おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

おおたまラジオ第7回 辻村深月『スロウハイツの神様』読書感想会 絶望を希望に、物語の意味を信じて肯定した人々

おおたまラジオ第7回 辻村深月スロウハイツの神様』 絶望を希望に、物語の意味を信じて肯定した人々

 

おおたまラジオ過去最長の3時間超という圧倒的ボリュームで、辻村深月の傑作小説『スロウハイツの神様』を語りました。

いやー、このためにレジュメ10枚+αを用意していたのにタイムスケジュールが読めない展開で部分部分を断念せざるを得なかったわけですが、きっと中身の濃い感想回になったと思います。

肝心の「加賀美さんパート」は泣く泣くカットしましたが、後日文字起こし記事で追加します。捏造です。改竄です。

趣味としての読書はマイナーですし、小説に絞るともっとマイナーだと思うが、この小説の素晴らしさや豊かさというのは、この3時間20分に込めることは少しは出来たと考えていますし、まだまだ語り足りない、語りきれない圧倒的なコンテンツとしての奥行きを感じさせてくれました。

この3時間で語りたかったことは、直接的には言及していませんが、物語というのは色んな観方があって、それと同じように色んな評価軸があるということです。

僕はかなり楽観主義者なので、この世に絶対的につまらないものはないと思っていて、あくまでもつまらないと思うのは相対的な尺度でしかないと。楽しむための尺度は、一つではないし、仮にそれを楽しめないのは自分の能力や技術が、作品とミスマッチしているからという超ストイックなことを胸に秘めいているのですが、自分の拙い感性や能力でもって作品を罵倒するための言葉に費やす人生の浪費ほど残念なことはないでしょう。

もちろん、僕はこれまで色んな物語に触れてきて、これは退屈だな失敗だったなと思ったことは数えきれない程ありました。

それでも幾分か年を重ねることで、当時には見えなかった景色や読み切れなかった文脈に触れた時に、僕が勝手に捨てた物語が、自分を待っていたんだなと思ったわけです。

いつも、どんな時でも、物語は寄り添ってくれます。

また、タイミングも大事です。

この傑作小説『スロウハイツの神様』に是非とも溺れて欲しい。

そのためのささやかなキッカケになることを願って。

 

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

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スロウハイツの神様(下) (講談社文庫)

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ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

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終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

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重版出来! (1) (ビッグコミックス)

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きみの鳥はうたえる (河出文庫)

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何者

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ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

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セッション [DVD]

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映像研には手を出すな! 1 (1) (ビッグコミックス)

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商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書)

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桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) [Blu-ray]

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ナナメの夕暮れ

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ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

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オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

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i(アイ)

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日本代表とMr.Children

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秒速5センチメートル [Blu-ray]

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打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [DVD]

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禅とジブリ

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ラッシュライフ (新潮文庫)

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小説の神様 (講談社タイガ)

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摂取したもの2019年1月

小説は『NHKにようこそ!』だけ。

かつて友人に「お前は絶対読んだ方がいいよ」と冗談で勧められたこともあって、今回が初読みであったが、あまり乗れなかった。

ゼロ年代の想像力』で述べられている倫理的な問題点として浮かび上がる傷の舐め合い的レイプ・ファンタジー構造も然ることながら(不幸自慢的態度のルサンチマンや、引きこもりの社会復帰の困難さは見逃せないが)、自意識の空転と妄想の爆発的連鎖にという補完関係による主観性への突き付け方はド痛いのだけど、共感性羞恥という観点で捉えるには、距離が開いてしまったことなのかなって。

勿論、感情移入できた/できないだけが評価軸ではないが、このニヒリズムと予防線を張り巡らして理論武装した結果として陥った短絡的な陰謀論という自意識への問題提起(社会への接続がない欠落した男性性をどう補完していくか――傷付いた女性との舐め合いによる草食系マチズモの回復)が、ギャルゲー的であっても、そこまで響かなかった。

しかしこの提案に頼らずに、親子の距離が開き完全に承認性が断絶し、都市における半ば孤立状態に陥った青年がどのように回復していくべきなのか。主人公が抱える「生きづらさ」は社会の病巣でもあり、社会への提起にもなるが、インスタントに自己責任論か社会が間違っているの責任転嫁の二択になりがちなのは、作中で示された理論武装した結果の短絡的な陰謀論とさして構造は変わらないのが皮肉である。

