おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

2015年から2016年に書いたテクストをブログに移した。

この際だから改訂作業をしてみようと試みたが、殆ど手を付けないまま組み込んだ。

ぶち込んだ文書は大体が『読書』と『memo』へ。

2016-01-01から1年間の記事一覧 - フトボル男

これで空白だった2016年のログが作為的に埋まったわけである。こうやって捏造はされていくのだ。

昔に書いたものを整理していたら、色々と発見があった。

例えば2012年のロンドン五輪の日本代表マッチレポ、恐らく2014年までに断続的に書いていたサッカーメモを発掘した。

悶死。

深淵に噛付かれた気分だ。

心機一転するしか立ち直れなかったので、反動であれこれ動いた。

 

ジブリパーク2022年度開業へ : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

全く旅行に関心がなく、どこか遠い街や食べ物に思いを馳せることなんて殆ど無い私でも、これはアガる。

初めて「映画監督」を意識したのは宮崎駿だから仕方ない。

ちなみに、旅行に興味がない私が心の底から行ってみたかったのは1970年大阪万博

まだ呼吸すらしていなかったけど。

 

 

坂口安吾『桜の森の満開の下』感想 エモいだけで生きられない

 

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

 

 

図書カード:桜の森の満開の下

 

住めば都、郷に入っては郷に従えと言う。

環境への適応が求められ、逃げるのもアリという風潮に釘を刺す。

本作は「田舎から都会へ流れ、夢破れて都会から田舎へ帰ろう」である。まさに『田舎に泊まろう』だ。

女はシティガールでリア充。 

山賊の男は非リア充そのもの。男は強権的で暴力の象徴として肯定されており、唯一のアイデンティティとなっている。

しかし、彼らの出会いから(決してロマンティックなラブコメ描写を経てではなく)強欲で支配的だった男と女のパワーバランスが逆転するのは、価値と支配の転換である。例えて言うと「女王アリと働きアリ」。

ただ、女王アリの女が母性的に描かれているわけでもなく、「強欲な女」として肯定されており、力関係が逆転した男=働きアリが、女のために美容や飯や首を用意してご機嫌を窺う。

女が首で遊ぶのは、現代でいうリカちゃん人形で戯れる子どもそのもの。親に強請る子どものような無邪気さがそのまま表現され、母性としてかけ離れている女の欲望を実現化させる装置として男が奔走しているだけだ。

都会に行った男は、「生の実感」が希薄なことに疑問を抱く。

都市では時間間隔がぼんやりとしてループのように消費され、「退屈」でしかない。 一方で桜のあった田舎では、年月が経つことが直接的に言及されている。

花というものは怖ろしいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中で呟いていました。花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と足音ばかりで、それがひっそりと冷たいそして衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶってると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。/これはおかしいと考えたのです。ひとつ、来年、考えてやろう。そう思いました。今年は考える気がしなかったのです。そして、来年、花が咲いたら、そのとき、じっくり考えようと思いました。毎年そう考えて、もう何十年もたち、今年も亦、来年になったら考えてやろうと思って、又、年が暮れてしまいました。

なぜ、都会と田舎では時間経過が違うのだろうか。

それは約束(目的)の有無である。 

なぜ「退屈」なのか?

男にとって都市での目的がないから。

女に付いてきただけで、男自身の自己実現がない。一般的にいえばキャリアデザインがない。

「田舎からギター1本を抱えて東京でBIGになってやる!」とか「田舎での土着性に嫌気が差し、このままではリア充になれないから上京して都会にコミットすれば人生一発逆転あるんじゃないかと期待する大学生」とかですらない。

 

「意識高い系」の研究 (文春新書)

「意識高い系」の研究 (文春新書)

 

 

「じらさないでおくれ。都が私をよんでいるのだよ」

「それでも約束があるからね」

「お前がかえ。この山奥に約束した誰がいるのさ」

「それは誰もいないけれども、ね。けれども、約束があるのだよ」

「それはマア珍しいことがあるものだねえ。誰もいなくって誰と約束するのだえ」/「桜の花が咲くのだよ」

 

男には都会での野心がないから。

桜や山が男の内的ロマンの象徴で、対比的に都市の空虚さを演出している。

都市は現実の象徴である。 

作中での対比構造は幾重にもなっている。

都と山/女と男/現実(理性)と幻想。

幻想の象徴である桜=男の内的ロマン(ナルシズムの一種)は、ラストのシーンでその桜に集約されていく。

花と虚空の冴えた冷たさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分かりかけてくるのでした。

彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。/すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになってしまいました。そして、その花びらを描き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

 

