おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

AFCフットサル選手権2018 フットサル日本代表vsタジキスタン代表 セットの組み方と左足

日本がタジキスタンを4-2で破った。内容は良くなかったし、PP返しの4点目までは気が抜けない試合展開だったと思う。

 

1stセット 吉川、清水、星、西谷

2ndセット 逸見、森岡、室田、滝田

3rdセット 皆本、斎藤、渡邊、仁部屋

後半からは一部選手の入れ替えをしたが、全て3-1セット。

 

タジキスタンのプレスはハーフでの構えによるゾーンとマンツーDFの併用。1列目が下がると、日本はボールを持って侵入してくるが、日本の横パスなどにはラインを上げる。その際のDFの1列目のボールの寄せ方が良い。失点シーンなどに繋がっている。

また、日本のピヴォの位置によるが、マークの交換して1-2列間の前後が入れ替わってそのままマンマークすることもある。

一方で、日本のプレッシングは効いていた。タジキスタンのクリアランス、ポゼッションはピヴォへ飛ばすシーンが多い。しかし、ロングボールの精度が良くないので、日本がボールを持つ機会は増える。後半からボールの持ち方を変えてきたタジキスタンについては後述。

 

皆本が試合後に言っていたように「内容よりも結果」なので「勝利」を取ったことは確かに評価されるべきだろう。

しかし、3セットでの回し方はどうなのか。

ペース配分を考えると悪くないと思うが、決してハマっているとは言えないから良いとも思えない。試合の展開によってセットの偏重は生まれるし、後半のように一部の選手のタスクが明らかに増えることも考えると、バランスというのは難しいものである。そもそものプレーイングタイムの管理のためであるが。

個人的には、斎藤がどうなるのか気になる。左足の価値を出すために、フィクソの位置から中抜けやパラレラよりも、サイドに散らして右サイドにポジションチェンジ(カーテンも含めて)で、右サイドからダイアゴナルパスによるピヴォ当て。まさに2点目のような仕組みをもっと増やした方が良いと思うが、その割にはレフティを活かした仕掛けが無かった。そもそも斎藤はその後にプレーしていなかったから。また、ミドルシュートのシーンで左足の価値を考えさせることも多かった(後述)。

後半からはセットの一部を入れ替えた日本。重要なピースとして皆本と仁部屋が挙がり、渡邊と斎藤が外れた形。ポジションチェンジよりも固定的な3-1を選択したので、星、吉川仁部屋、皆本といったセットも。

ハッキリしたアラとピヴォの組み合わせを模索中ということで、セットプレーだけではなくて皆本のタスクが増えた感がある。森岡などの2ndセット(ペスカドーラ町田メイン)以外での組み合わせには難儀していると思った。

ポテンシャル的には1stセットであるが、2ndセットの方がコンビネーションが良い。それでも森岡のコンディションに左右されやすいセット構造なので万全ともいえないのが本音。1v1でも困っているシーンも目立つし。

 1stセットのダブルピヴォ(星、清水)を基準として活かしながら、吉川、西谷といった潤滑油+αでストロングサイドの構築を図り、ウィークサイドのバックドアセカンドポストへの侵入はコースが切られていることも多かった(セカンドポストには星が多かった)。

ピヴォ当てからのアクションは、2ndセットに比べるとペア間(森岡―逸見など)は少ない。ペアよりもトリオ的なので、3枚目の動きが求められる。その部分の停滞感は否めなかった。リスク管理、3人目のポジショニングとしての西谷と吉川のバランス。時間とスコアから無理をする場面でも無かったけども。ウィークサイドへのバランスを考えると、リスク管理のための中央~ストロングサイドに入り過ぎるとサイドが詰まった時が難しい場面もあるから一概に言えないが。

 

前半

日本のキックオフ直後、吉川のブロック+横幅を走る星と西谷+清水のミドルシュート。デザインされた攻撃。両幅を走ることでタジキスタンのDF2列目を下げる効果。1列目との分断、カバーリングを消す。星はそのままセカンドポストへ侵入も。

