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しまいには世の中が真っ赤になった。

伊坂幸太郎『SOSの猿』感想 伊坂幸太郎が伊坂幸太郎を実験した

 

SOSの猿 (中公文庫)

SOSの猿 (中公文庫)

 

 

正義の話である。

徹底的な善悪を管理するために組織的構造へ展開したものが、監視社会的ディストピア小説になるだろう。ジョージ・オーウェル1984年』、伊坂幸太郎でいうと『ゴールデンスランバー』、『モダンタイムス』、『火星に住むつもりかい?』になる。

村上春樹エルサレム受賞スピーチ | 書き起こし.com

 

壁と卵 (内田樹の研究室)

彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。

しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。

経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。

そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。

それが「本態的に弱い」ということである。

村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。

 

『SOSの猿』は、壁側(『火星に住むつもりかい?』まで)を構築する以前の原理として「正義の在り方」について問う。

「風吹けば桶屋が儲かる」のように因果関係の線引きが価値基準となるべく、どこに原因の起点があるかどうか。どこまで遡及するべきか。時間や因果には不可逆性があるために、根源的な善悪を明確にすることで加害行為とn次被害(損害)を区別していく。

事実的な因果関係を据えると無制限に広がってしまうので、ある程度制限する相当因果関係が定説であるが、物語としてのフレームを考えると相当因果関係に必然的に落ち着く。事実的因果関係を採るならば物語の風呂敷が畳みきることが出来なくなってしまう。これは伏線回収作家の伊坂幸太郎としてのジレンマに繋がっていく。

ゴールデンスランバー』以降、つまり本作までには『モダンタイムス』、『あるキング』といった前フリがあり、伊坂幸太郎が全てを構成しながらも意図的に余白を残す方向にシフトした。伊坂幸太郎のエンタメ小説の気持ち良さを期待すると、それはまさに脱力的構造。圧倒的伏線回収の連鎖爆発ではない。

肩透かしならぬ「型スカシ」といったところか。

しかし、この「型スカシ」が本作の重要なエッセンスになっている。

伊坂幸太郎という型から「型破り」への道しるべである。精緻なデッサンが描けるからこそピカソは型を破り、論理があった。 

例えばポストモダンである。

ポストモダンとは型をズラした構造であった。その影響からポストモダン建築や思想は作家至上主義へ集束していく傾向があった。

diamond.jp

 

カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるかを考えた。どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっている何らかの型(概念)にあてはめてそれを理解しているというわけだ。/

人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にあてはめて、主体的にまとめ上げる。一八世紀の哲学者カントはそのように考えた。 國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

建築学モダニズムの段階で、共有されていた物語の喪失=受け手のリテラシーの限界といった袋小路へ接近していった。それ以降は袋小路の枝分かれ、カルチャーの細分化が発生して、エンタメとしての中心が無い状態に陥ったのが現代といえる。中心が無いドーナツそのものだ。

「ポピュラーカルチャー論」講義-時代意識の社会学―

「ポピュラーカルチャー論」講義-時代意識の社会学―

 

 

それ以降の傾向とする作家至上主義、つまり商業システムに組み込まれている作家への期待値から考える「作品と作家」との距離は記号論的で、消費社会論的でもある。

初期の伊坂幸太郎が書いた『オーデュボンの祈り』、『ラッシュライフ』、『陽気なギャングが地球を回す』、『重力ピエロ』、『アヒルと鴨のコインロッカー』などが伊坂幸太郎の作家性(例えば洒脱な圧倒的連鎖爆発)を形成して流通された。それから共有が難しくなった物語の細分化によって浮き彫りになった受け手のリテラシー能力の欠乏から、作家というコードや神話化は大事なメルクマールとなっていく。

しかし、作家至上主義へのカウンターとして、言葉の復権や再定義、より大きなものを直接的に大きく語るべき時代に移り変わっていく中で、このように作家の作品群を羅列することで書くパラドックスがあるわけだ。

また、成り上がり革命的構造、反体制側が体制側に回った時に壊すものが無くなったような空回りは、それ以後のセルフリメイク/パロディに終始するしかない。『エヴァ』や麻耶雄嵩などの(サブ)カルチャーが陥り易い罠のように、同人誌化=キャラで動かすことになり、世界観そのものは矮小化されてしまう。