欲望の分裂としての男と女が、男が女的であるかどうかではなくて、坂口安吾の分裂的な人物像ではないだろうか。

男の肉体に依存する女の精神は強欲的に徹底的に描かれていたが、最終的に男のナルシズムや承認を満たす女として働き、女も男にベタ惚れしていたことが分かる。

男が女に依存していたのが山パートであるに対して、女がおねだりするのが都会パート。依存の逆転構造が都会から田舎に帰る時に「共依存」として帰結していく。

肉体だけではなく精神も結合して、この男と女は情愛的な夫婦的よりも、あくまでも徹頭徹尾男女的である。 

女を通じて男は知る。他者性があるから孤独を感じられる。 

都市から逃げて「退屈」から開放された男は「故郷と他者」を自覚したためである。

「都は退屈なところだなア」と彼はビッコの女に言いました。「お前は山へ帰りたいと思わないか」

「私は都は退屈ではないからね」/「都ではお喋りができるから退屈しないよ。私は山は退屈で嫌いさ」

「お前はお喋りが退屈でないのか」

「あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ」

「俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ」

「お前は喋らないから退屈なのさ」

「そんなことがあるものか。喋ると退屈するから喋らないのだ」

「でも喋ってごらんよ。きっと退屈を忘れるから」

「何を」

「何でも喋りたいことをさ」

「喋りたいことなんかあるものか」

退屈から抜け出した人としてマイノリティな女が居て、彼女は自己完結できる人間であるから孤独ではなかった。

コミュニケーションとは他者性と向き合うことであり、協力型ゲームである。

 

 

退屈から逃げた男には自己顕示欲が無い。現実的な都市には郷愁のロマン(桜の幻想)が無いので、男の実存性が危ういことを示す。

桜とは諸行無常の象徴だ。「サクラチル」は儚さや美そのもの。

桜の花弁のように断片化された男の内的ロマン(よく分からないけど恐いと思っていて…でも気になる存在)は、ビジュアル的に符合していると思う。

そして、孤独を肯定的に描いている。

仕方ないものであると。虚無であるが、救われていると。そういうものであると。

諦観ではないだろう。
応援でもなければ、説教でもない。
現実に押し潰され、他者を失って独りになろうとも、救いとなる拠り所=ロマンがあるという道しるべである。
しかし、ロマンといっても作中の桜のように画一的ではない。

だから、読後は妙なざわめきが止まらない。

分裂が桜の下で集束された後、孤独な桜の木に風が吹き抜けて桜吹雪がひっそりと舞うように。

残酷的でありながらも、私たちは肯定的となる救済=ロマンに心を奪われてしまうのだ。

 

ゼロ年代はエモかった

桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげた団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。

美的感覚への疑問であり、通説に対する思考停止への警句ととれる。

桜はキレイだろ?それだけじゃないよと。美の裏にある恐さである。

私は『モナリザ』が浮かぶ。美人だけど恐い。

思えばゼロ年代は「桜ソング」が多かった。

そして、山田玲司は「ゼロ年代はエモい」と言った。

ケータイ小説が爆発的にヒットし、オタクたち自身が体験できなかった学園モラトリアムな青春的日常と身体性が『涼宮ハルヒの憂鬱』以降の傾向とするならば、機会の喪失の補填が働いたといえる。

もう帰れない/戻れない、あの頃である。

だから日常を繰り返す=ループが組み込まれ、一瞬で過ぎ去る時を永遠のように生きる願いが映像化された。

それが『ハルヒ』の「エンドレスエイト」であるし、細田守版『時をかける少女』である。

 

時をかける少女 [Blu-ray]

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森山直太朗 - さくら(独唱)


河口恭吾 - 桜


レミオロメン - Sakura(Music Video Short ver.)


コブクロ/桜


桜坂☆福山雅治


いきものがかり SAKURA

 


YUI - CHE.R.RY-short ver.-


宇多田ヒカル - SAKURAドロップス

 

ゼロ年代の桜に纏わるコンテンツはそれだけではない。

 

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

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遠まわりする雛 (角川文庫)

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 注)「遠まわりする雛」は書き下ろし短編。2007年発売。

秒速5センチメートル [Blu-ray]

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「ねぇ、秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード。秒速5センチメートル

 

始まりがあり、終わりがある。

出会いがあり、別れがある。

一歩を踏み出した季節に桜は咲く。後ろ髪を引かれるように散っていく花弁に思いを馳せる。

だからエモい。

でも、本質的にはエモいだけではない。

郷愁に浸って気持ち良くなっているだけではない。

孤独な時間すらも抱えて生きていくしかないのだ。

ゼロ年代の空気感を殴りつける2010年代にこそ読まれるべき名作。

それが坂口安吾なのかもしれない。

文章ってセンスではなくてスタイル

文章のノリが悪い。

書き続けないと錆びるってのは本当で、構成や要点の掘り出しを付け足しては削るみたいな作業が久しぶりにきつかった。

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気合を入れて書いてみたものの、題材の転がし方に対する能力不足と向き合う結果になった。

