おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

2019年の抱負~ナナメの夜明け

あけましておめでとうございます。

2019年も『フトボル男』をよろしくお願いします。

サッカーなどを観なくなって久しいのに、未だにブログ名はこのままでいいのかと年中問われているような気がしますが。

このブログに辿り着く人の割合としては、やはりサッカー関連は多いですし、ブログ名も相まって、なんか謝りたい気分にはなります。

 

今年は、このブログ上でも確りしたものを一本書き上げたいと思っています。

(連載)形式問わず、まずは現状の自分が初めて納得できるものを完成させたいと考えている。昨年に書いた

futbolman.hatenablog.com

は、ミステリ小説におけるミステリの細部を論じて詰めるものではなく、「テン年代的物語消費」の観点で解体した実験的な試みではあったので、とても印象的なのですが、このような独創性を大事にしたい。間違いなく『宇宙よりも遠い場所』を観ていなかったら書けなかった…ありがとう『よりもい』。

その際には昨年末のおおたまラジオ第5回にて、える・ろこさんに指摘された「分かり易さ」が大事な距離感になるでしょう。

もう少し、噛み砕いた言語表現を意識する一年にしたいと思っています。

2018年はインプットしたコンテンツが、点となり、各所で線が結ばれる快感が生じるような出会いが必然的に増えたので(年齢を重ねることの意味)、2019年も思いがけない偶然的でもあり、結果的に必然的な豊かさを求めていきたい。

 

また「おおたまラジオ」をどのように作っていくかを、もっと考える一年にしたいです。

テーマは「ナナメの夜明け」。

これはボツになりましたが。

語るための「場」を作るコンセプトから、「場」を作ることが目的化せずに、「場」を手段としてどう展開していくかという話として。

現状「おおたまラジオ」は、質量が伴っていない状態なのは事実です。

私とろこさんが駄弁っているだけの状況に、どれだけの価値があるかは不透明でしかない。いや、価値は発生してすらいないでしょう。

もっと深さを出していく作業と、広さを作っていくための努力は別物として、手応えと呼べるものを模索していきます。

アウトプットの体力作りは勿論のこと、その質をどこまで向上できるか。

宣伝広報活動を意識的に取り組むことは大前提として(今まではそれすらサボっていました)、質を上げてもそれが、伝えるコトと伝わるコトかどうかは別問題であるから、おおたまラジオのツイッターアカウント運用も含めて見直しが必要です。

今のアカウント運用は、ブログ更新しましたツイートとアニメとバラエティの感想ツイートという私的なものでしかない。

私という「中の人」の趣味丸出しが、「おおたまラジオ」のアカウント名とキャラ付けといった記号性と連帯していくことは如何なものなのか。

公共性とは何なのか。

アカウントと肝心のラジオの結びつきが無い事実を踏まえても。

色々、問題だらけです。

けれども、一部SNS上でお褒めいただきました『ボヘミアン感想回』(『GRIDMAN』に侵食されていますが)のように、この世界に見てくれている人はいるんだなという事実だけで、私たちは癒される(笑) 

futbolman.hatenablog.com

恐らくこのブログを読んでいるであろう、あなたの存在を、私自身は認知できないけれども、それだけで救われるところはあります。

こうの史代の『この世界の片隅に』の「世界」と「片隅」の対比における「片隅」で生きていくことの意味や、すずさんが日常的に絵を描くことの意味は、改めて私たちに問いかけていると思います。

謙虚に慎ましく生きろ!なんてことじゃなく。

 

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 

 

2018年俺の読書ベスト10選

 

鈴木敏夫『禅とジブリ

禅とジブリ

禅とジブリ

 

禅宗に興味が湧くキッカケとなった本。

マインドセットや身体観の揺らぎについて、ここ1年程アプローチは違えども違和感があった。

本書はガッツリとした禅の手解きをする指南書というよりも(そもそも「不立文字」である)、カジュアルに禅のマインドについて触れ合おうという敷居の低さがあるのは、鈴木敏夫が挿むジブリを含めたエピソードの国民的娯楽映画としての認知度と共有性に他ならないと思う。

当然、宮崎駿高畑勲と長年組んでいる鈴木敏夫という人自体も癖の強い人間性であり、その問答を禅宗を通して解体していく試みが構成となっているが、対談集だから気軽に読めるけども、本質的な読者への問いかけは奥深い。

対談における問答の糸口になるのが禅(禅の本だから当たり前なのだけど)であり、話自体がそちらに誘導されているというわけでもなく、禅宗の大らかさによるもの。

私は、東洋への眼差しを向ける必要性を感じた一冊でもある。

やはり、どこか日本という国で生まれ育つと、同じ東洋に属するのにも関わらず、西欧化した日本の中から見渡す東洋はまさにオリエンタリズムの目線であるのは否めない。その視線を回帰させるだけの力が宿っている本だと思う。

宇野常寛編『PLANETS10』

PLANETS vol.10

PLANETS vol.10

 

間違いなく、2018年で私が読んだ書籍の中で、最も時間を掛ける必要があり、掛けるだけの価値があった、読み応えがあった本である。

メディア側のプレイヤーの宇野常寛が拘った紙媒体ならではの仕掛けだと思う。ウェブに慣れ親しんだ読者も多い2018年現在では、紙媒体を選択すること自体がある種のノスタルジーアイロニーが付き纏う表現行為であり、真綿で締められ続ける出版業界の撤退戦の様相を呈しているのは紛れもない事実であるが、それでもやはりウェブでは出せない味わいが、総合誌の編集としてヒモ付けされた「連帯」によって、気になるトピック以外にも目を向けさせるだけの連なりとして存在し、思わず前後の文脈を確認したくなる構成となっているのが丁寧であった。

戦争特集は今の「戦争」を改めて問い直そうという企画。憲法改憲論議の9条などではなく、日本人の持つ戦争観(WWⅡから止まっている)アップデートされていないまま、ボーダレスなテロの時代に突入した今の切迫感に切り込んでいる。

