おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

なぜ、おおたまラジオは挫折したのか

最後にラジオを配信してから半年が過ぎようとしています。

およそ一年弱、月一ペースで配信をしていた私たちがなぜ沈黙をせざるを得なかったのか。

これは内省的な文章でしかありません。

まず前提として、これまで依存していた配信環境のサービスが終了してしまったことが挙げられます。YOUTUBEと連携していたハングアウトを駆使して、私たちは音声をインターネットの海に投げていました。誰に届くかも知れず。僅かなメッセージを込めた手紙を瓶に詰め込んで海に放るように。

しかしこれは些細な問題点でしかありません。他のサービスを使用して代替すれば問題は解消されるわけですから。その都度、それを言い訳にすることは簡単でしょう。ただ本質的ではない。

半年間に及ぶ沈黙を要するまでには至らないでしょう。

futbolman.hatenablog.com

上記の記事は最後に放送したラジオを文字起こししたものです。これが契機となり、私たちは挫折することになりました。

この本を選択した理由は、える・ろこさんがラジオ中に話す「自分探し」的な問題点について突き詰める必要性を感じたからでした。

実存を語ること。

私のラジオの原体験は、カーラジオから流れてくるFMラジオや深夜ラジオでした。ラジオは「私とその人」を直結的に繋ぐようなミクロな距離感を生じさせる効果があると考えています。まるで「自分だけ」に話しかけているような錯覚を齎し、それは各自のラジオ体験に回収されていくことで、ラジオという比較的小さな媒体の中のまた小さくニッチな群体を形成していく。

パーソナリティの個性や実存を語ることに適したスケールのメディアではないでしょうか。サイズ感に適合し、「私」は増幅していく。それは必然的に聴いているリスナー側に短絡的に届く。安易でありながら、また世に溢れている情報の中で、そこにタッチした偶然性のようなものを意識せざるを得ない。耳を通したそのような出会いが、ラジオだと思っています。

おおたまラジオも例に漏れず、ラジオ内で蓄積されていった文脈に依拠する語りをしてきました。その過程はまさに私たちの実存の一部だったことでしょう。その時に生じた問題意識や美意識が、確実にログとなっていきました。

おおたまラジオは2年目に突入する段階でした。その前に一つの決着を見据えるために、える・ろこさんの「自分探し」問題に着手しました。

ラジオという媒体への考え方の一部は既に記しましたが、私的な距離感のみならず、公的な空間形成をしたい気持ちが同時に生じたのが大きかったでしょう。「私」を語るだけではなく、「世界」に触れる。「世界」を代弁するなんて大それたことではありません。「世界」への手触りを作り出す。その過程は「私」的であり、また公的になっていくのではないか。

しかし、「私」的なものを増幅するのがラジオであるとするならば、些か問題が生じたのは言うまでもありません。

古市憲寿の『希望難民ご一行様』を読み解いていくことで、「自分探し」的な実存にメスを入れることが目的でした。この本は、いわば成熟を促す本田由紀的=「大人」な価値観と問題意識があるからこそ、相対的に、古市憲寿の記述が担保されている若者論です。ゼロ年代においてニッチな実存を語ることこそが、社会を語るといったまさにセカイ系的な図式によって成り立つ社会学が目立ってきた印象がありますが、ピースボートのフィールドワークを経て、炙り出された若者の一部の社会性やプライベートな佇まいがありました。

この本の翌年に震災があり、『希望難民』で出てきた「ムラムラする人々」という概念をより拡張し、いわゆる巷に溢れている一般的な「若者論」への認識を更新しようと努めた『絶望の国の幸福な若者たち』が出版されました。大人たちに成熟を促されても、イマ・ココの消費で充足できてしまう若者たちの姿が記されています。

何が起きるか分からない、いや何か良くないことが起きるかもしれない不安感はある「明日」よりも、イマの幸福な状態に没入していたい「今日」というモラトリアムを温存していく態度は、成熟と相反する。つまり、従来の成熟モデルが通用しなくなってしまったことに起因するわけです。

古市が示したのは、成熟モデルへの後退でした。撤退戦です。モラトリアムな選択の延命とも取れるでしょうか。

もちろん、あきらめない人はあきらめずにやればいい、と苦笑交じりのエールが書かれています。この本は、全体的に苦笑いをしている古市とある種のあきらめに対する真剣さが見えてきます。やはり本田由紀的な意見がなければ成り立たない背景がありつつ、「今日」ではなく「明日」を見出す可能性も当然のように捨てていないが、「今日」を選択する彼らを弁護しようとする若者の代表的な姿勢が立ち現れている。

成熟か否か。今更「第3の道」なんと言われてもという気持ちはありますし、ニュー・タイプが何たるかを観念論ではなく、具象化したモデル作りに勤しむ想像力にも違和感があります。

成熟ができないなら、成熟をしなくてもいい。従来の価値基準では図りようがない若者たちの充足感が溢れているイマ・ココを捉えた基準であり、この価値が宙吊りにならないのは、やはり従来の成熟モデルが片側に乗っかっているからでしょう。

 

平成家族 理想と現実の狭間で揺れる人たち

平成家族 理想と現実の狭間で揺れる人たち

 

 『平成家族』はあくまでも一部でしかありませんが、従来のモデルがなだらかに壊れていったのが平成だったと思います。問題なのは、これが一部では普通化してしまったことです。努力をしても、報われない。夢がない。ありがちな自己責任論に回収されてしまう。このように問題意識として叫ばれる一方で、だからこそ定着してしまった現実としての普通がある。これが平成だったと記憶しています。

私は『希望難民』を通して成熟の判定、ある種の「自分探し」に決着をしたいと考えたからこそ選択しました。

しかし、結果的には「『希望難民』をよく読んだ」ことしか出来なかったことに深い憤りを感じることになりました。

なぜなら、私たちが最終的に至った結論は古市憲寿的な意見を追認するしか無かったことに尽きるからです。これは成熟モデルへの後退であり、延命化でしかありません。温存です。

本田由紀的なものに惹かれながらも、古市憲寿的なものを選び取ってしまう私たちのイマ・ココが如実に表れたことが意味するのは、ラジオという媒体における「私」のインフレを生みました。この結果によって、「自分探し」的問題を図ろうにもモラトリアム的選択をしてしまったことで破綻しています。

本来、私たちがやるべきことだったのは本田由紀的、古市憲寿的な天秤からどのように新たな成熟の可能性を見出していくかだったと思います。従来の成熟ではない成熟として、古市憲寿的なものに引き摺られながらも、その価値観から引っ張り出した方向性の話までするべきであり、それこそが「公的」な領域だったと思っていました。ただ回収したのは「私的な追認」であり、「本をよく読んだ」でしかありません。

「人生はクソゲー」や「運ゲー」と嘆いてみせても、確かに人生にはコントロール不可能な偶発性が流動的に絡んできます。それは「生きることへの呪い」としてあり、成熟困難な現状に対して「外に出ろ!」や「大人になれ」は空虚に響くことでしょう。このような精神性が罷り通ってしまった時代を生きることは、古市憲寿的に代表される楽観的な箱庭の中での「刹那的な生の味わい」を見つけいていくことに終始するイマ・ココへの充足感の肥大化となります。

報われたいけど、報われない。仕方ないけど、イマに満足しているから大丈夫といったように。

運ゲーという前提における差異は、必然的に「持つ者と持たざる者の呼応」となります。自分自身に否が応でも自覚的なっていくにつれ、「箱庭から出ろ!」という本田由紀的な意見ではなく、むしろ箱庭の中で成熟困難であることがデフォルトとなってしまったイマを祝福しながら、つまり如何に古市憲寿的な意見を引っ張りながら、どのように箱庭の中でも成熟していくかといった「貧者」の思想や哲学が要請されていると考えます。

しかしおおたまラジオは、そのような結論に至ることはできませんでした。丹念に読み込み、若者論を語ることで、つまり語り直すことが叶わないまま、若者の自意識というシステムに取り込まれしまった。

