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吐き気という身体性の発露--ブログを書く理由

あけましておめでとうございます。

2010年代の総括という名の私的な記事がちらほらと目に留まるようになりました。もちろん、私的であろうが主観的に記録として残すことは大事な営為であることには違いありません。

むしろ2020年代は「コレだ!」的なイデオロギーめいた宣言がないのは寂しく映ります。

一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)

  • 作者:さやわか
  • 発売日: 2014/04/25
  • メディア: 新書
 

 

さやわかの『一〇年代文化論』が画期的だったのは、ゼロ年代から既に2010年代の息吹や予感があるとするならば、2010年代になってからどうこうするものではないとする見切りの速さを提示したことが一つにありますが、その「予言」の正否がどうだったかに尽きるような読み方をされていたのはある意味では不幸だったと思います。それこそイデオロギー的な反省ではなく。

しかし事実、そのように読めてしまいますし、読めるように誘導されるのも仕方ないとしても、あの本の意味としては、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(「決断主義」など)をはじめとするゼロ年代批評がイデオロギー的に消費されたことに対する応答として位置づけられます。なぜなら2010年代の批評(言葉と運動)の可能性の応答としては、ゼロ年代の反省からしか始まらないとする意思が読めるからです。

鍵用語として「残念」を置く――用語を仮構してみせることで、それらの用語の「交換」から「変換」と「消費」は同様に時代を切り取れてしまうように錯覚/演出させることができる(ある種のイデオロギー的消費に対するカウンター)として提示された本だったと理解しています。

このような議論や提示に対して、ディケイド単位の区分にさほどの意味を感じられないという意見もあるでしょう。ゼロ年代だからどうこうとか、2010年代だからどうこうとかよりも、それらの変容は連綿とした文脈があり、突如発生した「現象」ではないとする見方は『一〇年代文化論』の「書き方」にあるように見事に包摂されます。その批判意識さえもある意味では「予言」されているかのように書かれており(正確には「予言」ではなく「反省」ですが、そのように受け取られなかったこと自体が皮肉ではあります)、用語とイデオロギー的消費の短絡的な直結に対する皮肉と思いやりの反省的な本であるからこそ画期的であると、僕は感動するわけですが。

だからこそ、2020年代は「コレだ!」的な言説が、況してやイデオロギー的な呼び水として何かしらの形で再現化されるならば、『一〇年代文化論』という反省的な本の時点で、その手の「変換」と「消費」は何かしらでも「交換」できてしまうという事実上の失効を突き付けているので、注意が必要かもしれません。それでも求めてしまうのが性なんですがね。

そういう遊びのある文章に出会える数が増えるといいな2021年と思っています。なにかしらを振り返るにしても。

僕は長いテキストを一本書くことを目標にしたいですね。

ああ、書いてしまった。やらなくてもいいことなのに。もう、これは呪いですよ。書くという呪い。何かを集中的に書くときは、書き終えるまでずっと取りつかれてしまう。ものを食べるときも、正確には食べられなくなってしまうんですけど、寝てるときも夢の中でカタカタやっているのはザラですし、身体を動かしているときだけが唯一離れられる。それ以外は風呂やらトイレやら読書中でさえも、書いているテキストのことを考えている。

不自由でしかない。

でも、吐きそうになりながら書いている割には、たいしたテキストではないのが悲しいところですが。そもそも自分のテキストは吐瀉物だと思っているので、読み返すことができません。金曜の夜とか土曜の朝方とかに道端に吐瀉物があったら目を逸らすでしょ。それと一緒。吐きたくないのに飲んでしまうように、見たくないのに書いてしまう。一種の自傷行為かもしれません。

ただ、書くことで救われていることもありますから、そう単純に片づけられるものでもない。吐瀉物は取り除いた方がいいと思いますが。

少なくとも、僕にとってブログを書く理由はこの辺にあると思います。

いかに吐かないようにするかならば、「書かない」が正しいわけで。

いかに吐瀉物を洗い流すかであれば、書いたテキストを公開することの矛盾に突き当たるでしょう。

吐瀉物は仕方ないんです。開き直っているわけではなくて。

これが、僕の身体性なんだと。そういう吐き気を通した確認作業なんです。食べられないことや眠れないことも含めて。悪寒や違和感を起点とした身体性の発露から吐き出るみっともなさ=吐瀉物が身体の一部分として現前化することへの厭らしさなんです。

だから、身体から離れたい欲望が強い。潔癖なんでしょうね。観念的でありたい。

僕のテキストの書き方の目標は「非人称的に振る舞う」ことであるので、自己であることからの解放を謳いたい。だから匿名性へのアンビバレントな気持ちがありますが。自我や尺度の抹消を図ることで、自由でありたい。身体的ではなく。思弁的に。

そんなことを考えていたら、池田晶子『暮らしの哲学』にも同様の観念論的欲求があった。

 

暮らしの哲学

暮らしの哲学

  • 作者:池田 晶子
  • 発売日: 2007/06/29
  • メディア: 単行本
 

 

文体というのは身体的なものであるからこそ、「哲学エッセイ」的な文体を構築した池田晶子が抱いた自由への思索的な観念は文体から引き剥がすのは大変だったのではないかと予想する。それを知る術はないけど、僕からみても池田晶子の文体には一定の遊離性が受け取れる。だから凄い。「一応、見つけたんだ」って。

まあ、思考的な自由を働かせるには、身体の変容や違和感という「不自由さ」から出発する経験がないと、やはり難しい。そうなると観念的な「非人称性」というよりも、身体的な吐瀉物という生の現実の「不自由極まりない」動かなさから、粘着テープを引き剝がす途中のように「隙間」を見つけていくしか矛盾と折り合えないんだろうなと予感している。「隙間」という遊離性こそに自由があると信じて。

そういうのが分かるには、実際に書かないと分からないけど。非常に身体的ではある。吐き気と共に思弁的に再確認をするしかないのでしょう。

だから、今年もブログを書いていく。