フトボル男

サッカー、フットサル、読書、冗談。

伊坂幸太郎『SOSの猿』感想 伊坂幸太郎が伊坂幸太郎を実験した

 

SOSの猿 (中公文庫)

SOSの猿 (中公文庫)

 

 

正義の話である。

徹底的な善悪を管理するために組織的構造へ展開したものが、監視社会的ディストピア小説になるだろう。ジョージ・オーウェル1984年』、伊坂幸太郎でいうと『ゴールデンスランバー』、『モダンタイムス』、『火星に住むつもりかい?』になる。

村上春樹エルサレム受賞スピーチ | 書き起こし.com

 

壁と卵 (内田樹の研究室)

彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。

しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。

経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。

そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。

それが「本態的に弱い」ということである。

村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。

 

『SOSの猿』は、壁側(『火星に住むつもりかい?』まで)を構築する以前の原理として「正義の在り方」について問う。

「風吹けば桶屋が儲かる」のように因果関係の線引きが価値基準となるべく、どこに原因の起点があるかどうか。どこまで遡及するべきか。時間や因果には不可逆性があるために、根源的な善悪を明確にすることで加害行為とn次被害(損害)を区別していく。

事実的な因果関係を据えると無制限に広がってしまうので、ある程度制限する相当因果関係が定説であるが、物語としてのフレームを考えると相当因果関係に必然的に落ち着く。事実的因果関係を採るならば物語の風呂敷が畳みきることが出来なくなってしまう。これは伏線回収作家の伊坂幸太郎としてのジレンマに繋がっていく。

ゴールデンスランバー』以降、つまり本作までには『モダンタイムス』、『あるキング』といった前フリがあり、伊坂幸太郎が全てを構成しながらも意図的に余白を残す方向にシフトした。伊坂幸太郎のエンタメ小説の気持ち良さを期待すると、それはまさに脱力的構造。圧倒的伏線回収の連鎖爆発ではない。

肩透かしならぬ「型スカシ」といったところか。

しかし、この「型スカシ」が本作の重要なエッセンスになっている。

伊坂幸太郎という型から「型破り」への道しるべである。精緻なデッサンが描けるからこそピカソは型を破り、論理があった。 

例えばポストモダンである。

ポストモダンとは型をズラした構造であった。その影響からポストモダン建築や思想は作家至上主義へ集束していく傾向があった。

diamond.jp

 

カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるかを考えた。どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっている何らかの型(概念)にあてはめてそれを理解しているというわけだ。/

人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にあてはめて、主体的にまとめ上げる。一八世紀の哲学者カントはそのように考えた。 國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

建築学モダニズムの段階で、共有されていた物語の喪失=受け手のリテラシーの限界といった袋小路へ接近していった。それ以降は袋小路の枝分かれ、カルチャーの細分化が発生して、エンタメとしての中心が無い状態に陥ったのが現代といえる。中心が無いドーナツそのものだ。

「ポピュラーカルチャー論」講義-時代意識の社会学―

「ポピュラーカルチャー論」講義-時代意識の社会学―

 

 

それ以降の傾向とする作家至上主義、つまり商業システムに組み込まれている作家への期待値から考える「作品と作家」との距離は記号論的で、消費社会論的でもある。

初期の伊坂幸太郎が書いた『オーデュボンの祈り』、『ラッシュライフ』、『陽気なギャングが地球を回す』、『重力ピエロ』、『アヒルと鴨のコインロッカー』などが伊坂幸太郎の作家性(例えば洒脱な圧倒的連鎖爆発)を形成して流通された。それから共有が難しくなった物語の細分化によって浮き彫りになった受け手のリテラシー能力の欠乏から、作家というコードや神話化は大事なメルクマールとなっていく。

しかし、作家至上主義へのカウンターとして、言葉の復権や再定義、より大きなものを直接的に大きく語るべき時代に移り変わっていく中で、このように作家の作品群を羅列することで書くパラドックスがあるわけだ。

また、成り上がり革命的構造、反体制側が体制側に回った時に壊すものが無くなったような空回りは、それ以後のセルフリメイク/パロディに終始するしかない。『エヴァ』や麻耶雄嵩などの(サブ)カルチャーが陥り易い罠のように、同人誌化=キャラで動かすことになり、世界観そのものは矮小化されてしまう。

『SOSの猿』は作家至上主義へのアクションとして、原理のパロディから破壊していく構造となっている。

伊坂幸太郎自身のメタ小説である。

つまり物語的御都合主義へのカウンターとなっており、作家伊坂幸太郎伊坂幸太郎の作品を分析して批評した作品だ。だからこそ、ファンへのサービスよりも伊坂幸太郎自身へのサービス満載と言えようか。

ミステリ的構造や作品の遊び(余白)からリアリティを下敷きにしてズラして振り戻す剛腕さは伊坂幸太郎らしいし、それが軽やかであることは間違いない。

伊坂幸太郎の作家性が持つ「重力という幻想とリアリティ」を実験的に扱った『SOSの猿』は、避けては通れないメルクマールである。 

初期の『オーデュボンの祈り』、『重力ピエロ』、『アヒルと鴨のコインロッカー』などは、「予定説」や社会的弱者=マイノリティをジャポニズムを排さずに欧米の宗教的価値観や音楽性で和魂洋才として型取り、「虚構」の力によって救済することが描かれた。

『重力ピエロ』のように血や遺伝子から「自分探し」に至るのはゼロ年代セカイ系らしさが溢れており、能動態/受動態から「外」や「家族=共同体」と「隣人愛」や「善意」を結びつけた。

『SOSの猿』の主人公=探偵役は、混沌に秩序を与えようとするエクソシスト兼カウンセリング。エクソシストなんて大それたエキゾチックさを持ち出している。

「父の不在」が書かれ、(不在の父)親の愛を肥大化した母性で庇護する女性から依頼を受けるところから物語は始まる。自分の部屋という殻に閉じこもる引きこもり青年の存在が物語の基盤となる。

果たして暴力は一概に「悪」といえるのだろうか?

