フトボル男

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『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている12巻』感想「本物」への歩み

  渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている12巻』

待望の新刊!

前巻からおよそ2年の歳月を経て刊行された。とても話題になった。

同時に作者から公の場で「次で完結」という旨も発表。13巻&14巻の同時発売という形であることは驚いたが、そういう意味で最終章において本書は「上巻」という位置付けということらしい。

とても面白かった。

満足度が大変高かった。ストライク過ぎた。

個人的に『俺ガイル』に抱いていた〝作劇場の都合〟についての疑問を作者が見事にキャッチアップして、物語として回転させた点が最も評価されるべき事だと思うが、それを最終章らしさ溢れるシリーズ全体の根っこの一つとしてある「雪ノ下家族問題」の落としどころ探りながら、作中の縮図として輪郭を浮かび上がらせるなど、キャラの感情を揺さぶる描写込みでの用意周到さが巧みすぎた。恐らく軌道修正だと思うが、着地点の見出し方として文句なしだろう。

ハッキリ言って「2年」でこれなら大満足です。

着手していなかった点について上手いこと氷解していくカタルシス、シリーズ全体で寝かせていた部分の起こし方が感動的だった。

他ジャンルの作家とは異なり、ラノベ作家はシリーズ作品の執筆に追われ易い性質なので「なに2年も待たせてんだ」ってなりやすいが、作者が真摯に作品と向き合った結果、作品の方向性や作風との乖離について悩んで筆を折ることもしばしば。それだけに難しい作業なので2年で続編が出て良かったと思う(私は氷川透を諦めていない!)。

 

ご存知の通り『俺ガイル』は7巻以降から物語としての空気が変わる。

6巻まで、つまりアニメでいえば1期までは、ニヒルな八幡の起こしたアンチヒーロー的行動(逆説的にハリボテなヒロイズムが浮き上がる構図)によって、誰かしらが傷付き、八幡自身さえも痛みを伴うものであったが、それに掛けたリスク以上の見返り、つまり大半が救われる=解決するという話。見方によっては6巻まではハードボイルドである。

しかし、八幡の優しさに誰かしらが気付き、歩み寄っていくことで、八幡は一人ぼっちを自負しながらも厳密には『孤独』ではなかった。シャレに孤高を気取りながらも、独りではなかった。

作中のキャラ、読者、視聴者は八幡のアクションに対して理解し、八幡の存在・人格を共有していくような流れであったから。

八幡は影のような存在なので、その存在感が大々的になることはない。そのため秘密めいた情報のシェアは人々に連帯感を芽生えさせる。

「私たちだけが八幡を分かっている」ように。

「……嘘ではないわ。だって、あなたのことなんて知らなかったもの」

(中略)

「……でも、今はあなたを知っている」 

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 6巻』雪ノ下雪乃

 

それでも決して友情のような綺麗なものまでに至らなくても、スクールカーストで最下層だった八幡の存在が認知されて、理解者が増えていくように、八幡を軸に人間模様が回転していく。

そこから前述の通り7巻を契機に、アニメで2期から物語の模様が変化したわけであるが。

この辺から文学チックな主題に嫌悪感を示す読者層も増えた記憶(物語としての重厚感も増しました)。字義通りのライトノベルとして疑問を投げかけるように。

ヒルな八幡が詭弁を振りかざした際に、ストーリーの前半(6巻)まではユーモアに受け取れた構図が、シャレにならなくなるといいますか、後半以降には八幡の葛藤に理解が追い付かない穴にハマってしまった。

「なんで、こんなにこいつら面倒なの?」って思うほどに悩むキャラ達。その心情を以前はシェアしていた読者・視聴者たちは、愛くるしいキャラが遠くに行ってしまったような寂寥感もあったりしただろう。それは作中のキャラも同様に。

 「俺は、本物が欲しい」 

(中略)

こんな言葉で何がわかるのだろう。言ってもきっとわからない。なのに、言ってしまったのはそれこそ自己満足。あるいは、これこそ俺たちが忌み嫌った欺瞞なのかもしれない。どうしようもない贋作なのかもしれない。 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 9巻』比企谷八幡

 

八幡の感情が爆発したことで引き出された正真正銘の本音。特に話題になったセリフ。まさにキラーワードである。

『俺ガイル』後半の主題にあるボッチだった八幡を彩る人間関係における「本物」への欲求を、八幡という作中で最も捻くれた主人公が、不器用にどうしようもないほどにストレートに吐露したからこそ、このシーンは『俺ガイル』シリーズ全体のハイライトの一つとなり得たわけである。

 

