おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

自分を変えるか、世界を変えるか。いや、居場所を変えろ! 異世界転生と『宇宙よりも遠い場所』と『ブリグズビー・ベア』

こんばんは。

おおたまラジオ番外編です。

2019年に入ってから、える・ろこさんと毎月一度はおおたまラジオをやっていきたいよね、というのを隠れテーマにやっているんですけど、映画を立て続けに傑作を2本を観て、一人喋りの意欲が湧いたというか、今月のおおたまラジオ第8回では取り上げないので、僕の記憶が古びてしまう可能性も大いにあるし、メモも取っていないという大きな問題としてあるのですが、その結果、このおおたまラジオ番外編という形で。

番外編自体はこれまで僕が何回かやっていて。

最後にやったのは、昨年の秋頃、村上春樹村上龍西加奈子朝井リョウの、80年代を駆け抜けた作家たちと2010年代をズバンと中心にいる作家の記述に対する意識の変遷というか、目線の変化について比較しながら、どちらが良いとか悪いとかじゃなくて、今僕たちは2019年を生きているのだからという説教臭い一人喋りをしたのが最後の番外編でしたけど。

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近々第8回はやる予定なんですけど、今回は第7.5回ということで、その間を繋げたらいいなと。

でも久しぶり過ぎて、相槌を打ってくれるろこさんもいないし、とても不安を覚えながら探り探りやっています。

そうですね。

猫。猫ですよ。

いきなり話が変わりますが、猫が可愛いことは皆さんご存知の通りだと思うんですけど、BSプレミアムでやっている岩合さんの猫のドキュメンタリーだったり、NHKでやっている堤真一さんがナレーターを務めている『モフモフ』も。

基本的に動物って可愛いじゃないですか。ネットで人気者になるのだったら、猫の写真を上げた方が早いと言われていますからね。それは真実だと思うんですけど。

 

実際に猫の動画で、YoutubeLIVEで猫の専用の部屋をライブカメラでずっと映しているユーチューバ―がいたりするくらい猫の生態系、生活感をそのまま映しているという猫に親近感を湧かせる環境や情報はいくらでも揃っているなと。そのためにバズるために猫を使うのはアリかナシかみたいなしょーもない話になったりするんですけど、その是非は置いといてSNS上でのいいね!稼ぎやネットメディアのバズるための記事に猫を使う手段と目的の話は置いとくとして、猫って可愛いよね!だけで消費されがちな、如何にも小動物らしい愛くるしさで僕たちを癒してくれるよね、可愛いよね、私も飼いたいなって、そういう意見って巷に溢れている猫の写真や動画を観れば簡単に浮かぶと思うんですけど。

実際、猫を飼うのは大変で。

僕も今、猫を飼っていて。実際はめちゃめちゃ大変なんですよ。ペットを飼ったことのある人なら誰でも分かることなんですけど、可愛いだけじゃないよねって。

結局、可愛さが勝っちゃうんですけど、それだけではないよねって。

猫と一緒に暮らすことは。BSプレミアムで『ネコメンタリー』という番組がありまして。

この前、社会学者の岸政彦さんの回をやっていて、見逃しちゃったんですけど、観てたらその話もしたかったんですが、岸政彦さんのフィールドワークを纏めた本というのはとても面白いので…その土地に住んでいる、僕らが簡単にラベリングしてしまう、レッテルを貼ってしまう人たち、差別被害者やマイノリティに対して岸政彦先生が寄り添うことが、フィールドワーカーの仕事であるんですけど、寄り添うという行動自体がかなり暴力的なのではないかという問題があったり、理解したいんだけど完全に理解しきれないよねって。当事者じゃないから。

(寄り添うために、理解する為に)当事者のようになりたいんだけど、やはり絶対的にマイノリティではない、マジョリティの側に過ぎないんですよね。マジョリティの側の人間が、マイノリティのフィールドを侵すんですよ。実態調査の仕方ない側面であるにしても、その暴力性というジレンマは拭いきれないというのが事実としてあって、社会学者として色んな人たちと交流した岸政彦先生は真摯に社会学を考えている人なので、是非興味があったら本を手に取っていただけたらなと思うんですが、岸先生の話がしたいのではなくて、

