おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

今野晴貴『ブラックバイト 学生が危ない』読書感想

 

 

 概要

学生たちを食い潰しているブラックバイトが社会問題化している現状で、全国規模のチェーン店として展開されている「外食業」、「小売業」、「学習塾」が代表的であると書かれている。

世間的に大々的に報道された温野菜のパワハラ事件は、学生という弱い立場を利用された結果、バイト先での職業責任と労働災害パワハラと時間外超過勤務などによって引き起こされ、事件の渦中にいた学生は単位を落とし、テストに出られないといった学生の本分に支障をきたした。

また、ファミリーマートでの案件は、学生が辞めたくても辞められない立場に立たされて、無理矢理にでも辞めると言うと損害賠償請求といった脅迫を受けた。両親からの仕送りはあるにしても、学費は自ら賄っていた本件の学生にとって、アルバイトは学費と就活のための費用を稼ぐための意味合いでダブルワークしていたが、心身ともに支障をきたした際に、コンビニを辞めたいと伝えたところ、「うちを辞めるならもう一つも辞めろ」と言われたこともあったようで、貧困につけ込んで働かせ、従わないならばさらに貧困に叩き落とすという足元を見るやり方を一例として紹介。

その他にも、学習塾のワリに合わない労働対価が、徐々に責任や負担が増大していく負のスパイラルが記されており、学生アルバイト講師が塾の営業の最前線であるから、責任が結果そのままに反映される学習塾の側面やすき家の無茶で過度なワンオペ事例を参考に紹介している。

そもそもブラックバイトという言葉は、中京大学の大内教授によって提唱された。

自身の講義に出席している学生にアンケートを実施したところ、劣悪な学生アルバイトの実態がわかり、実は全国規模でも同様だったことがフェイスブックによる発信から分かった。

これによってブラックバイトが「学生の使い潰し」を引き起こす労働問題、社会問題であることが明確となり、フリーターといった非正規雇用との区別を付けてから、改めてブラックバイトは「学生であることを尊重しないアルバイト」として定義された。

2014年の全国学生アルバイト調査結果から、学生の長時間労働のアルバイトが学業に影響している点、特に深夜勤務の場合にはその影響が色濃い点、バイト先のシフト決定のあり方が学生への配慮を欠いていることから弊害を受けている点、学生の貧困化がアルバイトの長時間労働化に影響している点、多くの学生が不当に扱われている経験があるにも関わらず、問題が解決していない点、労働条件を記載した書面が交付されていない点などが明らかになった。

ブラックバイトの3つの特徴として、学生の生活全体がアルバイトに支配されてしまう状況を指し、職場の中でも過剰に戦力として期待されてしまう「学生の戦力化」、学生として、さらには子どもとして扱われるためから発生する「安く従順な労働力」、上下関係を背景にした脅迫・暴力も辞さない「一度入ると、辞められない」を挙げている。

具体的には「学生の戦力化」では、自分がいないと職場が回らないことから休めなくなる。責任が増大し、学生アルバイトが正社員不在の中で責任を押し付けられやすいことから、長時間・深夜勤務が日常化し、断ることが難しいシフトの強要が避けられない事態に陥ることを示している。

「安く従順な労働力」は、学生という属性から、使用者によって社会的に人格的に劣位に置かれ、子ども扱いされてしまう。その結果、雇用関係を超えた上下関係が発生して責任ばかり中心的労働者のように使用される。罰金、自腹購入、ノルマの設定など不合理な状況が発生する根拠は、学生という弱い身分からの社会的地位の優越といった上下関係から、法律をも無視した利用が現場では罷り通っているとのこと。

「一度入ると、辞められない」は、職場の中で戦力として数えられている現場の責任から辞められなくなってしまう心理や、責任感の裏返しとして責任を果たさなければ簡単に職場から追放されてしまうという恐怖心があると指摘。責任感を利用しつつも、更なる強硬手段として契約違反による損害賠償請求という脅迫や暴力といったケースが多いようで、学生を「辞めさせまい」として最後に現れるのが剥き出しの暴力という現実を指している。

