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2018年俺の読書ベスト10選

 

鈴木敏夫『禅とジブリ

禅とジブリ

禅とジブリ

 

禅宗に興味が湧くキッカケとなった本。

マインドセットや身体観の揺らぎについて、ここ1年程アプローチは違えども違和感があった。

本書はガッツリとした禅の手解きをする指南書というよりも(そもそも「不立文字」である)、カジュアルに禅のマインドについて触れ合おうという敷居の低さがあるのは、鈴木敏夫が挿むジブリを含めたエピソードの国民的娯楽映画としての認知度と共有性に他ならないと思う。

当然、宮崎駿高畑勲と長年組んでいる鈴木敏夫という人自体も癖の強い人間性であり、その問答を禅宗を通して解体していく試みが構成となっているが、対談集だから気軽に読めるけども、本質的な読者への問いかけは奥深い。

対談における問答の糸口になるのが禅(禅の本だから当たり前なのだけど)であり、話自体がそちらに誘導されているというわけでもなく、禅宗の大らかさによるもの。

私は、東洋への眼差しを向ける必要性を感じた一冊でもある。

やはり、どこか日本という国で生まれ育つと、同じ東洋に属するのにも関わらず、西欧化した日本の中から見渡す東洋はまさにオリエンタリズムの目線であるのは否めない。その視線を回帰させるだけの力が宿っている本だと思う。

宇野常寛編『PLANETS10』

PLANETS vol.10

PLANETS vol.10

 

間違いなく、2018年で私が読んだ書籍の中で、最も時間を掛ける必要があり、掛けるだけの価値があった、読み応えがあった本である。

メディア側のプレイヤーの宇野常寛が拘った紙媒体ならではの仕掛けだと思う。ウェブに慣れ親しんだ読者も多い2018年現在では、紙媒体を選択すること自体がある種のノスタルジーアイロニーが付き纏う表現行為であり、真綿で締められ続ける出版業界の撤退戦の様相を呈しているのは紛れもない事実であるが、それでもやはりウェブでは出せない味わいが、総合誌の編集としてヒモ付けされた「連帯」によって、気になるトピック以外にも目を向けさせるだけの連なりとして存在し、思わず前後の文脈を確認したくなる構成となっているのが丁寧であった。

戦争特集は今の「戦争」を改めて問い直そうという企画。憲法改憲論議の9条などではなく、日本人の持つ戦争観(WWⅡから止まっている)アップデートされていないまま、ボーダレスなテロの時代に突入した今の切迫感に切り込んでいる。

消極性デザインまで読んだ。これまでの項の流れは一環として問いの設定、前提としてあるものを切断して再定義することが記されており、入り口としてメディアかプラットフォームか、宇野さんはメディアの人間だからメディアとしての入り口を作るために「遅いインターネット計画」を立ち上げる宣言を行い、この状況を限定的なものとした現場の作り込みは「ゲーム的」であり、システムを変えることでゲームを変え、人の動きと思考モデルも変化させていく。特集の「戦争と平和」は抽象的で大文字テーマであり、どのように議論の解像度を高めていくのか作り手として問われるわけだが、一連の思考モデルを提示することで見せ方を示す=世界の見え方を変えることはまさに批評の強みそのもので、「世界の見方を変える」ことが批評の価値であると思う。大文字テーマに対して「個人/国家」「ローカル/グローバル」や「ミクロ/マクロ」「ポリ/テック」や共同体の性質などの観点から掘り進め、人との繋がり(対話と交渉)が居心地が良ければ生きやすいのでは、と再定義された「平和的」で幸福追求の形として、その中で実現可能なアイデアを列挙していく上で冒頭にある「遅いインターネット宣言」によって一時的に切断されるものが、「戦争と平和」特集において特に『消極性デザイン』で緩いパブリックな空間としての機能性含めて「本来可能性としてあったであろうネットの価値と力」として示されているのがシニカルな繋がりとして読める。この座談会は本当に面白く、ユーモアがありながら前進的である。これは「遅いインターネット宣言」で現状のネットに絶望して切断して再定義を決意した宇野さんが抱く「本来あって欲しかった可能性」で、井上明人の寄稿文中にある『サボナ・メソッド』からみるとメディア側として仕掛ける方法として一時的に「(1)Aの主張が通る」を採用するが、最終的なデザインは『消極性デザイン』の項で全面的に表れているような「(5)ABともに満足できる解決策を見出す」感だと思う。プレイヤーとしての宇野常寛も(5)への格闘をしている。そのための決意表明であり、「戦い方の設定と方法論」が本誌なのだろう。