社会学はどこから来てどこへ行くのか

社会学はどこから来てどこへ行くのか

 

 

僕が観た『ネコメンタリー』は小説家の村山由佳ともみじだったのですが、これがもうツライ。ツラすぎる。壮絶。

ま、分かるというか。僕も12年一緒に過ごした猫のことを思い出すと、相当ツラかったので、それをフラッシュバックさせるような強烈な画面ですよね。もみじちゃん自体は、もう亡くなっているのですが…単純にSNS上でいいね!や可愛いね!だけじゃないんだよってことを真摯に描き切ったドキュメンタリーとして、結果的に「猫の死」というのを扱っているんですけど、だから素晴らしいというわけでもなく、死を美化しているとかそういう話でもなく、猫と主人の生活、一緒に住むこと、猫を飼うこととは?一緒に猫と居ることとは?を突き詰めた結果、生きることも死ぬことも生活していく内に含まれているんだよと。その全部を曝け出しちゃっているんですよね。もみじと村山由佳を通して。

猫を飼っている人たちからすれば当たり前のことなんですけど、ネット上で消費されている猫の可愛い画像には宿り切らないものもあるんですよ。想像が及びにくいところというか。

もちろん、猫はものを食べるし、水も飲むし、排泄もするし、寝るし、遊ぶし、晩年になっていくと苦しくなっていくんですよ。その苦しんでいるところも含めて、苦しんでいるもみじの姿に寄り添う苦しそうな村山由佳の表情を通して、視聴者に訴えかけるものがあるドキュメンタリーなんですけど、悲哀の物語だけでは括れないというか、僕が散々言っているような猫とネットの消費に対して警鐘を鳴らしているような批評性は全くないんですけど、それは僕が恣意的に切り取っただけのメッセージ性なので、番組自体にそのような批評性は無いのですが、単純に生活することを描くとこういうことだよねと思うんですよ。

人間もそうですし、ペットだからどうこうではなくて。本当はペットという言い方も好きではなくて。実際に飼っている人からすれば、犬や猫とかの境はほぼなくて、家族みたいなもんですからね。そこに改めて線を引く必要性はないと思っているんですけど、このように配信という形で外向きに喋っている時は矛盾したまま分かり易く線を引いているわけですが。

『ネコメンタリー』をBSプレミアムがやったのが凄いなと思うんですよ。

一方では岩合光昭のドキュメンタリーがあって。岩合さんは世界を巡って、色んな猫と触れ合って、それを撮影してきて、そりゃあ、もう番組には映していない色々なものを観てきたと思うんですよ。それでも、あくまでも逞しくそこで生活している猫の目線を切り取るという。

あの番組の良い所は、岩合さんの目線の高さが猫の目線の高さになっているところで、カメラを向ける岩合さんの温かさが滲み出ていると思う。そこがハートフルで。

もちろん、何度も言っていますが、ハートフルだけではないんですよ。きっと。でもハートフルが勝っちゃうよねみたいな話になっちゃうんですけど(笑)

村山由佳ともみじ回は本当にツライ。

死とは誰にでも平等に訪れますけど、常に死を意識しながら生活しろと言われても、この終わらない日常ではなく終わりある日常を常に自覚しながら生きろ!っていう意識を持っていたら疲れちゃうと思うんですよね。実際は(能天気に言えるのも恵まれているからかもしれませんが)。

もちろん、怠惰に堕落した終わりなき日常を平々凡々と生きることも一つの幸せだなって僕は思うんですよ。それが幸せだと思う人もいるでしょうし、僕自体は賛成はしないんですけど、今の時代でそれを言うのも相当難しい話だと思うので。

箱庭の中に閉じこもって、自分だけぬくぬくと、もう剥き出しな世界に対して生きることって難しいですよ。

だって、もう「南極」行かないとダメだからね。そういう時代ですよね。「南極」行かないといけないというか、「南極」行ってどうするかみたいな話になっちゃっているから。時代として。

 

そういう時代に対して、どのように生活していくのか。生活レベルを上げていくのか、ライフステージの変化だとかじゃなくて、先ずは目線をどう変えるかですよね。

環境の話として。

そういう風に試行錯誤していく方が、今の時代は幸せなんだろうなって思うんですよ。その環境に居続けるのも自由だし、その環境から出るのも自由だし、新しい環境を作るのも自由だし。ツールや機会は結構ありますけど。