暴力の肯定と否定を渦巻くように、殻に閉じこもる青年の親への複合的感情と性欲を繋ぐ「エディプス期」を描くことをスカし、作中で「フロイト」よりも「ユング」であることを宣言する明らかな態度。

ユング心理学の特徴:ユングで学ぶ心理学入門

個性化

ユングは、自らの夢や幻像の中の体験を通して、自身のこころは「個性化過程」を歩んでいるという表現をしました。 この個性化とは、価値判断や感情的な絡まりというような「自分の思考からの離脱」を意味しています。自分自身の本来のいのち、また客観性に到達するためには、感情の投射を棄て去ることが大切で、あるがままの思考の流れにまかせることによって客観的認識に到達できるのだとユングは考えています。

人が個性化過程を歩む時、誤りや失敗は必ず起こるのが常なのです。そして在るがままに肯定することが近道なのです。自己の統合への道程では失敗にも陥らず、危険にも遭遇しないとう保証はないので、確実に安全な道を歩くという選択をしたとき、人は死んでいるのと同じだとユングは述べています。

 

個性化過程での葛藤・対立

ひとは、深層にある集合的無意識が救済されて、人格に統合されるに至る個性化過程を進むとき、自己の意識は耐え難いほどの葛藤や、味わったものにしか理解しえないような心理的な窮境を通過するそうです。

この個性化過程の段階を経て体験したことは、人間にとってほとんど言語に置き換えることが不可能だと感じるほどに表現困難であり、話す気にならないような性質を持っている類のものです。 

ユングはそれを夢や空想に現れるイメージ象徴として捉えました。また葛藤や対立を自己の認識に浮上させてその意味を考えることは、自己意識の安心を得るために大切な作業だと考えていました。

主観的、客観的な葛藤の救済として許容されるべき「なんとなくなイメージ」が、作中では不揃いで曖昧な整合性のある予知夢として提供される。このブサイクな偶然性は、必然的に纏め上げる伊坂幸太郎的物語の御都合に対するカウンターとなるわけであるから、物語としてズラすことが欠かせない。

「リアリティとファンタジー」を掲げることでエンタメ小説の枠組み=フレームの限界があり、作家伊坂幸太郎へのニーズがビジネスとしてあり、具体的なイメージやニーズをズラしてスカす実験をすることで、伊坂幸太郎が自身の天井を引き上げる作業を行おうとしたのが本作になる。

「リアリティとファンタジー」や「ニーズとスカシ」のように二項対立で語ることで議題の分散化が行われてしまう危険性がありながらも、二項対立として掲げるから当然論じることができるジレンマがあるように。

ドーナツの穴のように中心がないまま記号的に配置された細分化に対して、大きな枠組みでエンタメを語るべき空気を醸成するための一歩ではないだろうか。

だからこそ『SOSの猿』を語るのは難しい。

伊坂幸太郎は「他者性」や「隣人愛」と同時に人間の無力感、暴力性、悲劇性から逃避することはない。そこからの一歩を描くためには原因が必要となる。そのための因果関係の話だ。

『SOSの猿』はユングであるが、フロイトの原光景のように本作では心象風景が「抑圧」をイメージ化し、感情の発露へのプロセスを合間にスカしながら書かれている。

伊坂幸太郎の読者が期待する伊坂幸太郎ではないだろう。

しかし、既存の殻を破るのに必要な伊坂幸太郎の実験が『SOSの猿』だったと思う。

必読ではないが、大事な一冊である。

藤井太洋『オービタル・クラウド』読書感想

 

 

久しぶりにSFを読んだ。

ミステリが主食な私は、サイバーパンク系は今まで何度か手にしたことがある程度で、SFは門外漢。Twitter上で遣り取りさせて戴いたSFファンの方にオススメを訊いたら、本書が挙がったので即座に読破。

楽しかった。ページを捲る手が止まらなかった。

正直、作中の天体の動きに纏わる細かい数字とかは全く分からないが、国際的スパイ巨編!アクションあり、ペーソスあり、ユーモアあり。

まさに映画化案件だと思う。ハリウッドでの映画化まで妄想した。『ゼロ・グラビティ』くらいの映像スケールで。

物語の根幹は技術屋の叫び。現場ならではの苦悩を描いたニヒリズムからの発展を主としたヒロイズムそのもの。一先ず主観的な善悪は置いといて。

才能、資源、コストの掛け方、要は適材適所。才能の使い方の話。

得てして人間は類い稀な才能に呼応するかのように動きを起こす。そこで楽々と壁を乗り越える者、乗り越えられない者の違いが生じていく。その辺の残酷さ、虚無さなどをリアリズム的な描写を青春グラフィティとして落とし込んだのが米澤穂信の『クドリャフカの順番』であったりするが、本書はよりドラスティックに描かれている。そこは高校生と大人の違いだろうか。あと、ビジネスという形態や抱えているスケールの違いも。

どれだけ才能があっても、ある一定の集団における理解と共感が必要になる。その点で「孤独な人」と「チーム」の対比は熱かった。素晴らしかった。

先に例として出した『クドリャフカの順番』において伊原摩耶花と河内先輩「名作論」を闘わせるシーンがある。才能の閃きは主観によるものとか、面白さを理解できる環境・状況が必要なのかどうか。

