おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

さやわか『僕たちのゲーム史』感想 僕たち・歴史・未来

予め断っておくと、僕はゲームに詳しくない。

最後にプレイしたゲームはPS2の『バイオ4』になると思います。それくらいにはゲームに執着があるわけでもないし、自分の可処分時間をゲームに充てるという生活サイクルではありませんから、本書に出てきた固有名の並びにも「歴史的」にどうこうとか特に引っかかることもありません。

つまり「歴史」の是非を確かめる視点を持ちえない僕のような読者からすれば、その意味では無批判的に、ベタに読めるかもしれない「ゲーム史」の本でありますが、それ以上にこの本がスケッチしてみせた「歴史」と認識との相関性という構造を「批評的」に読み解いていけば、そんな僕にも語ることは十分にあるのが本書の特徴になるでしょうし、まさしく「批評的実践」のフレームワーク的な提出としての「歴史」の語り方、定義・位置づけ、「歴史」の見え方とその不可視性に伴う記述方法と見ることができるような本の構成(実践)となっています。

 

はじめに なぜ「ゲームの歴史」が必要なのか

 

冒頭から象徴的なように「ゲームの歴史」とカッコ付きであることから、一定の留保がされています。

どういうことでしょうか。

本書は「ゲームの歴史」をデザインしたものです。

しかし、根底にあるのは「歴史観」の提示だと言えるでしょう。「歴史」の見えなさと言えるでしょうか。過剰さによる不可視性が伴う「歴史の見えなさ」から、「本当に歴史はあるのか」という問いに結びつきます。「僕は、歴史には事実はあっても、正しさはないと思います」(P176)から、ポストモダン的状況における反省的な手つきがいかに歴史性を立ち上げることができるか、あるいは歴史そのものを可視化できるかという構造的な実践が「批評」として成立している所以ではないかと考えられます。

『文学の読み方』のあとがきに、さやわかは「歴史とは創作物だという考え方を頼みにして本を書いてきたところがある」と記しています。つまり「歴史」とは「虚構的」であり「仮構的」なものであるという態度から、「歴史を語りうる」ための手続きと可能性が本書の性格であるでしょうし、そのような「仮構」された「創作的手つき」という回路から多様で過剰に見え難くなってきた歴史性を眺めるための「語り」自体が「歴史」を支えているとも言えるでしょうか。

本書では、ゲームが持つ「ゲーム性」と呼べるような定義を位置づけることから始まります。それは歴史的にみて「変わらない部分と、変わっていく部分」の判定を記述する試みで、その判定性を敷衍していくことで具体的な固有名に依らず、応用が効くものとなります。固有名をひたすらに列挙するような網羅的ではなくとも、規則(ルール)があればその範囲内で歴史性を構成・記述することはできる。どういった固有名を選択するか、といった取捨性の反映と表象が「物語化」であり、「何を捨てるか」という選択に「歴史」の意味や規則が宿ります。つまり、「歴史」というのは「仮構」された「物語」であり、すべてを記述することの不可能性と取捨性を前提に語りうることができる、というのが本書の歴史観の提示となっています。

 

歴史の本というのは、これまでに発表されたすべてのゲームのタイトルを並べるようなものではないからです。

もし、各ジャンルの進化に合わせてゲームを過不足なく掲載できたとしても、たぶんそれを一つの流れとして読むことは難しいでしょう。

だから僕は、「ボタンを押すと反応する」「物語をどのように扱うか」という2つのポイントに注目して、一つのゲームの歴史としてまとめたのです。(P321)

 

「変わらない部分」は「ボタンを押すと反応すること」です。これはボタンを押すことでの変化への快感や驚きの体験が、そのままゲームの核であるという理解です。

他方で「変わっていく部分」は「物語をどのように扱うか」という物語的展開と受容の変化を歴史的にみていくものです。

例えば、『スーパーマリオ』は現代的な理解でいうところのジャンプアクションゲームとして当初から売り出されたわけではなく、「アスレチックゲーム」として開発された経緯が記されています。「アスレチック」たる所以は「ボタンの役割」を一つに固定するのではなく、複雑性・複数性を担保しながらフィールド(エリア)との駆け引きこそが「アスレチック」感覚を与えるものとして設計されたものだったようです。

また、アクションゲームとしてではなく、アドベンチャー要素(物語性)があるとしていますが、この物語性というのは従来的な物語的理解よりも、世界の「謎」や隠し要素の「裏技」の発見を盛り込んだというアドベンチャー性=冒険と言えます。

そして、ボタンの役割を一つに固定化させない複数性が自由度の高い空間を冒険するようにして体験させる効果につながっていました。ボタンを押すことは、その応答と反映となり、体験による没入感を生む快楽と結びつています。

といったように資料・言説を補助線として引きながら、「歴史をいかに語りうるか」と具体的に記述されていきます。この試みは主観性に依存しない語り口だと言えるでしょうが、僕が興味あるのははじめに断ったように「ゲームの歴史」というよりも「僕たちの歴史性」の共通認識の立ち上げ方=批評的関心です。

現代では、ゲームは、インターネット接続や別世界への没入感を狙う大作主義、現実の隙間時間を意識した「軽さ」が売りのカジュアルゲームの台頭から導かれるのは、「現実のコミュニケーションを充実させるネットゲーム」、つまりコミュニケーションの拡張を目的とするようにしてゲームを道具(蝶番)とした体験の共有性と言えます。この共有性では現実の時間とゲームの時間が地続きに重なっています。オンライン/オフライン問わず「コミュニケーションの充実」を物語る過程において、ゲーム的なデザイン・体験が現実との二重写し化しているコミュニケーションと消費(プレイ)空間の一致にみられます。このような状況は、ゲームのメタゲーム化と結びついています。プレイヤーという現実の側に立つ存在をも含めたゲームの外の環境・空間さえもメディア的に、状況的にも「物語化」するようにして、あるいはメタゲーム化によって物語性がないゲームでさえも、コミュニケーションや体験がゲーム的にデザインされていく。本書でも取り上げられている第4章のゲームセンターの歴史や、第7章の『ポケモン』の「交換と対戦」からコミュニケーション・関係性の充実を狙ったメタゲーム化のデザインから、現実とゲームのコミュニケーション時間の二重写しが顕著となっていったように。

メタゲーム化を含めたゲームは文字通り多様化していきます。歴史的にみても「ゲームとは何か」と(メタゲーム化含む)ゲームを巡る総体が過剰に増えていく一方で、「ゲームの定義」自体が判定できない不可視的状況となり、多様化していったさきにはプレイヤー・ジャンルごとの島宇宙化が起こるのは必然的です。一定の内部での共有性があるにしても、ゲームの体験そのものが個々人的、バラバラになる「歴史の見渡せなさ」も含めた語り難い状況が成立していきました。

島宇宙化への抵抗が本書となります。

例えば、本書の参考文献には東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』があります。『ゲーム的リアリズム』は「文学」と「ゲーム」の横断を目論んだ批評でした。ある一定のジャンル内に留まらず、外部に流出するようにした横断性こそに批評的営為とその価値があるわけですが、その受容は素朴的に、島宇宙的に内部化していく分析(考察)という消費を引き起こし、本来ならば批評的エッセンスであるはずの横断性そのものが捨象されていったことへのゼロ年代批評の反省が、本書の出発点にあるように思えます。ゼロ年代の教訓を踏まえるようにして、ファンダム的反映・内部化に対するカウンターとして資料・言説をベースに語らせることで、本書のように「批評言語」や「固有名」に依存しない注意を払いながら批評性を構築することは、共通的な「構造・フレーム」を提出する語りが本書のタイトルにある敷衍していく「僕たち」を立ち上げます。つまり、その構造的達成が島宇宙の外部へと「僕たち」を流出させることができる。不可視になっていく「全体性」への意識を見通すために、「僕たち」の歴史化・物語化を誘発させる目論見が本書にはあります。