オンラインサロンは、その一つだと思うんですよね。

死ぬこと以外かすり傷

死ぬこと以外かすり傷

 

 

オンラインサロン自体はだいぶ怪しい文化だなって思われがちですけど、僕自身はまだ入ったことがないので、外から観ているに過ぎない。

オンラインサロンブームと、サロンの内部から漏れ出る空気感を眺めることくらいしか出来ていないので、現状、オンラインサロンについてどうこうと言えるほどのものでもないし、「宗教みたいだよね」や「遣り甲斐搾取だよね」とかは見掛けますけど…んーどうなんだろうって思いながら。擁護するわけでもなく、否定するわけでもなく、完全に立場を保留しているだけなんですけど。

環境の話を続けますが、自分を変えるか、世界を変えるかといったら、自分を変える方が簡単でしょって。

世界を変えるの難しくない?みたいな。ルルーシュだったら別ですよ。世界をぶっ壊してやる!だったら別ですけど、普通の人間は世界をぶっ壊せないんで、自分を変えるしかないんですが、ある程度年齢や環境が固まっちゃうと自分を変えるのもツライ。

 

 

 

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

 

 

僕は今年のテーマの一つに『小説家になろう』、いわゆる「なろう系小説」と呼ばれている主語の大きさですね。「なろう系」=異世界転生モノというイメージは固まっちゃっているんでしょうけど、もう少し情報の解像度を上げたいなと思っていて、「なろう系」=異世界転生モノって本質的ではあるんでしょうけど、一部の事実ではあるんでしょうけど、主語が大きすぎないか、一緒くたにしていいのかというのは「なろう系」という言葉を発する度に自覚的にならざるを得ないというか。

それだけで知ったフリできるのか。それはあらゆる事象の、主語の大きさが目立ちやすいもの全部に当てはまることで、主語というタームへの危機感は持っていないといけないんだろうなって常々思うんですけど、ついつい大きいこと言いがち。

ちょっと誇張表現した方が、想定している層以上にリーチ出来る部分って少なからずあると思うんですよね。厳密にディティールを擦り合わせて、解像度を上げて、発信しないといけないのに、ちょっと極端に言っちゃうとか、振り切っちゃうことで他の層にも響くという事例はあると思うんですよ。

それが良いか悪いかと言ったら、良い意味でも悪い意味でもあるとしか言えない。それも一緒くたにできないというか。こういう話をしている時点で、良い意味があったら、それを教訓的に話さないだろうというのは誰もが分かることで、こういう話をしている時点で、悪い意味が目立っているからお前は話しているんだろ!なんですけど。

自分を変えるかと言われて、自分を変えたくない。

むしろありのままの自分をそのままインストールして、ゲーム的世界観にゲーム的にトレースするというのが「なろう系」の傾向の一つだと思うんですが、これも大袈裟でありますが、自分自身の実存性は変化のないまま。これが努力しないで、環境を変えたら俺TUEEEE異世界ハーレムという「ご都合主義」や「欲望の可視化」と言われる所以だと思うんですけど、単純に今の環境では何も出来ないけど、環境を変えればそこで花開く可能性、つまり選択可能性の話だと思うんですよ。

ただ、選択可能性が浮かぶ時点で欲望の一つだろと言われたらぐうの音も出ないんですが、それはそうですけど、それだけじゃないよねと思うんですよ。

現状の環境に不満があり、そこでは開花しなかったものが、別の場所で開花したという事例の一つだと思うんですよ。そこでは自分を変える必要が無かった。ありのままの自分で良かったというのが、異世界転生モノの良いところだと思うんですよね。

『少年ジャンプ』の読者からすれば、もはや古びていますけど、「友情・努力・勝利」という三原則からすれば外れていますよね。努力していないから(笑)転生したという努力はあったかもしれない…それは結果だろ!ということなんですけど。

自分を変えるか、世界を変えるかという話で、漫画家の西島大介と批評家のさやわかの『ひらめき☆マンガ学校』を先月に読んで、第三の道として、居場所を変えろ、居場所を作れって。

 