また、大学生のみならず高校生もブラックバイトに搾取されている対象として紹介されている。

高校生は大学生よりも大人に弱く、従順で安いことから貴重な戦力であるが、大学生以上に労働者として不当に扱われやすく、労働者としての権利を認めないといった人権侵害も目立つとのこと。

ブラックバイトが全国規模に展開しているチェーン店でのケースが多いのは、今日のチェーン店の労働は単純化・画一化・マニュアル化されていることから、オーナーや正社員の店長であっても、短時間で習熟し、予定通りに業務を遂行することが求められているからである。

マニュアル化された単純な業務に従事する労働力の充当が、経営戦力そのものになるので、学生アルバイトはこの業務を遂行するための基幹的労働を担っていることから、近年の商業・サービス業が単純化されたことで、学生アルバイトへの依存が増してきた側面と、業務の質を求めて学生への依存を深めてきた側面が同時進行してきたと筆者は分析し、「量」の要求と「質」の要求はブラックバイトを引き起こす要因となっているとのこと。

アルバイトに圧迫してくる正社員は加害者として見られがちであるが、社会的には被害者の一人である点は見逃せない。

ブラックバイトとブラック企業の正社員は競合し合う関係にあり、上下関係があるのは前提としてある正社員にしても、アルバイトと限りなく同等の労働力として編成される。正社員も替えが利く、量的な負担を求められる存在で、正社員にせよ、アルバイトにせよ、企業からすればマニュアル労働を充当してくれればよい経営判断があるから、どちらも使い捨ての点は否めない。

ブラック企業の経営手法は、単純労働を最大限安いコストで充当することで、利益を最大化させるというところにあるので、この構図の中では正社員もアルバイト同様に搾取される対象でしかない。

学生が過酷な労働を受け容れてしまうファクターとして、責任感が挙げられる。仕事への責任感や個人としての責任の範疇を超える管理責任、経営者としての視点といった経営への参加者として意識を持つことになる結果責任という次元まで引き上げられるからとのこと。

企業からの過剰な要求に対して、学生に無間地獄のような責任を負わせる仕組みの一役を買っているのが、あたかも職場が学生自身に重大な意味を持つ共同体であるかのように受け止めているので「経営に擬似的に参加させる」ことが、後々のやりがいや達成感を与える。その「やりがい」を利用して、法規範を超えた過剰な要求が希薄な権利意識を浮き彫りにさせるような案件が多発している。

学生にとってアルバイト経験は、社会経験を積むための機会であり、就活時の売りにする側面もあるので、アルバイト経験は自分自身への投資、すなわち「人的資本への投資」である。その実績がステイタスとなるから、アルバイト経験での失敗が、社会的に失敗の烙印を押されたように感じてしまうので、学生は受け容れてしまうという心理が働いている。

ブラックバイトが広がっている最大の背景にあるのは、学生の貧困と奨学金の問題がある。

家計状況の悪化と学費の増大によって、学生はアルバイトに従事する機会が増え、学費面だけではなく、就活資金を稼ぐという理由もある。

また、卒業と同時に借金として現れる前借の教育ローンとして働いている奨学金が、学生の将来への恐怖感を強めているので、返済の大変さと難しさが時限爆弾的であるから、早急な返済への圧力がブラック企業やブラックバイトに縛り付けていると指摘。

だからこそ学生が経済的な事情からブラックバイトを辞めることができず、不当な労働力を強いられている。経済的事情や責任感やパワハラなどの脅しが加わることで、ブラックバイトの支配をより強固にしてしまっている。

学生にとってアルバイトは、非正規雇用労働という意味合いだけではなく、社会的に自分が試されている場として自己承認を確立できるのかどうかという意味も含んでいるので、前述した責任感などによって経済的にも心理的にも複雑に絡んでしまっている。

このような背景には、経済状況や正規・非正規雇用共通の「下層労働市場」が形成されているさまが、商業・サービス業を中心にして蔓延している点と少子化による人手不足がリンクしているとのこと。

人手不足でも賃金が上がらないのは、単純な労働力不足ではなく、ワンオペのような過酷な労働やフレキシブルな勤務対応に従事しながら、最低賃金水準の雇用関係が求められているので、主婦や学生にとっては対応することが困難である。