消極性デザインまで読んだ。これまでの項の流れは一環として問いの設定、前提としてあるものを切断して再定義することが記されており、入り口としてメディアかプラットフォームか、宇野さんはメディアの人間だからメディアとしての入り口を作るために「遅いインターネット計画」を立ち上げる宣言を行い、この状況を限定的なものとした現場の作り込みは「ゲーム的」であり、システムを変えることでゲームを変え、人の動きと思考モデルも変化させていく。特集の「戦争と平和」は抽象的で大文字テーマであり、どのように議論の解像度を高めていくのか作り手として問われるわけだが、一連の思考モデルを提示することで見せ方を示す=世界の見え方を変えることはまさに批評の強みそのもので、「世界の見方を変える」ことが批評の価値であると思う。大文字テーマに対して「個人/国家」「ローカル/グローバル」や「ミクロ/マクロ」「ポリ/テック」や共同体の性質などの観点から掘り進め、人との繋がり(対話と交渉)が居心地が良ければ生きやすいのでは、と再定義された「平和的」で幸福追求の形として、その中で実現可能なアイデアを列挙していく上で冒頭にある「遅いインターネット宣言」によって一時的に切断されるものが、「戦争と平和」特集において特に『消極性デザイン』で緩いパブリックな空間としての機能性含めて「本来可能性としてあったであろうネットの価値と力」として示されているのがシニカルな繋がりとして読める。この座談会は本当に面白く、ユーモアがありながら前進的である。これは「遅いインターネット宣言」で現状のネットに絶望して切断して再定義を決意した宇野さんが抱く「本来あって欲しかった可能性」で、井上明人の寄稿文中にある『サボナ・メソッド』からみるとメディア側として仕掛ける方法として一時的に「(1)Aの主張が通る」を採用するが、最終的なデザインは『消極性デザイン』の項で全面的に表れているような「(5)ABともに満足できる解決策を見出す」感だと思う。プレイヤーとしての宇野常寛も(5)への格闘をしている。そのための決意表明であり、「戦い方の設定と方法論」が本誌なのだろう。

巻頭のチームラボの「ボーダレス」的な本誌は情報と知が飛び交っているように思える。それはまさにチームラボの『カラス』的でもあり、本誌を読み進めていく内に徐々に飛び交う影が重なっていくことで多面的になる。結果的に本誌を通じて僕たち読者は、読まなかった/体験してなかった昨日と意図的に切断され、様々な知の越境による再定義に触れることで、今日の読者自身も再定義されていく。その興奮を担保しているのはある程度の質量を保持し、様々な知と結んでテーマを共有化できる「雑誌」というメディアだからこそ。まだまだ雑誌は捨てたものではない。

間違いなく、押井守のインタビュー以降、如実に現実と虚構の結節点としての身体性と地理が浮かび上がっていく流れは素晴らしい。

また、現実と虚構でいえば、片淵須直へのインタビューでも明らかな『この世界の片隅に』の「世界」と「片隅」の対比からの虚構における自然主義的リアリズムへの繋がりがあってこその、虚構から現実をプッシュする押井守への橋渡しになっていると思う。

戦争特集読んで良かった。押井守の「身体論」から「走る人」に繋げているのも素敵だが、井上明人の寄稿前後から特集の思考モデルがグラデーション的に変化しているような気がする。その前後が談話的記事で、井上記事は寄稿論考として挿入されているが、テーマに対する思考の深度が虚構シュミレートを交えたリアリズムと実践的になっていく旗印のよう。この井上記事のタイミングが絶妙に思える。そして実践的提言から「身体論」へ。だからこそ「遅いインターネット計画」の発動篇は巻末にあるわけか。読み手に対して気持ちのいい流れだ。

片淵監督と宇野さんの遣り取りで「パト2は結局戦争そのものを誰も認識することはできないのだと確認して終わった」とあり、これが戦後日本の在り方と不在感やある種の忘却性といった認識論とその表現に対して『この世界の片隅』は返歌となるように戦争の傷跡における「グロテスクな緊張関係の告発」をアニメ史の構造を用いて描いたと完結しているが、戦争特集後の「走るひと」コラボは単に押井守から「身体論」の接続をする位置付けで読んでいたら打ちのめされた。平易に書かれているけど凄い。

世界を捉えるスピードの調整とシンプルな思考への転換とその接続は、街から街へ風景から風景への没入が身体と地理を繋げて立体的にさせると。エリアの繋がりや人との繋がりはある一定の流動性があり、どのように五感による情報を浮かび上がらせてシンプルに体感するかどうか。

僕は9.11後の情勢に対して幼く何も分からなかった思い出がある。世界における自己の矮小化とそのナイーブな質感は伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだ時に唸り、この戦争特集自体も大文字テーマをどこまで解像度を高められていくのかという挑戦だと思う。これに触れることで自分の姿勢を正す読者は多いだろうし、世界の見方を変える批評の価値をより一層信じるものだと思うが、一方でメディアでもプラットフォームでも戦えない情報の一消費者としての自己と相対した世界のスケールを考慮して見詰め直す人もいるだろう。

冒頭で記した宇野さんの言を借りた上で述べるなら、戦争あるいは世界は誰も認識できないのかもしれないし、一部のミニマムな世界が関の山かもしれない。その巨大さに相対する時に己の身体性と思考のちっぽけさを嘆いたとしても、「走るひと」で展開されている論説はシンプルな接続方法の一つとして提示されていて…宇野常寛は演出家だと思った。

押井監督と宇野さんの項で「ネットにのせると現実の速度と調整が起きてしまう」とあり、押井守が「切断と衝撃」を語る中で私たちは距離感を時間に換算して生きており、「距離の世界ではなく時間の観念のなかでしか生きていない」と述べている。

その後に続く「走るひと」コラボは、この押井論の展開をしている。それは全体的に走る行為そのものが「時間ではなく距離、空間の消費」として語られており、体育からの解放後にどのように人が走る理由を探す過程において、ライフスタイルやカルチャー、あるいはナルシズムや本能、ファッションや音楽との組み合わせが論じられている。既存のイベントや場所と合わせた複合型のランニングカルチャーとしての提言が並べてあるが、押井守は「東京は反文化的・反歴史的な発想のない不思議な街」として述べた後に「走るひと」コラボではカウンターとして空虚な都市空間に身体一つで文化的運動に繋げていくための「走り」を述べている。

この一連の流れは美しいと思うし、極めつけは「走るひと」後のイケハヤランド特集の冒頭。「まだ東京で消耗しているの?」

地理と文化の切断からどのように地理を立ち上げるか。

能動的な場の設定が求められる現代において都市空間の消耗的態度へのシニカルとアイロニーが、結果的に都市への没入を問い直す契機となっている。

昨今のオンラインサロンブームやクラスタの階層化とその可視化は、ネット上でも具体的な「場」への欲求としての側面もあるのだろう。

地理的に、物理的に、文化的に、「場」の復権をどう作っていくか。その「場」のデザインによって、語られる雰囲気や意匠、そして論客や観客の作り方含めてのアイデンティティとしての定義付けが、過剰に繋がり易くなっている現代において、あるいはコモディティ化しやすいからこそ、より価値を高めていくと思う。

