていくように、東京という風景にどのようにピントを合わせるかによって、生まれていく風景があることは同時に失われていく風景へのアイロニーも込められていることを痛切にメディアとして機能しているといってもいいだろう。

もちろん『ラジオラジオラジオ!』は東京ロマンが打ち砕けるような話ではない。作中で東京への憧れは度々登場するが、リアルの東京は一切描かれていない。メディア的、文化的な東京のイメージしか華菜にはなく、地方で東京へのイメージと自意識を育んでいるだけだ。これは水槽の中でリアルの実感が持てないまま、虚構としての東京が伝播していることを意味するだろう。

例えば新海誠は東京の風景を美麗に描く。

しかし、実際の東京はあんなにイイものではない。ただ、現実以上に綺麗に描くことで風景に意味を与えることも出来るのは確かな技法の一つでもある。

華菜にとって東京は本物であり、何者かの象徴である。東京に行けば何者かになれるかもしれない。イマ・ココの等身大なリアルではなく、メディア的な虚構としての東京に心惹かれている。その東京にはドラマのような風景が広がっており、『パト1』のような風景へのアイロニーは含まれていないことだろう。

虚構による東京へのイメージが幾層に塗り替えられても、自分の都合のいいピントの合わせ方がある様に、風景はいくらでも様変わりする。認識できる範囲は限られているために、そこにリアルは存在しなくてもいいことになる。

虚構としての東京を生きる意味を『パト2』では描いているが、物語終盤において柘植が東京が蜃気楼に見えると言う。幻であると。その違和感を風景映画として、また虚構に飲み込まれてしまっているがためにリアルへの手触りを確かめようと試みるテロリズム(だから最後は手と手が触れる)自体も、虚構のフレームから一時的に脱却してもなお別の虚構に取り込まれてしまう不可逆的なイメージを捉えてしまった。

この虚構の都市というフレームにピントを合わせることへの欺瞞について、風景のリアリティのみならず、そこで生きることに対するアイロニーと忘却性が付随しながらも、蜃気楼のような中を歩くしかないという現実がある。リアルが無いままの確かな手触りという一縷の可能性もまた一つのイメージであるのだから。その一つ一つのイメージの蓄積が幻のような都市を生み、リアルなるものは心象風景化していく過程に宿る感情という一つの事実にもなっていく。華菜が抱く東京への憧れはリアルのように。

華菜にとっては、ココではない何処かへのイメージの具体としての東京ではあった。イマ・ココ、そして忘れていくかもしれない様々な風景や記憶を東京ロマンではなく、原風景化させていくことで、新たな拠り所として見つめ直すことが示唆されている。

東京という風景を捉え直す。

そこまでの射程が『ラジオラジオラジオ!』にあるわけではない。

しかし、虚構のロマン化した東京と自意識との折り合いの物語である。それでも蜃気楼のように実感が持てないまま生きていく過程で、どのようにリアルの積み重ねをしていくのか。

虚構というモニターで捉えることができる現実には、直に触れない不確かさが宿っている。モニターの中のリアリティがいくらか増しても現実なるものにタッチできない。柘植が演出してみせた一瞬露わになる現実ですらも虚構になってしまうからだ。虚構というフレームを通してしか接近できなければ、そのフレームから別のレイヤーとして存在するであろう外部という現実には決して飛び込むことはできない。

そうであるから、ラジオというメディアと東京への肥大化したロマン=虚構を意識的に描くことで、「外」に出られないままその場で足掻く自意識の話になるのは必然的だろう。内的にリアルな問題として、18歳という何者でもない多感の少女を据える一方で、相対的に虚構としての東京ロマンは現実的なものから希薄になるばかりか、虚構が肥大化していくといったように。

メディアや虚構によって規定されている。

その自己実現の途中での軋みを華菜を通して描き、誰かに発見されることで可能性が開いていくことについて、インタラクティブな関係性のインターネットへの期待感も当然ある。

しかし彼女が行っていることは閉じていないけれども、拡散もしない。誰もリアクションしない。それでも、インターネットの海に発信する行為の可能性を信じている。何かしらの手触りを求めている。

ここでアプローチとしてラジオの存在がある。

メディアが、虚構があるかもしれない自己実現したいつかのわたしを形成していく青写真でもありながらも、現実の反応がメディアに乗っかることだけで恰も何者かになったかのような錯覚を醒ます。