 日本の先制点はキックイン。所謂、清水のチョン・ドン。チョン・ドンで清水は他のシーンでも。敵陣でのセットプレーはファーへの清水をどのように作るかがテーマの日本。

また、FKにはシュート力のある清水を使うために一部交換して、ボールに近い1枚が走り抜けて、清水が蹴るパターンが多かった。1枚目の役割は森岡だったり。

 

  • 19:40 キックインからのボール保持。相手DFの1列目の高さはさほど。ピヴォ当て、ストロングサイドの構築。相手フィクソは清水に釣られるので、ピヴォ当て後のタジキスタンの1列目のDFは中央を埋めることが最優先。挟み込む場面もあったが。ある程度の日本のキープは仕方ないという割り切り。中央を埋めるDFの動き、ラインの高さからサイドを変える日本。中を埋めているDFなのでサイドは空く。タジキスタンの逆アラの絞りに対して、星のバックドアのアクション。星のセカンドポスト侵入タスクは多かった。これが3点目に繋がるのだけど。この試合、ウィークサイドのバックドアを使うのは少なかった日本。基本的にはストロングサイドを作ってから。

 

直後の日本陣地でのキックイン 日本の3-1でのポゼッションに対して、タジキスタンのDFはハーフでの構え。前プレは無し。しかし、イゴールへのバックパスにはラインを上げて対応。日本のバックパスと真横のパスについては、1列目のDFの寄せ方が強くなるのが特徴。これは試合共通のタジキスタンのDFだった。前半12:18や日本の失点シーンがそれ。日本のキックイン、室田のニアでのブロック、ウィークサイドに抜ける滝田→対応するDFのマークの交換をするタジキスタン、ラインの上げ方によるボールカット。速攻を食らって失点。日本は2ndセットだった。

 

  • 18:24 日本のキックインからのボール保持。カーテン+西谷の中ドリ+ターン、清水のライン間への移動+ウィークサイドのバックドアのアクション。エントレリネアスをした清水のサポートに顔を出すためにサイドでのポジショニングの星からストロングサイドの構築。星に引っ張られたDFの裏へ、ライン間の清水のパラレラ。相手フィクソのマンマーク対応。相手フィクソのDFについては前述のように。

 

  • 18:03~ 3-1での保持。中央レーンの選手が持つメリットからみる相手DF1列目のリアクション。カーテンから西谷へ+中抜け、日本のピヴォ位置(清水、星にはマンマークのDF)のDFについて、ポジションチェンジをしても変わらないタジキスタンの2列目の反応。中央の吉川から西谷へ、ウィークサイドの清水のエントレリネアス、吉川はサイドを埋めて、ピヴォの位置には星(このセットのダブルピヴォの特徴が表れているシーン)。17:49の星へのマークとDFのバランス。吉川の1v1シーン。DF裏をカバーするDFは星に付いているので、突破をすればチャンスの局面であったが、吉川の対面のDFの切り方とボールへのアタックが綺麗。

  

  • 16:57 セット交換。森岡のマークの外し方とピヴォ当て。森岡のマークの外し方は、この試合のピヴォ枠の中では際立っていたと思う。1列目での外し方だけではなく、2列目に降りてからの動き直しから抜け出し方も含めて。しかし、1v1の局面では苦戦。ボールを持った状態でのDFの振り切り方はキツかった。
  • しかし15:36 予め中央でポジションを取れていると安心。前半はこのセットは偽ピヴォの要素もあったので、15:15のように森岡に付き切らずに中央を埋めていることもあるDF→清水と星とは違う対応。しかし、後半の日本は偽ピヴォ的ではなくなった。

 

失点後は3rdセット これも3-1でのピヴォ当てが手段になる。タジキスタンのDFはハーフでの構えで菱形的だから、日本のサイドには時間がある。

  • 例えば13:28 渡邊のマークの外し方、相手のDFの12番を動かす斎藤。門へのパスが起点だが、相手の門は並行に。門が段差的ではないから、角度的に足が出てくる可能性が少ないので、門への運び方は大事。

