おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

言葉と図式をめぐって

2023年4月4日 火曜日。

天気、晴れ。春。

天気を記すことが日記たる所作であると、荒川洋治『日記をつける』や古井由吉の小説から教わった。当然のように天気に手を加えることはできない。書くことそのものは虚構である、と堀江敏幸は書いたが、その意味では天気を記すことだけは虚構にならないのかもしれない。

日記にはなにを書いてもいいし、なにを書かなくてもいい。ヤマシタトモコの『違国日記』にもあるように、そんな書くことの虚構性においての不自由さにある、言葉が言葉にならないような未熟さとひたすらに向き合うほかない言葉との戯れと沈黙。書くことができない言葉と出会う体験。なんとなしの「声」はあるのに言葉にならない限りにおいて、その瞬間に宿る不自由と自由に引き裂かれることで成り立つ主体としての選択を引き受けること。アイロニーを抱えながらも、僕らは言葉を紡いでいくほかない。書く瞬間はまさに頼りなく刻むもののようで。言葉は誰かに届かなければならないように。その瞬間を待ち望むことで言葉が活きるように。アイロニカルな沈黙は正しいのだとしても、言葉と言葉の行間を深く読み込んでくれる他者を期待したいとしても、沈黙の裂け目から言葉をせり出すようなかろうじて痕跡のなかでしか僕たちは呼吸ができないのだから。そこで言葉と出会い、呼び込んでしまうのだから。

 

天気。人為的なものではない自然の産物。その自然は日々の過ぎ去っていく時間を静かに刻み続け、いわば死者たちとともに、まるで無意識的な地層として折り重なることように「その日」を淡々としるし付ける。しるし付ける感覚さえもない。そんなありふれた、そして確かな「日々」を特別だとは思わない。超時間的な、歴史的な意味をつねに感じ取っているわけではない。折りたたまれた目に見えない時間の流れ。だからなのか、僕たちは時間を単線的なものとして捉えてしまう。当然のように繰り返されるであろう、となんの根拠もなく、僕たちは「今日」や「明日」を生きると信じ(はたして「信じる」行為という次元にでもあるのだろうか。そんな意識にさえのぼらないのではないか)、約束を交わしていく。約束! ああ約束とはなんと無根拠で頼りないのだろう。しかし約束をする時点で、僕たちはわずかな未来を指し示す態度をかろうじて共有することはできよう。そんな頼りなさ、か細さこそが約束という言葉にある温もりであり、他者に触れようとする温度なのかもしれない。微弱でしかこめられない確かさのようで、リアリティや手触りという言葉はサイズ感なのだろう。たとえば小説は「家族」を描いてきた。僕たちにおける実感のあるスケールの単位はよくも悪くも「家族」なのかもしれない。身近な他者の像として。それもあくまでも像でしかないのだが。

 

「言葉に引き裂かれて」、通称コトヒキ会という読書会をやっている。メンバーと『GRIDMAN UNIVERSE』を観に行った。映画についての詳しい感想は才華さんが書いてくれるだろう。

 

www.zaikakotoo.com

 

メタフィクションとは自己開示であり、一面的には「現実と虚構」を揺さぶる装置だとは思うものの、他方で作者の権威性を強化する。映画そのものは自己反省と自己言及の塊であった。いわば「私」の強化ともいえるだろうか。日本文学には「私小説」というジャンルがあるが、「私小説」もメタフィクショナルな側面を少なからず抱えている。井口時男が論じたように太宰治の二人称性がそうだろう。その身振りは、読者との共同性を培養しては「生き方」の素材をパフォーマティブに取り込む劇場的な図式があったといえる。現代でいえば、芸人やアイドルは人生の断面をさらすこと(リアリティ・ショー化)で成立するある種のグロテスクさがあるように、「私」を切り売りしていく。

ただ「私」とは何なのだろうか。「私」って、そんな頼りになるものなのだろうか。たとえば「私」と書く私は明らかにズレている。私は「私」なんて言わない。「僕」であるがゆえに、未だに背伸びした感覚もある。「公」を意識した手つきに思える。そんな身振りを主語として置くことの嘘臭さそのものが、書くことの虚構性にもなり得るだろう。「私小説」にみられるズレを含んだ「私」の磁場こそが大きな反省につながっていく。その乱反射を含めた運動が「私」をなんとか形成していく。「私」語りが「物語」になっていくであろう、という剥き身。たとえば「血が出るような文体」。こんな紋切り型もそうであるように、言葉が血肉化しなければならないような素朴な文学観がある。言葉が空虚だから、そのアイロニーの現前化なのだろう。いかにして言葉に肉体的な感覚を与えうることができるだろうか、という問い。それは決して説明的な言葉ではない。あくまでも地に根差した肉体的な言葉を求めて、その過程なのだろう。言葉を振りかざすようにして、言葉に振り回されてしまう思考の感覚。その虚構性をいかに信じられるかどうか。