読み終えた…濃密な時間を過ごして僕自身も切断され、再定義を迫られた。大文字テーマを認識しきれていない読者への知の啓蒙であり、共有化。その重さを支えている本誌は「遅いインターネット計画」の宣言としても重要であるし、結果的に「遅いインターネット」的として日常的な思考や物質と切断し、「じっくり考えさせる」ことに成功していると思う。だから本誌の目論見そのものが既に思考実験のプロトタイプともいえるのではないだろうか。宇野さんの本気が見えるし、『銀の匙』11巻にあるように「本気には本気で返す」のが礼儀であるから読者が出来ることは巻頭のチームラボから提起され、雑誌の大部分に継承されている設定や一記事で完結していそうなミクロなテーマが橋渡し的になることでマクロ的に立体的に繋がる編集に対して真剣に「じっくり読んで考える」ことだと思う。

本誌を購入するキッカケは、押井守宇野常寛の遣り取りが読みたかったからに尽きていたが、強きの価格設定に対して宇野さん直々の解説集が特典として付くこともあってなんとか背中を押されたことだった。しかしいざ読んでみると、価格は決して高いものではなかった。目当ての押井守記事以外も「じっくり読ませる」ための工夫やテーマ設定が丁寧に練られており、一つの「本」として充実の並びになっている。なんといっても「戦争と平和」特集から、『走るひと』コラボは宇野さん自身の趣味の啓蒙だと侮っていたら、テーマがヒモ付されたまま予想外の世界に運ばれたこと。そして実践的な「身体論」の拡張として「空間=都市」への提言に繋がり、シリーズインタビューなどにも結節している点。解説集にあるようにデザインの統一感、総合誌としてのカラーを丁寧に結び、読者がどう読んだらどこに運ぶかまでカラーとしてデザインされている。この充実感こそが雑誌だと思うし、PLANETS編集部に感謝を伝えたい。いい本です。

思い出したのは外山滋比古『思考の整理学』の「われわれには二つの相反する能力がそなわっている。ひとつは、与えられた情報などを改変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、バラバラになっているものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。」のように、本誌はこの作用が「総合誌」的に機能していると思う。テーマや読むための流れが「雑誌」というコンテクストに収斂され、読者自身への提言として拡散されている。『思考の整理学』では指導されて飛べる「グライダー人間」と自力で飛行できる「飛行機人間」の差異について記されているが、本誌の情報を十分に読んで終わりだけではなく、飲み込んだ上で解釈して、宇野さんたちの提言から更に拡散的に「飛行機」的に議論を始める、参加することが態度として求められているのではないか。だから本誌はそのためのチケットであるし、その態度は例えば国家間のグローバルな超巨大共同体に参加できてなくても『消極性デザイン』のようなミクロ的に分解し、公約数的に繋げていくことで「生きやすさ」は変わることを具体的に示している。

 

西尾維新『少女不十分』

少女不十分 (講談社文庫)

少女不十分 (講談社文庫)

 

今年は西尾維新の『物語シリーズ』を未読だった『偽物語』以降を全作品を読み、最新作まで追い付いた。

終物語』とどちらにするか悩んだが、物語的な転回として『終物語』が「終わらせた」ことには意義があったけれども、西尾維新の作家性が剥き出しに読めたのは、つまり作家としての自意識が開放的だったのは『少女不十分』だったのではないだろうか。

要するに「パンツを脱いだ」仕事である。

物語シリーズ』全作品を読めば分かるように、いや『終物語』まで読めば感覚的に理解できるレベルで西尾維新は巧みな作家の一人であるのは事実で、その上手さであるならばある種雲隠れ的に、チラリズム的な作家としての自意識でも上手に料理して描きそうなものであるが、『少女不十分』は作家としての矜持全開として読めるし、趣味全開であろうが変態性全開であろうが物語を紡いでいる西尾維新が、暴露的に「物語」を描く意味を、自身を批評して物語化させてしまっているのだから恐れ入ったとしか言えない。

村上龍の『13歳のハローワーク』には「小説家は最後のネット」と書かれた記憶があるが、たとえ何かが否定されていても生きていくための肯定が物語に閉じ込められている。

このテーマ自体は辻村深月の『スロウハイツの神様』と同じ文脈で語られることは間違いないだろうが、西尾維新の作家性を剥き出しに「物語化」することで描ける真摯さは、物語を愛する全ての読者へのギフトだろう。

西尾維新は、『物語シリーズ』においても「異常」を日常化させたあらゆる物語を描いた。そこに普通の意味での人間らしさは無く、キャラとしての受容がある。

しかし、勿論、マンガ的なリアリズムに則った異端であろうがアウトローであろうが、世界では生きていける。

かつて立川談志は『現代落語論』にて「落語は業の肯定」だと記した。

物語として、業を肯定することで救済される魂がある。

なぜ、人は物語るのか。その答えがある。

宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』

宮台真司の総復習的位置付けになるのではないだろうか。

宮台の著作を幾つか触れてきた読者にとっては、内容に既視感があるだろうし、ある程度クリアになっているかというとそうでもなく、「共通文法」としての使い方もあるので初学者には優しい入門書として機能しづらいかもしれないが、このボリュームだからこそ出来るパラダイムともいえる。

文化史を漁る上で、現代の社会を断絶して語ることはできない。

文化と社会の接合点は必ず生まれる。

想像力として、だ。

特に、3.11以降から日本に蔓延している日常性/非日常性、この時/その時の断絶性が浮き彫りになり、なんともいえぬ日常に非日常が常時侵食してきた高揚感と浮遊感、メディアで報道されるショッキングな映像がどこか他国のような遠い地での冗談だと思ってしまうような(想定していなかった)、想像力を超越したあまりにリアリティの無い圧倒的現実に押し潰されそうになったのは記憶にも新しい。

ビヴァリー・ラファエルは『災害の襲うとき――カタストロフィの精神医学』において「警戒、衝撃、ハネムーン、幻滅」と分析したが、まさにあの頃はハネムーン期だったのだろう。

