おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

インターネットラジオ「おおたまラジオ」が始まります

年初めから企画していたものの、お得意のチキンっぷりとナアナアさで生きていたら春が終わり夏が始まってしまった。

やらなきゃいけなかったのに、いつの間にか夏になった。お前らと一緒にいるのが、あんまり楽しくてさ。

遂に始動ということで。

おおたまラジオは、不定期更新のインターネットラジオです。

週一やら月一とか設定すると、恐らく破綻と破局を迎える近未来が見えるので不定期。

基本的には、本ブログの政夫とえる・ろこさんが行います。

twitter.com

twitter.com

具体的に何をやるのか

試行錯誤を重ねて失敗して失敗して失敗して敗北ばかりを知ってしまったわけですが、結論としては「面白いこと・楽しいことのエンタメ全般」を語るラジオになりました。

契機となったのは、どのようにフットサルを「観るスポーツ」としてエンタメの一つとして組み込んでいくのかを話し合ったところから。

フットサルは素晴らしいスポーツです。

しかし、残念ながらマイナースポーツであるが故に認知度は低いですし、いくら声高に素晴らしさや現実から目を逸らすだけのポジティブキャンペーンをしても、村社会の外に接続するための回路が持てていないのが現状です。素敵な情報は溢れていますが、それが村の外に届いているかは定かではありません。

だって、フットサル以外のコンテンツも普通に充実しているから。

そのためにサッカーのピッチレベルでの戦術的要素とフットサルの近似性という側面を押し出す、つまりサッカーを引き合いに出さなきゃフットサルの魅力が語れない部分に、単純にフットサルというスポーツに魅せられた人間としては複雑な思いが拭いきれませんでした。

告白すると私自身も、当初はサッカーの勉強の「ツール」としてフットサルに触れました。

futbolman.hatenablog.com

そこから違和感が生まれ、徐々に魅了されていきました。

サッカーというフックがあったにしても、それぞれの類似性はあるにしても、やはりフットサルとサッカーでは競技性としての確かな距離、差異があります。

サッカーの文脈で語ることが、二項対立的に引き立てられているわけでもなく、(悪意なんてなくとも)ヒエラルキー的に感じてしまったのです。

新たな違和感が具体化しました。

そこから、フットサルを語っていく上でサッカーを引用するのは、色々な方々が行っているので、私たちは違うことをやろうと思いました。

フットサルを観るスポーツとして、どのように着目していけば観る目を養い、定着化していくかを分かり易く表現しているグロッケンさんのブログみたいなことは出来ないので(超オススメ)。

giriguro.hatenablog.jp

 

だからこそ、単純に観るスポーツ、エンタメの一つとしてフットサルを語っていこうと決意したわけです。

フットサル以外のエンタメも同時に触れて、このラジオ内ではエンタメという大きな括りの中で優劣とか単純で退屈な物差しは措いといて、エンタメとして語ることを目的にしています。

ぶっちゃけ、他のエンタメとの抱き合わせ商法にすることで、楽しさの優劣ではなく並列として提示してみたいだけです。

例えば、文学は高尚であってラノベは低俗というわけでもありません。

文化に優劣はありません。階層もありません。

良いものは良いという事実だけでしょう。

語る場を作るために

今、誰もが自由に平等に発信できる時代です。

インターネットにおいて、受け手が発信者に、出し手が受け手になる転身のインスタントさは匿名性・半匿名性のように複数の分裂性がネット人格として備わっています。

人間一人の単なる実像が、それらの虚像によって拡大されてプライバシーの権利そのものがズレて巨大化している事例なんてインターネット万歳でしょう。

それだけの気軽さがあるにしても、語り合う同士や仲間を得ることに長けているインターネットにおいて、実際、語れる場所というのはあまり無いと思います。

語りたいのに語る場所が無いからこそ、オンラインサロンという拡張的空間の価値は増していくでしょうが。

Twitterの140文字のスレッド化にしても、掲示板やチャットのログの保存や文脈の切断による質と量の確保の難しさを生みがちなリアルタイム性にしても、各々が自分の庭のブログで展開するにしても、どうしても発信者と受け手の「時間のズレ」とリテラシーの差異と「書き言葉自体の力と問題」が付き纏います。

きちんと自分の言葉で喋り、隙間を埋めていく「話し言葉」として、耳を集中させる必要性のあるラジオという媒体は魅力的に感じました。

 

お笑い芸人の言語学: テレビから読み解く「ことば」の空間

お笑い芸人の言語学: テレビから読み解く「ことば」の空間

 

伝えたいことと伝わることの一致は難しいものです。

具体的なセンテンスに対して、断片的に恣意的に解釈することで歪曲化して殴り合いなんて日常茶飯事。どうしても主観的であって、確証バイアスに陥り易く、言語情報としてリテラシーの有無はあるにしても一致させることは困難の道でしょう。