思ったより出来た安心感、思ったより出来なかった不満足さが同居している奇妙な達成感。一先ず完成させたことに意味があるというか。

しかし、もっと上手く書けたり、書き込み不足による論旨が浅かったりと反省点が目立つ。

特に『夜は短し歩けよ乙女』に関しては書きたいことの2割も出来ていない。本来なら、森見登美彦のエッセイやインタビュー、京都の歴史的価値観や背景、学生運動の掘り起し、湯浅政明作品から紐解く湯浅論も含めて初めて書きたいことが出来るわけだが。

また、テーマに対して一本調子の要素が濃いためか、視点が多角的ではないので、小論そのものに多重構造性がない。

ボリュームはありながらも、なんとなくハリボテ的でもある。

現状はこんなもんか。研鑽しなければ何も上達しない。

 

20歳くらいの時には、あのような作業をブログに書いていた。数年振りにやってみて文章のノリが悪いことに気付いた。

当時は酒を飲みながら、タバコをふかして書くのが日常的であった。

朦朧とした自己陶酔状態に近いぐらんぐらんした頭から生まれる調子の外れた表現、突拍子でありながらもエッジが効いている文が浮かんだ経験があった。

その感覚から繰り出された文章が、変に素面の時に捻り出した文章よりもピタッとハマったも。

でも、これって素面だったり、でなかったりに関わらず、知らず知らずのうちに言い訳めいたものを作り出そうとしている心理であると気付いた。

調子が出るためのおまじないだったとしても、前提の一つとして「手を抜く」ようにして「本気を出すのは恥ずかしいし、ダサい」みたいな感情が根っこにあったのではなかろうか。

単に本気を出して現実と向き合いたくないだけではないだろうか。

本気を出しても出来ない自分を知りたくないだけみたいな。

いつしか恐怖に足が竦んで、ブレーキを踏んでいる自分。保険を作って自分を慰めるように、お守り代わりに自己弁護の用意をしておく狡猾さによって磨かれるのは、不足した技術を埋めるものにはなりえない。

 

FC2ブログ時代、年下のブロガーさんと交流していた。

年齢に似合わない落ち着きのある彼は大人よりも大人らしいブロガーさんでしたが、彼から「皮肉めいた」文章が〝らしい〟と評されたことが忘れられない。

当時の私は、皮肉と嘲笑が練られたような文章を書き殴っていた。世の中と自分に向けて。今よりもハードに。

また、師匠からは「視点の一貫性」を挙げて戴いたことから、さらに調子に乗った文章を書いていた。

「自分を持っている」や「自分にはセンスがある」と勘違いするのは当然で。

必然的とも言えるが、ある日、理不尽な攻撃に晒されたが、そこから書いたもの全部が攻撃性として受け取られるのではないか?と不安が付き纏った。

 

文章のノリが悪いのは、技術的に不足しているのもあるだろう。

しかし、不特定多数に攻撃される恐れから、ギリギリのラインにビビッて踏み止まっている心理が働いているのも否めないかもしれない。

匿名的な攻撃に臆して、八方美人なブログを書く上手さもないし、何よりもそちらに寄り掛かるのは不自然だとも思っている。

不特定多数に良い顔をしたいだけではないのか?

書きたいものを書くためにブログを作ったのに、本来書きたいものを書けなくなっていたら本末転倒ではないかと。

そして、ブログを「公開」する必要性も突き付けられる。

恐いなら閉じればいい話。

記事を書き上げてはネットに落としているのは、何よりも誰かに共感してほしいからだろう。

誰にも見られたくないと思うならば、ネットに公開しないだろう。

宣伝なんかもしないはずである。ひっそりと慎ましく在りたいと思うでしょうし。

 

どれだけ言葉を尽くしても受け手に委ねられる。

建設的に話を進めても、最終的には受け手次第である。

なにか気に食わない部分が局所的にあった場合、反射的に断片的に都合の良い部分だけを切り取って独自に解釈を進めることで、元の言葉の意味が歪曲化して攻撃性を帯びる。

「批評」と「批判」の区別が付かない人はいる。

いくら書き手が真摯な姿勢で綴っても、〝批評家ぶる〟ことだけでも攻撃の対象になることはある。

とある英語の問題集の例文がすごい | blog.ironsite.net

(略)しかし批評の主たる魅力は、批評されているものよりも批評している者の方が偉く見えることである。批評することは極めて容易なので、それはしばしば他のいかなる方法によっても人の興味を引くことが出来ない凡庸な輩の避難所となる。 エドワード・デボノ