本書(2014年)は震災以降を炙り出し、そして個人的には2012年から視聴を止めたまま未見だった『エヴァQ』の6年間の封印を破り、その結果『エヴァ』に再感染したこともあって、改めてポストモダンの思想を調べていく上で、自分の虚像であり、鏡像のような自意識レベルの問題と対面していく際に大きな助けになった。

社会学なのに、なぜか自己啓発的な読み方をしてしまったかもしれない。

例えば『エヴァ』などの碇シンジやオタクへの同族意識と同族嫌悪、自己嫌悪、自己憐憫、自己陶酔、自己承認、無根拠で錯覚的な自己肯定感、ニーチェ的な転換、つまりルサンチマンを通じた神への価値観的提言による自己肯定の近接と自己矛盾が、個人レベルの自意識的問題の領域に留まらず、「システム」の形成と、その「システム」の現代的な問題への関係性が、ある程度クリアになったからだろう。

広瀬和生『噺は生きている 名作落語進化論』

噺は生きている 名作落語進化論

噺は生きている 名作落語進化論

 

「有りそうで無かった」本だろう。

数多の落語本はあれど、本書以上にデータベースとして機能し、ガイドブックとしてストック的価値のあるものは無かったと思う。

つまり、ウェブで溢れたフローな言説ではなく、広瀬和生の目線で切り取る「正しくアーカイブ」として活きた紙媒体ならではの仕事ではないだろうか。

大根多の「芝浜」、「富久」、「紺屋高尾」、「文七元結」を、歴史的に体系的に、名人や現代の芸人の語り口や演出をカテゴライズし、「噺が生きている」ように枝分かれしていく様を濃密に書き下ろしている。

春風亭一之輔は、落語を趣味という人はオカシイ?と雑誌のインタビューで言ったけども(笑)、確かに一番の趣味(本人にとって趣味が階層化していようがなかろうが)が「落語」と言い切るほど「肩肘を張るな、のんびり楽しめばいいんだよ」というニュアンスであるが、寄席という空間自体が醸成する空気はその通りだろう。

しかし、なかには熱心の人がいて、そういう人たちに捧げるべく知的好奇心を間違いなく擽る良著。

この本を読む時点で、既にある程度落語を知っているだろうし、同じ噺でも落語家によって全然違うことも体感的に理解しているだろう。

改めて『噺は生きている』と言われても完全agreeでしかないだろうが、具体的にどのように「生きている」かが、センテンスレベルで分かるのが特徴。

Eテレ東出昌大春風亭一之輔などが出演している『落語ディーパー』のコンセプトは、かなり本著に近い。

一番の大きな違いは、テレビという視覚メディアによる動画コンテンツの有無。

『落語ディーパー』を観れば、たとえ知らない噺であっても、直観的に噺が「生きている」ことが分かる。

だから、紙媒体と(テレビ含めた)動画メディアの話になるが、改めてフローではない紙媒体のストック的価値を問い直す意味もある上で、「見聞き」する落語というコンテンツを映像ではなく、批評として、センテンスレベルでどのように繋げていくかが問われている。

大江健三郎『叫び声』

叫び声 (講談社文芸文庫)

叫び声 (講談社文芸文庫)

 

キッカケは伊坂幸太郎特集の本を読んだことから。

そういえば伊坂幸太郎を再履修した2018年でもあったが、伊坂が好きな本として挙げていたのが本作。大学時代に撃ち抜かれたらしい。

試しに読んでみたら、私も殺された。

ノスタルジーと一定の距離を置いている私にとって、本書は最大のライバルでもある。「昔話なんて誰でもできるし、いつでもできるし、(新しさがなくて)面白くないじゃん」スタンスであるが、ノスタルジーを超越したグロテスクな青春物語の展開にはページを捲る手が止まらなかった。

トマス・H・クックの『夏草の記憶』は永遠の童貞殺し小説として傑作であり、新海誠の『秒速5センチメートル』は童貞のノスタルジーとナルシズムを完全美化した自意識としての結晶であるが、『叫び声』も「永遠の自意識の慟哭」として位置付けたい。

叫ぶ!

紛れもない傑作。

打海文三『愛と悔恨のカーニバル』

愛と悔恨のカーニバル (徳間文庫)

愛と悔恨のカーニバル (徳間文庫)

 

食欲不振になったトラウマ本。

読み終えた日は何も食べられなかった。

打海文三は、これまで未読だった作家の一人であったが、本書を経て無事全作品を読むらくらいにはハマってしまった。

これも、伊坂幸太郎の影響から。

内容も然ることながら、文体がいい。

久しぶりに文章の相性がいい作家と出会った。

ある程度の硬質性がある記述方法は読んでいて乗り易く、渇いて簡素な文体が一番難しい。

知的な文章というのは、難しくデコレーションし過ぎではなく、難しい事を難しいまま記述することでもなく、難しいことを簡単に書き、そのレベルまで引っ張っていくことであるには違いないが、打海文三の文体は物語の深度と共鳴したものであり、読者への眠っていた能動性へ働きかける。

たとえドラマとしてのショッキングさやカタストロフィが無くても、打海文三は物語として記述できるのだろう。

遅れ馳せながら新作が読めないのは口惜しいが、遺された作品を愛していく。

 

鈴木大拙『東洋的な見方』

東洋的な見方 (角川ソフィア文庫)

東洋的な見方 (角川ソフィア文庫)

 

禅宗を学ぶことにハマっている。

色んな禅僧の本を読んでいくと、日本人の身体観とオリエンタリズムとしての眼差しとして、必ずセットで鈴木大拙の名が挙がっていた。

無知のため存じ上げなかったが、試しに読んでみたのが本書。

これが、いきなり名著だった。

吃驚。

近代から現代における西欧的なアップデートに至るまでのプロセスについて懐疑的(大元は二元論的な語りについて)であった私としては、大きく「脱・西欧化」を掲げているわけでもないが、どこか忘れ去られているような感覚のある東洋への目線を再起させたい意識はあり、それがなんとなく禅宗に接続しただけであった。

大いなる知の偉大さよ。

相対的で相補的でもある日本的なものが喪失したことからの嘆きやルサンチマンで終わっていたら、私となんら差は無い(あとは「現場」があるかどうかだけ)が、二元論からの解放としての「東洋思想の不二性」を一番最初に書かれており、つまり冒頭から本気の宣言としてのメッセージが込められている。この頭で既に本書が成立しており、しかも竜頭蛇尾で終わらないから恐ろしい。