巻頭のチームラボの「ボーダレス」的な本誌は情報と知が飛び交っているように思える。それはまさにチームラボの『カラス』的でもあり、本誌を読み進めていく内に徐々に飛び交う影が重なっていくことで多面的になる。結果的に本誌を通じて僕たち読者は、読まなかった/体験してなかった昨日と意図的に切断され、様々な知の越境による再定義に触れることで、今日の読者自身も再定義されていく。その興奮を担保しているのはある程度の質量を保持し、様々な知と結んでテーマを共有化できる「雑誌」というメディアだからこそ。まだまだ雑誌は捨てたものではない。

間違いなく、押井守のインタビュー以降、如実に現実と虚構の結節点としての身体性と地理が浮かび上がっていく流れは素晴らしい。

また、現実と虚構でいえば、片淵須直へのインタビューでも明らかな『この世界の片隅に』の「世界」と「片隅」の対比からの虚構における自然主義的リアリズムへの繋がりがあってこその、虚構から現実をプッシュする押井守への橋渡しになっていると思う。

戦争特集読んで良かった。押井守の「身体論」から「走る人」に繋げているのも素敵だが、井上明人の寄稿前後から特集の思考モデルがグラデーション的に変化しているような気がする。その前後が談話的記事で、井上記事は寄稿論考として挿入されているが、テーマに対する思考の深度が虚構シュミレートを交えたリアリズムと実践的になっていく旗印のよう。この井上記事のタイミングが絶妙に思える。そして実践的提言から「身体論」へ。だからこそ「遅いインターネット計画」の発動篇は巻末にあるわけか。読み手に対して気持ちのいい流れだ。

片淵監督と宇野さんの遣り取りで「パト2は結局戦争そのものを誰も認識することはできないのだと確認して終わった」とあり、これが戦後日本の在り方と不在感やある種の忘却性といった認識論とその表現に対して『この世界の片隅』は返歌となるように戦争の傷跡における「グロテスクな緊張関係の告発」をアニメ史の構造を用いて描いたと完結しているが、戦争特集後の「走るひと」コラボは単に押井守から「身体論」の接続をする位置付けで読んでいたら打ちのめされた。平易に書かれているけど凄い。

世界を捉えるスピードの調整とシンプルな思考への転換とその接続は、街から街へ風景から風景への没入が身体と地理を繋げて立体的にさせると。エリアの繋がりや人との繋がりはある一定の流動性があり、どのように五感による情報を浮かび上がらせてシンプルに体感するかどうか。

僕は9.11後の情勢に対して幼く何も分からなかった思い出がある。世界における自己の矮小化とそのナイーブな質感は伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだ時に唸り、この戦争特集自体も大文字テーマをどこまで解像度を高められていくのかという挑戦だと思う。これに触れることで自分の姿勢を正す読者は多いだろうし、世界の見方を変える批評の価値をより一層信じるものだと思うが、一方でメディアでもプラットフォームでも戦えない情報の一消費者としての自己と相対した世界のスケールを考慮して見詰め直す人もいるだろう。

冒頭で記した宇野さんの言を借りた上で述べるなら、戦争あるいは世界は誰も認識できないのかもしれないし、一部のミニマムな世界が関の山かもしれない。その巨大さに相対する時に己の身体性と思考のちっぽけさを嘆いたとしても、「走るひと」で展開されている論説はシンプルな接続方法の一つとして提示されていて…宇野常寛は演出家だと思った。