「書き言葉」ではなく「話し言葉」だからといっても、それが100%クリアになるわけではありませんが、耳だけを使う特殊で奇妙な媒体だからこそ、敷居はある意味高くとも誰か一人の耳を汚せたら素敵じゃないでしょうか。
今の時代、当たり前のように色んなものが目に入り、視覚情報が覆い尽くされやすいほどの情報量が供給されています。

それに対して、ラジオは耳だけを使う特殊な媒体です。

勿論、超バズる気配なんて微塵も感じていないですし、信じていないですが、変なことをやっているなと誰か一人の耳にタッチできることを目標にしていきます。

 

 

イヤホン推奨!音声チェックの甘さでえる・ろこさんの音量が小さいのでご注意ください。よく叱っておきます。

試験的ですがツイキャスで行いました。今後は多分Youtubeを使う予定なので、ほぼ時間制限はありません。

しかし、今回は枠が限られているので話題のセレクトが変な方向に。

コミュニティ内のモチベーションの話はあるあるなんですが、結果的に友愛的な疑似家族めいたコミュニティから『万引き家族』へと流れていきました。…計算通り!!

ただ、配信後の反省会での『万引き家族』を観たろこさんと観ていない私のズレの検証の方が面白かった。

ろこさんは「正しさの設定と検証」とその一面性を語っていたのに対して、私は家族観を起点に共同体としての在り方について…映画館に行かないとダメ!

 

 テスト+5つのコミュニティに入ると充実するらしい

 

 

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

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フットボリスタ・ラボ - CAMPFIRE(キャンプファイヤー)

  

 

 『万引き家族』を観た人間と未見の人間が語る

 

gaga.ne.jp

 

anone Blu-ray BOX

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カルテット Blu-ray BOX

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とらドラ! 文庫 全10巻 完結セット (電撃文庫)

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 『万引き家族』を観た人間と未見の人間が語る(2)

 

次から本格的に始動する「おおたまラジオ」をよろしくお願いします。

そんなことよりも、今週の金ローで『時をかける少女』やるので観ましょう。

私には未来が見えます。

奥華子がカットされて、人間の憎悪が膨れ上がるのが。

オカヤイヅミ『ものするひと 1』感想 普通コンプレックスと同調圧力なんて吹き飛べ

 

ものするひと 1 (ビームコミックス)

ものするひと 1 (ビームコミックス)

 

「読んで欲しい」と言われ、友人から貸して貰った。

良く出来ている作品だ。

友人は「雰囲気が好み」だと言っていた。その言語化が困難だったから、参考程度に私の意見を求めた事情なので、マジにはマジが礼儀だろう。

勿論、友人が言語化に手こずったその感想と私が書き連ねた感想が100%マッチしていることは無いだろう(具体的な確認と検証はまだ)。

思いの外、盛り上がってしまったのでここに書くことにした。

まだ1巻なのでストーリーの展開はまだよく分からないが、第1話から提示したぼんやりとした輪郭がありながらも透明性のある感じは「雰囲気の良さ」を醸成している。

結論、面白い。買います。

1巻のラストを読んだ時に完全にヤラレタ!と思ってしまった。

本稿は、第1話から第6話までの各話構成に触れ、末尾に総括を記す。 

 

 

第1話 言葉と窓

主人公は警備会社で働き、夜勤明けから始まる。

通勤・通学の人の流れとは逆行に帰路につく主人公をみると、「普通」とは違う孤独(羽生善治棋士生活を開始した時に「自分は普通とは違う世界にいるんだな」と寂しく思ったという話がある)の中で、贅沢とは言えないアパートの簡素な部屋で一人暮らしで言語という思考に戯れる。

その孤独を埋めるためのアイテムとして「たほいや」が登場する。

言葉遊びというか言語感覚だと、筒井康隆御大、今だと西尾維新、私は柄刀一の「言語と密室のコンポジション」を浮かべたが、あれはあくまでもガジェットとしての話で、本作では言葉=思考を日常的に掘り下げて掬っていくものだ。

 

言葉の表現力や概念としての自由さと自在性が肝ではないだろうか。

意味そのものではなく(そもそも「たほいや」自体に意味は無い)、思考したという結果と共有が大事である。

だから、主人公は広辞苑に無い言葉を題材にした。その奇妙な言語感覚を当たり前のように共有できる仲間たちと。

主人公にとって言葉を考えるのは、独りでの思考ゲームであるが、誰かと喋る=「たほいや」することで自分の思考が世界という「外」へ接続され共有されていく。

その象徴が、「郊外の夜に光る謎の言葉」を書きたいロマンである。それはまさに内面的な神秘であり、日常(昼)と非日常(夜)でいえば字義通り(夜)であるが、その世界だからこその実在性があると言えるだろう。

