おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

ヤマシタトモコ『違国日記』2巻感想 記号化された対比への祈り

 

違国日記 2 (フィールコミックスFCswing)

違国日記 2 (フィールコミックスFCswing)

 

 

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2巻は「対比」が多く用いられている。

詳しくは以下で記していくが、本稿は上記の1巻感想記事からそのまま引き受けた上で出発しているのでご注意を。

朝が両親の死から初めて「自宅」に帰り、家財を整理するシーンから始まる。

槙生は「人がいないと家って空気が動かないせいかこもるからね」と言い、あの日から誰も帰ってこなかった家の空気の停滞感を口にした。現実として眼前に誰もいなくなってしまったことで「むわっとする空気」を作り出してしまった非日常性と家という日常的な空間の空洞化の対比がある。

無造作に投げ出された風景を見て、居なくなった人々の喪失を描く。風景に感情を投射する技法はハードボイルド小説で多く見受けられるものであるが、意味が空洞化してしまった風景が目の前に無機質に広がるシーンから、朝が当事者であるが、その彼女ではなく、槙生を中心に物語は動く。

それは槙生の心理的整理という通過儀礼を示唆するような構成である。物を整理していく内に拒絶していた姉のイメージとのギャップが生じていく。思い出に固執するかのように制服を捨てず、また麻の服を買っていたりと槙生の知らなかった姉の存在を追認していく作業が淡々と繰り広げられる。

姉という立場から強権を振りかざすことを躊躇しなかった彼女に対して、槙生は踏み躙られた過去があり、それが同調圧力的「普通コンプレックス」となっている。

来るはずだった「来週」

取り込まれるはずだった小さいタオル

クリーニングで出すはずだったストライプのシャツ

水をもらえるはずだった植木たち

期限どおり返されるはずだった図書館の本

誰にも見られるわけなんかなかった使いかけのコンドームと

レンズがぼんやり汚れた たぶん家用のメガネ

世界から忽然と存在が消える

 前項までに槙生の視点から「来週が来なかった存在性の現実」と過去に取り残された風景が局所的に用いられ、上記のモノローグは白く淡々と、心の行間を埋めるかのように描かれている。

「世界から忽然と存在が消える」のシーンでは、ページに明暗のコントラストが入り、まるで存在性のONとOFFのような意味に取れる。それはイマというリアル=ONな槙生たちが、既に「来週」を迎えることなく過去として通過してしまっている=OFFな存在性が浮かび上がる風景に没入させるからであるだろう。

存在の有無が突然的に決定されてしまうことへの不条理に対して、そんな非日常性が日常性に取り込まれるまでの「そこに居た」残り香を槙生たちが掬い取る作業が物理的心理的整理となり、無機質に停滞した場の空気は。リアルな存在性によって動かされていく。

冷蔵庫の整理のシーンでは、槙生とは対照的な整理が行き届いていることが分かる。自家製ピクルスを保存している瓶を見付けては槙生の母が作っていたことを思い出し、姉も倣っていた事実のように、制服の件と一緒で思い出に執着する印象を与える。

朝は母のことを現在形で語る。それは突然の死を、喪失感を受け止めきれていない現実への希薄さを意味する一方で、槙生との対比にも繋がっていく。

槙生は過去分詞の例を出し、現在完了進行形のニュアンスを明確に伝える。

過去のわたしから 今 少し未来のわたしへ 繋がる

 続いている

それを強引に断ち切る必要はない

 現在完了進行形としてイマにも続いている朝と過去完了形で語る槙生。

朝にとっては現実というイマ・ココの整理であり、槙生にとっては過去の整理の最中であることを意味する。これは居なくなった・消えてしまった後のイマの整理をせざるを得ない状況について、朝にとってはイマであり、日常だったものである現在完了進行形で捉えることができる一方で、槙生には過去完了形で断ち切ったはずの過去が、イマとして覆うことで姉の知らない一面を知る行為となっているのが印象的だ。

また「強引に断ち切る必要はない」と言った槙生のコマでは、上段では指先を描かないカットから、下段では指先のみを描くカットへと繋げることで対照性にクローズアップしている(背景にコントラストが入っているのも同様)。つまり強引に断ち切った側としての槙生の実感であり、過去完了形の所以であることが示されているが、これは過干渉からの距離を指し、他者との距離そのものだろう。過干渉自体は姉の象徴であり、ラベリングされた側の槙生の息苦しさの一つだったと推察できるが、朝とは「家族」でもない他人同士でしかない。固有の感情は大切に配慮されるべきであり、踏み躙られるべきものではないというのは1巻のセリフの意味するところだが、それは姉への反動であり反面教師とも取れる。

もちろん、それは厳密には描かれていない。槙生の回想でしか姉は登場しないし、槙生の中での姉像は確立してしまった後のイメージのまま断絶が生じているからだ。

しかし、その事実が、朝という少女と共にいることを選択した槙生にとっては「呪い」のような存在性が槙生の背後で確実に立ち上がるものとなっているのは皮肉ではないだろうか。

ゴミ出しのシーンでは、日常的風景をかつて眺めていた人間の存在性の不在を痛感させることに成功している。風景に意味を与えるのではなく、ここでは風景を見ていた存在に意味を与えているからだ。この風景への意味の捉え方は冒頭とは違う。しかし、それでも風景や日常は広がっている。

過去完了形といっても完全に完了していなかった槙生を中心に据え、まだ夢心地のように平然と寝ている(寝るしかない)朝との現実感の濃度としての対比がある。物語として先に槙生の「呪い」に触れることで、朝がこれから抱えざるを得ない時限爆弾へのリミットが起動するようにしたことも見逃せない。朝を中心に据えてしまうと「親子」と向き合わないといけない。それはイマの槙生との関係性への名前が付けられない曖昧な関係性だからこそ担保されている手触りが、物語の展開としてより立体的に生々しくなってしまうことが避けられずに、この早いタイミングでその爆弾を押すものではないだろう。そもそも『違国日記』は、あらゆる磁場から離れたような居場所の心地よさを名前が無い関係性で記していく物語だと考えているので、現在完了進行形である朝ではなく、もう一人の主人公である過去完了形の槙生の視点から、どのように姉(共通の「他者」に対しての自己イメージとのギャップ)と向き合っていくのかという展開をしていくならば、「朝と母―槙生と姉」という「家族」における二層構造から後者のラインを動かすことで、前者のラインを保存したまま、つまり朝の非日常から日常への回復の困難さについて、槙生の視点のまま非日常的な断片を掬い上げることが出来る。この目線はイマ広がっているリアルと失われたリアルの同居を導くものだろう。

間違いなく風景が心的に意味を与えている。

 

卒業式に向かう朝。制服を誤って捨てたかもしれないとバタバタする傍らで、槙生は「家族だと思わず相手を責める言葉が口をついて出るものだったな」と独白するが、この二人の関係性は前述のように家族以外の名前であり、そもそも固有名詞を付けられないものだ。関係性として名前がない。しかし、抽象的であるかというとではない。名前の付けられない関係性として個別的で具体的であり、それ故に生じる温度がある。『違国日記』はその手触りを記述していくはずだから。

制服という記号は制服を身に纏うことでインスタントに獲得できる。それは記号性に没入させるものであり、日常への一時の回帰にもなる。

しかし、友達のえみりの親伝手から、先生やクラスメイトに朝の件が知れ渡ってしまっていた。朝の預かり知らぬところで勝手にラベリングされてしまう恐怖と不条理。可哀想な子として大衆的にパッケージ化されることは「普通」への距離そのままだろう。勝手な大人たちの都合によって日常性への回帰が切断され、もう後戻りできない朝。

みんなもうあたしのことを あたしじゃなくて

「親が死んだ子」ってしか思わない!!