現実の延長にあるはずなのにメディア(虚構)に飲まれていくような感覚は、現実に反比例するかのように燦然と輝く東京へのロマンが肥大化するのに通じているだろう。発信することで、何者かになる感覚。それは一時的であり、部分的でありながらも確かにメディアに規定されるもので、それもまたある種の水槽=フレームに違いない。

私は、この飽くなき承認を巡る流れをバケツに例えている。

水をバケツに注ぐことで満足するが、イマのバケツでは物足りなくなっていく。水が溢れてしまうからだ。どうすればいいのか。それには更なる大きなバケツを用意すればいい。そしてまた水を満たしていく。溢れたらもっと大きなバケツに水を注げばいいといったように、承認とステージは比例していくものだろう。

華菜は現状に不満を持っている。自己実現と承認は満たされていない。イマは東京にもいない。それでもイマはココにいる。

ラジオとは寄り添えるものである。

それは作中で海老沢が語った「受け手との距離が近い」からこそ、ラジオにしかできないこともあると信じているように。

華菜は、無自覚的に自分勝手で都合のいい他者を身近に置いていた。他者に寄り添うためには自分が距離を適切にしなければならない。それはラジオという媒体でも、リアルにおいても。ラジオを通じて、他者へのコミュニケーションを考える契機となった華菜。

ラジオはコミュニケーションを強化させる。

なぜならリスナーは選択するという主体的行為から受動的に聴く行為に没入する一方で、パーソナリティ=「わたし」は能動的に働きかける。部分的なインタラクションな関係性がありながら、生放送であれ録音配信であれ、まるで同期的したかのようなそこに居る相手に向けて仮想して語りかけるメディアだ。

「わたし」からピントが合っていなかった「他者」へ。

大きく言えば物語は「わたし」と「世界・他者」の関係性を手を変え品を変えたかのようなフレームの変奏であり、そこで発生する意思表示という祈りでもある。

フレームの「外」に対する認識不可能性は本作でいう「他者」の存在性への空虚さであり、ラジオを通じて、「他者」とそれを見つめる/働きかける「わたし」の関係性は強化される。

自意識によるイマ・ココの否定ではない。

虚構(メディア)を通して、イマ・ココの蓄積による小さく確かなリアルな手触りを求めていく。

その実感としての距離への近さこそ、ラジオならではないだろうか。

 

おおたまラジオについて

インターネットラジオのおおたまラジオを聴いて下さっている方、聴いていた方々どうもありがとうございます。

おおたまラジオは昨夏から毎月1本という更新ペースで配信していたわけですが、ラジオ2年目というタイミングだからこそ今後のコンセプトの具体的な模索についてえる・ろこさんと話していたので、第12回がなかなか配信ができない状態でした。

配信した内容は後日にこのブログでテキスト化しているので、音源を聴いていなくてもテキストには目で触れた人もいると思います。この文章だけを読んでいる人は流石にいないでしょうから。

しかし月1更新ペースといっても質量は伴わず、毎度フィードバックもシンボリしたまま次の配信テーマを考えるといったことが当たり前だった1年間でしたので、ペース的に余裕があると思いきや常に〆切に追われている謎感覚だったわけですが、ここいらで今後の展開を見据えた上で足場作りをしないといけないと話し合いになり、最初のコンセプトにあったように不定期配信に戻りました。

不定期にしたところとて、質が上がるかというと未知数です。

ある意味、前までは月1ペースが内なる免罪符として機能していたわけですからね。

それが暴かれて剥き出しになるわけですから、よりストイックに質を求めないといけない。だからこそ尻込みするために不定期という形式を歪みっぽく採ったと思われれば、それも別の免罪符になるのでしょうか。しかしこの場合は内的免罪符よりも、寧ろ不定期という形式のガワの方が優位的であると考えられるのではないか。ある種のエクスキューズが成立していた以前とは内的に異なるでしょう。

その圧が、質に結びつけばハッピーなんでしょうけど。

それと昨夜に気付いたことなんですが、従来の配信方法がサービス終了していて一つの終わりを迎えました。

これだけ配信サービスが氾濫しているのに、私とえる・ろこさんが求める配信方法が見付からないという情報弱者の極みを晒しており…その点も模索していきます。

今後のネットラジオはどうなるか分かりません。だからといって止めるわけではありません。それはえる・ろこさんと共通理解になっています。

いずれインターネットの片隅で配信する日が来ると思います。多分。

その時がきたら、従来通り読者・聴き手の方々はテキトーに相手してやってください。お願いします。

ヤマシタトモコ『違国日記』1巻感想 他者性という祈りと孤独への準備

 