 

今月は、なんといっても宇野常寛さんに『PLANETS10』読解記事を紹介していただいたことがトピックになる。

吃驚した。

端的にネットはクソになってしまったと考えている(だから「遅いインターネット計画」)評論家本人に、こういう風に言って貰えるとね。

勿論、『P10』の本分は「戦争と平和」なのであって、私が書いたような記事はそこを逸らしているだけでもあり、メインテーマに上手く向き合い切れていない未熟さは依然としてあるのだけど。

さらにいえば、あくまでも「予想記事」であって「予想」に関しては結論めいた書き方をしているけども、『PLANETS11』がどのような手続きを踏むのかという具体的かつオルタナティブな提案はしていない。つまりプレイヤー側の視点は一切考慮していないし、「編集」の方針は予想したが、アプローチは露も知らずといった具合。

要するに「予想」までの手続きは念入りに詰めた(つもり)だけど、「予想」の着地点は恐らく『P11』の出発点でしかないということ。

2017年の秋頃に「人間の暴力性」と「戦争」を勉強したいと思っていたのも未だに手つかず。そういうツケを払いつつ、メタにズラすことの意味を問われる機会にもなった。

 

 

 

2012年に刊行された橘玲『(日本人)』で引用されているロバート・ノージックユートピア構想において、ローカルな共同体を壊して国家を枠組みのみとして捉えることで、参入退出自由なグローバルな共同体を創っていくという流れは、物語的にも「新世界」へ行く作品の文脈そのものである。震災後に、私たちがどこに向かえばいいのか?その処方箋として、イマ/ココからではなく。完全に「新世界」への物語構造だよなあ。


飯田一史『ウェブ小説の衝撃』は、本当にウェブ小説を知らない人間からすると、各プラットフォームの色分けがされていて滅茶苦茶助かった。ウェブ小説のムーブメントや、書き手と読み手のニーズの分析など単なる印象論ではなく、エビデンスを提出しながら記されているので理解に繋がり易かった。

「E★エブリスタ」では「デスゲーム」モノが流行っている理由も。その「デスゲーム」が「エブリスタ」のシステムを巡る闘争の比喩になっているかどうかは知らんけども、もしそうであるならば『ジャンプ』の「トーナメント制」みたいにね。そうなると『幽遊白書』みたいなのもあるのかどうか興味も湧くし、そのジャンル小説のインフレとそのジレンマともいえる袋小路感から、どのように「新世界」に行くかどうかはリアルタイムの読者だけが得られる充実感だと思う。

本書ではトレンドと、書きやすさと、ニーズの娯楽性が主に挙げられているんだけど、だから「異世界」モノのようにジャンルのムーヴメントが必然的に創作=批評合戦になる構造もあるし、それをモチーフにした作品もあるのだろうか…ジャンルという箱庭における了解と制約は、今のウェブ小説は活発的であろうし、なにか読み始めたい。というか、ついつい言いがちな「なろう系」という主語の大きさから零れ落ちているものもあるのでは?という当然の疑念として。

 

 

池田雄一『メガクリティック ジャンルの闘争としての文学』

さやわか『キャラの思考法 現代文化論のアップグレード』

中沢新一『日本の大転換』

開沼博『社会が漂白され尽くす前に』

五野井郁夫『「デモ」とは何か 変貌する直接民主主義

佐々木俊尚『そして、暮らしは共同体になる。』

雨宮処凛 萱野稔人『「生きづらさ」について 貧困、アイデンティティナショナリズム

橘玲『(日本人)』

新雅史『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』

小熊英二『社会を変えるには』

橘玲言ってはいけない 残酷すぎる真実』

飯田一史『ウェブ小説の衝撃 ネット発ヒットコンテンツのしくみ』

川内有緒『パリでメシを食う。』

栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』

高橋源一郎『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』

松谷創一郎『ギャルと不思議ちゃん論 女の子たちの三十年戦争

岸政彦『断片的なものの社会学

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

雨宮処凛プレカリアート デジタル日雇い世代の不安な生き方』

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』

古市憲寿 トゥーッカ・トイボネン『国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由』

吉本隆明 糸井重里悪人正機

さやわか『僕たちとアイドルの時代』

青土社ユリイカ 平成28年9月号 新海誠

宇野常寛『PLANETS10』

宇野常寛ゼロ年代の想像力

滝本竜彦NHKにようこそ!