 

大江健三郎が死んだ。僕はたまたま昨年の秋から今にいたるまで大江健三郎を読み返していた。だから大江のことを考えてしまう。とりわけ大江の後期の作品が好きだ。明らかに「私小説」化していくものの、書くこと、読むことの歴史、宿命、業を引き受けては魂の救済を求める態度を示し続けた背中はあまりにも大きい。本を読むこと、文章を書くことの、孤独でありながら孤独ではない、死者をふくめた他者に支えられている言葉の在り方、言葉は自分のものではないことを問う他者の感覚の意味では古井由吉と重なり、それはきっとささやかな態度でしか示せない。しかし多くの小説、言葉の痕跡を書き続けることでしか書くこと、読むことの感動はわからないように、その姿でもって実践した大江の存在感は言葉をとおして魂の在り方、安らぎを考えていた。それは言葉で刻むことの業を巡るようにして。

『GRIDMAN UNIVERSE』を観ているとき、僕は大江健三郎のことを考えていた。メタフィクションという装置と自己反省。たとえば、世界の危機と恋愛の行方のようにバトルパートと日常パートの二極に引き裂かれながらも、キャラクターの掛け合いにみられる意図的な「生っぽさ」にあるような質感は言葉が言葉であるかぎりは「だらっと」するものであるが、それをすべて、つまり反省や説明の身振りを言葉で描くようにして刻むことはいまのところ小説が小説たる特権であり、映像媒体では説明的、「図式」的になってしまうのだろう。

 

僕は「図式」にこだわっている。霊感的な文章の読み、書きを江藤淳の文芸評論によくも悪くも影響を受けている。だから僕の文章は江藤淳が仮想敵になる。霊感がなければ文章を書けないし、「文学」を読めないと思う一方で、霊感が江藤淳的な陰謀論との結びつきの近さを如実に示していることは警戒しなければならない。

言葉の空虚さや曖昧さ、「印象」に引き寄せられてしまう人間の弱さとでもいうべきだろうか。「図式」や「修辞的」にならざるを得ないという意味で。

江藤淳の『成熟と喪失』や『自由と禁忌』にみられるような一面的な「図式」の整理は、あくまでも江藤個人の問題を被せたうえでの自己分析・自己開示に近いような擬似問題でしかない。もちろん、そんな「擬似問題」をある程度読ませるから江藤淳の文章は面白いところがある。一貫して他者という問題をどのように捉えるか、にこだわってきた江藤淳は同時に他者から反射する「私」をも描いてきた。その在り方が「戦後日本」と「私」を重ねた「擬似問題」なのだろう。

江藤淳の一面的な図式整理はいわば平面的でしかない。たとえば坪内祐三『「別れる理由」が気になって』の冒頭で、江藤淳の『成熟と喪失』における小島信夫の『抱擁家族』論を批判している。江藤の論は「図式」的でしかなく、小文字の他者に対して大文字の他者として過剰に捉えすぎており、江藤における個人的な問題を被せた擬似問題に過ぎないとみることができる。その意味で坪内祐三や倉数茂の指摘は正しい。

ただ、平面的であるからこそ江藤淳が「喪失」や「不在」について考えてしまうところに「擬似問題」を成立させるための「空間」=「余白」がある。危うい「深み」がある。個人的な問題を普遍的な問題につなげるための「芸」とでもいうべきところに、いわゆる文芸批評の快楽があると思うが、それゆえに思考のダイナミズムを「呼び込んでしまう」のではないか。ある意味では江藤淳の批評は霊感に支えられている。いわば批評おいて大文字の他者を導入・接続することで、読みの恣意性をマクロとしてつなげる「印象」や「象徴」はよくある手つきともいえる。その「呼び込み」の恣意性こそが「飛躍」であり、「賭け」なのだから。

しかし、なぜ人はそのように「図式」に引きずり込んでしまうのか、という反省は必要だろう。読むこと、書くことの反省がなければ容易に僕たちは複雑性に対して「単純化」を促してしまう。だけども、そのダイナミズムを支えるアンビバレントな霊感があるからこそ「芸」にもなり得て、「批評」や「考察」、そして陰謀論的な霊感と接近しては、批評における曖昧さを覗き見るような「飛躍」や「賭け」に通じていく。

「文学」への感応性の豊かさが江藤の文章にはある一方で、書くことを支えている個人的な問題、そして書くことの虚構性によって凝縮される平面性が「図式」的に見えてしまうきらいはある。

「図式」的なものへの距離感、忌避感がある。それが書くこと、読むことに対して「刻む」感覚となり、躊躇いにつながる。たとえば村田喜代子『飛族』や阿部和重アメリカの夜』も「図式」的に読めてしまう。整理されすぎている気配すら感じてしまう。いわば書きすぎているともいえるし、読者を信じていないともいえるのかもしれない。

