おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

『SSSS.GRIDMAN』 響裕太への批判・屈託のなさ

今、再放送を観ていますが、懐かしい。

その当時も、リアルタイムで観ていて色々語った記憶はありますし、それなりにインターネット上では盛り上がっていたはずではあったけども、今となっては宝多六花と新条アカネのWヒロインへのフェティシズム以外「人気だったわけではなかった」的な言説が半ば罷り通っていたりしているからこそ、SNS(フロー)以外の場所で何かを書き残しておかなければならない(ストック的)と思ったり。

とはいっても、今更『SSSS.GRIDMAN』の魅力をダラダラ書いて擁護しようとは思っていないので、「Wヒロイン要素以外は尻すぼみだった」的な言説に真面目に応答するつもりはなく、その「尻すぼみ」は「実写END」の扱い方をも含めたことは重々承知の上なんだけど、僕としてはリアルタイムでこちらの記事で反応しているつもりです。

 

futbolman.hatenablog.com

 

『GRIDMAN』への批判の一つに主人公に「魅力がない」ことが挙げられています。

主人公、響裕太ですね。

その批判を引き受ければ「魅力のなさ」というのは「内面が描かれていない」ことに尽きると思います。

放送当時も『エヴァ』と比較する言説は溢れていましたし、監督の雨宮哲のインタビューにある「引用への距離感」も話題になりました。『エヴァ』との比較で言えば、主人公の内面に興味があるかどうかは差異となっていて、雨宮哲にとっては内省的な方向にはいかないところで踏み止まることがポイントだったのではないか、と推測することはできるでしょう。

だからといって「内向的ではなかった」とは言っても、そのことから「内面が描かれていない」事実は変わりませんし、そのために批判を受けている「魅力がない」主人公像は揺らがないでしょうが。

なぜ、内面は描かれなかったのか。

という問いを立てることはできるでしょう。この記事はその問いに答えていくことを目的にしたものとなります。

ただ、結論から言うと僕からすれば批判の矛先にある「内面がない」という「屈託のなさ」に寧ろ強く惹かれます。それはキャラクターの「内省」に興味がないという次元ではなく、まさしく響裕太というキャラクターの造形にあると言えるでしょうか。

1話の時点で、響裕太は記憶喪失の状態から描かれます。その記憶喪失は、響裕太というキャラクターのアイデンティティの不在を意味しては「足場のなさ」を最初から強調していると言えるでしょう。

作中ではグリッドマンに導かれるように「使命」と「責任」を果たすことが響裕太のアイデンティティとなり、主人公としての確立がなされていきます。

しかし、その精神には屈託がないという無批判的な態度から、「魅力がない」ように映ること(批判の矛先が向かう)は避けられないわけですが、その無批判性をも含めた「内面のなさ」が作中では記憶喪失と結びつくような展開をみせていきます。作中で登場していた記憶喪失の響裕太は「グリッドマンの人格の一部」であり、そのための「器」(響裕太の身体を借りたもの)でしかなかったことが判明します。だから「本物の響裕太」の人格は封印されており、僕らは「本物の響裕太」がどういう人物であるかは正確に知ることはできないように物語的に構成されています。

そのことから「魅力がない」というのは一面的な事実なりますが、なぜなら「本物」は殆ど登場しないことから、「本物」ではないことによる「器」としての屈託のなさがそのまま「内面を直接的に描かない」ことに繋がっていると言えるでしょう。

僕にとっては、「魅力がない」と言われてしまうこの屈託のない「空虚さ」が無批判性と直結しているように見えます。

「本物」ではない(仮)としての響裕太の造形にある「器」は「半ば空虚」であるからこそ成立しています。「本物」というアイデンティティの不在のまま、グリッドマンの「使命」のように仮託された(仮)のアイデンティティを足場にできるからこそ「生っぽい内向性」をそのまま省略できるような「半ば空虚な器」に仕立てたと言えるでしょう。