違国日記 1 (フィールコミックス FCswing)

違国日記 1 (フィールコミックス FCswing)

 

1巻を読んだら傑作だった。

とても素晴らしいマンガだったので、感想を如何に記していく。

「他者性」へのアプローチを丁寧に紡ぐ物語であろうか。

35歳、少女小説家。(亡き母の妹) 15歳、女子中学生。(姉の遺児) 女王と子犬は2人暮らし。
少女小説家の高代槙生(こうだいまきお)(35)は姉夫婦の葬式で遺児の・朝(あさ)(15)が親戚間をたらい回しにされているのを見過ごせず、勢いで引き取ることにした。しかし姪を連れ帰ったものの、翌日には我に返り、持ち前の人見知りが発動。槙生は、誰かと暮らすのには不向きな自分の性格を忘れていた……。対する朝は、人見知りもなく、“大人らしくない大人”・槙生との暮らしをもの珍しくも素直に受け止めていく。不器用人間と子犬のような姪がおくる年の差同居譚、手さぐり暮らしの第1巻!

奇妙な同居生活。

血の繋がりに頼らない疑似家族的でありながら、各々が飼い慣らしている孤独を相互承認によって補完する「イエ」設定であるのが特徴的だ。

第1話では、進路が差し迫っているであろう時期の高校3年生の朝と、その同居パートナーの槙生が描かれている。所謂、血縁関係から離れたイエの形態であり、朝が成長して自立していくまでの過程というと、恰もビルドゥングス・ロマンのような響きが混じるかもしれないが、「大人」を連呼する朝と「大人」であるのか曖昧な槙生との同居生活は、まるで「一般的」ではない他者性を向い入れることを示している。

「大人」とのカジュアルな距離が描かれ、「大人」という固定観念を持つことで揺らぐ朝が1巻では象徴的である。

かつての朝にとって「大人」は親と先生しかいない世界を生きており、朝の先入観としてある「大人」らしさから槙生ははみ出ているからだ。

ここではある種の「大人」という成長モデルの提示が無い。

大人への階段を登るといった形式上のイニシエーションの話ではなく、所謂「大人らしさ」というものを抱えていなくても立場上、「大人」として見なされる。そんな「大人」としての立場を取る、15歳の少女の人生への決定的な責任と不安を持つことになった槙生と、素直な朝との同居生活を経て精神的なケミストリーが発生するであろう物語というべきか。

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朝にとっての一般的に収まる「大人」の定義と、槙生という「大人」から外れるモデルとのズレによってしか生み出せない成長物語はあるはずなのだから。

冒頭から特に会話もなく(「ただいま」と「おかえり」のあいさつは当たり前のように見えるが、当たり前であるものではなかった事実が後述されていく)、生活描写のための食事シーンが淡々と描かれている。暮らすということは食べることであり、食べるということは生きるということでもあるからだ。

主人公の朝が食事を作り、後見人の槙生は小説執筆に没頭する。

朝は、そんな槙生の姿を「違う国に行っている」と表し、食事の時に「現実」に戻ってくるといった「違う国」を行き来している様子が見て取れる。ここで、少女小説家という自立する女性として、また「違う国」を取り仕切る女王として槙生が描かれ、子犬のような姪としての朝がそっと側に立っている。

二人の同居生活における風景のバランスの一部が垣間見える。

なんか ちがう国?

槙生ちゃん 仕事入り込んでいるとき ちがう国に いるもん

第1話では朝が高校三年生であり、物語は2話以降からは中学3年生へと時系列が戻る構成になっている。作中の二人のイマの距離感を冒頭に描き、二人が出会った季節に時計の針を戻すことで、どのように「他者性」を掴み、バランスを取っていったのかという時間と精神的空間を詰めるアプローチの物語だろう。

槙生ちゃんの

叩くパソコンのキーボードの音

たまに迷うように止まって たまに殺すようにたぶん 消去を連打する

紙をめくる音と 深いため息

おざなりに消された電気と あけっぱなしのカーテンから入る 遠くのコンビニの明るさ 枕元の本の山の隙間で眠る

わたしの好きな夜

ちがう国の女王の 王座のかたすみで眠る

 このモノローグに象徴されているように、朝が「好きな夜」を獲得していくまでの物語であり、違う国の女王である槙生との生活、思いがけないキッカケから獲得した他者性を取り込んでいき、「イエ」を喪失した朝が「イエ」=違う国で「好きな夜」を過ごすまでなのか、それ以降の展開があるのかは現時点では分からないが、第1話の段階では二人の関係性は見え難い。