ふつうで卒業式に出たかったのに!!

人には「普通」という記号が拠り所になることがある。その記号の持つ「呪い」は槙生を傷付けてきたものであり、朝はイマそれを望んでいる。自意識として、外装として記号を望むことで「普通」のパッケージ化がなされることへの朝の主体性に対して、いざ知らずにラベリングされて他者に勝手に立ち入られる権利などはなく、固有の感情は自分自身ものであるという槙生の言葉が朝の回想として復唱されるコマ割り。「普通」の記号を求めていたが、それが適わなかった際に与えられた言葉が心の支えになるようにシフトしている。

このシーンでは、いわゆる「大人」と槙生との対比になっている。先生や親といった大人だからこその言葉と槙生だからこその言葉は「違う国」だ。公的な言葉と私的な言葉の違いは、それぞれの立場を示すものであるが、他者としての朝に対して投げかけるべき言葉の責任はまたそれぞれ違うのも当然だろう。 ここで出てきた「大人」と槙生との対比によって生じる「大人」という概念はこの2巻の重要なモチーフの一つであり、それは後述する。

怒り絶望した朝が本能的に帰った家は、前まで家族で住んでいた家だった。足元を見つめるカットは、1巻の「砂漠」で「ぽつーん」と立ちすくんでいる朝のシーンを彷彿とさせる。どちらも共通しているのは足場の不確かさに起因していることだろう。

朝にとって思わず逃げ込みたい場所として、それは槙生の家ではない。帰り道が思い出せないことは、どこに行けばいいのか分からない不安定さであり、自分の帰るべき「家」=日常との切断が表れている。それは「普通」ではない。ラベリングされて他者に理不尽に踏み込まれたことを自覚的に追認する結果となった。「普通」という記号に惹かれている自分が、制服という記号を纏っていても「砂漠」に放り出されてしまうような感覚は朝の思う「普通」ではないからだ。記号が剥奪されて、新たなる記号に取り込まれる。レッテルを貼られる。その記号を認識しているリアルの複雑さは、朝が幻想を抱いている「大人らしさ」にも通じていくものだ。

その間にも、えみりからLINEのテキストメッセージが届く。その場に相手が居なくてもメッセージが届くツールは、地理的距離をゼロにしているが、心理的距離は別であることを指しているし、これは後の手紙との対比になっている。

わたしだって仕事したいよ めんどくさいな

めんっ…なにっ…なにそれ!?

お…おかあさんはそんなの絶対言わなかったっ

 不貞腐れて帰ってきた朝の態度を面倒臭いと一蹴する槙生。朝のこのセリフにあるように母的な面影について、母的な役割・立場を受け持つであろうと期待されている槙生*1への何気ない一言であるが、朝の母=槙生の姉と槙生について求められていくナイーヴな対比がここにある。

しかし、それは槙生の役割なのだろうか。気遣う責任はあるにしても。*2

ここで卒業式を抜け出してきたことと友達とケンカしていることを打ち明ける朝。「形式的」な卒業式に対して、「実質的」な友達の存在性は比較できない、と槙生は友達の重要性を説く。彼女の友達でもある醍醐と居る時の槙生と朝と一緒に居る時の槙生の態度の崩れ方は大きく異なる。この変化には朝も気付いており、槙生とは「友達」ではないからだと受け止めると同時に、「血」というつながりのある絶対的な家族でもないからこそのデリケートな安定と不確かさを内包としたイマ・ココは、この後に物語の展開として訪れるであろう個別的で具体的な関係性に対して、記号性が漂着する問題への布石になっているのかもしれない。

…他ではかえがきかない

 槙生の言葉を聞く朝の横顔のまま、槙生の顔は描かずにクローズアップしている。友達の掛け替えのなさを槙生と醍醐が一緒に居る記憶を回想しながら聞く朝。

「かえがきかない」ことにスポットを当てるための演出であり、「普通」との対比にもなるであろう「特別」な関係性を指す。家族とは違う友達の存在の固有性という回路はあるべきだろう。

 

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

 

 先ほど記したようにLINEと手紙が対比になっている。言葉が心の支えになるように、それはテキストでも同様だ。LINEはコミュニケーションが届く距離をゼロにし、また簡易的なログ化も果たしている。手紙は書いてから相手に届くまでに時間と距離があるが、物質的なログとして存在し続ける。どちらが優れているかという話ではない。心の深度にどれだけ関わったのか。誠実な言葉があったのか。LINEや手紙はそれを伝えるための手段でしかないのは共通している。

学生の頃に槙生は醍醐から手紙を貰った。それはとても何気ない様に装っていた。このシーンでは手紙として残っていたことに、また残されていたことに価値がある。厳密には物理的に手紙が残っていなくとも、心までに言葉が届いた事実が残っていることに意味があるだろう。

「6年間 きみがいなかったら 私は息ができなかった」

 …槙生ちゃんは どう思ったの その手紙を読んで

「生きていていいんだ」と思ったよ 大げさじゃなくね

 他者の承認による存在理由になったと槙生は言う。同様に醍醐にとっても息をする場所であったように、互いの存在性という磁場が発生することでの心地よさの肯定だろう。それは必ずしも「イエ」ではなくてもいい。頼れる/頼りたくなる居場所があるということは、自分を受容するために快く息ができるように酸素で満たしてくれるものだから。それが友達の存在性の「かけがえのなさ」となる。

かつて、えみりが朝に零していた「なんか朝といるときだけほんとのあたしっぽい」という言葉は、空気の支配によるキャラ化・分人化コミュニケーションの弊害だろう。「本当の自分」を想像して、イマの自分を否定するロジックは想像上の先にある「本当らしさ」や「もっともらしさ」を強固にする。

内田樹が「ペルソナ」について人間関係の中で、過剰に他者を傷付けない、過剰に傷つけられない防衛システムであると述べている。

 

呪いの時代

呪いの時代

 

 ペルソナは「双方向の暴力をコントロールするための装置」であるとしているが、えみりの言う「ほんとのあたしっぽさ」はペルソナなどの過剰なキャラ化とは別として存在し、それらを内包しつつもコントロールされているから滅多に露わにすることができない息苦しさを示していると考えられる。えみりの言う「朝といるときだけ」が、醍醐が槙生に手紙に認めた「息ができなかった」という言葉と同じように、空気の支配が双方向の暴力性を孕む結晶であり、そこから脱け出すための、息をするための居場所が無いと心身は疲弊していく。どちらも友達の存在にどれだけ救われているのかを意味するものであり、感謝の言葉に他ならない。