ただ、二項対立のような「図式」をそもそも提出しなければ、描こうとしているそんな「淡い」さえも描けないとみることもできる。「図式」から逸脱するもの、零れ落ちるものを掬い取ろうとする問いの設定が「文学」である(しかし、それを「文学」として名づけた時点でさらに零れる永続的な運動だろう)と一応はいうことができるならば、「淡い」を調和する語りによって留めていた「図式」の線引きをかろうじて痕跡化してしまうようなものを期待するが(そんな行間を読み込んでくれる他者を)、しかしそれすらも「淡い」のような「だらっとした生っぽさ」とでもいうべきだろうか。この先には、読み、書きの感覚を徹底して描くことに努めている保坂和志的な小説観に回収される隘路がすぐみえる。

保坂和志の小説観にある「小説とは何か?」を問うような、「小説が小説たる所以」にはよくも悪くも僕も影響を受けている。小説とは「小説であることの説明できなさ」のような読むことの現前性、時空間の運動の提出、語りの多義性・重層性による主観的な体験に宿るとする「だらっとした」さま。小説とは「運動」にしかないとみるのは、いささかハイコンテクストな器になっては閉じてしまう危機感は一方ではある。

既に矢野利裕が現代文学における「物語・主題の欠落」を指摘している。他方で語り口の複雑性、重層性にこそ「文学」の所作があり、虚実に紛れ込ませるような佇まい、つまり「虚構」であるからこそ「真実」を語ることができるといった文学観に素朴に共鳴してしまうような糸口の頼りなさを信じたい気持ちもある。その絡み合いにあるような、か細さこそが読むこと、書くことにおける微弱に明滅してしまう態度のように。

言葉はその意味ではおおいにアイロニーを含み得るし、それゆえに可能な語り口は成立する一方で、言葉は当然裏切るようにしてズレていくことを確認しては「図式」的に、「修辞的」に映らざるを得ない徒労感を覚える。そんなアイロニーを切り離すことができない。

しかし僕としては「図式」に囚われてしまう、捉えてしまうことの弱さにこだわりたい。

江藤淳由良君美に「印象批評」として批判された。しかし、なぜそのように「印象」が立ち上がってしまうのか、「図式」を読み込んでしまうのか、という問いが重要に思える。言葉は印象を抱えている。いくつかの像を内包している。常に印象として読みながら、書きながら反省の痕跡を一時的に留めていかなければならない。それでも結局は「修辞的」に「図式」を振り回すことになり、「象徴」を読み込んでしまうのだろう。思考の飛躍、直結性、いわば霊感は常に付き纏うものであり、そうでなければ「文学」は読めないとは思うが、危険性を常に含んでいる思考の両義性、曖昧さになるだろう。それ自体が言葉が言葉である限りの反省ともいえる。

小説にある言葉とは、書かれた言葉の物質性の痕跡を読者が読むことでかろうじて成立する時空間とみてみよう。そんな曖昧で「だらっと」した感覚はまさに保坂和志が論じた「小説が小説たる所以とは必然的に小説のような小説論」のハイコンテクストな装置となっては閉じていくのだろう。密かに閉じていく微かに支えているたしかなサイズ感、手触りこそが「もっともらしさ」になってしまうように、その「内部と外部」と分け、重層的な語りを引き起こそうとする運動的な差異こそが言葉であり、小説でもあると記すときも、同じように思考がぐるぐると運動するほかない「だらっと」したこんな文章になってしまう。

「図式」から距離を置きたいと願うものの、結局は「図式」と「だらっと」したものを振りかざすことでしか書けない言葉に引き裂かれながら。

だから、この文章は日記でしかない。

大玉代助を作った100冊

りこさん(@pistolstar_1742)がやっているのを拝見してやってみたくなった。

 

 

 happyend-prologue.hatenablog.com

 

 

正直、100冊を選ぶのは苦心した。読書をしているわりにはそれほど影響を受けていないのかもしれないと感じるくらいには。

しかし、ここに挙げた100冊は間違いなく僕の人生に影響を与えたものであるし、人生の羅針盤になっている。だから同じような素材に集中してしまっているから、面白みはないのかもしれない。いわば「いかに生きていくべきか」という問題が中心にあるからだ。

室生犀星の詩に『初めて「カラマゾフ兄弟」を読んだ晩のこと』があるが、これらの100冊にもそれぞれの読んだ時の感覚、印象、記憶がこびり付いている。室生犀星が「カラマゾフ兄弟」を読んでもなお、いっさい内容に踏み込まずに自身の記憶や環境に向き合ったように、誤解を恐れずにいえば、そのような体験によってひらかれた記憶はいわば本の内容よりも僕の人生、生き方には重要である。そんな記憶や印象があるから僕を作ったともいえよう。

 

 