ここで、タイトルにある「僕たち」とはどういうことでしょうか。

この本にあるのは、島宇宙化による「歴史の不可視性」と多様性です。まさしく「僕たち」の体験はバラバラになっていき、「歴史」さえも主観的で個々人の物語となっていきます。仮に自明的であると思われている共通的な「歴史」(共同幻想)というのがあったとして、その認識自体に懐疑的なのが本書の立ち位置だと言えるでしょう。なぜなら、連続性においての不可視さ、不透明さをどのように「一致的」に見ることができるか、という実践に「僕たち」の意味があります。

つまり、同一性や共通感覚を疑う不信感が出発点にあると言えるでしょう。同一性に収まらない個々人の差異や恣意性、主観的な記憶の不確かさに対しては、記録や言説をベースに、それこそ「歴史的」にみて共通的に持っていたであろう認識を整理して再構築するといったオルタナティブな「物語化」を図るための時間的・空間的な試みだった、と整理できます。

「正しい歴史は本当にあるのか」という疑い、そこから生じる距離の可視化と「いま・ここ」から離れられない人間だからこその応答可能性があります。「歴史」を語るということはどういうことか。歴史を引きつける行為はむしろ歴史から問われることを意味し、逆照射されていることを眺めざるを得ないからこそ、資料や言説から引き受けて展開することが歴史への応答可能性ではないでしょうか。

そのことを踏まえると『僕たちのゲーム史』に見られる「僕たち」というタイトルの意味が際立ちます。一定の共同幻想を疑い、オルタナティブに語り直すことで読者――「僕たち」――までに反映させるように引き上げるまで調達する構造的実践は、多様化した個々人の認識の差異(島宇宙化)から「僕たち」という同一性を再構築するものです。

このような試みは、島宇宙的なファンカルチャーならではの距離の密接さが強度として捉えられる現代において、容易に斥けられることも想定できます。本書にあるようなフレームワークとしての「歴史」は、「私の」や「俺の」とは違うとして、「僕たち」に含まれることに抵抗がある、まさに内部化していった「僕」がいることでしょう。

そのことさえもある意味では「僕たち」という個々人に回収されるようにして、「僕たち」のバラつきに自覚的であることから始まっていると言えます。そこを起点として「僕たち」と語られた対象との相関の集積が「歴史」ならば、その共同幻想を問うこと自体が距離を相対化した上で「本来的に個人としてズレが起こっている『僕たち』が同一性の認識を作ることはできるのか」という模索と準備だったのではないでしょうか。

だからこそ、資料を前提に語り直す。

「僕の」といった個人的体験や認識のような島宇宙的な時間的・空間的な距離を相対化させながら、「語り口」自体を主体化させていくことで、「物語」のように「僕たちはどのように認識してきたのか」、そして「どのようにズレていったのか」と距離に宿る差異を見つめていく作業が本書には「歴史」として記されています。具体的に対立軸の交差性、複数性をマッピングして、歴史的観点から連続的な文脈を抽出することで「物語」のように流れを読めるようにしており、島宇宙的に閉じてしまうだけの内部化ではなく、全体性を疑いながらも全体性を意識するように個々人の多様な差異を捉えながら「僕たち」といった同一性をオルタナティブに再構築できるか。

本来的な個人のバラバラさ、多様性、分かり合えなさといった差異を回路として組み込まないと新たな共通的認識は作れません。常に「僕ら」はズレ合ってしまっているからこそ、「僕たち化」ができるのではないか。

認識のズレ、不一致性に対してオルタナティブな解釈を構築し、そのズレが生じてしまった「僕たち」それぞれに輪郭を与え、「僕たち化」という「語り」にするまでに昇華させることさえも「物語化」することで、初めて共同幻想的な同一性(全体性)そのものを捉えられるのではないか。そのような「物語」に組み込まれた「僕たち」に投げかける構成になっていると読めます。

再帰的な「僕たち化」から「僕たち」自身が、その同一性は「どのようにして成立するのか」という自己言及的な問いは、「僕たち化」を通してファンダムを脱臼させるようにして島宇宙的内部を相対化せざるを得ません。否が応でも全体性(外部)を意識させるものとして。

本書を通じた「僕たち」という記述された「歴史性」・「物語」を基準・目印とすることで、「歴史」の共有性を立ち上げることができます。

仮に本書が「僕たちの歴史」として機能しないならば、さらにオルタナティブに「歴史」を構築してぶつけるような形で応答できることでしょう。その応答可能性で「ゲーム史」そのものの厚みが増していくでしょうし、そのこと自体が歴史化=物語化となる実践的可能性を持っています。そのためのフレームワーク・視座は本書が既に示したように、「僕たち化」を通した「僕たち」の手の中にあります。オルタナティブな応答可能性は開かれています。本書のように。

「正確な歴史はない」という疑いを前景化した語りに纏めることはできるでしょうが、そのこと自体はニヒリズムではありません。そのような「仮構」された視座に立たなければ成立しないのが「歴史」という「物語」(語り口)だと言えます。

 

人々にとって『スーパーマリオ』と同じか、ひょっとしたらそれ以上に身近な娯楽としてのゲームは、既にたくさん生まれているのです。

それは僕たちにとって、『スーパーマリオ』とは全く違う、ほとんど同じ歴史上にあるものとは思えないようなものかもしれません。ひょっとしたら、僕たちには全く理解できないけど、誰かが猛烈に支持しているかもしれません。

それは当然なのでしょう。なぜならそのゲームは、他ならぬ『スーパーマリオ』がそうだったように、過去のゲームの価値観を覆して生まれてきたものなのです。

しかし同時に、そのゲームもきっと「ボタンを押すと反応する」「物語をどのように扱うか」を軸にした日本のゲーム史のうえに、並べられるものに違いありません。

過去を継承しながら、過去にないものを作っていく。

そういう矛盾をはらんだ営みの連続を、人は歴史と呼びます。

僕たち全員がその先端にいて、たった今も、未来のゲーム史を作っています。(P328)

 

「歴史の終わらなさ」、「閉じなさ」といったように「歴史」は未来に常に開かれています。誰にも歴史の全体像を神の視線を持つかのように把握して記述することは不可能ですが(だからこそ歴史の切断性・取捨性は暴力的とも言えるでしょう)、同時に本書から渡されたフレーム・構造はもはや「僕たち」が持っています。その共通認識をも「僕たち」を強固に形成するでしょうし、本書を読み終えた後には「僕たち」は個々人的にバラバラに構成されていながらも、全体性(「僕たち」、オルタナティブ共同幻想)を意識して、どこかでフレームとしてゆるやかにつながれているような気分(回路)を抱かせるでしょう。細分化されていく島宇宙化に抗うように。

そのようにして開かれたフレームを「批評的実践」として敷衍していく。「僕たち」が「歴史」を紡いで、語っていくために。『僕たちのゲーム史』からの展開、応答可能性として。

「歴史」は終わらず、今もここから、「未来」に、開かれています。

「僕たち」に。

 

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

  • 作者:さやわか
  • 発売日: 2012/09/26
  • メディア: 新書
 

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(1)

いわゆる「文学」とコミックやアニメといったサブカルチャーとしてくくられる領域の接近や作家の創作スタイルの類似、もしくは作者自身のジャンル間の移動として受けとめられがちであり、ぼくもまた一方ではそのような側面に必要があれば言及してきた。けれどもこのような事態を、ぼくは必ずしも「文学」に於ける今日的な(例えばその「今日」を80年代からこちら側の村上春樹吉本ばななの登場を持って受けとめるのか、あるいは03年の時点での若いミステリー作家たちの文芸誌への移動をもって受けとめるのかともかくとして)現象だと考えない。というよりも、そもそもサブカルチャーや風俗流行と無縁の「純粋な文学」があった時代など恐らく近代文学史のどこにも存在しないのだ。文学と不純な領域の混交を嘆く言説の背後には、かつて「純粋の文学」がある時点まで存在し、それが大衆文学と混交し不純なものとなっていく、という「史観」があるからだ。

大塚英志サブカルチャー文学論

 

そう、すべては「仮構」に基づく倒錯的な話である。

本論では『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』通称『俺ガイル』全14巻について詳細に記すことは不可能ですので、便宜上、前期と後期と分けることで論じていきます。

