おおたまラジオ

ぼくはいったいなにから逃げているのか?

新年!2019年が終わってない

タイトルにある通り、2019年の振り返りも2010年代の総括も終わっていない。

何ならゼロ年代の亡霊を葬る祈りもまだ途中。

テン年代の亡霊って出てくるもんなんですかね、とか考えると、私は2010年代を「眼差しの変容」と評したい気持ちもある。

圧倒的な情報量と文脈から切断されているため拡散されるスタンド・アローン的に錯覚として見受けられる前提から、如何に文脈と接続していくのか、という努力をする延長って、歴史化や物語化の困難さそのままだなと。

例えば、なんとなく「無菌系」に表れていた同性間の「巨大な莫大感情」の百合性、BL性の視線がライトに導入されたのも2010年代の特徴だったと思う。違和感と言うことすら違和感がある、当たり前の情景として。

このテーマって、社会反映論的に語ることもできるし、その視線が導入される以前と以後では、百合的だと言われていなかったものですら認識が大衆的に変化したと解釈することもできる。

それは、単に読者含めた第三者の視線によって差し込まれる「莫大感情」な関係性の取り上げ方と当事者たちの与り知らぬところでの「齟齬や祭り」も、それは作品内の文脈であるのだけど、個々に同系統の文脈が乱立した結果、批評的には「日常系」ー「無菌系」の構図において、後者から前者に一度立ち戻る必要性があるような感じ。これも用語の歴史化を再起させるビジョンを与えていると思うし、その用語自体が(既に使用しているオタクの数も含めて)古びてしまった事実とかね。

というのはごく一部だけど、テン年代の亡霊みたいな執着や熱狂すらも(ゼロ年代みたいには)立ち上がり難いのも眼差しの変容だなとか…マジックワード化しているから止めときます。

具体的にはおおたまラジオでやっていきたいですね。

あとは、12月から着々と書き上げている記事の初稿が終わった。

ここから加筆・修正を行うので記事公開はまだまだ先の話ですが、だから、2019年の宿題を引きずったままなので、2020年をまだ迎えていない実感がある。

まだ2020年じゃないんだ。そうに違いない。と思っていないとやってられない現実とかあるんでさ。でも半年後には『シン・エヴァ』なんだよな。どうしよう。ウソ、マジ?え、もう、2020年なの?まだ俺2019年なのに?みたいにMDMAやってないのに時間操作的自己暗示はインスタントにキメちゃえるからオススメ。

今年は、とにかく2019年の宿題を終わらせて、インプットとアウトプットの量を増やすのは当然ですが、そもそも打席に立つ回数とバットを振る回数を比例させていきたいお気持ち。

おおたまラジオの再始動も含めて。

やっぱりね、おおたまラジオで触れたものやそれ以外の作品から読み解いた居場所論を総括すると「手の届く範囲の目の前の事象にコツコツとコミットメントする」に尽きるわけですね。その手触りが居場所を形成していく。

なので「ナナメ」に表れる冷笑主義もきちんとダサいってイメージをシェアしていくべきだし、打席に立ってバットを振るしかあるまいて。打席にも立たず、スタンドから俺なら打てたとか言っている奴って、ダサくない?って。

そんな、打席に立たないゆえに「負けない」冷笑主義と居場所論を巡る「無様なコツコツさ」はインターネットに至るところで見られる事象なんだけど、例えば批評や評論が打ち破れない膜って個人の原動力にある「スキ」への不可侵さと純朴さが一つにあると思うので、歴史化の暴力性と相性悪いのは当然でしょう。それを打席に立つ側が自覚するしかないし、スタンドからの声はよく通る不可侵な領域という前提なので、プレイヤー側も世界の見方を変えるための装置がどれだけの機能性であり、領域を持つのかと素朴に立ち返らざるを得ないんだろうなという反響性の可視化だったなと振り返るわけですね。

そうなると、ランキング形式やメタスコアってもう無理じゃんってなるわけですね。あれをどのくらいの人が活用しているかは知らんけど。互いの「スキ」を集積したものに歴史化の文脈とか関係ないわけですよ。

平成のコンテンツを振り返る時に、平成で何が人気だったのか?を見るのは個別的には重要だけど、なぜそれがウケたのか、どのように解釈されたのか、あるいはそれを作った平成という時代とは何だったのか、という文脈のほうが大事なわけですね。素朴に還元論的に語れとかではないんだけど。

固有の不可侵性が、表現することの暴力性をオブラートに包んで隠しているのは個別的にはOKなんですよね。でも、文脈的にはどうなのかなと思っちゃうわけですよ。

で、述べたように、居場所論的には出来ることをコツコツやるしかあるまいと。

しかしそれも個別的に自閉的になっていく流れに乗っかっちゃうわけですね。個人的には文脈があると思っていても。外から見えている景色は異なるのは当然なんで。

だからメタスコアとかって楽に共有できる。恰も集合知的な要素を抽出したように思えるから。

そうなると、文脈を作れない困難さのままで、ある種の幻想に縋る姿勢が固有的なまま保守化するわけですね。

では文脈や歴史を立ち上げるためには、それを共有するための時間を作るしかないんですよ。言い方を変えると時間を盗むか、操作するしかない…お気付きだろうか。なんと自己暗示的に時間操作していると言ったのは伏線だったのですガハハ。

その方法もひどく文脈的なものであり、文脈を作るための文脈がいるというメタゲーム化するんですね。

じゃあ、どうするか。

それはプラットフォーム的であり、居場所論的であると、ゼロ年代アーキテクチャ幻想の「見える化」のように、あれ立ち返っちゃった?みたいな問答になる。

というのが、今後のテーマですね。

そんな感じで早く2020年を迎えたいと思います。