居場所は=世界ではないんですよ。世界は全体なんで。こんな「世界」の話をすると、マルクス・ガブリエルに「世界」なんて存在しないと言われそうですけど(笑)

 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

 

居場所を変えるかというのは重要なメッセージですよね。オンラインサロンもその一つだと思うんですよ。遣り甲斐搾取と言われても、現状の環境以外の場所として、そこで遣り甲斐を見出せる場所にいることに価値があると僕は思っていて。

もちろん、それだけじゃないですけど、今は居場所を作れるし、ガンガン居場所に入っていけるし、仲間も作れるし、オンライン・オフラインのみならず、そういう時代でどういう場所に居るのかは凄い大事だと思うんですよね。

居場所という観方を持てば、異世界転生モノの観方も変わるのではないかと思ったりするんですよ。

宇宙よりも遠い場所』、通称『よりもい』も現状の高校生活に不満があるから、思わず南極の船に乗っちゃったみたいな感じじゃないですか。南極に行くことが目的だけど、南極に着いてからが大事ですよね。南極での生活感に『よりもい』の本質があると思っていて。

普段の日常では満たされなかったものが南極に行ったことで満たされたというよりも、南極に行くという志を持った仲間たちと行くことで満たされたものがあるという、居場所を変えることの意味や価値ですよね。学校自体を否定しているわけじゃないですけど。

現状の箱庭からどう脱け出すかと模索する話ではなく、脱け出した後の話を描いているのが『よりもい』。旅はいずれ終わってしまう。南極にいようが、シンガポールにいようが、自分たちが何処にいようが、変わらず日常は続いているし、この旅も含めて日常の一部なんだなと彼女たちは生活を通して実感するわけですよね。学校にいても日常だし、家のベッドでゴロゴロしているのも日常だし、南極でペンギンと触れ合うのも日常になっていくんですよね。旅を通して。

『よりもい』は「イマ・ココ」の否定から始まった物語でしたが、旅を経て「イマ・ココ」が拡張されていく。「イマ・ココ」の否定から「イマ・ココ」を肯定していく物語に転換していく力強い物語なので、それを転換させたのは居場所を変えたことの意味や価値があって、一旦外に出てしまった。南極に行ってしまったという大きな振れ幅があったからこそ、『よりもい』という作品の力強さは本当に傑作だなと思うんですけど。

それと同じというか…同じと言い切ると語弊がありますけど、最近観た『ブリグズビー・ベア』という映画があるんですけど、これ、もう涙が止まらなくて。

 

 

本当になんて言えばいいのだろう。素晴らしいとしか言いようが無かったんですよね、ずっと。これは本当、おおたまラジオでやりたいんですけど…おおたまラジオを聴いてくれている珍しい人、素晴らしいファンの方にはおおたまラジオを信じて欲しい気持ち。

第7回では辻村深月の『スロウハイツの神様』という傑作小説についてベラベラ好き放題に喋りましたけど、あの読書会の中であった拝島問題ですね。

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虚構にドハマりするのは若いからなのか?未熟だからフィクションに耽溺できるのか?(岡田斗司夫が優秀な文化は現実を相対化させると言っていたのが一つのアンサーになるんですが)

あるいは、チヨダ・コーキや赤羽環の物語への態度という文脈で観ると『ブリグズビー・ベア』という映画は、『スロウハイツの神様』の読書会をやってから観た時間の流れは運命的だったとしか言いようがない(僕らの中で文脈が生まれてしまったという意味)。

それくらいドハマりしてしまいまして。

える・ろこさんには観終わった後に早速力強くプッシュしてあるので、あの人も観ると思うんですけど。本当にアレは傑作で。いや、傑作だったな。

何が凄かったかと言われれば、「脱出の後」の話ですよね。その環境から脱け出した後の新天地での生活が丸々描かれているんですけど、その新天地に主人公が適応しようとする素振りがまるで無い(笑)というのが素晴らしい。

異世界転生の話で、ありのままの自分で居場所を変えれば、適応して開花するものもあるのではないかという選択可能性の話をさっきしましたが、『ブリグズビー・ベア』もそれに近い。厳密には違うのですが、単純にオタクの主人公がオタクとして受け容れられたという話なのかな…そう言っていいのかな…それだけじゃないんですよね。本当にそれだけだと情報が全然足りていなくて。

