おおたまラジオ

別にいいじゃない、鍵ぐらい

『ゆるキャン△』第1話「ふじさんとカレーめん」感想 自己完結しているソロ充の現在地

政夫:『ゆるキャン△』第1話を観たという感想を話したいと思います。

 

ろこ:またアニメかよ…

 

政夫:いや、やろうって言ったのろこさんですよ(笑)積極的に動いたのは。

 

ろこ:いや。確認してください。あの、話せる強度をね。

 

政夫:僕は第一話しか観ていないですからね。

 

ろこ:俺は人が見ていたやつを遠くから観ていただけだからな。

 

政夫:それを観ていたとは言わないで下さいよ。ツイッター上で「俺も観たよ」とか来たんで。マジっすかとビックリしたのに…嘘なんだから。

 

ろこ:観たとも言えんのか。

 

政夫:観た内に入らないでしょ(笑)

 

ろこ:(笑)

 

政夫:ここから『ゆるキャン△』の話をします。

2018年のアニメの中でトップクラスに評判が良い。『宇宙よりも遠い場所』、以下『よりもい』で通しますけど、『よりもい』と双璧ですね。

 

ろこ:マジ?

 

政夫:『よりもい』がアメリカの新聞の外国のベストテレビ賞にノミネートされたって話をしたじゃないですか。『よりもい』はそういうのを引き合いに出さなくても、素晴らしいというのは紛れもない事実なんですけど。

僕が信頼しているブロガーさん達は『よりもい』と『ゆるキャン△』を同時に引き合いに出しつつ、『よりもい』派と『ゆるキャン△』派に分かれて。

僕に影響を与えた人生の師匠とも言うべき人が『ゆるキャン△』派なんですよね。『よりもい』じゃなくて。その師匠界隈も『ゆるキャン△』派が多くて、相対的に『よりもい』に厳しい。

でも、僕は去年『よりもい』を観てしまって、「こんなに物語は素晴らしいんだな」って豊かさを再確認したので、その『よりもい』と同じくらい名声がある『ゆるキャン△』とは何者だと。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:昨年末にオタクたちと飲んだ時に「『ゆるキャン△』まだ観ていないですんか。人権が与えられないわ」と言われて(笑)だから、僕は「君たちは『よりもい』観ていないの?」って。「あーまだ幸せだね。『よりもい』を観た後での世界の豊かさや世界の見え方が変わるから幸せだね」って返しましたけど。

で、BSで再放送が開始された『ゆるキャン△』の第1話を観たという状況なんですが。

正直、第1話だけだと、どういう感じの話なのかは見えてこない。当たり前だけど。

ただ、かなり象徴的なものが描かれている。

志摩リンちゃんですね。リンちゃんが、ソロでキャンプしているシーンから、ずっとはじまり、エンドロールで学校に行くシーンが描かれている。ラストは学校。この段階で、もう「ああ…!」って(笑)

学校というハコから出ているんですよ。『よりもい』の時も話しましたが、学生という身分はラストで判明するんですけど、「学校から外」に行く話ではなくて、もう「外」にいるんですよね。もうキャンプしちゃっているんです、リンちゃんは。

 

ろこ:リンちゃんはいくつなの?

 

政夫:知らないですよ。

 

ろこ:学生なんやろ。

 

政夫:高校生とかじゃないですか。マジで知らないです。1話の段階だと高校何年生とかの情報が無いので分からないです。ただ一人でキャンプをやれる年齢ではありますね。

 

ろこ:凄いね。そんな子おる?