『SOSの猿』は作家至上主義へのアクションとして、原理のパロディから破壊していく構造となっている。

伊坂幸太郎自身のメタ小説である。

つまり物語的御都合主義へのカウンターとなっており、作家伊坂幸太郎伊坂幸太郎の作品を分析して批評した作品だ。だからこそ、ファンへのサービスよりも伊坂幸太郎自身へのサービス満載と言えようか。

ミステリ的構造や作品の遊び(余白)からリアリティを下敷きにしてズラして振り戻す剛腕さは伊坂幸太郎らしいし、それが軽やかであることは間違いない。

伊坂幸太郎の作家性が持つ「重力という幻想とリアリティ」を実験的に扱った『SOSの猿』は、避けては通れないメルクマールである。 

初期の『オーデュボンの祈り』、『重力ピエロ』、『アヒルと鴨のコインロッカー』などは、「予定説」や社会的弱者=マイノリティをジャポニズムを排さずに欧米の宗教的価値観や音楽性で和魂洋才として型取り、「虚構」の力によって救済することが描かれた。

『重力ピエロ』のように血や遺伝子から「自分探し」に至るのはゼロ年代セカイ系らしさが溢れており、能動態/受動態から「外」や「家族=共同体」と「隣人愛」や「善意」を結びつけた。

『SOSの猿』の主人公=探偵役は、混沌に秩序を与えようとするエクソシスト兼カウンセリング。エクソシストなんて大それたエキゾチックさを持ち出している。

「父の不在」が書かれ、(不在の父)親の愛を肥大化した母性で庇護する女性から依頼を受けるところから物語は始まる。自分の部屋という殻に閉じこもる引きこもり青年の存在が物語の基盤となる。

果たして暴力は一概に「悪」といえるのだろうか?

暴力の肯定と否定を渦巻くように、殻に閉じこもる青年の親への複合的感情と性欲を繋ぐ「エディプス期」を描くことをスカし、作中で「フロイト」よりも「ユング」であることを宣言する明らかな態度。

ユング心理学の特徴:ユングで学ぶ心理学入門

個性化

ユングは、自らの夢や幻像の中の体験を通して、自身のこころは「個性化過程」を歩んでいるという表現をしました。 この個性化とは、価値判断や感情的な絡まりというような「自分の思考からの離脱」を意味しています。自分自身の本来のいのち、また客観性に到達するためには、感情の投射を棄て去ることが大切で、あるがままの思考の流れにまかせることによって客観的認識に到達できるのだとユングは考えています。

人が個性化過程を歩む時、誤りや失敗は必ず起こるのが常なのです。そして在るがままに肯定することが近道なのです。自己の統合への道程では失敗にも陥らず、危険にも遭遇しないとう保証はないので、確実に安全な道を歩くという選択をしたとき、人は死んでいるのと同じだとユングは述べています。

 

個性化過程での葛藤・対立

ひとは、深層にある集合的無意識が救済されて、人格に統合されるに至る個性化過程を進むとき、自己の意識は耐え難いほどの葛藤や、味わったものにしか理解しえないような心理的な窮境を通過するそうです。

この個性化過程の段階を経て体験したことは、人間にとってほとんど言語に置き換えることが不可能だと感じるほどに表現困難であり、話す気にならないような性質を持っている類のものです。 

ユングはそれを夢や空想に現れるイメージ象徴として捉えました。また葛藤や対立を自己の認識に浮上させてその意味を考えることは、自己意識の安心を得るために大切な作業だと考えていました。

主観的、客観的な葛藤の救済として許容されるべき「なんとなくなイメージ」が、作中では不揃いで曖昧な整合性のある予知夢として提供される。このブサイクな偶然性は、必然的に纏め上げる伊坂幸太郎的物語の御都合に対するカウンターとなるわけであるから、物語としてズラすことが欠かせない。

「リアリティとファンタジー」を掲げることでエンタメ小説の枠組み=フレームの限界があり、作家伊坂幸太郎へのニーズがビジネスとしてあり、具体的なイメージやニーズをズラしてスカす実験をすることで、伊坂幸太郎が自身の天井を引き上げる作業を行おうとしたのが本作になる。