そして、第1話のそのオチが「鳥獣戯画カラオケ」ときたら、心を持って行かれることは必然的で。意味なんてないではなく、それみたか!という作者のドヤ顔が見えるような気持ち良さ。

まんま鳥獣戯画を表現している。鵺までとは言えないが、カオスでありアンバランスであり、整合性なんてなくてもその形であることこそが意味に目的がある=意匠として機能していることが全てである。

ここを読んだ時に引っくり返ってしまった。話の作り方が上手いなって。

主人公のロマンである「郊外の夜に光る謎の言葉」ってのは「外」にあるもので、それは(夜)の世界でそのままの形としてデザインされていて完結しているが、(夜)特有の少しの寂しさもある。

生活と、書くこと。世界と、言葉で遊ぶこと。絡みあって、隙間があって、移り変わっていく。ひそやかに楽しくて、ひりひりと幸福で、ずっと読んでいたい。 柴崎友春による紹介文

でも、誰かが見つけてくれる(主人公がそうだったように)、誰かが読んでくれる。

この部分は、つまりこの作品自体を表しているのだろう。

 

 

第2話 自由な仕事

レッテルではない。肩書だ。

肩書って何だろうか?

どこから小説家になるのだろうか?

社会的に自分的にも「どこ」からなんだろうか。

大家さんが主人公を物書きだと認識している点は、彼女がもとより文学好きだから偶然知ったのか、或いは主人公が気になって調べたのかは判然としないが、大家さんからすれば主人公は小説家という認識。

そこに実感はあるのかどうかという話。

そして主人公は、大家さん=自分の生活の側にいる人=承認されて顔の見える読者(本来読者の顔は見えないのが当たり前)であるから、ここでも実感というか実在性の有無が関わってくる。

主人公は自分が曝け出して書いている内容を(私は創作をコンプレックスへの爆発のためにパンツを脱げるかどうかだと思っているけども、本作では)内臓を見られた気分としているところに、持論のパンツどうこうよりも超ディープに身体と精神を開示している。

恐らく、主人公と大家さんの会話ってのは大家さんからの一方的な質問責めだけで、主人公からのコミュニケーションは無いように思える。訊かれたから答える程度の遣り取り。質問をするには興味がなければ成立しない。大家さんにとって主人公は物珍しい対象であり、それは小説家であるからだろう。

主人公の自分語りは作品を通してだからこそ、顔の見える読者に対する羞恥心というか居心地の悪さは付き纏う。例えば、物書きがネットに書いたものをあげるのと、そのリアルの人間関係における顔見知りに見せる勇気って違うはずだ。

この第2話のポイントは「好きなことをやるのは不安なんだよ!」という事実。

女子大生から「普通に就活しなかったんですか?」と訊かれ、「普通」って何よと疑問が湧く。主人公たちからすれば僕たちは「普通」ですよと。

「普通」に不安ですよと。遣り甲斐優先の自己責任なんだろうけど、僕たちも関係無しで「普通」に恐いですよと。

主人公たちが、別に被害者面を振りまきながらというわけではなく、好きなことをやっているから幸せなんだけど、世知辛いと零す部分は、「好きなことをやっているんだから文句言うな」、「夢のために仕方ないじゃん」という無責任かつ強弁に対して、でも実際問題現実として生きていくためには夢だけでは生きられない。だって先立つものがないからと。

でも「好きなことやっているからいいじゃん」と誰かは言うかもしれない。そのために搾取されても、被害者面するなよと。

彼らにとって、目的としてあったわけではなくて、手段として「好きなこと」があったに過ぎない。流れ着いた結果、辿っていく途中でツールとなっていくのが「好きなこと」だっただけだ。

残念ながらそこへの理解や共感は彼岸にあって、「普通」によって線引きされて世知辛いと愚痴を零すのって寧ろ「普通」だと思えてならない。利口に自己責任という正論を振りかざすことの善悪なんてしょうもない話ではなく、それでも「普通」への同調圧力に対して「普通」に不安だという話。

ここで主人公たちは被害妄想を垂れ流し、所謂世の中に責任転嫁して浅ましさと慰め合いを露出することはしていない。

自由を闊歩する息苦しさをあてもなく零しているだけだ。

ただ、僕たちにとっては「普通」であるけど余所からみたら「普通」ではないからといっても、好きなことを「普通」にやっているからといっても、色々あるんだよってこと。

女子大生の彼女にとってキラキラした非日常はアイドルとしてのステージの上だけだ。それ以外は没個性として最初は書かれている。

しかし、非日常では「0から1」にして輝いている。主人公にとって「0から1」にする生産性は日常的であるから、(なぜそれを捨てられるの?)と訊きたくて胸の中がモヤモヤしている。