伊原は圧倒的であれば誰にでも通じる!と主張します。それが作中でキーアイテムとなる『夕べには骸に』と『十文字事件』に繋がっていくわけであるが。

詳しくはこちらを参照してください。 

junkheadnayatura.blog24.fc2.com

 

とんとん拍子に事を運ばせるために主人公のスペックが都合よすぎるきらいがあるが、現場一筋のアマチュアが世界の名だたるプロを凌駕し、抜擢されたサクセスストーリーとしてみれば全然アリ。

それこそ作中にもある『グレート・リープ』なわけで、埋もれていた原石が輝く瞬間、承認される場面ってワクワクするでしょ。スポーツ漫画とかで、弱小高校に所属している主人公が努力を対価に強豪をバタバタとなぎ倒していく。スペックを埋めるための創意工夫。弱者なりの戦法や個としてのオリジナリティの発揮。そしてライバルたちに認知されていく。

ベタだけど、好きだ。みんな好きだからベタになる。

本書では同じような境遇・ステージが近かった彼らが最終的には道を違えた構図がとてもシニカルで、少しのボタンの掛け違いから悲劇性とは生まれるものだと。

他人からの許容と承認は普遍的です。それこそSNSやブログとかの「バズる」や「いいね」なんかはその欲求をインスタントに可視化したものとも言える。ある程度の承認にはライブ感と環境理解が必要ですが。

現場の上に当たる人たちの原石を眠らせない使命感や命の使い方。スパイもので興奮しながらもしみじみさせてくれたり。

基本的に作中において嫌な人物が居なかった気がする。

一応、善悪として描くために敵は設定されているが、敵役の理念を書き込んでいるのも大きい。作劇における駒扱いではない部分がしっかり書き込めているので、『機動戦士ガンダム』や『HUNTER×HUNTER』を代表とする「善悪の二元論からの解放」に通じていると思うくらいの快作だった。

率直に楽しかった。

伊坂幸太郎『死神の精度』感想 死神が観た人間のどうしようもない活力

 

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

 

なぜ、伊坂幸太郎は死神を書いたのだろうか。

死神とは何のメタファーなのか。

私は作品に触れる際に「動機」を強く求める。

人が創り上げた作品に対して「なぜ書いたのか」、「書かざるを得なかった理由」は興味の優先順位として高い。

「意図」しか散りばめられていない作品を分析して解体、消化することは作家性への言及に繋がると思う。

 伊坂幸太郎が描く重力

死神が主人公であるから必然的に死の匂いが付き纏う作品であるが、死生観による死の観念性自体は薄い。観念的に追い掛けてくる「死」への暗い屈託よりも、生の実感と強かさが静かに映えている。

死神を配することで死神から人間を観る。

観察者としての死神から、逆説的にどうしようもないほどの人間を描いている。

鍵となるのは死神目線である。死神の人間同士の会話で演出されないであろう「調子の外れた」ズレによるクールさとユーモアが、伊坂節としてマッチしている。

伊坂幸太郎作品において、妙に博覧強記で浮世離れした引用癖のある仙人的人物が目立つわけであるが、人外の死神を据えることで小説という虚構の中に、軸として大きなウソを組み込むことで、作品自体の虚構の中にあるリアリティラインの強度と掴み切れない死神の存在感を並行的に保っていると思う。

死神が発する言葉の裏側の無さ、つまり人間特有の皮肉が潜んでいない気持ち良さ。裏側が無いので読み取る必要のない安心感が、調子の外れたコミュニケーションでもスムーズに成立させている。

強烈な死生観があるわけでもなければ、厭世観でもない。世を憂う心積もりの鬱屈ではないし、虚無主義的でもない。

ニーチェのように「超人」として克服すればいいという提言もなく、根底にあるのは伊坂幸太郎作品に通じる「人間の無力感」と「冥々的で確かなヒューマニズム」としての軽やかさである。

例えば米澤穂信は青春ミステリという枠組みの作品において、10代特有の「全能感へのカウンター」と「敗北」を描いた。

futbolman.hatenablog.com

伊坂幸太郎は年齢関係なく「人間ってこんなもんだ」と。仕方ないかもしれないが、それでも頑張れるかどうかという一歩を刻んだ。

努力は滅茶苦茶大事である。しかし努力をしても駄目な時もある。「持つ者と持たざる者」という確かに隔絶された距離があると書いたのは米澤穂信だ。

一方で、伊坂幸太郎は(特に初期の)作品群に通じる欧米的価値観(言葉の引用、音楽の使い方)から強烈に社会的弱者=マイノリティを描きながら「予定説」が導入されている。村上春樹チルドレンと称されることもある伊坂幸太郎だが、村上春樹ほどジャポニズムを排して欧米的なものを強く押し出しているわけでもなく、和魂洋才としての組み方。

メタ視点で作品を観てみれば、伊坂幸太郎の物語的御都合主義そのものが予定説である。そこが影響を受けたとされる島田荘司的でもあるし、『ラッシュライフ』、『ゴールデンスランバー』、『陽気なギャングが地球を回す』、『鴨とアヒルのコインロッカー』などの伊坂幸太郎のスタイリッシュで剛腕的技術を指す。

また、予定説としては『オーデュボンの祈り』、『あるキング』、『終末のフール』、遺伝子、血の繋がり、運命という重力への抵抗が『重力ピエロ』になるだろう。

閉じるべきところに閉じていく快感は、小説としての枠組み=フレームの広さと比例していく。視野に入っていた情報が、思いもよらぬ方向から広げた風呂敷が畳まれていく気持ち良さはドミノ倒しだ。

