おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

摂取したもの2018年11月 森博嗣

やっと森博嗣の『Gシリーズ』を読み始めた。

10代のころ、好きな作家を訊かれた際は必ず森博嗣と答えていた。

毎回、「誰それ」と言われた。

黒歴史ではない。知らない人にとっては黒歴史だろう。

一般的に森博嗣の描くミステリは「理系ミステリィ」と呼ばれている。

文系脳の私からみて何処が理系なのかよくわからないのだけど。未だに分からない。

つまり、そういうことだ。

理系=小難しいというアレルギー反応なんか出る余地も無いくらいにはある程度クリアである。

巷というか出版社側の思惑通り理系ミステリィと親しまれているが、読んでいるのは文系しかいない。

なぜなら森博嗣自身がエッセイでそのように言及していたから。理系はそもそも小説を読まないと。エビデンスは無いけど。ただ、思い当たる理系の知り合いは確かに小説を読んでいた記憶はないし、イメージもない。だから結構信じている。

森博嗣作品は『S&Mシリーズ』と『Vシリーズ』と『四季シリーズ』までは読んでいたが、『Gシリーズ』は未読だった。

ミステリファンから評判が良くなかったから読んでこなかった。

以前、私は本格原理主義的なイデオロギーを掲げている時もあった。しかし、それは軽やかなものへと移行し、ミステリファンが酷評する作品も違う切り口で物語を消化できるようになった。ミステリという形式よりも物語的消費という広い価値観になったからだろう。ミステリへの固着が薄らいだ結果とも取れるかもしれないが、ただミステリを読んでいて面白いと思うのは変わっていない。

そういう意味では『Gシリーズ』はリトマス試験紙的だと思う。

初期森博嗣の作品群とは明らかに異なり、「ミステリィ」を描くというよりも「ミステリ的」なものを素材にしているからだ。

多分、10代の頃に読んだら呆れ果てていたと思う。

しかし、今ならこの一連の作品群を楽しむ余裕がある。

誤解しないで欲しいのは余裕があるというだけで、これは『Gシリーズ』の擁護ではないし、森信者化が加速した結果とかではない。

当然、開いた口が塞がらないことだってある。

『Gシリーズ』が行っているのは徹底して「ミステリという枠組みでミステリを破壊/脱構築する」のではなく、「ミステリという形式を一度借りた上でその型破り→型スカシからの再構築」した上でミステリ的なものへと移行することである。

偏愛する麻耶雄嵩の作品はミステリという枠組みでミステリを破壊=自己破壊して袋小路へ詰めていく=閉じていくものであるが、森博嗣の『Gシリーズ』は形式のミステリからの脱出とも取れており、ミステリから他分野(森博嗣が書く文芸)への接続という意味では広い意味で「開かれていく物語」になっているだろう。

だから、森博嗣自身はエッセイで「ミステリィを書いていない」と述べているわけだ。

さきに例を出した麻耶雄嵩が「閉じていく物語」であるに対して、森博嗣の『Gシリーズ』は「開かれていく物語」であると表現したが、厳密に言うならば『S&Mシリーズ』や『Vシリーズ』などの古参ファンをふるいに掛け、新規読者の獲得をしている『Gシリーズ』の実態から、森博嗣初期作品群よりもマニアックではないからこその「間口の広さ」があると思う。

ただ、シリーズモノであるから結局はファン・サービス的であるし、往年のファンもなんだかんだ言いながらも付き合っているのだろう。

個人的に腑に落ちたという話。

あとは、森川智喜『トランプソルジャー』はアンフェアなコン・ゲーム様々小説だ。

ミステリにおいてフェアプレー精神が求められるものであるが、この小説は前提からアンフェアという了解のもと騙し合いが繰り広げられている。つまり純粋なミステリ読者からすればアンフェアがフェアプレー化したような倒錯した物語を読むことになる。