その非日常を「普通」=日常にしなくていいの?と。

彼女にぶつけたいけど、主人公は4000文字にしたためて。

思いを伝える/伝えないは彼方のような距離があるにしても、それをモヤモヤしたままではなく考えて形にした行為は「0から1」に収斂する。

一方で彼女は、「普通にしないんですか?」と訊いたものの空気を察して止めた。

ここの対比が素晴らしい。

彼女にとっての非日常であり、表現(0から1)はダンスであるし、主人公にとっては日常的であり、表現方法は文章を書くこと。

彼女は質問に対して察した気になっていても、実際は明確に「0から1」にしていない。それに対して主人公は相手にぶつけていないけど、「0から1」へと完結させた。

こんな風に「普通」の外と内、でも「みんな普通だよ。僕たちも普通だよ」って提示しつつも、そこへの無理解などによる距離を書いちゃっている辺り、滅茶苦茶上手い。

余談として。学祭に集まったクリエイターたちがWebを拠点にしているのに対して、主人公は「もの」=本があることを羨まれるシーン。

本など情報としての価値を突き詰めていけば、デジタル化が合理化であり最適化であるだろう。しかし「もの」だからこそ示せる価値つまり実在性によって救われるものがあることを示している。

ここで、夢やWeb媒体の形の無さ=不安に対して、「もの」の実物感=安心が書かれている。

 

第3話 パーティの点

パーティの話。

つまり非日常で、「生活の側」ではない。主人公はフワフワしていてキョロキョロと。全体的に独白も他人事のように語られていて、客観的でありながらも地に足が着いていない印象。

意図的なのかどうかは分からないけど、人物たちは足先まで描かれていない。

唯一、足先から頭といった全体まで書かれているキャラはスピーチをした同期の彼のみ。偶々なのかどうか。ただ結果的に、立場だけではなく地に足が着いているかどうかの対比もになっている。

主人公は(ドラマぽい)と独白があるように、フォーマルな装いもあり、虚構めいている実感の無さ=あの世みたいだと評した。これは「夢までの距離」であり、ドラマといった虚構の世界のような浮遊感でもある。

パーティ会場にいる「大人ぽい大人たち」含めて、主人公が意識できない存在ばかりが埋め尽くしている世界のように描かれている。

そして、同期の受賞者の「点」についてのスピーチ。ありていに言えば外からの評価=承認の話なんだけど。

賞というのは書いて行くという道。線の上の明るい「点」です。

点数ではなくドットでピリオドで読点で中黒の。

点は時として文章の意味を大きく変えます。

外からの評価という点をいただくと思いがけない道標となり得るのです。

点は打たれるのか。打たれたいのか。

前者は夢の実現と獲得。後者は夢の終わりと諦め。

その後の(「ご歓談」にも区切りがあるのか)という独白も、まさにそれで、非日常の終わり=醒める夢であるから、区切りつまりピリオドが打たれるのか打たされるのか、これは点のスピーチに繋がる。

主人公の「30歳アルバイト一応小説家」という立場を読者により客観的に補強的に提示させるような構成。

 

第4話 花と普通

文壇バーの話。パーティの夢みたいな時間と景色が流れていく中で、入店できる人、その評価をする人/される人、その集いで主人公はその場にいる自覚がない(2話の肩書の部分が掛かってくる)。

ママに「人に執着・依存していないけど、人懐こい」と評される(主人公という受動的であるにしても、大家さん、「たほいや」、歓談のようにあちらからワラワラと)こと、人間性≠作家性≠作品という前提においても、主人公は内臓まで曝け出して書いている(純文学とは私小説だという定義があったりする)から。

で、文壇バーでたほいやに興じる皆と他の客が盛り上がる喧騒について、静と動の熱中がある。

一座は静かに思考と言語に戯れる光景は、文壇バーでも珍しいとママの台詞。

そこで絡んでくる謎の男は、文壇バーのイメージを具現化したような人間。

その男は旧来的として書かれている(巻末のオカヤイヅミと滝口悠生の対談において80年代までのカルチャーとして触れている)。

対してたほいやをしている主人公たちは近代的であると。

旧来は言葉で殴り合え!遊びじゃないんだ!派閥で、主人公たちはたほいやに興じる仲良しこよしの共同体としての対比。

そこで主人公が言った「誰かがいる世界で書いている」というのは、孤独的であっても実際は実在性含めてそうではないと(誰かがいる=読んでいる見ているってのは、この場の共同体やたほいやが象徴として)。

 

で、普通って?

これが観念的なテーマである。

普通コンプレックス、普通以外の締め出し、普通への同調圧力

彼女(女子大生)はカラオケに曲がある。主人公はパーティから文壇バーに流れて作家ぽい。

でも、お互いに普通だよ?

変わっていないよ?