 

  • 13:32 斎藤の左足からレフティの価値を考えさせるシーン。ピヴォ当てから3人目の動きとしての仁部屋がゴール。日本2―1タジキスタン。右サイドの斎藤までのボールの回し方で仁部屋とのポジションチェンジもありつつ、右サイドに斎藤を出すメリット。

日本のピヴォ(清水、星、森岡、渡邊)が相手DFの前を取ることができればこの試合では結構安泰で、そこからボールがカットされるリスクはあまり。だから、ピヴォ当てからの2枚目、3枚目の動きの質がそのままシュートに繋がっていく。

レフティの価値については、例えば相手DFのウィークサイドを突くシーン。ピヴォ当てからストロングサイドを構築した後、ウィークサイドに左利き(右サイド配置)がいればカットインなどで中に持ち込んだままシュートが打てるシーンでも、そのウィークサイドには右利きが配置されているから縦に持ち込む必要性があるので、縦に運ぶことで角度が削られるデメリットも。

 

  • 10:08 日本的にはエントレリネアスなのかサイなのか。相手DFライン、1-2列間的にはどちらなのか悩むシーン。

 

残り時間10分頃、1stセットへ。セットが一周。

日本の3点目は速攻。エントレリネアス→レイオフの価値が表れたシーンだと思う。相手DFの収縮(1列目)、サイドの1v1までの吉川の受け方と突破→2v1 星のバックドア~ファー詰め。綺麗なゴール。

 

  • 8:41 清水の反転シュートのシーン。相手のDF状況を考えれば、ウィークサイドでフリーの西谷へパスを出した方が良かったと思う。それはゴレイロの準備と清水周辺のDFの枚数とコース的に。しかし、その前のシーンからライン間でパスを要求していた清水にパスが入って来ないのが続いていた。タイミングと味方のボール保持者が速い段階でサイドを限定するような持ち方をしているのでDFに消されてしまうことが理由。そして、このシーンでは欲しいタイミングで貰った清水。先制点やセットプレーでのシュートの感覚からシュートを選択。ここで打つからこそピヴォだと思ってしまう。

 

  • 6:20 セット交換。2ndセットへ。

右サイドで右に持ち替えるためにシュートの角度と精度が大変。この試合、ミドルシュートは入る気がしなかった日本。そして、左利き不足を感じさせるシーンは多かった。しかし、斎藤はこの試合で最初の3rdセットでの出場以降、プレーしていなかった。貴重な左利きはオプションとしてよりも、熟練を試合で試しながら高めていくブルーノ・ガルシアの選択。

例えば。

  • 前半5:13 森岡へのピヴォ当て 日本の2~3枚の抜ける動きによってタジキスタンの1列目は下がる。DFラインの1列目を下げてから室田のシュート設計。
  • 後半16:40~ セット交換。16:38 3-1 ポジションチェンジからの逸見のカット・イン→そのままセカンドポストへ。森岡のマークの外し方(サイドに流れて)、ピヴォ当て、2枚目が抜けることで中央のスペースへ絞るDFがスペースを捨てるので、室田が空く。森岡のレイオフから、室田のシュート。ミドルシュートの精度? 相手1列目の消し方、逸見へのマークするDF、滝田のブロックも。
  •  後半15:45 室田から、森岡のバックドアからDFの前を取る一連の動きと受け方、ウィークサイドの逸見の横幅、相手10番脇のスペースを使ったリスク管理として残っていた滝田のミドルシュートも精度?