 

笠町と対面をする朝。

「大人」に映る笠町に対して、朝は無邪気に分からない事をズケズケと踏み込んでいく。朝にとって一番「大人っぽい」のが笠町だと述べられており、この話では先ほど置いていた「大人らしさ」を中心に据えている。

「大人」にも分からないものがあると不思議に思う朝。彼女にとっての「大人」というのは母が代表格であったために、ある種の幻想を「大人」に抱いている。

「大人」とは一貫性があり、理路整然とし、ロジカルだと思っている。しかし「大人」=強いわけではない。「大人」だってフツーに繊細で傷付くからだ。それは槙生の様子からも見受けられる。

笠町のいうように「大人」は「大人」をしていることもあるし、突然「大人」になるわけでもない。これは「普通」や「もっともらしさ」という記号が抜け落ち、コンプレックスを抱えたまま「大人」になった側の告白でもあると同時に「大人」幻想を更新するための「大人」の存在である。

内田樹『呪いの時代』では「大人になることはだんだん人間が複雑になる」と記されている。表情や感情も複雑になり、様々な人格が混在していくのが「大人」の実状であると。

ある意味、ロジカルだった朝の母に対して、槙生ら「大人っぽくない大人」の複雑は朝にとっての新しい刺激になっていくだろう。この「大人らしさ」や大人幻想は朝が抱えているものではない。立派に「大人やれているのか」と不安になる「大人」の側も抱いくものだ。それは彼女らが「普通」の記号に対してコンプレックスがあるからだろう。「大人」に成りそこないの記号が付与されているのではないかという不安と痛み。「大人」という責任の重さに耐えるための成熟がある程度は果たされているかどうか。この複雑さは朝の視点ではなく、槙生たちの視点でpage10にて触れられている。

かつて笠町の母が弁当日記を書いていたという話になる。

朝も槙生から言われた後に日記を書いており、その様子は自由奔放。『違国日記』は自由と局所を往来することで、多様性が担保されるべき物語であるはずだ。日記という生活の記録を残すことによって書き手と記述された人間が浮かび上がり、それぞれの「違う国」を記すことができる。それは「生」の象徴だろう。書く自由があると同様に書かない自由もある。

弁当、食事というのは自分を形成してきたものの記憶となる。『違国日記』では食事のシーンを大事にしている。それは日常の断片であり、クローズアップすべき強固な「生」の瞬間でもある。ここで生きているという証。何を食べていたかは思い出せない弁当のまるでアンチテーゼのように食事のログがあり、確かなイマ・ココの手触りの一部分として描かれていると思う。それは「砂漠」に対する「灯台」の一要素にもなるだろうし、「灯台」が照らす自分の足跡なのだから。

おれを育てる ってことと

愛情とはすごく別のところにあった気がするんだよな

彼女は自分が「完璧だ」と思うものをおれに与えていれば

おれが彼女の望む「完璧な」息子になると 多分どっかで思ってた

 育てることと愛情の乖離。

これは笠町親子の話であるが、愛せなければ育ててはいけない/愛せなくても育てられるという視点は槙生と朝の関係性に肉薄している。形式的と実質的の対比にもなっているだろうか。

親の望む子と、親の期待に応えられるかどうかの子の想いは別。子は親の願望充足ではなければ、自分の人生のリベンジを図るための存在でもない。育てる≠愛するは別としてあるからこそ、コミットができる親のエクスキューズにもなる。親から子へ、子から親へ、この符合は必ずしも一致しない。それが普通ではないか。恰も一致するかのような幻想は圧力を生み出すが、「普通」から外れた子たちを踏み躙っていいロジックにはならない。

これは槙生の姉に対する拒絶に繋がっていく。

朝の前では小説家であることを肯定していた姉の像が露わになる。「槙生ちゃん」呼びは母譲りであったことが判明したシーン。

しかし、過去に彼女は槙生が小説に傾倒することを否定していた。

「恥ずかしくないの 妄想に世界にひたってて」

「小説だか何だか知らないけどもう少し現実に向き合えば?」

 

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辻村深月スロウハイツの神様』には本ブログ・ラジオで命名した「拝島問題」がある。これは「若いから物語に傾倒ができるのか」という問題設定であり、さらに広げれば「虚構に耽溺することは未熟の象徴であり、現実と向き合いきれていない所作に他ならない」というメッセージにも通じる。

このテーマ自体は『違国日記』ではどのように折り合いを付けるのかは分からない。2巻ではこの部分しか登場していないからだ。姉へのコンプレックスを肥大化させたかのような象徴的なシーンとして描かれ、それは槙生がフィクションに傾倒することで拠り所としていたであろう足場を根底から崩す現実的な言葉でもあったはずだから。小説家になった槙生がどのような答えを持っているのかは注視していきたいが、この問題設定自体は別段と新しいものではない。

スロウハイツの神様』はなぜ物語が必要なのかを問い詰めた作品であるし、相沢呼呼の『小説の神様』や門井慶喜『小説あります』などは「なぜ小説は読まれるのか」「なぜ小説でなければならないのか」を描いている。

『小説あります』は徹頭徹尾読者目線の主人公が充てられ、『小説の神様』などは読者から派生した書き手の意識を経由して再帰的に読者目線を導く違いがある。『小説あります』は「日常の謎」の系譜ながらも、架空の作家の人生を通して、机上のままリアリティを温存しつつ繰り広げられる作家論と小説研究などからメタフィクショナルとして物語ることのフレームの意味を、架空の設定をフルに活用してみせることで(それこそが醍醐味であるため)、読者目線の主人公の知的好奇心と活発な議論によって「なぜ小説を読むのか、つまりなぜ小説であるのか」に執着するところにリーチしている貪欲な姿勢が印象的だろう。
小説の神様』などは書き手の自意識から読者を結ぶまでの「物語への希求と祈り」の物語になっているので、『小説あります』のように「なぜ小説でなければならないのか」といった(物語至上主義的ではない)形式至上主義の読者の自意識を設定したかのような違いがあるのは付け加えておく。

槙生の持つ解が明らかにされる日は来るのだろうか。

ちなみに北村薫は、なぜ小説が読まれるかについて「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」と記している。

 

小説の神様 (講談社タイガ)

小説の神様 (講談社タイガ)

 

 

 

小説あります (光文社文庫)

小説あります (光文社文庫)

 

 朝は無邪気になぜ母を嫌っているのか、槙生に訊いてしまう。

もちろん回答を拒絶されてしまうわけだが、その時の朝のモノローグを引用する。

群をはぐれた狼のような目

わたしは 彼女の群にはまだ入れてもらえないのだった

わたしの群も もはやないのに

 狼の比喩は1巻でも登場している。朝の天涯孤独の運命を退けた時の孤高な迫力を狼に例えた。

一方で朝は子犬と評されている。帯文でも、作中でも子犬のような純情さという比喩だ。

ここにも対比がある。どちらも群がいない狼と子犬の同居生活。狼は独りにも耐えられるが、子犬は群に入ることを求めている。同じ家に住んでいても、群に入れるかどうかは分からない。この不安定さが朝の現状になっている。