それは1巻を通して見ることで、冒頭を飾った1話の何気なさに立ち返っていく構成を取っているからであり、そんな「当たり前」が「何気ない当たり前になっていく」までを描く丁寧な意思が窺い知れるようだ。

しかし便宜上、「あたりまえ」という言葉を用いたが、「あたりまえ」や「普通」への距離を大事に扱う二人の関係性を中心に描いているので、この言葉は適当ではないと考えられるし、第2話で槙生は朝に対して「あなたを踏みにじらない」と言ったように、「あたりまえ」ではないことが「あたりまえ」になっていくのも、また「あたりまえ」によって「あたりまえ」ではないことが弾かれていくことも「あたりまえ」という価値観に集約していいものではなく、また蹂躙していいものでもなく、それは槙生だからこその寄り添える優しさであり、「盥」なのだと考えるためには安易に「あたりまえ」になっていくまでの物語としてのズレからの回復、としていいものか悩ましい限りだが、どうしても「あたりまえ」という言葉を使用せざるを得ないことを容赦していただきたい。

2話以降は朝が中学3年生。

槙生は姉へのコンプレックスがあり、そんな姉、つまり朝の母の死によって二人は邂逅する。この時点での二人の不器用な距離感と、あまりにも突然の出来事に身体と心が追い付いていない様子が描かれている。

朝は自分が悲しいのかも分からないといった分かり易いショックが無いことによる混乱が渦巻いており、そんな足場が揺らいでいる朝に、槙生は日記を付け始めるといいとアドバイスを送った。

この先 誰が あなたに 何を言って

……誰が 何を 言わなかったか

あなたが 今…… 何を感じて 何を感じないのか

たとえ二度と開かなくても いつか悲しくなったとき それがあなたの灯台になる

槙生のセリフにある「灯台」は居場所を示す光であり、日記として記録を残すことでの意味は、現在足場が無い朝にとって希望になるかもしれないという思いやりだと考えられる。後述の「砂漠」とは対応関係になっている。

次のページでは、朝にとっては両親の唐突な死によって、親戚をたらい回しされるかもしれない親戚同士の会話が繰り広げられる。それを聞き流す朝と、噂話をする大人たちの構図。ここでは親戚の大人たちが完全にモブとして描かれており、辛うじて人間と認識できる造形であることに、このシーンに込められたヤマシタトモコの朝への優しさと悪意が見える。

わたしは

あなたの母親が 心底嫌いだった

死んでなお憎む気持ちが 消えないことにも うんざりしている

だから

あなたと彼女が 血が繋がって いようといまいと

通りすがりの子供に 思う程度にも

あなたに思い入れる こともできない

でも

あなたは

15歳の子供は

こんな醜悪な場に ふさわしくない 少なくともわたしは それを知っている

もっと美しいものを 受けるに値する 

15歳の少女への言葉を送る少女小説家としての槙生。

世界に受け入れていいはずの幼気な15歳の少女が、美しいものを享受する資格を有するはずの純潔な少女が、「大人」たちの勝手な都合で蹂躙される様子へのカウンターとして描かれた世界=明確な他者でもある槙生からの言葉はとても清く、美しい。

それに対して自身がたらい回しされている言葉の暴力を受け流すことで平静を装っていた朝が、これから帰る場所を自ら求めたシーンへと続く。

たらいは「盥」と書くが、槙生が「臼に水を入れて下に皿を敷くと書く」と朝に教えるシーンでは、自身が受け皿となる槙生の宣言でもあり、臼の中の水は朝であるというメタファーにもなっている。

しかし啖呵を切ったのはいいものの、一日経った後では人見知りが発動してしまう槙生。一人の城を築いていた槙生の生活範囲に、完全な他者でもある朝が紛れ込むことによって奇妙な同居生活が始まる。

朝にとっても大きな変化でもあるが、槙生にとっても変化であり、主人公を朝という単体の目線で読んでいくと、その感触はハマり切らない印象を持つ。この『違国日記』は朝と槙生のダブル主人公だと捉えると、第4話以降がスムーズに消化出来るようになっており、真摯でありながら不器用な槙生と、素直に孤独を抱える朝といった完全な他者同士による相互作用の観察「日記」なのだろう。