 

  • 前半5:55 森岡―逸見のペア。ピヴォ当て。出し手の抜ける動き。アルゼンチン戦ではオーバーラップが多かったが、アンダーラップの判断も目立ったタジキスタン戦。森岡の反転。ウィークサイドの室田のポジショニング修正をみると、セカンドポストへの侵入よりも、森岡のカットインしたケースに備えたポジショニング。

 

 

後半

1stセットから入った日本。

  • 19:39 西谷のパラレラへのタジキスタンのDF、清水へのマンマーク対応が多かったDFがウィークサイドの清水を捨ててボールの流れに合わせて中央をケアしてからサイドへ。ピヴォが基準ではなくストロングサイドの処理優先。その後のトランジションでの清水の戻り方が良い。スペースに戻りながらコースも切っている。

 

後半開始直後からタジキスタンのクリアランスでロングスローだけではなく、手前から繋ぐことを志向する。前半は投げるシーンが多めだったが、後半は2-2でボールを持つ時間を増やそう作戦。

その後のクリアランスでも2-2、勿論ロングスローもある。前半ではロングスローをするにしても3-1であったから形を変えてきたタジキスタン

  • 18:34 ゴレイロからのロングパス。2-2 前半からゴレイロのキック精度が上がってきていると解説も言っていたので活用しましょうということで。

タジキスタンの2-2は、外→外で縦に当てるのを目的にしているケースが多い。サイドでの1v1を作り易い2-2から中ドリをしてウィークサイドの選手がライン間への移動は無い仕組み。日本の1列目のDFの寄せ方がいいので、殆ど縦に通させていなかった。

例えば

 

  • 14:22~ 仁部屋に求められている所、価値を示す所。1v1までの作り方、ピヴォ当て、ストロングサイド。(アルゼンチン戦のように)森岡が孤立しないように逸見がDF1枚を消す動き、連動してサポートに顔を出す皆本のポジショニング。ウィークサイドの仁部屋の準備。

 

  • 10:15~ 一部のセット交換 逸見、皆本、吉川、清水。

 

  • 7:20 一部のセット交換 逸見、森岡、吉川、室田。逸見からの森岡へのピヴォ当て。逸見の2枚目としての抜ける動き、相手1列目のDFを引っ張る。森岡に2列目のDF一枚が対応しているので、タジキスタンの1列目のDFが中央に入る必要がある。スペースは埋まるが、ラインは下がる。7:05 森岡のバックパス動作に対して、ウィークサイドの相手DFがインターセプトの準備をしている。このシーンで室田に横パスをしていると前半の失点シーンと同じような取られ方をしていた可能性が高い。パスは西谷へ。ミドルシュートを打てる選手ならば打てたかもしれないケース。

 

タジキスタンのPPについては、日本のゾーンでの消し方がハマっていた。タジキスタンのPPは、日本の中央のスペースをどう使うかがテーマ。

日本の「中央のスペースを空けさせておいて誘い出してカットを狙う」のは町田でもやっていると解説のコメント。4点目のPP返しはそれ。

 

  • 9:51~9:24 シュートまでの日本の形~イゴールのカバー。フットサルならではのシーン。この試合で一番気に入っているので何回も観ましょう。

『夜、僕らは輪になって歩く』感想 アイデンティティの獲得と喪失

やるせない読後感。胸のざわめきが止まらなかった。暗澹たる気持ちが瞬間的に覆い尽くすような読書体験。心を奪われてしまった。

青年「たち」が傷付くロード・ノヴェル。本格ミステリよりも、広義のミステリに属するだろうか。あくまでもミステリ的要素は物語の牽引力の一部であり、主題には置かれていない。

本記事は文学的なテーマを掘り下げながら、ミステリとしての要素も掬い上げる意図で書かれています。

 

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内容紹介:伝説の小劇団の公演旅行は、小さな噓をきっかけに思わぬ悲劇を生む――。内戦終結後、出所した劇作家を迎えて十数年ぶりに再結成された小劇団は、山あいの町をまわる公演旅行に出発する。しかし、役者たちの胸にくすぶる失われた家族、叶わぬ夢、愛しい人をめぐる痛みの記憶は、小さな噓をきっかけにして、波紋が広がるように彼らの人生を狂わせ、次第に追いつめていく――。ペルー系の俊英が放つ話題作。

