住めば都、郷に入っては郷に従えと言う。
環境への適応が求められ、逃げるのもアリという風潮に釘を刺す。
本作は「田舎から都会へ流れ、夢破れて都会から田舎へ帰ろう」である。まさに『田舎に泊まろう』だ。
女はシティガールでリア充。
山賊の男は非リア充そのもの。男は強権的で暴力の象徴として肯定されており、唯一のアイデンティティとなっている。
しかし、彼らの出会いから(決してロマンティックなラブコメ描写を経てではなく)強欲で支配的だった男と女のパワーバランスが逆転するのは、価値と支配の転換である。例えて言うと「女王アリと働きアリ」。
ただ、女王アリの女が母性的に描かれているわけでもなく、「強欲な女」として肯定されており、力関係が逆転した男=働きアリが、女のために美容や飯や首を用意してご機嫌を窺う。
女が首で遊ぶのは、現代でいうリカちゃん人形で戯れる子どもそのもの。親に強請る子どものような無邪気さがそのまま表現され、母性としてかけ離れている女の欲望を実現化させる装置として男が奔走しているだけだ。
都会に行った男は、「生の実感」が希薄なことに疑問を抱く。
都市では時間間隔がぼんやりとしてループのように消費され、「退屈」でしかない。 一方で桜のあった田舎では、年月が経つことが直接的に言及されている。
花というものは怖ろしいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中で呟いていました。花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と足音ばかりで、それがひっそりと冷たいそして衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶってると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。/これはおかしいと考えたのです。ひとつ、来年、考えてやろう。そう思いました。今年は考える気がしなかったのです。そして、来年、花が咲いたら、そのとき、じっくり考えようと思いました。毎年そう考えて、もう何十年もたち、今年も亦、来年になったら考えてやろうと思って、又、年が暮れてしまいました。
なぜ、都会と田舎では時間経過が違うのだろうか。
それは約束(目的)の有無である。
なぜ「退屈」なのか?
男にとって都市での目的がないから。
女に付いてきただけで、男自身の自己実現がない。一般的にいえばキャリアデザインがない。
「田舎からギター1本を抱えて東京でBIGになってやる!」とか「田舎での土着性に嫌気が差し、このままではリア充になれないから上京して都会にコミットすれば人生一発逆転あるんじゃないかと期待する大学生」とかですらない。
「じらさないでおくれ。都が私をよんでいるのだよ」
「それでも約束があるからね」
「お前がかえ。この山奥に約束した誰がいるのさ」
「それは誰もいないけれども、ね。けれども、約束があるのだよ」
「それはマア珍しいことがあるものだねえ。誰もいなくって誰と約束するのだえ」/「桜の花が咲くのだよ」
男には都会での野心がないから。
桜や山が男の内的ロマンの象徴で、対比的に都市の空虚さを演出している。
都市は現実の象徴である。
作中での対比構造は幾重にもなっている。
都と山/女と男/現実(理性)と幻想。
幻想の象徴である桜=男の内的ロマン(ナルシズムの一種)は、ラストのシーンでその桜に集約されていく。
花と虚空の冴えた冷たさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分かりかけてくるのでした。
彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。/すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになってしまいました。そして、その花びらを描き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
欲望の分裂としての男と女が、男が女的であるかどうかではなくて、坂口安吾の分裂的な人物像ではないだろうか。
男の肉体に依存する女の精神は強欲的に徹底的に描かれていたが、最終的に男のナルシズムや承認を満たす女として働き、女も男にベタ惚れしていたことが分かる。
男が女に依存していたのが山パートであるに対して、女がおねだりするのが都会パート。依存の逆転構造が都会から田舎に帰る時に「共依存」として帰結していく。
肉体だけではなく精神も結合して、この男と女は情愛的な夫婦的よりも、あくまでも徹頭徹尾男女的である。
女を通じて男は知る。他者性があるから孤独を感じられる。
都市から逃げて「退屈」から開放された男は「故郷と他者」を自覚したためである。
「都は退屈なところだなア」と彼はビッコの女に言いました。「お前は山へ帰りたいと思わないか」
「私は都は退屈ではないからね」/「都ではお喋りができるから退屈しないよ。私は山は退屈で嫌いさ」
「お前はお喋りが退屈でないのか」
「あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ」
「俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ」
「お前は喋らないから退屈なのさ」
「そんなことがあるものか。喋ると退屈するから喋らないのだ」
「でも喋ってごらんよ。きっと退屈を忘れるから」
「何を」
「何でも喋りたいことをさ」
「喋りたいことなんかあるものか」
退屈から抜け出した人としてマイノリティな女が居て、彼女は自己完結できる人間であるから孤独ではなかった。
コミュニケーションとは他者性と向き合うことであり、協力型ゲームである。
退屈から逃げた男には自己顕示欲が無い。現実的な都市には郷愁のロマン(桜の幻想)が無いので、男の実存性が危ういことを示す。
桜とは諸行無常の象徴だ。「サクラチル」は儚さや美そのもの。
桜の花弁のように断片化された男の内的ロマン(よく分からないけど恐いと思っていて…でも気になる存在)は、ビジュアル的に符合していると思う。
そして、孤独を肯定的に描いている。
仕方ないものであると。虚無であるが、救われていると。そういうものであると。
諦観ではないだろう。
応援でもなければ、説教でもない。
現実に押し潰され、他者を失って独りになろうとも、救いとなる拠り所=ロマンがあるという道しるべである。
しかし、ロマンといっても作中の桜のように画一的ではない。
だから、読後は妙なざわめきが止まらない。
分裂が桜の下で集束された後、孤独な桜の木に風が吹き抜けて桜吹雪がひっそりと舞うように。
残酷的でありながらも、私たちは肯定的となる救済=ロマンに心を奪われてしまうのだ。
ゼロ年代はエモかった
桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげた団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。
美的感覚への疑問であり、通説に対する思考停止への警句ととれる。
桜はキレイだろ?それだけじゃないよと。美の裏にある恐さである。
私は『モナリザ』が浮かぶ。美人だけど恐い。
思えばゼロ年代は「桜ソング」が多かった。
ケータイ小説が爆発的にヒットし、オタクたち自身が体験できなかった学園モラトリアムな青春的日常と身体性が『涼宮ハルヒの憂鬱』以降の傾向とするならば、機会の喪失の補填が働いたといえる。
もう帰れない/戻れない、あの頃である。
だから日常を繰り返す=ループが組み込まれ、一瞬で過ぎ去る時を永遠のように生きる願いが映像化された。
それが『ハルヒ』の「エンドレスエイト」であるし、細田守版『時をかける少女』である。
レミオロメン - Sakura(Music Video Short ver.)
ゼロ年代の桜に纏わるコンテンツはそれだけではない。
- 作者: 米澤穂信
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注)「遠まわりする雛」は書き下ろし短編。2007年発売。
「ねぇ、秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード。秒速5センチメートル」
始まりがあり、終わりがある。
出会いがあり、別れがある。
一歩を踏み出した季節に桜は咲く。後ろ髪を引かれるように散っていく花弁に思いを馳せる。
だからエモい。
でも、本質的にはエモいだけではない。
郷愁に浸って気持ち良くなっているだけではない。
孤独な時間すらも抱えて生きていくしかないのだ。
ゼロ年代の空気感を殴りつける2010年代にこそ読まれるべき名作。
それが坂口安吾なのかもしれない。