明らかに記述自体は実験的で苦悩しているのが読めるが、それでも十分に読み物としてのテクストとして成立させ、この思想の問いの設定自体が『東洋的な見方』への案内書になり、定着した西欧的な思考モデルからのすり替えや挿し込みを図るための「東洋的な見方」になっている。

二元論からの距離を置くための一元論や中道的態度を取るにしても、2019年は更に深く禅宗にハマっていきたいと考えている。

鈴木大拙」が来年のテーマということで。

朝井リョウ『武道館』

武道館 (文春文庫)

武道館 (文春文庫)

 

売れないアイドルの話であるが、センターの子の卒業シーンなんて『桐島、部活やめるってよ』と同じ「中心の不在」だろう。

本書は朝井リョウのアイドル論として読めるし、アイドルとは?何なのかという問いが設定されている。

まさにテン年代のアイドル戦国時代だからこそ書かれた作品である。

グループとしての目標は武道館。しかし、個人の自己実現は何か?

グループではなく個人を切り取る肖像としてのエグさは相変わらず。

さきほど例に『桐島』を出したからそのまま使うと、学校内での青春が『桐島』だとするなら、学校の外での青春が『武道館』になる。

学園という箱庭じゃなくても青春として充足できる物語が増えているのがテン年代の印象であるが、アイドルとして「何者」になっていくのか。何を選択していくのか。

彼女たちは学生だから、当然進路選択と重なっていくような図式。

そこで、選択するまでの「自分探し」系(=『何者』)に付き纏う、他者とのスピードの違いによる焦燥感や後悔の嵐。売れない彼女たちが、他者の成功や追い抜かれていく感覚をアイドル(業界)にコミットして描いている。

アイドルやスポーツ選手などは、彼らや彼女らのプロセスがストーリーとして追うことがコンテンツ化する典型だ。グローバル資本主義によって、あるいは合理主義の果てにマニュアルと分業が当たり前になったポストモダニズムな社会において、自分の作業の全体像が結べないこともしばしばである中で、実存性が観客によって物語化して確保されていることの価値は高いと思う。

彼女たちへの承認は「みんな」によって支えられている。

ここで「みんな」とは誰の事だろうか?という問題が生まれる。

その「みんな」を、朝井リョウはインターネットとの親和性による無垢で無理解な悪意として記述した。色んなコトやモノに対して、色んな人がインスタントな正義感で糾弾し、暇な炎上を作り上げる。

彼女たちは顔も名前も知らない「みんな」と自分たちの距離を自覚し、誰のために頑張るのかという動機探しを経て、まさにアイドルとしての自覚とアイデンティティを確立させていく。

アイドルとは夢を見せ、それを売る仕事である。

小説家も夢を作り、売る仕事をしていると言っていいだろう。

しかし、アイドルは私生活とコンテンツを切り離すことが難しい。虚構性と現実が曖昧だからだ。況してやSNS全盛によって、プライバシーは日常的に接続しているとも考えられる。

そのような虚実が入り混じる曖昧な実存性が、ステージの上での自己実現を経ていくアイドルという「物語」に収斂していき、その過程でアイドルは夢と現実とサヴァイブしている。

アイドルだけでなく小説家として、アイドルというフィルターを通した、朝井リョウの告白にも読めてしまった。

『武道館』は朝井リョウがドルオタのあまりに『アイマス』的なステージ上の自己実現と模索を描いたのものだと当初は思っていたが、よりラディカルでリアル・フィクションとしてのアイドルとドルオタの距離感、中景としてのインターネットの「みんな」との距離感そのものを炙っちゃう叫びだった。もうね恐ろしい。

「ネットであるからこその悪意≠人間にインターネットは早すぎた≠性悪説」みたいなのを小説にナチュラルに組み込んで、登場人物たちを甘やかさずに追い込んでいく朝井リョウって素敵な作家だなというお話であるが、本作はアイドルの鉄血の掟である恋愛禁止論と恋愛自由論についても掘り下げようとしているし、ドルオタ以外にも勧められる。ネットの悪意の表層化なんて朝井リョウは現代のトップランナーじゃないの?『何者』を読んだ時に確信したが、これぞネットだ!

 

さやわか『僕たちのゲーム史』

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

 

昔はゲームをよくやっていたが、年齢を重ねるにつれて距離が生まれた。

なぜ、あれだけハマっていたのにやらなくなったのかは、一度再考すべきなのだろう。

それでも、現在ゲームを全くやらない人間からみても、今のソシャゲ全盛とSNSの親和性によるコミュニケーションとしての装置だけになっていることに違和感(ソシャゲプレイヤーたちに訊いても「ゲームではない」と自覚した上で返ってくる)があったが、大衆的にはソシャゲに収斂していく(具体的には『怪盗ロワイヤル』であるが)図式も含めたゲーム性とゲーム・クロニクルとして分かり易く書いてある。

なんといっても、さやわかが早い段階で「ゲーム」の定義と結論を書く構成であるから(同じ星海社新書の『一〇年代文化論』もそういう構成)、必然的にさやわかの定義を確認作業していく読み方になるため、途中で整合性の歪みが生じても、意図的にとある作品を外して調節しただけでは?と一部の人に受け取られるのも否めないだろうが、全くの門外漢の私としてはとても有難かった(笑)

ゲーム内の物語構造として読み解くのではなく、ゲームとしての『ドラクエ』や『FF』の差異や『メタギア』などのようにムービーゲーに収束していく流れを掴みやすく、またアドベンチャーゲームの文脈における、特にギャルゲーを素材に別の枠のメタレベルとしての「リアリズム」への批評に持っていった東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』の個人的な補助線として、ゲームにおけるゲーム性の歴史が見えてくるのは本書の強みだと思う。 

 全く知らない、接続してこなかった分野を知ることでの快楽。

また、通過したものと再度違う角度から接続していく(具体的には物語構造としての)快感があった。

おおたまラジオの未来 俺たちが幸せになるには

ろこ:今年どうだったか…ラジオが走り始めたからね。俺の中ではやっぱり。


政夫:エポック・メイキングですね。


ろこ:そうだね。結局、自意識の話をしているけど。


政夫:俺たち自意識ボーイズとしてはね。


ろこ:反省とかするの?