ここで述べておきたいのはコン・ゲームの中身ではなく、世界観の設定が興味深かったという事実。

本作は『不思議の国のアリス』設定を借りた異世界モノであるのだけど、異世界の住人からも当然のように嫌われる名探偵三途川理の様子から、異世界の住人たちにとっての異世界=三途川がいる方の世界がなんとも恐ろしいものとして認識されているのが面白い。異世界の住人からすれば異世界=三途川の世界への憧憬はなく、ただただ畏怖の対象として刻まれている。三途川理が住まう世界とは恐ろしいみたいな。

異世界(+俺TUEEEE)への憧れはテン年代異世界物語の消費量と受容の姿勢を考慮すれば、本作はアンチ異世界モノ的に映らないこともない。異世界側に受け入れられていない名探偵の鮮やかさよ。異世界に行っても変わらない三途川理に安心した。

 鈴木敏夫の『禅とジブリ』は何度も読み返すだろうなあと。

 

山川賢一『成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論』

千葉雅也『意味がない無意味』

箕輪厚介『死ぬこと以外かすり傷』

森博嗣『タカイXタカイ』

三秋縋『恋する寄生虫

湯浅政明『だれもしらないフシギな世界 湯浅政明スケッチワーク』

森博嗣『キラレXキラレ』

酒井寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』

森博嗣『イナイXイナイ』

押井守『アニメはいかに夢を見るか 『スカイ・クロラ』制作現場から』

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 13』

西尾維新『宵物語』

佐々木敦未知との遭遇 完全版』

河出書房新社『人生を変えるアニメ』

森博嗣『キウイγは時計仕掛け』

森博嗣ジグβは神ですか

マイケル・コリンズ神父『世界を変えた本』

森博嗣目薬αで殺菌します

森博嗣ηなのに夢のよう

森川智喜『トランプソルジャー 名探偵三途川理vsアンフェア女王』

ゴートン・マカルパイン『青鉛筆の女』

森博嗣λに歯がない

鈴木敏夫『禅とジブリ

増田弘道『製作委員会は悪なのか?アニメビジネス完全ガイド』

森博嗣εに誓って

秋山久『君は玉音放送を聞いたか ラジオと戦争』

辻村深月『光待つ場所』

森博嗣τになるまで待って

羽生善治『直感力』

さやわか『僕たちのゲーム史』

村上春樹ノルウェイの森 下』

村上春樹ノルウェイの森 上』

坂口安吾堕落論

森博嗣θは遊んでくれたよ

森博嗣φは壊れたね

堀江貴文『逆転の仕事論 あえて、レールから外れる。』

森博嗣『四季 冬』

森博嗣『四季 秋』

森博嗣『四季 夏』

 

酒井田寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』を米澤穂信『古典部シリーズ』のパクリだという人へ

 

ジャナ研の憂鬱な事件簿 (ガガガ文庫)

ジャナ研の憂鬱な事件簿 (ガガガ文庫)

 

酒井田寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』が米澤穂信の『古典部シリーズ』に類似しているとの情報をキャッチした我々は南米の奥地へ飛んだ。

これまで『古典部シリーズ』めいたものを求めて、幾度となく彷徨った魂は鎮まることなく学園ミステリという箱庭の地縛霊と化したままであった。

初野靖の『ハルチカシリーズ』や似鳥鶏の『市立高校シリーズ』などに代表される学園青春ミステリを漁っては明らかな差異に惑い、そしてそれぞれの作品の色を楽しんできた。

私にとって、米澤穂信の『古典部シリーズ』は思い入れの強い作品である。

同時に京アニによるアニメ『氷菓』の際に、本格原理主義者としてのイデオロギーを掲げていた私がブログを通じてとある人との一連の遣り取りをした思い出は決して忘れることができないと思う。地理的な、そして時間的な距離を容易く埋めてしまうインターネットによって齎された至福の一時であったことには違いない。