イノセントに振る舞うことが許容される・免罪符を持つ15歳の少女。狼がその無邪気さに振り回され、飼い慣らすとは違う方向の関係性で以て同居する設定の妙だろう。

 

page10では槙生を取り巻く友人たちとの宴席のシーンが中心。

意味するのは朝から離れることで、槙生の現状と感情を客観的に示す場所となっている。槙生と朝とでは零れない話が、責任が乗っかった言葉の重さから分かるように実感として語られている。当事者としての本音が建て前抜きで。

朝を養子として引き取る選択肢は責任の象徴となるから、槙生は現時点では考えていない様子。

…うーん なんか そこまでの責任 とゆーか

繋がりは…

…それ自体しんどい… 

 そもそも槙生にとって一定以上の「つながり」は負担でしかない。これは友達との会話でも明らかである。

「つながり」を必要以上に意味するものが「親子」=家族ではないだろうか。家族的繋がりは、姉との繋がりを過去完了形として強引に断ち切った槙生が、それを背負い込むことになるかもしれない運命の皮肉がある。

姉の子である朝を愛せないかもしれない予感は、姉を拒絶して愛せない想いとどうしても重なってしまう。槙生にとって姉の存在が、朝を通じて立ち上がってしまうからだ。姉は姉、朝は朝でもあるはずなのに。論理的ではない。感情における「つながり」の問題として槙生に付き纏っている。

この子はあの人の子なのかと思うと体がすくむ…

朝には関係ないところでの関係性による身体的な拒絶。 それは槙生も自覚しているからこそ、より「血」のつながりを強固にさせてしまっている。フェアに接しなければいけない論理と「血」に囚われて感情と身体が先行してしまう事実が並行的で、それはそれ、これはこれ、という対比構造であるにしても、姉への感情はフェアなものではないのは一貫しており、それを予め朝に宣言した槙生の最大の誠意でもあることは窺えるだろう。

槙生の影には姉へコンプレックスがあるように、朝の背後にもつながりとしての姉を見てしまう。朝とのつながりを強くすればするほどに、断ち切ったはずのつながりを再起させてしまうようなジレンマを孕んでいる。

なんかねー よく 大人になれたなあとって思わない?

だからーなんか それだけでだいぶ満点!!

 学生ノリを引き摺ったまま強い「大人」ではない彼女らが、大人幻想、大人コンプレックスという同調圧力は、そのままこれまでに上述してきた槙生の姉や「普通」の押し付けに重なる。それは記号性への希求であり、朝にも常識のように刷り込まれている。

しかし、笠町が言ったように突然「大人」になることはない。それぞれが抱える「大人らしさ」は幻想であり、いつか本当の自分が到達するかもしれない先を行く像に過ぎない。ここで彼女たちが言うように「大人」になれたと思う実感だけがリアルなのだから。大人幻想は共通的であるにしても、リアルな「大人」像はそれぞれ違う。採点基準は自分自身に委ねられている。これは「違国」的でもあるだろう。

例えば日記のようにそれぞれが書く自由がある様に書かない自由もある。言葉には責任が伴い、「大人している」時もあれば、そうではない時も許容される。それは「違国」的であるとし、自分が自分を規定するための手段であり、責任の取り方を示す。これを理解して実践することは十分に「大人」なのではないだろうか。

 結婚するまでさあ 自分が結婚に向いてないなんて思わなかったの

皆してるし 自分にもできると思い込んでいた

そしたら 違ったんだけどさ

 友人の一人である、もつが帰り道で零すシーン。

これは結婚のみならず、当たり前とされている価値基準に乗っかっている事象に対して、「普通」から抜け落ちてしまうことの日常性を意味している。皆がしているから自分もそうであろうという思い込みもまた幻想であるように、それぞれが違う痛みを抱え、それでも「大人している」までに成長した彼女たちの実感は、読者への処方箋になると思う。自分は「そうではない側」だとラベリングされても、息をする場所があるように。

本稿では、これまでに幾度となく「対比」のモチーフを抽出してきた。対比によって露わとなる多様性の温存が垣間見えたと考える。

「そうではない側」や記号から離れてしまったが、それでも特別な固有性に溢れる「もっともらしさ」は、一般的な「もっともらしさ」や「確かさ」とは違うベクトルで独立していることを示しているに違いない。それは「違国」の比喩であり、それぞれの価値観の尊重となっている。

だからこそ、この物語は紛れもなく優しいのである。

槙生の「呪い」は、朝への態度としてはフェアなものではないかもしれない。

しかし、その「呪い」を抱えている槙生だからこそのフェアな姿勢はあるだろう。*3

槙生にできる違う立場があると思うし

そしたらきっといいんだよ

愛せなくっても

 子犬のような朝は群を恋しく思っている。それを認識できない孤高の狼である槙生。必ずしも一致するわけではない。それも幻想だ。

しかし、このズレが出発点にあるからこそ公正かつ誠実に態度ができないわけではない。その立場だからこそできる思いやりは存在する。家族や友人とは違う関係性として。

古傷を子犬に噛まれても許せる日が来るのだろうかと槙生は書いた。それは一般的な「大人」という強い幻想ならばやり過ごせてしまうものかもしれない。

しかし、そこから離れているものでしか壊せないカウンターとしての「大人像」が槙生たちであり、その関係性との共生は他者を全て受け容れるということを意味するものでは決してない。朝という他者を受け容れていく過程には、必ず背後に存在する断ち切ったはずの姉とのつながりが立ち上がっていくことだろう。姉とのつながりに対して過去完了形の槙生と現在完了進行形の朝が共生していくということは、内田樹が『呪いの時代』で書いた「複雑な他者を構成する人格の一部分について自分自身の断片と同じだと認める」理解が求められていく。

群を求める朝と独りでいたい槙生。

ここまでで「群」と「姉=母」が丁寧に炙り出され、共生していくための断片的な対比的要素が散りばめられている。

私は、これから祈りに近い感覚で読んでいくことだろう。

*1:もちろん、それは大きな誤解であるが、この時点では「家族」における役割という意味において母なる存在の巨大さと、その母の妹である槙生の立場を混同してしまっている。母的な存在と槙生の存在は朝にとっては共通的ではないのだから。しかし、それを希求してしまうかのような切実さと己の意思とは関係なしに投げ出された現実の淡泊さが表現されている。

*2:後述する。補助線として内田樹『呪いの時代』があるので興味がでたら読んで!