政夫:反省…んー。


ろこ:文字起こしもしているし、向き合う時間とか。


政夫:反省…しないですね。鬱屈したまま止まっているよりかは、ここ足りなかったから勉強しようとなるタイプですね。


ろこ:俺なんかは塞ぎ込んじゃうタイプだから。アカネちゃんだよね。


政夫:多分、ろこさんが思っているアカネちゃんのイメージはちょっと違うかな…(笑)


ろこ:違うんか(笑)仕事から帰ってきて、すぐ布団に潜り込むみたいな。


政夫:今年を振り返った時に、おおたまラジオですか。


ろこ:そうだね。ライフステージが上がった感じも特にないし。


政夫:今年は充実していたんですか。


ろこ:よう話しているのは(一年は)早いな、くらいよ。


政夫:普通(笑)


ろこ:ほんまに。


政夫:今年は凄い良い年でしたね。


ろこ:あれ、対照的だね。


政夫:本当に近年でも一位ですね。成長感が凄い。オタクとして(笑)


ろこ:あれ(笑)


政夫:オタクとしての圧倒的成長感(笑)


ろこ:俺はまだオタクと言えないんだけど…。


政夫:ろこさんはYoutuberですよ。ヒカキン、える・ろこ、はじめしゃちょーみたいな。日本3大Youtuber!


ろこ:雑すぎて分からん(笑)


政夫:あまり知らないから(笑)

(一貫して)ノスタルジーとの距離感はあるんですよね。昔、自分が好きだったものに触れる機会が今年結構あって、それに触れた後ノスタルジー以外に感触が無かったらどうしようって不安だったんですけど、昔好きだったものが今の自分の感性にハマれるのかみたいな試験的な年だったんですよね。

結果的に、昔好きだったものは今の自分も楽しめるし、間違いじゃなかったけど、圧倒的に今の自分の方が楽しめている実感がある。再発見の強度が滅茶苦茶上がりましたね。そういう意味での圧倒的成長。


ろこ:オタクとして(笑)


政夫:はい(笑)


ろこ:政夫君がよく言っているじゃん。ノスタルジーにいくのは簡単なんですよって。


政夫:簡単です。いつでもできます。


ろこ:そうじゃないですよねって。ラジオに出るってのは。


政夫:昔話って楽しいですかってことなんですよね(笑)誰でもできるじゃんみたいな(笑)


ろこ:面白くなくないけど、発展性はないというかね。閉じこもっている感はありますよね。俺がよくやるのはコンテンツを観て、面白かったなという確認作業をしてオススメするスタンスなんだよね。

さっきの(『ボヘミアン・ラプソディ』感想)批評の話ではないけど、コンテクストが無いから、人に喋れないし、クリエイトできないというか。時代に合わせて生きているなって。


政夫:それは時代の嗅覚があるはずだから。おおたまラジオという媒体を活かしたリアルタイムだからこそ消費できるモノやコトはありますよね。
共通的には、おおたまラジオですよね。まだ5回目ですけど、残念ながら今日が最終回ですけど…


ろこ:マジ?


政夫:嘘です(笑)


ろこ:(笑)


政夫:来年も、おおたまラジオをやっていくのは宿題ですよね。


ろこ:俺はやりたい。


政夫:やりますよ。毎日更新ですよ(笑)


ろこ:365日(笑)毎日この時間に更新するみたいな。


政夫:毎日やらないとYoutuberの自覚としてね。


ろこ:ヒカキンに追い付けないと(笑)


政夫:でも、Youtuberイジリしていますけど、Youtuberを揶揄する風潮って一周回ってダサい感じありますよ(笑)
こんだけ好き・嫌い含めて社会的に認知されているのだから立派ですよ。最初は色物的だったですし、子どものなりたい職業ランキングにYoutuberがあって非難轟々とかしていたけど、このYoutubeというハコの中でもコンテンツが飽和している状況でも、どれだけクリエイティビティを発揮できるかの競争ですからね。熾烈な。弱肉強食感は凄くてシステマチックで。そこで磨かれたタレント性って十分立派じゃない?って。


ろこ:ちょっと違うかもしれないけど、これ面白いから観てと言われてYoutubeの動画を観るやんか。なんか、「あー…」みたいな初期の感じじゃなくなったのは分かる。俺もちゃんと楽しんでいる人がいるのだから、俺も楽しもうと感じはする。ただ面白さはあまり分からない。


政夫:それはまた別の話なんでね。一つのステージとしては、おおたまラジオをどう展開していくかになっていきますよね。僕も2019年の一つのテーマですから。


ろこ:デカくない(笑)


政夫:生活掛かっているから(笑)


ろこ:こいつ、金取る気や。


政夫:冗談ですけど(笑)来年も充実させたいなってのは誰しもが思うわけじゃないですか。そのためには(ビジョンを)予め決めとかないといけない。ぼんやりしたまま頑張るのは意味ないから。やはり具体性が無いと動けないし、抽象的でも動ける人は動けるけど、おおたまラジオのコンセプトの部分は、よく打ち合わせや反省会の時に話しているけど、未だにどういう形を作っていくかは見えてしないし。


ろこ:聴き直すと政夫君で行くのかなって。


政夫:放送に乗っている状態でね、楽屋話的なのをやっているのはちょっとヤバいんですよ。気付きませんでしたか?俺たち自意識ボーイズとして(笑)


ろこ:ヤバい(笑)こういうことじゃないよね、反省会は。


政夫:楽屋話を見せるのはちょっと古いテレビ的なものですよ。でも、Youtubeもテレビ的ですけどね。消費のされ方自体は。
おおたまラジオがどういうものなのかと形作りたいし、具体的なロールモデルを模索中なので。なるべく早い内に見付けて盗めるところは盗んで。


ろこ:政夫君はそこ折れないでしょ。


政夫:(笑)


ろこ:そんな気がするけど。ラジオってさ、色んな道があるじゃん。


政夫:「RADIO GAGA」ですか。ここ、ろこさんの編集によって曲が流れる仕様になっています(笑)今、編集点打っているんですから。

冗談は置いといて、色んなラジオはありますね。


ろこ:俺らは駄弁っているというか。政夫君はテーマを持って喋るじゃんか。聴いている人に観方を提示しているのか、ブログみたいな結論を提示したいのかとか。


政夫:過程を含めたブログの語り口の延長であるのは自覚していますね。やっぱり、来年はもっとまともなやつを書いてみたいなって。


ろこ:今でもまともでしょ。最近、何書いた?