私たちもまた「外」に出ることができないのです。

 

私は『ヱヴァQ』を初めて観た時に「二次創作的だな」と思いました。

従来のロボットアニメと違い、『エヴァ』は「機体に乗り込むことを拒否する」=引きこもってしまう碇シンジを描きました。この問題は成熟への意識として表れており、傷つくなら傷つきたくない、という痛みを引き受けない代わりに成熟も拒否する=エヴァに乗り込むことで社会的承認を得るが、その機会を自ら喪失する少年の心を炙り出しました。

ディスコミュニケーションは転倒したコミュニケーション装置だと思っています。ディスコミュニケーションは必然的に、コミュニケーションを要請するからです。この碇シンジ問題は「戦えなくなってしまった主人公を巡る物語」の類型となりましたが、成熟の可能性として単に「大人になれ!」や「自然に帰れ!」ではもはや機能はしづらいのではないでしょうか。そういう意識へのカウンターとして古市憲寿が示した「イマ・ココ」という基準が聳え立つのだから。

一方で『ヱヴァQ』は引きこもっていたシンジが、社会的承認を得るために自らエヴァに乗り込むことを引き受けようとします。エヴァに乗ることで「認められる自分」を獲得するために、そこにセカイへの問題なんてありません。この時点ではセカイがどうなっているかはシンジや観客は知る手段を持っていないので当然ですが。

排斥されそうになることへの抵抗として、エヴァが社会と自分を繋ぐ装置になる。これは『エヴァ』自体が、自己を形成する要素をひっくり返したことを示します。自己言及した結果でしょう。個人の力や意思決定ではセカイをどうこうすることはできないといった不可能性を突き詰めた所作であり、別にエヴァに乗らなくてもいいならばそれでもいいのでは、と主人公である碇シンジをそのまま置き去りにする。それとは関係なくてもセカイは動いている。主人公であろうとする碇シンジが承認されるためにエヴァを引き受けようとしても、「物語の呪い」がかかり、周りから排除されてしまう。個人の、主人公への庇護ではなく、セカイを託された大人たちの覚悟と責任が描かれていました。ある意味、これまで碇シンジに投げっ放しにしていたものを大人たちが引き受けた。すると、主人公の碇シンジは宙吊りになってしまう。エヴァに乗らないで引きこもることが、碇シンジを主人公として逆説的に成立させていた。そこから転倒して、乗りたいけど乗らせてもらえない碇シンジを一周して描くことで、主人公たる資格を剥奪された形に追いやってみせた。これまで以上に関わろうとする碇シンジの意思決定=コミュニケーションが要請されており、ディスコミュニケーションだった碇シンジが、セカイ(マクロな周り)によって希求したコミュニケーションが断絶されてしまう(ミクロとしての渚カヲル)。

この手法はとても自覚的な二次創作的であったと思います。個人の意思を超越したセカイでは、手を引っ張られながらも立ち上がるしかない。歩いていくしかない。剥き出しになったセカイを自覚的に。

私たちの「成熟を巡る檻」も常に自己言及的であり、だからこのような文章を書いてしまっているわけですが。

ラジオという媒体との相乗効果もありましたが、「私的問題」が「公的」に結びついて落としどころを探れなかった。長いスパン問われている「成熟の檻」に私たちもまた囚われてしまったことの証明でしょう。

だからこそ、おおたまラジオは沈黙するしかないのです。

朝井リョウ『世にも奇妙な君物語』感想 だから「わたし」と「君」に着地する

この世は舞台、人はみな役者

シェイクスピア『お気に召すまま』

世にも奇妙な君物語 (講談社文庫)

世にも奇妙な君物語 (講談社文庫)

 

本稿は「脇役バトルロワイアル」のみを取り扱います。

主役と脇役が存在します。

自分の人生であれば、自分自身を主役と捉える。

それは言い換えるならば「わたし」と「他者」にもなり、「ぼく」と「きみ」ともなるでしょう。物語とは、その変奏として形になるのだから。その関係性が紡がれていく情報が、物語という形式たる所以でしょうか。

主観と客観は、物語の情報のフレームとして表れ、それぞれの記述方法として立ち上がります。

「わたし」や「彼ら」の目というレンズを通してしか物語や現実にタッチすることはできない。これは、カメラを通じて、つまり虚構を経ることでしか現実なるものとは接触できないことを意味するからです。今や現実を虚構のようにコーティングすることは日常的になり、画面の中に存在する現実への手触りは幻想を生み出しました。そこに身体性はありません。それでも、私たちは物語に没入していきます。物語に触れるという主体性について、身体的感覚としては「本を読む」といった目で文字を追い、手で項を捲る以外の動作はありません。それにも関わらず、虚構は容易に私たちの主体性を取り込み、主観的にあるいは客観的に形式的に情報のフレームを立ち上がらせます。

本作では「脇役」という虚構の設定を用いて、「脇役」というキャラ化の現実を描いています。

本作にとって重要な要素となる視点による語りの主観性と客観性があります。その要素について、朝井リョウは既に『スペードの3』で記しています。

 

スペードの3 (講談社文庫)

スペードの3 (講談社文庫)

 

 

同作では、複数の視点を複合的に用いた視点移動によって語り手のヒエラルキーを形成してみせました。ある人にとっての存在の「表と裏」を描くことで、単一的ではない「その人は誰にとっての存在であるか」という存在性を炙り出すことに成功しています。ある人物にとっては主役のような存在に映り、その人の立場では誰かの影によって霞むことで脇役に追いやられてしまうという存在性が持つ二重性は、一元論的に語れない複雑なキャラ化を意味していることでしょう。

人は自分が見たいように世界を見て、その有様を記述します。

また、自分の認識できる範囲内でしか語ることはできません。『スペードの3』が描いている存在性の二重性は、その複雑さを常に片側では担保しつつ、語り手の位置付けによっては語られることができない認識不可能性を証明しています。

自分が取捨選択した情報の断片をどのように解釈するかは、もちろん自由です。

例えば、ツイッターのTLの構築はまさにそうでしょう。玉石混淆なインターネット空間をどれだけ自分にとって都合よく快適に使用するか。その自主性によって選択可能なのが「フォローする」ということです。しかし、情報の近似性を期待してフォローしてみても、他人が思い通りに行動するかは別の問題です。同時に期待して構築されたTLはあくまでも個別的で、一面的に過ぎないことは確かでしょうし、それはツイッターが構成する気分の一部の代弁でしかありません。一面的ではなく、多面的に情報の裏側が存在し、自分が見ているのは断片でしかないことは意識すべきことでしょう。

これは、主観と客観の差異にも通じます。

 

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)
 

 

起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際は実に単純な、よくある話にすぎないだのだろう。

でも、私たち一人ひとりの立場からその全貌が見えることはない。物語の登場人物は、自分の役割の外側を知ることはできないのだ。

それぞれの人物が抱えている情報の断片が物語のフレームになり、強度になっていきます。その情報の断片の外側に触れることはできません。知らない用語を認知した途端に検索することはできても、知らないことを知らないまま検索することはできないように。私たちが抱えている「分からなさ」は外側に伸びていくことも瞬間的に可能ですが、常時的に内側に取り込まれてしまう機能を持っています。分からないことは分からないからです。

例えばセカイ系という言葉があります。詳細は記しませんが、「きみ」を見るしかない「ぼく」の物語とも捉えることができます*1

もちろん、システム=世界設定の底が抜けたという設定に放り出された「ぼく」が「きみ」を見ることで一定の客観性が温存されながら、なにもできない無力感による「ぼく」の自意識とセカイにおける「きみ」の存在感が肥大化していく物語構造だと記すことは可能でしょう。

このセカイ系における「ぼく」の「きみ」を見ていることしかできない不全感による目線は、物語を消費する読者の温度を重なることがあります。その物語体験は固有のものとし、「ぼくときみ」の物語が、読者という「わたし」の物語にもなっていく。