『ゆるキャン△』感想 自己完結中のソロ充の志摩リンよ、どこへ行く?

まったりと『ゆるキャン△』を観ている。

ゆるキャン△ 1 [Blu-ray]

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文脈は以下の1話感想記事で概ね語っているので、そちらを先にどうぞ。

本当は國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』をもっと参照したかったという反省はあるが…。

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どうしても『ゆるキャン△』を女の子たちの「友情・青春」や「キャンプ」自体云々という尺度よりも、前提にある「学園部活モノ」からはみ出た「ソロ充」の行く末的な文脈で観てしまう。野クルというサークル(学園部活の定番の形式)に乗っからずに、現状で「学校」の外に行ってしまっている志摩リン。この視点は、第1話のリンちゃんのソロキャン描写から自然と誘発されているのだけど、その軸に対して野クルという本来ならば学園部活モノとしての様式があって、だからこそ初めて二項対立的なものから一元論への収束としての「友達探し」からの「友達作り」に繋がっていくわけであるが…まだ4話を観終えたところで、リンちゃんの行く末がどうなるのだろうか。

こういう文脈以外に、アウトドアな女の子たちのキャッキャッ感を楽しんで(友人には「きらら系」として)観るもんだよと言われたが、私の見解では『ゆるキャン△』はその土台=「きらら系」に乗っかる手前、あるいは乗らずに、ソロ充的にはみ出たのがリンちゃんだと現時点では考えているから、誤解を恐れずに言えば果たして従来の「きらら系」的な視点だけがどれほど適切なのかは分からないし、「きらら系」のままで観るには「ソロ充」の情報が多い気がする。

あくまでも「ソロ充と友達探し系」の文脈のまま鑑賞を続けているのだが、SNSの描写やリンちゃんと野クルの対比構造など見逃せないシーンの連続で、ますます確信を強めていくばかり(頑なな自己暗示になっているかもしれない)。

 

以下は今のところ観ている2話から4話までの感想纏め。

 

2話「ようこそ野クルへ!」

ゆるキャン△』第2話「ようこそ野クルへ!」を観たところ、学生の金銭感覚の対比をしつつも、どちらが高いかどうかという優劣の尺度ではなく、値段相応よりも歳相応に漫喫している画作り。掛けたコストではない。傾けた情熱である。

何気ないSNSの描写やソロ充の部分はラジオで話した第1話の文脈ママで、リンちゃんがなでしこに学校で発見された時に、窓ガラスが境界になっているのは象徴的であった。

でも寄せ鍋して距離が短くなるんか。
ソロ充のリンちゃんが「ソロキャンの時間が脅かされるのが不安」という理由であるのが重要であり、完全なディスコミュニケーションでもなければ、なでしこへの負い目も多少感じているのが、断絶的で一方通行的ではないことの表れか。

好きな事を邪魔されるのは誰しも嫌なもので、でもソロキャン中のSNSの何気ないコミュニケーションは許容範囲内ということ。つまり、本来どこにいてもやれるSNSや読書も「キャンプ」に含まれていて、当然場所を選ばないし、タイミングも選ばない。しかし「敢えて」日常的な行為を、一時的な非日常的な空間と時間への没頭としてのキャンプ中にやることに意味がある。
2話のAパートのなでしこと野クルよる「日常系」の文脈にある部活モノ的なシーンの連続から、Bパートはリンちゃんのソロ充キャンプシーン。どちらもまったりしたテンポであるには違いないんだけど、Bパートのソロ充シーンが印象的。小まめに遣り取りをする斎藤さんとはキャンプを共有しないけど、フツーに了解のもと棲み分けしている部分や等身大の金銭感覚もソロ充に尽きる。
また、Aパートでは野クルが「980円」で満喫し、Bパートはリンちゃんが「2000円」や「500」円の勘定に一喜一憂しながら試行錯誤して満喫しているという部分に、彼女たちの資本の尺度や差異ではなく、値段相応の楽しむための謙虚さを持て!というわけでもなく、本質にある楽しさというのは価格設定じゃないところがA/Bパート共にあるから強い。
さらに『ゆるキャン△』2話のAパートの野クルは「日常系」らしく「学校」の中庭でテント設置しているのに対して、Bパートはリンちゃんがソロ充全開。これって「学外」でソロ充しているリンちゃんが、本当に「友達探し系」に収斂するのか分からんことを示していると思う。「部活モノ」や「学内」を飛び出してしまっているのだから、自己完結してしまっているのだから。

