又吉直樹『火花』感想「間」を彩る
又吉直樹『火花』を読んだ。この記事は滔々と感想を書くものではないので割愛。
話題になり、芥川賞受賞ブーストもあってベストセラー化。ドラマ化、映画化、個人的には近年のAmazonの文芸レビュー数はダントツだったと記憶している。
「いつか読むだろうな」「でも、読まないだろうな」という感覚を『火花』には持っていて。
読んだキッカケは、とある人からオススメをして貰ったから。あの遣り取りが無ければ読むことは無かったと思う。背中を押していただいた。カミナリの『M-1』でのネタにある、崖から熊を落とした何某くらいの力強さで。崖下には荒れ狂った波が打ちつけているものだが、『火花』を読んだ時の感情は「激情」であった(又吉の2作目とは関係ないです)。
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どうしても色眼鏡で見てしまっていた。芸人・又吉をテレビで観ていたから。
ピースのコンビ間の印象が徐々に変化し、力関係が変わったことは世間的にも有名だろう。相方の綾部さんはわざわざアメリカでインスタ芸人になっている。
そういえば、直木賞候補作が発表された。セカオワのピアノの人、Saoriこと藤崎彩織の処女作がノミネートされている。
読んでいない人は容赦なく色眼鏡で見るものだ。無責任に好き勝手に言うものだ。読んだ後に口々に言えばいい。
先ずは読め。話はそこからだ。ちなみに、私は読んでいないから話は膨らまない。
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読まないと始まらない。私にとって『火花』は例に漏れずそんな本だった。
奥泉光「二人のやりとりと状況説明が交互に現れる叙述はやや平板だ。」
この選評は納得で。
『火花』の叙述は、漫才における「ボケ」と「ツッコミ」の要領そのもの。
神谷の突拍子の無さ、ぶっ飛び具合、そこには芸人としての矜持や屁理屈がある。そこを調整するのが徳永の視点。
「ボケ」は世界からはみ出してナンボ。「ツッコミ」は世界の関節が外れてしまったものを揺り戻すように、相方の頭を叩く。そこにとぼけた「間」が生まれる。
小説的にその叙述が成功しているかどうかは、奥泉光の選評にあるように「平板」(テンションとリズムが一定)なので、掛け合いが説明的になってしまっていると私は思うが、神谷というキャラの手綱を放しっ放しにすると小説的に暴れて閉じる難しさが生まれてしまう。
徳永の視点からの解放が、芸人としての神谷の自己批評による自己破壊が進行して、笑いへの狂気と近似した感覚の壊れっぷりがラストで描かれている。神谷が「批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる」と徳永に語るシーンがあるが、徳永の視点を交えたことによって、芸人・神谷の俯瞰で観ることを忌み嫌いながら自己分析とのせめぎ合いといった中途半端なバランスが浮き彫りになっている。感覚的にアホをやることを願いつつ、どこか客観的に状況を捉えることで「オイシイ」という計算が働くように、藤永を通して神谷の芸人としての振り幅が当初よりも徐々に狭くなっていくような寂しさがあった。
余談だが、フットボールアワーの後藤の「例えツッコミ」は「ボケ」なので、雛壇ではそこまでのフリを全て持って行ってしまう「〆」になる。「テレビ的」には編集がしやすそうだなって思っている。雛壇に座っているバチバチと虎視眈々と狙っている芸人さんには大変であるが、奥底に溜まっている外れる力を後藤が根こそぎ持って行くのだから凄い。
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「作家と作品は別物」はよく言われる言葉。
しかし、著作に込められた問題意識や稚気に触れるたびに「別物って切り離せるものなのか?」と思わされる。
- そんな単純な話なのか?
- 読者側が簡単に片付けていいものなのか?
- それは傲慢でないのか?
間違いなく『火花』は芸人・又吉直樹だからこそ描けた小説である。
芸人という職業柄だけではなく、文学への愛情に傾倒して炸裂させたのが『火花』であるから、その表現方法の媒介として相応しかったのが漫才だったと思う。
長嶋有が対談で「半分『剥き身』が見えた」と発言している。
『火花』は作家・又吉直樹が私小説的に書いたものではないが、ルーツやスタイルという点では完全に分離しているわけではないから、「中間」が腑に落ちる。そのグロテスクさが「半分『剥き身』的」に描かれている。
しかし、私小説風全開に又吉の日常性を強く打ち出せば、作品としての妥協のグラデーションは濃くなっていたと思う。
「中間」だからこそ描ける世界がある。
芸人であり、作家でもある又吉の両面性の視点の介在が『火花』を作ったのではないだろうか。
簡単に区切りがちだと思う。
何でもかんでもラべリングして、自分の(分かる範囲での)枠に落とし過ぎではないだろうか。分からない事は恐いことである。
しかし、不安を消すために安易に嵌め込みすぎるのも恐い。
カルチャーが細分化して、ジャンルを語るには枠組みに嵌めないといけない。同一ジャンルや隣接的なジャンルとの(優劣ではない)比較論を生み出すには必要な工程であるが、ある程度の余白も欲しい。でも、そこを塗り潰したい欲求もある。極端とのせめぎ合い。
だから「中間」が必要になる。
全力で悩み苦しんで泥を啜るくらい振り切ることは大切である。対照的に「中間」は一見手抜きのように受け取られがちであるが、「間」を取り持つ難しさもある。
「間は外すと悪魔になる」といった言葉もあるように、『火花』には「間」を外さない当て感の生々しさとして芸人・又吉直樹の顔を覗かせているように思えてならない。
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夏の夜、膝を丸めながら線香花火をぽつぽつと楽しむ。花火がひっそりと散った余韻が心地いいように。
花火の最後の瞬間――刹那的な美、夜の帳が下りるまでの孤独。
私にとって『火花』はそういう小説だった。