おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

『ゆるキャン△』感想 ゆるいからこそ担保される多様性

私の基本的な『ゆるキャン△』感想の文脈は以下にある通りであるので、本記事はその総括という名の補足です。

ゆるキャン△ 3 [Blu-ray]

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第1・2話以降から、話の根底にあるモチーフは揺らいでいないのが特徴だろう。

文脈からズレることがないというのは、丁寧な作り込みだとも言えるし、あるいは想定内とも言えるのだけど。

ゆるキャン△』は、リンちゃんのソロ充の文脈と相対的に位置するため並列としての野クルと、それらの価値の相対化における工夫の凝らし方を等身大感覚な美少女に詰め込んだ見せ方だと思っている。そこで、キャラ間のセンシティブな距離として、リンちゃんの納まり所に集約する構成なので、どうしても彼女の「ソロ充」が否定されるのかどうかが最大の焦点になっていると思って観ていた。*1

そして、最後まで価値の相対主義による並列化(比較することは決してない)のまま、ジャンル毎の楽しみ方をアレンジを利かせて楽しみ方はそれぞれあるんだよという、多様性=クラスタ化の棲み分けの文脈が、根底から一切メタやネタにズレることなく、ゆるいガチのまま行ってしまった。

アニメ『ゆるキャン△』は、最終的には志摩リンも斎藤も野クルに入らないまま終わった。

作中で、彼女らを積極的に(半ば強引に)取り込もうとする野クルの動きもなく、あくまでもゆるい勧誘程度で、帰宅部とソロキャンと野クルの棲み分けをした描き方によって多様性が担保されていた。

ゼロ年代やその橋渡しとなった「学園部活モノ」の作風からは考えられない選択だと思う。これらのある種の「部活絶対主義」から距離を取り始めた作品の一つになるだろう。

最終話のラストで、斎藤が野クル勧誘をゆるく断ったことで、志摩リンというソロキャンガールのラインを別の方向=帰宅部という理由を持ち出した斉藤によって結果的に補強したのが印象深い。

そして、なでしこもソロキャンをしたように(結局リンと合流したが)、作中での「所属」や「態度」が何も否定的なニュアンスではなく、また安易な他者性に吸収されることも無いままブレることもなく丁寧に描かれていた。

つまり『ゆるキャン△』は部活モノから距離を取ることで、一つの部室内という箱庭における「価値観の押し付け」ではなく、価値観の許容という多様性を採用している。

この辺の「ゆるさ」が大事だと考える。

山岳部やアウトドア同好会などのガチ感ではなく、野クルという「ゆるさ」がまさに名を冠している所以といったところ。「ゆるさ」があるために自由と解放感がある。制約を規定するものから解き放たれる。

寛容的な描かれ方だと思う。

アニメ最終話では、野クルは規模を拡大することも無く、きちんとした部室を充てられることもなく、そのための部員も増員することもなかった。つまり正式な「部活動」=ガチから一つ距離を置いているのも、このような規模や所属が示しているだろう。

なので、従来の「学園部活モノ」(大半は謎部活ばかりだが)の括りには入れ難い。であるから、一つの「ゆるさ」が導入されているともいえる。*2

しかし、かといって作中ではガチを否定することもしていない。

代表例は志摩リンの祖父だろう。寧ろ、ガチは憧れの対象になっている。

彼女たちはあくまでも「ゆるさ」の下であるからこそ、本格志向に憧れながらも、しかし金銭的にも、あるいは女子高生の行動力の範囲的にも無理がある中で、それぞれが楽しむ為に知恵と工夫を凝らしてキャンプに臨む。その過程においてガチにおける価値観を纏め上げるような同調圧力を自然的に排し、楽しむという同一の目的があるからこそ「ゆるい」ために多様性が担保されているという観方もできる。その小さな事実が、野クルに入ることをしなかった志摩と斎藤の存在によって補強された結果だと思う。