 

政夫:キャンプのオフシーズンに一人でやっているから、大人の男性に「あの子は逞しいね」とか言われているんですよ。

 

ろこ:危ないよね…

 

政夫:(笑)

キャンプって、スローライフであり、アウトドアである。そういうスタイルじゃないですか。

ゆるキャン△』の第1話ってマジでスローライフなんですよ。リンちゃんが、ソロキャンしているのをずっと描いているから、画面の作りや静的なテンポもスローにコントロールされていて、ゆっくりしているんですよね。作品自体の雰囲気が。

それはリンちゃんが一人でキャンプしていて、他者とワイワイしているわけじゃなく、一人で富士山が見える湖のところでキャンプをして、一人でテントを設置して、一人で牧を拾って焚火をしながら、スープを飲んだり、読書をしたりをずっと描いているだけ。

本来は「日常系」的なアニメって、「学校」が先にあるんですよ。「学校」から「私たちキャンプやろうよ」って部活モノになっていきがちで、そこから「外」に出ていくパターン(実際にガチなキャンプをしなくても部室でのコミュニケーションで充足される空間だけの場合も)。

リンちゃんは、彼女がどういう部活に入っているかとかは分からないですけど、既に「学校」の「外」でやっちゃっている。「学校」で友達とシェアしている様子もない。第1話の時点では。彼女が、モノローグで「ソロキャンしかやったことないな」って言うんです。

 

ろこ:ガチキャンパーなんやな。

 

政夫:ソロ充ですね。ソロで充実している感じ。

ソロ充なんだけど、SNSの描き方が斬新というわけでもないんですけど、僕らの日常生活にSNSが自然とコミュニケーションに組み込まれているようから真新しさというのはないが、リンちゃんは一人でキャンプをやっていて、その途中にLINEのようなメッセージが友人から来るんですよね。

「リン、今日はどこにいるの?」みたいな。そういうメッセージが来て、普通に遣り取りしているんですよ。ゆるやかなつながりが描かれているわけなんですよね。一人でキャンプをやっているけど、普通に友達とLINEでコミュニケーションを取れるんですよ。でも、「その場」には友達は居ないんです。デバイス上ではメッセージの遣り取りをしているんだけど、キャンプ自体は、リンちゃんは友達を呼んでどうこうではない。それがリンちゃんのモノローグにある、「そういえば私ソロキャンしかやったことないな」に通じる。彼女にとっては事実でもあり、モラルでもある。これが結構大事だなって思ったのは、ソロキャンしているけど、友達と普通にコミュニケーションをしているっていう見せ方をすることで、「この子は友達がいないからソロキャンしているわけではないんだな」って分かるんですよね。その一連のシーンで。SNSでコミュニケケーションを取る友達はいるけど、一人でキャンプをやっているという結果が、視聴者に投げかけられる。そのように思考が喚起されるわけで。

つまり、リンちゃんはボッチだけど違うんだよねということなんですよ。

本来ボッチって、自己完結できる・している者なんですよ。

ただ、友達いないと恥ずかしいとか可哀想だとか、「学校」ではボッチが浮いてしまうから必然的に。ボッチへのアイロニーとして描かれた作品って多いんですけど、なんで友達いないとダメなの?とか、友達100人作ろう!とかも無理でしょ。みたいな反動からボッチを主人公にした作品というのは傾向としてあって、ただボッチであるが故に自意識過剰になって空転したり、一歩引いて皮肉を言うことで自分を守ったりという処世術というのがボッチの理論武装でもあるんですけど、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』の比企谷八幡は典型的なボッチで、今はボッチではないんですけど、ボッチであるが故に自分が孤高であると自虐を交えつつ自負していて、でも自分はスクールカースト最底辺であることも自覚している。でもそれを自覚していながらも、理論武装をして自分を守っているというのが八幡なんですよ。

ただそれって、『俺ガイル』が流行った時って「八幡カッケー」みたいな流れがめちゃめちゃあったんですよね。八幡みたいになりたい人って結構いて。

でも、八幡がやっていることってボッチであることを自意識過剰に評価して、他者からも過剰に評価されて、自己評価と他者評価のズレと空転があって恥ずかしいことになっているんですよね。理論武装をして自分を守っているつもりなんだけど、それってめちゃめちゃ暴露的に恥ずかしいよ・ダサいよというのが、八幡をフィルターとして視聴者に投げかけられたメッセージでもあるんですけど、それをどうも受け取り切れていない人たちからすると「シニカルな八幡カッケー」になってしまう。本当はそんないいものではないのに。