しかし、労働市場の要求が無理な働き方に対応できる労働者なので、その結果として不足しているという点になってしまう。

以前から、非正規雇用問題は大きく変化していた。

正社員は男性で、女性や出稼ぎの農業労働者が部分的な仕事を担うといった棲み分けがあったが、棲み分けが解消されて家計を自立しているのが非正規であることは今日では珍しくもない。自分自身で家計を賄う必要性があるが、低賃金・不安定な働き方が急増し、2000年代に「ワーキングプア問題」を引き起こした。

そこから、アルバイトであろうが正社員であろうが、その待遇に関係なく企業の業績に責任を負い、競争しなければならず、自身の生活なども働き方に適合することが求められているのが日本社会である。

それらの解決策として、アルバイトの立場を明確にすることで、学生自身は勿論、周囲も正しく認識し、企業もそれを踏まえた上での雇用関係を管理することが必要と記されている。

また、学生がアルバイトに従事する根本的な問題として学費が挙げられるが、学費の値下げや現状の教育ローンの教育政策の見直しの必要性がある。給付型奨学金制度の創設、労働教育という視点が解決策の一例として挙がっている。

最後のあとがきに筆者は以下のように記して警鐘を鳴らしている。

日本の企業が「目先の利益」だけを考えて行動し、一過性の利益を求めて若者を食い潰しているように見える。そして、それはますます苛烈になり、広がっている。若者世代では少子化が進み、過労うつの社員が、今や膨大な数に上がっている。この使い潰しの経済が、学生にまで及ぼうとしている。このまま若者の使い潰しが進めば、日本の社会に将来はない。一過性の利益を上げるための一部の企業の行動が、私たちの「未来」をも食い潰してしまいかねない。

 

他人事では済まされない半径5m以内の問題 消費行動も政治的行動である

私自身にはこのような経験はないが、ブラックバイトとして紹介されたケースに類似したものを友人や知人から聞いていたので、とても他人事とは思えなかった。

学生の貧困は、経済的事情や学費の増大がそのまま直結している。

私立大学に通っている学生はなおのこと直面している問題だと思う。

奨学金を利用し、少しでも学費や生活費を工面する為に学生はアルバイトに従事する。家計的にも自立していくためにダブルワークも珍しくない今日では、ブラックバイトのように雇用関係を超えた人権侵害や人的負担が、社会的に弱い立場である学生がダイレクトに被害を受けるケースは後を絶たない。

職場での上下関係の在り方から、下層に位置付けされやすい学生が、職場の戦力として中心化して、権利意識が希薄なまま一アルバイトの責任の範疇を超えた負担を強いられる負のスパイラルは度々テレビや新聞で目にしたことがあった。

本書では、雇用する側の心理と経済市場と雇用される側の心理を分析しているが、就活前の社会的トレーニングとして位置付けて働いている学生が、失敗したという烙印を押されることの恐怖からますますのめり込んでしまうといった心理はグロテスクであるが、頷けてしまう。

当時問題となった「すき家」のワンオペを行っていた私の友人も、そのような心理があったらしく、「逃げること」は「悪」という社会的な風潮や「逃げた」事に対しての「弱者」というレッテルが安易に貼られやすいことから、過酷な労働環境に心身を投じていた記憶がある。

特に、コンビニの業務の多種化は近年増加していくのは消費者側としても身近に感じられる。そういった業務の量のみならず、労働者は営業面でのサービスの質が求められる時代になってしまっているが、そのサービスの恩恵を得られているのは私たち消費者である。

コンビニが便利なのは言うまでもないこと。今更コンビニが縮小したら、それまでのサービスの便利さに依存していた消費者は戸惑うだろう。

企業側の過度な要求が生み出す労働者への依存のみならず、消費者側のニーズという依存も絡んでいるので、ブラック企業、ブラックバイトの労働問題は社会的に浮き彫りになるべくしてなったと思った。

奨学金の利用が継続していなかった私でさえも、奨学金の返済はとても近い将来への不安として付き纏っている。

未来への自分への投資として大学に通うために、未来への自分にお金を前借することで不安を押し付けるのが奨学金の現状だろう。そのサービスがあったからこそ、大学に在籍出来たのも事実である。大学の乱立や学部の増設などで、今後大学進学する若者はより増えていくだろう。