押井監督と宇野さんの項で「ネットにのせると現実の速度と調整が起きてしまう」とあり、押井守が「切断と衝撃」を語る中で私たちは距離感を時間に換算して生きており、「距離の世界ではなく時間の観念のなかでしか生きていない」と述べている。

その後に続く「走るひと」コラボは、この押井論の展開をしている。それは全体的に走る行為そのものが「時間ではなく距離、空間の消費」として語られており、体育からの解放後にどのように人が走る理由を探す過程において、ライフスタイルやカルチャー、あるいはナルシズムや本能、ファッションや音楽との組み合わせが論じられている。既存のイベントや場所と合わせた複合型のランニングカルチャーとしての提言が並べてあるが、押井守は「東京は反文化的・反歴史的な発想のない不思議な街」として述べた後に「走るひと」コラボではカウンターとして空虚な都市空間に身体一つで文化的運動に繋げていくための「走り」を述べている。

この一連の流れは美しいと思うし、極めつけは「走るひと」後のイケハヤランド特集の冒頭。「まだ東京で消耗しているの?」

地理と文化の切断からどのように地理を立ち上げるか。

能動的な場の設定が求められる現代において都市空間の消耗的態度へのシニカルとアイロニーが、結果的に都市への没入を問い直す契機となっている。

昨今のオンラインサロンブームやクラスタの階層化とその可視化は、ネット上でも具体的な「場」への欲求としての側面もあるのだろう。

地理的に、物理的に、文化的に、「場」の復権をどう作っていくか。その「場」のデザインによって、語られる雰囲気や意匠、そして論客や観客の作り方含めてのアイデンティティとしての定義付けが、過剰に繋がり易くなっている現代において、あるいはコモディティ化しやすいからこそ、より価値を高めていくと思う。

読み終えた…濃密な時間を過ごして僕自身も切断され、再定義を迫られた。大文字テーマを認識しきれていない読者への知の啓蒙であり、共有化。その重さを支えている本誌は「遅いインターネット計画」の宣言としても重要であるし、結果的に「遅いインターネット」的として日常的な思考や物質と切断し、「じっくり考えさせる」ことに成功していると思う。だから本誌の目論見そのものが既に思考実験のプロトタイプともいえるのではないだろうか。宇野さんの本気が見えるし、『銀の匙』11巻にあるように「本気には本気で返す」のが礼儀であるから読者が出来ることは巻頭のチームラボから提起され、雑誌の大部分に継承されている設定や一記事で完結していそうなミクロなテーマが橋渡し的になることでマクロ的に立体的に繋がる編集に対して真剣に「じっくり読んで考える」ことだと思う。

本誌を購入するキッカケは、押井守宇野常寛の遣り取りが読みたかったからに尽きていたが、強きの価格設定に対して宇野さん直々の解説集が特典として付くこともあってなんとか背中を押されたことだった。しかしいざ読んでみると、価格は決して高いものではなかった。目当ての押井守記事以外も「じっくり読ませる」ための工夫やテーマ設定が丁寧に練られており、一つの「本」として充実の並びになっている。なんといっても「戦争と平和」特集から、『走るひと』コラボは宇野さん自身の趣味の啓蒙だと侮っていたら、テーマがヒモ付されたまま予想外の世界に運ばれたこと。そして実践的な「身体論」の拡張として「空間=都市」への提言に繋がり、シリーズインタビューなどにも結節している点。解説集にあるようにデザインの統一感、総合誌としてのカラーを丁寧に結び、読者がどう読んだらどこに運ぶかまでカラーとしてデザインされている。この充実感こそが雑誌だと思うし、PLANETS編集部に感謝を伝えたい。いい本です。