でも、ボッチというのは自分の好きなものがあって、自分の趣味に耽溺して逃げ込めて自己完結できるんですよ。自己充足できるんですよ。揶揄されがちなボッチから、ソロ充になれるんですよ。けれども、友達いないとオカシイよねみたいな友達幻想があって。

ちくまプリマー新書から出ている『友だち幻想』は2018年も売れていましたけど。友達いないとオカシイという同調圧力に対して、異を唱えている新書で、「KY」などのアンチテーゼでもあるんですけど、友達多くないと恥ずかしいに対して、友達多くなくても生きていけるよねという価値観を提示するのって大事でありつつ、「友達探し系」のテーマにもなっているんですけど、このリンちゃんはソロ充であって、ボッチとは違う。

キャンプという自己表現で自己完結しているんですよ。

だから、リンちゃんにとって「ソロキャン」という事実が先にあって、「ボッチ」は後から付いてくるレッテルに過ぎない。「ボッチ」だから仕方なく「ソロキャン」をしているわけでもなく、全く逆の話で。一人で好きなことをしているだけ。それがキャンプなんですよ。その結果に「ボッチ」がくっ付くだけ。

 

ろこ:政夫君としては観たことない感じなの?

 

政夫:新しいと思います。ここだけで『ゆるキャン△』は「友達探し系」に対して一つの点を打っているので、その名声も分かるなって思いました。

『よりもい』も同じで、一種の友達幻想に終止符を打っているわけじゃないですか。『よりもい』は友達と仲良くしないといけないという倫理に対して、明確にNOを突き付けた。あの力強さは11話ですね。

 

ろこ:11話ね。

 

政夫:日向の陸上部の連中に、報瀬がブチ切れるシーンです。

あのシーンって、本来なら、仲良くやりましょうよとか、水に流して、日向がちょっと大人になるような振る舞いをして丸く収めるというか、元の鞘に収まりましょうよ、がありがちな解決方法だけど、それは欺瞞であると。報瀬が吠えるんですよね。「お前らが私の友達を傷付けたのは事実なんだから、お前らはそれをずっと後悔していればいい」と、NOの倫理を突き付けたのが『よりもい』の本当に素晴らしいところで。

 

ろこ:同調圧力ね。

 

政夫:テン年代は、特に「友達探し」や「自分探し」はテーマにあるのかなって思いますね。その辺の「自意識」ですね、一言で括ってしまえば。他人からどう見られているかどうかの他者の評価と自己評価のズレという自意識の問題も相まって、「自分探し」のナルシズムだったり、居場所としての「友達探し」は典型なんですよね。

だから「友達」は一種のバロメータになる。友達の数が多ければ多いほど、その人は人気者で、人徳があって、スペック高くて、スクールカースト上位でみたいな。

 

ろこ:そういうのをしないとはみ出ちゃうものね。

 

政夫:それらが一緒くたにヒモ付されやすい。友達多いという事実は、それをリアリティにする。

だから、友達多くないと自分はダメなんだなって卑下するんですよ。孤独に追いやられてしまう。

でも、自分が好きなものに没頭すれば孤独というのは癒えるけど、自己完結できるんだけど、それでも他者性は欲しいよねとなる。

リンちゃんが、キャンプをしたいと思える仲間がいなかったのか、理解が得られなかったのかどうかは1話の段階では見えてこないんですけど、ただ事実としては彼女がソロキャンしていることは、自己充足的であるし、加えて彼女自身はボッチであることに負い目を感じていない。なぜなら自分の好きなものをやっているから。結果的に、一人であるだけ=ソロキャンなだけ。

というリンちゃんの世界観に、ピンク色の髪の毛の子との邂逅があってというのが第1話ですね。そのピンクの子と出会う前に、目の前に富士山が見える湖で読書をしながら、友達からLINEのメッセージの遣り取りをしているというSNSの描写の仕方は大事だなって思っていて。

 

ろこ:ほう。

 