そりゃあドラマとして「野クルに入ってキャンプ友達作って~」がベターかもしれんけど、ソロ充がベストという現在で既に自己完結しているソロ充なリンちゃんが、今のスタンスを変えて野クルに加入してソロキャン以外もキャンプ楽しいぜ!キャンプ友達最高!以上の感想を持つのってどこか素敵だなって思う一方で、それって逆説的にいえばソロ充は所詮ソロ充でしかなく、どこかしらで「他者性」に吸収されてしまうという、ソロ充へのやんわりとした否定的なニュアンスが込められてしまうから、どうバランスを取るのかは今後の見物の一つ。

 

3話「ふじさんとまったりお鍋キャンプ」 

ゆるキャン△』3話「ふじさんとまったりお鍋キャンプ」を観た。

複数人でバイトして資金捻出する野クルと、個人負担しているリンちゃんの構図。

仲間と、仲間のために資金調達する野クルのモチベーションと、リンちゃんは徹頭徹尾自分の為ではなく――利己的に陥らず――共に鍋やテントも許容するのだから、他者性を撥ね付けるわけでもない。リンちゃんの造形にあるのは、このディスコミュニケーションに陥り易そうでそうではないバランス感覚だと思う。

OP前のなでしこがリンちゃんの所に向かうドライブシーンなんて、何の変哲もないドライブシーンなんだけど、緻密な美術と移動自体がキャンプの一部に組み込まれているからこその味わい深いシーン。道中の景色も旅の一つ。
なでしこは押しの強い娘で、またリンちゃんがそれを撥ね付ける、あるいは妥協して譲歩する形になるかと思いきや、一番丸く収まった形というのが第3話。互いに気を配り、土足で踏み入れずに、その線を誤ったら慮る。

「食」の恩は「食」で返すのもいいし、「食」への執着が物凄いなでしこだからこその恩返しか。人知れずなでしこの名前を呼んだリンちゃんが彼女を承認したことで、ATフィールドが和らいだ。
鍋はするけどテントで一緒に寝泊まりするかどうかは誘わないリンちゃんに対して、図々しく提案もしなければ車中泊を用意していたなでしこ。

冬のソロキャンしかやらないリンちゃんの動機もソロ充たる所以であるし、こっそりと寝顔写真を撮り、名前を呼んだ事実があっても、次のソロキャンは確保しておきたい姿勢がある。なので、これにディスコミュニケーションによるボッチの病巣というレッテルは付けられないと思う。だって好きなことをしているから。一緒に美味そうに食べる子と鍋をするのは楽しいけど、棲み分けの時間は欲しいということだけ。
リンちゃんが初めて名前を呼んだことで承認されたなでしこ(本人に自覚はなくとも)。そして、放課後キャンプ中に撮った写真を見てリンちゃんがニヤニヤするのも、承認した相手=なでしこという他者性があったからこそだけど、そのシーンで冬キャンする理由を述べることが「≒」でソロキャンの動機=自分の時間になっているという表れ。

カジュアルに「他者性」を上手く取り入れつつ、ある程度のバランス感覚として棲み分けは保持しておきたいようなリンちゃんが今後どうなるのか。これって「友達探し」の文脈ママで眺めてしまうと難しくなりそう気がしてきた。

だってリンちゃん、現状で満ち足りていないか?どうやって幸せになるのか?という話じゃないでしょ。

 

 4話「野クルとソロキャンガール」

ゆるキャン△』4話「野クルとソロキャンガール」を観た。

年齢相応の資金と工夫の凝らし方で、ひたすら欲望に忠実にキャンプまでの道中をどちらも楽しんでいる構図。工程全てがキャンプに包括される行為であるということか。

「長野」とか「山梨」とか距離や地理的な問題ではなく、それぞれがその場所でその瞬間を静的に、身体性は移動性を持ってダイナミックに感じている作り。だからこそ景色の一つ一つに心が躍動する。
免許取り立てのソロ充リンちゃんも親御さんに夜更けから見送られる描写は、親の了解を得た上で自分の領域内で過不足なく行動していることの表れだろう。バイクの免許を取ったばかりで不安が無い筈ではないが、子を個人の範囲内で好きにさせる親の理解も陰ながら良い。