1 西澤保彦『依存』

本格ミステリにおける幾人のシリーズ・キャラクターを抱える「語り手」の盲点、可能性をみた。それゆえに「終わり」も感じさせる。永遠はないのかもしれない。

 

2 伊坂幸太郎ゴールデンスランバー

陰謀論」と「伏線回収」の近さに自覚的な伊坂幸太郎のキャリアを睨むうえで重要だろう。「批評」や「考察」にもそれらは非常に近しい。

 

3 伊坂幸太郎『砂漠』

青春が炸裂している。

 

4 吉川英治三国志

中学生時代にひたすら読んだ。三国志ダウンタウンの話で盛り上がった友人は、もうそのことを覚えていないだろう。

 

5 岡田秀文『本能寺六夜物語』

語りのプリズム。陰謀論のエンタメ化。背中が冷えながらも手と目は止まらなかった。

 

6 浅田次郎鉄道員

父が高倉健のファンで、その影響を受けた僕は読書感想文の題材として採用した。冬の冷たさ、人情とドラマ、心は静かに感傷的に燃えた。

 

7 椎名誠岳物語

読書家だった父の影響から読んだ。いつかこのような大人になれたらいいなと思ったが、僕にとってよくも悪くも「父の二重性」を感じさせる本。

 

8 横溝正史八つ墓村

完璧な冒頭の入り乱れ方。鍾乳洞の描写の粘り気。

 

9 三島由紀夫金閣寺

ナルシシズムと「絶対性」への美学が反転する狂いへの近さ。

 

10 立川談春『赤めだか』

立川談志のことを考える。そもそも「保守」とはラディカルを意味するのだろう。

 

11 七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』

一読しかしてないが、決して忘れられない。今後の人生で読み返すときはあるのだろうか。

 

12 麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』

本格ミステリの臨界点であり、隘路。この先はあるのか?

 

13 麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』

日本の新本格ミステリのシーンを振り返る際に『十角館の殺人』と並ぶような重要な一冊。作家たちの「実験」や「構築」を素朴に促したのではないか。

 

14 米澤穂信愚者のエンドロール

「探偵」のナルシシズムの急所を突いた青春における全能感の操り方。

 

15 米澤穂信さよなら妖精

「他者」や「距離」のことを考える。ときには「観光客」のような「ゆるさ」も大事であり、また「当事者」の「きつさ」も大切なのだろうが、そうではない可能性についてどうすればいいのだろうか。

 

16 法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』

「探偵」の内省は自己批評になり、この長さが必要な旅路に思える。

 

17 ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』

ラストに至るまでの雰囲気作り。小説の構築性に現実は容易く相対化される。

 

18 G・K・チェスタトン『木曜の男』

西部邁の著作でしばしば引用されるチェスタトンとの像の結びつきから想起されるであろう人間の多面性をみる喜劇。

 

19 エラリー・クイーン『第八の日』

神や真理を巡る〝エラリー・クイーン〟にとっては必要な一冊では。

 

20 エラリー・クイーン『十日間の不思議』

はたして神はいるのだろうか。

 

21 ウィリアム・ケント・クルーガー『ありふれた祈り』

僕のパズラー的なミステリ観にひびを入れた作品。謎解きではなく、死者と向き合うこと。

 

22 殊能将之鏡の中は日曜日

10代のとき好きな作家は?と訊かれた際には、森博嗣殊能将之の名を挙げていた。

 

23 孔田多紀『立ち読み会会報誌』

同人誌を作りたいと思わしてくれた同人誌。ブログをはてなブログにしたのも孔田さんの影響。

 

24 貴志祐介新世界より

「イメージ」や「想像力」の重要性を作家が語る際に、僕はどのような祈りに満ちた雄弁な言葉よりもこの作品にある「業」について考える。

 

25 森博嗣スカイ・クロラ』シリーズ

自由なようにも思える空も不自由であり、言葉もまた不自由である。物語の重力。

 

26 朝井リョウ『何者』

就活中の友人に読ませたら、恨まれた。しかし、よくも悪くも朝井リョウはここから抜け出ていないのでは。

 

27 川内有緒『パリでメシを食う。』

友人にプレゼントした本のひとつ。実際に手を動かして「生活」に根差すということ。「生活」に手を加えていくこと。

 

28 吉村誠『お笑い芸人の言語学 テレビから読み解く「ことば」の空間』

バラエティを好んでみる僕としては「言葉」に鋭敏になることを決定づけられた本のひとつ。

 

29 てれびのスキマ『1989年のテレビっ子』

「テレビの終わり」はあるのだろうか。

 

30 辻村深月スロウハイツの神様

える・ろこさんとやっていたおおたまラジオでも取り上げた。勝手に命名した「拝島問題」という「現実が充実していれば、物語に触れる意味を感じない」ことを指すが、「現実と虚構」における「賭け」とは「愛」に通底する。

 