思い出したのは外山滋比古『思考の整理学』の「われわれには二つの相反する能力がそなわっている。ひとつは、与えられた情報などを改変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、バラバラになっているものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。」のように、本誌はこの作用が「総合誌」的に機能していると思う。テーマや読むための流れが「雑誌」というコンテクストに収斂され、読者自身への提言として拡散されている。『思考の整理学』では指導されて飛べる「グライダー人間」と自力で飛行できる「飛行機人間」の差異について記されているが、本誌の情報を十分に読んで終わりだけではなく、飲み込んだ上で解釈して、宇野さんたちの提言から更に拡散的に「飛行機」的に議論を始める、参加することが態度として求められているのではないか。だから本誌はそのためのチケットであるし、その態度は例えば国家間のグローバルな超巨大共同体に参加できてなくても『消極性デザイン』のようなミクロ的に分解し、公約数的に繋げていくことで「生きやすさ」は変わることを具体的に示している。

 

西尾維新『少女不十分』

少女不十分 (講談社文庫)

少女不十分 (講談社文庫)

 

今年は西尾維新の『物語シリーズ』を未読だった『偽物語』以降を全作品を読み、最新作まで追い付いた。

終物語』とどちらにするか悩んだが、物語的な転回として『終物語』が「終わらせた」ことには意義があったけれども、西尾維新の作家性が剥き出しに読めたのは、つまり作家としての自意識が開放的だったのは『少女不十分』だったのではないだろうか。

要するに「パンツを脱いだ」仕事である。

物語シリーズ』全作品を読めば分かるように、いや『終物語』まで読めば感覚的に理解できるレベルで西尾維新は巧みな作家の一人であるのは事実で、その上手さであるならばある種雲隠れ的に、チラリズム的な作家としての自意識でも上手に料理して描きそうなものであるが、『少女不十分』は作家としての矜持全開として読めるし、趣味全開であろうが変態性全開であろうが物語を紡いでいる西尾維新が、暴露的に「物語」を描く意味を、自身を批評して物語化させてしまっているのだから恐れ入ったとしか言えない。

村上龍の『13歳のハローワーク』には「小説家は最後のネット」と書かれた記憶があるが、たとえ何かが否定されていても生きていくための肯定が物語に閉じ込められている。

このテーマ自体は辻村深月の『スロウハイツの神様』と同じ文脈で語られることは間違いないだろうが、西尾維新の作家性を剥き出しに「物語化」することで描ける真摯さは、物語を愛する全ての読者へのギフトだろう。

西尾維新は、『物語シリーズ』においても「異常」を日常化させたあらゆる物語を描いた。そこに普通の意味での人間らしさは無く、キャラとしての受容がある。

しかし、勿論、マンガ的なリアリズムに則った異端であろうがアウトローであろうが、世界では生きていける。

かつて立川談志は『現代落語論』にて「落語は業の肯定」だと記した。

物語として、業を肯定することで救済される魂がある。

なぜ、人は物語るのか。その答えがある。

宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』

宮台真司の総復習的位置付けになるのではないだろうか。

宮台の著作を幾つか触れてきた読者にとっては、内容に既視感があるだろうし、ある程度クリアになっているかというとそうでもなく、「共通文法」としての使い方もあるので初学者には優しい入門書として機能しづらいかもしれないが、このボリュームだからこそ出来るパラダイムともいえる。

文化史を漁る上で、現代の社会を断絶して語ることはできない。

文化と社会の接合点は必ず生まれる。

想像力として、だ。

特に、3.11以降から日本に蔓延している日常性/非日常性、この時/その時の断絶性が浮き彫りになり、なんともいえぬ日常に非日常が常時侵食してきた高揚感と浮遊感、メディアで報道されるショッキングな映像がどこか他国のような遠い地での冗談だと思ってしまうような(想定していなかった)、想像力を超越したあまりにリアリティの無い圧倒的現実に押し潰されそうになったのは記憶にも新しい。

ビヴァリー・ラファエルは『災害の襲うとき――カタストロフィの精神医学』において「警戒、衝撃、ハネムーン、幻滅」と分析したが、まさにあの頃はハネムーン期だったのだろう。

本書(2014年)は震災以降を炙り出し、そして個人的には2012年から視聴を止めたまま未見だった『エヴァQ』の6年間の封印を破り、その結果『エヴァ』に再感染したこともあって、改めてポストモダンの思想を調べていく上で、自分の虚像であり、鏡像のような自意識レベルの問題と対面していく際に大きな助けになった。

