伊坂幸太郎『死神の精度』感想 死神が観た人間のどうしようもない活力
なぜ、伊坂幸太郎は死神を書いたのだろうか。
死神とは何のメタファーなのか。
私は作品に触れる際に「動機」を強く求める。
人が創り上げた作品に対して「なぜ書いたのか」、「書かざるを得なかった理由」は興味の優先順位として高い。
「意図」しか散りばめられていない作品を分析して解体、消化することは作家性への言及に繋がると思う。
伊坂幸太郎が描く重力
死神が主人公であるから必然的に死の匂いが付き纏う作品であるが、死生観による死の観念性自体は薄い。観念的に追い掛けてくる「死」への暗い屈託よりも、生の実感と強かさが静かに映えている。
死神を配することで死神から人間を観る。
観察者としての死神から、逆説的にどうしようもないほどの人間を描いている。
鍵となるのは死神目線である。死神の人間同士の会話で演出されないであろう「調子の外れた」ズレによるクールさとユーモアが、伊坂節としてマッチしている。
伊坂幸太郎作品において、妙に博覧強記で浮世離れした引用癖のある仙人的人物が目立つわけであるが、人外の死神を据えることで小説という虚構の中に、軸として大きなウソを組み込むことで、作品自体の虚構の中にあるリアリティラインの強度と掴み切れない死神の存在感を並行的に保っていると思う。
死神が発する言葉の裏側の無さ、つまり人間特有の皮肉が潜んでいない気持ち良さ。裏側が無いので読み取る必要のない安心感が、調子の外れたコミュニケーションでもスムーズに成立させている。
強烈な死生観があるわけでもなければ、厭世観でもない。世を憂う心積もりの鬱屈ではないし、虚無主義的でもない。
ニーチェのように「超人」として克服すればいいという提言もなく、根底にあるのは伊坂幸太郎作品に通じる「人間の無力感」と「冥々的で確かなヒューマニズム」としての軽やかさである。
例えば米澤穂信は青春ミステリという枠組みの作品において、10代特有の「全能感へのカウンター」と「敗北」を描いた。
伊坂幸太郎は年齢関係なく「人間ってこんなもんだ」と。仕方ないかもしれないが、それでも頑張れるかどうかという一歩を刻んだ。
努力は滅茶苦茶大事である。しかし努力をしても駄目な時もある。「持つ者と持たざる者」という確かに隔絶された距離があると書いたのは米澤穂信だ。
一方で、伊坂幸太郎は(特に初期の)作品群に通じる欧米的価値観(言葉の引用、音楽の使い方)から強烈に社会的弱者=マイノリティを描きながら「予定説」が導入されている。村上春樹チルドレンと称されることもある伊坂幸太郎だが、村上春樹ほどジャポニズムを排して欧米的なものを強く押し出しているわけでもなく、和魂洋才としての組み方。
メタ視点で作品を観てみれば、伊坂幸太郎の物語的御都合主義そのものが予定説である。そこが影響を受けたとされる島田荘司的でもあるし、『ラッシュライフ』、『ゴールデンスランバー』、『陽気なギャングが地球を回す』、『鴨とアヒルのコインロッカー』などの伊坂幸太郎のスタイリッシュで剛腕的技術を指す。
また、予定説としては『オーデュボンの祈り』、『あるキング』、『終末のフール』、遺伝子、血の繋がり、運命という重力への抵抗が『重力ピエロ』になるだろう。
閉じるべきところに閉じていく快感は、小説としての枠組み=フレームの広さと比例していく。視野に入っていた情報が、思いもよらぬ方向から広げた風呂敷が畳まれていく気持ち良さはドミノ倒しだ。
都合であり、予定。
人は生を受けた時から、死へ刻々と近付いている。
「死ぬものは皆、生きている間に目的を持ち、だからこそあくせくして命をすり減らす」 フランツ・カフカ
「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのか?あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのか」 チェ・ゲバラ
「死は我々の友である。死を受け入れる用意の出来ていないものは、何かを心得ているとはいえない」 フランシス・ベーコン
死神に憑かれた人々は現実として「死」を受け容れていない。
まだ人生は続くのだろうという根拠もない明日への確実性を信じている。悪あがきというよりも現実感がないだけだ。誰もが明日を欲して、誰しも明日が来ないとは思っていない。なんとなく当たり前の今日を生きて、明日を迎える準備をしている。
余命幾ばくかのお涙頂戴人間ドラマでもなく、涙目で聞き入ってくれる説教でも自分語りでもない。
死神は神だが、偉そうではない。
ただ、そこに連れ添って人間を観察しているだけだ。死神の人間への知的好奇心が強いわけでもなく、興味があるのは音楽を聴くことだけ。
「歌はいいね。歌は心を潤してくれる。リリンが生み出した文化の極みだよ。そう感じないか?碇シンジ君」 『新世紀エヴァンゲリオン』渚カヲル
CDショップで音楽を視聴する死神は、人間たちの日常に当たり前に住み着いている。そこに不自然さはなく、音楽を通して芳醇になっていく心身は死神と人間の境界線を曖昧にする。
死に近付いている人間たちは、死神を通してサラッと触れられる。重々しい雰囲気よりも、伊坂幸太郎特有の軽い語り口、一方的に突き放すようなドライでもなく、過度に情愛を示すウェットでもない。意図的に調子が外れながらウィットに富んだ会話が心地いい。そのコミュニケーションが生み出すものは確実に「今」を生きている者たちだ。
死神は人間の「内側」に属するわけでもなく、「中庸」を気取るわけでもない。あくまでも「外部」として出力する存在である。
それは、本作が死神の一人称で書かれていることに繋がっている。これが死神を三人称による神の視点を配したならば、「機械仕掛けの神」からの解放は難しく、伊坂幸太郎をメタ視点でみると文章構造による「予定説」の補強が成されてしまうからだ。
伊坂幸太郎は、御都合主義を自覚しながらも神様ととれる死神を一人称として配置することで、どうしようもないほどに逆説的に人間の物語をクールに描いている。よく分からないが興味深いクールな死神の裏表のなさが、伊坂幸太郎作品の仙人感をフラットに作って、登場人物だけではなく読者によってはクサいと敬遠している層すらも巻き込んで惹きつけるスパイスになっているのではないだろうか。
この魅力は死神の一人称で「外部」として書かれているこそである。
作中の彼らには「因果応報」や「天罰」ではなく、ただただ「死」のカウントダウンが切羽詰まっている状況でしかない。彼らは当然それを知り得ないので、現実感が無いわけであるが、死神に憑かれたからとしか言いようがない。
これを虚無として徹底的に厭世的に書かないのは伊坂幸太郎ならではだと思う。
死神が「今」にコミットしたからこそ(『家庭教師ヒットマンREBORN!!』死ぬ気弾ではないが)人間たちが行動して「動かないはずのドラマ」が回転した。
死への悲哀や恐怖よりも、死神に憑かれた人間たちのどうしようもないバイタリティである。
それを説教臭く書かない伊坂幸太郎の軽やかさ。
気持ちいい小説だ。
ちなみにマイベストは「吹雪に死神」。
〝閉ざされた雪の山荘〟といった本格のガジェットに死神という異物を差し込むことで、パロディとしての滑稽味と奇妙な味付けが奏功していた。
日本推理作家協会賞の短編部門を受賞した表題作の「死神の精度」よりも良いと思うが、「吹雪に死神」は〝連作〟を意識してナンボであるから、単独で成り立つかどうかは怪しいかもしれない。