 都合であり、予定。

ドミノ (角川文庫)

ドミノ (角川文庫)

 

 

人は生を受けた時から、死へ刻々と近付いている。

「死ぬものは皆、生きている間に目的を持ち、だからこそあくせくして命をすり減らす」  フランツ・カフカ

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのか?あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのか」 チェ・ゲバラ

「死は我々の友である。死を受け入れる用意の出来ていないものは、何かを心得ているとはいえない」 フランシス・ベーコン

 

死神に憑かれた人々は現実として「死」を受け容れていない。

まだ人生は続くのだろうという根拠もない明日への確実性を信じている。悪あがきというよりも現実感がないだけだ。誰もが明日を欲して、誰しも明日が来ないとは思っていない。なんとなく当たり前の今日を生きて、明日を迎える準備をしている。

余命幾ばくかのお涙頂戴人間ドラマでもなく、涙目で聞き入ってくれる説教でも自分語りでもない。

死神は神だが、偉そうではない。

ただ、そこに連れ添って人間を観察しているだけだ。死神の人間への知的好奇心が強いわけでもなく、興味があるのは音楽を聴くことだけ。

 

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

 

 

「歌はいいね。歌は心を潤してくれる。リリンが生み出した文化の極みだよ。そう感じないか?碇シンジ君」 『新世紀エヴァンゲリオン渚カヲル

CDショップで音楽を視聴する死神は、人間たちの日常に当たり前に住み着いている。そこに不自然さはなく、音楽を通して芳醇になっていく心身は死神と人間の境界線を曖昧にする。

死に近付いている人間たちは、死神を通してサラッと触れられる。重々しい雰囲気よりも、伊坂幸太郎特有の軽い語り口、一方的に突き放すようなドライでもなく、過度に情愛を示すウェットでもない。意図的に調子が外れながらウィットに富んだ会話が心地いい。そのコミュニケーションが生み出すものは確実に「今」を生きている者たちだ。

死神は人間の「内側」に属するわけでもなく、「中庸」を気取るわけでもない。あくまでも「外部」として出力する存在である。

それは、本作が死神の一人称で書かれていることに繋がっている。これが死神を三人称による神の視点を配したならば、「機械仕掛けの神」からの解放は難しく、伊坂幸太郎をメタ視点でみると文章構造による「予定説」の補強が成されてしまうからだ。

伊坂幸太郎は、御都合主義を自覚しながらも神様ととれる死神を一人称として配置することで、どうしようもないほどに逆説的に人間の物語をクールに描いている。よく分からないが興味深いクールな死神の裏表のなさが、伊坂幸太郎作品の仙人感をフラットに作って、登場人物だけではなく読者によってはクサいと敬遠している層すらも巻き込んで惹きつけるスパイスになっているのではないだろうか。

この魅力は死神の一人称で「外部」として書かれているこそである。

作中の彼らには「因果応報」や「天罰」ではなく、ただただ「死」のカウントダウンが切羽詰まっている状況でしかない。彼らは当然それを知り得ないので、現実感が無いわけであるが、死神に憑かれたからとしか言いようがない。

これを虚無として徹底的に厭世的に書かないのは伊坂幸太郎ならではだと思う。

死神が「今」にコミットしたからこそ(『家庭教師ヒットマンREBORN!!』死ぬ気弾ではないが)人間たちが行動して「動かないはずのドラマ」が回転した。

死への悲哀や恐怖よりも、死神に憑かれた人間たちのどうしようもないバイタリティである。

それを説教臭く書かない伊坂幸太郎の軽やかさ。

気持ちいい小説だ。

ちなみにマイベストは「吹雪に死神」。

〝閉ざされた雪の山荘〟といった本格のガジェットに死神という異物を差し込むことで、パロディとしての滑稽味と奇妙な味付けが奏功していた。

日本推理作家協会賞の短編部門を受賞した表題作の「死神の精度」よりも良いと思うが、「吹雪に死神」は〝連作〟を意識してナンボであるから、単独で成り立つかどうかは怪しいかもしれない。

2015年から2016年に書いたテクストをブログに移した。

この際だから改訂作業をしてみようと試みたが、殆ど手を付けないまま組み込んだ。

ぶち込んだ文書は大体が『読書』と『memo』へ。

2016-01-01から1年間の記事一覧 - フトボル男

これで空白だった2016年のログが作為的に埋まったわけである。こうやって捏造はされていくのだ。

昔に書いたものを整理していたら、色々と発見があった。

例えば2012年のロンドン五輪の日本代表マッチレポ、恐らく2014年までに断続的に書いていたサッカーメモを発掘した。

悶死。

深淵に噛付かれた気分だ。

心機一転するしか立ち直れなかったので、反動であれこれ動いた。

 

ジブリパーク2022年度開業へ : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

全く旅行に関心がなく、どこか遠い街や食べ物に思いを馳せることなんて殆ど無い私でも、これはアガる。

初めて「映画監督」を意識したのは宮崎駿だから仕方ない。

ちなみに、旅行に興味がない私が心の底から行ってみたかったのは1970年大阪万博

まだ呼吸すらしていなかったけど。

 

 

広告を非表示にする

坂口安吾『桜の森の満開の下』感想 エモいだけで生きられない

 

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

 

 

図書カード:桜の森の満開の下

 