「リアリティとファンタジー」や「ニーズとスカシ」のように二項対立で語ることで議題の分散化が行われてしまう危険性がありながらも、二項対立として掲げるから当然論じることができるジレンマがあるように。

ドーナツの穴のように中心がないまま記号的に配置された細分化に対して、大きな枠組みでエンタメを語るべき空気を醸成するための一歩ではないだろうか。

だからこそ『SOSの猿』を語るのは難しい。

伊坂幸太郎は「他者性」や「隣人愛」と同時に人間の無力感、暴力性、悲劇性から逃避することはない。そこからの一歩を描くためには原因が必要となる。そのための因果関係の話だ。

『SOSの猿』はユングであるが、フロイトの原光景のように本作では心象風景が「抑圧」をイメージ化し、感情の発露へのプロセスを合間にスカしながら書かれている。

伊坂幸太郎の読者が期待する伊坂幸太郎ではないだろう。

しかし、既存の殻を破るのに必要な伊坂幸太郎の実験が『SOSの猿』だったと思う。

必読ではないが、大事な一冊である。

藤井太洋『オービタル・クラウド』読書感想

 

 

久しぶりにSFを読んだ。

ミステリが主食な私は、サイバーパンク系は今まで何度か手にしたことがある程度で、SFは門外漢。Twitter上で遣り取りさせて戴いたSFファンの方にオススメを訊いたら、本書が挙がったので即座に読破。

楽しかった。ページを捲る手が止まらなかった。

正直、作中の天体の動きに纏わる細かい数字とかは全く分からないが、国際的スパイ巨編!アクションあり、ペーソスあり、ユーモアあり。

まさに映画化案件だと思う。ハリウッドでの映画化まで妄想した。『ゼロ・グラビティ』くらいの映像スケールで。

物語の根幹は技術屋の叫び。現場ならではの苦悩を描いたニヒリズムからの発展を主としたヒロイズムそのもの。一先ず主観的な善悪は置いといて。

才能、資源、コストの掛け方、要は適材適所。才能の使い方の話。

得てして人間は類い稀な才能に呼応するかのように動きを起こす。そこで楽々と壁を乗り越える者、乗り越えられない者の違いが生じていく。その辺の残酷さ、虚無さなどをリアリズム的な描写を青春グラフィティとして落とし込んだのが米澤穂信の『クドリャフカの順番』であったりするが、本書はよりドラスティックに描かれている。そこは高校生と大人の違いだろうか。あと、ビジネスという形態や抱えているスケールの違いも。

どれだけ才能があっても、ある一定の集団における理解と共感が必要になる。その点で「孤独な人」と「チーム」の対比は熱かった。素晴らしかった。

先に例として出した『クドリャフカの順番』において伊原摩耶花と河内先輩「名作論」を闘わせるシーンがある。才能の閃きは主観によるものとか、面白さを理解できる環境・状況が必要なのかどうか。

伊原は圧倒的であれば誰にでも通じる!と主張します。それが作中でキーアイテムとなる『夕べには骸に』と『十文字事件』に繋がっていくわけであるが。

詳しくはこちらを参照してください。 

junkheadnayatura.blog24.fc2.com

 

とんとん拍子に事を運ばせるために主人公のスペックが都合よすぎるきらいがあるが、現場一筋のアマチュアが世界の名だたるプロを凌駕し、抜擢されたサクセスストーリーとしてみれば全然アリ。

それこそ作中にもある『グレート・リープ』なわけで、埋もれていた原石が輝く瞬間、承認される場面ってワクワクするでしょ。スポーツ漫画とかで、弱小高校に所属している主人公が努力を対価に強豪をバタバタとなぎ倒していく。スペックを埋めるための創意工夫。弱者なりの戦法や個としてのオリジナリティの発揮。そしてライバルたちに認知されていく。

ベタだけど、好きだ。みんな好きだからベタになる。

本書では同じような境遇・ステージが近かった彼らが最終的には道を違えた構図がとてもシニカルで、少しのボタンの掛け違いから悲劇性とは生まれるものだと。

他人からの許容と承認は普遍的です。それこそSNSやブログとかの「バズる」や「いいね」なんかはその欲求をインスタントに可視化したものとも言える。ある程度の承認にはライブ感と環境理解が必要ですが。