*3:内田樹の『呪いの時代』において、内田的ノブレス・オブリージュへの言及がある。それは「万人はそれぞれ固有の仕方で「ノブレス」であるという解釈」であり、特異性・多様性・個別性を指す言葉として理解していると記されている。ここで明らかなように、社会的大人が取り持つ責任と槙生が抱える責任は必ずしも一致しなくてもいいといった固有性が担保されている可能性だ。それは責任の放置ではない。厳密に一致することはなくとも、それぞれの公正な立場と態度があり、それは個別的なものとして意味することに他ならない。

加藤千恵『ラジオラジオラジオ!』感想 肥大化した虚構としての東京と痛々しい自意識を巡る

 

ラジオラジオラジオ! (河出文庫)

ラジオラジオラジオ! (河出文庫)

 

地元のラジオ局で番組をもつ、高校3年生の華菜と智香。智香の声が好きでラジオに誘った華菜は、東京に行く日をひたすら夢見て、退屈な学校生活をやり過ごしている。リスナーを増やしたいとがんばる華菜だったが、ある日、収録中に突然、智香から番組を休みたいと告げられて…未来への夢がすれ違い始めた二人の友情を描く、せつなさ120%の青春小説。

 青春小説である。

半ば加藤千恵の自伝的小説として読めなくもなく、学生時代の実体験から着想があるようだが、あとがきで加藤千恵は自伝的側面を否定している。

この物語は決してラジオを職業とする「お仕事系」ではない。

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ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

 

 インターネットやラジオという媒体を通して、自己実現を図ろうと目論むロマンチシズムと圧倒的な現実の対立による軋みを味わう若者を描いている。

本編でテキスト化されているラジオの内容は、実に等身大の高校生であり、退屈極まりないのが印象だ。

加藤千恵は、そのラジオの退屈さに起因するものとして「何者かになろうとしている」若者のもがきを丁寧に描いているからこそ、本編のラジオはクソつまらないといけない。必然的退屈さが宿っている。

もちろん、それは何かを語っているだけで何者かになっているような自意識であり、本編で記されているように主人公の華菜の文化性は、テレビやオトナの友だちからの受け売りであることが分かる。つまり恰も何者かになったと錯覚させるメディアの力であり、何者かになる途中としての自意識のコントロールの難しさと痛々しい相克は青春模様ではないだろうか。

舞台は2001年の9.11直後の世界。

インターネットはホームページ時代であり、SNSや配信サービスはない。現代に比べてまだ配信することに対して敷居が幾ばくか高い。

そのため、地元のラジオ局から女子高生が放送しているという特権性がある種の自意識をコーティングする側面もあり、自分は他人よりもセンスが良いと思われたいという承認を求めている様は、主にSNSで可視化されているイマとなんら違いはない。

華菜たちが行っているラジオにメールは来なければ、華菜のホームページに具体的なリアクションが来るわけでもない。華菜は掲示板(恐らく2ちゃんねる)に自演をした過去があり(速攻で看破されているのも「らしさ」である)、メールもサクラをしようかと思っている。これは世間の反応に飢えていることを意味し、ラジオが始まる前は可能性が無限大だったにも関わらず、現実が降りてきたらラジオとして広がらない、頭打ちの後退戦をしているための反動だろう(まるでどこかのポッドキャストみたいダナー)。

 9.11後の最初のラジオで、台本にはテロの話をしようかしまいか悩んだかのように二十横線を引いた記述がある。

だけど、映像がドラマや映画みたいにしか思えず、話がつながっていかなかった。

少しは冷静になったはずの今でも同じことだ。何度となく見た、ビルに飛行機が突っ込んでいく映像の意味、いまだに理解できていない。この世界で起きていることの一パーセントも、わたしは拾えていないのかもしれない。

 あの映像がハリウッド映画みたいと意見は多く、宇野常寛は当時『パト2』を彷彿とさせ、虚構が現実に追い付かれたと語り、富野由悠季たちは思想がサブカルチャーに侵食された結果、行為自体もサブカルチャー的になったと述べたことがある。

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戦争と平和 (アニメージュ叢書)

戦争と平和 (アニメージュ叢書)

 

 虚構が現実を作る。メディアによって規定されてしまう。

昨今の聖地巡礼といったコンテンツ・ツーリズムは虚構によって現実の価値が上書きされたことを意味するし、ある種のインフラの結果として現実の風景が漂白化していく過程で、風景に対する歴史や文脈への形成に虚構が寄与することで風景への現実的価値観が拡大していっているのではないか。

詳しくは後述するが、本作の華菜が抱く東京ロマンと押井守の劇場版『機動警察パトレイバー』シリーズで語られた東京の風景に厳密なロマンチシズムの一致はないが、共通して虚構のビジュアルイメージを通して東京が更新されていっていると考えられる。

華菜は東京コンプレックスと同時に東京に夢を抱いている。

東京に行けば、自分も輝けると期待している。片田舎の自分に住む自分のセンスはまだ東京レベルではないが、地元への絶望と虚無は徹底しており、何者かになるために東京に行きたい、誰か連れ出してといったイマ・ココではない何処かへ行けば充足するかのような東京的シンデレラ・コンプレックスを抱いている。

わたしは東京で恋をしたい。どうせならドラマみたいなやつ。大学で知り合った年上の人と。バンドをやっているとか、映画を撮っているとか、特別な才能を持っている人がいい。テレビ局のスタッフだったらなおいいし、芸能人だったら最高だ。

そのための足掛かりになるのが、地元のラジオとインターネットだと信じている。

2001年なのでテレホーダイ時代であり、ある意味ネットサーフィンなるものが正しく機能していた時代の高揚感をPCを前にした華菜を通して体験できる。夜にカップヌードルのシーフード味を食べながら、現代に比べて過剰に繋がれていない時代だからこそ世界と繋がる瞬間の興奮と目の前にいない誰かに向けて言葉を発信する快楽。

自分が輝くためのステージに立ちたい。

そんな自己実現と承認への欲求。

華菜は、地元を偽物ではないけれどホテル感覚だと評する。つまり仮住まいであると。閉じられており、社会への実感が隔絶されている居心地だと華菜は考えている。

「なんかさ、わたしたちって水槽の中にいる気がしない?」

(略)

 自分たちは水槽の中にいて、あらゆることは水槽の外で起きている、という感覚。外のことは目にしているし時に心配もするけど、どうしても実際の温度とかそういったものは感じられず、かなり大きな事件でも、自分とは関係ないという気がしてしまう。(略)

 実感が伴わない以上、たとえラジオで話しても、ありふれた嘘っぽい意見しか言えなさそうで危惧している。だから実感のあることだけをラジオでは伝えたい。

 社会への実感、現実に対する希薄な感覚への象徴のようでもあるが、ラジオへの誠実さが窺える。

しかし、このつながれていない感覚は水槽という比喩のように箱庭的であり、自分の居る場所に対して懐疑的になっている。なので、イマ・コレカラと繋がっていないであろう勉強には身が入らないし、テストの結果も芳しくない。自己実現の中に勉強のファクターが薄いと考えているので、免許が無いと生活に不便である地方にいる華菜は東京に行く予定であるから、免許の必要性も無いとしているのも印象的だ。