だって、これが生きてきた日々=日常の一部であるから。

非日常と日常のグラデーションでしかなくて、普通のことでしかないから。

「0から1」への出力としての実感があるかどうかでしかない。

そこで彼女とその周囲は、変わったことへの興味はあるし、普通を感じている。

しかし、当事者として変なことは勘弁。

だって普通じゃないじゃん。

彼女は普通の人間という視点から、主人公を見ていく。

普通というフィルターを通して、普通へのコンプレックスを抱きながら内と外を眺める。

 

 

第5話 ビーチパラソルの音

映画と音楽についての主人公の思考から始まる。

見ている風景と書いたものに対して同じ音楽が奏でられた時の現実感・自在感は、自由で肌感覚としての近さがあるように世界が一致することだろう。ここの画一化されていくイメージが「作品(映像的な文章と音楽)」と大きな「世界」が静的に回転するような感覚。

本来、小説はビジュアル性を作り出す装置としての画が無いが、『ものするひと』はいうまでもなく漫画であるから、「小説家の主人公が思考する小説的イメージ=心象風景」をビジュアル化できる。そこに音楽というBGM(作中ではシンディ・ローパー)の入り込む隙間という空間の作り方は、小説という表現方法では「そのための説明描写を生活に溶け込ませる」ものであるが、漫画ならば画一化されたイメージをそのままダイレクトに出力できる違いがあるだろう。この「作品」と「世界」が合致していく、ズレの妙ではなく隙間までの作り込みは表現と技法の差異になる。

身体性のビジュアルとしての文章や画としての体感、また音楽という聴覚的な体験を組み込み、それぞれの複雑なイメージを添えることで「目でコマからコマまでを泳ぎながら」痛烈に感じることこその喜びであり、映画とは異なって聴覚的なイメージが元々無い小説や漫画がどのように身体性としてのダイナミックさを演出できるか。

その代表的なものが、電車のシーンと作中作「マトリョーシカ」のインスピレーション、没頭として書かれていると思う。

繰り広げられているのは、ぶっちゃけ妄想の域だ。

そこからの同一化が淡々と描かれている。

飛躍的な思考と戯れながらも、現実に引き戻された際には電車に乗っている「みんな」と一緒だから安心する主人公。

ここでも立ちはだかる普通コンプレックス!

 

異性との交友って寂しさを埋めるためのものなのか?

性ってそんなもんなのか?

主人公は一人であるけど、孤独を受け容れている。この作品は全体を通じて孤独を肯定的に描いている。

第3話、第4話の外からの評価=承認=点を打たれるのか、打たれたいのか問題。

最終的には小説家としての自立であり、肩書めいたものへの欲求。そのための賞レースへの高揚感が布石になっている。

 

女子大生の不倫中の彼女は、不倫なんて端からすれば非日常であるが、当事者にとっては日常でしかない(地続きでの性的な話について彼女側からのオルタナティブなものとして)。

つまり(昼)の世界で、大学の男友達は(夜)だと言い切る。

(昼)=健全であり、(夜)=不自然という印象を与える存在として機能している。確かにご立派な一般論として。

ここでも「普通」が観念として提示されている。普通の尺度ってなんなのさ!

「普通」への圧力があって、彼女は「変わっている」と言われる。

(昼)からすれば(夜)の一部として。

そして主人公は、彼女に変わっている人間として認識されている。彼女以上の存在と言わんばかりに。

しかし、ここでの彼女とその周囲との遣り取りで、十分に彼女も変わっているじゃんと提示する内容。

両者ともに「普通」ではないよと示している。

ただ、彼女にとっては自覚的に「普通」であって、ここの彼女が抱く自己像と主人公への「普通ではない」イメージ、また主人公の自覚、そして読者が抱くキャラ像の各々のズレが客観的に提出されているからこそ、それぞれ面白い群像劇めいている。