本作のタイトルにある『世にも奇妙な君物語』の「君」とは誰のことでしょうか。これは朝井リョウによる、君=あなたという読者を示していることは言うまでもありません。掲載されている短編を読めば分かるように、作中のキャラ同様に読者含めた「君の物語」という構成になっています。つまり最終的には「読者の物語」として決着しなければなりません。でなければ『君物語』というタイトルにはならないからです。

『シンデレラ』という作品があります。同作ではシンデレラになれる人がいる一方で、シンデレラになれない人々も描かれています。ガラスの靴が履けない人やシンデレラを苛めている人。主役がいて、脇役がいる。

他者からみえる「わたし」がいて、「わたし」からみえる他者が存在します。誰もがシンデレラのようにガラスの靴が履けると思いたいものです。

しかし、世の中にはシンデレラになれない人も当然います。だからこそ、シンデレラコンプレックスという言葉が生まれるのでしょう。果たして、シンデレラになれない脇役の嘆きは癒されることはあるのでしょうか。

「脇役バトルロワイアル」は脇役たちの悲哀を描いた鎮魂歌となっています。脇役という「わたし」のフィルターを通して、現実に接近していく物語なのだから。

そして、このレンズは読者の「わたし」=「君の物語」に重なるのか追っていきましょう。

「主役を選ぶための最終候補が年齢も性別もこんなにバラバラだなんて、そうそうないよね」

主役とは物語の中心人物です。

キャラ、ストーリー、世界観と分けることができますが、キャラの中心は主人公になります。作品を支える重要な柱の一つがキャラであり、物語の根幹を担うのが主役でしょう。

しかし、オーディションに集められた彼らは、脇を支えるキャリアを形成してきた人ばかり。主役を選ぶことは物語を支えるコンセプトであるために、バラバラな人材は避けられるのがベターですが、この舞台の設定は脚本家の意向により、作品主体ではなく人間主体の舞台となることが示唆されます。台本は物語ありきではなく、人間ありきで決定されるような舞台。つまり、誰にでもハマれる可能性があります。

ただし、脇役ばかりを集めることは一方では個性的とも受け取れますが、個性が集団化してしまうことで中和してしまうことがあります。存在感が馴染んでしまう。それは主役が放つ輝きとは別に、その場のバランスを提供してしまうものでしょう。存在感の磁場によって中心が形作られていくように、脇役が場を埋めてしまうことは磁場の引力を和らいでしまうことになります。*2それが如実に表れているのが本作のモチーフになるでしょうか。

主役を望む一方で、脇役として根付いてしまったキャリア。誰が主役をやるかという競争を描きつつ、「脇役の脇役による脇役のため」の作品になっているのが皮肉になっています。「脇役」というキャラに回収されてしまうためです。

このオーディションの舞台設定は人間主体とし、結果的に「脇役」のキャラによって舞台のコンセプト=物語が決定されていきますが、主役を望む彼らとは別として、「脇役」に回収されてしまう物語構造の皮肉があります。

本作は「脇役」に徹している俳優評とも受け取れます。同時に「ドラマあるある」ともなっており、それが脇役の悲哀にもなっていきます。

落ち込んでいる主人公を励ます学生時代の友人。堅い組織モノの中でコミカルに描かれる人物。感情の起伏が激しい主人公の相談役。組織における中間管理職などのように「脇役」という配置による軋みが、恰も朝井リョウの俳優評に乗っかって「言わされている」のがユニークに映ります。このように脇役には「言わされる」セリフがあります。その客観的な説明に基づいてドラマが動くからです。脇役が情報の整理や補足を「言わされる」ことで、主役と状況を固めます。脇役によって徹底的に客観性が担保されることで、物語は主人公の主観的に展開されていく。

脇役の自意識と「あるある」を整理するかのように語り手を担っている淳平は、かつて先輩俳優からこのように言われました。

「俳優は、特に主役をやるようなやつは、簡単にバラエティに出てべらべら喋るべきではない」

「主役にはミステリアスが大切なんだ。つまり、この人、本当はどんな人間なんだろう、と思わせることだな。お前みたいに空気を読んで、周りの人とバランスを取って、なんてこと、役者は本当はしなくていい」

「だから科目で不器用で、という人間が主役として愛される。客観じゃなく、主観で生きているやつが主役なんだ。宣伝コメントだって上手に言えなくていい、ニコニコせずただ自分が思ったことを言えばいいんだ。お前は器用すぎる。客観性がありすぎる。」

本作で記されている脇役論とは相反するかのような主役論が並んでいます。逆説的に脇役は器用であるがために、そのようなキャラを求められてしまう。主観的な振る舞いが許される主役を引き立てるために、客観性のある脇役が配置される。

それは作劇における調和そのものでしょう。予めキャラ化に伴っている客観性が物語に組み込まれていく。本作も倣っているのが痛烈な脇役論になっています。

「だから、作品の中では俺たち脇役が補足や説明をする。それは当然のことだ。だけど」

渡辺はここで、唾を飲み込んだ。

「その関係性を、作品の外にも持ち込まれることがある」

物語におけるキャラが実存化していくことを意味しています。

虚構の背景が現実のように立ち上がってしまう雰囲気に対して、外部的/内部的評価としてキャラ化してしまう。ここで述べられている脇役=キャラ化のアイロニーは、作品の外に持ち運ばれた外部評価でありますが、その脇役の矜持すらもキャラ化の一つの恩恵=内部評価に回収されていることは見逃せません。

空気を読みすぎてしまう。調整の立ち回りを演じてしまう。

一方で主役のように空気を打破することは、染み着いてしまった脇役という客観性による既存のキャラ化の脱皮を促します。この物語の設定自体が、脇役が脇役たる所以をメタ認知していくことと解釈できるでしょう。

しかし、上述のように脇役というキャラ化の恩恵が矜持になり、あるいは免罪符にもなっています。それらの客観性という自意識の檻によって、主役のように振る舞えないジレンマが描かれています。キャラとして求められてこなかったために。

脇役の仕事は、状況をさらに補足することです。

本作は三人称視点で描きながら、淳平の内面を炙り出す様に展開されていきます。淳平のみにモノローグがあります。それは、淳平が物語における語り手の宿命を引き受けていることを示しています。

では主役なのか、と言われると単純でもありません。

物語上、語り手という主役的な扱いを要請されている一方、これまでに展開されてきた脇役論に余すことなく語り手としての性と役割が充てられています。記述自体は三人称的でありながら、淳平の目線が入り込んできます。淳平の目を借りて、読者は物語に没入していくことになります。それによって恰も淳平が主役=主観のような錯覚に陥りますが、本作のラストで分かるように結果的に説明役=脇役を担わされてしまいます。

例えば、主観的に「信頼できない語り手」は主役に相当するでしょう。

しかし、客観的に信頼できない状況への語り手は脇役となります。淳平の役割が該当します。ミステリとして読める朝井リョウの著作をそのように評価する人は一定数いますが、ミステリにおける語り手はワトソン役と称されることもしばしばです。これは淳平などの脇役が配置されるパターンでしょう。もちろん探偵役による語りも存在します。その場合、一人称であれ三人称であれ、探偵の思考の足跡を辿ることが醍醐味になります。なぜならミステリにおける輝きの一つには、謎を解体していくカタストロフィがあるからです。それが為される語りをする担い手は必然的に主役と称されるでしょう。

本作では謎=舞台設定へのコンセンサスは脇役によって図られます。誰もが主役を目指し、競争意識の中でルールと自意識を確認していく。

一体どうすれば主役になり得るのか。

適材適所という言葉が登場します。主役をやる人間がいるように、脇役をやる人間もいる。シンデレラになれる人がいるように、ガラスの靴が履けない人もいると同じ理屈です。これはナンバーワンではなくても仕方ない。オンリーワンでもいい、といったオンリーワン幻想による慰撫を促す側面もあるでしょう。