 主人公ネルソンを描いた三人称視点の物語と考えていると足元を掬われる。

小説としての構成は、ネルソンの軌跡を追う謎の人物が語り手となり、ネルソンに纏わる友人や知人たちにインタビューをして聴き手に徹することで、ネルソンを記したものである。

『語り手=聴き手=「僕」』の構成で、ネルソンの過去のエピソードと「僕」が聴き手となるインタビュー・パートが混在しているが、文章が澱みなく整理が行き届いているので、見事なまでにパラレルに描かれている(正確には「僕」によって記されている)。スマートな訳文なので全く読書の邪魔にならず、スルリと入ってくるような文章を構築した訳者の技術が光っている証だ。

しかし、当然のように浮かぶ疑問がある。

この「僕」は何者なのか?何故そのようなことをやっているのか?

これがミステリとして魅力的な謎のように物語に落とし込まれている。しかし、本書の本質性は前述のようにそこに据えられていない。

 

honyakumystery.jp

川出正樹氏の書評

(中略)些細な嘘が誘因となって思いもよらぬ展開をみせるストーリーが推進力となり、冒頭から臭わされる悲劇的な結末に対する興味と、語り手を務める「僕」が誰なのかという謎が牽引力となり、読み終わるのが惜しいと思いつつ、一気にページを繰ってしまった。「劇の世界に入り込み、自分の人生から逃れる」ことを求めた者たちの織り成す、愛と死と謎が絡み合った物語を、ぜひ味わってみて欲しい。

 

川出氏の表現を借りれば

>「劇の世界に入り込む」

ための「演技」が本書では重要性を帯びている。ネルソンは未来を夢見る役者の一人として、優しい嘘を吐く。それがキッカケとなって、物語が持つ不穏な空気感は加速していく。

ネルソンをはじめとする彼らは生きる「現実」と優しい嘘によって築かれた「虚構の空間」を同時に行き交うことになる。現実の延長上にあるはずの「虚構」が生活を侵食していく。そこでのバランス感覚に悩まされるのがネルソンという青年である。

 

この世は舞台、人はみな役者だ

シェイクスピア『お気に召すまま』より

 かのシェイクスピアの言葉であるが、ネルソンも「僕」もある役を演じている。

ネルソンは自覚的に、「僕」は無自覚的に。この齟齬が物語としての切なさを増すエッセンスとなっている。それについては後述。

 

本書はアイデンティティの獲得と喪失』の物語である。

ラストでネルソンは言う。「誰が奪ってきたのか、誰が奪われてきたのか、ここではっきりさせておこうじゃないか」

奪われたのは時間や機会であり、それは未来そのものを指す。

人は少年から青年へと成長していく。可能性として拓かれた道が徐々に削り取られて行くように、年齢を重ねるほどに幼さ、あどけなさ、全能感からくる根拠のない自信・勘違いといった若さの象徴が、経験を積む過程で狡猾さへと形を変えていく。時に壁にぶつかる。

そして、現状の己では越えられない壁と向かい合う時が訪れる。誰かしらは諦め、期待を託すようになる。そのような青春における区切りを端的に表現したものとして、米澤穂信の『クドリャフカの順番』がある。

「自分に自信があるときは、期待なんて言葉を出しちゃいけない。期待っていうのは、諦めから出る言葉なんだよ」

 可能性が閉じていく過程で、アイデンティティと将来の自分を結ぶ線が断絶される時の絶望に身を打ちひしがれることは避けられない。将来のビジョンを描き、「自分らしさ」の模索に対する答えを期待していたものが、いつしか諦めに変貌していく虚脱感。いつまでも諦めと後悔は付いて回る。そういった妥協や挫折を繰り返し、「自己」を見つめていくものである。

結局僕らはさ 何者になるのかな

迷い犬みたいでいた 階段の途中で

(略)