主人公の書きかけの「マトリョーシカ」のアイデアメモをパラソル状にした彼女。

真冬の河原で誰かのバカンスは行われたのだろうか

主人公の興味を繋ぐ対象=「パラソル」を作った彼女との出会いは近い。

第6話 スキップの仕方 総括

普通ではない主人公と彼女との邂逅とそれから。

普通であることで安心できる/したい気持ちと普通の「外」への興味。

待ち会=共同体(文壇バーの件)で、「マトリョーシカ」への言及が行われる。

分裂やペルソナを素材に誰しもが普通化=日常へと適応するもので、「異物」である自分を最初に提示しつつも、最終的には「普通」になるという話である。

そして最終的には日常的でありふれた世界との同一化が行われ、二人の人間が同じ顔で同じ目線で邂逅する。

これまでの作品内での普通コンプレックスや同調圧力、日常性と非日常性、主人公と彼女との邂逅までを「マトリョーシカ」が作中作として寓話的に描かれている。

そして彼女との対面からカタストロフィへ。

朝方、彼女との遣り取り。匂いの描写、匂いが気になる距離と興味。五感として。実感はなくても確かにそこにある事実として。

ここまで比喩として描いていた(昼)と(夜)であるが、(夜)が終わり(昼)になっていく時間の流れに二人を描く意味に強烈さを感じざるを得ない。

世界がまだ眠っている中で、主人公と彼女は街にある看板の言葉を拾いながら帰路に着く=外(世界)にある言葉としての実在感を確かめながら。

この対比が、1話の「郊外の夜に光る謎の言葉」になるだろうか。

あの時点では一人だったが、今は彼女と共有している。

誰かがいる世界で書くために/書かれた言葉を拾いながら。

世界は変わり、自分も変わっていく。

自分は変わって、世界も変わっていく。

当たり前のように日常として。

変わりゆく日常を静かに動かして、でも大きく表現している作品である。

二人による朝のシーンは、作品の完成度のみならず、これまで丁寧に書いてきたものの結晶体だ。

その鮮やかさは目と脳に刺さる。

明らかに本作は、サザエさん方式と対極にある。

セカイが学校内だった過去、ダラダラと学校の教室で、部室で、学校と駅と自宅の間でのコミュニケーションの消費以上の生産性は無いが、それ以上の憧憬と郷愁に焦がれる、変わらない日常=終わらない日常ではなく、1話の頭とラストで超変化させている。

 

 

でも、劇的にではなく、静かに大きく。

「日常系」と「お仕事系」の中庸を取っているような自在性。

賞レースの獲得による肩書としての自立が目的であるにしても、それが「小説家」としての最終的なゴールでもない。それは手段でしかなく、主人公の彼が第1巻で秘めているロマンは「郊外の夜に光る謎の言葉」を書くための点とそれを結ぶまでの線だ。

普通コンプレックス、孤独、無理解への距離を書きながら、どのように彼女とその他の共同体とその承認(外部との評価)を埋めていくか。

とんでもない作品になるかもしれない。

そう期待したくなってしまった。

 

 

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

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「あたりまえ」の研究 (文春文庫)

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号令のない学校―オーストラリアの教育感覚

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川越市から覗く「町並み保存型まちづくり」

 

観光まちづくり 現場からの報告―新治村・佐渡市・琴平町・川越市

観光まちづくり 現場からの報告―新治村・佐渡市・琴平町・川越市

 

 

地区計画の一つに街並み誘導型地区計画がある。

これは、地区の特色に沿った街並みを誘導し、土地の有効利用の推進や良好な環境の形成を図り、そこから派生したものとして町並み保存がある。

町並み保存とは、複数の歴史的・伝統的建造物等が残り、それらが連続して建ち並ぶ町並みを保存する事業・活動のことを指す。それらを象徴とする町並み保存型まちづくりにおいて、歴史的な町並みという残された空間資源を手掛かりに地域社会の活性化と再生をはかるまちづくり運動があり、その事業・活動の対象となる区域は町並み保存地区等と呼ばれる。

歴史的町並みなどを地域ならではの個性や魅力で再生させ、住民の生活環境を整備することを目的としている。保存の方法には対象地区を指定または選定する国選定重要伝統的建造物群保存地区によるもの、都道府県や市町村等の時報公共団体による景観条例などにより対象地区を指定する伝統的建造物群保存地区・町並み保存地区等がある。ここでは、伝統的建造物群保存地区(以下 伝建地区)について述べるとともに筆者の住まいから遠く離れていない川越市を題材として取り上げる。

先ず、伝統的建造物群保存地区制度は1975年の文化財保護法の改正により導入された。その背景には旧法の文化財保護法の限界や歴史的環境保全に対する住民運動地方自治による条例の制定などがあった。それらは高度経済成長による急激な都市化や生活の現代化などにより、一層文化財の破壊が進展したことが大きい。建造物に関して言えば、近現代建築の破壊も付随して行われた。

そして、保護する動きを主眼に置かれた改正後に目立った動きとして、伝統的建造物群保存地区制度の創設や町並み・集落の保全や市町村による地区指定と国による選定である。また、重要文化財環境保全措置や保存技術の選定制度などが挙がる。

文化財保護法においては、文化財の定義に「伝統的建造物群」が追加された。

「周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの」とし、伝建地区は「伝統的建造物群およびこれと一対をなしてその価値を形成している環境を保存するため市町村が定める地区」と指定。基盤のしっかりしたルール作りを徹底した。

伝建地区制度の特徴は、町並み・集落の歴史的環境に対する「面的保全」を初めて制度化したものである。

都市計画区域内において、伝建地区を指定することができるという都市計画法との一体化があり、市町村が住民との話し合いの上で自主的に地区を決定する方法が採用されている。対象となる歴史的環境は住民の生活環境そのもの。そこで生活する住民の同意が無ければ環境保全は継続できないことを示す。