自分の人生ですら主役になれない人はいます。『スペードの3』で描かれたように誰かにとっての理想であると同時に、誰にかにとっての脇役でしかない現実もあるでしょう。脇役の肯定はある種のあきらめに通じると考えます。理想の挫折として着地する現実について、どのように折り合いを付けていくのか、は人それぞれでありますが。本作のように主役という共通の理想が目の前にぶら下がっている一方で、自分たちの立ち位置は現実として脇役に根付いている。キャラに回収されてしまう。

物語の外にいる人間はもちろん、物語の中の登場人物でさえ、空気を読まなければならない。実生活では客観性を持つことが大切だとされながらも、役者としてはそれではつまらないと言われてしまう。空気を読まない一言で映画の舞台挨拶をめちゃくちゃにしたあの女優だって、今ではもう、飾らないところがかっこいい、芯があってブレない人、だなんて言われている。淳平はあのとき、その隣で必死に空気をよくしようと努めていた別の女優の姿を見ていた。だが、結局評価されるのは、あの場を何とか成立させた脇役女優ではなく、客観性もない、空気も読まない、だけど圧倒的にその場の『主役』になれる人なのだ――。

しかし語り手の存在なくして主役は存在しないこともあります。

引用した女優であれ、それを観る・語り手がいなければ、その客観性のない痕跡は残りません。この物語がそうであるように、雄弁な語り手という存在性といったレンズやフレームをなくして対象を認識することは出来ません。繰り広げられている脇役論も、脇役がいなければ成立しません。

また並行的に語られる「理想」の主役論も、脇役が語ることで成立しています。ここに主役が存在すれば、「現実」としての主役論が語られると思うからです。

淳平は、世界は一人語りでは成り立たないと悟ります。

しかし物語世界は「わたし」と「きみ」の情報のフレームを自由に絞ることができます。ときには主役によって成立することもあるでしょう。単一的に徹底的に「わたし」の内面を描くとしても、他者=「きみ」との比較による軋みによって物語は変奏していくように、「わたし」という主役を配置しても、メタレベルでは読者という「わたし」でもあり「他者」との接触が生じます。その記された事と受け取った後の解釈の豊饒さこそが、物語を支えていくことに他なりません。

淳平が気付いた「世界への語り」は、確かに誰かによって見られているから成立します。結果的に誰にも見られていなくとも、誰かの目を気にして語られていればという前提も含まれます。それでは、主役は世界を語る術を持たず、脇役によって支えられていることを意味するのでしょうか。確かに脇役の説明によって物語を動かすことはできます。

しかし、物語を終わらせることはできません。現実とは違い、虚構はパッケージ化されたフレームを用いるからです。本作では脇役と淳平というフレームを借りて、読者は物語を受容します。物語として完全にパッケージ化された情報を受け取るにはピリオドが打たれる必要があります。*3

本作では「遅れてやってきた」芦谷愛菜という主役によって、物語が「終わることが出来るよう」にできています。

淳平ではなぜ終わらせることができないのか。彼が脇役だからです。

しかし、だからといって芦谷愛菜が「主人公」であるかというとそうではありません。いうまでもなくこの物語の主人公は脇役である彼らなのです。「主役の不在」を脇役に充てることによって、彼らの自意識が多面的に描かれ、「主人公的」に映ります。

物語を動かすために「言わされる」セリフをつい「言ってしまう」客観性の欠点的構造は「主役」が不在でなければ成立しません。脇役が集ったからこそ生まれた磁場なのだから。彼らが客観的に、空気を読んで語る事象に拠りかかることで存在感を保っている側面はあります。

キャラ化の功罪でしょう。

同時に主役も、彼ら脇役がいなければ「語られる」ことができないといった共犯関係的構図に引き込まれていきます。本作のラストは、それを具体化してみせました。

 

なんだよ。なんなんだよ、結局こうなるのかよ――淳平はそう毒づきながらも、心の中ではほっとしている自分がいることにも気が付いていた。

すう、と、息を吸い込む。

「『……やっと目が覚めたようだな』」

淳平の足元で、バタン、と音がした。

 

虚構の「わたし」というレンズを通して、読者は現実の誰かにとって脇役である「わたし」を確認していくような心地があります。

しかしながら「彼ら」と読者の「わたし」は厳密には一致することはありません。『スペードの3』のように存在性の二重化、複雑さを主観的な語りでもって「表と裏」側を常に認識させることに一定の効果はあります。読者は自ら物語のキャラに感情移入して物語を受け取る権利があります。解釈は様々あって然るべきですが、物語を追体験してもキャラと厳密に一体化できません。この物語は「わたし」のものであると解釈することは可能ですし、キャラを指して「これはわたしそのもの」であると受け取ることも自由です。

ただし、キャラと厳密な同化はできません。物語はあくまでもキャラ固有の物語として記されているからです。物語を経て、恰も自分自身が体験したようにシュミレートすることは可能ですが、物語に直接働きかけることができない読者ではなく、作品世界にコミットができるキャラありきで物語が構築されている事実がありますし、それを観る読者の存在によって「語られた存在性」が共生できる関係になります。

読者は「読書をする」という主体性を持つことで、主観的に物語に接することができます。「わたし」や「彼ら」を踏まえた客観的な記述方法であろうとも、どの細部や差異を解釈するかどうかは作者の手を離れて、主体的な読者の権利と解釈できるでしょう。

しかし基本的には「他人の物語」を眺めることに対して、読者は傍観者でしかありません。物語に対して、作者のように直接的なアプローチが出来ないですし、キャラのように直接働きかけることも出来ません。

ですが、これまで「わたし」を通して語られる固有性も、メタレベルにおいて物語を受容して消費する読者の観察者的実存や倫理はあらゆる技法で問われてきました。

『君物語』は「あなたのための物語」であると解釈できます。再三述べているようにキャラと読者は厳密にはイコールにはなれません。目線は共通であるにしても、物語を体験するキャラを読むことで追体験するに留まるのが読者です。

本作のように脇役がピックアップされて「主人公」になることで、物語という形式上置いていかれていたキャラが繰り上がるにしても、読者の実存は動きません。

それらに対して実験的な作品があります。

 

qtμt キューティーミューティー 1 (LINEコミックス)

qtμt キューティーミューティー 1 (LINEコミックス)

 

 

さやわか・ふみふみこ『キューティーミューティー』は、魔法少女モノといった(物語構造的に戦えなくなってしまった歴史において)男性の不在の中、代わりに戦って悲劇に遭うことで、彼女たちが持つ少女性が搾取されていく物語形態のある種の神話化に成功した『まどマギ』以降の路線を継承した作品だといえるでしょう。

ただ『まどマギ』のそれ以上に大胆に少女性を侵すことによって、キャラの「性と死」を消費していくことに物語の快楽が宿るかのように、物語としての包括的なアイロニーを受容する読者という本来ならばメタレベルの視点に対して、明確に作中のキャラの実存レベルに落とし込むことで容赦なく「物語を読む」という消費する行為を突き付けました。

私は、大きな括りで魔法少女モノ(男性不在)を正確に更新した作品だと思っています。

『キューティーミューティー』では、作中キャラの「性と死」の消費感覚を読者と同じメタレベルに引き上げる運動性があるのと同時に、読者の実存を一部のキャラに落とし込む運動性があります。この二つの運動性によって、肥大していく物語消費の欲望の可視化を一致させる試みがあったといえるでしょう。

このようなキャラの実存をメタレベルに引き上げる運動性と読者の欲望を可視化するように落とし込む運動性の一致は、「脇役バトルロワイアル」にはありません。

しかし、ラストの視点のショッキングさは一定の効果を生んでいます。ラストで分かるように物語には綺麗にピリオドが打たれています。「これ以上語れない」といった幕引きは、まさに語り手の不在を意味する側面もあります。つまり、「それ以上読むことができない」読者の実存が、物語構造として一致していく運動性があります。