政夫:事実だけを切り取れば、リンちゃんは一人だけど孤独ではないんだなって。LINEする友達はいるし、好きなキャンプをやっているからSNSとか面倒臭いかもしれないけど、自分の時間を邪魔される感覚を抱かずに、LINEをきちんと返しているし。

 

ろこ:俺はそこはちょっと同意できないな。

 

政夫:どういうことですか。

 

ろこ:孤独よ絶対。

 

政夫:でも足りていますよ。一人で。友達もいるんですよ、LINEするような。

 

ろこ:キャンプだから夜一人やろ。孤独じゃないか。

 

政夫:孤独だからと言ってやらない理由にはならないですよね。だってそれが嫌だったら、ソロキャンをやらないじゃないですか。彼女自身は自己充足的に完結しているから、重要なファクターではないんですよ。ボッチという事実があるにしても、彼女には大きな障害やレッテルになっていない。好きなことをやっているだけで、結果的にボッチであるだけで、彼女が寂しさというものに疑問を感じていないと思うんですよ。第1話を観る限り。寧ろ、好きなことをやっている幸福感の方が強い。

 

ろこ:マジか。俺なんかは一人は無理だわ。だってキャンプやろ。

 

政夫:そういう人もいるでしょ(笑)

だから、「学校」から始まらないんですよ、この物語は。「学校」の「外」から始まるんですよ。「学校」の「中」から始まるとボッチであることが浮いてしまうんですよ。第1話で「外」から始めて「学校」に入っていく流れは凄いスムーズで、リンちゃんを描いたという事実に焦点を当てれば当たり前のロジックなんですよね。

リンちゃん自身は自己完結しているから、ボッチである――友達はいますけど、ソロキャンをしていることに何も疑問を感じていない。

 

ろこ:その友達はキャンプに行かないのかな。

 

政夫:分からないです。その友達のスタンスが分からないから。まだ1話しか観ていないから(笑)

スマホの使い方は大事だなってのが見て取れて。冒頭が焚火のシーンなんですよ。最初にネタバレを提示する構成で、リンちゃん以外にも女の子が複数いる中で焚火をしているシーンから始まるんですよ。リンちゃんは一人じゃなくなるんだなって。

ゆるキャン△』って「友達探し系」+「日常系」+スローライフ的(ヒーリング)な生活なのかなって。「部活モノ」ではない「日常系」の延長を描くのかなって予想はしているんですけど、ボッチであるリンちゃんが…ボッチという言い方も彼女に失礼なような気がするんですよね。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:ボッチであることに負い目を感じていないキャラだから。そもそも負い目を感じる必要性は無いんですけど。自意識として他人の目が気になるだけだから。

 

ろこ:それは刷り込まれていると思う。

 

政夫:勿論、学校というシステムがそうだから。題材として描きやすいし、システム的に自然に浮かび上がって来るし。

冒頭の焚火のシーンで、焼きマシュマロをやっているんですよ。

で、カメラワークが全員の顔を舐めるように動くんですよ。これは誰かの目線、一人称視点なんですよ。それがピンク髪の子だと直後に分かる流れで、その子が「みんなで撮ろうよ」って言ってスマホで。そのシーンでは、スマホが画面のカメラ的に描かれているんですよね。最後、みんなで自撮りするところで終わって、OPに行く構成。もうスマホ的というかSNS的なんですよね。インスタグラムぽいんですよ。

複数人の女の子がキャンプをやって、スマホを片手に、カメラワークを担う一人称視点の子がスマホで焚火をしている友達の顔を捉えて、最後は自分たちに向けて自撮りをする。もうSNSじゃないですか、完全に。SNSの描き方というのは、そこから起点としてあって。これから、どういう風にSNSが描かれていくかは気になりますね。

途中のシーンで、リンちゃんがソロキャンをしている最中に読書をするシーンがあるんですよ。

 

ろこ:えっ。

 

政夫:キャンプ中に読書!?