前述の通り、伝建地区制度は町並みを総合的に保存・保全していくための仕組みを具有する取り組みである。伝統的・歴史的な地域資源を発掘し、それらを価値付けることをし、保存・継承していきながら活用する手法を住民たちとともに探っていくシステムだ。

伝建地区制度の恩恵の一つとして知名度が上がることで観光客が押し寄せ、地域が活性化する点がある。町並みの価値が損なわれない限り、そしてそれを守り続けようとする住民の意思がある限り、未来永劫に続く制度による保護が続く好循環が発生する。

伝建地区制度は、専門家と地元の協働による町並み調査が一体となるもので、その成果を学習することによる住民自らの町並みの価値を再認識する。町並み保存をまちづくりの柱に据えるという住民間のコンセンサス形成や行政や専門家との協議を経た住民自身による保存地区の画定と保存計画の策定が特徴と言えるだろう。

次は、伝建保存対策調査の方法について論じていく。

最初に町並みの履歴調査を行う。研究文献の収集と調査を通して、町並みの成立と展開のプロセスを場所と空間に即しつつ解明する。町並みの歴史だけではなく、保存計画につながるように伝統的建造物群が展開する場所や空間のもつ秩序や構成の根拠が説明されるところに特徴がある。資料分析により、現況の地籍図上に町並みの変遷が明示されることが求められ、その成果を根拠に望ましい保存地区設定の立案が行われることになる。

その次は対象となる建造物の履歴調査である。伝統的建造物の来歴、配置、平面、断面、痕跡の採取と実測による個別建築の履歴の把握を通して、町並みの建築的特色を明らかにする。歴史的町並みを構成する建造物の残存状況とそれら伝統家屋が語る歴史、そして構成要素として語る町並みの歴史を解明することが求められる。

第三に景観の現況調査。景観要素の分布布陣と建造物立面の採取、実測、三次元モデル化などを通して、景観要素の残存状況と町並み景観の構成を把握し、町並み保存の課題を抽出する。

第四に町並みの社会調査。町並み保存などの地域活動調査、町並みの居住者と来訪者の意識調査、町並みを支える伝統産業、伝統技術などの実態調査を通して、町並みと地域社会の関わりを探る。伝建地区制度に伝統的建造物群という文化財の保護に加えて、まちづくりの支援制度を確立。保存地区指定の根拠となる保存対策調査において、町並みを抱える地域社会に関する調査は必要不可欠であり、ヒアリングやアンケートを行うのは当然である。

最後に町並み保存の構想立案を行う。これらの調査結果について総合的な検討を加え、保存継承すべき価値としての町並みの特性を具体的に把握して、その価値を保存し高めていくための保存地区設定と保存計画の基本方針と枠組みを提示していく。

伝建地区制度のプロセスにおいて、次のステップとして伝建地区保存計画の枠組みを決めることが求められる。

伝建地区内の家屋の修理や公共空間整備などの保存事業をコントロールする根拠が、各自治体で制定する保存条例や景観条例であり、この条例に基づいて地区ごとの状況に応じて具体的に策定される保存計画が実質的計画となる。

そのために欠かせない保存地区の設定がある。

歴史的条件があり、これは調査によって明らかになった町並みの特性が及ぶ範囲を保存地区にする。

さらに社会的条件。これは保存地区指定後に町並み保存を実質的に支えていく地域コミュニティとしての町並みを形成する範囲を保存地区にする。

また景観的条件。伝統的景観要素の残存度とその分布状況に基づき、将来的に伝統的景観の形成可能な範囲を保存地区にする。

そして技術的条件。修理などの指針を示すことができる範囲を保存地区にする。

そして、具体的な整備計画に入る。地域の空間形成に関わるものの、その中で伝統家屋を含む個人の住宅や事業所などの建設活動のコントロールに関する保存整備計画があり、町並みの管理施設や防災施設、道路や公園、公共施設といった社会資本整備に関する環境整備計画、それらを具体計画として遂行する為の保存システム整備計画で構成されることになる。

以上が伝建地区制度の簡易的なプロセスである。

さて、筆者が本論の伝建地区制度のモデルとして挙げるのが埼玉県川越市である。町並みは蔵造り町家が中心であるが、木造町家や洋風建築などが明治から昭和にかけての多様な建築が分布している。

城下町としての始まりは長禄元年まで遡る。本格的に形成されたのは天文15年頃と言われている。江戸時代に入ると江戸の北方の守りや物資流通の集散地としての地位を築き、地方の中心都市として繁栄を始める。

現在では近代的商店街である駅周辺商業地とクレアモール、それに続く大正の雰囲気漂う対象浪漫夢通りが川越を形成している。

具体的なまちづくり活動は1970年頃から行われている。

寛政4年に建築された大沢家住宅が国の重要文化財に指定されたことを皮切りに、1974年に建築学会関東支部による歴史的保存計画コンペが行われた。これを機会に住民活動に文化財保護運動に加えまちづくり運動の面も出てくる。