住めば都、郷に入っては郷に従えと言う。

環境への適応が求められ、逃げるのもアリという風潮に釘を刺す。

本作は「田舎から都会へ流れ、夢破れて都会から田舎へ帰ろう」である。まさに『田舎に泊まろう』だ。

女はシティガールでリア充。 

山賊の男は非リア充そのもの。男は強権的で暴力の象徴として肯定されており、唯一のアイデンティティとなっている。

しかし、彼らの出会いから(決してロマンティックなラブコメ描写を経てではなく)強欲で支配的だった男と女のパワーバランスが逆転するのは、価値と支配の転換である。例えて言うと「女王アリと働きアリ」。

ただ、女王アリの女が母性的に描かれているわけでもなく、「強欲な女」として肯定されており、力関係が逆転した男=働きアリが、女のために美容や飯や首を用意してご機嫌を窺う。

女が首で遊ぶのは、現代でいうリカちゃん人形で戯れる子どもそのもの。親に強請る子どものような無邪気さがそのまま表現され、母性としてかけ離れている女の欲望を実現化させる装置として男が奔走しているだけだ。

都会に行った男は、「生の実感」が希薄なことに疑問を抱く。

都市では時間間隔がぼんやりとしてループのように消費され、「退屈」でしかない。 一方で桜のあった田舎では、年月が経つことが直接的に言及されている。

花というものは怖ろしいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中で呟いていました。花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と足音ばかりで、それがひっそりと冷たいそして衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶってると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。/これはおかしいと考えたのです。ひとつ、来年、考えてやろう。そう思いました。今年は考える気がしなかったのです。そして、来年、花が咲いたら、そのとき、じっくり考えようと思いました。毎年そう考えて、もう何十年もたち、今年も亦、来年になったら考えてやろうと思って、又、年が暮れてしまいました。

なぜ、都会と田舎では時間経過が違うのだろうか。

それは約束(目的)の有無である。 

なぜ「退屈」なのか?

男にとって都市での目的がないから。

女に付いてきただけで、男自身の自己実現がない。一般的にいえばキャリアデザインがない。

「田舎からギター1本を抱えて東京でBIGになってやる!」とか「田舎での土着性に嫌気が差し、このままではリア充になれないから上京して都会にコミットすれば人生一発逆転あるんじゃないかと期待する大学生」とかですらない。

 

「意識高い系」の研究 (文春新書)

「意識高い系」の研究 (文春新書)

 

 

「じらさないでおくれ。都が私をよんでいるのだよ」

「それでも約束があるからね」

「お前がかえ。この山奥に約束した誰がいるのさ」

「それは誰もいないけれども、ね。けれども、約束があるのだよ」

「それはマア珍しいことがあるものだねえ。誰もいなくって誰と約束するのだえ」/「桜の花が咲くのだよ」

 

男には都会での野心がないから。

桜や山が男の内的ロマンの象徴で、対比的に都市の空虚さを演出している。

都市は現実の象徴である。 

作中での対比構造は幾重にもなっている。

都と山/女と男/現実(理性)と幻想。

幻想の象徴である桜=男の内的ロマン(ナルシズムの一種)は、ラストのシーンでその桜に集約されていく。

花と虚空の冴えた冷たさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分かりかけてくるのでした。

彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。/すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになってしまいました。そして、その花びらを描き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

 

欲望の分裂としての男と女が、男が女的であるかどうかではなくて、坂口安吾の分裂的な人物像ではないだろうか。

男の肉体に依存する女の精神は強欲的に徹底的に描かれていたが、最終的に男のナルシズムや承認を満たす女として働き、女も男にベタ惚れしていたことが分かる。

男が女に依存していたのが山パートであるに対して、女がおねだりするのが都会パート。依存の逆転構造が都会から田舎に帰る時に「共依存」として帰結していく。

肉体だけではなく精神も結合して、この男と女は情愛的な夫婦的よりも、あくまでも徹頭徹尾男女的である。 

女を通じて男は知る。他者性があるから孤独を感じられる。 

都市から逃げて「退屈」から開放された男は「故郷と他者」を自覚したためである。

「都は退屈なところだなア」と彼はビッコの女に言いました。「お前は山へ帰りたいと思わないか」

「私は都は退屈ではないからね」/「都ではお喋りができるから退屈しないよ。私は山は退屈で嫌いさ」

「お前はお喋りが退屈でないのか」

「あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ」

「俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ」

「お前は喋らないから退屈なのさ」

「そんなことがあるものか。喋ると退屈するから喋らないのだ」

「でも喋ってごらんよ。きっと退屈を忘れるから」

「何を」

「何でも喋りたいことをさ」

「喋りたいことなんかあるものか」

退屈から抜け出した人としてマイノリティな女が居て、彼女は自己完結できる人間であるから孤独ではなかった。

コミュニケーションとは他者性と向き合うことであり、協力型ゲームである。

 

 

退屈から逃げた男には自己顕示欲が無い。現実的な都市には郷愁のロマン(桜の幻想)が無いので、男の実存性が危ういことを示す。

桜とは諸行無常の象徴だ。「サクラチル」は儚さや美そのもの。

桜の花弁のように断片化された男の内的ロマン(よく分からないけど恐いと思っていて…でも気になる存在)は、ビジュアル的に符合していると思う。

そして、孤独を肯定的に描いている。

仕方ないものであると。虚無であるが、救われていると。そういうものであると。

諦観ではないだろう。
応援でもなければ、説教でもない。
現実に押し潰され、他者を失って独りになろうとも、救いとなる拠り所=ロマンがあるという道しるべである。
しかし、ロマンといっても作中の桜のように画一的ではない。