31 オスカル・P・モレノバルセロナが最強なのは必然である』

サッカーのことをサッカーの「外の言葉」でサッカーについて考える批評の在り方。言葉は単一的ではない。

 

32 マルティ・パラルナウ『ペップ・グアルディオラ

ペップ・グアルディオラ以降の現代サッカーの進化の凄まじさ。パンドラの箱を開けたのかもしれないが、その箱は「古典的」でもあった。

 

33 中村慎太郎『サポーターをめぐる冒険』

「現場」の劇的な面白さに触れ、僕はスタジアムに行く。

 

34 木村俊介『善き書店員』

よくも悪くも覚悟が決まった。

 

35 大江健三郎『叫び声』

文体のエネルギーと僕の身体感覚が確実に貫かれては溶け合い、「吐き気」を確認した。

 

36 サン=テグジュペリ『人間の土地』

何度読み返しても同じシーンで涙ぐむ。ああ人間。

 

37 サン=テグジュペリ『夜間飛行』

夜の闇、孤独に立ち向かう人間の仕事の高貴さ。それでも人間はたしかな手触りを求めて仕事をやっていくほかない。

 

38 宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』

緊張しながら読んでは読後に肩の力が抜け、社会の重力から少しは軽くなった。

 

39 さやわか『文学の読み方』

「文学」とは言語ゲーム的である。「歴史」の恣意性、主体の在り方についてただしく影響を受けた。

 

40 東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生

「文学」の可能性をひらくのと同時に、「文学」に可能性をみていないからこそ描けた批評。

 

41 大塚英志サブカルチャー文学論

たとえば東浩紀の『ゲーム的リアリズム』が「文学」を信じていないからこそ書けたとするならば、大塚英志はまだ「文学」を信じているのだろうということが分かる。

 

42 伊藤剛テヅカ・イズ・デッド

マンガ批評はこの先を描かなければならない。

 

43 橋本治『負けない力』

ジャーナリスティックに朝井リョウを読む人はこの本を読みましょう。

 

44 橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』

橋本治は優しい」といわれるが、批評とは遠近法的倒錯にもとづく愛のようにも思えた。

 

45 プラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』

「自然に帰れ」というわけではなく、自己と文明と生活を内省する場所はどこにいてもすでに内なる「自然」か。

 

46 アンナ・カヴァン『氷』

小説の持つ圧迫感は世界に触れる緊張感。

 

47 ポール・オースター『幽霊たち』

構造を呼び込む「固有名」のマジックとパラノイアの折り畳み方。

 

48 鴨長明方丈記

ありふれた孤独を確認する度に、鴨長明がお経を唱えた「虚しさ」を想起する。

 

49 夏目漱石『それから』

玉代助の「代助」は長井代助から。「花」の描写、匂いの官能性が気持ちいい。

 

50 夏目漱石『明暗』

江藤淳が「全体小説」として褒めた点を含め、心理と人間関係の高密度の結晶を抱えた立ち回り方の巧みさ。

 

51 夏目漱石『行人』

三角関係の炙り出し方、エゴイズムの暗い輝き。

 

52 柄谷行人『畏怖する人間』

存在論的位相と倫理的位相の構造的分裂に着目した柄谷の「構造」をみる力を経由した批評の描き方。

 

53 柄谷行人『探究Ⅰ』

「交通」や「他者」は僕の人生を決定づけた。

 

54 江藤淳『一族再会』

江藤淳を語るならば、この本を経由して欲しいとは思う。江藤の言葉と沈黙における「喪失」を想う。

 

55 江藤淳『成熟と喪失』

江藤淳とは「喪失」の人だろう。文芸批評における素材の引き付け方、恣意性、名づけという営為の藝と業。

 

56 江藤淳荷風散策』

「時空間」というモチーフの効かし方、引用のうまさが「散策」への潜り方に通底する。

 

57 平山周吉『江藤淳は甦える』

資料的価値の高さ。江藤淳について考えるうえでは外せない。

 

58 吉本隆明 江藤淳吉本隆明 江藤淳 全対話』

「対話」とはこうありたい。

 

59 田中和生江藤淳

「喪失」「欠落」にもとづいた江藤淳論。メタファーではなく、この先を描けるか。

 

60 村田沙耶香『消滅世界』

小説の豊かさなイメージのふくらみ。この情報量といかに勝負するか。

 

61 朴裕河『和解のために』

「他者」との「対話」は常に緊張感に引き裂かれるものだろう。そして、新たに話し合う。

 

62 野崎まど『2』

野崎まどの「天才」の描き方、説得力は言葉に支えられている。だから読む。

 

63 津村記久子『ポトスライムの舟』

言語空間の緻密さ。どこにも抜け出られないくらいの生活のたしかさ。でも、ここで生きていくしかない。

 