そこで、ワーキングプアといった貧困問題は更に拡大していく流れでもあるから、経済的な援助として、現状のままの奨学金制度だけではなく、文献内にもあったように給付型の創設を求める声は大きくなっていくはずだ。

奨学金の返済に追われる卒業後の学生や学生の貧困化は、より深刻化していくと思う。その深みがブラック企業やブラックバイトの温床にもなるだろう。お金を稼ぎたい若者の心理を利用した不合理な労働環境が強いられてしまうのは、重大な社会問題である。

このような理不尽が罷り通ってしまっている日本の社会システムは嘆かわしいが、それが無いと成り立たないサービスが乱立して、私たち自身が依存してしまっている点から目を背けては駄目だろう。

便利であることは正しいのかどうか。理想は正しいのかどうか。視点の置き方、相手方、俯瞰で観ることによって、構図を捉えることは様々なことが変化して分かってくるものである。

これから仕事に従事していく若者はフレキシブルな労働環境への対応だけではなく、権利・義務の関係性や法規範や労働者としての尊重などに対して、しっかりと対応されているかどうかを厳しくチェックする必要性がある。

雇用関係であるにしても、その範疇を著しく超えた力関係については守られるべきものは守られないといけないというスタンスや「アルバイト」の立場を明確にすると同時に、労働者から企業体質の審査を受けているという視点もフレキシブルに持ち合わせることが求められていくだろう。

不条理であるような過度な労働への要求が、労働者の心身を蝕み使い捨てに至っても、自分の替えはいくらでも居るという背景は面白くない。

社会的に脱落者や弱者とラベリングされてしまうことに対してのケアも必要で、周辺の理解もより深まっていく必要性もある。この状況が不自然であることに疑問を持ち、今の暮らしが成立している背景には企業からの過度な要求と消費者側の利便さを満たすためのニーズがマッチしていることであるので、現状を正しく捉えて声を挙げていくのが大事だろう。

マルクス「資本論」が書かれた頃の労働状況は過酷:マルクス「資本論」

『コードギアス 反逆のルルーシュ』感想 捻じれた構図と因果

 

 自分を王だと思っている王は、自分を王だと思っている乞食と同じだけ気が狂っている。

コードギアス 反逆のルルーシュ』は、母を喪った主人公ルルーシュが、仮面を着けてテロリストとして神聖ブリタニア帝国、つまり王権神授説、絶対王政な貴族社会としての「父性」に反逆していくのが主軸であるが、ギアス自体も王権神授説を補強するものである。

 

その力を駆使するルルーシュが「日本人」ではないからこその面白さがあったと思う。

日本人であることを自覚しながらブリタニア帝国の組織から内部改革を図るスザク。

母国に復讐するために「ゼロ」という仮面でアイデンティティを覆い、レジスタンスとして日本を土台に戦うルルーシュ

仮にルルーシュが「日本人」であった場合、大国支配からの独立をするレジスタンス、オープンなナショナリズムという話にしかならない。

その場合、ブリタニアアメリカにストレートに見立ててモラトリアムの葛藤を描くために学生身分であったとしても、戦後史のようなアメリカナイズ、安保闘争や沖縄の歴史観が素直に下敷きになったのかもしれない。

また、主人公格をルルーシュ単体として場合、ブリタニア内部での革命を描くとなると、清教徒革命的な構図を下敷きにしたかもしれない。

「自由」な個々人は、いまや新しい政治権力を人民の「普遍意志」に対する犯罪として糾弾する。政治権力はこの糾弾に十分に反論することができない。反対者である自由な個人は、ただ思想として「純粋な普遍意志」を主張するだけだが、政治権力は「普遍意志」を政治制度として実現するという困難な仕事を行わればならず、そこで生じるさまざまな矛盾や「悪」を引き受けざるえないからだ。/自らの「普遍性」を信じる政治執行者は、ますます「暴力」に頼り、自分たちに反対する疑いがあるというだけで人々を弾圧し、抹殺しようとすることになる。
竹田青嗣西研『超解読!はじめてのヘーゲル精神現象学」』