紹介しきれるほど僕自身も纏まっていないから、傑作だったとしか連呼できないのが心苦しくて。何を描いているのかというと、物語への愛というか、それは『スロウハイツの神様』の時でも話しましたが、この世界に居てもいいんだという圧倒的な肯定感だと思うんですよ。

別にフィクションじゃなくてもいいんですよね。物語じゃなくてもいいんですよ。その人が、個人として自立できるための心の拠り所となるものならば何でもいいんですよ。そういう機能があるものが、何か一つある人にとっては、『ブリグズビー・ベア』はめちゃめちゃハマると思うんですけどね。

この世界にいてもいいんだというのは『エヴァ』の最終回の碇シンジ君じゃないですけど、そういう自意識の話ではないんです。あんな私小説みたいな話ではなくて。

 

世界は素晴らしいんだよという話だと思うんですよね。世界はこれだけ豊かなのだから、君も肯定されるよ。居場所はあるんだよという。

自分の信じていたものが、全部偽物だったというのが判明した後の主人公の立ち振る舞いですよね。続きの「ブリグズビー・ベア」が観れないんだったら、自分で作っちゃおうと。そこにはYoutubeがあったり、グーグルで映画の作り方をググったりするシーンなんかは、今は素人でもテクノロジーが発達しているからモノさえあれば案外作れてしまう。

でも、一人では作りきれないから、仲間が要るよねって。

その仲間というのは、妹の友人で、妹とパーティに行ったときに、このパーティは乱痴気で、ガンガン音楽は掛かっているし、マリファナがあって、アルコール飲んでという如何にもなパーティシーンが出てくるんですど、そこで知り合ったイケイケ系な子が実はSFオタクだったというのが(笑)もう最高で。

スペンサーという子なんですけど、本来交わらない人たちがあのような場所で出会うというのが。スペンサーと主人公って、街中で歩いていたら多分目も合わない。下手したらスペンサーが音楽をガンガン聴きながら街中を闊歩していると、主人公がぶつかってしまって「あ、スミマセン」みたいなことを言うイメージなんですよね(笑)陰キャオタクとリア充。風貌からすると、ですけど。

まさに井上雄彦の『リアル』という漫画で、メガネのプロレスオタクの人と高橋が、ifとして描かれているコマがあるんですけど、あの二人は街中ですれ違ったら、きっと…こんな出会いは無かっただろうねとifのシーンとして描かれているわけですが、そこでは高橋が音楽をシャカシャカ聴きながら歩いていて、一方でプロレスオタクの人は大事そうにフィギュアを抱えながら、歩いている高橋と肩がぶつかっちゃう。そこで「何だコノヤロー」展開になるわけでもなく、「おっと、危ない危ない」という日常の、学校で例えるなら高橋は上位カーストで、オタクの人は最底辺で、絶対に入り混じらない人たちがそういう境遇を経て、同じ場所で同じ仲間になっていくというのを、『ブリグズビー・ベア』の主人公とスペンサーの間柄を観て『リアル』の一コマを思い出したわけですが。

 

REAL 14 (ヤングジャンプコミックス)

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仲間ってめちゃめちゃ大事だなって(笑)

当たり前のことですけど。仲間と、自分が変わらなくても、自分を受け容れてくれる環境があれば、こんなにも世界は温かいんだなって。

そこには他者が必要で。自分一人だけでは…あの豊かさは得られない。

僕は今、BS11で再放送されている『ゆるキャン△』を観ていて。志摩リンちゃん。

futbolman.hatenablog.com

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ブログやおおたまラジオ第6回で度々取り上げているように、志摩リンちゃんがどうなっていくのかにしか興味無くて。

このまま一人の道で、ソロキャンと友達とキャンプをしていく棲み分けをしていくのかどうかという。

僕は、志摩リンちゃんが野クルに吸収されてしまうと、ボッチが否定されてしまうような気がして。ボッチはボッチで楽しんでいるからいいじゃんって。そういう(「部活モノ」と「友達探し系」の延長の)文脈で観ているんですけど、否定まではいかないですね。否定は言葉として強すぎますね。