東京でビッグになってやる!と言っていることは同じで、東京ロマンを求める夢追い人の様である。

一方で憧れの東京はインターネットのように繋がっている本物の場所であると述べており、自分と世界を繋ぐための具体的な場所としてインターネット=東京が描かれ、イマや部分的にしか繋がれないことへの軋みがある。

華菜が世界と繋がれていない感覚は、冒頭の9.11や上記の実感に通じ、自分事のように収めきれないスケール感への距離を突き付けられている。

対称的なのは、西加奈子の『i』という本がある。

これは、リアルタイムであらゆる事象や事件を自分事として物語化することで、自分ではない誰かへの想像力が結果的に自分に立ち返っていってしまった功罪と、それでもこんな世界を生きていくしかない自分への物語として問いを投げかけているが、物語化できない程の距離と、それを行えてしまう感受性の豊饒さと残酷さの人間心理への挑戦だと考えられるし、本作の華菜のように実感できない人間がいる一方で、『i』が自戒と癒しになる人間もいるだろうと想像ができることが、虚構といった物語構造のフレームに落とし込むことで、ピントを合わせて降り立つことができる地点ではないだろうか。

i(アイ)

i(アイ)

 

 

わたしのホームページで一番充実しているコンテンツは、テレビ感想だ。ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、クイズ、歌番組、の五つに分けて時々感想文をアップしている。(略)

 今日わたしのホームページを覗いた八人のうちに、テレビ局の制作スタッフは含まれているだろうか。書き込みはなかったが、もしかすると今日から読みはじめてくれている可能性はゼロじゃない。そのうちにメールを送ってくれるかもしれない。

 わたしはその瞬間を待っている。想像しただけで、口元がゆるみ、鼓動が速くなる。瞬間は未来へとつながっている。実際にわたしがテレビ局でプロデューサーとなって、作りたい番組を提案し、芸能人たちと関わっている、光り輝く未来。

 リスナーの中にも、そんなチャンスをくれる人がいればいいと願っている。わたしを見つけ出してくれて、明るい場所まで連れていってくれる人。ゼロじゃない可能性を信じて、わたしは毎週しゃべりつづけているのかもしれない。

 特別になりたい。みんなと同じことを考えて、みんなと同じような場所に行くのではなく、みんなが知らない音楽を聴いて、みんなが知らない本を読んで、みんなが知らない人と出会って、みんなとは違う形の感性を持ちたい。

 見事なまでにイタイ自意識が語られているが、水槽から脱け出して「特別」という実感を持ちたい子であり、要は「外」に出たい話である。この「外」は水槽の向こう側であり、華菜にとっては東京のことを示しているが、実際は自意識という檻から「外」に出るかという物語になる。

制服やパーソナリティといった記号を脚色し、特別になることで自分が何者かになったと承認されたい気分が生々しく記されており、他方で自分自身への手応えの無い虚無感と「何者コンプレックス」による反動であることが窺える。

何者 (新潮文庫)

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ドラマをただ受け取って見ている側から、テキストにしていくことで、反対に、自分が手渡す側になる気がする。

 誰も指摘していないことに着目するような、わたしだけの視線を持ちたい。テレビ局のスタッフに、鋭い感性を持っていると思ってもらえるくらいの。

 自他共に非常に耳が痛い話。

こうして作品にぶら下がって書評モドキを書く行為自体が、書評といった表現はあくまでも二次創作の領域をはみ出さない、他人の褌で相撲を取るかのような行為に接近せざるを得ないという意識は常に働いているつもりだが、これも所詮言い訳でしかなく、好き・嫌いといったファンカルチャーで渦巻く作品観から距離を置こうとすればするほどに、自分がそこに線を引いているという図式が、何者コンプレックス自意識を爆発させるものであるからだ。

優れた二次創作はそれだけでも作品になる。しかし、拙い自己表現は何かしらを足掛かりとしたパフォーマンスでしかなく、その線引きは優れたアウトプットかどうかになる。

華菜も同様にテレビといったメディアの力に引っ張られて、借り物としての水を水槽に注ぐことで何者かになったつもりでいる。

東京ドリームを抱くのもテレビの影響(具体的言及は無いが月9やトレンディドラマ群だろうか)であるし、この時代ではテレビなるメディアが茶の間に機能していたことも読める時代の気分がある。確実にテレビなどによって東京が本物として更新し、ココではないどこかを求める若者たちのロマンとして、ブランドの華やさのように映っていたのは東京像の一つではないだろうか。

 

作中で大事な設定として、華菜には同じ高校の友達が複数人いる。その内の一人の恋愛話の愚痴に対して、何ら興味がないものの聞く耳を持つポーズを取っている。ボッチでいるよりかは、群れた方が得策であるかのよう内的な振る舞いがある上で、恋愛への興味はなく、ラジオをどうするかを常に考えている。なぜなら恋愛は東京に繋がっていないが、ラジオは繋がっているかもしれないからだ。

また、リスナーの一人でもある年上のなつねえさんとはリアルでも会う仲であり、彼女からの影響を多分に受けていることが散見される。貴重なリアルのリスナーであるから、ラジオの感想を求めがちな華菜に対して、なつねえさんの感想は実に淡泊に映る。これも酷な話で、ラジオに中身が無いから感想を持ちようがないと思う。

ここで痛烈なのは、他人はそこまで自分に興味がないことを知らないという華菜の自意識の未熟さゆえの自意識過剰であり、狭い感性であることだ。恐らく誰よりも特別でありたいと思っているからこそ、自分の興味関心に夢中で、自分の関心事に対して他人がどう考えているのかといった相手の存在が希薄になっていることを知らない。

もちろん、このズレは後半でパンチが飛んでくるようになっているし、センスの良さを開陳したい自意識が、内に囚われて引き摺り込まれてしまうことで「外」に目が当てられていないという水槽の箱庭的比喩が効いている。

貴重なリスナーの一人であるなつねえさんは、東京から地元に帰ってきた人間であることが紹介される。

華菜には東京から出戻ってくる心情が理解できず、東京にはいくらでも充足させてくれる物質が溢れているが、地元には存在しないことが東京への憧れを加速させているようにも見える。

なつねえさんは小説家志望だったが、その夢に破れた。だから帰ってきたのである。ロマンへの挫折としてなつねんさんは映るが、しかし後に結婚をすることが明らかになり、別の道を歩んでいくことが記されている。

ちなみに、なつねえさんは書店員で、ビジネス書コーナーを受け持っている。本人は文芸書をやりたかったらしいが、叶わなかったとさらりと書かれているが、文芸書はその店舗のエースが受け持つ仕事であるので、ここでも一つの挫折がある。 

また小説書いて応募すればいいじゃないですか、とわたしは言った。すると、なつねえさんは言ったのだ。

「現実が見えてきちゃったんだよね」

意味がわからなかったわけではないけど、その答えには謎が残った。

 挫折と前身は、この物語の肝である。

なつねえさんというモデルは華菜の先を提示しているかのように、華菜の自意識に他者として入り込める隙間になつねんさんは存在するが、華菜がそれを自覚していたわけではないことも明らかになっていく。

