おおたまラジオ

「焦げる焦げる」と歩きながら口の内で言った。

『俺ガイル』・小休止・メモ

先日、『俺ガイル』連載シリーズの前期(1巻~6巻分)が終了しました。

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前期と後期に分けているのは僕の都合でしかありませんが、こんなに長いのに変わらず付き合っていただいている読者のあなたの存在で僕は救われています。本当にありがとうございます。あなたがいなければ、僕は書き進めることはできません。文章って、そういうものだと思います。

正直、もっと簡易的にやろうと思ったこともあります。

けれども、ある意味で『俺ガイル』は「要約」を誤読に誘うテクストでもある。もちろん、あらゆるテクストはそうといえるでしょう。況してや誤読は読者の自由だと思いますし、「明快な誤読」すらも一概には斥けにくいのは相対主義的ですが、テクスト論的にも「正しい読み」への疑わしさは一定程度あるべきでしょう。ロラン・バルト的にいわなくとも、作者だけがテクストの可能性をすべて網羅しているとは限らないでしょうから。

もちろん、一定程度の「読みの正確さ」はあるでしょうが、単一的な「正しい読み方」は疑わしい。読者の数だけ読み方がありますし、その誤読可能性は作者の手からテクストが離れた瞬間、市場の原理を通して読者に届いた瞬間に開かれるものでしょう。そのような自由性は時間差を伴うある種のコミュニケーション(交通)と呼べるもので、だからこそ応答可能性として、テクストに込められた可能性と自由性はある種の「祈り」と呼ばれるものに近似していくと思います。作者と読者とのコミュニケーションとして。僕も、読んで書いて、それを読まれていることも含めて。

連載はここまでで半分。ようやく半分が終わり、折り返し地点です。小休止です。

少し振り返ると、やはり比企谷八幡中心的な読みは避けられないという印象です。(1)で僕は――前期というタームは主人公の比企谷八幡の一人ぼっち故に一般論的にネガティブなイメージが付き纏う「孤独」というレッテル貼りに対して、他者から注がれる眼差しを経由する悲観論から出発した作用にカウンター的に反発するようにして自意識が周回した結果としての独我論的なマチズモの表れとなっています――と纏めました。

そこから(8)の6巻までに積み上げていったものを整理すると、前期は最終的に「夜の肯定」と記しました。「夜の肯定」とは「孤独な内面の肯定」と「一人による自意識のマッチョさ」の両立を意味しています。

そして、前期は「夜の肯定」に「他者性の接続」が結びついていくことで、後期へと進んでいき、「まちがってい」きます。「他者」とのコミュニケーションのズレの多重化と自意識(「夜の肯定」)が空転していく。というのが僕の読みですが、もう少しお待ちください。

 

『俺ガイル』のファン層は偏りがあると思っています。あくまでも印象ですが。男性読者が多いイメージがあり、ジェンダー的には非対称性があるのではないでしょうか。書店員時代に『俺ガイル』を買い求めていた客層は男性ばかりだったことを記憶しています。

そういう意味では男性読者に比べると、テクストが開かれている気がしません。たとえば女性キャラクターの描かれ方(セクシャリティ)に対する、男性読者的視点ではない女性読者の意見は相対的に少ないかと。『俺ガイル』の主要読者層とファンダム受容(男性原理的)に関係があると思いますが、ここでは一つメモ書き程度で置かせていただきます。

むしろ僕が「ファン層に偏りがある」と書いたのは、僕の言い方でいえば前期と後期で異なるという意味です。前期はアニメ1期(1巻~6巻)までで、後期はアニメ2期以降(7巻~14巻)としますが、前期のテイストが好きだったという人を幾度か見かけたこともありますし、後期の尻すぼみ感に対する意見もあります。特に『俺ガイル』の終わらせ方、またある種の終わらなさに対しては避けられない問題となるでしょう。

後期のいわゆる文学性に対してノレる、ノレないことがよくも悪くも距離感とファン層の差異を作っているでしょうか。

ここでその是非について書くことはありませんが、「なぜ『俺ガイル』なのか」と思うことはあります。

僕は「なんで『俺ガイル』に執着しているのだろう」と距離感が分からなくなることがあります。だから書いているともいえるわけですが。

しかし『俺ガイル』について考えるということは、かりに前期が好きだったとしても後期について避けて通れないものでしょう。むしろ後期が念頭にあるからこそ前期といえるわけですから、その「疑わしさ」や反発含めて『俺ガイル』と読者の距離感があるとするならば「厄介」なものであることは確かで、その意味において共通的ともいえるのではないでしょうか。その一点でもって前期であろうが後期であろうがなんであろうが、僕たち読者は一緒に「厄介さ」を抱えてしまっていると思います。「厄介さ」をどのように解体するかは、それこそ誤読可能性と自由性に開かれているわけですが。

 

とある作家がライトノベルと純文学の距離が広がった、という話をしていました。

これは本当に耳が痛い話です。

かつてゼロ年代にはライトノベル文学史の距離の縮まり方、あるいは当て嵌め方の可能性があったシーン(時期)がありました。

しかし、今やその距離は縮小するどころか拡大化していき、島宇宙化していった。それが今のジャンル間の距離感であることは確かでしょう。ライトノベルライトノベルという島宇宙のなかで。島宇宙が悪いとも言い切れないのは確かです。けれど、常に外部を意識することは欠かせないと思います。

僕が書いている『俺ガイル』連載は、ゼロ年代批評の復古を目論むようなものではありません。文学史的に『俺ガイル』を位置づける、というものでもありません。そうした可能性はゼロ年代の亡霊的に映るでしょうし、それも吝かではありませんが、むしろ島宇宙化したジャンル間で「外部と内部とは何か」を問うことでの発見が一つの目的でもありますから、江藤淳の「サブカルチャー化する文学」への警鐘に対する「サブカルチャー」的応答として『俺ガイル』のいわゆる文学性――後期的問題――を引き付けて語ることができるかという問題設定があります。

しかし、そうした試みは一見すると『俺ガイル』を文学的に位置づけるものに映ってしまう危険性があります。「『俺ガイル』は文学である」と。

僕としてはその精神性を引き受けつつも、島宇宙的なジャンル間の越境的可能性ではない、『俺ガイル』から「サブカルチャー化した文学」の話をしたいと考えています。そういう論点を後期で展開できたらいいなーと。

もうしばらく連載は続きますが、あなたのおかげでここまで書けました。

ありがとうございます。