そこから問題になるのは当然「本物の響裕太」の人権はどうなるんだ的な意見ですが、それは作中で内海将が指摘しています。そのことについて結局応答するのはグリッドマンの人格を引き受けている(仮)の響裕太でしかないので、確かに酷い話ではありますが、それも本題ではないので横に措いときます。

「なぜ、選ばれたのは響裕太だったのか」という問いについては、新条アカネが構築した世界で、誰しもが創造主に好意を寄せてしまうように「普通」に設計された中でも、「全体性」や「普通」に無自覚に、結果的に抗うような(新条アカネにとってはノイズ的でしょうが)形として、新条アカネにではなく、宝多六花に好意を寄せていたことが重要だったことが判明します。この「普通」のように強いられてしまうある種の不可視的な同調圧力の上で成り立つ「全体性」について、「普通」から外れることで、それこそ新条アカネではなく宝多六花に想いを寄せるという「些細な差異」から生まれる「全体から外れた」という一面的な事実による「孤独」が「救済」となり得る可能性が描かれています。まさにヒーロー・主人公の要件として。「全体」や「普通」からはみ出ても、「一人」や「異端」であることが何かしらのキッカケになる。

まさしく「些細な差異」でしょうが、このような「些細さ」を維持するには「内面を直接的には描かない」という省略の技法によって逆説的に印象付けられます。例えば、1話冒頭の宝多六花と記憶喪失になる前の「本物の響裕太」とのやり取りも直接的に描かれていない「省略」の上で物語が成り立っているように。もちろん、その「省略」の結果が響裕太の記憶喪失と結びつき、「内面を描かず」に「空虚な器」のように見えてしまうことからの「魅力のなさ」に連関していくことになりますので無批判性に括られているわけですが、僕にはそのような屈託のなさが「交換可能」であることに救いを見て取れます。

「響裕太が選ばれた理由」は確認したように「些細な差異」でしたが、第2話でサムライキャリバーがラムネ瓶から取り出したビー玉はのちに響裕太が所持しています。このビー玉がまさにヒーロー・主人公の「資格」をマテリアル化したようなもので、最終話ではグリッドマンに対して「今度は俺に」と言っていた内海将がのちにビー玉を手にしているシーンがあります。このような「些細」なシーンから、グリッドマンとなる「器」は継承・交換可能であることが見えます。ビー玉が内海将に移動したように。グリッドマンは「器」となる身体に(仮)の人格を構築することから、「本物の人格」は後退しては「屈託のなさ」が前景化します。

そして、その「資格」に求められるのは結果的に「全体」に抵抗するような「些細な差異」でした。響裕太が宝多六花を好きだったように。その「些細さ」はまるでビー玉が人から人へと移動するように、「交換可能」であり、つまり誰しもが「些細」なことから主人公となる要件を満たす可能性を秘めていることが分かります。この「交換可能性」には「普通」から外れて「一人でも大丈夫」であり、その孤独にある「些細な差異」がキッカケとなり得る。まさしく代入的な意味での主人公的メッセージが込められているように思えます。

だからこそ(仮)の響裕太のように「半ば空虚な器」を仕立てる必要があったわけです。その「空虚さ」が「交換可能」としての「器」であり、屈託のなさとして表れていくようにして。

つまり、内面が描かれていない響裕太に「魅力がない」ことに対する批判的意見と、これまで記してきたような内面を省略することで生じた響裕太の抱える無批判性は必然的に両立するものであり、裏表のような関係として見ることができるのではないでしょうか。

アイロニカルに「魅力がないのが魅力である」という言い方に纏めることはできるでしょうが、それはあくまでも上記のような「交換可能性」と「些末さ」に紐付けられた「普通から外れた」ことへのヒーロー・主人公像的な応答と見るべきでしょう。これらを含めた作品的な「屈託のなさ」にどうしてもアンビバレントな気持ちは抱えてしまいますが、それでも少なからず「ビー玉のように透明」であることが「器」としての機能性を持ち、その「純粋さ」はあまりにも「些細な」ものであろうとも「救い」となる物語性に、僕は勇気づけられてしまいます。

「退屈」の価値転換として。

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