64 保坂和志『小説の自由』

65 保坂和志『小説の誕生』

66 保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』

よくも悪くも僕の小説観は保坂和志の影響を受けているのは事実だろう。叙述の純粋培養、ナラティブ、「私」をめぐる不確かさ。思い切った引用の長さ、リズムがすでに小説的。

 

67 保坂和志『未明の闘争』

言葉が言葉である限り、それをいかに脱臼してもなお言葉に囲われる。その円環。

 

68 小島信夫抱擁家族

江藤淳『成熟と喪失』からいかに離れるか。小説の保守性とラディカルさの響き合いを語っている。

 

69 小島信夫『美濃』

小説を壊してもなお再構築される小説の磁場とは、書いては読まれる永続的ともいえる運動の営為。

 

70 滝口悠生『愛と人生』

父は「寅さん」が好きだから、この小説を読ませたところピンと来なかったよう。言葉の遊離性、「現実と虚構」の遠近感が効果的ではない人にどのようなアプローチがあるのだろう。

 

71 古井由吉『仮往生伝試文』

生き直すようにして言葉の印象の立ち上がり方の円環。書く、読む、生きていく。だから、死をみつめる。

 

72 古井由吉『野川』

後期・古井由吉は同じような素材をいろいろな角度から語り直している。主体と記憶の曖昧さ、輪郭をなぞるように。そのささやかさが視覚的に支えられたわけではない、五感の稼働。

 

73 中上健次枯木灘

音楽的な文章というと思い出す。「生活」の時空間が滲み出ている。

 

74 中上健次千年の愉楽

どこまで小説の「語り」はひらかれるのだろう。ひらくとは閉じつつも、その局所を再帰的にみつめていく主体の在り方。

 

75 滝口悠生『長い一日』

現代日本文学の「私」のゆらぎ、時間のモチーフの一つの集大成。人は言葉を語りながら、どこか逸脱してしまう。そのズレの露呈。

 

76 堀江敏幸『河岸忘日抄』

秋冬に読み返す本。世界が白く目に映り、静かに聞こえる。

 

77 町屋良平『ほんのこども』

小説とは他者であるといえるが、書く、読むことの暴力について内省せざるを得ない。ずっと考えていくしかないのだろう。

 

78 岡真理『記憶/物語』

町屋良平『ほんのこども』とセットで読んで欲しい。「文学」が捉えるべき地平。

 

79 ジャック・デリダ『歓待について』

接客のとき、本気で考えている本のひとつ。かぼそい他者への倫理。

 

80 モーリス・ブランショ『最後の人/期待 忘却』

小説とは他者であり、言葉もまた他者である。だから豊かであり、ふくらむのだ。

 

81 湯浅博雄『応答する呼びかけ』

他者論を描く際に想起する。他者論とはつまり倫理の話であるが、人間にとってこの冗長さと語り直しが必要不可欠ではないか。

 

82 乗代雄介『旅する練習』

風景にみる言葉と沈黙。風景が語り得ない言葉を記憶と感情として静かに支えている。

 

83 李静和『つぶやきの政治思想』

人間が語る言葉の可能性。やはりどこか「文学」を信じたい気持ちにはなる。

 

84 福嶋亮大『らせん状想像力』

文学史」が失効した平成の日本文学において、この先を描くことが「文学」と歴史への向き合い方になるだろう。

 

85 佐藤泰志きみの鳥はうたえる

いま・ここという局所的な生の留め方。それだけがすべてのように錯覚してしまう人生の問題。

 

86 佐藤泰志海炭市叙景

僕はまだ「海炭市」に行ったことはないが、「海炭市」を知っているとはいえる。

 

87 後藤明生『挟み撃ち』

人生に因果などないように、小説にも因果はない。そのような視野狭窄、主観や記憶の不確かさを挟撃する過程の旅もまた時空間である。

 

88 川村湊『言霊と他界』

富士谷御杖を知る契機となった本。「沈黙」をいかに打ち破るか、言葉の微弱な可能性を信じたい。

 

89 堀江敏幸『その姿の消し方』

文章の流れ方に身を浸す。この心地いいズレこそが他者を求める所以なのかもしれない。

 

90 嘉村磯多『業苦 崖の下』

書く「私」の粘り気をひたすらに読む感覚。刻まれた言葉を見逃すことはできない。

 

91 古東哲明『<在る>ことの不思議』

言葉と沈黙をめぐる問題は他者と倫理の話であるが、いわば「いかに生きるか」のような問いにも重なる。その実在感は疑えない。

 

92 サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら

言葉が絶えずズレているかもしれない悲喜劇。その不安=宙吊りに堪えるほかない人間と言葉の関係。

 

93 ミハイル・バフチン『小説の言葉』

小説をとおした<メタ言語学>への問題もいわば他者の問題である。その掴めなさ、抗えなさに言葉の重力と自由をみる。

 