最後は、淳平が落下して終わります。

物語を記述する人間、語り手の不在によって観察する術がないからです。

しかし、きっと物語世界では、オーディション会場で誰もいなくなった部屋で目覚めた芦谷愛菜がいることでしょう。その様子をオーディション記録用のカメラが捉えているに違いありません。この作品においては、カメラの役割を担っていたのは淳平です。そのレンズを使って読者は物語を読んできました。読者には淳平が居なくなったことで、主役である芦谷愛菜を観るカメラがありません。

つまり、主役を観る手段を読者は持っていないのです。

だけどきっと、カメラ前に主役はいることでしょう。その様子を捉えることができないのは淳平という語り手の不在によって齎されたものです。脇役でありながら主人公である淳平の不在によって、それ以上を観ることができず、読者というメタな存在は物語世界を覗けないことが問われています。これは脇役という語り手のキャラに読者が取り込まれ、脇役同様に、主役のように「振る舞うことができない」ことも示しています。

なぜなら物語に働きかけることができるならば、主役を認識できるでしょう。

主役は物語の中心であり、主体です。この物語では淳平たちが主人公としていますが、彼らは脇役という現実に落ち着きました。「主役になれない脇役たち」という主人公でです。それが主役の不在を描くことで、逆説的に主役を取り巻く環境にコミットしているのが本作でしょう。その環境に読者は取り込まれます。

淳平の落下と同時に物語を観ることができないのは、淳平という脇役の実存に読者が組み込まれていってしまうからです。そのために読者ですらも「物語を語れない/観ることができない脇役」として幕を閉じるのです。

だからこそ、これは「わたし」の、「君」の物語になってしまいます。

つまり朝井リョウから贈られた『君物語』なのです。

この終わり方では「脇役は脇役に過ぎない」といった適材適所を推し進めるように映るでしょう。空気を読んで、客観性が担保されて、そんなキャラ化に矜持や免罪符を獲得している自意識すらも仕方ないと。あきらめを促されているように。それは一面的には否めないでしょう。

朝井リョウが描いたのは熱っぽく「君」を励ますのでもなく、適当な温度で自分自身を受け容れていくことだと考えます。

淳平も主役を望みながら、最後はほっとした一面を覗かせていました。自己のキャラを肯定することは、現状の足場を確認することにも繋がります。過剰な自意識すらも取り込む確かさは磁場になります。

この物語は、脇役という磁場によって描かれています。キャラ化が横行してしまった脇役が発するルサンチマンが、主役の不在だからこそ逆説的に主人公として映えている。ここで、主役の座を獲得することは、脇役にとっては外部評価のリセットでもあり、自己評価への足掛かりになりますが、脇役というキャラ化で生じた安定もあることでしょう。その酸いも甘いも知っているはずです。

定着したキャラへの眼差しを自己批評的に向ける。

脇役という虚構が、現実的なキャラとして侵食していくことで、内在的な自己への目線が表層的に炙り出されたように。脇役の客観性が立体化したように。現実における「わたし」が、脇役という虚構と切り離せない規則性を見出してしまったように。

本作で描かれた脇役たちによる脇役論は、彼らの主観=「言わされている」が、コンセンサスを獲ることで客観的になりました。自分語りが「自己幻想」を補強していってしまう中で、客観的に明示された脇役論が、結果的に彼らを癒していきました。

決して器用な自己肯定ではありません。不器用な自己肯定の過程が描かれているのです。「君」への処方箋になるとして。

 

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*1:詳細は前島賢セカイ系とは何か』を参照してください。

*2:並行として『桐島、部活やめるってよ』は「中心の不在」を描くことでその磁場の周辺を立体的にさせました。

*3:週間連載などのように現在進行で続いている作品も一話完結として提供されているように、それぞれの形式であれ、切断されることでパッケージ化されています。でなければ、情報を完全に受け取れることができないため。

ヤマシタトモコ『違国日記』2巻感想 記号化された対比への祈り

 

違国日記 2 (フィールコミックスFCswing)

違国日記 2 (フィールコミックスFCswing)

 

 

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2巻は「対比」が多く用いられている。

詳しくは以下で記していくが、本稿は上記の1巻感想記事からそのまま引き受けた上で出発しているのでご注意を。

朝が両親の死から初めて「自宅」に帰り、家財を整理するシーンから始まる。

槙生は「人がいないと家って空気が動かないせいかこもるからね」と言い、あの日から誰も帰ってこなかった家の空気の停滞感を口にした。現実として眼前に誰もいなくなってしまったことで「むわっとする空気」を作り出してしまった非日常性と家という日常的な空間の空洞化の対比がある。

無造作に投げ出された風景を見て、居なくなった人々の喪失を描く。風景に感情を投射する技法はハードボイルド小説で多く見受けられるものであるが、意味が空洞化してしまった風景が目の前に無機質に広がるシーンから、朝が当事者であるが、その彼女ではなく、槙生を中心に物語は動く。

それは槙生の心理的整理という通過儀礼を示唆するような構成である。物を整理していく内に拒絶していた姉のイメージとのギャップが生じていく。思い出に固執するかのように制服を捨てず、また麻の服を買っていたりと槙生の知らなかった姉の存在を追認していく作業が淡々と繰り広げられる。

姉という立場から強権を振りかざすことを躊躇しなかった彼女に対して、槙生は踏み躙られた過去があり、それが同調圧力的「普通コンプレックス」となっている。

来るはずだった「来週」

取り込まれるはずだった小さいタオル

クリーニングで出すはずだったストライプのシャツ

水をもらえるはずだった植木たち

期限どおり返されるはずだった図書館の本

誰にも見られるわけなんかなかった使いかけのコンドームと

レンズがぼんやり汚れた たぶん家用のメガネ

世界から忽然と存在が消える

 前項までに槙生の視点から「来週が来なかった存在性の現実」と過去に取り残された風景が局所的に用いられ、上記のモノローグは白く淡々と、心の行間を埋めるかのように描かれている。

「世界から忽然と存在が消える」のシーンでは、ページに明暗のコントラストが入り、まるで存在性のONとOFFのような意味に取れる。それはイマというリアル=ONな槙生たちが、既に「来週」を迎えることなく過去として通過してしまっている=OFFな存在性が浮かび上がる風景に没入させるからであるだろう。

存在の有無が突然的に決定されてしまうことへの不条理に対して、そんな非日常性が日常性に取り込まれるまでの「そこに居た」残り香を槙生たちが掬い取る作業が物理的心理的整理となり、無機質に停滞した場の空気は。リアルな存在性によって動かされていく。

冷蔵庫の整理のシーンでは、槙生とは対照的な整理が行き届いていることが分かる。自家製ピクルスを保存している瓶を見付けては槙生の母が作っていたことを思い出し、姉も倣っていた事実のように、制服の件と一緒で思い出に執着する印象を与える。

朝は母のことを現在形で語る。それは突然の死を、喪失感を受け止めきれていない現実への希薄さを意味する一方で、槙生との対比にも繋がっていく。

槙生は過去分詞の例を出し、現在完了進行形のニュアンスを明確に伝える。

過去のわたしから 今 少し未来のわたしへ 繋がる

 続いている

それを強引に断ち切る必要はない

 現在完了進行形としてイマにも続いている朝と過去完了形で語る槙生。

朝にとっては現実というイマ・ココの整理であり、槙生にとっては過去の整理の最中であることを意味する。これは居なくなった・消えてしまった後のイマの整理をせざるを得ない状況について、朝にとってはイマであり、日常だったものである現在完了進行形で捉えることができる一方で、槙生には過去完了形で断ち切ったはずの過去が、イマとして覆うことで姉の知らない一面を知る行為となっているのが印象的だ。

また「強引に断ち切る必要はない」と言った槙生のコマでは、上段では指先を描かないカットから、下段では指先のみを描くカットへと繋げることで対照性にクローズアップしている(背景にコントラストが入っているのも同様)。つまり強引に断ち切った側としての槙生の実感であり、過去完了形の所以であることが示されているが、これは過干渉からの距離を指し、他者との距離そのものだろう。過干渉自体は姉の象徴であり、ラベリングされた側の槙生の息苦しさの一つだったと推察できるが、朝とは「家族」でもない他人同士でしかない。固有の感情は大切に配慮されるべきであり、踏み躙られるべきものではないというのは1巻のセリフの意味するところだが、それは姉への反動であり反面教師とも取れる。