結局、他者性に吸収されてしまうのは、ボッチと友達がいる人間のヒエラルキーを感じさせてしまいますよね。僕は一人が悪い事だとは思わないんですけど。僕自身が完全な孤独になったことがないから、気安くそういう風に言えるだけかもしれませんが。

『よりもい』も『ゆるキャン△』も昨年でしたけど、よくアニメの批評上では並列的に提示されるのはよくある手法というか、それだけターニングポイントだったということで提示されているんですけど、『ゆるキャン△』自体はまだ観終わっていないから何とも言えない状態ですが、「外」に行かないといけないよねって。

「外」ってのは、キャンプや南極に行かないといけないという額面通りの意味ではなくて(笑)環境を変えないといけないよねって。環境は変えられるし、その居場所に居ないといけないよねって。その居場所があるからこそ世界は豊かであることの話に繋がっていくわけですが、なでしこにとっては野クルがそういう居場所だったり。

ブリグズビー・ベア』だったら、元の家族のところに戻った主人公は、相当変な目で見られていますけど、突き詰めた結果ですよね。周りを動かしてしまったという。

何かが好きというパッションは、人を惹きつけちゃう。もちろん最初は、主人公の言っている「ブリグズビー・ベア」というテレビの愛を言われても、本当の両親は何を言っているんだお前…と思いながら話を聴いているわけですよ(笑)でも、最初はコミュニケーションとしてやっていたけど、いつまで経ってもコイツ「ブリグズビー・ベア」の話しかしないなって呆れ果ててしまうことでの衝突はちゃんと描かれているわけですけど、やっぱり主人公が、野外で撮影しているビデオカメラの映像は反則ですよね。あれを観ている両親の顔とか、最高のシーンだと思うんですけど。あそこで情動として動かされますよね、人間は。

自分の息子は変な奴だと思っていたけど、それを突き抜けちゃいますよね。

だから好きという肯定する表現は本当に大事だなって。ちゃんと声に出さないといけないって。それを態度としてどう見せていくのかが一つの命題だと思うんですけど。

主人公だったら、偽物の両親が作った偽物の番組を本物にしていく。そのまま継続していくということで。その番組自体や両親の存在が偽物であろうが、彼に与えた影響は本物だったわけですよね。作り物だろうが、心が動かされちゃった。洗脳とかじゃなくて。一種の洗脳かもしれませんが(笑)病院送りされているから。

ただ、あの情熱というのは大事。自分の信じるものは常に自己肯定と共に持っていきたい。それをちゃんと受け容れてくれる仲間、友達、環境。こういう話をすると、『ゆるキャン△』の志摩リンちゃんが友達はいるし、なでしことキャンプしているし、という段階なんですけど、折り合いをつけていくという言い方は変ですが、一方でソロキャンの欲望はあるだろうし…え、野クルに入るのかな?って(笑)入らないで欲しいなって思いながら観ていますけど。

単純に、その「枠」を超えて欲しいですよね。

野クルの面々とリンちゃんが合同キャンプするんでしょう。それが野クルという肩書を持ったリンちゃんじゃない、合同キャンプだったら僕は幸せだなって思うんですけど。ボッチが否定されないまま描かれていたら、それは本当に凄いことだなって思ったり。

人って大事ですね。

ボッチの話から矛盾するかもしれませんが、他者評価、承認ってある一定は必要だと思うんですけど、それを踏まえた上で、人との関係は大事。

立川談志が落語のマクラで、「人間とは人と人の間を生きるから人間なんだ」と言っていたのが印象的で。人間が生きていて、人間と関わらないことって絶対不可能なので、そこでどうやって自分の可能性を見出していくのかと。

ニュー・タイプになれ!とか人類補完計画しよう!とかそういう話じゃないんですけど(笑)

居場所という問題は大事ですね。

おおたまラジオの課題というか。おおたまラジオでそういう居場所を作っていきたいですね、みたいなことは言いたくないんですけど。

本当『ブリグズビー・ベア』について全然喋れていないんですけど、本当に傑作なので。

今日は本当に構想を練っていないから中身が無いラジオでしたけど、この辺で終わりますか。

第8回は近日中ということで。

第8回はえる・ろこさんが主導で企画を練っている最中なので、いつもとは違う味わいのあるおおたまラジオになるのでないかと期待して…一番期待している、楽しみにしているのは僕だったりするんですけど。