現場の上に当たる人たちの原石を眠らせない使命感や命の使い方。スパイもので興奮しながらもしみじみさせてくれたり。

基本的に作中において嫌な人物が居なかった気がする。

一応、善悪として描くために敵は設定されているが、敵役の理念を書き込んでいるのも大きい。作劇における駒扱いではない部分がしっかり書き込めているので、『機動戦士ガンダム』や『HUNTER×HUNTER』を代表とする「善悪の二元論からの解放」に通じていると思うくらいの快作だった。

率直に楽しかった。

伊坂幸太郎『死神の精度』感想 死神が観た人間のどうしようもない活力

 

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

 

なぜ、伊坂幸太郎は死神を書いたのだろうか。

死神とは何のメタファーなのか。

私は作品に触れる際に「動機」を強く求める。

人が創り上げた作品に対して「なぜ書いたのか」、「書かざるを得なかった理由」は興味の優先順位として高い。

「意図」しか散りばめられていない作品を分析して解体、消化することは作家性への言及に繋がると思う。

 伊坂幸太郎が描く重力

死神が主人公であるから必然的に死の匂いが付き纏う作品であるが、死生観による死の観念性自体は薄い。観念的に追い掛けてくる「死」への暗い屈託よりも、生の実感と強かさが静かに映えている。

死神を配することで死神から人間を観る。

観察者としての死神から、逆説的にどうしようもないほどの人間を描いている。

鍵となるのは死神目線である。死神の人間同士の会話で演出されないであろう「調子の外れた」ズレによるクールさとユーモアが、伊坂節としてマッチしている。

伊坂幸太郎作品において、妙に博覧強記で浮世離れした引用癖のある仙人的人物が目立つわけであるが、人外の死神を据えることで小説という虚構の中に、軸として大きなウソを組み込むことで、作品自体の虚構の中にあるリアリティラインの強度と掴み切れない死神の存在感を並行的に保っていると思う。

死神が発する言葉の裏側の無さ、つまり人間特有の皮肉が潜んでいない気持ち良さ。裏側が無いので読み取る必要のない安心感が、調子の外れたコミュニケーションでもスムーズに成立させている。

強烈な死生観があるわけでもなければ、厭世観でもない。世を憂う心積もりの鬱屈ではないし、虚無主義的でもない。

ニーチェのように「超人」として克服すればいいという提言もなく、根底にあるのは伊坂幸太郎作品に通じる「人間の無力感」と「冥々的で確かなヒューマニズム」としての軽やかさである。

例えば米澤穂信は青春ミステリという枠組みの作品において、10代特有の「全能感へのカウンター」と「敗北」を描いた。

futbolman.hatenablog.com

伊坂幸太郎は年齢関係なく「人間ってこんなもんだ」と。仕方ないかもしれないが、それでも頑張れるかどうかという一歩を刻んだ。

努力は滅茶苦茶大事である。しかし努力をしても駄目な時もある。「持つ者と持たざる者」という確かに隔絶された距離があると書いたのは米澤穂信だ。

一方で、伊坂幸太郎は(特に初期の)作品群に通じる欧米的価値観(言葉の引用、音楽の使い方)から強烈に社会的弱者=マイノリティを描きながら「予定説」が導入されている。村上春樹チルドレンと称されることもある伊坂幸太郎だが、村上春樹ほどジャポニズムを排して欧米的なものを強く押し出しているわけでもなく、和魂洋才としての組み方。

メタ視点で作品を観てみれば、伊坂幸太郎の物語的御都合主義そのものが予定説である。そこが影響を受けたとされる島田荘司的でもあるし、『ラッシュライフ』、『ゴールデンスランバー』、『陽気なギャングが地球を回す』、『鴨とアヒルのコインロッカー』などの伊坂幸太郎のスタイリッシュで剛腕的技術を指す。

また、予定説としては『オーデュボンの祈り』、『あるキング』、『終末のフール』、遺伝子、血の繋がり、運命という重力への抵抗が『重力ピエロ』になるだろう。

閉じるべきところに閉じていく快感は、小説としての枠組み=フレームの広さと比例していく。視野に入っていた情報が、思いもよらぬ方向から広げた風呂敷が畳まれていく気持ち良さはドミノ倒しだ。