 

そして、肯定と否定が渦巻く。

気持ち良くなるために、別にイエスマンだけを囲っていたいわけではない。建設的な意見には耳を傾けたいのは誰しも同じだから。

ただ、真摯な書き手でありたいと願いながらも、読み手にも真摯であって欲しいと思うのは傲慢なのかもしれない。

些か自分の都合や価値観を押し付けていることになるのではないだろうか。意見の多様性を求めながら、多様的価値観を否定していることに繋がるのでは?とも。

意見というよりも姿勢の話ですが、姿勢があるからこそ意見が生まれるのだろう。

結果的に、読者の性質に賛同者ばかりを集うことになって、顔色を窺いながら少しばかりの承認を満たす(承認が悪いわけではない。それをただただ肯定するだけなのも否定するだけのも不自然である*1*2

攻撃に臆するだけではなく、こちらのファクターでも筆先が鈍るのは如何なものか。

 

窮屈さ、息苦しさを嘆きながらも、同調圧力を忌み嫌いながらも、それに同調した人たちとアングラ的なコミュニティに溶け込み、世の中を憂い続ける。

一丁前にルサンチマン気取りで。

自由でありたいと叫ぶものの、結局そこに縛られているみたいな。

でも、自由は限定的な中での判断の尊重のような面を指すものだと思うので、自由に憧れて自縄自縛に陥るのは不自然なことではないだろう。隣の芝生は青く見えるものだ。

窮屈そうに身をかがめても 今じゃ誰もがそうしてる

天井のないエコー・ルームに 誰かが僕を放り込む

君のスピードでもって 同じフレーズを弾いて

冷たい時間に寄りそって

関係性を否定してみても また誰かが君をつつく

そっちの方がまだ救われる 簡単なのさ 夜に飛んでいるカラスみたいに隠れてよう

いつもスープを飲んで テーブルを囲んで

黒沢健一『PALE ALE』

 

 

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

 

 

志村貴子の『放浪息子』において、高槻よしのが「私は好きな服を着るんだ」と誓うシーンがある。

高槻さんは女の子だが、格好いい男の子の服が着たい子。ガーリーなヒラヒラした服やスカートを拒絶する。

ボーイッシュな彼女は、男の子ようになりたいと願うものの、小学生から中学生、そして高校生へと成長するにつれて、身体は意に反して女性らしさを帯びていく。憧れていた男性らしさとはかけ離れていくように。

放浪息子』は中性的な形から生まれる無性別感とトランスジェンダーの一例を描いた作品である。

大局的にはスタイル、つまりは生き方そのものを描いた漫画だと思う。

そのスタイルとの乖離に苦悩し、現実問題として突き付けられるキャラ達。

普通とは違うことを許容されない世界からの強要が巡る。

出る杭は打たれる。

みんなちがって、みんないい。

金子みすゞの詩を教えられても、「個性」を殺すことを求められる。

スタイルを突き通すことで謂れのない誹謗中傷を受けたり、バッシングを受けた人は数多くいた。

日本でそういった騒動の渦中にいた印象的な人の一人として國母和宏氏を挙げたい。

news.yahoo.co.jp

「葬式のときに葬式の格好をしていくように、スノーボードのときにスノーボードの格好をしていっただけ」

スノーボードはライフスタイルであり、もっと言えば、生き様だ。「横乗り系」のスノーボードは、スケートボードやサーフィン同様、滑る姿勢が思想にも影響しているのだろう、カウンターカルチャーだ。反社会的な態度こそが美徳なのだ。だから、バンクーバー五輪の騒動のときも、スノーボード界の人ほど國母のスタイルや言動を支持した。

カルチャーを理解し、己を捧げて体現する姿勢は確固たるスタイルによるもの。
自分という型をカルチャーに溶かす様にすることで、生まれる信念の形がある。
ファッションや音楽などと同じように、文章もスタイルの一つだと思う。
思想や感情が文章に乗り、それはまさに、生き方そのものが表れるというのは大袈裟だろうか。
その文章のノリが悪いというのは「自分らしさ」が揺れているのと同義ではないだろうか。
とりあえず、正直な自分を茶化さないようにありのままを書いてみた。
当分は悩んでみようかと思う。

*1:ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q参照

*2:かといって魔法少女まどか☆マギカのように自意識的な承認を求めずに世界レベルを救済するスケールを言っているわけではない