政夫:IPPONグランプリのくっきーに纏わる話と水曜日のダウンタウンモンスターハウスの話…。


ろこ:まともじゃないな(笑)


政夫:内容は、最後『SSSS.GRIDMAN』に繋げて「モンスターハウス」と絡めているのは僕しかいないと思う(笑)


ろこ:まともじゃない(笑)


政夫:そもそも『ボヘミアン・ラプソディ』に『SSSS.GRIDMAN』を合わせて喋っているのは僕しかいないと思いますよ(笑)多分、この段階では。


ろこ:想像力の話。


政夫:具体的なリンク性の話ではなくて、アプローチの話だから。


ろこ:時代性と社会の再定義のような気がする。俺もされているけど。


政夫:どうやって、おおたまラジオを具体化させていくには、人というか元々作るキッカケが、語る場を作りたいのがモチベーションにあって。


ろこ:フットサルだよね。面白いことやものを喋っている俺らが、(聴いている人が)フットサルを観るまでに行きたいとか。


政夫:それは僕らのタレント性を相当傲慢的に聞こえてしまうんですけど(笑)一部としてはそうかもしれないけど、僕が言いたかったのは楽しいこと全般を語るラジオだから、並列的に可能性を提示してみたいと。優劣や階層ではなく、並列的に面白さを提示したいのがあって。

まだ5回目ですが、色々とコンテンツの話を盛り込んだりとかしていて、僕なんかはオタクじゃないのに無理矢理『青ブタ』をろこさんに見せられて喋らされている状態でしたけど。


ろこ:逆や(笑)


政夫:逆じゃない(笑)


ろこ:ツッコミ間違えた(笑)


政夫:逆じゃないし、『青ブタ』はろこさんから来たし。


ろこ:さっき、圧倒的成長とか言っていたやろ。


政夫:それはそうなんですけど、『青ブタ』が僕の圧倒的成長に加味した事実はないんですけどね、別に。


ろこ:正しい訂正はいいわ。


政夫:語る場というか、場を作りたい、誰か人を呼んでみたいという意欲はあるんですけど…場を作ることでみんなで頑張っていこうよ!だけでは限界があると思うんですよ。頭打ち感というか。


ろこ:ありますよ。


政夫:その集団の内部の中で、限界突破できる人とできない人に線が引かれちゃうんですよ。線が引かれた内々部の中で、その場で、価値観の共有になってしまう結末は嫌だなってのがあって。僕が恐れているのは、ろこさんの相談とかをカウンセリングして再定義していくことで、ろこさんが僕のイエスマンになっちゃったら超つまらないなって思うんですよ。


ろこ:その節はあるぞ。熱心なリスナーさんも気付いているぞ(笑)


政夫:恐れている事態で。本来なら『ボヘミアン・ラプソディ』の部分で『GRIDMAN』の話どうでもいいじゃんって言わないとダメなんですよ、ろこさんが(笑)


ろこ:(笑)


政夫:イエスマンになってしまったら、つまんないんだろうなってのがあって。


ろこ:はみ出ないよね。


政夫:予定調和で終わっちゃうから。それって僕にとって優しい世界なんですよね。僕が気持ち良くなるだけの場でしかなくて、その快楽というのは当事者だから気持ちいいのだろうけど、虚無的でもあるというか。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』はそれを描いていますけど、そういう世界になったら嫌だなって。


ろこ:それはめっちゃあるし、ラジオを始めて好きなことを喋ります・知らない事を聴きますというスタンスの中で、二人の世界の中で俺は確かにめっちゃ享受しているから、その感覚は分かるのよね。そこをもうちょっと他の世界に接続して持っていきたいのはあるんだよね。
政夫君って、なんかアレやん。


政夫:おー。disか?来いよ。かかってこいよ(笑)


ろこ:『ボヘミアン』もそんな感じしたけど、観る前から決めちゃっている節があるやん。想像力が溢れすぎて、自意識とか…


政夫:流行語大賞か(笑)


ろこ:(笑)削ぎ落としちゃっている部分はあると思う。俺が引っ掛かっているところを飛ばしちゃっていて、俺は自意識を拗らせてしまっているけど、フラットだから、普通だから、リスナー視点にもなれるというわけじゃないですか。


政夫:はい。


ろこ:たまに政夫君が暴走し過ぎていて行っている部分が…解像度を上げるというかね、リスナーに寄り添うことだよね。


政夫:あー。


ろこ:そういう方向性もあるじゃないですか。


政夫:「伝える」と「伝わる」は別物という話ですね。はい。


ろこ:聴いて欲しいじゃん。


政夫:もっと分かり易く喋ろって言いたいんですか。


ろこ:分かり易くというか…


政夫:もっと本編が長くなりますよ(笑)


ろこ:俺の「分かり易く」も的外れかもしれんけど。


政夫:「分かり易さ」はかなりテーマですね。


ろこ:ラジオに出てみて分かった。課題として。欲求として。距離感とかも含めて。


政夫:分かり易さか…


ろこ:ラジオやっていて、自分のメモリーがあるやんか。その時に引き出したいことが分かってきたというか、考える作業とそれを引き出すまでの時間があるんだよね。別個になるというかね。


政夫:端的にいえばラグが生じているということですよね。僕がかなり結論めいた風に喋っていて、ろこさんは過程を楽しんでいるところなのに、終わりが挿し込んでくるから、消化するろこさんのスピードと僕が喋るスピードのラグじゃないですか。

つまり、僕が自覚しているブログの延長線の語り口そのものが、さっきろこさんが指摘した部分の根底にあるんですよね。寄り添い方とか。


ろこ:俺が一番楽しんでいるけどな、この感覚を。


政夫:要するに社会性を身に付けてくれ、ということですよね(笑)


ろこ:(笑)


政夫:本当に頭いい人はレベルの上げ下げが自由だけど。


ろこ:調節ね。


政夫:超バカにも説明できるんですよね、超頭いい人は。僕は基本的にバカだから固まっちゃっているのは否めないですよね。中途半端に。ある種、コンテクストを保険にして回避していると受け取られかねないですよね。コンテクストを、「文脈」の文脈を使って…本当に否めない。


ろこ:その一個の文脈が分からなかったら、俺みたいに付いていけないんですよ。


政夫:その辺が…おおたまラジオをいつも熱心に聴いてくれている方々、いつもありがとうございます。手紙ありがとう。


ろこ:おらんて(笑)毎回絶対言うけど(笑)