でも、「敢えて」それをやることの意味は大事。だって、そもそもそういう「遊び」じゃないですか。手間暇を「遊ぶ」ものじゃないですか。

 

ろこ:いや、なんかもう、俺にとってキャンプは一人じゃないから…

 

政夫:だってキャンプって面倒臭いでしょ。

 

ろこ:面倒臭い。

 

政夫:その面倒臭さを楽しむのがキャンプじゃないですか。読書なんて、家や喫茶店でやればいいじゃんってなりますけど、富士山が見えるところでキャンプをして、自分で沸したスープを飲みながら、読書することに意味があるんですよ。読書という行為自体に意味はないです。全体の一部であり、過程なんです。

ここに『ゆるキャン△』の本質じゃなくて…「キャンプ」の本質を見た気がしました。僕自身はアウトドアではないから、全く憧れは無いですけど、ただ「敢えて」それをやる意味は分かる。それを「遊ぶ」ものじゃないですか。

具体的なシーンの話ですが、「今日は寒くないから焚火しなくていいや」と彼女が言うんですよ。「焚火したら煙臭くなるし」とか。

 

ろこ:待って。誰に言ってんの?

 

政夫:モノローグですよ。焚火するのは面倒くさいと言いつつも、めちゃめちゃ楽しそうに焚火をしているんですよ。なんで楽しそうにやっているかというと、キャンプが好きだからじゃないですか。ゆっくり読書したいけど、寒いから嫌だなって、焚火をするのは面倒くさいしで、煙臭くなるしと言いながらも、焚火をしている時は楽しそうに描かれている。

キャンプ中に読書という行為は結果というよりも、キャンプという結果に含まれているだけなんですよね。そこに、彼女の充足感が滲み出ている。

 

ろこ:政夫君的には、彼女の行動は刺さるの?

 

政夫:ここまで喋っていますけど、第1話を観ても何も思わなかったですよ。

 

ろこ:何も思わなかった(笑)

 

政夫:特に面白いとかつまらないとか思わなかったですね。

 

ろこ:俺も、何が面白いんだろと話を聞いてて思ったのだけど。

 

政夫:でも、そういうのは抜きにしても喋ることはありますよ。

 

ろこ:それが疑問なんだよね(笑)

 

政夫:面白いとかつまらないとかは一つの感情でしかないから、そんなのを抜きにしても話すことはできますよ。

だって『ゆるキャン△』が示しているモノは象徴的であるから。新しいというか、テン年代の「友達探し系」のつながりやボッチのコンプレックスに対して、最初からボッチでもいいじゃん!キャンプは一人でも楽しいよみたいなのをリンちゃんで完結させているから。彼女はボッチというよりも、SNS上でコミュニケーションをする友達はいるから、学校でも挨拶する子はいるし。

 

ろこ:キャンプ好きということを隠している?

 

政夫:いや、そうでもないですね。その友達も知っています。

だから、1話だけ観ると、リンちゃんと友達の関係性というのは、友達なんだけどキャンプを共有する程のものではないし、そこに一線がある。他人にそこに踏み込まれたくない心的な機能なのか、お互いに空気を読んだ果ての結果なのかは勿論まだ分からないですけど、ピンクの子が途中でキャンプに乱入?するんですよ。寒そうだから焚火を起こしたりしてあげるんです。カレー味のカップラーメンを分けてあげたりするんですよ。その手際の良さに、ピンクの子がリンちゃんに「プロみたいだね」と言うんですよ。そうするとリンちゃんがモノローグで「なんのだよ」ってツッコむんですよね。このシーンは重要で、素人からすればキャンプのプロとかの区別は付かないんですよ。

 

ろこ:確かに…

 

政夫:視聴者目線じゃないとできないセリフ。それをピンクの子に言わせることで、リンちゃんが何者なのかを問うている。それを彼女は内心で否定している。リンちゃんはプロじゃないと示されているんですよ。リンちゃん自身はキャンプのプロではないと自覚しているけど、他人からみるとプロみたいに見えなくもない。手際が良すぎて。

ここで見えてくるのは、リンちゃんのキャンプ歴の長さや経験値なんですよね。その経験値が、リンちゃんにとってはソロキャンの歴史でもあるわけですね。彼女が培ってきた経験は自分一人で磨かれてきたものなんです。というのを視聴者に提示している。