 

主人公格を増やし、友情で結んだ所からの捻じれや綻びはこの作品を象徴していると思う。

ブリタニア出身のルルーシュが日本で、日本出身のスザクがブリタニアで、この構図の捻じれがそのままアイデンティティの揺らぎ、ペルソナ、延いては変容していく国家観と国際社会の政治劇・軍事的展開へと繋がっていくように設計されている。

ゼロ年代らしさ溢れるセカイそのものと相対する主人公像でありながら決断主義による距離を取り、近景(主人公側)と遠景(セカイ側)が短絡的に繋がるセカイ系の強度を自覚的にそして逆説的に描き、狭いローカルな枠組みで語るしかないパラドックスについて、キャラの配置とアイデンティティで以て、辛うじて捻じ込む程度の薄ぼんやりとした中景(社会性と国家)で断片的にバランスを取ろうとしたが、破綻的であった。

我々は、愛という名のもとに、自己と世界との関係の中に必然性を導入せずにいられない。エディプス期を通過することによって、人間の欲望は必然性への希求と一体になり、愛という超合金を生んだのだ。 新宮一成ラカン精神分析

 

「愛とは、持っていないものを与えることである」ジャック・ラカンセミネール第5巻』

マックス・ウェーバーの「支配の3類型」を考えると、ルルーシュは「カリスマ的支配」だろう。

一方のスザクは「伝統的支配」の素養から逸脱し、ブリタニアへコミットすることで「合法的支配」へ移行している点は興味深い。

「ギアス」の力自体が不文法的で、個人の意思に対して介入して自然に操作できる点でいえば、プロパガンダそのものである。よりポリティカルフィクション観を出すならば、「ギアス」を成文化したような憲法あるいは条約のパートが割かれていたと思うが、『コードギアス』はあくまでも「個人の意思の力」=「ギアス」=ルルーシュの物語であるから、支配が最終地点ではなかった。

その行動様式に他者を通した承認欲求ではなく、孤立した自己肯定感だけで前進するルルーシュの主人公像は、短絡的もとい圧縮的構造のセカイ系からの脱却、つまり経験の蓄積といった「連続性」こそが「昨日」「今日」「明日」を分け、それを求める理由を提示したことで、非現実性から現実的解釈による優位性を素描することはできたと思う。

しかし、やはり破綻的でもあった。

それでもギリギリのバランスが魅力的であり、断片性と各自の強度がエンタメとして輝いたのは間違いないと思う。

2期の『コードギアス 反逆のルルーシュR2』では、残念ながら作品として大きく崩れてしまったが、24話『ダモクレスの空』と25話『Re;』のAパートのメッセージが落とし所として挿まれているのは重要だった。

最後まで大きく響いたのは敵役の不在か。

敵を描くことの困難さであり、突き詰めて行けば正義そのものを炙り出し、誰かにとっての正義でも誰かにとっては傷を与えるものになる可能性を孕んでいる。

だからこそ、表層的な正義=ヒーロー像では描けない暴力性の暗部、その宿命を引き受けるのがアンチヒーローであり、その論理でルルーシュ自身を舞台に上げるにしても、身体的にも心理的にも離れたように思えるが、ルルーシュの決断を考慮すると着地点として当然の対価なのだろう。

皇帝という地位を獲得していた父親を殺すことでのオイディプス王的なものを挿し込むことで、王権と選民思想への反逆を皇帝の地位まで上り詰めたルルーシュが最後に身を賭して構造全体に逆襲することによって物語として完結する。

バランスは不安定であるが、それでも感情として泣くしかあるまい。

デカルトのコギト Cogito ergo sum:我思う故に我あり

AI住宅の台頭 相対化される価値の見直し

中国政府はAIの発展を重視していて、昨年に世界スマート大会が天津市で行われたことには意義があったと思う。

天津市直轄市の一つで、軽工業、機械電機、化学工業などが盛んな総合産業都市である。天津市は中国の近代の工業の発祥地でもあるから、開催地としては妥当だったと言えるだろう。

近年、人工知能が世界を賑わせている。

AI碁やAI小説執筆などの文化ニュースによって、AIの進化を実感する日々が続いている。AIを取り扱ったドキュメントをテレビで放映されていることもしばしばだ。それに伴って「IoT」という言葉を耳にするようになった。

IoTは、モノそのものに通信機能を持たせて、インターネットに接続したり相互の通信を可能とすることで、自動認識や自動制御、遠隔計測などを行うことを言う。家電量販店で目立つスマート家電もIoTと関連がある。一例としてスマートフォンなどで遠隔操作できるエアコンが登場していることも関係している。

人工知能なので、自ら学習し、ユーザーにとって快適な状況を作り出してくれる技術である。

それらを駆使したものが住宅の領域に入っている。上記のように天津市が表明したAI住宅である。AI住宅と同じ意味を含むものとして、スマートタウンやスマートシティといった言葉がある。

スマートタウンとは、最新の技術を組み合わせてエネルギーを有効に活用する次世代の街のこと。つまり、IoTの先端技術を用いて基礎インフラと生活インフラ・サービスを効率的に管理・運営。環境に配慮しながら、人々の生活の質を高め、継続的な経済発展を目的とした新しい都市で、2014年にオバマ元大統領が投資を行うと発表したスマートグリッドの活用によるまちづくりの指針を示してから活発になっている事業である。

中国よりも先駆者として日本の神奈川県藤沢市では、2014年の春にエコで快適な街づくりをコンセプトにしたスマートタウンが誕生した。

600戸の戸建て住宅と400戸の集合住宅、商業施設、自治会館、健康福祉教育施設、物流拠点が建ち並ぶ街は2018年度に完成すると言われている。この計画の主導はパナソニックによるもので、住宅は太陽光発電設備と蓄電池を備え、住民には電気自動車や電動アシスト自転車を共同で使えるサービスを提供するなど、省エネに配慮した街づくりが計画されている。

また、パナソニックはAI住宅を世界展開するために、アメリカのIBMと提携している。両社は共同で新サービスの開発に取り組み、ドイツのベルリン南東部で2017年に着工、18年末に完成する予定である。

日本以外にもアメリカでは既にサービスが始まっている。IoTAI住宅の月額サービスは、AIならではの自ら学習する機能を実装することで、より快適な空間の追及が目指せる利点がある。

例えばエアコンの場合は、センサーで集めたデータを使って利用者の癖を蓄積。1日の内にユーザーが使用していたモードや設定温度の変化データを分析し、ユーザーの癖を学習することで空調を調節。また、高性能なカメラが搭載された防犯カメラとIBMのAIとの連携により、AIにユーザーや知人の顔を認識・記憶させ、不審者を察知し、通報するといった能力を高めるとも発表された。

上記の例のように、中国のAI住宅サービスは天津市から広がっていくことだろう。近代工業の発祥の地から最新科学技術の代表格であるAIが発展していくことになるのは必然だったのかもしれない。次に未来型住居の筆頭のAI住宅の具体的な効能について触れる。

AI住宅の効果には様々な期待が集まっている。すべての住宅に搭載されているシステムのひとつにHEMS(ホームエネルギー管理システム)がある。

このHEMSとは、エネルギーを効率よく利用するために家で使う電気をコントロールするシステム。前述のようにエアコンなどの家電製品を自動制御するだけでなく、電気使用量も数字で「見える化」する。住宅すべてに搭載されたスマートテレビタブレット端末を見れば、リアルタイムで太陽光発電の発電量や電力消費量が分かるようになっており、さらにHEMSは管理会社のサーバーとも繋がっている。

このリンク性によって管理会社は各家庭のデータを基に毎月レポートを送り、電気の使い過ぎや効率の良い使い方をアドバイスし、住民の省エネをサポートも可能だ。太陽光発電などを駆使して自分たちで使うエネルギーはできる限り自分たちの家で作り、電気を上手く使い分け、余剰電力を自動的に売電するシステムの構築もある。太陽光発電システムと蓄電池が標準装備されている戸建て住宅では、災害が起きた時に電力を自家消費する自立運転に切り替えられる。住宅によっては、太陽光発電燃料電池エネファームが備わったダブル発電タイプもあり、より安定した電力の供給ができ、災害への対策も練られている。

これらのエネルギー変換によって二酸化炭素削減が期待できる。中国やアメリカなどの経済大国にとって二酸化炭素削減は付き纏うテーマである。近年の地球温暖化問題からエコの呼び掛けが盛んなのは周知の事実だろう。これらが新たな対策としてAI住宅が期待されているのも頷けると思う。このような低炭素化への大きな期待の中で、再生可能エネルギーの導入や拡大、エネルギーの利用効率の向上による新しい都市産業が生まれようとしている。

また、国レベルから個人の住居レベルでいえば、ピークカットの実現やタウン・ポータルでスマートフォンやパソコンを含めて、地域やエネルギー情報と繋がることできる。そのために地域とのスマートコミュニティによる交流も生まれるだろう。回覧板といった地域の情報共有もいずれはデジタルコンテンツ化していく流れに乗っかると思う。

さらに防犯・防災サポートがある。マンションの共用部に設置されたデジタルサイネージを通じて、地域の気象情報や近隣鉄道の交通情報などを提供する。重要な防犯・防災情報は、それを表示するように画面が自動で切り替わるようになり、情報交換が密になる。防犯情報の高度化が進めば、知人友人と不審者の区別が容易に付くので、子どもの通学などの安全に展開されていくだろう。

AIと切っても切れない分野になっていくであろうものにロボットの存在がある。

バリアフリーの観点や福祉サービスから、高齢者などの介護においてロボットの活用が始まろうとしている。高齢者の会話の相手として、痴呆症などの予防の目的などの効果が期待されている。それだけに留まらず、住まいの中にも導入されることで新たなコミュニケーションとなることも想定されている。

近未来を描いたSF映画で当然のように家庭ロボットが登場するが、フィクションの中で展開されていた世界が現実に近付いている。

HEMSといったエネルギー管理システムが住宅と街を結ぶだけではなく、家やクルマなどの生活インフラや電気・ガス・水道などの基礎インフラという都市全体がインターネットで繋がることで、効率的な都市の管理ができ行政サービスの向上も見込まれる。

そして、この流れは多くのビジネスチャンスが生まれるため、経済も発展していく。

今やGDP2位の中国にAI住宅事業が定着すれば、よりアメリカとの差を詰めていくことも可能になるだろう。世界中で人口増加とエネルギー資源の枯渇が差し迫っている昨今で、先進国の経済大国にAI住宅事業が展開されていけば、地球環境の保全と能率性が格段に向上することに繋がるので、環境問題への提示にもなるはずである。エネルギー資源と経済のより良い循環が発生するかもしれない。

今となっては「デジタルと人間」、「人工知能と人間」の二項対立で語られることの多いAI案件をニュースとして捉えることが多いと思う。

特にAIというと、シンギュラリティといった好奇と不安のイメージである。

個人的に、類似した二項対立として「紙の本と電子書籍」がある。これらは沢山取り上げられてきたはずで、電子書籍の登場によって紙の本は相対化され、価値の見直しが行われた経緯がある。グーテンベルク活版印刷技術から紙の本の時代が始まり、今は電子書籍オンラインストアの波に押されている現状である。

私はデジタル技術によって紙の本の価値の再認識や再発見が進んだと思う。これらと同じように、人工知能を通して人間の価値や存在が見つめ直されていくことだろう。

AI住宅は最新のテクノロジーで、住まいとしては革新的である。

人間が快適に過ごす空間は誰しもが欲するものだ。利便性が正しいというフィルターが掛かり易いが、「人間の本質とは何なのか」や「住まいとは何なのか」という観点が欠落していくのはよくないだろう。

「空間と人間」に入り込んでいくことになったAIが、世界をどのように変えていくのか。最先端として中国やアメリカや日本が牽引していく。AI住宅の展開は人間の生活を変えるはずだ。一抹の不安はある一方で、やはり期待は大きい。

 

参考文献

波形 克彦、小林 勇治 2016年 『地方創生とエネルギーミックス』 同友館

special.nikkeibp.co.jp