また、リンちゃんがバイトしているシーンも良い。親に頼らずに、自己充足的に自給自足するリンちゃんのバイタリティは、まさに「キャンプ」そのものに近似しているのではないだろうか。

さらに、特徴的だったのはSNSのシーン。

まさに「きらら系」と一緒くたにされ易そうな何気ない日常的な遣り取りも、画面上では個人単体で映っていても、その瞬間では、デバイス上では複数人とゆるやかに繋がっていることを示している。このシーンがあるだけで〝一人でいても一人ではない〟ことが分かる。だからリンちゃんもソロキャン中にSNSをするのは、ソロキャンをしている結果の中にゆるやかに繋がっている「誰か」がいることであり、彼女がボッチであるからソロキャンをしているわけではなく、ソロキャンをしている事実が先にあって、ボッチというレッテルが付きやすいというだけの錯覚に過ぎないのを決定的に表現していると思う。
SNSでリンちゃんのいる長野と野クルの山梨を結ぶシーンのピークが、最後のライブカメラ。それぞれ立っている土地は違えど、道中の手段も違えども、目指す先は同じキャンプという行為と結果であり、自己充足的なリンちゃんがSNS上で「長野」と直接打たずに、ライブカメラで連絡したのが茶目っ気であり、同時進行形として共有する行為自体が「SNS的」でもあり、「承認的」でもある。

だって本来ならわざわざライブカメラで演出する必要性が無いけれども、その演出をすることで「キャンプ仲間」としてのゆるやかな連帯が秘められているのだから。
旅の道中をシェアするSNSの機能性はまま私たちのリアルそのものであり、リンちゃんたちも同時進行的にそれぞれの違う旅を共有し、その彼女たちの旅を視聴者も共有している。メタ的に、彼女たちがSNSで直接的に遣り取りしていない部分も、視聴者は物語として並列的に提示されることで、彼女たちの旅を相対的に、そして相補的な遣り取りとして観ることができる。例えば、野クルがネタ的にヒッチハイクを行ったシーンは、車にスルーされて寒い風が吹くというお約束であったが、「車」を用いたことで、連続的に直後のリンちゃんの車道シーンへと画面をリンクさせている。場所は違うが、旅の道中における「移動」そのものに流れる風景の一部として「車」が組み込まれているのを提示されている。

この『ゆるキャン△』が素晴らしいと思えるところは一貫して「比較」を用いていないこと。対比構造はあっても、そこからそれ以上の意図は込めれておらず、並列的に持ち出すための手段となっていることだけだ。禅宗でいうところの「両忘」である。「比較」から自由になることで、ひいてはナチュラルに評価経済的な文脈(ここでは他者との優劣におけるボッチの特異性)から脱却してしまっている。

そして資金や地理ではなく、本質的な楽しさは、一人であろうが複数であろうが、「旅」そのものの景色であり、共有する他者が「そこ」に居なくても関係ないところである。
それぞれ長野と山梨にいるが、SNS上ではコミュニケーションを取り、その場には居ない人のことを考え、その遣り取りからその状況を想像するつながりは、ボッチというレッテルを完全に破るものだと思う。

だからリンちゃんはソロ充であって、ボッチではない。

では、なぜボッチではないのか。

それは1話から普遍的に回答されているが、ありきたりな「学校内」における「比較」=尺度から解き放たれていることが一つにあるだろう。

また道元禅師の「一箇半箇」のような特定少数のゆるやかな繋がりをSNS的に表現しつつ、ソロキャンで自己完結していることで、当然、並列による両忘的でもあるから、「比較」する必要性もない。インスタントに他者と比較せず、自意識が振り回されることなく、中道的に、時にはSNSで他者性を取り込み、カジュアルに自己充足している志摩リンが、どこに行くのだろうか。

鴨長明の『方丈記』にある「山中の山居」は、まさに「志摩リン」そのものを表現している言葉であるが、ひとりの時間を作って没入している彼女が、特定的な友人たちとどのような可能性を見せてくれるのか。

 

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

方丈記 (光文社古典新訳文庫)