華菜にとって、なつねえさんは熱心なリスナーだと思っていたが、毎週更新を物凄いスピードで聴いて感想を送ってくれる存在の一人ではなかった。これは、露悪的に書けばパーソナリティとしては無条件に承認してくれている相手、つまり自分を見てくれている都合のいい存在ではなかったことを意味する。

また、同時に友達をも勝手にリスナーにカウントしていたが、彼女たちはリスナーですら無かったことへの自分勝手にショックを受ける都合のいい部分が露呈していくように描かれている。そもそも視界に入っていないラジオの話よりも恋愛話をしたい友達と、その友達の恋愛話よりも文化やラジオの話がしたい華菜の感覚的なズレは残酷的であり、自分の興味関心がまるで世界と繋がっているという短絡的な思考は、まさに自分の価値観に対して相手がどう解釈しているか、受容しているかの想像の域にすら達していない徹底的な自意識における箱庭的な話だ。

現代のように常時接続ではない。部分的なインターネットのようなつながりではないリアルへの感覚は、リアルのままでつながっているのにつながれず、殆どつながれていない故のもどかしさと瞬間の煌めきについて『リズと青い鳥』が箱庭的に閉じ込めたモチーフであるが、本作ではラジオという媒体を通してリアルとして目の前にいない人間に語る物理的・心理的距離が、果てしない東京ロマンと地方に根付く現実の対立でもあり、それらを閉じ込めた自意識を巡る青春小説だと考えられる。

 

 その後、恋愛話を仕掛けていた友達が案の定失恋する。その失恋話をラジオのネタにする華菜は、彼女自身は友達へのエールのつもりであったが、失恋した友達にとってはラジオのネタに利用されたと感じ、憤慨する。

「番組自体、自分ではおもしろいとか思ってるのかもしれないけど、超つまんないよ」

吐き捨てるような言い方というのは、まさにこういうものだと思った。

短い言葉で、毎週積み重ねてきた三十分がまとめられてしまう。つまらない番組。それはすなわち、しゃべっているわたしが、つまらない話をしているということだ。

 拍手喝采の名シーンだろう。

意図的につまらないラジオを書くことでしか、この味わいは表現できない。

自分に都合のいい解釈を、他人がどう受け取るか想像していないイタイ自己完結型の末路として相応しいと思う一方で、他人事ではない冷えた感覚が走る。

ここで記されているのは、水槽の比喩(地方と自意識)として温室で生きていて、そこに対して息苦しいとは言っても、その恩恵は少なからずあることだ。自分のことしか考えなくてもいい。「外」に出たいと憧れても、「外」への実感がないまま水槽に浸ることで満たされているものもあるからだ。

なので水槽が保険になる。免罪符になる。

女子高生、パーソナリティという記号はいずれ剥奪されていく。それらが抜け落ちて、何者でもなくなる瞬間が訪れるが、仮初でも、彼女の言う東京のように本物ではなくても、アイデンティティとしての足場であった時間と記憶が確かに存在する。それらが漂白されて、忘却していく中で原風景化していくことでしか自分を問い直せないものもある。

それはまた、東京という風景も文化的に漂白していく現代というレイヤーも重なるように、無くなっていくものから新たに抽出して更新する、例えば聖地巡礼のように虚構のレイヤーが現実を上塗りすることは自意識と歴史的、文化的に折り合いを付けることだろう。

自意識過剰に向きあうまでの物語であり、際限のない「外」へと向かうためのメタ認知を獲得していくための青春の工程でもある。これらは朝井リョウ西加奈子が描いている自意識として、シニカルやセンスで外装して居座ることへの痛烈なしっぺ返しであり、その先の地平をそれでも歩まないといけない痛い処世術なのだから。

華菜が通るであろうある種のあきらめ=漂白は、裏返せば挫折からの出発であり、自己肯定としての受容になっていく。

青春としての挫折と自意識を巡る物語となる。

だからこそ、どうしようもないくらいに青春小説なのだ。

わたしはわたしの水槽の中にいる。

(略)

何か大きなニュースに触れるたびにイメージしていた水槽の中には、最初からわたししかいなかったのだ。中にあるように感じられていたものも、全部錯覚。いたのは、わたしたった一人。なつねえさん、智香でさえもいない。

 

futbolman.hatenablog.com

 

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

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ここからは、前述のまま詳細を放置していた東京への話となる。

華菜が抱く東京ロマンは、トレンディドラマ群に代表されるような煌びやかなイメージであるが、バブルという時代性を捉えた作品に『機動警察パトレイバー the movie』がある。

機動警察パトレイバー 劇場版 [Blu-ray]

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『パト1』はバブル批評として読める作品にもなっている。

開発とインフラ整備に伴う「失われていく東京の風景」を靴底を擦り減らしながら丹念に調査をする松井たちを描きながら、風景にノスタルジーアイロニーを投影させることに成功した。

そこに東京の煌びやかなイメージは存在しない。

確実に在った風景が、徐々に、そして気付かないまま失われていっては新たな都市の風景として飲み込まれていく様子が丁寧に展開されている。

東京ロマンのイメージが都内のみならず、地方でもメディアの影響で肥大化していく喧騒の最中、その豪華絢爛なブランド性にリアルとしての風景が侵食されていくように、東京という風景にどのようにピントを合わせるかによって、生まれていく風景があることは同時に失われていく風景へのアイロニーも込められていることを痛切にメディアとして機能しているといってもいいだろう。

もちろん『ラジオラジオラジオ!』は東京ロマンが打ち砕けるような話ではない。作中で東京への憧れは度々登場するが、リアルの東京は一切描かれていない。メディア的、文化的な東京のイメージしか華菜にはなく、地方で東京へのイメージと自意識を育んでいるだけだ。これは水槽の中でリアルの実感が持てないまま、虚構としての東京が伝播していることを意味するだろう。

例えば新海誠は東京の風景を美麗に描く。

しかし、実際の東京はあんなにイイものではない。ただ、現実以上に綺麗に描くことで風景に意味を与えることも出来るのは確かな技法の一つでもある。

華菜にとって東京は本物であり、何者かの象徴である。東京に行けば何者かになれるかもしれない。イマ・ココの等身大なリアルではなく、メディア的な虚構としての東京に心惹かれている。その東京にはドラマのような風景が広がっており、『パト1』のような風景へのアイロニーは含まれていないことだろう。

虚構による東京へのイメージが幾層に塗り替えられても、自分の都合のいいピントの合わせ方がある様に、風景はいくらでも様変わりする。認識できる範囲は限られているために、そこにリアルは存在しなくてもいいことになる。

虚構としての東京を生きる意味を『パト2』では描いているが、物語終盤において柘植が東京が蜃気楼に見えると言う。幻であると。その違和感を風景映画として、また虚構に飲み込まれてしまっているがためにリアルへの手触りを確かめようと試みるテロリズム(だから最後は手と手が触れる)自体も、虚構のフレームから一時的に脱却してもなお別の虚構に取り込まれてしまう不可逆的なイメージを捉えてしまった。