前期というのは1巻から6巻までを示し、後期は7巻から14巻までとします。

端的にいえば、前期というタームは主人公の比企谷八幡の一人ぼっち故に一般論的にネガティブなイメージが付き纏う「孤独」というレッテル貼りに対して、他者から注がれる眼差しを経由する悲観論から出発した作用にカウンター的に反発するようにして自意識が周回した結果としての独我論的なマチズモの表れとなっています。他方で、後期では孤高により自己完結していた自意識のマチズモが「他者」と結びつくことによって「まちがい」彷徨いながら、状態や状況をひっくり返そうと藻掻き、葛藤の果てに「まちがわない」ように「正しさ」を引き算的に追い求め続けるゆえの自意識の空転といった前期からブリッジされたコンテクストが読めます。

どちらにも通底にあるのは、比企谷八幡の自意識による一人称視点というスタイルに見られる自己防衛とも取れるようなアイロニー自体が、彼独自の経験則をパロディ化した自分語りのように現前化していることでしょう。その自虐は結果的に周回したマチズモを誘発するものであり、アイロニーが前景化することで比企谷八幡の潔癖性を潜ませる目的にもなっています。戯画的な「一人ぼっちあるある」に宿る不憫さは過去の自分を引き合いに出すことで、ディスコミュニケーション的なある種の「生きづらさ」をアイロニカルなネタに昇華するかのようなユーモアであり、饒舌な比企谷八幡のモノローグが全面的に剥き身出ることでのシニカルさは、アイロニーとの結託を容易なものとしていると言えるでしょう。一人称視点という記述形式が、比企谷八幡の「一人性」と物語を駆動させるための「反動的な冗長性」の確保に対して親和性を獲得しています。

前期から後期の橋渡しとして「個人の精神性」を説く重要な5巻において、平塚静から「潔癖」だと評されるシーンがあります。この「潔癖」は独我論的なものであり、比企谷八幡が抱える「倫理的潔癖性」を指しています。もちろん、それ自体が比企谷八幡の「正しさ」でもありますが、その「正しさ」は自分を中心にしている前提の独我論的なものです。なぜ、「個人的」なものでしかない「倫理的潔癖性」という独我論的なある種のリアリズムが橋渡しになるかというと、前期が一人であった比企谷八幡のアイロニカルなマチズモ的反動だったとするならば、後期は相互承認という構成に組み込まれたことによる「他者性」の獲得が独我論的自意識の空転をアイロニカルに生み出し、相対化するようにして比企谷八幡の「倫理的潔癖性」を幻想化させるように攪乱するためです。前期でいう比企谷八幡の思考を支える倫理的=潔癖的マチズモは、彼ならではのリアリズム、あるいは「正しさ」です。そこから後期では、リアリズムの極致にある「本物」=ロマンを求めるための跳躍の基盤があり、それこそが前期という前提(ベース)となり得る。この跳躍という言葉が意味するのは、柄谷行人がいうような「交通」=コミュニケーションの非対称性の交換的暴露から、絶対的な「他者」への恐ろしい「命がけの飛躍」が必要不可欠であることを指します。

そして、『俺ガイル』には前期という比企谷八幡ならではの孤独であるゆえの「反動」があり、その前期そのものに対する「反動」が後期になるという入れ子構造だと言えます。この構造が孕むものが意味するのは、前期ではアイロニーが前景化することで半ば隠蔽されていた倫理的=潔癖的な自意識が、後期では「他者」という「反動」によって剥き身出てしまうことで、雪ノ下陽乃に言われたような「自意識の化け物」としてのある種の価値転倒が生じます。それは此岸にある卑小的な価値観(独我論的)と彼岸にある幻想性(本物と他者)の非対称的な二項対立(コミュニケーションのアンバランスさと同様)が「反動的空転」によって宙吊りになってしまい、「命がけの飛躍」のような跳躍を経た「他者」との未知のコミュニケーションのグロテスクな非対称性から「正しさ」を求めながらも「まちがえる」ようにして彷徨うこととなる。この自意識と他者との「交通」による価値転倒の生々しさと軋轢が後期の持ち味だと言えるでしょう。

前期で顕著にある比企谷八幡の自己完結した形での自己肯定は、常に過ぎ去ってしまうイマ・ココと過去の自分を安易に切断することなく、ネガティブな過去さえも包摂しながら否定しないままでいます。それは一人ぼっちであるが故に、一人でいるのが当たり前だったからこそ自己充足するための「変化への反動」でした。自分しかいないなら自分だけは自分を肯定しようとする際に付き纏う承認問題は孤独と裏表のような関係です。そのような承認を埋める安住的な「他者」が欠落した「孤独」について、4巻では夏目漱石の『こころ』を引用して、「淋しさ」という「個人性」はもはやデフォルトになっていると比企谷八幡は記しています。もちろん「安住的な他者」というのは存在しませんし、柄谷行人の「他者」の絶対性のように彼岸的な非対称性を暴露にするものであり、その意味で「淋しさ」は「個人の精神性」と深く結びついた上で「絶対的な分かり合えなさ」として居座り続けてしまう。つまり、「分かり合えない」といったリアリズムをアイロニカルに引き受けることの意識の表れが「淋しさ」のデフォルト化とも言えるでしょう。それならば「一人ぼっち」ゆえの「反動的」というよりも、寧ろ「個人の精神性」として「淋しさ」を諦めながら素直に引き受けることの方が、根源的な孤独と対峙するしかないとする態度となり得る。その意味で、夏目漱石に対して比企谷八幡は共鳴していると言えます。

しかし「デフォルト化した淋しさ」は、ある意味では比企谷八幡の自己完結した強度の高さ故に倫理的マチズモで覆い隠すことで省略させるような形を取られています。「淋しさ」が当たり前であるならば、「個人の精神性」を孤高的に説いている比企谷八幡が改めて追認するものでもないので、未知なる他者(鶴見留美)を通じて具体的に「淋しさ」を前景化させることはありますが、半ば隠蔽されるようにして結果的に前期でみられる「自分そのものを否定せずとも肯定してあげられるのは自分一人しかいない」とする孤独ゆえのアイロニカルな処世術は、逆説的にですが「反動的」に映ってしまいます。一人ぼっちであることをネガティブな状態だと捉えない。なぜなら「淋しさ」はデフォルト化して誰しもが抱えているものであり、どのような角度で引き受けるかどうか、という態度と意識の差異でしかありません。少なくとも比企谷八幡は孤独という状態は消極的に選んだ結果だったとしても、「主体的」にその事実を歪めずに引き受けることで過去を切断しない潔癖性があるために「憐れみや同情」の対象にはなり得ないとします。その一面的な「正しさ」から「孤独であることは可哀想なことではない」とする意思が随所に見られ(なぜなら「淋しさ」はデフォルト化しているから)、一般的なマイナス・イメージに対して懐疑的な視線を投げかけている。その様子は「持たぬ者」のいわば「清貧的な強さ」が裏返しとしてのマチズモ的に描かれていると言えるでしょう。このある種のマチズモが独我論的な「倫理的潔癖性」に直結しています。

例えば、安易に「変化」をすることで過去を安直にノスタルジックの対象とするようにして切断するかのような「成長」は、自己完結した自己肯定さえも裏切るものだとします。「成長」に宿る潔さと諦念から目を逸らすことを潔癖的に拒絶する。イマ・ココから未来の可能性としての自分に期待して「成長」のために現状から逃避することを嫌う。イマ・ココの否定は「成長」に期待して、免罪符にするためのものでしかないとするように。「貧者」的悲観論が周回した結果、強固に練り上げるような循環的な自己意識と自己愛による培養が潔癖性を引き起こしています。これらのナルシズムが後期では「他者」と具体的に結びつくことで空転して「まちがえ」てしまう。彷徨うようにして、理論武装と自意識の変換が具体的な「交換」によって空回りが起こる。空回りしながらも自意識に絡め捕られ、卑小性は肥大化していくようなジレンマにハマります。「他者」の存在と欲望が空転するようなコミュニケーションの非対称性と不一致性の結果、暴かれるようにしてこれまで(前期)の自分の独我論的な潔癖的マチズモが適わなくなってしまう。ある種の保守性を維持するために理論武装すること自体の自己欺瞞が暴かれ、欺瞞を拒絶していたはずの潔癖性のジレンマによって身動きが取れなくなってしまう。