第4話で奈々は槙生に言う。

…きみさ 人生 かわるね

エポックだ

朝にとっての変化と、槙生にとっての変化。

決して交わらなかった他者が、イマ混在することでケミストリーとしてどのように紡がれていくのか。

二人で本当に暮らしていくことになることになったが、センシティブな距離感があり、とても初々しい。

槙生から日記を書くといいと言われた朝が、ノートを貰って(ノートのタイトルは「LIFE」)いざ書き始めようとするが、上手く書けないシーンがある。

日記には情報の整理と事実の列挙による感情の送り出し方が一つにあり、それが結果としてイニシエーションとなるが、依然として麻痺している状態の朝はまだ具体的な悲しみも襲って来ず、砂漠に放り出された感覚だとして描かれている。砂漠のモチーフはサン=テグジュぺリの著作に表れているように不安や足場の不確かさの象徴だろう。

 

人間の土地 (新潮文庫)

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星の王子さま (新潮文庫)

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日記が書けない朝。

それは砂漠にいるから。

先おとといとイマでは確実に時間と精神的な分断とがあり、心の不安定さは「イエ」の空っぽさ、つまり家族の不在に起因する孤独でもある。

まだ悲しくない

マヒしているのか

私が少しおかしいのか

わあわあ悲しむのは

ドラマの中だけなのか

わからない

でもお父さんも お母さんも もういない

いないんだーと思うと 砂漠のまん中に 放り出された ような感じで ぞわーっとする

みぞおちのところが ジェットコースターで急に 落とされたときみたい

大人にもそんな 砂漠はあるんだろうか 

15歳で放り出された砂漠という孤独とどう向き合っていくのか。

家族の喪失を、槙生との同居で補填していく疑似家族的物語になっていくのは第1話で示された二人の現在の距離感が一つのアンサーだと思われるが、所謂「大人らしくない」槙生が一般論としての「大人」のように朝を導いていくとは別として、「違う国」だからこその補完関係、相互作用の緻密な関係性になっていくのが描かれる予感がこの作品にはある。

朝にとって書けない日記を書いていくことでしか見えない景色があり、それは砂漠の中での「灯台」への道しるべにもなっていく行為なのだろう。感じたことを認めていくことは、孤独を迎え入れていくための砂漠への足跡になる。

日記は

今 書きたいことを書けばいい

書きたくないことは書かなくていい

ほんとうのことを書く必要もない

 …なんか

なんか書こうと思ったんだけど…

なんか

ぽつーん

ぽかーん

と しちゃって 何を書きたかったのか……

…うん

……わかるよ

「ぽつーん」は

きっと「孤独」だね

 砂漠の中で生きていくには、槙生のようにテントを張ることで飼い慣らす大人もいることを知る朝。その感覚は朝からすれば「へんな人」であり、今まで自分自身が体験してこなかった「ぽつーん」は喪失による孤独であることを、日記を書けないという事実が感情を前景化させたようでもある。

その孤独であることを共に理解しようとした槙生は、朝の周りの「大人」には居なかった人種であり、朝にとって大人は「親」と「先生」であったが、 槙生や奈々は大人らしくない大人という未知なる存在。

奈々と槙生の遣り取りをみて、朝は大人も「友だちしている」ところを初めて見たかのようなリアクションをする。また、槙生の見たことのない笑顔も同時に見て、槙生と自分の関係性は「友だち」ではないことも認識する朝。それは同時に二人の関係性に名前はあるのかという問いを含み、朝は何かしらのモヤモヤした気分を抱える。

血のつながりもない。

絶対的な足場がない朝にとっての砂漠の中で、槙生との関係性は何なのだろうかという話に今後なっていくのだろうか。

その関係性に名前はあるのだろうか。

河合隼雄『家族関係を考える』に「永遠の同伴者」という記述がある。

家族関係を考える (講談社現代新書)

家族関係を考える (講談社現代新書)

 

アイデンティティと言えば、われわれ日本人は「イエ」の永続性の中にそれを見出してきた、ということができる。

 河合によれば、日本人は「イエ」の中に「永遠の相」を求め、永遠の同伴者としての祖霊を大切にしてきた。

しかし現代の日本人はイエや祖霊を否定しようとした中で、代わりにイエや祖霊以外に何を持つことが出来るのだろうかと不安に気付きはじめた人々は、もう一度立ち返るように頼ろうとする心理的作用が働いているとのことで、家族にまつわる通過儀礼がその一環として顕在化しており、物質的豊饒さに反比例するかのように精神的貧困があり、どうしようもない不安の拡大がモノの豊かさで埋まり切らない世界になっていると書かれている。