この虚構の都市というフレームにピントを合わせることへの欺瞞について、風景のリアリティのみならず、そこで生きることに対するアイロニーと忘却性が付随しながらも、蜃気楼のような中を歩くしかないという現実がある。リアルが無いままの確かな手触りという一縷の可能性もまた一つのイメージであるのだから。その一つ一つのイメージの蓄積が幻のような都市を生み、リアルなるものは心象風景化していく過程に宿る感情という一つの事実にもなっていく。華菜が抱く東京への憧れはリアルのように。

華菜にとっては、ココではない何処かへのイメージの具体としての東京ではあった。イマ・ココ、そして忘れていくかもしれない様々な風景や記憶を東京ロマンではなく、原風景化させていくことで、新たな拠り所として見つめ直すことが示唆されている。

東京という風景を捉え直す。

そこまでの射程が『ラジオラジオラジオ!』にあるわけではない。

しかし、虚構のロマン化した東京と自意識との折り合いの物語である。それでも蜃気楼のように実感が持てないまま生きていく過程で、どのようにリアルの積み重ねをしていくのか。

虚構というモニターで捉えることができる現実には、直に触れない不確かさが宿っている。モニターの中のリアリティがいくらか増しても現実なるものにタッチできない。柘植が演出してみせた一瞬露わになる現実ですらも虚構になってしまうからだ。虚構というフレームを通してしか接近できなければ、そのフレームから別のレイヤーとして存在するであろう外部という現実には決して飛び込むことはできない。

そうであるから、ラジオというメディアと東京への肥大化したロマン=虚構を意識的に描くことで、「外」に出られないままその場で足掻く自意識の話になるのは必然的だろう。内的にリアルな問題として、18歳という何者でもない多感の少女を据える一方で、相対的に虚構としての東京ロマンは現実的なものから希薄になるばかりか、虚構が肥大化していくといったように。

メディアや虚構によって規定されている。

その自己実現の途中での軋みを華菜を通して描き、誰かに発見されることで可能性が開いていくことについて、インタラクティブな関係性のインターネットへの期待感も当然ある。

しかし彼女が行っていることは閉じていないけれども、拡散もしない。誰もリアクションしない。それでも、インターネットの海に発信する行為の可能性を信じている。何かしらの手触りを求めている。

ここでアプローチとしてラジオの存在がある。

メディアが、虚構があるかもしれない自己実現したいつかのわたしを形成していく青写真でもありながらも、現実の反応がメディアに乗っかることだけで恰も何者かになったかのような錯覚を醒ます。

現実の延長にあるはずなのにメディア(虚構)に飲まれていくような感覚は、現実に反比例するかのように燦然と輝く東京へのロマンが肥大化するのに通じているだろう。発信することで、何者かになる感覚。それは一時的であり、部分的でありながらも確かにメディアに規定されるもので、それもまたある種の水槽=フレームに違いない。

私は、この飽くなき承認を巡る流れをバケツに例えている。

水をバケツに注ぐことで満足するが、イマのバケツでは物足りなくなっていく。水が溢れてしまうからだ。どうすればいいのか。それには更なる大きなバケツを用意すればいい。そしてまた水を満たしていく。溢れたらもっと大きなバケツに水を注げばいいといったように、承認とステージは比例していくものだろう。

華菜は現状に不満を持っている。自己実現と承認は満たされていない。イマは東京にもいない。それでもイマはココにいる。

ラジオとは寄り添えるものである。

それは作中で海老沢が語った「受け手との距離が近い」からこそ、ラジオにしかできないこともあると信じているように。

華菜は、無自覚的に自分勝手で都合のいい他者を身近に置いていた。他者に寄り添うためには自分が距離を適切にしなければならない。それはラジオという媒体でも、リアルにおいても。ラジオを通じて、他者へのコミュニケーションを考える契機となった華菜。

ラジオはコミュニケーションを強化させる。

なぜならリスナーは選択するという主体的行為から受動的に聴く行為に没入する一方で、パーソナリティ=「わたし」は能動的に働きかける。部分的なインタラクションな関係性がありながら、生放送であれ録音配信であれ、まるで同期的したかのようなそこに居る相手に向けて仮想して語りかけるメディアだ。

「わたし」からピントが合っていなかった「他者」へ。

大きく言えば物語は「わたし」と「世界・他者」の関係性を手を変え品を変えたかのようなフレームの変奏であり、そこで発生する意思表示という祈りでもある。

フレームの「外」に対する認識不可能性は本作でいう「他者」の存在性への空虚さであり、ラジオを通じて、「他者」とそれを見つめる/働きかける「わたし」の関係性は強化される。

自意識によるイマ・ココの否定ではない。

虚構(メディア)を通して、イマ・ココの蓄積による小さく確かなリアルな手触りを求めていく。

その実感としての距離への近さこそ、ラジオならではないだろうか。

 

おおたまラジオについて

インターネットラジオのおおたまラジオを聴いて下さっている方、聴いていた方々どうもありがとうございます。

おおたまラジオは昨夏から毎月1本という更新ペースで配信していたわけですが、ラジオ2年目というタイミングだからこそ今後のコンセプトの具体的な模索についてえる・ろこさんと話していたので、第12回がなかなか配信ができない状態でした。

配信した内容は後日にこのブログでテキスト化しているので、音源を聴いていなくてもテキストには目で触れた人もいると思います。この文章だけを読んでいる人は流石にいないでしょうから。

しかし月1更新ペースといっても質量は伴わず、毎度フィードバックもシンボリしたまま次の配信テーマを考えるといったことが当たり前だった1年間でしたので、ペース的に余裕があると思いきや常に〆切に追われている謎感覚だったわけですが、ここいらで今後の展開を見据えた上で足場作りをしないといけないと話し合いになり、最初のコンセプトにあったように不定期配信に戻りました。

不定期にしたところとて、質が上がるかというと未知数です。

ある意味、前までは月1ペースが内なる免罪符として機能していたわけですからね。

それが暴かれて剥き出しになるわけですから、よりストイックに質を求めないといけない。だからこそ尻込みするために不定期という形式を歪みっぽく採ったと思われれば、それも別の免罪符になるのでしょうか。しかしこの場合は内的免罪符よりも、寧ろ不定期という形式のガワの方が優位的であると考えられるのではないか。ある種のエクスキューズが成立していた以前とは内的に異なるでしょう。

その圧が、質に結びつけばハッピーなんでしょうけど。

それと昨夜に気付いたことなんですが、従来の配信方法がサービス終了していて一つの終わりを迎えました。

これだけ配信サービスが氾濫しているのに、私とえる・ろこさんが求める配信方法が見付からないという情報弱者の極みを晒しており…その点も模索していきます。

今後のネットラジオはどうなるか分かりません。だからといって止めるわけではありません。それはえる・ろこさんと共通理解になっています。

いずれインターネットの片隅で配信する日が来ると思います。多分。

その時がきたら、従来通り読者・聴き手の方々はテキトーに相手してやってください。お願いします。