社会学なのに、なぜか自己啓発的な読み方をしてしまったかもしれない。

例えば『エヴァ』などの碇シンジやオタクへの同族意識と同族嫌悪、自己嫌悪、自己憐憫、自己陶酔、自己承認、無根拠で錯覚的な自己肯定感、ニーチェ的な転換、つまりルサンチマンを通じた神への価値観的提言による自己肯定の近接と自己矛盾が、個人レベルの自意識的問題の領域に留まらず、「システム」の形成と、その「システム」の現代的な問題への関係性が、ある程度クリアになったからだろう。

広瀬和生『噺は生きている 名作落語進化論』

噺は生きている 名作落語進化論

噺は生きている 名作落語進化論

 

「有りそうで無かった」本だろう。

数多の落語本はあれど、本書以上にデータベースとして機能し、ガイドブックとしてストック的価値のあるものは無かったと思う。

つまり、ウェブで溢れたフローな言説ではなく、広瀬和生の目線で切り取る「正しくアーカイブ」として活きた紙媒体ならではの仕事ではないだろうか。

大根多の「芝浜」、「富久」、「紺屋高尾」、「文七元結」を、歴史的に体系的に、名人や現代の芸人の語り口や演出をカテゴライズし、「噺が生きている」ように枝分かれしていく様を濃密に書き下ろしている。

春風亭一之輔は、落語を趣味という人はオカシイ?と雑誌のインタビューで言ったけども(笑)、確かに一番の趣味(本人にとって趣味が階層化していようがなかろうが)が「落語」と言い切るほど「肩肘を張るな、のんびり楽しめばいいんだよ」というニュアンスであるが、寄席という空間自体が醸成する空気はその通りだろう。

しかし、なかには熱心の人がいて、そういう人たちに捧げるべく知的好奇心を間違いなく擽る良著。

この本を読む時点で、既にある程度落語を知っているだろうし、同じ噺でも落語家によって全然違うことも体感的に理解しているだろう。

改めて『噺は生きている』と言われても完全agreeでしかないだろうが、具体的にどのように「生きている」かが、センテンスレベルで分かるのが特徴。

Eテレ東出昌大春風亭一之輔などが出演している『落語ディーパー』のコンセプトは、かなり本著に近い。

一番の大きな違いは、テレビという視覚メディアによる動画コンテンツの有無。

『落語ディーパー』を観れば、たとえ知らない噺であっても、直観的に噺が「生きている」ことが分かる。

だから、紙媒体と(テレビ含めた)動画メディアの話になるが、改めてフローではない紙媒体のストック的価値を問い直す意味もある上で、「見聞き」する落語というコンテンツを映像ではなく、批評として、センテンスレベルでどのように繋げていくかが問われている。

大江健三郎『叫び声』

叫び声 (講談社文芸文庫)

叫び声 (講談社文芸文庫)

 

キッカケは伊坂幸太郎特集の本を読んだことから。

そういえば伊坂幸太郎を再履修した2018年でもあったが、伊坂が好きな本として挙げていたのが本作。大学時代に撃ち抜かれたらしい。

試しに読んでみたら、私も殺された。

ノスタルジーと一定の距離を置いている私にとって、本書は最大のライバルでもある。「昔話なんて誰でもできるし、いつでもできるし、(新しさがなくて)面白くないじゃん」スタンスであるが、ノスタルジーを超越したグロテスクな青春物語の展開にはページを捲る手が止まらなかった。

トマス・H・クックの『夏草の記憶』は永遠の童貞殺し小説として傑作であり、新海誠の『秒速5センチメートル』は童貞のノスタルジーとナルシズムを完全美化した自意識としての結晶であるが、『叫び声』も「永遠の自意識の慟哭」として位置付けたい。

叫ぶ!