だから、読後は妙なざわめきが止まらない。

分裂が桜の下で集束された後、孤独な桜の木に風が吹き抜けて桜吹雪がひっそりと舞うように。

残酷的でありながらも、私たちは肯定的となる救済=ロマンに心を奪われてしまうのだ。

 

ゼロ年代はエモかった

桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげた団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。

美的感覚への疑問であり、通説に対する思考停止への警句ととれる。

桜はキレイだろ?それだけじゃないよと。美の裏にある恐さである。

私は『モナリザ』が浮かぶ。美人だけど恐い。

思えばゼロ年代は「桜ソング」が多かった。

そして、山田玲司は「ゼロ年代はエモい」と言った。

ケータイ小説が爆発的にヒットし、オタクたち自身が体験できなかった学園モラトリアムな青春的日常と身体性が『涼宮ハルヒの憂鬱』以降の傾向とするならば、機会の喪失の補填が働いたといえる。

もう帰れない/戻れない、あの頃である。

だから日常を繰り返す=ループが組み込まれ、一瞬で過ぎ去る時を永遠のように生きる願いが映像化された。

それが『ハルヒ』の「エンドレスエイト」であるし、細田守版『時をかける少女』である。

 

時をかける少女 [Blu-ray]

時をかける少女 [Blu-ray]

 

 


森山直太朗 - さくら(独唱)


河口恭吾 - 桜


レミオロメン - Sakura(Music Video Short ver.)


コブクロ/桜


桜坂☆福山雅治


いきものがかり SAKURA

 


YUI - CHE.R.RY-short ver.-


宇多田ヒカル - SAKURAドロップス

 

ゼロ年代の桜に纏わるコンテンツはそれだけではない。

 

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

 

 

遠まわりする雛 (角川文庫)

遠まわりする雛 (角川文庫)

 

 注)「遠まわりする雛」は書き下ろし短編。2007年発売。

秒速5センチメートル [Blu-ray]

秒速5センチメートル [Blu-ray]

 

「ねぇ、秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード。秒速5センチメートル

 

始まりがあり、終わりがある。

出会いがあり、別れがある。

一歩を踏み出した季節に桜は咲く。後ろ髪を引かれるように散っていく花弁に思いを馳せる。

だからエモい。

でも、本質的にはエモいだけではない。

郷愁に浸って気持ち良くなっているだけではない。

孤独な時間すらも抱えて生きていくしかないのだ。

ゼロ年代の空気感を殴りつける2010年代にこそ読まれるべき名作。

それが坂口安吾なのかもしれない。

文章ってセンスではなくてスタイル

文章のノリが悪い。

書き続けないと錆びるってのは本当で、構成や要点の掘り出しを付け足しては削るみたいな作業が久しぶりにきつかった。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている12巻』感想「本物」への歩み - フトボル男

『夜、僕らは輪になって歩く』感想 アイデンティティの獲得と喪失 - フトボル男

「テレビの嘘とくだらなさ」と不条理は等号なのか - フトボル男

映画『夜は短し歩けよ乙女』感想 森見登美彦の魔性的な京都を描く難しさ - フトボル男

気合を入れて書いてみたものの、題材の転がし方に対する能力不足と向き合う結果になった。

思ったより出来た安心感、思ったより出来なかった不満足さが同居している奇妙な達成感。一先ず完成させたことに意味があるというか。

しかし、もっと上手く書けたり、書き込み不足による論旨が浅かったりと反省点が目立つ。

特に『夜は短し歩けよ乙女』に関しては書きたいことの2割も出来ていない。本来なら、森見登美彦のエッセイやインタビュー、京都の歴史的価値観や背景、学生運動の掘り起し、湯浅政明作品から紐解く湯浅論も含めて初めて書きたいことが出来るわけだが。

また、テーマに対して一本調子の要素が濃いためか、視点が多角的ではないので、小論そのものに多重構造性がない。

ボリュームはありながらも、なんとなくハリボテ的でもある。

現状はこんなもんか。研鑽しなければ何も上達しない。

 

20歳くらいの時には、あのような作業をブログに書いていた。数年振りにやってみて文章のノリが悪いことに気付いた。

当時は酒を飲みながら、タバコをふかして書くのが日常的であった。

朦朧とした自己陶酔状態に近いぐらんぐらんした頭から生まれる調子の外れた表現、突拍子でありながらもエッジが効いている文が浮かんだ経験があった。

その感覚から繰り出された文章が、変に素面の時に捻り出した文章よりもピタッとハマったも。

でも、これって素面だったり、でなかったりに関わらず、知らず知らずのうちに言い訳めいたものを作り出そうとしている心理であると気付いた。

調子が出るためのおまじないだったとしても、前提の一つとして「手を抜く」ようにして「本気を出すのは恥ずかしいし、ダサい」みたいな感情が根っこにあったのではなかろうか。

単に本気を出して現実と向き合いたくないだけではないだろうか。

本気を出しても出来ない自分を知りたくないだけみたいな。

いつしか恐怖に足が竦んで、ブレーキを踏んでいる自分。保険を作って自分を慰めるように、お守り代わりに自己弁護の用意をしておく狡猾さによって磨かれるのは、不足した技術を埋めるものにはなりえない。

 

FC2ブログ時代、年下のブロガーさんと交流していた。

年齢に似合わない落ち着きのある彼は大人よりも大人らしいブロガーさんでしたが、彼から「皮肉めいた」文章が〝らしい〟と評されたことが忘れられない。

当時の私は、皮肉と嘲笑が練られたような文章を書き殴っていた。世の中と自分に向けて。今よりもハードに。

また、師匠からは「視点の一貫性」を挙げて戴いたことから、さらに調子に乗った文章を書いていた。

「自分を持っている」や「自分にはセンスがある」と勘違いするのは当然で。

必然的とも言えるが、ある日、理不尽な攻撃に晒されたが、そこから書いたもの全部が攻撃性として受け取られるのではないか?と不安が付き纏った。

 

文章のノリが悪いのは、技術的に不足しているのもあるだろう。

しかし、不特定多数に攻撃される恐れから、ギリギリのラインにビビッて踏み止まっている心理が働いているのも否めないかもしれない。

匿名的な攻撃に臆して、八方美人なブログを書く上手さもないし、何よりもそちらに寄り掛かるのは不自然だとも思っている。

不特定多数に良い顔をしたいだけではないのか?