「あなたの言う本物っていったい何?」

「それは……」

俺にもよくわかってはいない。そんなもの、今まで見たことがないし、手にしたことがない。だから、これがそうだと言えるものを俺は未だに知らないでいる。当然、他の人間がわかろうはずもない。なのに、そんなものを願っているのだ。 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 9巻』

 

「本物とは?」

「本物ってあるの?」

八幡が投げかけ求めた「本物」について、作中のキャラたちと同じように私たちも巻き込まれていった。

各々が人間関係に悩む。

家庭、職場、学校など。リアルでもネットでも。十人十色で線引きというのは勝手が違うものである。自身が想定したラインが、他人には許容できないことなんて多々ある。それぞれ違うのですから当然。

自分は自分。所詮、他人は他人。キッパリ諦めて壁を作るのも一つの道だが、漫画『銀の匙』において主人公のセリフの一つにこのようにある。

「分かろうとする努力だけはやめたくない」 荒川弘銀の匙 8巻』

その過程において欠かせないのが対話である。だからこそ、コミュニケーション能力の有無が人間関係の形成に必要であり、持たざる者は排除されていく。その課題は、進学、就活、出世、結婚などライフステージの変化に付き纏うものだろう。

八幡は現在高校2年生。大学受験を控える身。さらに言えば、コミュニティとの離別の契機になりやすい卒業が近い未来に訪れることを示す。

別に高校を卒業しても、縁というのは続く。なかには卒業式以降会わずに今生の別れになる人もいるかもしれないが、自分が望めばある程度は維持されるものだと思う。今はSNSが活発ですから、コンタクトを取るのは容易だろう。

しかし、八幡は今までの人生においてそのような「執着・整理」をする以前の人間関係しか作れていなかった。だからこそ八幡はボッチを自称するわけであるが。

そして、奉仕部に入部したことで少なからず八幡の人生に入り組んでくる人たちが増えていった。関わってくる度合いの濃度が増していった。

八幡はある種の岐路に立っている。「本物」という問いを投げかけた意味とリスクと言っていいだろうか。

それが果たして残るものなのか?

続くものなのか?

決して嘘で塗り固められて消えてなくならないもの。その願いから「本物」を求めたとするならば…。

 

作中で八幡が欲した「本物」という言葉。

人間関係の具体化・リアリティ化を指した好例だと思う。

抽象的な線引き(友人と親友の違いなど)において、目的が明確とある効果的な言葉として「本物」をライン上に置くことで具体化を図ろうとしたものの、言葉の効果が反転するところが興味深い。

真偽や真贋の見極めの目安となるはずの「本物」という言葉の価値の基準のそもそもの不透明さ。その効果の持つ抽象性によって具体化を狙ったはずの目的が、曖昧模糊として抽象化されてしまったことこそが『俺ガイル』後半の難解さに繋がったのだと思える。

しかし、八幡の(引用部分)独白にあるように嘘や欺瞞が蔓延する関係性を「偽物」と表現するなら、「本物」という言葉の基準が明確となるだろう。

対照的に「偽物」ではないものだ。必ずしも「本物」だけを求めているからこその発言ではないと思う。「偽物」を拒絶することで、相対的に「本物」の基準が浮かび上がったのではないだろうか。

「偽物」から遠ざかるために逆説的に「本物」という言葉を使用することで、「本物」という抽象性が先行してしまった表現だと考えられる。それだけに強い欲求から発せられた言葉だと捉えることが出来ると思うわけで。

それこそ「偽物は要らない」と八幡が口にしたとする。

「偽物」と「本物」について禅問答のようになることは避けられず、曖昧な意味を掴むための技術や経験も八幡には持ち合わせていない。

俺にもよくわかってはいない。そんなもの、今まで見たことがないし、手にしたことがない。

だからこそ、よりダイレクトな表現を使うことで、コミュニケーションの〝重複となり得そうな部分〟を切り離したと考えるのはどうだろうか。

「偽物」から語るのではなく、直接的に相対的な「本物」を用いることで、自分が把握しきれずにいる特定の表現のシェアを図ることで、議論を通じて相互理解の歩み寄りを求めたと思う。

シンプルなワードを用いる効果の前提として共通理解の有無がある。相互に細部まで突き詰めているからこそ、共通認識として会話の〝ショートカット〟を図れるものである。そこに双方の認識のズレがあれば錯誤は避けられない。言語情報の限界の一端でもあるが、なおのこと双方向性のある歩み寄りが必要不可欠となる。それこそ「裸の付き合い」とも呼べるくらいの身を曝け出すことが求められ、多少の痛みが伴う。そういった前提から信頼は生じていくと考えると、調整のようなコミュニケーションは一時でも欠かせないものになっていく。