政夫:(笑)過去のおおたまラジオにあるんですけど、僕があらすじとかに興味なくて前提を省略できる方が楽だから…はまんまそれで、かなり文脈に寄り掛かった語り方をしているのは事実ですね。結果的に「分かり易さ」から距離を置いてしまっているというか。

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政夫:ろこさんが凄いなと思うのは、僕が観ていなくてろこさんが観た映画を、メールとか通話とかで何々観たんだけどって紹介するじゃないですか。あの辺のスタンスって凄いなって。摂取して咀嚼して他人にプレゼンするって、違う回路のエネルギー使ってないと難しくないですか。分かるんですよ。良いものを観たら誰かに勧めたくなる感覚や感情は凄い分かるんですけど。それを毎回の頻度でやっているから…


ろこ:摂取に重きを置いて、忘れる人間だから。


政夫:自分が観ていて他人が観ていない映画のプレゼンは、違うエネルギーだからあまりビジョンが浮かばないんですよね。勧め慣れていないという話なんでしょうけど、それよりも前提として誰々と共有している約束の下、誰かと話すのが僕の中では楽かなって。前提を省略できるんで。

 


ろこ:難しいものを消費、批評とかの話もしたけど、俺はそっちの方が好奇心が湧くから楽しいんだよね。


政夫:それはおおたまラジオの初期の構想段階でも、今のポッドキャストYoutubeの動画時間は10分単位で短めなのに、僕らは大体1時間オーバーあるいは2時間くらいがスタンダードになっている。逆行していますよね。2時間という尺に対しての情報の密度がどれだけ担保されているかは別問題なんですけど、最初に述べたように、僕らは逆行にしたじゃないですか(笑)


ろこ:俺ら逆行にいくで、みたいな(笑)


政夫:おおたまラジオは、ロックンロールですよ。


ろこ:魂揺さぶるぜ。でも、凄い可能性はあると思う。大きな枠の中にいると思う。


政夫:もうちょっと、おおたまラジオを頑張りたいですよね。告知とか。


ろこ:習慣化されていないよね。


政夫:ブログに直近で書いたのが「モンスターハウス」の記事だったと言ったじゃないですか。本当はラジオの告知記事を書いていたんですよ。その告知の余談として、IPPONグランプリモンスターハウスの話を書いていたら、長くなっちゃって、あれ告知無しでも一つの記事として成立しちゃうなって…で、告知部分を削除して(笑)


ろこ:削除したんかい。


政夫:記事のエッセンスとしては、告知よりもモンスターハウスの方が勝っちゃっているから。


ろこ:エッセンス(笑)デザイナーか。


政夫:デザイナーなんですか俺(笑)


ろこ:ブログでパンパンと出来るじゃん。載せたら良かったじゃないか。


政夫:あんな辺鄙なブログにも、彷徨って辿り着く人もいるから、読んだ人の実感は分からないけど、ある程度の情報の重さは意識して書いているつもりはあるので…おおたまラジオもそうなんですよね。これを、このままやって幸せになるかどうかは違う話なんでしょうけど。


ろこ:幸せになりたいけど。


政夫:このままいくと、長時間、僕の説教を聞くろこさんが僕好みにアップデートされて価値観の共有するだけになるのは本当に恐ろしい事態だから。


ろこ:あー。


政夫:なんか頑張ってください(笑)


ろこ:(笑)


政夫:僕も頑張りますけど。本当さっき、ろこさんに言われたことは否定しきれない事実で、一部分は自覚していたのもあって、どうにか変えないといけないんだろうなってある一方で、ろこさんがふと零したリスナー目線にもなれるんだよ発言は、僕は文脈上は良い風に捉えられるんですけど、ただその文脈を外してみれば、僕の説教臭さを聴いている信者1号みたいな(笑)


ろこ:確かに(笑)


政夫:それは本当に危険だから。そういうのをやるためにおおたまラジオをやっているわけじゃないから。


ろこ:それは分かるんだけど、だからロールモデルが欲しいよね。基準というかね。現状維持で満足している人間だから…。


政夫:おおたまラジオの現状を整理すると、ストーリーですよね。一コンテンツとしておおたまラジオをみると、2時間くらいのものを聞く理由がない。よっぽど僕とかろこさんのファンじゃないと。2時間の価値をどう上げていくか。単に内容の密度を上げていけばいいだけじゃなくて、それだったら届かないし、まあ届く人には届くんだろうけど、それがブログの語り口でもあるから、その延長でラジオもやっていると自白もしましたし、そこの努力はしないといけない。変えていかないといけない中で、内容がお粗末だったら本末転倒だから、質量ともにおおたまラジオをコンテンツとして充実させていくか。もっと頑張らないといけないという話で。


ろこ:そこは楽しみでもあるよね。来年の課題として。


政夫:広げていく努力と深さを出していく努力をやっていかないと。現状ただ喋っているだけ…でも現状これが幸せなのかもしれないけど、価値観の共有だけや信者化してしまうリスクがあるわけで。
ろこさんのサッカーのノスタルジーの話、寿命論ですよね。ノスタルジー的なもの、現状維持、保留という態度の自分に自信が無く、揺らいでしまっているろこさんがいて、それでもいいのにどこか区切りを着けたがっているろこさんがいるわけじゃないですか。それに対して、僕が以前、ろこさんは死に場所を求めていると言ったじゃないですか。


ろこ:言われましたね(笑)


政夫:それをとある人に相談したところ、そしたら彼は、そういう態度が許容できないであれば、他の道に行くのもアリだよねって。


ろこ:はいはい。


政夫:他の道とは?と訊いたら、ラジオを頑張ればいいんじゃないって言ってましたよ。


ろこ:もっと向き合えということか。


政夫:向き合わざるを得ないですよ。こんな楽屋話を配信しているしまっているわけですよ。公開反省会ですよ。おおたまラジオをやるということは、自分の「今」と向き合うことになるんですよ。自然と動くんじゃないですかね。それを模索していく、俺たち自意識ボーイズの自分探しの話ですよね。


ろこ:強度つよいよね、やっぱ。


政夫:実質『ボヘミアン・ラプソディ』なんでね、おおたまラジオが(笑)


ろこ:ボヘミアンでもあり、銀杏。


政夫:んー。んー(笑)

 

 ※この記事は12月に配信したものの一部を文字起こししたものです

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