大根役者でいいとして 台本通り踊れなくて

ただまっすぐ段を登っていけ わかっちゃいたって待ちぼうけ

みっともないと笑ってくれ 僕に名前をつけてくれ

 中田ヤスタカ(feat.米津玄師)NANIMONO

 

 作中で「僕」の聞き込みによって他人の評価から蓄積されていくネルソン像。

三者としての視点を持ち合わせながら、「僕」は伝聞情報を基にネルソンという個を確立していく。聴き手に徹した「僕」という視点を介在して、膨大なインタビューから得た各自のネルソン像を集合させて結び、最終的にはインタラクティブに纏め上げるビジョンであったのだろう。

しかし、本当に――

ネルソンとは何者なのだろうか?

「現実」と「虚構」を行き交うように演じることで、役者ネルソン自身の主体性が奪われていく。

そこで登場した「僕」という存在。

語り手=聴き手がネルソンを知って記すことで、確かなネルソンという存在の客観性は培われたように思えるが、アイデンティティとしての主体性を奪ってしまう。

「僕」が記したネルソンの物語は確かにネルソンの話であるが、そこに主体としてのネルソンは存在しない。ネルソンは居ないのである。

それらは全て友人や知人、つまり他者からの評価であり、それ以上の域を出ないものである。その情報に挿入される必然性があるネルソン自身の自己評価の欠落は見逃せず、ネルソンを形作るものが他者の憶測・推定によって決定される。外部によってネルソンという個が偶像化されていく気味の悪さ。居心地の悪さを覚えてしまうのは不自然だろうか。

自分がネルソンの立場だと仮定して想像して欲しい。他人の想像力によって描かれた自己像。これが底知れぬ善意で作られていることにどうしても悲劇性を感じてしまう。

果たして、そこにネルソンは居るのだろうか?

作中でとある人物がネルソンを以下のように評する。

「ネルソンは複雑すぎた」

捉え所のある/複雑ではない人間なんているのだろうか。人は容易に理解するために安易にレッテルを貼る。自分の管理できる棚にパッケージ化しないと不安が増すからだ。分からないことが恐いために、自分が分かる範囲で安心したいからだ。

それでも、他人を理解したい欲求を常に持ちつつ、永遠に他人の全てを理解できないという諦観はセットで付き纏う。だからこそ、人は知りたいと願うものであるが。

 

 

サカナクションの『アイデンティティ』の歌詞の一部はこのように綴られている。

好きな服はなんですか?

好きな本は? 好きな食べ物は何?

そう そんな物差しを持ち合わせてる

僕は凡人だ

映し鏡 ショーウインドー

隣の人と自分を見比べる

そう それが真っ当と思い込んで生きてた

どうして 今になって 今になって

そう僕は考えたんだろう?

どうして まだ見えない

自分らしさってやつに 朝は来るのか?

アイデンティティがない

生まれない らららら

アイデンティティがない

生まれない らららら

 

 アイデンティティを図る物差しとしての他人との比較がある。他人との違いこそが個性の確立だと信じてやまないように。その人を見極める様にありきたりな質問と返し。

サカナクションはその尺度を「凡人」と切り捨てる。誰もが没個性の山から抜け出したい。埋もれていたくないから。自分は自分であると。特別でありたいと。他人との比較を止めて自分だけを見て欲しいと願いながらも、自己の客観性の中に他者との対比は常に置かれている。

そんな意識に捉われず、自由に解放されたい意思と何処かで安心したいために付き纏う比較論。

それが普通である。

サカナクションは「それが真っ当と思い込んで生きてた」と歌う。

しかし、それは「凡人」だと。特別を信じながらも、まだ自分は没個性の山の上に立っていただけだと気付かされる。だからこそ「自分らしさってやつに朝は来るのか?」と投げかける。

 

 

 

タイトルの『夜、僕らは輪になって歩く』は味わい深い素敵なタイトルだ。

「輪」は円環である。作中では堂々巡りのように「輪」が出現する。

ネルソンは地元の土着性から解放されるように旅に出る。新しい人々との繋がりは「点」となる。それは絆となり「線」になっていく。新たな「輪」が生まれ、閉じられた「輪」になる。

「輪」の中心にあるものは何なのだろうか?