で、このリンちゃんがピンクの子の熱に巻き込まれて、一緒にキャンプをしていく・友達になっていく話になるのかなって…冒頭のシーンも考えると。

友達感というか、倫理観をどこまで描くのか。

『よりもい』を引き合いに出すなら、そこまで踏み込んでいるかどうかの見せ方を期待してしまいますね。単なる「日常系」の女の子たちがキャッキャッしているだけのものではなく、どうやって「友達探し」の「空間」を作っていくか。リンちゃんが一人じゃなくなるのかどうかは重要だと思いますね。

彼女の問題は、ボッチであることに困っていないから。そこが物語の鍵かなって。

 

ろこ:困っていない?

 

政夫:だってソロキャンしているから。現状で満ち足りているんですよ。キャンプにおいて、他者性を必要としていない。それに対して、どういう巻き込み方をするのか、見せ方をするのか脚本上気になりますね。期待しているところ。

細かい話ですけど、1話の中でリンちゃんは2回トイレに行くんですよ。スープを飲み過ぎて。

 

ろこ:キャンプ場のトイレは汚いぞ。

 

政夫:(笑)アニメのキャラに1話の中で2回トイレ行かせたことが大きいんですよ。

アニメのキャラは本来記号ですよ。シンプルな線によって出来ている記号で、最初に話しとくべきだった話題ですが、なんで『よりもい』と『ゆるキャン△』が双肩的に語られているのかなって考えた時に、最初の印象はどちらも背景が緻密なんですよね。リアリズムなんですよ。その中でキマリたちをどう背景に馴染ませるかどうか。『よりもい』は僕の印象だと、ベタっとする感じでキャラと美術を組み合わせているような。

 

ろこ:分からん…

 

政夫:『ゆるキャン△』も美術が凄いんですよ。そこに、ピンクの髪色の子を入れたらぶっ壊れるじゃないですか。背景はリアルなのに、記号的なキャラクタは不自然なところを色彩感覚的にハメている。ちゃんと合っている印象で。上手く色と線がハマっているというんですかね。キャラが浮いていない。『よりもい』は若干ハンコ感がある時もあるんですけど。

 

ろこ:先生いいですか。1クール分、全話そういうのをチェックするんですか。

 

政夫:『ゆるキャン△』はしないですよ。『SSSS.GRIDMAN』は再生と一時停止と巻き戻しの連打でしたけど。

 

ろこ:マジっすか(笑)

 

政夫:『GRIDMAN』はエヴァオタからすると、堪らない作品だったんで。電線とか。

 

ろこ:分からない…

 

政夫:それは『エヴァ』を観ないとダメですよ。

 

ろこ:オタクや。

 

政夫:俺は全然作画オタクじゃないんで。作オタってのは、パート毎にどのアニメーターが描いたのか分かるんですよ。

 

ろこ:マジっすか。

 

政夫:俺は全然違いますよ。こんなのを作画オタクなんて言ったら失礼ですよ、本当に。

 

ろこ:そういうオタクの人たちって存在感はあるんですか。オタクの世界で。

 

政夫:存在感って分からないけど(オタクが階層社会的だとするなら)。

 

ろこ:それって、その人にしか分からない視点だから。技術かもしれないけど。

 

政夫:物語構造を読むとかよりもマニアックですよ。作画オタクというのは。でも、そういうの分からないじゃないんですよ。そういうのが分かる人が集まるのがインターネットですよ。付いて来れる人がいるのが、それが可視化できるのがインターネットだから。

トイレ二回行ったという話です。

キャラに身体性があるんです。生身感があるんです。ジブリのような瑞々しい躍動感とかじゃなくて、より生体的な身体性として獲得している。アニメとかを観ていて、こいつらあんなに飲み食いしていていつトイレに行っているんだろと思うじゃないですか。

 

ろこ:思わない(笑)

 

政夫:思うでしょ!キャラを記号以上に捉えるならば。リンちゃんはキャンプをしながら、スープを飲んでいてトイレに行きたくなるのは当然じゃないですか。

 