書きたいものを書くためにブログを作ったのに、本来書きたいものを書けなくなっていたら本末転倒ではないかと。

そして、ブログを「公開」する必要性も突き付けられる。

恐いなら閉じればいい話。

記事を書き上げてはネットに落としているのは、何よりも誰かに共感してほしいからだろう。

誰にも見られたくないと思うならば、ネットに公開しないだろう。

宣伝なんかもしないはずである。ひっそりと慎ましく在りたいと思うでしょうし。

 

どれだけ言葉を尽くしても受け手に委ねられる。

建設的に話を進めても、最終的には受け手次第である。

なにか気に食わない部分が局所的にあった場合、反射的に断片的に都合の良い部分だけを切り取って独自に解釈を進めることで、元の言葉の意味が歪曲化して攻撃性を帯びる。

「批評」と「批判」の区別が付かない人はいる。

いくら書き手が真摯な姿勢で綴っても、〝批評家ぶる〟ことだけでも攻撃の対象になることはある。

とある英語の問題集の例文がすごい | blog.ironsite.net

(略)しかし批評の主たる魅力は、批評されているものよりも批評している者の方が偉く見えることである。批評することは極めて容易なので、それはしばしば他のいかなる方法によっても人の興味を引くことが出来ない凡庸な輩の避難所となる。 エドワード・デボノ

 

そして、肯定と否定が渦巻く。

気持ち良くなるために、別にイエスマンだけを囲っていたいわけではない。建設的な意見には耳を傾けたいのは誰しも同じだから。

ただ、真摯な書き手でありたいと願いながらも、読み手にも真摯であって欲しいと思うのは傲慢なのかもしれない。

些か自分の都合や価値観を押し付けていることになるのではないだろうか。意見の多様性を求めながら、多様的価値観を否定していることに繋がるのでは?とも。

意見というよりも姿勢の話ですが、姿勢があるからこそ意見が生まれるのだろう。

結果的に、読者の性質に賛同者ばかりを集うことになって、顔色を窺いながら少しばかりの承認を満たす(承認が悪いわけではない。それをただただ肯定するだけなのも否定するだけのも不自然である*1*2

攻撃に臆するだけではなく、こちらのファクターでも筆先が鈍るのは如何なものか。

 

窮屈さ、息苦しさを嘆きながらも、同調圧力を忌み嫌いながらも、それに同調した人たちとアングラ的なコミュニティに溶け込み、世の中を憂い続ける。

一丁前にルサンチマン気取りで。

自由でありたいと叫ぶものの、結局そこに縛られているみたいな。

でも、自由は限定的な中での判断の尊重のような面を指すものだと思うので、自由に憧れて自縄自縛に陥るのは不自然なことではないだろう。隣の芝生は青く見えるものだ。

窮屈そうに身をかがめても 今じゃ誰もがそうしてる

天井のないエコー・ルームに 誰かが僕を放り込む

君のスピードでもって 同じフレーズを弾いて

冷たい時間に寄りそって

関係性を否定してみても また誰かが君をつつく

そっちの方がまだ救われる 簡単なのさ 夜に飛んでいるカラスみたいに隠れてよう

いつもスープを飲んで テーブルを囲んで

黒沢健一『PALE ALE』

 

 

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

 

 

志村貴子の『放浪息子』において、高槻よしのが「私は好きな服を着るんだ」と誓うシーンがある。

高槻さんは女の子だが、格好いい男の子の服が着たい子。ガーリーなヒラヒラした服やスカートを拒絶する。

ボーイッシュな彼女は、男の子ようになりたいと願うものの、小学生から中学生、そして高校生へと成長するにつれて、身体は意に反して女性らしさを帯びていく。憧れていた男性らしさとはかけ離れていくように。

放浪息子』は中性的な形から生まれる無性別感とトランスジェンダーの一例を描いた作品である。

大局的にはスタイル、つまりは生き方そのものを描いた漫画だと思う。

そのスタイルとの乖離に苦悩し、現実問題として突き付けられるキャラ達。

普通とは違うことを許容されない世界からの強要が巡る。

出る杭は打たれる。

みんなちがって、みんないい。

金子みすゞの詩を教えられても、「個性」を殺すことを求められる。

スタイルを突き通すことで謂れのない誹謗中傷を受けたり、バッシングを受けた人は数多くいた。

日本でそういった騒動の渦中にいた印象的な人の一人として國母和宏氏を挙げたい。

news.yahoo.co.jp

「葬式のときに葬式の格好をしていくように、スノーボードのときにスノーボードの格好をしていっただけ」

スノーボードはライフスタイルであり、もっと言えば、生き様だ。「横乗り系」のスノーボードは、スケートボードやサーフィン同様、滑る姿勢が思想にも影響しているのだろう、カウンターカルチャーだ。反社会的な態度こそが美徳なのだ。だから、バンクーバー五輪の騒動のときも、スノーボード界の人ほど國母のスタイルや言動を支持した。