このような自己欺瞞に宿るジレンマ的転倒した結果、後期のテーマともいえる「分かり合えなさ」の果てとしての「本物」があります。「本物」を追い求める過程において、現実主義者であった比企谷八幡が転倒するかのように潔癖性を昇華することでロマン主義者となった結果、これまで通りの戯画的な経験則では動けなくなります。「清貧」的思考が働かない。選択肢がなくなる。一人ぼっちの潔癖的マチズモに剥き身出る脆弱さは、「他者」の侵入と接触によって、真綿で締められるようにして戯画的な自己防衛の撤退戦を強いられます。既知の合理的な経験論からはみ出ざるを得ない「他者」という未知の接触が不一致を誘発し、経験論的に適わない不可思議な脆弱さを突き付けていきます。それは孤高かつ自立した自意識という確固たる基盤=アイデンティティを持つ比企谷八幡からすれば自己破壊と同義です。

雪ノ下陽乃が述べた「化け物のような自意識」の内部で理性的であろうとするロジカルな面、「他者」から展開した非合理的な幻想性による整合性が取れなくなる破綻性、それらさえも取り繕うとするために詭弁的なロジックを積み重ねることによって自己欺瞞的に自意識が振り回されてしまう形で、空転するかのように自己破壊と自己構築が循環していることへの揺らぎに転倒した潔癖的矛盾を見ることが出来ます。つまり、「個人の精神性」と「倫理的潔癖性」を軸とするからこそ、「他者」を経由した現実的な価値観が彷徨いながら転倒することで「本物」のようなロマン的絶対性が非対称的に肥大化していくことを自意識の「交通」として描いた、と整理することが出来るでしょうか。

これらの前期、後期の自意識の変容は突発的に切り替わったものではありません。もちろん、恣意的に前期と後期と分けるのは僕の都合でしかありませんが、意図的に分断を促しているわけでもありません。連綿とした文脈ではないでしょうか。根底にあるのはコミュニケーションを通して、比企谷八幡の自意識と理性を巡る状況が「反動的」に「変化」せざるを得なかったことを意味する固有性の不確かさです。それは関係性に没入してみせることで、比企谷八幡が自分自身を転倒した形で追認するほかなく、再構築していくことを迫られる物語の一つのレイヤーだと言えます。ディスコミュニケーションとコミュニケーションの往還によって迫られる段階的な「自意識の変容の手続き」が『俺ガイル』の魅力の一つではないでしょうか。

比企谷八幡の関わり方は少なくとも消極的なものでした。仕事や動機がないと行動決定することができなかった。時に「依頼」という受動的形式を振りかざし、また比企谷小町の言い分を素直に「免罪符的」に飲み込むことでしか動けませんでした。これは比企谷八幡の主体性の問題であり、ディスコミュニケーションで懐疑的であるからこそ積極的に動けない。例え限りなく「好き」に近くとも、その言葉が、感情が、果たして共有可能であるかどうか。伝達可能であるかどうか。そういった抽象的な意思さえも、明確に言語化するようにしても、現実としては徹底的に貧しく不足してしまう不確かな言葉や論理に託すしかないことへの「言葉が現実を描けない」とする「抵抗と期待」と「諦めと祈り」が混じった「言葉にならない」抽象性への言語的アプローチが、後期では奥ゆかしくままならならない軋轢=「文学」として輪郭を成していきますが、そのアイロニーさえも物語を通して「言葉にしていく」ためには、「交通」によって生じたある種の保守性と欺瞞の板挟みとしての「言葉にならない」葛藤を追いかけていく必要があります。

 

比企谷八幡たちの物語は学園青春という形式に、謎の「部活動」が組み込まれたライトノベルでは典型のものです。

そして、ライトノベルでは定着した長文タイトルはゼロ年代からテン年代までお馴染みの型であり、今では『小説家になろう』をはじめとした多くのものに見られる光景になっています。

安住的に自閉した箱庭としての世界を意図的に短絡的に描くことの意味は、「セカイ系」と「日常系」のある種の「狭さ」を通底していると言えるでしょうか。世界設定を「底抜け」にした「世界観」と物語の中心を生きる「きみとぼく」の暴力的なまでの非対称的な運命を「直結的」に描いたのが「セカイ系」だったとするならば、その箱庭的な卑小性を「短絡的」に関係性に焦点を絞ることで実在感の眩しさや瞬間性を閉じ込めたのが「日常系」だったと「時間的・空間的な狭さ」として捉えることが出来ます。

つまり「セカイ系」を「距離」の問題として捉えることもできるでしょう。定説となりつつある「中間項」を除く「短絡性」は卑小的なセカイを描きながら、「きみとぼく」の関係性にある遠隔的な直接性についての断念や切断さえも距離感を用いることで抽出したとするならば、「日常系」のミクロさはマクロな「卑小性」さえも取捨され、セカイという箱庭が学園に入れ替わったような関係性の「短絡的」な「狭い」精神性を見ることが出来ます。

そして、この箱庭的空間である「日常系」は「成長」への奴隷の結果でもありました。精神性としての「成長できない/しない」は、そのミクロな瞬間的実在感の反復を経て、モラトリアム空間に置かれることで「意味の病」から距離を置くことができた。自閉的な箱庭で安寧秩序のまま「成長の呪い」から解放されることは目的性の冷却を意味し、モラトリアムの維持と共同性が関係性として増長していきます。そういう意味では比企谷八幡たちも同様に「日常系」の枠に取り込まれていきます。

「日常」を生きていくということは「非日常」に代表されるような圧倒性に塗り潰されることではありません。「何も起こらないことが起こってしまっている」というミクロなドラマの蓄積のような、この瞬間の「イマ・ココ」の僅かばかりの「変化」としてのミクロな「移動」を突き詰めた結果のドラマの直接性が「日常」です。その意味では、『俺ガイル』のパロディ的な千葉ネタは聖地巡礼(コンテンツ・ツーリズム)の意味合いもありながらも、比企谷八幡たちが恰も現実的な地理的感覚に根付いている実在感のリアリズムを演出していると言えるでしょう。千葉の片隅で藻掻き苦しむ彼らの「青春の多様性」が物語の豊饒さになっていると考えられ、地理的な要素と時事ネタをデータベース的に戯画的に扱うことで「同時代性」を生きていることを示しています。その仕草はサブカルチャーの「反映」となっていますが、読者さえも巻き込もうとする共同性(共感)の増長は、後期で問われる「本物」を求めることで破綻しながらも比企谷八幡たちが温存しようとした環境も共同的になっていきますが、その欺瞞を告発するのが雪ノ下陽乃の役割でもありました。その欺瞞を認識してしまっては、モラトリアムのような温室的な箱庭から脱出せざるを得ない。「意味の病」を退けた後に「日常」的に再度新たな関係性の編み直しが要請されることを示します。その意味では、それさえも「日常」という大きな枠に組み込まれるミクロな「移動性」の緩やかさがあると言えるでしょうか。関係性として、そのミクロさに根差さなければならない「日常」のスケール感はまるで生態的に埋め込まれているように。