もちろん、それは厳密には描かれていない。槙生の回想でしか姉は登場しないし、槙生の中での姉像は確立してしまった後のイメージのまま断絶が生じているからだ。

しかし、その事実が、朝という少女と共にいることを選択した槙生にとっては「呪い」のような存在性が槙生の背後で確実に立ち上がるものとなっているのは皮肉ではないだろうか。

ゴミ出しのシーンでは、日常的風景をかつて眺めていた人間の存在性の不在を痛感させることに成功している。風景に意味を与えるのではなく、ここでは風景を見ていた存在に意味を与えているからだ。この風景への意味の捉え方は冒頭とは違う。しかし、それでも風景や日常は広がっている。

過去完了形といっても完全に完了していなかった槙生を中心に据え、まだ夢心地のように平然と寝ている(寝るしかない)朝との現実感の濃度としての対比がある。物語として先に槙生の「呪い」に触れることで、朝がこれから抱えざるを得ない時限爆弾へのリミットが起動するようにしたことも見逃せない。朝を中心に据えてしまうと「親子」と向き合わないといけない。それはイマの槙生との関係性への名前が付けられない曖昧な関係性だからこそ担保されている手触りが、物語の展開としてより立体的に生々しくなってしまうことが避けられずに、この早いタイミングでその爆弾を押すものではないだろう。そもそも『違国日記』は、あらゆる磁場から離れたような居場所の心地よさを名前が無い関係性で記していく物語だと考えているので、現在完了進行形である朝ではなく、もう一人の主人公である過去完了形の槙生の視点から、どのように姉(共通の「他者」に対しての自己イメージとのギャップ)と向き合っていくのかという展開をしていくならば、「朝と母―槙生と姉」という「家族」における二層構造から後者のラインを動かすことで、前者のラインを保存したまま、つまり朝の非日常から日常への回復の困難さについて、槙生の視点のまま非日常的な断片を掬い上げることが出来る。この目線はイマ広がっているリアルと失われたリアルの同居を導くものだろう。

間違いなく風景が心的に意味を与えている。

 

卒業式に向かう朝。制服を誤って捨てたかもしれないとバタバタする傍らで、槙生は「家族だと思わず相手を責める言葉が口をついて出るものだったな」と独白するが、この二人の関係性は前述のように家族以外の名前であり、そもそも固有名詞を付けられないものだ。関係性として名前がない。しかし、抽象的であるかというとではない。名前の付けられない関係性として個別的で具体的であり、それ故に生じる温度がある。『違国日記』はその手触りを記述していくはずだから。

制服という記号は制服を身に纏うことでインスタントに獲得できる。それは記号性に没入させるものであり、日常への一時の回帰にもなる。

しかし、友達のえみりの親伝手から、先生やクラスメイトに朝の件が知れ渡ってしまっていた。朝の預かり知らぬところで勝手にラベリングされてしまう恐怖と不条理。可哀想な子として大衆的にパッケージ化されることは「普通」への距離そのままだろう。勝手な大人たちの都合によって日常性への回帰が切断され、もう後戻りできない朝。

みんなもうあたしのことを あたしじゃなくて

「親が死んだ子」ってしか思わない!!

ふつうで卒業式に出たかったのに!!

人には「普通」という記号が拠り所になることがある。その記号の持つ「呪い」は槙生を傷付けてきたものであり、朝はイマそれを望んでいる。自意識として、外装として記号を望むことで「普通」のパッケージ化がなされることへの朝の主体性に対して、いざ知らずにラベリングされて他者に勝手に立ち入られる権利などはなく、固有の感情は自分自身ものであるという槙生の言葉が朝の回想として復唱されるコマ割り。「普通」の記号を求めていたが、それが適わなかった際に与えられた言葉が心の支えになるようにシフトしている。

このシーンでは、いわゆる「大人」と槙生との対比になっている。先生や親といった大人だからこその言葉と槙生だからこその言葉は「違う国」だ。公的な言葉と私的な言葉の違いは、それぞれの立場を示すものであるが、他者としての朝に対して投げかけるべき言葉の責任はまたそれぞれ違うのも当然だろう。 ここで出てきた「大人」と槙生との対比によって生じる「大人」という概念はこの2巻の重要なモチーフの一つであり、それは後述する。

怒り絶望した朝が本能的に帰った家は、前まで家族で住んでいた家だった。足元を見つめるカットは、1巻の「砂漠」で「ぽつーん」と立ちすくんでいる朝のシーンを彷彿とさせる。どちらも共通しているのは足場の不確かさに起因していることだろう。

朝にとって思わず逃げ込みたい場所として、それは槙生の家ではない。帰り道が思い出せないことは、どこに行けばいいのか分からない不安定さであり、自分の帰るべき「家」=日常との切断が表れている。それは「普通」ではない。ラベリングされて他者に理不尽に踏み込まれたことを自覚的に追認する結果となった。「普通」という記号に惹かれている自分が、制服という記号を纏っていても「砂漠」に放り出されてしまうような感覚は朝の思う「普通」ではないからだ。記号が剥奪されて、新たなる記号に取り込まれる。レッテルを貼られる。その記号を認識しているリアルの複雑さは、朝が幻想を抱いている「大人らしさ」にも通じていくものだ。

その間にも、えみりからLINEのテキストメッセージが届く。その場に相手が居なくてもメッセージが届くツールは、地理的距離をゼロにしているが、心理的距離は別であることを指しているし、これは後の手紙との対比になっている。

わたしだって仕事したいよ めんどくさいな

めんっ…なにっ…なにそれ!?

お…おかあさんはそんなの絶対言わなかったっ

 不貞腐れて帰ってきた朝の態度を面倒臭いと一蹴する槙生。朝のこのセリフにあるように母的な面影について、母的な役割・立場を受け持つであろうと期待されている槙生*1への何気ない一言であるが、朝の母=槙生の姉と槙生について求められていくナイーヴな対比がここにある。

しかし、それは槙生の役割なのだろうか。気遣う責任はあるにしても。*2

ここで卒業式を抜け出してきたことと友達とケンカしていることを打ち明ける朝。「形式的」な卒業式に対して、「実質的」な友達の存在性は比較できない、と槙生は友達の重要性を説く。彼女の友達でもある醍醐と居る時の槙生と朝と一緒に居る時の槙生の態度の崩れ方は大きく異なる。この変化には朝も気付いており、槙生とは「友達」ではないからだと受け止めると同時に、「血」というつながりのある絶対的な家族でもないからこそのデリケートな安定と不確かさを内包としたイマ・ココは、この後に物語の展開として訪れるであろう個別的で具体的な関係性に対して、記号性が漂着する問題への布石になっているのかもしれない。

…他ではかえがきかない

 槙生の言葉を聞く朝の横顔のまま、槙生の顔は描かずにクローズアップしている。友達の掛け替えのなさを槙生と醍醐が一緒に居る記憶を回想しながら聞く朝。

「かえがきかない」ことにスポットを当てるための演出であり、「普通」との対比にもなるであろう「特別」な関係性を指す。家族とは違う友達の存在の固有性という回路はあるべきだろう。

 

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

 

 先ほど記したようにLINEと手紙が対比になっている。言葉が心の支えになるように、それはテキストでも同様だ。LINEはコミュニケーションが届く距離をゼロにし、また簡易的なログ化も果たしている。手紙は書いてから相手に届くまでに時間と距離があるが、物質的なログとして存在し続ける。どちらが優れているかという話ではない。心の深度にどれだけ関わったのか。誠実な言葉があったのか。LINEや手紙はそれを伝えるための手段でしかないのは共通している。

学生の頃に槙生は醍醐から手紙を貰った。それはとても何気ない様に装っていた。このシーンでは手紙として残っていたことに、また残されていたことに価値がある。厳密には物理的に手紙が残っていなくとも、心までに言葉が届いた事実が残っていることに意味があるだろう。