ろこ:それは分かる。

 

政夫:大事で、生理現象は当然導かれるんですよ。

『よりもい』でいえば、船酔いしてトイレにめっちゃ行くのも当然の生理現象じゃないですか。なんで『よりもい』があんなにフィジカルがあったのかというと、「学校」から飛び出して南極に行ったという事実もそうですけど、そこまでの工程で身体性と生活を描いているから。フィジカルのある描き方をしている。

ゆるキャン△』もそうです。「学校」の「外」という剥き出しの場所で、誰も守ってくれないところに一人でキャンプをしているから、一人で自己完結的にアクションを取り、その結果は生理現象は発生する。フィジカルを描いているのだから。アニメという二次元のキャラクタたち、記号が、どれだけ人間に近付けるか。そういう試行錯誤なんですよね。高畑勲は特にそういうリアリズムに、どうファンタジーをぶつけるかっていう。

『よりもい』や『ゆるキャン△』はそうじゃなくても。彼女たちに生身の身体を与えるかという。その点では、別にこの両作品が画期的だったというわけでもないんですよ。

 

ろこ:何かを食べているよね。肉を食べていたのを観た記憶あるわ。そういうことだよね。

 

政夫:はい。「生活する」ということはそういうことですからね。キャンプは外で生活することだから、トイレには行くんですよ。

本来、少女キャラクターにトイレに行かせるって、フェティシュ過ぎるというか、一種の幻想をぶち壊すというか。アイドルはトイレしません!みたいなのあるじゃないですか。でも、するじゃんって。それを第1話の段階で2回もトイレに行かせているという事実が結構大きい。

 

ろこ:先生、お風呂とかあるんですか。

 

政夫:お風呂シーンは1話は無いですね。アニメではサービスシーン的な意味合いでありますよ。だって『ドラえもん』のしずかちゃんもお風呂シーンあるんじゃないですか。あれはラッキースケベ的な演出ですけど。

 

ろこ:ラッキースケベ(笑)

 

政夫:キャーエッチ!の流れのためにあるだけで、しずかちゃんのフィジカル云々という話ではないですけど。

 

ろこ:もう一個質問良いですか。富士山が見えるキャンプ場ということは、その辺に住んでいる子ということかな。

 

政夫:んー、チャリで来ていましたからね。

 

ろこ:チャリ。

 

政夫:後ろに荷物を積んで。

 

ろこ:ガチやな。俺だったら車で行っちゃおうぜみたいな人生だけど。芸人のヒロシがキャンプ動画やっているじゃん。あーいうのが人気なのはそういうことなのかな。

 

政夫:ヒロシのヤフー記事ありましたね。

headlines.yahoo.co.jp

あと、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本があるんですけど。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

暇とは何か?退屈とは何か?という哲学書があるんですよね。このテーマ自体は國分さん発信というわけでもなくて、元々あるんですよ。暇とは何なのかって。

例えば、パスカルさんが『パンセ』で言っていたのが――「人間は考える葦である」――

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋にじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

みたいな文章があるんですよ。

部屋でじっとしていられないのが人間の不幸であると言っているんです。そこを出発点にして、國分さんは数々の哲学者の文献を参照しながら、「暇と退屈」について書いている人文書ですね。2011年に出た本なんですけど、結構面白くて、難しいこともあまり書いていなくて、哲学書って距離が遠くなりがちですけど、とても読み易い本でオススメですね。文中にあった定住革命について…『サピエンス全史』も売れましたよね。今は『ホモ・デウス』ですけど。

 

ろこ:なにそれ?