そんな強烈な思い出がある『古典部シリーズ』に似ている作品があると耳にした。似ていることから、安直にパクリとも言われているようだった。

それが今回取り上げる酒井寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』である。

本記事は感想を述べるものではない。

あくまでも個人的に本作に関するAmazonなどのレビュー欄がとてもきな臭いものばかりであり、その怒りから主張せざるを得ないものだと思ったためである。

そして前提として、厳密に『古典部シリーズ』や『ジャナ研』の作品毎の差異を細部に検証する記事ではないことを記しておく。

『ジャナ研』は『古典部シリーズ』に似ているとあちらこちらで書かれている。

その安易な書き込みは果たして本当にそうであろうか。

まず、『ジャナ研』の導入が学園というパブリックな箱におけるジャーナリズム(≒イエロージャーナリズム)への批評性の期待が高まる作りになっている。これはペンの力やあるいは探偵的資質による推理力・洞察力によって真相を暴くことで生じる赤裸々な加害・被害関係の下でどれだけの人間がその資格を堪え得るのかは疑問であるからだ。

その疑問に対して一石を投じる試みをしたのが『ジャナ研』という印象である。

本作のプロローグに以下のような記述がある。

「さて、最後の問答だ。ジャーナリズムとは何だ?」

 唐突な謎かけだが、啓介はこの一年ですっかり慣れてしまった。この禅問答もどきは、水村の趣味みたいなものだ。

「エゴイズムです」

 このように本作の主人公・工藤啓介はジャーナリズムについて「エゴイズム」という表現をしており、ジャーナリズムへの言及性は明らかに『古典部シリーズ』よりも米澤穂信でいうならば『王とサーカス』寄りのテーマであるには違いない。

そして、第1話の「ノート消失事件」を読む限り、帯のコピーにあるように

真実なんて……綺麗なものじゃない。

真相のほろ苦さが売りの(青春は薔薇色だけではなくては灰色もある)『古典部シリーズ』的であるが、探偵役の工藤啓介のトラウマ云々が『小市民シリーズ』であり、『古典部シリーズ』では限りなく抑えられているゼロ年代の部活モノの文脈(=部室や教室でのコミュニケーションとしての消費から、そもそもその輪に入れないボッチ主人公の友達探し・欲しい系の台頭へという文脈に接続していく)としての古典部の活動自体における古典部の主義主張については『ジャナ研』の方が、つまり学校新聞として押し出しており(『氷菓』ではその活動媒体の文集「氷菓」自体の謎を暴くものであり、「氷菓」を巡る学校の闘争と挫折の歴史を示すものであった)、また真実を暴露することの意義とその結果、工藤啓介というディスコミュニケーション的な存在から覗くレンズ=本作では学校新聞というジャーナリズムの信条や主張への抵抗や自意識の葛藤が『王とサーカス』以降の『べルーフシリーズ』的という按配で、とても米澤穂信的と言える。

余談だが、『王とサーカス』が描いているのはINFOMER=半径5m以内の等身大な探偵気質としての知る快楽や伝える快楽は、「誰の喜びであり悲しみになるのか」という現在地の確認作業でもあり、それはつまり私は今どこに立っているのかという実在性に基づく知りたいという欲望の業である。

「サーカス」を作る側と「サーカス=見世物」になる側の立場の違いやそもそも突き付けるのは誰のためなのか?という根本的な問いに対して、「モラル」や「正義感」や「信条」を昨今のジャーナリズムやネット警察によるネットリンチの炎上騒動含めたアンビバレントな感情の処理を読者は大刀洗万智の目線で通過していく。

futbolman.hatenablog.com

例えば千反田えるのように「わたし気になります」キャラが、『ジャナ研』でも同じカテゴライズされそうなヒロインの白鳥真冬でもあり、彼女の「直感的」な具合はそれとも取れる。

本作の工藤啓介のディスコミュニケーションぷりは「友達探し・欲しい系」文脈というよりも、数少ない気心知れた友人たちによる承認の現状で充足している姿勢はかつて抱えた傷=贖罪的であり、同様にヒロインの白鳥真冬の境遇なんかも、例えば「VS空気」(第三者などの明確な悪意の有無は置いといて)に据えれば、自意識と青春を掛け合わせて巡る模様は『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』と同じような承認性であり、テン年代的なツールの登場もありながらも、どうしようもないくらいに作品の空気感自体はゼロ年代の作品に通じる学校という閉塞感がある。

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結論、『古典部シリーズ』に似ているのは確かである。

しかし、『古典部』のテーマとは明らかにズレていると考える。

ここで難しいのは『古典部』のテーマ設定を第1部(『氷菓』から『クドリャフカの順番』まで)に置くのか、それ以後(『遠まわりする雛』や『ふたりの距離の概算』以降)に据えるのかでまた話は変わるが、ここでは第1部までに継承されていたテーマ=「熱狂に押し潰された人」と「持つ者と持たざる者の距離と才能の呼応」とすると、テーマは勿論のこと、それぞれのキャラの配置関係も違う。

工藤啓介のディスコミュニケーションは要するにデタッチメントというわけでもなく(折木奉太郎が効率重視の省エネ主義=やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に=デタッチメントだとするならという前提のもと)、どちらかといえば過去のトラウマを引き摺りながら探偵気質を抑止している姿勢の表れだろう。

また、ヒロインの白鳥真冬の「気になります」キャラぷりは確かに千反田える的であるが、直感と直情/その差異とお淑やかさによる所作みたいなのがグラデーション的な違いくらいは当然あると考えるし、以下のように本作の最後に描かれているところから

私だって、工藤さんが思っているような、ただのお嬢様では、ないかもしれませんよ?

2巻以降の展開へ繋げているところからキャラの造形はよりクリアになっていくのだろう(本記事作成時は1巻のみ読んでいる)。

工藤啓介の屈託というのは真実を明らかにすることへの抵抗、要するになんでもかんでも傲慢に真相を暴き散らすミステリにおける探偵批判であり、その批評性は延いてはある種のアンチミステリ的なので『古典部シリーズ』で例えると『愚者のエンドロール』的であり、その彼が抱いているトラウマ云々は『小市民シリーズ』的であり、またペンの力といったジャーナリズム精神によるスタンスへの批評性は『べルーフシリーズ』的に通じるものがあるため、酒井田寛太郎は正統に米澤穂信的だと考えて差し支えないと思う。

正直、驚いた。

ここまで米澤穂信を継承して、一部のアップデートに成功している作家がいるなんて思わなかった。

一般的にいわれている米澤穂信の書く物語は暗く後味がよろしくないという評価をそのまま当て嵌めるならば、本作もそれといっていい。

古典部』もほろ苦さが際立っていた(アニメ『氷菓』の番宣CMのアオリが「青春は優しいだけじゃない。痛いだけでもない。ほろ苦い青春群像劇」)と考えるし、そのテイストだけに焦点を当てるならば『ジャナ研』も『古典部シリーズ』的なのは確かである。

確かに類似していると思う。

しかし、これをパクリだとどうとか言うつもりは一切ない。

なぜなら「古典部シリーズのパクリだ」云々というには明らかな差異があるからだ。

設定やキャラや真相のほろ苦さというテイストさえ合っていればイコールパクリという表現が適当になるとは思わない。ミステリとしての遊びや見せ方などといった演出が丸々一緒ならばまだしも、である。

確かに表層的には『古典部シリーズ』に類似する点はあるが、『ジャナ研』の本質的な狙い=工藤啓介の受動的なコミットメントな探偵気質やトラウマやジャーナリズム性は本来『古典部シリーズ』が踏み込んでも不自然ではないこと(探偵気質は『愚者のエンドロール』と「長い休日」で触れている折木奉太郎という存在への言及=能動的なデタッチメントとしてであり、ジャーナリズム性は『氷菓』のように文集「氷菓」に古典部の面々が再度作中で何かしらを素材に書くことがあればという可能性だけ)を描いているので、本質的には好奇心という無垢なもの=白鳥真冬や『古典部シリーズ』の千反田えるたちへのカウンターとして素人探偵の業を題材にしているところである。

それはつまり、『古典部シリーズ』ならば千反田えるによって折木奉太郎が動かざるをえない状況に陥り、謎が明らかにされて、その痛みを抱える構図は『古典部シリーズ』だとテイストの真相のほろ苦さで留まっているが、折木奉太郎千反田えるのアクションや動機に対する批評性は『古典部シリーズ』ではあまり無い。

勿論、そのカウンターとして折木奉太郎に対して十二分に機能したのが『愚者のエンドロール』であるが、シリーズ的にはあまり拘っていない。

ただ、『ジャナ研』は意識的に探偵気質の業へのカウンターに踏み込んでいるから、テイストとして残る真相のほろ苦さ対する踏込みが違う。

『ジャナ研』にしても『古典部シリーズ』にしてもどちらの方が重いのか、ほろ苦いのかといった話ではない。その苦さ=真相への獲得に至るまでの意識的な距離と姿勢が明らかに違うのである。

優劣の話ではなくて、差異の話として。

であるから、『ジャナ研』は『古典部シリーズ』のパクリだとは全く思わない。

明白に『古典部シリーズ』が描き切っていない点に対して、『ジャナ研』は確かに意識として描いている。

青春を巡る自意識として、だ。

 

 

氷菓 (角川文庫)

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愚者のエンドロール (角川文庫)

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クドリャフカの順番 (角川文庫)

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春期限定いちごタルト事件 (創元推理文庫)

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王とサーカス (創元推理文庫)

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おおたまラジオ第4回『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』/銀杏BOYZ/GIANT KILLING49巻/フットサルの言語化と観測問題

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青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』

『青ブタ』の4話~6話は話としてはチープでありながら、王道的展開をどれだけ演出や演技といった見せ方で引っ張るのかという一点において上手くできていたと思う。

そのヒロインでもある古賀朋絵というキャラは、空気を読み、空気に合わせ、「みんな」の一部になることで「みんな」という全体になるように努めている。その行動原理は「みんな」と違うことによる不安と恐怖からくる使命感であり、義務感。

だからこそ「みんな」という不特定多数に気を遣い、「みんな」から外れまいとオンラインでもオフラインでも常時過剰に繋がっている昨今、スマホというデバイスの前でも学校、つまり教室という空間の拡張によって「みんな」と空気がどこまでも侵食してきている。SNS疲れやスマホ疲れを申告する若者が増加する一方で、その徒労感がありながらも古賀朋絵のように「みんな」に合わせることで処世術を駆使し、サバイブしている若い子は多いと思われる。その延長で、第5話のラストのように友達からオススメされた動画のページを一目散に開き、桜島先輩の広告動画が流れて嫉妬に眉を顰める古賀朋絵という演出はラジオ内でも言及したが、やはり至高なのである。

※本編ではループ構造について話し、またその点の都合の良さに対してろこさんが抱いた疑問を解消し切れていないが、プチデビル編は「ループ」ではなく「未来予測」だったことがガッツリ抜け落ちていました。大変失礼いたしました。

futbolman.hatenablog.com

 

 

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

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桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) [Blu-ray]

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教室内(スクール)カースト (光文社新書)

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銀杏BOYZ

 

光のなかに立っていてね *通常仕様

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GIANT KILLING49巻

球漫画はそもそも野球自体が「間」のスポーツであり、日本人が好む国民的スポーツは大抵「間」のあるものが多いと言われている。野球しかり相撲も。それに比べて、「間」ではなくサッカーは連続性のスポーツであり、野球漫画はサッカー漫画などに代表される連続性のあるスポーツよりも漫画上の演出的な「止め」や「スピード感を出すためのコマ割り」やドラマの挿入が不自然ではないようにスムーズに移行できる点がある。

漫画的な「間」とそのスポーツ特有の「間」の妙なシンクロニシティによって、キャラのエピソード挿入や感情のメリハリが相乗効果的に表現できるのが野球漫画の強みだと思っている。

一方で、連続性のあるスポーツはスピード感があればあるほどに作中の時間経過と読者の体感時間のズレが起きやすくなる。その時間のズレをコマ割りでどれだけコントロールし、ピッチやコートの時間や空間を演出的に誇張できるか(誤魔化せるか)が大事だと思う。

GIANT KILLING(49) (モーニング KC)

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GIANT KILLING(48) (モーニング KC)

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GIANT KILLING(30) (モーニング KC)

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GIANT KILLING(45) (モーニング KC)

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フットサルの言語化観測問題

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