紛れもない傑作。

打海文三『愛と悔恨のカーニバル』

愛と悔恨のカーニバル (徳間文庫)

愛と悔恨のカーニバル (徳間文庫)

 

食欲不振になったトラウマ本。

読み終えた日は何も食べられなかった。

打海文三は、これまで未読だった作家の一人であったが、本書を経て無事全作品を読むらくらいにはハマってしまった。

これも、伊坂幸太郎の影響から。

内容も然ることながら、文体がいい。

久しぶりに文章の相性がいい作家と出会った。

ある程度の硬質性がある記述方法は読んでいて乗り易く、渇いて簡素な文体が一番難しい。

知的な文章というのは、難しくデコレーションし過ぎではなく、難しい事を難しいまま記述することでもなく、難しいことを簡単に書き、そのレベルまで引っ張っていくことであるには違いないが、打海文三の文体は物語の深度と共鳴したものであり、読者への眠っていた能動性へ働きかける。

たとえドラマとしてのショッキングさやカタストロフィが無くても、打海文三は物語として記述できるのだろう。

遅れ馳せながら新作が読めないのは口惜しいが、遺された作品を愛していく。

 

鈴木大拙『東洋的な見方』

東洋的な見方 (角川ソフィア文庫)

東洋的な見方 (角川ソフィア文庫)

 

禅宗を学ぶことにハマっている。

色んな禅僧の本を読んでいくと、日本人の身体観とオリエンタリズムとしての眼差しとして、必ずセットで鈴木大拙の名が挙がっていた。

無知のため存じ上げなかったが、試しに読んでみたのが本書。

これが、いきなり名著だった。

吃驚。

近代から現代における西欧的なアップデートに至るまでのプロセスについて懐疑的(大元は二元論的な語りについて)であった私としては、大きく「脱・西欧化」を掲げているわけでもないが、どこか忘れ去られているような感覚のある東洋への目線を再起させたい意識はあり、それがなんとなく禅宗に接続しただけであった。

大いなる知の偉大さよ。

相対的で相補的でもある日本的なものが喪失したことからの嘆きやルサンチマンで終わっていたら、私となんら差は無い(あとは「現場」があるかどうかだけ)が、二元論からの解放としての「東洋思想の不二性」を一番最初に書かれており、つまり冒頭から本気の宣言としてのメッセージが込められている。この頭で既に本書が成立しており、しかも竜頭蛇尾で終わらないから恐ろしい。

明らかに記述自体は実験的で苦悩しているのが読めるが、それでも十分に読み物としてのテクストとして成立させ、この思想の問いの設定自体が『東洋的な見方』への案内書になり、定着した西欧的な思考モデルからのすり替えや挿し込みを図るための「東洋的な見方」になっている。

二元論からの距離を置くための一元論や中道的態度を取るにしても、2019年は更に深く禅宗にハマっていきたいと考えている。

鈴木大拙」が来年のテーマということで。

朝井リョウ『武道館』

武道館 (文春文庫)

武道館 (文春文庫)

 

売れないアイドルの話であるが、センターの子の卒業シーンなんて『桐島、部活やめるってよ』と同じ「中心の不在」だろう。

本書は朝井リョウのアイドル論として読めるし、アイドルとは?何なのかという問いが設定されている。

まさにテン年代のアイドル戦国時代だからこそ書かれた作品である。

グループとしての目標は武道館。しかし、個人の自己実現は何か?

グループではなく個人を切り取る肖像としてのエグさは相変わらず。

さきほど例に『桐島』を出したからそのまま使うと、学校内での青春が『桐島』だとするなら、学校の外での青春が『武道館』になる。

学園という箱庭じゃなくても青春として充足できる物語が増えているのがテン年代の印象であるが、アイドルとして「何者」になっていくのか。何を選択していくのか。

彼女たちは学生だから、当然進路選択と重なっていくような図式。

そこで、選択するまでの「自分探し」系(=『何者』)に付き纏う、他者とのスピードの違いによる焦燥感や後悔の嵐。売れない彼女たちが、他者の成功や追い抜かれていく感覚をアイドル(業界)にコミットして描いている。