これからの家族は、その成員の各々にふさわしい永遠の同伴者を見出すことに、互いの協調と、時には争いをも辞さない家族となるべきだろう。

 砂漠に放り出されてしまった朝は、自身にとっての「永遠の同伴者」を見出していく過程にあるのだろう。それは唐突な「イエ」の不安定さと分断から生じた槙生との疑似的「イエ」=「違う国」による生活が、「永遠の同伴者」を見付けていくための足掛かりになるのかどうか。

例えば、細田守の『未来のミライ』は「血」のつながりが肯定的に描かれた。

その様は信奉的と言っても過言ではないだろう。

作品への評価は一先ず措いといて、ビルドゥングス・ロマンのフレームの中での肯定的に紡いできた細田守という作家性の集大成として『未来のミライ』は存在感を発揮していると考えられるし、『サマーウォーズ』以降の他者性を血縁関係の強度に頼って描いてきた作品群へのアンサーとして『未来のミライ』は捉えられるに違いない。

この作品では主人公の家の中庭に植えられている樹木が、比喩でありながらファミリーツリーのインデックスとしてそのまま登場し(サイバースペース的な描き方は細田守のこれまでのキャリアから必然的であるが)、家族の歴史観と日常の蓄積によってイマ・ココに至るという、主人公が本来は認知できない事実と小さく確かな先人たちの想いが、血縁というデータベース化していることをファンタジーとして象徴化した。

この血を取り巻くインデックス的な描写は、主人公とその家族が持つ固有の「永遠の同伴者」であり、その家族観は恐ろしいほどの絶対性と祖霊への信奉への回帰だと考えられる。

しかし対照的に、『違国日記』では朝と槙生の間に固有の絶対的な物差しは存在しない。血のつながりが無い二人にとっては、河合のいう「永遠の同伴者」を見出すための取っ掛りの一つでもあった「血」が欠落している。

それ故に朝と槙生の二人が抱える各々の不安や孤独を癒す「永遠の同伴者」は如何に準備されていくのだろうか。

物語としては二人の「名前が無い関係性」に没入していきながら、河合が記したように各々がふさわしい、それぞれの「永遠の同伴者」を見出していくことになっていくのだろう。

血に頼らない他者性の強度を見出していくのが『違国日記』の面白さであるからだ。

 

第4話のラストで「圧」に弱いと告白する槙生。

それに対して笑いながら朝は母の言葉を引用する。

「こんなあたりまえのこともできないの?」と。 

朝にとって「圧」は母との思い出の笑い話であるが、槙生にとっては姉へのコンプレックスのキッカケの一つである。あたりまえではない、普通からはみ出た槙生にとってのコンプレックスであり、その普通の同調圧力を強いてきた姉の肖像=母が、朝との温度差として表れている。

 

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橋本治『いま私たちが考えるべきこと』で言及されているように「個性的」は「一般的」に傷が付いたものである。

それは「普通」からはみ出たものであり、「個性的」を飾ってもアブノーマルさはいずれ和らぎ、群体としての「普通」に昇華されていく。橋本によれば「個性的」の先は「没個性的」であって、「個性的」は傷であるから良いものではないとする理解への距離というものは、必然的に「普通」や「一般的」への憧憬や圧力といった傷を抱えているからこその孤独という話に接近していく。

この意味は本作の槙生に通じるものであり、その対比としての象徴が姉になるだろう。

あたりまえ、普通への強要はハミ出た者たちへの同調圧力になってしまう。そういう意味で「個性的」になりたいくない心理と、実際的には「個性的」にラベリングされて映ってしまうことへのギャップが生じ、不安による生きづらさを増大させていく。

朝は「普通」の「イエ」から外れた現状に居て、「普通」からはみ出てしまったが故の孤独=イエの喪失に伴う砂漠化に覆われてしまっている。その孤独とどう迎い入れていくのかは、同じように孤独を抱えている「普通」や「あたりまえ」からはみ出た槙生だからこその寄り添い方があり、奇妙な同居生活を精神的に支えていくことだろう。

孤独を理解することは、同じく孤独を知る者でしかない。

朝にとっての槙生であり、同時に槙生にとって朝という他者はどのように変化を彩っていくのか。

孤独であることこそが、不器用な祈りになっていく。

そんな優しい「違う国」を往来する物語に期待したい。

いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫)

いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫)