おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

おおたまラジオ第3回『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』について/映画を観に行く友達少ない件

おおたまラジオ第3回『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』について/映画を観に行く友達少ない件

ラジオをやりました。ポッドキャストのリンクは後ほど追加します。

 

 新世界系とか

新世界

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しんせかい

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 『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』について

 

 

一週間フレンズ。 [DVD]

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摂取したもの2018年9月と村上春樹 - フトボル男

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風の歌を聴け (講談社文庫)

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涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

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やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

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化物語(上) (講談社BOX)

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僕たちのゲーム史 (星海社新書)

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映画を観に行く友達少ない件

 

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何者 DVD 通常版

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僕たちのインターネット史

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生態系における人間を観察者として捉える

 

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

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早い話、人間原理である。

生態系とは生物と無機的環境によるシステムの総体であり、地球の表層環境で成立しているものである。

生態系のシステムの中には生産者、消費者、分解者が存在して、食物連鎖ヒエラルキーを築きながらバランスを取っている。 

地球の表層環境に形成している生態系であるが、より大きな視点で観れば地球という大きなシステムの一つである。

地球は太陽風宇宙線、磁気といった宇宙との相互作用や、磁気圏、大気圏、生物圏などのサブシステムのフローが組み込まれており、その中でも生物圏を中心にして二酸化炭素と窒素の大気、水と化学成分の海洋、堆積と風化の地殻といったそれぞれのシステムがあり、それぞれが相互作用の結果、調和している。

生物圏における海洋生態系において、世界の表層海流は循環していることは明らかな事実で、表層と深層の水がサイクルしている。熱が運ばれる表層にある栄養塩を運ぶことから熱塩循環が起こり、水とは温度によって密度が変わるものであるから、水が冷やされると密度が高くなって重くなるように、再冷却と温かい水が循環によって発生する。

鴨長明の『方丈記』の一節にある「ゆく川の流れは絶えずしてしかも、もとの水にあらず」のように、世界の全ての存在が大きな時間の中で一度に流れ去ってしまうわけではない。

恒常的に川の中を流れる水のように、自然の中の個々の現象は常々変化していき、流れ続ける川の存在自体といった自然の姿は、常に不変のまま変わることなく在り続けるもので、生成変化とはまさに破壊と再生のサイクルを指し示す。

例えば、木の世代交代の更新は、落雷といった山火事によって針葉樹以外の生育に場所と時間を与える。

代表例がジャックパインの球果である。温帯落葉樹林や熱帯雨林などの森林の垂直構造は、外側に生えてながら着生植物を伴っているものが多く、森林におけるギャップの発生の際に、木が枯れて倒れると樹冠ギャップによって、倒れた際の中心部と周辺部の破壊が行われるので空間にギャップができる。近くの木々は壊れるが、新たな木々の生育へのスペースの確保の契機となる。

山火事に関しては、サハ共和国のカラマツ林やアラスカのトウヒ林など一回辺りの火事が大規模化しているデータが顕著である。

降水量が減ると乾燥し、気温が上昇することから、火事になり易い状況は出来上がっている。乾燥指数と焼失面積の相関性は殆ど同調していると言ってもいい。

自然環境における循環は、均整の取れた自然の調和がある。

バランスが崩れないからこそ成り立っている。近年の人間の環境破壊によって、生態系のバランスが崩れていると言われているが、大きなシステムの地球生態系における人間の役割は観察者そのものであるだろう。

文明化の発展によって環境にメスを入れて破壊を進行させてきた人間でもあるが、それを癒す様に再生に取り組むのも自然に寄り添う人間の存在なくして一度関節が外れたものを直せないだろう。その破壊と再生の過程と結果に向き合うのは、観察者の視点が無いと成立しない。

「自然と人」は二元論的に語られがちであるが、自然環境という大きなシステムの一部分であり、もはや地球を語る上ではどちらも欠かせないファクターであるだろう。自然が身近にあったからこそ、人間の哲学や自然科学といった学問や思想が展開されてきたと思う。

今日では哲学と科学はそれぞれが独立して切り離されているように思えるが、もとは同義の学問であったように着想点や起点は、ある現象によって引き起こされるものである。学問としての哲学性が入り組んでくることに、対象となる自然があり、そのトリガーとなる自然に身を置いているからだろう。

哲学者のガブリエル・マルセルは「内と外との区別は、自と他との区別が入り込んでくるところでのみ可能になる」という言葉を残した。

観察者としての人間が認知できる領域には限界がある。

バタフライ効果や地球の裏側で木が倒れたら、その存在について検証していくことは出来るが、直接的に人間が現象を捉えることは困難である。一個体という意味ではなく、人間が未だに捉えていない現象に関して観察することは当然出来ない。

観察の対象の区別を付けるための情報の整理が必要となる。観察の結果の情報と観察外の情報の区別の連続が知の集合体となる。それには言語化、抽象化、論理的な情報化が、人間の知識の骨となり、情報を駆使した知恵という肉になるものであるが、その総体化には自然の歴史でもあるのと同時に人類の足跡とも言えるだろう。

自然メカニズムの論理をより明確にすることで、上記のガブリエル・マルセルの言葉のように内と外の区別を付けるための領域がクリアとなる。自然が対象としてあり続けるならば、それは観察によって人間が発展していくことに繋がるだろう。

しかし、環境破壊の進行から、エネルギーだけではなく知も含む自然の恩恵を削ぐことになる。悠久の時が流れている地球の環境システムでいえば人間の発生、人間の発達による文明化による破壊と再生も、地球という天体からすれば一つのサイクルでしかないかもしれない。

世の中には直接目に見えるもの、手で触れるものがある。科学は直接的に目で見ることができない原子や分子といったもののことも考える。そこから唯物論的に、論理の手続きで公理から定理を導き出す数学的に、物事があるかないかについてのさまざまな問いからその問いへの答え方の間になる風が吹けば桶屋が儲かるといった因果関係を調べる存在論的に、そしてエビデンスから推論していく自然科学的に、観察したものについて「ある」か「ない」を検証していく。

観察者としての人間は、学問的に実際に行けない距離の天体や観測できるが直接的に手で触れないものの存在を知っていることを証明している。そのリアルを積み重ねていくことは総体的な知の集合で、哲学的な存在論へと思考が流れていく。

量子力学創始者の一人であるオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは、1944年に『生命とは何か』を書いている。

生物が世界を認知・観察し、自ら秩序を形成している、という考え方が示されている。世界を認知・観察することは、周囲環境から情報を取り出すことである。人間は情報と関わる存在であり、観察者の視点によって初めて捉えられる。

つまり、生物とは世界を主観的に認知・観察している存在である。

観察して証明していくことで見えないものが分かる。「なかった」ものが「ある」ようになる。例えば、宇宙は人間が発達する前からあったが、人間が観測したことで宇宙の意味や論理が分かるようになった。

養老孟司は、目や耳などを通じて受ける感覚に対して、そこに「同じもの」を見つけ、意味に変換し、秩序を与えるのが「意識」と自著で記した。人間の意識化によって、観察対象のメカニズムの論理化、そして存在論へと繋がっていくものだろう。

宇宙以外に他にも「ある」ものは最初からある。それをまだ意識化していない、知らないから「ない」ことになっているが、把握していない「ある」ものは多いにあるはずだ。

それこそが観察者としての限界でもあり、延び代とも言えるだろう。

地球生態系の中で自然ともに生き、学び続けるのが人間としての役割ではないだろうか。

 

 

参考文献

西垣通(2009)『ネットとリアルのあいだ』筑摩書房

吉田夏彦(2017)『なぜと問うのはなぜだろう』筑摩書房

摂取したもの2018年10月

今月は森博嗣ブームが来た。

森博嗣は私にとって10代のときに影響を与えた作家の一人であるが、森マジックは初期作品群から安定して流れているのだと再確認。

三浦しをん『風が強く吹いている』はアニメの影響から。アニメの出来栄えが良く、先の展開が気になったので原作を読んだわけだ。これで立派な原作ファンの顔が出来る(それでマウントを取るほど切羽詰まっていないから)。原作に触れて、かなり橋渡り的描写、つまりリアリティラインとして際どい部分がアニメでは相当補強されているのが素晴らしい。

流石、喜安浩平だ。原作の薄味のところをフィクションとしてきちんと立ち上がらせているし、「対立軸の延命」による物語的胡散臭さが絶妙のまま物語の牽引力=ハイジの存在感に繋がっているところも見逃せない。原作を補完しながら、キャラの造形や説得力を補強している上手い脚本。

あとは、宇野常寛編集の『PLANETS10』に尽きるだろうか。

以下は一連の感想ツイートの元ネタ。

#PLANETS10 消極性デザインまで読んだ。これまでの項の流れは一環として問いの設定、前提としてあるものを切断して再定義することが記されており、入り口としてメディアかプラットフォームか、宇野さんはメディアの人間だからメディアとしての入り口を作るために「遅いインターネット計画」を立ち上げる宣言を行い、この状況を限定的なものとした現場の作り込みは「ゲーム的」であり、システムを変えることでゲームを変え、人の動きと思考モデルも変化させていく。特集の「戦争と平和」は抽象的で大文字テーマであり、どのように議論の解像度を高めていくのか作り手として問われるわけだが、一連の思考モデルを提示することで見せ方を示す=世界の見え方を変えることはまさに批評の強みそのもので、「世界の見方を変える」ことが批評の価値であると思う。大文字テーマに対して「個人/国家」「ローカル/グローバル」や「ミクロ/マクロ」「ポリ/テック」や共同体の性質などの観点から掘り進め、人との繋がり(対話と交渉)が居心地が良ければ生きやすいのでは、と再定義された「平和的」で幸福追求の形として、その中で実現可能なアイデアを列挙していく上で冒頭にある「遅いインターネット宣言」によって一時的に切断されるものが、「戦争と平和」特集において特に『消極性デザイン』で緩いパブリックな空間としての機能性含めて「本来可能性としてあったであろうネットの価値と力」として示されているのがシニカルな繋がりとして読める。この座談会は本当に面白く、ユーモアがありながら前進的である。これは「遅いインターネット宣言」で現状のネットに絶望して切断して再定義を決意した宇野さんが抱く「本来あって欲しかった可能性」で、井上明人の寄稿文中にある『サボナ・メソッド』からみるとメディア側として仕掛ける方法として一時的に「(1)Aの主張が通る」を採用するが、最終的なデザインは『消極性デザイン』の項で全面的に表れているような「(5)ABともに満足できる解決策を見出す」感だと思う。プレイヤーとしての宇野常寛も(5)への格闘をしている。そのための決意表明であり、「戦い方の設定と方法論」が本誌なのだろう。

巻頭のチームラボの「ボーダレス」的な本誌は情報と知が飛び交っているように思える。それはまさにチームラボの『カラス』的でもあり、本誌を読み進めていく内に徐々に飛び交う影が重なっていくことで多面的になる。結果的に本誌を通じて僕たち読者は、読まなかった/体験してなかった昨日と意図的に切断され、様々な知の越境による再定義に触れることで、今日の読者自身も再定義されていく。その興奮を担保しているのはある程度の質量を保持し、様々な知と結んでテーマを共有化できる「雑誌」というメディアだからこそ。まだまだ雑誌は捨てたものではない。

 

戦争特集は今の「戦争」を改めて問い直そうという企画。日本人の持つ戦争観はWWⅡからアップデートされていないまま、ボーダレスなテロの時代に突入した今の切迫感に切り込んでいる。

#PLANETS10 戦争特集読んで良かった。押井守の「身体論」から「走る人」に繋げているのも素敵だが、井上明人の寄稿前後から特集の思考モデルがグラデーション的に変化しているような気がする。その前後が談話的記事で、井上記事は寄稿論考として挿入されているが、テーマに対する思考の深度が虚構シュミレートを交えたリアリズムと実践的になっていく旗印のよう。この井上記事のタイミングが絶妙に思える。そして実践的提言から「身体論」へ。だからこそ「遅いインターネット計画」の発動篇は巻末にあるわけか。読み手に対して気持ちのいい流れだ。

 井上明人の寄稿文挿入は思考レベルの戦争モデルの転化を図っている。雑誌全体でも異色でありながら、思考の変化をトレースしていくための装置となっていると思う。

 

#PLANETS10 片淵監督と宇野さんの遣り取りで「パト2は結局戦争そのものを誰も認識することはできないのだと確認して終わった」とあり、これが戦後日本の在り方と不在感やある種の忘却性といった認識論とその表現に対して『この世界の片隅』は返歌となるように戦争の傷跡における「グロテスクな緊張関係の告発」をアニメ史の構造を用いて描いたと完結しているが、戦争特集後の「走るひと」コラボは単に押井守から「身体論」の接続をする位置付けで読んでいたら打ちのめされた。平易に書かれているけど凄い。

世界を捉えるスピードの調整とシンプルな思考への転換とその接続は、街から街へ風景から風景への没入が身体と地理を繋げて立体的にさせると。エリアの繋がりや人との繋がりはある一定の流動性があり、どのように五感による情報を浮かび上がらせてシンプルに体感するかどうか。

僕は9.11後の情勢に対して幼く何も分からなかった思い出がある。世界における自己の矮小化とそのナイーブな質感は伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだ時に唸り、この戦争特集自体も大文字テーマをどこまで解像度を高められていくのかという挑戦だと思う。これに触れることで自分の姿勢を正す読者は多いだろうし、世界の見方を変える批評の価値をより一層信じるものだと思うが、一方でメディアでもプラットフォームでも戦えない情報の一消費者としての自己と相対した世界のスケールを考慮して見詰め直す人もいるだろう。

冒頭で記した宇野さんの言を借りた上で述べるなら、戦争あるいは世界は誰も認識できないのかもしれないし、一部のミニマムな世界が関の山かもしれない。その巨大さに相対する時に己の身体性と思考のちっぽけさを嘆いたとしても、「走るひと」で展開されている論説はシンプルな接続方法の一つとして提示されていて…宇野常寛は演出家だと思った。

 

#PLANETS10 押井監督と宇野さんの項で「ネットにのせると現実の速度と調整が起きてしまう」とあり、押井守が「切断と衝撃」を語る中で私たちは距離感を時間に換算して生きており、「距離の世界ではなく時間の観念のなかでしか生きていない」と述べている。

その後に続く「走るひと」コラボは、この押井論の展開をしている。それは全体的に走る行為そのものが「時間ではなく距離、空間の消費」として語られており、体育からの解放後にどのように人が走る理由を探す過程において、ライフスタイルやカルチャー、あるいはナルシズムや本能、ファッションや音楽との組み合わせが論じられている。既存のイベントや場所と合わせた複合型のランニングカルチャーとしての提言が並べてあるが、押井守は「東京は反文化的・反歴史的な発想のない不思議な街」として述べた後に「走るひと」コラボではカウンターとして空虚な都市空間に身体一つで文化的運動に繋げていくための「走り」を述べている。

この一連の流れは美しいと思うし、極めつけは「走るひと」後のイケハヤランド特集の冒頭。「まだ東京で消耗しているの?」

 地理と文化の切断からどのように地理を立ち上げるか、能動的な場の設定が求められる現代において都市空間の消耗的態度へのシニカルとアイロニーが結果的に都市への没入を問いなおす契機となっている。

#PLANETS10 近藤那央のインタビューが面白い。黄金期のロボットSFの亡霊との切断を行い、展開先が『電脳コイル』的=デンスケへの愛着と実在性というのも既存のアイデンティティから解放され、そして非人間的で生体的なアプローチから「ポケモン」的な消費モデルまで宇野さんが補完している。愛玩的から風俗や生活環境の溶け込み具合のレベルをどのように調整するのかは分からないが、妖怪的アプローチ、それこそ『妖怪ウォッチ』的なリアルに介入して存在理由も明示しつつファンタジーな物質があったら確かに楽しいと思う。

 往年のSF作品よりも『電脳コイル』をキーワードにしている点が現代ならでは。『電脳コイル』のデンスケというマスコット的消費として存在し、電脳空間を現実に拡張している〝リアリティと温度〟を作品の一つの要素として当たり前のように実在していた空気感を合わせているナチュラルさが、近藤那央の発明の違和感でもあり、親近感になっていくのだろう。

#PLANETS10 読み終えた…濃密な時間を過ごして僕自身も切断され、再定義を迫られた。大文字テーマを認識しきれていない読者への知の啓蒙であり、共有化。その重さを支えている本誌は「遅いインターネット計画」の宣言としても重要であるし、結果的に「遅いインターネット」的として日常的な思考や物質と切断し、「じっくり考えさせる」ことに成功していると思う。だから本誌の目論見そのものが既に思考実験のプロトタイプともいえるのではないだろうか。宇野さんの本気が見えるし、『銀の匙』11巻にあるように「本気には本気で返す」のが礼儀であるから読者が出来ることは巻頭のチームラボから提起され、雑誌の大部分に継承されている設定や一記事で完結していそうなミクロなテーマが橋渡し的になることでマクロ的に立体的に繋がる編集に対して真剣に「じっくり読んで考える」ことだと思う。

本誌を購入するキッカケは、押井守宇野常寛の遣り取りが読みたかったからに尽きていたが、強きの価格設定に対して宇野さん直々の解説集が特典として付くこともあってなんとか背中を押されたことだった。しかしいざ読んでみると、価格は決して高いものではなかった。目当ての押井守記事以外も「じっくり読ませる」ための工夫やテーマ設定が丁寧に練られており、一つの「本」として充実の並びになっている。なんといっても「戦争と平和」特集から、『走るひと』コラボは宇野さん自身の趣味の啓蒙だと侮っていたら、テーマがヒモ付されたまま予想外の世界に運ばれたこと。そして実践的な「身体論」の拡張として「空間=都市」への提言に繋がり、シリーズインタビューなどにも結節している点。解説集にあるようにデザインの統一感、総合誌としてのカラーを丁寧に結び、読者がどう読んだらどこに運ぶかまでカラーとしてデザインされている。この充実感こそが雑誌だと思うし、PLANETS編集部に感謝を伝えたい。いい本です。

 

#PLANETS10 思い出したのは外山滋比古『思考の整理学』の「われわれには二つの相反する能力がそなわっている。ひとつは、与えられた情報などを改変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、バラバラになっているものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。」のように、本誌はこの作用が「総合誌」的に機能していると思う。テーマや読むための流れが「雑誌」というコンテクストに収斂され、読者自身への提言として拡散されている。『思考の整理学』では指導されて飛べる「グライダー人間」と自力で飛行できる「飛行機人間」の差異について記されているが、本誌の情報を十分に読んで終わりだけではなく、飲み込んだ上で解釈して、宇野さんたちの提言から更に拡散的に「飛行機」的に議論を始める、参加することが態度として求められているのではないか。だから本誌はそのためのチケットであるし、その態度は例えば国家間のグローバルな超巨大共同体に参加できてなくても『消極性デザイン』のようなミクロ的に分解し、公約数的に繋げていくことで「生きやすさ」は変わることを具体的に示している。

 

おおたまラジオ第2回 前半戦: おおたまラジオ

森博嗣『四季 春』

竹宮ゆゆこ『あしたはひとりにしてくれ

羽生善治『決断力』

森博嗣『森籠もりの日々』

森博嗣赤緑黒白

森博嗣朽ちる散る落ちる

森博嗣捩れ屋敷の利鈍

森博嗣六人の超音波科学者

森博嗣恋恋蓮歩の演習

森博嗣『魔剣飛翔』

森博嗣『正直に語る100の講義』

石持浅海『鎮憎師』

森博嗣夢・出逢い・魔性

家入一真『さよならインターネット まもなく消えるその「輪郭」について』

村上春樹『職業としての小説家』

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 10』

佐藤多佳子しゃべれども しゃべれども

鈴木敏夫ジブリの文学』

小幡和輝『学校は行かなくてもいい』

東野圭吾『学生街の殺人』

山田玲司『年上の義務』

三崎亜記『コロヨシ!!』

美濃部美津子『志ん生一家、おしまいの噺』

水道橋博士『藝人春秋』

朝井リョウ『風と共にゆとりぬ』

西加奈子『舞台』

三浦しをん『風が強く吹いている』

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 11』

水無田気流『「居場所」のない男、「時間」がない女』

杉田俊介宮崎駿論』

ばるぼら さやわか『僕たちのインターネット史』 

大澤聡『1990年代論』

外山滋比古『思考の整理学』

佐々木敦『ニッポンの文学』

大塚英志サブカルチャー反戦論』

村田沙耶香コンビニ人間

宇野常寛編『PLANETS10』