カルチャーを理解し、己を捧げて体現する姿勢は確固たるスタイルによるもの。
自分という型をカルチャーに溶かす様にすることで、生まれる信念の形がある。
ファッションや音楽などと同じように、文章もスタイルの一つだと思う。
思想や感情が文章に乗り、それはまさに、生き方そのものが表れるというのは大袈裟だろうか。
その文章のノリが悪いというのは「自分らしさ」が揺れているのと同義ではないだろうか。
とりあえず、正直な自分を茶化さないようにありのままを書いてみた。
当分は悩んでみようかと思う。

*1:ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q参照

*2:かといって魔法少女まどか☆マギカのように自意識的な承認を求めずに世界レベルを救済するスケールを言っているわけではない

徹夜本

10代の私は伊坂幸太郎が好きだった。

撃ち抜かれてしまった。

陽気な伊坂幸太郎が世界を回していると思っていた。

今、彼の著作をいくつか読み返している。

そして、徹夜本を思い返した。

 

数多の読書体験の中でも徹夜本という機会は多くない。

読書する頻度が減ったからわけでもなく、寧ろ成年以降、10代の頃よりも読書量は増えた。

ただ、記憶が確かなら10代で読んだもの以来、徹夜本が本当に無い。

読書自体がつまらなくなったわけでもない。いや、読書は質と量が伴ってきた時にこそ真価の1ページに触れられるものである。

読んでいる本が退屈というわけでもない。いや、中高生の時なら興味すら抱くなった本を守備範囲にできたのは年の功である。

徹夜という行為自体が無理になってきたわけでもない。はい。海外サッカーを観るのキツくなってきた。

しかし、徹夜本というものは朝が早かろうが翌日の予定がタイトであろうが関係ない。

「早く寝ないと」と思って灯を消して枕に頭を埋めても、先の展開が気になってそれどころじゃない状態まで持って行ってしまう熱量こそが徹夜本のエッセンスだ。

気付けば外が白んで、鳥が鳴いている。朝焼けが寝不足の眼に刺さる。

罪悪のやっちまった感と征服のやってやった感の同居。

良いものを読んだ時の快感と達成感と満足感。

脳内麻薬だと思う。

この年齢になると、あの燃えるような体験が減ってしまったことに対する郷愁がある。

当面の目標は、徹夜本に出逢うことにした。

そもそも徹夜本は、能動的に迎えに行ってどうにかなるものなのかどうかは別れ道のような気もするが、読書という行為自体がどうしようもないくらいに身体性の無い没入感への能動/受動関係だから仕方ない。

徹夜本と出会えることは人生で有数の幸福の一つだと思う。

バカバカしいくらい没頭して項を捲る手が止まらない感覚。

集中力ではない。

吸引力だ。

あの時、確実に読んでいる者の身体性と精神性は文庫本に吸い込まれて溶けきってしまっている。

どうしようもないのだから仕方ない。

あれから、あの本たちを読み返していない。定期的に読んでいるのは西澤保彦だけだ。当時の自分のセンスとの乖離が恐いから触っていない。

あの時に楽しめていた自分を否定してしまうかもしれないから。

歳を取ったなと思う。

昔、楽しめていた作品を振り返ると、当時は気付かなかったであろう粗雑で歪な要素に目がいく。

ただ、当時の私がそれほど能天気に作品に入れ込めるほどの素直さがあったかは甚だ疑問であるから、あるいは無自覚ではなく、肌感覚的にある程度の雑さを許容していたのかもしれない。

そうなると、それを許せなくなった私は成長したといえるのだろうか。

粗探しに躍起にならずとも、弱い所が分かって許せなくなってしまうのが成長なのだろうか。

どんな作品でも全てを承認して肯定する必要性もないし、必要以上に攻撃的にならなくてもいい。

好きな作品でも悪い所は当然ある。それを許容して盲信してこそファンだと言うなら、私は決してファンにはなれないのだろう。

恐いのはファンからの投石ではない。

夢中になっていた10代の自分を否定してしまうことだ。

勿論、あまりに「思い出の自分」を美化するのも「思い出の自分」を優しく撫でるのも気持ち悪いが、それら客観視している自分を演出して隔絶するのも気味が悪い。

作品に傾倒して飲み込まれた結果が徹夜本である。

今年の目標はほどほどに飲み込まれてみようと思う。

伊坂幸太郎は『オーデュボンの祈り』で以下のように書いた。

「一回しか生きられないんだから、全部を受け入れるしかねえんだ」

また、このようにも。

未来は神様のレシピで決まる

 (私にとってまるで)二階から落ちてきた伊坂幸太郎をもう一度巡るところから始めた。

ちなみに、10代で出会った徹夜本は下記に。

 

依存 (幻冬舎文庫)

依存 (幻冬舎文庫)

 

 

ボトルネック (新潮文庫)

ボトルネック (新潮文庫)

 

 

ゴールデンスランバー (新潮文庫)

ゴールデンスランバー (新潮文庫)

 
八つ墓村 (角川文庫)

八つ墓村 (角川文庫)

 
文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

 
スカイ・クロラ

スカイ・クロラ

 
 
孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 
ダウン・ツ・ヘヴン (中公文庫)

ダウン・ツ・ヘヴン (中公文庫)

 
放課後 (講談社文庫)

放課後 (講談社文庫)

 
本能寺六夜物語 (双葉文庫)

本能寺六夜物語 (双葉文庫)

 

 

広告を非表示にする