1975年、市によって伝建保存調査が行われるものの商店主を中心に反対があり、地区指定されなかったが、1981年市が蔵造り16軒を市の文化財に指定。この頃からマンション建設計画が持ち上がり反対運動が起きる。

しかし、それでもほぼ計画通り建設された。行政も条例などの規制がないため対応できなかった。1983年「住民が主体となったまちづくり、商業の活性化によるまちなみ保存」を目的に住民、市職員、外部の町並みファンや専門家が集まり、蔵の会を結成。その提言から本格的に町並みを活かしたまちづくりを開始。まちづくり規範の作成とそれに基づいたデザイン誘導が始められた。

1989年には川越都市景観条例を施行。景観形成地区による景観誘導を目指した。条例、伝建地区指定などを住民に説明しようとしたが、都市計画道路の拡張案が一部住民の反感を買うことも。

1992年、市の町づくり案の承認機関として北部町づくり自治会長会議が設立されたが、この案を全て白紙に。自主的な案の提示を目標とした名称も十カ町会と改めた。

これまで度々マンション建設に反対運動が起きていたが、この頃から対応策として伝建地区が検討され始める。

1994年、若手住民を中心に町並み専門委員会を設置し検討を重ねることで、伝建調査の要望書を市に提出。町並み専門委員会はワークショップを開催。各種制度の比較検討、伝建地区範囲やデザイン誘導基準の検討などを行った。

その成果は町づくり通信として全住民に配布。この効果もあり、十カ町会が行ったアンケートで回答者の8割が歴史的町並みを保存したいと回答し、市へ要望書を提出までに至る。市は伝建地区指定に関する意向調査を行い、およそ9割の賛成を得た。

1999年に伝建地区の都市計画決定手続きを行い、都市計画道路をほぼ現状に維持する縮小変更を行った。同年に重要伝統的建造物保存地区に選定されるという経緯を持つ。

川越市の伝建地区の特徴は、住民による町づくり組織の存在である。

町並み委員会は一番街の町づくり組織で、メンバー構成は一番街商業協同組合委員、学識経験者、地元有識者などと多彩。市と商工会議所もオブザーバーとして参加している。また、町並み委員会と連携した協議も行われた。

伝建地区で建築行為等をする場合には、計画案について事前に市と相談する必要があり、ここで伝建地区制度やデザイン誘導基準、町づくり規範が説明され、町並み委員会に届け出るようになるという段取りもきちんとしている。

伝統的な建物は保存し、新しい建物は厳格に伝統的様式に従うか、町並みとの調和を崩さない範囲で新しいデザインを追求するという原則のもの、町並み委員会は町づくり規範に従って、建築計画が適合するか検討する。

さまざまな団体の活動によって川越のまちづくりは続けられてきたが、伝建地区指定への合意形成では自治会を基盤とする十カ町会が大きな役割を果たした。デザイン誘導においては、住民自らまちづくり規範を作成。

まちづくり規範には、新しいデザインでも川越らしさを活かしているものであれば受け入れる柔軟性があり、伝建地区としてもこれを許容したことは画期的である。

しかし、一方でデザインの質を維持できているかという疑念も残った。

川越市は1970年代以降、蔵造りの町並みへ統一し、観光客の増加も相まって商業の復活が図られてきた。

このような町並み保存に努めてきた行政と民間・住民の努力の結果、観光客が増え、個々の商店の売り上げに寄与し、さらに商業者が率先して町並み保存に取り組むといった好循環が生まれたことは見逃せない。

町並み保存の景観の変化についても触れておきたい。

川越市一番街の県道幅院は狭く補導も無いため、県の地中化事業の対象とならなかったが、市は一番街が市のシンボルでもあることから、東京電力などの協力を仰いで、電線の地中化を遂行した。

民間の協力によりポケットパークを整備し緑の潤いと安らぎのある空間作りを意識した。また、アスファルト舗装から石畳に改修されたことで、景観的に落ち着きのある雰囲気を醸し出すことになった。

さらに、一体となっている住民の意識も見逃せない。

地元の商業店舗の事業者たちは、業種転換を図ったり店舗を改装する際に、もともとの蔵造り建築を活かすよう工夫したり、蔵造り風建築に改築などすることによって、一番街の町並み景観が統一されるようにしてきた。

その結果、蔵造りを中心とする町並みの整備が進展。商業の売り上げ増加という事実がかつての繁栄を取り戻したという実績がなければ、現在のように町並みの統一は進展しなかったと言われている。

伝建地区制度の導入によって、多少なりとも地域のバランスが図られ、住民と行政の活発な意見交換や連携が行われたことによって生まれた景観を今後も保存していくことが、そこで生活していくために必要不可欠なものだろう。

 

 

参考文献

日本建築学会(2004年)『町並み保全型まちづくり』 丸善株式会社