先述のとおり、ライトノベルに定着した「謎部活モノ」の一つでもある奉仕部は、魚を獲ってあげるのではなく、魚の獲り方を教えてあげる自立支援サービスです。それは1巻で指摘されています。つまりは「依頼」という来訪者が前提にある部活動です。扉が開くことが「依頼」を意味し、物語が具体的に動き出す。この姿勢はひどく受動的だと言えます。それぞれが確固たるアイデンティティがありながらも、奉仕部においては「主体性の持たなさ」が受動的な意思を介してディスコミュニケーション的な「まちがい」を誘発すると言えます。「仕事だから」、「部活だから」といった動機は個人の意思よりも、環境や状態に規定されている。ある意味では主体的に働いていれば「交通」が発生しないディスコミュニケーション的な比企谷八幡ですから、「依頼」は受動的に主体性を一時的に立ち上げることで自然と誰かと関わらないといけなくなる(「交通」)システムです。その過程において、非対称的なディスコミュニケーションな彼らが普段は探す必要のない動機や目的の言語化に迫られるのが特徴の一つでしょうか。それは覆い隠しているものを暴くような試みです。潔癖的に試行錯誤をすることは倫理的に自分自身を問い詰め直していかざるを得ません。独我論的から「他者」を介して。「本音」を偽るようにして同調圧力的に「空気」を読んだ上での「建前」にあるような「本音と建前」の言葉と態度の裏腹な関係について欺瞞的かつ懐疑的な自己言及もありながら、受動的な「依頼」を通した「交通」の果てに、主体的に「本当の自分たち」についての言語化を働きかけていく。しかし、言葉では不足してしまう諦念とコミュニケーションの非対称性による「リアリズム」は絶望的な「距離=不一致性」を意味します。それでも「言葉にしなくてはならない」とするままならなさにある「命がけの飛躍」は後期的問題であり、顕著に見られるのは9巻以降になるでしょうか。

「依頼」を遂行するための手段と目的の一時的な設定があり、また「依頼」を通した「交通」によって「移動」していかざるを得ない奉仕部内の関係性が同時的に重なっていく構造でもあります。「依頼」によって展開されていく受動性です。その結果が、比企谷八幡雪ノ下雪乃が相互に関わっていく動機として決断するために必要な前提・条件に対して、非対称的であるがゆえに歪めてしまう権利(「不一致性」という名目では「一致」している差異の同一化)を主体的に言語化し、選択していく「受動から能動」への物語として形になった。つまり「選ばなかった/選べなかった」彼らが「選ぶ」までの物語だと言い換えられるでしょう。

雪ノ下陽乃に箱庭的な関係性の温存を「共依存」だとレッテルを貼られるのは12巻ですが、決して「記号的」では収まり切れない意思の複雑性があると比企谷八幡たちは反発します。その意思さえも「言葉にならない」伝達不可能性の中の可能性としての「コミュニケーションとディスコミュニケーション」の狭間で「命がけの飛躍」として「移動」する「青春とその変化」であり、コミュニケーションの不可能性と非対称性への「賭け」が主体性を構築していきます。その「賭け」に怯えることは、ヤマアラシのジレンマを彷彿とさせます。傷つきたくなかったらダメージコントロールをしてはディスコミュニケーションでも仕方ない。痛みを引き受けることなく成熟を拒否してもいいのではないかとする態度ですが、未知なる「他者」と接触した今となってはその自己完結した自閉性は困難を極める。存在するのは「成熟を巡るあきらめ」への抵抗であり、選んだ結果/選ばなかった結果を引き受けていく明白な「主体性」の獲得です。

弁証法的に「今」も「明日」も、「本物」を疑い続けることを人生の課題として突き付けたのが14巻でありましたが、その過程には記号的表現では不足する「生の現実」があります。例えば「言葉が現実を描けない」としても、「言葉にならない」あきらめと期待から生じる軋みこそに「文学」があるならば、その「言葉にならない」呼びかけは機能性と複雑性を託した「文学」への「賭け」の姿が見えます。

後期では記号的表現を抑制するために迂遠な「交通」が図られています。迂回路的な「言葉にならない不一致性」を愚直なまでに歩んでいったと言えます。

まさに「本物」を巡る応答に対して、読者の一部では「文学(笑)」といった「ブンガク」とする揶揄が散見されました。それに対して『俺ガイル』を「純文学」だとするつもりはありません。仮に「純文学」的だとして、「純文学」が一般的に持っていると思われる「権威性」や「高尚性」に寄り掛かることは意味がないでしょう。寧ろ、「ライトノベル」である事実のほうが重要であると見るべきでしょう。あくまでも『俺ガイル』はライトノベルであり、ライトノベルというジャンル・シーンから「脱構築」してみせることで「文学」への橋渡しを試みる小説だった。そう解釈することは可能でしょう。本論はそこを立脚点としています。

そして『俺ガイル』に寄せられた「ブンガク」的揶揄は、ライトノベル読者の「文学」への「距離」の一つの表れでもあることはこれもまた一つの事実でしょう。その事実からライトノベルと「文学」の権威性を比較、検証しても仕方ありませんし、どちらに優劣をつけても詮無いことです。

また、ライトノベル読者が「文学」を分かっていないとする糾弾も効果はないでしょう。なぜ『俺ガイル』の読者の一部は「文学的態度」に対して抵抗感を示したのか、という問題設定は可能でしょうが、それはあくまでも『俺ガイル』の「文学性」が自明である前提が欠かせません。もちろん『俺ガイル』が広義の「文学」であるという前提条件をある意味では満たしている、と本論ではその様子を追いかけていきますが、殊更「文学」の権威性に依存したことを主張するものではありません。いくら本論で『俺ガイル』は「文学」的であることを追認してみせても、重要なのは『俺ガイル』を通した「文学」への橋渡しと批判意識であると見ています。その意味は、『俺ガイル』が示した「文学」への素朴な態度が見られることを追いかけることで浮かび上がっていきます。

ですから、その「文学」の素朴さの発見と、それ故にある種の自明的な保守性への批判が本論の主張となっていくことでしょう。

読者から寄せられた「ブンガク」的揶揄と同時に見られた現象としては、あれほどまでに比企谷八幡に感情移入するかのように同調していた読者の一部が離れたのか、という問いを立てることは出来ます。後期の攪乱的な「まちがい」を通した彷徨いから、「理論武装化」自体のみっともない自意識の空転からなぜ目を背けたのか?と見ることは可能でしょう。

前期の比企谷八幡のアンチ・ヒーロー的カタルシスを誘発する構成は、6巻が顕著(「敵」の設定)ですが、ハードボイルド的とも評されるような孤高な一人称形式によって引き起こされた感情移入があります。孤独であるイマ・ココの状態を肯定する立ち振る舞いは「変化」そのものに対する「反動」を映す鏡像でした。その結果として、4巻や6巻のようにまるで報われていない比企谷八幡に対して、数少ないキャラたちと読者が共時的に「理解者」を引き受けることで「公然の秘密」のような気分が共有されていた。その意味では、その決断は「まちがい」ながらも、読者を巻き込む形の「理解者」としては6巻が一つの到達点でありましたが、そこから明確に反復する形で「まちがえていく」後期の比企谷八幡と彼女たちの関係性に絞られるようにして浮かび上がる「交通の非対称的不一致性」は、読者といった「理解者」さえも一時的に距離を取らざるを得ない「不一致性によるすれ違い」の展開を生み出し、「言葉への不信感」ゆえに具体的な言語化に抵抗せざるを得ないような抽象的な態度そのものでした。言葉にすると徹底的に不足してしまうジレンマをどのように乗り越えるか。その「言葉にならなさ」は奥ゆかしき「文学」への足掛かりとも取れます。「言葉にならない」ことを言語化しようとする抵抗と期待の果てに宿る血肉は「文学」の態度ですから。

もちろん、その「橋渡し」は寧ろ「素朴すぎる」という見方を取ることは可能でしょうが、「ライトノベル」というジャンルから繋げようとする試み自体に意味があったのではないか。そのジャンル的な「脱構築」が理解されず、「ブンガク」的揶揄に繋がったとするならば、比企谷八幡(『俺ガイル』)と「理解者」の隔絶にみられる「距離的不一致性」が問題だと取れるでしょう。つまり『俺ガイル』の「文学化」あるいは「文学的態度」と、比企谷八幡に同調するかのような「理解者」の問題は繋がっています。

そして、後期の『俺ガイル』では「文学化」していくことで、同期的であったはずの「理解者」との「距離」を置いたことがその要因と見ることが出来ます。抽象的かつ互いに踏み込めない態度が意味するのは、「言葉にできない」感情と言葉の差異の輪郭を描こうとする格闘(軋轢)の軌跡と読めることができますが、敢えてカタルシスを置き去りにするような曖昧模糊とした読書体験は、読者へのストレスによって比企谷八幡たちへの感情移入の不調(コミュニケーション不全)を招いたと推測できるでしょう。