94 田中小実昌『ポロポロ』

語ることの倫理を語ることで物語となる。語り手の記憶、印象の危うさから内省に踏み込むことで明確に言葉として輪郭を形成する小説という「場所」。

 

95 山本芳明『文学者はつくられる』

素朴に同人誌をやっていこうと思えた本。作品、批評、歴史、主体の緊張関係から抜け出ることはできない当然の事実。

 

96 ほったゆみ 小畑健ヒカルの碁

歴史の継承は、いかに人は生きていくべきかという根源的な地に立つための問いにもなる。

 

97 志村貴子放浪息子

運動的な名づけをすることが「文学」や「歴史」であるならば、意図的に名づけをしない「沈黙」という運動さえもまた似たような所作や業であり、語り直すことが唯一の輪郭を伴った倫理となる。

 

98 貞本義行新世紀エヴァンゲリオン

17歳のとき、読んだ僕はぶっ壊れた。そして、誇張ではなく僕は僕になった。

 

99 渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

他者や言葉について考えるときに離れることができないモチーフになってしまった。僕は『俺ガイル』をひとつの回路として、今後も「文学」を読んでいくことになるだろう。

 

100 俺ガイル研究会『レプリカvol.1』

念願の初同人誌。論じた「橋と交通と他者と」はこれまでの大玉代助の生き方であるとするならば、今後の課題はいかに他者を求めていくのか、という話にもなるか。今まで僕は「人間(他人)に興味ないですよね」と別々の方に3回言われたことがある。そんな僕が他者についてずっと考えているという意味では、僕もまたひとつの他者であるということが分かってきた。言葉そのものも同様に。そのままならなさと向き合っていくように、書いていくし、読んでいく。そして、人生はとりあえずのところ続いていくのだろう。

「『俺ガイル』は文学」について

「『俺ガイル』は文学である」という言葉を考えて『俺ガイル』論を書いてきた気がする。今思えば、そのように考える、考えるほかない読者に向けて、僕は『俺ガイル』についての文章を書いたのだろう。

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今度の12月31日コミックマーケット101「土曜日東地区 ペ 11b」に出店する、俺ガイル研究会の同人誌『レプリカ』に寄稿した文章「橋と交通と他者と」もそうであるように。

 

はたして「『俺ガイル』は文学である」の「文学」とは何を表そうとしているのだろうか。ここでは内実には踏み込まない。既に僕が書いてきた『俺ガイル』の文章はその応答になっているはずだから。

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しかし、それでもひとつ言うことができるだろうか。

ここで書きたいのは「文学」の定義ではない。そんなことに興味はない。「文学」としかいえない〝何か〟に、言葉で触れようとする在り方を問うている。

言葉で言葉以上のもの?に迫ろうとする緊張感。

端的には「言葉にできなさ」ではないか。その言えなさを「文学」という言葉に仮託するようにして限りなく凝縮したものが、結果的に、あるいはトートロジー的に「文学」という言葉に込められているとするならば、「文学」としかいいようがなかった寄る辺、または「文学」という言葉でしかなかった寄る辺のなさが噴出してしまっているようにみえる。曖昧な言葉に支えられた具体的な欲望とその不確定性。

そもそも「文学」とは何なのだろうか。

ひとつには、言葉にできないものを言葉にするような矛盾を孕んだ自己運動の裂け目とでもいえるだろうか。

『俺ガイル』を読んで「文学である」としかいえなかった情動。そのたしかな実感。あるいは仮託先としての装置が「文学」であるかのように。絶対的な言えなさの集約としての「文学」。

たとえば、保坂和志『猫がこなくなった』に収録されている「『事の次第』を読んでる」には、「言葉とは何かを言うためにあるのではなく何も言えないためにある。」という文章がある。僕はここを読んで思わず泣きそうになってしまった。

あるいは川村湊の『言霊と他界』もそうであるように、言葉の次元で考えるほかない僕たちの奥側にある言葉への距離は、おのずと「何も言えない」無限的な宇宙ともいえる沈黙との近さを意味する。この暗闇を細く照らすような言葉に触れた動きは、それこそ沈黙の饒舌さとでもいうべきだろう。言葉で確定できない〝何か〟を覗き見るようにして。言葉が裏切ってしまう言葉の次元ではない〝何か〟を言葉で厳かに区分けしていくように。

そんな言葉と沈黙を「文学」が包摂するのだろうか。「文学」としかいいあらわせない貧しさだろうか。それとも豊かさなのだろうか。あるいは「文学」への過剰ともいえる信頼だろうか。

僕には「『俺ガイル』は文学である」という言葉にある寄る辺のなさ、それゆえの寄りかかり方が重要だと考えている。「文学」が言葉にできなさを折りたたむようにして。言葉にできない僕たちに呼吸をさせるようにして。

 

「文学」とは何なのだろうか……僕は探している。

「文学」としか言えない言葉には、「文学」という言葉を借りてまでいいあらわそうとする熱量を感じる一方で、改めて「『俺ガイル』は文学である」と言うものだろうか。

たとえば「夏目漱石の『それから』は文学である」とは言わないだろう。トートロジー的であり、自明であるから。「『俺ガイル』は文学である」は、素直に受け取れば自明ではないから改めて言われるのだ。

いや、そうと言うしかなかった?