ただ、前述の通り、八幡はコミュ力に難を抱えている。彼の鬱屈とした人生への引き金とも言える。

決して鈍感というわけではありません。「気付いてしまう」から歩み寄れないタイプ。

勘違いをして負け続けてきた人間だからこそ、コミュニケーションに線を早く引いてしまう。ある程度、打席に立ったからこその連敗記録。打席にすらも立たずに、スタンドから不戦敗しか経験していない人間には出せない味わいともいえるだろうか。

既にそのパターンは一度味わっている。訓練されたぼっちは二度も同じ手に引っかかったりしない。(中略)百戦錬磨の強者なのだ。負けることに関しては俺が最強。 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 2巻』

その八幡が踏み出した一歩。これほどまでに無様で大きく、偉大なる一歩はないのではないでしょうか。だからこそ不格好な八幡に揺れ動かれてしまう。

 

補足として、アニメ2期のOPテーマは、やなぎなぎの『春擬き』において、歌詞の一部にこのようにある。

道を変えるのなら
今なんだ
こんなレプリカは いらない
本物と呼べるものだけでいい
探しに行くんだ そこへ
「でもそれは 良く出来たフェアリー・テイルみたい」

 物語の転機をそのまま歌詞に落とし込んだ素晴らしい主題歌だと思う。

しかし、「それは良く出来たお伽話みたい」と綴られているように、そこまで願っても「果たして存在するものなのでしょうか?」と疑問を投げかけて、物語の御都合に釘を刺している。

歌手のやなぎなぎは原作のエッセンスを丁寧に掬い上げ、それを歌詞として表現した。原作への愛を感じるのと同時に歌うことで作品への「批評性」という面でも成功していると私は思う。なので、非常にアーティスティックなタイアップの好例ではないだろうか。

 

その八幡が曝け出した意味が多少なりとも落ち着き、理解が進む先にはあるものは…?

厄介なことに「男女の恋愛・友情問題」も孕んでいるので、妥協点を探った結果、彼らの関係性を彩る予定調和=嘘=「偽物」という図式は免れない。八幡の願うものと彼女らが願うものには多少の乖離が生じていくことだろう。

それらを丸々表現化するのって、とても難儀だと思う。

そして、物語の展開的には避けられないところまで来ている。

 

内面と外面のむすびつきのたががはずれているのが人間である。

野村雅一『身ぶりとしぐさの人類学』

哲学者の鷲田清一は、上の文について「(中略)人の感情とふるまいは直結していない。他人と同じ空間にいるとすぐさま同調や反駁が生じ、顔をつくろったり声色を整えたりしている。(以下略)」と文章を添えた。

そのような他人との空間における関係性の危うさに気付き、必要以上に配慮しながら、線を引き、自分の気持ちに嘘を重ねることは、八幡の忌み嫌った「偽物」でしかないだろう。

到底、「本物」になり得ない関係性である。

その傷を隠しながら、舐め合いながら続けていくことを選びかけている八幡たちの予定調和を雪ノ下陽乃が切り捨てた。

今までの流れを汲み、作中であのシーン、あのセリフを吐かせるために設けられたキャラだったのではないかと受け取れるほどに、雪ノ下陽乃というギミックが容赦ないまでに効いている。彼女以上の適任者が居ないという意味で。

気付きながらも気付こうとしなかった人。

そして、気付いてしまったのが12巻。もう止まらない。

八幡たちは意思の共有を図り、感情を通わせ、お互いを尊重するような関係性を築きました。顔色を窺いながらも同調した互恵関係を。

感情を吐露した結果、生まれた歩み寄りに安心していたのは紛れもなく八幡自身だろう。だからこそ、安堵してブレーキを掛けて停滞状態を招いた。ある程度を察しながらも。

12巻は「前進」を表現している。八幡の大きな一歩が描かれている。

そして、作者である渡航の苦心惨憺しながらも作品を推し進める想いが結晶化されている。まさに生みの苦しみと向き合った2年を具象化したような内容なので、それを作中の縮図として浮かび上がらせたのは拍手もの。

感動するしかないだろう。

排他的な空気が帯びる中、常に斜め上?下?な判断で傷付きながらも事態を収束させることに奔走してきた八幡に、自身が有耶無耶にしていた適当な都合と義務的要素の真意を突き付けられ、それらが無くなった際に選択を委ねられた八幡は如何に…展開は熱かった。

シェイクスピア『終わりよければ全てよし』

プロセスがかったるくてもフィニッシュが決まっていれば、大概は好印象のまま記憶に残る。そんなもんだ。

物語がドライブしていって怒涛のクライマックス!みたいなのを勿論望んでいるが、ラストが尻すぼみ・肩透かしであったとしても、12巻の〝意義〟を考慮すると『俺ガイル』を読んできて良かったと思ってしまうくらいに、私は満足してしまった。