本書でいえばネルソンなのだが、違うかもしれないと思わせる。これが読後感のざわめきに繋がっていく。

人の一生は歩き回る影法師、哀れな役者にすぎない。 シェイクスピア

 各々がネルソンに関するエピソードを回想しながら、第三者である「僕」が纏め上げることで客観的な事実が読者に与えられる。それが疑問として常に浮かび上がらせる。

ネルソンとは?

 

トマス・ア・ケンピス「imitatio Christi」

「キリストの模倣」を意味するラテン語である。

イミテーションは、今では紛い物という悪い意味が目立つようになってしまった。本来は対象への「憧れ」の気持ちから発生し、行為に移した結果であるから、言葉の原点としてはポジティブな意味であった。倣いは習いに通じる。「まなび」は「まねび」から始まる。(朝日新聞より一部引用)

 「僕」はネルソンを知る=「学ぶ」ために、彼の人生に関わってきた人、軌跡をトレースした。倣うことで習う精神から、ネルソンの道筋を辿る「僕」は探偵役そのものといっていいだろう。謎が蠢く無秩序な世界に、探偵役が謎を解くことで秩序とカタルシスを獲得する。

本書ではネルソンが謎そのものである。

「僕」はネルソンのアイデンティティを求めながら、それを奪っていたという事実と直面する。さもネルソンの道なりを辿れば構築できるという驕りが、実像を無視した虚像を生み出すように。作中において「僕」には様々な人たちから直接的な批判が浴びせられる。プライバシーの領域を穢したために。

それだけではない。作者のダニエル・アラルコンが間接的に描いた「探偵批判」が小説的に暗い影を落とす。「僕」の行いを「探偵的」にすることで、「僕」という存在に疑問を投げかける。

ネルソンという「人間」を記録しようとしたものの、ネルソン自身の部分が欠落していたために。

語り手=聴き手=「僕」という存在の立場の危うさが、物語の不安定さに直結しているので、ラストのネルソンの台詞がどうしようもないくらいに響く。

「誰が奪ってきたのか、誰が奪われてきたのか、ここではっきりさせておこうじゃないか」

 獲得しようと目論んでいたものが、手からするりと落ちていった喪失感では決してない。

「僕」が手を伸ばして掘ってきたところには、畑違いであって元々無かったのである。そのような虚無感である。

「僕」はネルソンとの対話前に予感している。

僕はこれが一度きりのチャンスであり、自分が二度と戻ってくることはないと知っていた。

最初に読んだ際には機会の喪失からくる予感とも受け取れた。違和感が無かったからだ。

しかし、読み終えた後には、お互いに「演じてきた」役柄の齟齬が生じる崩壊の予感だと受け取れる。それ以外の意味を跳ね付けてしまう強い負の予感。

どうしようもないほど切ない本書を〝傑作〟と賞したい。

この世は一つの世界だよグラシアーノ、誰もが自分の役をこなさなきゃならない舞台なのさ。僕のは悲しい役だよ

シェイクスピアヴェニスの商人

 

おめでとう宇多丸師匠、フットサルの実況性

www.tbsradio.jp

めでたいニュースだ。

TBSラジオは野球中継からの撤退を昨年に発表していたが、その枠に宇多丸師匠が入るようだ。

嬉しい悲鳴もあり、不安もある。

タマフル』の移動と拡張版と素直に受け取っていいものなのか。ムービーウォッチメンのコーナーがどれだけ確保されるかは気になるところ。野球中継延長で、時間が押された時の語りの圧縮や処理は生放送だからこそのパーソナリティの腕の見せ所でもあるが、じっくり聴きたい時に限っての延長決定に肩を落とした日もあったけ。