「6年間 きみがいなかったら 私は息ができなかった」

 …槙生ちゃんは どう思ったの その手紙を読んで

「生きていていいんだ」と思ったよ 大げさじゃなくね

 他者の承認による存在理由になったと槙生は言う。同様に醍醐にとっても息をする場所であったように、互いの存在性という磁場が発生することでの心地よさの肯定だろう。それは必ずしも「イエ」ではなくてもいい。頼れる/頼りたくなる居場所があるということは、自分を受容するために快く息ができるように酸素で満たしてくれるものだから。それが友達の存在性の「かけがえのなさ」となる。

かつて、えみりが朝に零していた「なんか朝といるときだけほんとのあたしっぽい」という言葉は、空気の支配によるキャラ化・分人化コミュニケーションの弊害だろう。「本当の自分」を想像して、イマの自分を否定するロジックは想像上の先にある「本当らしさ」や「もっともらしさ」を強固にする。

内田樹が「ペルソナ」について人間関係の中で、過剰に他者を傷付けない、過剰に傷つけられない防衛システムであると述べている。

 

呪いの時代

呪いの時代

 

 ペルソナは「双方向の暴力をコントロールするための装置」であるとしているが、えみりの言う「ほんとのあたしっぽさ」はペルソナなどの過剰なキャラ化とは別として存在し、それらを内包しつつもコントロールされているから滅多に露わにすることができない息苦しさを示していると考えられる。えみりの言う「朝といるときだけ」が、醍醐が槙生に手紙に認めた「息ができなかった」という言葉と同じように、空気の支配が双方向の暴力性を孕む結晶であり、そこから脱け出すための、息をするための居場所が無いと心身は疲弊していく。どちらも友達の存在にどれだけ救われているのかを意味するものであり、感謝の言葉に他ならない。

 

笠町と対面をする朝。

「大人」に映る笠町に対して、朝は無邪気に分からない事をズケズケと踏み込んでいく。朝にとって一番「大人っぽい」のが笠町だと述べられており、この話では先ほど置いていた「大人らしさ」を中心に据えている。

「大人」にも分からないものがあると不思議に思う朝。彼女にとっての「大人」というのは母が代表格であったために、ある種の幻想を「大人」に抱いている。

「大人」とは一貫性があり、理路整然とし、ロジカルだと思っている。しかし「大人」=強いわけではない。「大人」だってフツーに繊細で傷付くからだ。それは槙生の様子からも見受けられる。

笠町のいうように「大人」は「大人」をしていることもあるし、突然「大人」になるわけでもない。これは「普通」や「もっともらしさ」という記号が抜け落ち、コンプレックスを抱えたまま「大人」になった側の告白でもあると同時に「大人」幻想を更新するための「大人」の存在である。

内田樹『呪いの時代』では「大人になることはだんだん人間が複雑になる」と記されている。表情や感情も複雑になり、様々な人格が混在していくのが「大人」の実状であると。

ある意味、ロジカルだった朝の母に対して、槙生ら「大人っぽくない大人」の複雑は朝にとっての新しい刺激になっていくだろう。この「大人らしさ」や大人幻想は朝が抱えているものではない。立派に「大人やれているのか」と不安になる「大人」の側も抱いくものだ。それは彼女らが「普通」の記号に対してコンプレックスがあるからだろう。「大人」に成りそこないの記号が付与されているのではないかという不安と痛み。「大人」という責任の重さに耐えるための成熟がある程度は果たされているかどうか。この複雑さは朝の視点ではなく、槙生たちの視点でpage10にて触れられている。

かつて笠町の母が弁当日記を書いていたという話になる。

朝も槙生から言われた後に日記を書いており、その様子は自由奔放。『違国日記』は自由と局所を往来することで、多様性が担保されるべき物語であるはずだ。日記という生活の記録を残すことによって書き手と記述された人間が浮かび上がり、それぞれの「違う国」を記すことができる。それは「生」の象徴だろう。書く自由があると同様に書かない自由もある。

弁当、食事というのは自分を形成してきたものの記憶となる。『違国日記』では食事のシーンを大事にしている。それは日常の断片であり、クローズアップすべき強固な「生」の瞬間でもある。ここで生きているという証。何を食べていたかは思い出せない弁当のまるでアンチテーゼのように食事のログがあり、確かなイマ・ココの手触りの一部分として描かれていると思う。それは「砂漠」に対する「灯台」の一要素にもなるだろうし、「灯台」が照らす自分の足跡なのだから。

おれを育てる ってことと

愛情とはすごく別のところにあった気がするんだよな

彼女は自分が「完璧だ」と思うものをおれに与えていれば

おれが彼女の望む「完璧な」息子になると 多分どっかで思ってた

 育てることと愛情の乖離。

これは笠町親子の話であるが、愛せなければ育ててはいけない/愛せなくても育てられるという視点は槙生と朝の関係性に肉薄している。形式的と実質的の対比にもなっているだろうか。

親の望む子と、親の期待に応えられるかどうかの子の想いは別。子は親の願望充足ではなければ、自分の人生のリベンジを図るための存在でもない。育てる≠愛するは別としてあるからこそ、コミットができる親のエクスキューズにもなる。親から子へ、子から親へ、この符合は必ずしも一致しない。それが普通ではないか。恰も一致するかのような幻想は圧力を生み出すが、「普通」から外れた子たちを踏み躙っていいロジックにはならない。

これは槙生の姉に対する拒絶に繋がっていく。

朝の前では小説家であることを肯定していた姉の像が露わになる。「槙生ちゃん」呼びは母譲りであったことが判明したシーン。

しかし、過去に彼女は槙生が小説に傾倒することを否定していた。

「恥ずかしくないの 妄想に世界にひたってて」

「小説だか何だか知らないけどもう少し現実に向き合えば?」

 

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辻村深月スロウハイツの神様』には本ブログ・ラジオで命名した「拝島問題」がある。これは「若いから物語に傾倒ができるのか」という問題設定であり、さらに広げれば「虚構に耽溺することは未熟の象徴であり、現実と向き合いきれていない所作に他ならない」というメッセージにも通じる。

このテーマ自体は『違国日記』ではどのように折り合いを付けるのかは分からない。2巻ではこの部分しか登場していないからだ。姉へのコンプレックスを肥大化させたかのような象徴的なシーンとして描かれ、それは槙生がフィクションに傾倒することで拠り所としていたであろう足場を根底から崩す現実的な言葉でもあったはずだから。小説家になった槙生がどのような答えを持っているのかは注視していきたいが、この問題設定自体は別段と新しいものではない。

スロウハイツの神様』はなぜ物語が必要なのかを問い詰めた作品であるし、相沢呼呼の『小説の神様』や門井慶喜『小説あります』などは「なぜ小説は読まれるのか」「なぜ小説でなければならないのか」を描いている。

『小説あります』は徹頭徹尾読者目線の主人公が充てられ、『小説の神様』などは読者から派生した書き手の意識を経由して再帰的に読者目線を導く違いがある。『小説あります』は「日常の謎」の系譜ながらも、架空の作家の人生を通して、机上のままリアリティを温存しつつ繰り広げられる作家論と小説研究などからメタフィクショナルとして物語ることのフレームの意味を、架空の設定をフルに活用してみせることで(それこそが醍醐味であるため)、読者目線の主人公の知的好奇心と活発な議論によって「なぜ小説を読むのか、つまりなぜ小説であるのか」に執着するところにリーチしている貪欲な姿勢が印象的だろう。
小説の神様』などは書き手の自意識から読者を結ぶまでの「物語への希求と祈り」の物語になっているので、『小説あります』のように「なぜ小説でなければならないのか」といった(物語至上主義的ではない)形式至上主義の読者の自意識を設定したかのような違いがあるのは付け加えておく。