「イマ・ココ」の充足感としてみると『ゆるキャン△』も『ブリグズビー・ベア』もそうであるし、キャンプという期間限定の遊動生活における非日常性によって「イマ・ココ」が拡張される辺りは『よりもい』の旅と重なる部分であったりする。*3

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双方ともにメインは「友達探し」であるんだけど、第1話では「ソロ充の提示とその肯定」があり、2話以降は一貫してそれぞれの工夫と相対化がモチーフとして描かれ、それぞれの楽しみ方があって、それぞれが提示されて肯定されるという文脈でみるとリンちゃんはリンちゃんのままでいいというお話で終わった。

その中で否定が一切描かれていないのも特徴的であるのは既に述べたが、1話ではソロ充だった志摩リンが、11話までに数回ジャンル違いの楽しみ方に触れて実感していくリンちゃんを描きつつ、ジャンル違いにもバラエティがあり、人的・環境的な相互作用としてダイレクトに表現されるのがキャンプでもあるとし、ソロキャン自体もオプションとして提示したまま、「クリキャン」を迎える。

「日常系」にありがちな「終わりのない日常」=本来、箱庭に閉じ込めて時間の進みを感じさせないところに、キャンプという四季折々の自然をダイレクトに反映する表現行為を組み込むことで、ゆるやかな時間の流れを導入しているのも印象深い。

「ゆるい」けどガチなキャンプと、ゆるいまま(完全に棲み分けしない/線引きしない漂流的)人間関係と日常風景の組み合わせで、文字通り「ゆるキャン」といったところである。

また、SNSのゆるく繋がる現代性をそのまま取り込んだのは面白い試みであったと思う。

SNSの疑似同期性(作劇としては遣り取りを連続的に行う必要があるから同期的になるが)のゆるさとして画期的なのはSNSの描写をそのまま表現したことによって、その場では、その時間では、画面上では一人しかいなくてもSNS上では友達とゆるいコミュニケーションを取っていることで、画面的には単一的であるが「独り」ではない常時接続を示した。SNSのメッセージ上では(擬似)同期的で、その場、その時間をシェアして、ボッチであることへのアンサーとして、ソロ充の在り方を描き切ったと思う。

だからこそ、作品としての「ソロとSNS」の親和性を超えてみせたラストのオンラインではない、キャンプという行為のリアルのシェアという帰着を第1話の二人の出会いの偶然性をそのまま引いて――そのままゆるく合流するリンとなでしこ――第1話のモチーフを反転させるアレンジの結果、「日常系」の中でもゆるく時間の流れを反映させてみせた意味は大きいと思う。

 

 

*1:ソロキャンガールが野クルにすっかり入るということはソロキャン自体に対して、ボッチ/ソロはいくら楽しもうが他者性に取り込まれてしまう構図になりがちだから。

*2:勿論、目的としての部の設立と「ゆるさ」を醸し出している彼女たちの存在性は共存するかどうか、つまりどちらが先かというお話になりやすいが、部を設立すること自体は手段でしかなく、部を構成する共同体としての「ゆるさ」が本質として先にあるだろう。

*3:引き合いに出したどの作品も、ある一定の環境から脱け出した後を描いた作品は共通的である。『ブリグズビー・ベア』であるなら疑似家族という偽物の両親からであるし、『宇宙よりも遠い場所』は青春を謳歌しきれないまま腐敗していく学校を飛び出してみせた。言うまでもないが『ゆるキャン△』ではなでしこの転校が該当する。

西加奈子『漁港の肉子ちゃん』感想 悲観主義があるからこそ肉子ちゃんは絶対的な物語として存在する

 

漁港の肉子ちゃん (幻冬舎文庫)

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解説にあるように「自意識の対立」構造を如何に折り合いを付けていくのか、という西加奈子らしいタッチを、タイトルにある肉子ちゃんではなく、その「娘」としてのキクリン目線で描いており、思春期特有の未熟さそのままを炙り出している。

キクリンは肉子ちゃんに比べると、よく出来た子であることに違いないが、それでもやはり依然として「子」であることは身体的・心理的な未熟さがストレートに表現されている。