ライトノベルだから?サブカルチャーだから?

もちろん、「文学」という言葉を用いて昇華させようとする試みもひとつ担っているだろう。

またジャンル的な意味で、『俺ガイル』にみられる不安定な位置を「文学」として安定させたい心でもあり、「文学」としか言えない〝何か〟でいいあらわそうとしている。

ここに素朴な「文学」への信仰があるように思える。

言葉への不信感、軋みは『俺ガイル』が度々取り上げてきた。作中の彼らの関係そのものを超えて、言葉の在り方自体を疑うようにして。読者はその言葉にある、なんともいえない〝何か〟を垣間見たはずだろう。言葉で言葉を描く矛盾、衝突、立ち上がる印象と裂け目の運動。あるいは言葉で、言葉以上の、現実以上の〝何か〟に触れるような、真に迫ろうとする肉感。言葉の言えなさにある欠落を埋めるほかない非在としての言葉と沈黙の在り方を問いかけながら。

言葉を徹底的に疑いながら他者とのコミュニケーションを描いたのが『俺ガイル』とするならば、その一端に「文学」としかいいあらわすことができない無数の言えなさを睨むことで「『俺ガイル』は文学である」の「文学」とはその言えなさを意味するだろう……

しかしそれは「文学」という言葉をあまり疑わずに信用しすぎてはいないか、という疑問がある。

『俺ガイル』読者であるならば、なおさらそのような言葉さえも疑うべきではないだろうか。あたかも「文学」という言葉を用いることで『俺ガイル』を昇華させようとしながらも、その一方ではやはり「文学」としかいいあわらすことができない、そのことが自明ではないことも把握しているからこそ強調しているだろう。

「文学である」、とそのようにいうほかない貧しさと向き合うことの素朴さと反発心。いや、それでも「文学」としかいえない「非力さ」が言葉であるともいえるのだろうか。その「力」のかけ方、それ自体が言葉と主体を引き裂く運動とでもいうように。

「文学」とは、言葉で言葉以上のなにかをいいあらわそうとする自己運動と沈黙の確認による裂け目といえるか。沈黙はすぐ近くにある。言えなさの塊を背負いながら、虚空に向かって言葉を放つほかない。何かを言いながらも、何も言えていない痛みを抱えながら。言葉が確定できる次元以上の〝何か〟を思いながら、言葉でしかないことを確認しながら。

「『俺ガイル』は文学である」という言葉は、言葉への不信感ではない。いや、現状への「不満」ともいえるのだろうか。『俺ガイル』が「文学」とみなされないことへの。

たとえば、真に肉迫するために言葉を徹底的に疑うのが「文学」であるならば、言葉で、その言葉を捉えようとするねじれこそが「文学」の運動であり、そのこと自体がねじきれそうになる裂け目といえる。

「『俺ガイル』は文学である」としかいえなさは情動のまっすぐさ、そうとしかいえない実感のたしかさ。『俺ガイル』の言葉へのジレンマを経由してもなお言葉に縋らざるを得ない、「文学」という言葉を用いて切実さに近づこうとする、寄る辺のなさへの運動をみることができるだろう。そこに言葉への寄りかかり方がみえる。そうでなければ僕らは生きていけないように。沈黙とともに歩きながら、僕たちは言葉で確定していく。無数の言えなさにある疑いや「非力さ」を伴い、言葉を血肉化していく過程で僕たちははじめて「話す」ことができるのだろうから。

この前、「本物」について書いた。僕のなかでは同じようなことを書いている感触がある。「本物」も「文学」も、僕が捉えようとしている言葉と沈黙の裂け目の問題であり、たしかに重なっている。「本物」や「文学」としか言えなかったことの縁は言葉、それ自体を問うているのだから。曖昧な輪郭を細くなぞることしかできないように。

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「『俺ガイル』は文学である」としかいいあらわすことができなかった読者に向けて、僕は文章を書いた。危機感?使命感?はわからないが、「『俺ガイル』は文学である」はなにも言っていないに近しく、しかし〝何か〟を強烈にいいあらわそうとしていることにはちがいなく。

そうとしか言えないこと、言えなさについて、僕は書いてきたのだろう。

21万字超をかけた「サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』」もそうであるし、今回の2万字超の「橋と交通と他者と」もそうであるように。

これからも簡単には言えない、言えなさに向き合っていく。沈黙の暗闇に覆われた言葉という微力な灯火を探すように書いていく予感だけがある。

ふと、そんなことを思った。