 

政夫:本ですよ(笑)ベストセラーになったじゃないですか。なんでホモ・サピエンスが生き残ったのかというテーマを巡る本で、今は『ホモ・デウス』にアップデートされていますけど。人類史ですね。

昔、みんなキャンプしていたんですよ。遊動生活だったわけですね。それが定住革命後、みんな定住生活になったと。なんで定住したのか、そのメリットやデメリットは『暇と退屈の倫理学』でも触れられているんですけど、それを言いたいわけじゃなくて。

僕らは定住生活者だから、その視点しか持てないんですよ。遊動生活のことを考えられないんですよ。一個の場所にじっとしていることが浸透しているから。

でも、昔は遊動生活時代はマンモスなどを狩猟する為に追い掛けていたんですよ。その日暮らし。日没までの時間を考えながら、雨風を凌ぐ場所を探しながら、その日その日をずっと考えながら生活していたんですけど、ある時代から定住するようになったと。それで、この本に書いているところをまま引用すると、

(遊動生活ならではの)そうした労苦こそは、まさしく遊動生活の困難として考えられてきたわけだが、遊動民の側から定住生活を見ることによって、この論理を逆転させることができるのだ。すなわち、遊動生活がもたらす負荷こそは、人間のもつ潜在的能力にとって心地いいものであったはずだ、と。

自分の肉体的に・心理的な能力を存分に発揮するこおtが強い充実感をもたらすであろうことは想像に難くない。そして、定住生活ではその発揮の場面が限られてくる。毎日、毎年、同じことが続き、目の前には同じ風景が広がる。そうすると、かつての遊動生活では十分に発揮されていた人間の能力は行き場を失う。もっといろいろなことができるはずであるのに、することがない。自分の能力を十分に発揮することができない。まさに退屈である。

 

これ、まんまキャンプじゃないですか。定住生活のアンチテーゼなんですよ、キャンプが。

遊動生活だったら、狩りや住居を決める判断や天候についての判断などの総体的な判断で、その日を暮していかないといけないじゃないですか。五感が研ぎ澄まされるんです。サバイバルであるんだけど、肉体的にも精神的にも凄い充実感があるよねという。でも、定住生活は、そういうノイズを排除して心地よくさせる一方、遊動生活であったサバイバルならではの充実感を閉じ込めてしまったんですよね。そういうことが述べられているんですけど、要するにパスカルの言葉「部屋でじっとしてられなくなったのが人間の不幸である」を引用しましたが、定住生活の視点なんですよね。それ以前は遊動生活で、常に移動していていたんだから、じっとするも何もないじゃないですか。

 

ろこ:話がズレるかもしれないけど、オードリーの若林がモンゴルに行った時に、そういう話をしていた記憶があるんだよね。

 

政夫:それ、オールナイトニッポンを聴いていましたよ。

 

ろこ:ゲルの中では全然ええもん食えなかったけど、ホテルかなんかで飯を食べたらめっちゃ美味くて。「俺、何のために飯を食べているのか分からなくなった」って言っていて、政夫君の話を聴いていて思い出したんだよね。

 

政夫:定住生活によって発生するメリットとデメリットですよね。

「遊動生活」、「自然に帰れ!」みたいな話じゃなくて、定住生活によって齎された暇と退屈との付き合い方について考えざるを得なくなった、人間は。

その一環としてキャンプがある。キャンプは非日常でもあるんだけど、「期間限定の遊動生活でもあり、期間限定の定住生活でもある」から。

定住生活の「退屈」から飛び出して、充実感を得る=外でサバイブするけど、そこに一時的に定住するものだから、キャンプは。「外」に出て別の新しい「退屈」に没入していくキャンプは、遊動生活でもあり定住生活でもあるわけですね。微妙な関係性なんですよね、キャンプは。

だから「退屈」を楽しむんですよ。というわけで、リンちゃんはキャンプ中に読書をするんですよ。わざわざキャンプ中に読書をしなくてもいいのに。「敢えて」やる意味ですね。

 

ろこ:成程!

 

政夫:という話を最後に盛り込んで『ゆるキャン△』第1話の感想を終わりたいと思います。

いや、本当に國分さんの『暇と退屈の倫理学』は素晴らしい本だから、全然難しくないし、読んで欲しいですね。ハイデガーも触れられているし。読んどいて損は無いなと思うんですけど。

 

 ※この記事は1月に配信したものの一部を文字起こししたものです

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