それらの身体性から滲み出る自意識を飲み込んで、乗り越えた上で身体的な成熟が結末で示されるのはまさに王道パターンといえるだろう。

本作は2011年の作品で、舞台のモデルは石巻(偶然一致したらしい)。

作品自体に震災の空気は感じられない程に楽観的であるにしても、否応が無く突き付けられた現実に対して、虚構に過ぎない作品が関わっていけるのかという作者としての問を西加奈子自身もあとがきでも記しているが、肉子ちゃんという存在感が「イマ・ココの瞬間の幸福」を体現しているので、どうしようもないほどに楽天的になる。

作品とリンクする時代性を鑑みても、底を抜けた肉子ちゃんの存在感が、震災への救済になると誇張するものでは決してない(そうなることは有り得ないというニュアンスはあとがきに記されている)し、では、この状況に対してどれだけ関わるのか/関われるのかと小説という表現行為のある種の限界も突き付けられたに違いないだろう。

しかし、確実に肉子ちゃんという存在性による「幸福感」はある。彼女の生き様は「イマ・ココ」だけを切り取ることでの幸福観を如実に浮かび上がらせている。

先行きも見えない当時の社会像において、「今が幸せならば幸せな気分に浸れる」切り取る瞬間と、その隙間を生活している感覚と「イマ・ココ」の実存性を考える上で、私は補助線として古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』を思い出した。

 

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

 

本作の連載中に震災があり、作中でも突然死や亡霊という形で日常に潜む死の情念をキクリンという子ども目線で切り取っている一方で、題名にある肉子ちゃんは「死からの反動的」に近いくらいに底を抜けた明るさで抜けちゃったまま描かれている。

それはまさに「生への全力肯定」という「イマ・ココ」の証明としてあるように、反対に日常で生きるということは、当たり前だが死(突然死や震災)も含まれているというのを子どもの眼差しから、楽天的に突き抜けている肉子ちゃんを相対的に置くことで、結果として、絶対的に肉子ちゃんという物語になっているのが素晴らしいところである。

だから、この作品のタイトルに「肉子ちゃん」があるのは必然だろう。

「イマ・ココ」で死ぬかもしれないし(日常での突然死=震災のように)、それでも、そこで生きていくしかないのだから、留まるための証としての絶対的な絆を、血の繋がっていない擬似親子の肉子ちゃんたちが、本当の親では与えられなかった「イマ・ココ」の「生」の肯定を全力で押すことの力強さは、一つの固定観念を乗り越えてしまった意味を与える。

こういう作品を描く西加奈子から、私は力が貰える。

あとがきで、震災のような出来事に対して、小説が持つポテンシャルについて西加奈子はおにぎり一個にも敵わないと記し、辛うじてあるであろう作家としての願いであり自負すらも打ち砕けたとあったが、相対的に、そして絶対的に「肉子ちゃん」の物語が存在する豊かさこそ、ある種の仄暗い悲観主義との対立と、それらの包括があって成立する共生関係だといえるのではないだろうか。

おおたまラジオ第8.5回 マンガを語るのって難しい/『ゆるキャン△』/# 平成ミステリベスト

これから定期的におおたまラジオ番外編をやっていきたいと思います。

こちらの番外編は文字起こしをしない(するまでもない)内容について語っていくということで、私自身のアウトプットの場を、特に喋りの向上を目指していく予定です。

いや、最近、ブログを書いていないなと思って。纏まって書く時間が確保できていないだけで、インプットとアウトプットはしないといけないなと思って。

#平成ミステリベスト、気になる人がいたらタグを漁ってみてください!素晴らしい企画だと思います(めっちゃ悩んだ)。

来月のおおたまラジオ本編は、一本のマンガについて語る回をひたすらやります。

課題図書は森田るい『我らコンタクティ』の予定です。

我らコンタクティ (アフタヌーンKC)

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鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

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ゆるキャン△ 1 [Blu-ray]

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