槙生の持つ解が明らかにされる日は来るのだろうか。

ちなみに北村薫は、なぜ小説が読まれるかについて「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」と記している。

 

小説の神様 (講談社タイガ)

小説の神様 (講談社タイガ)

 

 

 

小説あります (光文社文庫)

小説あります (光文社文庫)

 

 朝は無邪気になぜ母を嫌っているのか、槙生に訊いてしまう。

もちろん回答を拒絶されてしまうわけだが、その時の朝のモノローグを引用する。

群をはぐれた狼のような目

わたしは 彼女の群にはまだ入れてもらえないのだった

わたしの群も もはやないのに

 狼の比喩は1巻でも登場している。朝の天涯孤独の運命を退けた時の孤高な迫力を狼に例えた。

一方で朝は子犬と評されている。帯文でも、作中でも子犬のような純情さという比喩だ。

ここにも対比がある。どちらも群がいない狼と子犬の同居生活。狼は独りにも耐えられるが、子犬は群に入ることを求めている。同じ家に住んでいても、群に入れるかどうかは分からない。この不安定さが朝の現状になっている。

イノセントに振る舞うことが許容される・免罪符を持つ15歳の少女。狼がその無邪気さに振り回され、飼い慣らすとは違う方向の関係性で以て同居する設定の妙だろう。

 

page10では槙生を取り巻く友人たちとの宴席のシーンが中心。

意味するのは朝から離れることで、槙生の現状と感情を客観的に示す場所となっている。槙生と朝とでは零れない話が、責任が乗っかった言葉の重さから分かるように実感として語られている。当事者としての本音が建て前抜きで。

朝を養子として引き取る選択肢は責任の象徴となるから、槙生は現時点では考えていない様子。

…うーん なんか そこまでの責任 とゆーか

繋がりは…

…それ自体しんどい… 

 そもそも槙生にとって一定以上の「つながり」は負担でしかない。これは友達との会話でも明らかである。

「つながり」を必要以上に意味するものが「親子」=家族ではないだろうか。家族的繋がりは、姉との繋がりを過去完了形として強引に断ち切った槙生が、それを背負い込むことになるかもしれない運命の皮肉がある。

姉の子である朝を愛せないかもしれない予感は、姉を拒絶して愛せない想いとどうしても重なってしまう。槙生にとって姉の存在が、朝を通じて立ち上がってしまうからだ。姉は姉、朝は朝でもあるはずなのに。論理的ではない。感情における「つながり」の問題として槙生に付き纏っている。

この子はあの人の子なのかと思うと体がすくむ…

朝には関係ないところでの関係性による身体的な拒絶。 それは槙生も自覚しているからこそ、より「血」のつながりを強固にさせてしまっている。フェアに接しなければいけない論理と「血」に囚われて感情と身体が先行してしまう事実が並行的で、それはそれ、これはこれ、という対比構造であるにしても、姉への感情はフェアなものではないのは一貫しており、それを予め朝に宣言した槙生の最大の誠意でもあることは窺えるだろう。

槙生の影には姉へコンプレックスがあるように、朝の背後にもつながりとしての姉を見てしまう。朝とのつながりを強くすればするほどに、断ち切ったはずのつながりを再起させてしまうようなジレンマを孕んでいる。

なんかねー よく 大人になれたなあとって思わない?

だからーなんか それだけでだいぶ満点!!

 学生ノリを引き摺ったまま強い「大人」ではない彼女らが、大人幻想、大人コンプレックスという同調圧力は、そのままこれまでに上述してきた槙生の姉や「普通」の押し付けに重なる。それは記号性への希求であり、朝にも常識のように刷り込まれている。

しかし、笠町が言ったように突然「大人」になることはない。それぞれが抱える「大人らしさ」は幻想であり、いつか本当の自分が到達するかもしれない先を行く像に過ぎない。ここで彼女たちが言うように「大人」になれたと思う実感だけがリアルなのだから。大人幻想は共通的であるにしても、リアルな「大人」像はそれぞれ違う。採点基準は自分自身に委ねられている。これは「違国」的でもあるだろう。

例えば日記のようにそれぞれが書く自由がある様に書かない自由もある。言葉には責任が伴い、「大人している」時もあれば、そうではない時も許容される。それは「違国」的であるとし、自分が自分を規定するための手段であり、責任の取り方を示す。これを理解して実践することは十分に「大人」なのではないだろうか。

 結婚するまでさあ 自分が結婚に向いてないなんて思わなかったの

皆してるし 自分にもできると思い込んでいた

そしたら 違ったんだけどさ

 友人の一人である、もつが帰り道で零すシーン。

これは結婚のみならず、当たり前とされている価値基準に乗っかっている事象に対して、「普通」から抜け落ちてしまうことの日常性を意味している。皆がしているから自分もそうであろうという思い込みもまた幻想であるように、それぞれが違う痛みを抱え、それでも「大人している」までに成長した彼女たちの実感は、読者への処方箋になると思う。自分は「そうではない側」だとラベリングされても、息をする場所があるように。

本稿では、これまでに幾度となく「対比」のモチーフを抽出してきた。対比によって露わとなる多様性の温存が垣間見えたと考える。

「そうではない側」や記号から離れてしまったが、それでも特別な固有性に溢れる「もっともらしさ」は、一般的な「もっともらしさ」や「確かさ」とは違うベクトルで独立していることを示しているに違いない。それは「違国」の比喩であり、それぞれの価値観の尊重となっている。

だからこそ、この物語は紛れもなく優しいのである。

槙生の「呪い」は、朝への態度としてはフェアなものではないかもしれない。

しかし、その「呪い」を抱えている槙生だからこそのフェアな姿勢はあるだろう。*3

槙生にできる違う立場があると思うし

そしたらきっといいんだよ

愛せなくっても

 子犬のような朝は群を恋しく思っている。それを認識できない孤高の狼である槙生。必ずしも一致するわけではない。それも幻想だ。

しかし、このズレが出発点にあるからこそ公正かつ誠実に態度ができないわけではない。その立場だからこそできる思いやりは存在する。家族や友人とは違う関係性として。

古傷を子犬に噛まれても許せる日が来るのだろうかと槙生は書いた。それは一般的な「大人」という強い幻想ならばやり過ごせてしまうものかもしれない。

しかし、そこから離れているものでしか壊せないカウンターとしての「大人像」が槙生たちであり、その関係性との共生は他者を全て受け容れるということを意味するものでは決してない。朝という他者を受け容れていく過程には、必ず背後に存在する断ち切ったはずの姉とのつながりが立ち上がっていくことだろう。姉とのつながりに対して過去完了形の槙生と現在完了進行形の朝が共生していくということは、内田樹が『呪いの時代』で書いた「複雑な他者を構成する人格の一部分について自分自身の断片と同じだと認める」理解が求められていく。

群を求める朝と独りでいたい槙生。

ここまでで「群」と「姉=母」が丁寧に炙り出され、共生していくための断片的な対比的要素が散りばめられている。

私は、これから祈りに近い感覚で読んでいくことだろう。

*1:もちろん、それは大きな誤解であるが、この時点では「家族」における役割という意味において母なる存在の巨大さと、その母の妹である槙生の立場を混同してしまっている。母的な存在と槙生の存在は朝にとっては共通的ではないのだから。しかし、それを希求してしまうかのような切実さと己の意思とは関係なしに投げ出された現実の淡泊さが表現されている。

*2:後述する。補助線として内田樹『呪いの時代』があるので興味がでたら読んで!

*3:内田樹の『呪いの時代』において、内田的ノブレス・オブリージュへの言及がある。それは「万人はそれぞれ固有の仕方で「ノブレス」であるという解釈」であり、特異性・多様性・個別性を指す言葉として理解していると記されている。ここで明らかなように、社会的大人が取り持つ責任と槙生が抱える責任は必ずしも一致しなくてもいいといった固有性が担保されている可能性だ。それは責任の放置ではない。厳密に一致することはなくとも、それぞれの公正な立場と態度があり、それは個別的なものとして意味することに他ならない。