アイドルやスポーツ選手などは、彼らや彼女らのプロセスがストーリーとして追うことがコンテンツ化する典型だ。グローバル資本主義によって、あるいは合理主義の果てにマニュアルと分業が当たり前になったポストモダニズムな社会において、自分の作業の全体像が結べないこともしばしばである中で、実存性が観客によって物語化して確保されていることの価値は高いと思う。

彼女たちへの承認は「みんな」によって支えられている。

ここで「みんな」とは誰の事だろうか?という問題が生まれる。

その「みんな」を、朝井リョウはインターネットとの親和性による無垢で無理解な悪意として記述した。色んなコトやモノに対して、色んな人がインスタントな正義感で糾弾し、暇な炎上を作り上げる。

彼女たちは顔も名前も知らない「みんな」と自分たちの距離を自覚し、誰のために頑張るのかという動機探しを経て、まさにアイドルとしての自覚とアイデンティティを確立させていく。

アイドルとは夢を見せ、それを売る仕事である。

小説家も夢を作り、売る仕事をしていると言っていいだろう。

しかし、アイドルは私生活とコンテンツを切り離すことが難しい。虚構性と現実が曖昧だからだ。況してやSNS全盛によって、プライバシーは日常的に接続しているとも考えられる。

そのような虚実が入り混じる曖昧な実存性が、ステージの上での自己実現を経ていくアイドルという「物語」に収斂していき、その過程でアイドルは夢と現実とサヴァイブしている。

アイドルだけでなく小説家として、アイドルというフィルターを通した、朝井リョウの告白にも読めてしまった。

『武道館』は朝井リョウがドルオタのあまりに『アイマス』的なステージ上の自己実現と模索を描いたのものだと当初は思っていたが、よりラディカルでリアル・フィクションとしてのアイドルとドルオタの距離感、中景としてのインターネットの「みんな」との距離感そのものを炙っちゃう叫びだった。もうね恐ろしい。

「ネットであるからこその悪意≠人間にインターネットは早すぎた≠性悪説」みたいなのを小説にナチュラルに組み込んで、登場人物たちを甘やかさずに追い込んでいく朝井リョウって素敵な作家だなというお話であるが、本作はアイドルの鉄血の掟である恋愛禁止論と恋愛自由論についても掘り下げようとしているし、ドルオタ以外にも勧められる。ネットの悪意の表層化なんて朝井リョウは現代のトップランナーじゃないの?『何者』を読んだ時に確信したが、これぞネットだ!

 

さやわか『僕たちのゲーム史』

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

 

昔はゲームをよくやっていたが、年齢を重ねるにつれて距離が生まれた。

なぜ、あれだけハマっていたのにやらなくなったのかは、一度再考すべきなのだろう。

それでも、現在ゲームを全くやらない人間からみても、今のソシャゲ全盛とSNSの親和性によるコミュニケーションとしての装置だけになっていることに違和感(ソシャゲプレイヤーたちに訊いても「ゲームではない」と自覚した上で返ってくる)があったが、大衆的にはソシャゲに収斂していく(具体的には『怪盗ロワイヤル』であるが)図式も含めたゲーム性とゲーム・クロニクルとして分かり易く書いてある。

なんといっても、さやわかが早い段階で「ゲーム」の定義と結論を書く構成であるから(同じ星海社新書の『一〇年代文化論』もそういう構成)、必然的にさやわかの定義を確認作業していく読み方になるため、途中で整合性の歪みが生じても、意図的にとある作品を外して調節しただけでは?と一部の人に受け取られるのも否めないだろうが、全くの門外漢の私としてはとても有難かった(笑)

ゲーム内の物語構造として読み解くのではなく、ゲームとしての『ドラクエ』や『FF』の差異や『メタギア』などのようにムービーゲーに収束していく流れを掴みやすく、またアドベンチャーゲームの文脈における、特にギャルゲーを素材に別の枠のメタレベルとしての「リアリズム」への批評に持っていった東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』の個人的な補助線として、ゲームにおけるゲーム性の歴史が見えてくるのは本書の強みだと思う。 

 全く知らない、接続してこなかった分野を知ることでの快楽。

また、通過したものと再度違う角度から接続していく(具体的には物語構造としての)快感があった。