さらに言えば後期では、もはや「一人ぼっち」としての比企谷八幡を描くことは難しくなっています。なぜなら、彼の周りにはあらゆる人間が存在し、「青春的」に関わるようにして関係性に、環境的に没入するかのように構成されているからです。そのために明白な作中人物たちの相互作用の感情と相互承認状態は整然として描かれながら、比企谷八幡たちの「交通」による不一致性が物語的な「循環」に囚われてしまったことによる負荷の表れがコミュニケーション不全としての醍醐味だったといえます。それを誘発してみせるように比企谷八幡の思考をトレースする魅力が「信頼できない語り手」として維持されているからこそ、「まちがえ」たくないのに「まちがって」しまうループ的要素と人生の一回性ゆえの「衝突」が読めます。その「まちがい」の「循環」的な反復性から抜け出せないような環境に没入して規定されている関係性と自意識の葛藤が、物語的に「進んでいるのか進んでいないのか」と堂々巡りするような迂遠な構造となり、その構造的な歪さ自体が安易な「成長」を許さないという意味での宙吊り的描写となっていきます。前期とは異なった意味での「反動」が後期の特徴となっているために入れ子構造的と言えるでしょう。その複雑さが、キャラの不確かさと読者のキャラ理解との齟齬が原理的な「交通」の負荷として生じたのではないでしょうか。

「一人ぼっち」であった比企谷八幡が、「他者」に触れることで明確に関係性に取り込まれたために「理解者」は未知へと接近せざるを得ない。その未知は「一人ぼっち」の既知とは異なります。再三述べているように同期的な感情移入の不調を来した要因には、比企谷八幡を取り巻く状況の前期と後期の差異があると見られます。「理解者」含めた前期と後期の距離感の差異(6巻を媒介とする)があり、後期では非対称的に肥大化した「本物」への希求性から物語を牽引していくこと自体が、比企谷八幡の「持たざる者が抱いてしまうアイロニカルな理想」への接近として記されています。

前期での自意識レベルとしての「受動的なアイロニー」が両立していた理論武装化=アイロニカルな自己防衛自体が、後期ではアイロニカルに空振りしてしまうことへの種子は「自意識の化け物」を通して突発的にではなく文脈としてあります。前期と後期の入れ子構造的でありながらも往還的な反復性でもって丹念に描写されているので、現実主義者が如何にして潔癖性(純化)を前景化させるかのようにして価値転倒したのかが問われていきます。

『俺ガイル』を読む現実的な目線(自意識)でいえば、スクールカーストを飛び越えるようにしてみせたある種の「狭さ」が浮かびます。比企谷八幡葉山隼人と海老名姫菜や雪ノ下雪乃など、それぞれが共通的な立ち位置ではなかったとしても「近似した他者」としての描写は反復的であったと読めます。まるで属している地点から「遠いのに近い、近いけど遠い」といったような遠近感は「リア充と非リア」の一面的な対決構造に持っていかず、二項対立自体を解消させたのちに「リア充と非リア」の両義性を描いたと言えるでしょう。

その意味で言えば、一面的ではない表現が抱える「言葉にならない」軋轢や抵抗感を含んだ複雑性こそが「文学」の特徴になるとするならば、近代文学は「近代/反近代の軋み」を抱えながら孤立した「個人の内面」を両義性でもって執拗に描いてきた、と整理することが出来ます。ある種の「普遍的な暗さ」を内包とするものです。

他方で、現代でいえば朝井リョウなどに代表される「文学の健全化」があります。就活や学校内の問題は「その時」「イマ・ココ」でしかないような最大瞬間的な問題に過ぎない題材を「健全」に取り扱う。「一過性の病」のように喉元を過ぎれば問題は解消されてしまうものでありながら、恰も「イマ・ココ」の局所的な問題が「世界のすべて」であるといった「錯覚」に基づいた問題意識の肥大化が「一過性」的な「健全化」を働かせている。そのような「健全化」としての部分性の拡大化にあるのは「文学」の保守性への提案ともいえるでしょうか。「暗さ」は誰しもあり、リア充にもリア充の葛藤があるようにして。その意味は「文学」が抱えてしまう従来的な「暗さ」のイメージに留まりません。孤独的であることだけが「文学」であるわけではありません。リア充も「文学」になりえる。そのような「健全」な価値の転換を朝井リョウなどが行っているとするならば、ある種の部分性・局所性の「健全化」が進んでいると言えるでしょう。

しかしながら、普遍性=全体性を描かないで部分的・局所的な「サブカルチャー化」の「反映」は「表現」にならず、それを「表現」とするには「サブカルチャー化」を乗り越えていかないといけない(全体性への接続)と批判したのは江藤淳でした。

 

サブ・カルチャーというのは、地域・年齢、あるいは個々の移民集団、特定の社会的グループなどの性格を顕著にあらわしている部分的な文化現象のことで、ある社会のトータル・カルチャー(全体文化)に対して、そう呼ばれている。…サブ・カルチャーを素材にした小説があっても、いっこうにかまわないが、そこに描かれている部分的なカルチャーは、作者の意識の中で全体の文化とのかかわりあいの上に位置づけられていなければならない。…サブ・カルチャーを素材にした文学作品が表現になるためには、作者の意識は一点で、そのサブ・カルチャーを超えていなければならない。その中に埋没していたのでは、ただの反映にしかならないのだ。

 

江藤淳の批判を素直に受け取れば、「健全」かつ局所的なサブカルチャーが、いかに「全体性」と結びついていくかが問われていると言えるでしょう。「部分的」なものをどのように「全体」に位置づけるか。

しかし、そもそも「全体性」は本当にあるのかという疑問を投げかけることはできるでしょう。

「言葉」が徹底的に不足してしまうゆえに「文学」が正しく「現実を描けない」以上、前提にある「全体性」自体も虚構的・仮構的でしかないのではないかと。

しかし、江藤淳の批判では「全体性」自体が自明として提示されているわけですから、「全体性」に位置づけられない「部分性」はあくまでも一つのパーツでしかなく、「サブカルチャー化」の浸食でしかないと読めます。

例えばリア充も非リアも相対的な問題でしかなく、ある意味ではパースペクティブとして対等的でありながらも、二項対立そのものを解体させる「健康的」な働きはそれこそ相対的なものです。その「狭い」箱庭的な社会的なグループを「部分的」に「反映」させているような二項対立自体を持ち出してみても、江藤淳が指摘した「サブカルチャー化した文学」を素直に受け取るならば「全体性との関わり合い方」が重要となるでしょう。江藤淳が抱いた「サブカルチャー化」と「文学」への批判意識に基づいた緊張関係を素朴に読む場合ですが。

しかし、今日では「サブカルチャー化」した「健全な文学」がどれだけ「トータル・カルチャー」と位置付けられているでしょうか。

江藤淳が「サブカルチャー」と対峙させたのが「メインカルチャー」ではなく、「トータル・カルチャー」であることが重要なように、それ自体が「仮構的」な位置づけであることは避けられません。もちろん、大塚英志によれば江藤淳はその「虚構性」に自覚的であり、「仮構への批評性によって支えられた仮構」といった倒錯的な基準による原理主義者であった、と評されています。

本論では『俺ガイル』を「文学」とする「素朴さ」の発見と成立を見つめていくものですから、江藤淳の懸念していた「サブカルチャー化」への応答はある意味では避けられません。江藤淳が警鐘を鳴らした「文学のサブカルチャー化」に対して、「反映ではなく表現」としてどのように成立しているのかを追いかけることは、「サブカルチャー化した文学」的な表現としての「素朴さ」に表れていくことでしょう。

また、マクロとしての二項対立を「仮構」とするようにして、「文学」と「ライトノベル」という文化的局所(サブカルチャーの二重性として表れる江藤淳的な意味でのサブカルチャーとアニメやマンガ的な意味でのサブカルチャー)の「脱構築」とする橋渡しは、ジャンル自体を相対化させ、その結果は、江藤淳的な意味での「サブカルチャー化」を促進させるものだと言えるでしょう。