毎日ゴールデンに生放送なので、果たして評論に必要なだけの映画観賞の時間を取れるのか。

決して映画評論だけが『タマフル』の醍醐味ではない。ポップカルチャーサブカルチャーに言及する師匠のソフトな語り口とロジック、そして何よりも愛と情熱が伝わってくるのが良い。

基本的に何かしらに対して私見を述べる時は、リアルタイムな需要があって一個人としての意見が求められている場合や自発的な興味関心が乗っかった場合、それへの専門性を持ちわさることで説得力などは研鑽されるもので。 専門性が高くなるほど壁は出来がちだが、その堀を下げることでの厭味たらしさは無いし、語りも攻撃の色を帯びていると思わせないのはセンスなのかなと。

ラジオという場での宇多丸師匠のパフォーマンスに多く触れられるのはリスナーとして僥倖である。

TBSラジオ、今後も付いていきます。

 

W杯王者のアルゼンチンとの試合だったが、ネットニュースの露出度は少ないという感覚。中にはどこで観れたのか?すら知らない人もいた。

試合については別記事で自分なりに纏めているので割愛。

futbolman.hatenablog.com

 

futbolman.hatenablog.com

 

展開の速さ、切り替えの多さが魅力の連続性のスポーツであるフットサルにおいて、実況性との相性はあまりよくない。

実況性は盛り上がるバロメータの一つだと思う。エンタメと実況性はユーザー間の祭りみたいなもので、題材に対して2ちゃんねるでは専用スレッドがあって、ニコ動やらニコ生、今ではツイッターにはハッシュタグが実装されて、実況性との相性が良いバラエティ番組、スポーツ、ドラマ、深夜アニメなどは顕著。

大衆文化と実況性について軽く触れられているのは片上平二郎『「ポピュラーカルチャー論」講義-時代意識の社会学―』。「主に生活に定着しているインターネット文化は、ポピュラーカルチャーといえるだろうか?いや、私はそう思わない。何故ならインターネットの使い方は~の件(詳しくは文献を)」で、片上は論じていた。インターネット黎明期における白地のスケッチに描かれていた青写真は、今とは違う使い方が期待されていたのは過去の文献を読むと明らか。端的にいえば、アカデミックな集合知の側面が期待されていたわけだが。梅田望夫の著作諸々や中川淳一郎『ネットのバカ』、『ウェブはバカと暇人のもの』、ティム・オライリーの「ウェブ2.0」などがそれ。インターネットの在り方の変遷や片山のインターネット論が気になる人は読みましょう。

 

フットサルはマイナースポーツだから露出度が少ないのは仕方ないかもしれない。しかし、実況性との相性の悪さ=実況する暇がない展開の速さが、フットサルの特徴の一つではないか。かといってエンタメ性が無いと言っているわけではなくて。魅力たっぷり面白さマシマシだと思っているから、こういう記事を書いているわけで。

ユーザーの実況祭りにメディアが面白いと思ってちょっかい出して国の祭りとなった「バルス祭り」のように、人が群がる場所のパワーは計り知れない。

アルゼンチン戦の認知と露出は、キッカケの一つに繋がると思ったが、代表戦といえども実況しているユーザーは体感的にはそんなに多くなく。

勿論、実況していない=観戦していないと短絡的に考えることはできない。それでも、実況の質量は一つのバロメータだと思う。魅力や露出を発信する一つにはリアルタイムでの更新が挙げられるだろうから、実況板やらSNSやらで実況することは大事。その書き込みを見た人が興味を持つこともあるはずだから。

ただ、実況が難しいのは確か。そのスピード感や複雑さも魅力なんだけど。

 

AFCフットサル選手権チャイニーズ・タイペイ2018 | JFA|公益財団法人日本サッカー協会

告知。

AFCフットサル選手権が開催される。

2月1日 (木)午後7:55~ BS1AFCフットサル選手権2018 1次リーグ グループB「日本」対「タジキスタン」が放送される。

日本戦が全試合放送されるから観ましょう。楽しく実況しましょう。祭りは盛り上がらないと。