 都合であり、予定。

ドミノ (角川文庫)

ドミノ (角川文庫)

 

 

人は生を受けた時から、死へ刻々と近付いている。

「死ぬものは皆、生きている間に目的を持ち、だからこそあくせくして命をすり減らす」  フランツ・カフカ

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのか?あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのか」 チェ・ゲバラ

「死は我々の友である。死を受け入れる用意の出来ていないものは、何かを心得ているとはいえない」 フランシス・ベーコン

 

死神に憑かれた人々は現実として「死」を受け容れていない。

まだ人生は続くのだろうという根拠もない明日への確実性を信じている。悪あがきというよりも現実感がないだけだ。誰もが明日を欲して、誰しも明日が来ないとは思っていない。なんとなく当たり前の今日を生きて、明日を迎える準備をしている。

余命幾ばくかのお涙頂戴人間ドラマでもなく、涙目で聞き入ってくれる説教でも自分語りでもない。

死神は神だが、偉そうではない。

ただ、そこに連れ添って人間を観察しているだけだ。死神の人間への知的好奇心が強いわけでもなく、興味があるのは音楽を聴くことだけ。

 

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

 

 

「歌はいいね。歌は心を潤してくれる。リリンが生み出した文化の極みだよ。そう感じないか?碇シンジ君」 『新世紀エヴァンゲリオン渚カヲル

CDショップで音楽を視聴する死神は、人間たちの日常に当たり前に住み着いている。そこに不自然さはなく、音楽を通して芳醇になっていく心身は死神と人間の境界線を曖昧にする。

死に近付いている人間たちは、死神を通してサラッと触れられる。重々しい雰囲気よりも、伊坂幸太郎特有の軽い語り口、一方的に突き放すようなドライでもなく、過度に情愛を示すウェットでもない。意図的に調子が外れながらウィットに富んだ会話が心地いい。そのコミュニケーションが生み出すものは確実に「今」を生きている者たちだ。

死神は人間の「内側」に属するわけでもなく、「中庸」を気取るわけでもない。あくまでも「外部」として出力する存在である。

それは、本作が死神の一人称で書かれていることに繋がっている。これが死神を三人称による神の視点を配したならば、「機械仕掛けの神」からの解放は難しく、伊坂幸太郎をメタ視点でみると文章構造による「予定説」の補強が成されてしまうからだ。

伊坂幸太郎は、御都合主義を自覚しながらも神様ととれる死神を一人称として配置することで、どうしようもないほどに逆説的に人間の物語をクールに描いている。よく分からないが興味深いクールな死神の裏表のなさが、伊坂幸太郎作品の仙人感をフラットに作って、登場人物だけではなく読者によってはクサいと敬遠している層すらも巻き込んで惹きつけるスパイスになっているのではないだろうか。

この魅力は死神の一人称で「外部」として書かれているこそである。

作中の彼らには「因果応報」や「天罰」ではなく、ただただ「死」のカウントダウンが切羽詰まっている状況でしかない。彼らは当然それを知り得ないので、現実感が無いわけであるが、死神に憑かれたからとしか言いようがない。

これを虚無として徹底的に厭世的に書かないのは伊坂幸太郎ならではだと思う。

死神が「今」にコミットしたからこそ(『家庭教師ヒットマンREBORN!!』死ぬ気弾ではないが)人間たちが行動して「動かないはずのドラマ」が回転した。

死への悲哀や恐怖よりも、死神に憑かれた人間たちのどうしようもないバイタリティである。

それを説教臭く書かない伊坂幸太郎の軽やかさ。

気持ちいい小説だ。

ちなみにマイベストは「吹雪に死神」。

〝閉ざされた雪の山荘〟といった本格のガジェットに死神という異物を差し込むことで、パロディとしての滑稽味と奇妙な味付けが奏功していた。

日本推理作家協会賞の短編部門を受賞した表題作の「死神の精度」よりも良いと思うが、「吹雪に死神」は〝連作〟を意識してナンボであるから、単独で成り立つかどうかは怪しいかもしれない。