「部分性」について『俺ガイル』でいえば、モラトリアム的である「卑小的な一過性の部分的な内面」をどこまで「健全」に融解して肥大化させていくか、という試行錯誤にもありますが、これも後ほどに論じていくことになりますが、「サブカルチャー化」について警鐘を鳴らしていた江藤淳に対して、文字通り「サブカルチャー」(江藤淳が述べたサブカルチャーとは異なる意味ですが)の現場である「ライトノベル」という形態から、「サブカルチャー化」へのある種の「応答」が繰り出た事実をどのようにして捉えていくか、という問題にも繋がっていきます。

江藤淳が目にしていた「文学」と「サブカルチャー化」の撤退戦としての緊張関係にある「全体性」と「部分性」について、その問題設定に紐づけるようにするために、文脈は厳密には異なりますが、本論ではさらなる補助線が必要となります。

かつて、吉本隆明太宰治を「夜の文学」として、三島由紀夫を「昼の文学」と評したことがありました。先ほど例に挙げましたが、大局的には朝井リョウもまた「文学」を「昼」にしようと努めていると言えるでしょうか。「健全化」は「昼」を構成しているといえます。従来的な「文学」が抱える「夜」のイメージを「健康的」な「昼」から照射する試みです。

この「昼」と「夜」の区分は「仮構的」なものでしかありません。

しかしながら、江藤淳がいう「全体性」さえも「仮構的」ではないか、という疑問は既に記した通りです。すべての「文学」は「サブカルチャー的」であるとするのはペシミズムだと大塚英志は述べていますが、僕には「サブカルチャー化」であることが逆説的なリアリズムという「錯覚」=「仮構」に思えてきます。「文学」が、言葉が正確に「現実を描けない」以上、ある種の切断が用いられるはずで、その零れ落ちた「部分性」がまるで「全体性」に結びつけられるような「錯覚」さえも「文学」として「仮構」されていると考えるからこそ、「サブカルチャー化」との緊張状態が維持されていたとも言えるではないでしょうか。ここで、上記のように江藤淳のいう「全体性」という前提自体を問題視することは出来るでしょう。現に僕の書き方は、江藤淳が「仮構」したであろう「全体性」に懐疑的であり、「部分性」の集積が「全体性」という「錯覚」を働かせ、「サブカルチャー化」は避けられない事態だったと整理しています。

もちろん「夜」と「昼」の「仮構」さえも「部分的」です。

しかし、この「細分化」を「仮構」してみせることで、「部分性」としての断片による引き合わせがモザイクの集合体として機能することによって、前提としてある江藤淳の「全体性」と「部分性」=サブカルチャー化への「応答」としての「表現」になるのではないか。つまり、本論の立ち位置としては江藤淳のいう「サブカルチャー化」への懸念に対して、大塚英志に言わせればペシミズム(すべての文学はサブカルチャー的)であったとしても、その裏返しにあるような「仮構的」かつ引き算的な「文学のサブカルチャー化」のリアリズムの「表現」を模索していくことにあります。

そのためには「夜」と「昼」という「部分的な仮構」が必要となります。

「昼」だからといって常に日が当たっているとは限りません。日照りの中でも瞬間的に陰ることで生まれる暗さ(明暗)を持ち合わせています。従来の「文学」が「夜」であったとして、江藤淳の「文学」もそうだったはずですが、「昼」を幾分か「夜」と比較しても、その「明暗」は一過性的な不透明さがありながらも「健康的」な通気性があります。その「濃淡」は通過できる局所的問題が全体化したかのような「錯覚」を抱き、刹那的な「陰影」を浮かべることで不透明性を自明化させるに過ぎないこともまた「健全化」の一端ともいえるでしょうか。

『俺ガイル』的にはリア充と非リアの二項対立の解消がそうでしょうし、モラトリアム的な時間性・空間性の淡いが「夜」と「昼」を往還するような「生々しく肥大化した錯覚」を描くとして、差し当たって本論では、『俺ガイル』の「健全」でありながらも「部分的」な「昼と夜のどちらとも取れるような、さらに狭いモラトリアム性に基づく錯覚的な淡い」の一過性の肥大化から「夕の文学」とします。

『俺ガイル』では、孤独な主人公から眺めることで抱えた問題設定の意味は、従来の孤立した人間の内面に「夜」のように照射しながらも、同時発生的に一過性の中では両義的に「昼」に近しい問題や意識に触れざるを得ないことを遠近法的な結果として持ち帰ることで「夕の文学」として再構成し、江藤淳的な意味で「サブカルチャーの反映ではない表現」にしたと考えています。その「局所性」の集積が多面的・多角的な根底(「全体性」への接続)にあるものとして、「文学の健全化」そのままに属しながらも、(二重の意味で)サブカルチャー的にもその陰影を捉えて離さずに「夜」と「昼」からも零れ落ちるであろう「淡い」が存在するように思えます。まさしく「昼」と「夜」の狭間で揺れるようにして。このような「反動」的な「移動」は「夕」的な自意識のナルシズムとモラトリアム的な時間的・空間的な「意味の病」との対決構造になっています。

記号的な一面的ではない両義性が常に付き纏い、二律背反するような複雑性と「言葉が現実に追いつかない」とする「言葉にならなさ」を切断しては仮託するような表現が「文学」という試みであるならば、自覚的に渡航は「文学」の分裂しつつも孕んでしまう「言葉との緊張関係」にある両義性に接近しながら、構築と破壊の自意識という生態を描いた結果が、『俺ガイル』のままならないであろう文学的格闘だったのではないでしょうか。 

後期から顕著にみられる深層的な問題への処方箋として「サブカルチャーの反映」から脱け出した「サブカルチャー化した文学」的「表現」があったとするならば、ブンガク的揶揄にある『俺ガイル』が「文学化」したというのは一面的な見方でしかありません。実際は「文学化」に対する揶揄は些末なことに過ぎないでしょう。「文学」を必要としたから、引き寄せるしかなかったままならなさが『俺ガイル』の立ち位置ではないでしょうか。その「反映」は「理解者」さえも一時的に距離を置かざるを得なかったとすると、「文学」的に立ち向かった『俺ガイル』の決着点は、記号的では済ませられない複雑的かつ宙に浮いてしまう「言葉」への抵抗と可能性と不可能的な隔絶性を問う「軋轢=表現」であった、と整理できるでしょうか。それこそ「伝達不可能性」と「非同期的な距離感」を孕んでしまう「交通」の絶対的な非対称性こそが、不一致性の名の下で「一致」できる唯一「文学」という軋みにある免罪符に仮託するように抵抗して、辿り着いた「部分と全体」の接合点と言ってもいいでしょう。

一言でいいのに一言では表すことができない諦念と期待は「交通」のスケールを示します。そのメッセージが届くかどうかは分からないといった「交通の非対称的暴力性」にある「まちがってしまう」循環に対して、「ブンガク」と不一致的に笑われても「文学」的に立ち向かう姿勢のみが、この仮託した複雑さを「サブカルチャーからの反映ではなく表現として」することができたのではないでしょうか。それは比企谷八幡の自意識の格闘の軌跡であり、「仮構」されたサブカルチャー的な「夕の文学」からの応答であったのではないか。

ここまで記してきたことは、「文学」は「錯覚」でしかないとするニヒリズムになるでしょうか。僕にはそうは思えません。

「文学」が言葉にならないものを言葉に落とし込むことでアクロバティックに成立する「言葉の貧しさ」との緊張関係にみられる運動性と場所が「仮構的」であったとしても、「仮構」した「文学」という緊張的な足場に立たなければ成立しない倫理があるでしょう。その「錯覚」めいた位置づけにこそ批評性が見て取れるのではないでしょうか。フェティシズムな「仮構」に倫理と態度を読むことは、まさしく江藤淳が「サブカルチャー化」に対する倒錯した負荷として基準を設けようとした倫理に通じるものでしょうし、その「仮構性」の意義を問うものでもあります。

江藤淳にとっての「文学」と「サブカルチャー」は「仮構的」な批判意識の表れから引き算のように摩耗していった残滓の集積に線引き=緊張関係があったとするならば、やはりそれらは「錯覚=仮構」的であるにしろ、所詮「文学」といって斥けられない倫理が「文学」にはあるでしょう。

前置きが長くなってしまいましたが、1巻から順に追ってみていきましょう。

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『SSSS.GRIDMAN』 響裕太への批判・屈託のなさ

今、再放送を観ていますが、懐かしい。

その当時も、リアルタイムで観ていて色々語った記憶はありますし、それなりにインターネット上では盛り上がっていたはずではあったけども、今となっては宝多六花と新条アカネのWヒロインへのフェティシズム以外「人気だったわけではなかった」的な言説が半ば罷り通っていたりしているからこそ、SNS(フロー)以外の場所で何かを書き残しておかなければならない(ストック的)と思ったり。

とはいっても、今更『SSSS.GRIDMAN』の魅力をダラダラ書いて擁護しようとは思っていないので、「Wヒロイン要素以外は尻すぼみだった」的な言説に真面目に応答するつもりはなく、その「尻すぼみ」は「実写END」の扱い方をも含めたことは重々承知の上なんだけど、僕としてはリアルタイムでこちらの記事で反応しているつもりです。

 

futbolman.hatenablog.com

 

『GRIDMAN』への批判の一つに主人公に「魅力がない」ことが挙げられています。

主人公、響裕太ですね。

その批判を引き受ければ「魅力のなさ」というのは「内面が描かれていない」ことに尽きると思います。

放送当時も『エヴァ』と比較する言説は溢れていましたし、監督の雨宮哲のインタビューにある「引用への距離感」も話題になりました。『エヴァ』との比較で言えば、主人公の内面に興味があるかどうかは差異となっていて、雨宮哲にとっては内省的な方向にはいかないところで踏み止まることがポイントだったのではないか、と推測することはできるでしょう。

だからといって「内向的ではなかった」とは言っても、そのことから「内面が描かれていない」事実は変わりませんし、そのために批判を受けている「魅力がない」主人公像は揺らがないでしょうが。

なぜ、内面は描かれなかったのか。

という問いを立てることはできるでしょう。この記事はその問いに答えていくことを目的にしたものとなります。

ただ、結論から言うと僕からすれば批判の矛先にある「内面がない」という「屈託のなさ」に寧ろ強く惹かれます。それはキャラクターの「内省」に興味がないという次元ではなく、まさしく響裕太というキャラクターの造形にあると言えるでしょうか。

1話の時点で、響裕太は記憶喪失の状態から描かれます。その記憶喪失は、響裕太というキャラクターのアイデンティティの不在を意味しては「足場のなさ」を最初から強調していると言えるでしょう。

作中ではグリッドマンに導かれるように「使命」と「責任」を果たすことが響裕太のアイデンティティとなり、主人公としての確立がなされていきます。

しかし、その精神には屈託がないという無批判的な態度から、「魅力がない」ように映ること(批判の矛先が向かう)は避けられないわけですが、その無批判性をも含めた「内面のなさ」が作中では記憶喪失と結びつくような展開をみせていきます。作中で登場していた記憶喪失の響裕太は「グリッドマンの人格の一部」であり、そのための「器」(響裕太の身体を借りたもの)でしかなかったことが判明します。だから「本物の響裕太」の人格は封印されており、僕らは「本物の響裕太」がどういう人物であるかは正確に知ることはできないように物語的に構成されています。

そのことから「魅力がない」というのは一面的な事実なりますが、なぜなら「本物」は殆ど登場しないことから、「本物」ではないことによる「器」としての屈託のなさがそのまま「内面を直接的に描かない」ことに繋がっていると言えるでしょう。

僕にとっては、「魅力がない」と言われてしまうこの屈託のない「空虚さ」が無批判性と直結しているように見えます。

「本物」ではない(仮)としての響裕太の造形にある「器」は「半ば空虚」であるからこそ成立しています。「本物」というアイデンティティの不在のまま、グリッドマンの「使命」のように仮託された(仮)のアイデンティティを足場にできるからこそ「生っぽい内向性」をそのまま省略できるような「半ば空虚な器」に仕立てたと言えるでしょう。

そこから問題になるのは当然「本物の響裕太」の人権はどうなるんだ的な意見ですが、それは作中で内海将が指摘しています。そのことについて結局応答するのはグリッドマンの人格を引き受けている(仮)の響裕太でしかないので、確かに酷い話ではありますが、それも本題ではないので横に措いときます。

「なぜ、選ばれたのは響裕太だったのか」という問いについては、新条アカネが構築した世界で、誰しもが創造主に好意を寄せてしまうように「普通」に設計された中でも、「全体性」や「普通」に無自覚に、結果的に抗うような(新条アカネにとってはノイズ的でしょうが)形として、新条アカネにではなく、宝多六花に好意を寄せていたことが重要だったことが判明します。この「普通」のように強いられてしまうある種の不可視的な同調圧力の上で成り立つ「全体性」について、「普通」から外れることで、それこそ新条アカネではなく宝多六花に想いを寄せるという「些細な差異」から生まれる「全体から外れた」という一面的な事実による「孤独」が「救済」となり得る可能性が描かれています。まさにヒーロー・主人公の要件として。「全体」や「普通」からはみ出ても、「一人」や「異端」であることが何かしらのキッカケになる。

まさしく「些細な差異」でしょうが、このような「些細さ」を維持するには「内面を直接的には描かない」という省略の技法によって逆説的に印象付けられます。例えば、1話冒頭の宝多六花と記憶喪失になる前の「本物の響裕太」とのやり取りも直接的に描かれていない「省略」の上で物語が成り立っているように。もちろん、その「省略」の結果が響裕太の記憶喪失と結びつき、「内面を描かず」に「空虚な器」のように見えてしまうことからの「魅力のなさ」に連関していくことになりますので無批判性に括られているわけですが、僕にはそのような屈託のなさが「交換可能」であることに救いを見て取れます。

「響裕太が選ばれた理由」は確認したように「些細な差異」でしたが、第2話でサムライキャリバーがラムネ瓶から取り出したビー玉はのちに響裕太が所持しています。このビー玉がまさにヒーロー・主人公の「資格」をマテリアル化したようなもので、最終話ではグリッドマンに対して「今度は俺に」と言っていた内海将がのちにビー玉を手にしているシーンがあります。このような「些細」なシーンから、グリッドマンとなる「器」は継承・交換可能であることが見えます。ビー玉が内海将に移動したように。グリッドマンは「器」となる身体に(仮)の人格を構築することから、「本物の人格」は後退しては「屈託のなさ」が前景化します。

そして、その「資格」に求められるのは結果的に「全体」に抵抗するような「些細な差異」でした。響裕太が宝多六花を好きだったように。その「些細さ」はまるでビー玉が人から人へと移動するように、「交換可能」であり、つまり誰しもが「些細」なことから主人公となる要件を満たす可能性を秘めていることが分かります。この「交換可能性」には「普通」から外れて「一人でも大丈夫」であり、その孤独にある「些細な差異」がキッカケとなり得る。まさしく代入的な意味での主人公的メッセージが込められているように思えます。

だからこそ(仮)の響裕太のように「半ば空虚な器」を仕立てる必要があったわけです。その「空虚さ」が「交換可能」としての「器」であり、屈託のなさとして表れていくようにして。

つまり、内面が描かれていない響裕太に「魅力がない」ことに対する批判的意見と、これまで記してきたような内面を省略することで生じた響裕太の抱える無批判性は必然的に両立するものであり、裏表のような関係として見ることができるのではないでしょうか。

アイロニカルに「魅力がないのが魅力である」という言い方に纏めることはできるでしょうが、それはあくまでも上記のような「交換可能性」と「些末さ」に紐付けられた「普通から外れた」ことへのヒーロー・主人公像的な応答と見るべきでしょう。これらを含めた作品的な「屈託のなさ」にどうしてもアンビバレントな気持ちは抱えてしまいますが、それでも少なからず「ビー玉のように透明」であることが「器」としての機能性を持ち、その「純粋さ」はあまりにも「些細な」ものであろうとも「救い」となる物語性に、僕は勇気づけられてしまいます。

「退屈」の価値転換として。

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