おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

「『俺ガイル』は文学」について

「『俺ガイル』は文学である」という言葉を考えて『俺ガイル』論を書いてきた気がする。今思えば、そのように考える、考えるほかない読者に向けて、僕は『俺ガイル』についての文章を書いたのだろう。

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今度の12月31日コミックマーケット101「土曜日東地区 ペ 11b」に出店する、俺ガイル研究会の同人誌『レプリカ』に寄稿した文章「橋と交通と他者と」もそうであるように。

 

はたして「『俺ガイル』は文学である」の「文学」とは何を表そうとしているのだろうか。ここでは内実には踏み込まない。既に僕が書いてきた『俺ガイル』の文章はその応答になっているはずだから。

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しかし、それでもひとつ言うことができるだろうか。

ここで書きたいのは「文学」の定義ではない。そんなことに興味はない。「文学」としかいえない〝何か〟に、言葉で触れようとする在り方を問うている。

言葉で言葉以上のもの?に迫ろうとする緊張感。

端的には「言葉にできなさ」ではないか。その言えなさを「文学」という言葉に仮託するようにして限りなく凝縮したものが、結果的に、あるいはトートロジー的に「文学」という言葉に込められているとするならば、「文学」としかいいようがなかった寄る辺、または「文学」という言葉でしかなかった寄る辺のなさが噴出してしまっているようにみえる。曖昧な言葉に支えられた具体的な欲望とその不確定性。

そもそも「文学」とは何なのだろうか。

ひとつには、言葉にできないものを言葉にするような矛盾を孕んだ自己運動の裂け目とでもいえるだろうか。

『俺ガイル』を読んで「文学である」としかいえなかった情動。そのたしかな実感。あるいは仮託先としての装置が「文学」であるかのように。絶対的な言えなさの集約としての「文学」。

たとえば、保坂和志『猫がこなくなった』に収録されている「『事の次第』を読んでる」には、「言葉とは何かを言うためにあるのではなく何も言えないためにある。」という文章がある。僕はここを読んで思わず泣きそうになってしまった。

あるいは川村湊の『言霊と他界』もそうであるように、言葉の次元で考えるほかない僕たちの奥側にある言葉への距離は、おのずと「何も言えない」無限的な宇宙ともいえる沈黙との近さを意味する。この暗闇を細く照らすような言葉に触れた動きは、それこそ沈黙の饒舌さとでもいうべきだろう。言葉で確定できない〝何か〟を覗き見るようにして。言葉が裏切ってしまう言葉の次元ではない〝何か〟を言葉で厳かに区分けしていくように。

そんな言葉と沈黙を「文学」が包摂するのだろうか。「文学」としかいいあらわせない貧しさだろうか。それとも豊かさなのだろうか。あるいは「文学」への過剰ともいえる信頼だろうか。

僕には「『俺ガイル』は文学である」という言葉にある寄る辺のなさ、それゆえの寄りかかり方が重要だと考えている。「文学」が言葉にできなさを折りたたむようにして。言葉にできない僕たちに呼吸をさせるようにして。

 

「文学」とは何なのだろうか……僕は探している。

「文学」としか言えない言葉には、「文学」という言葉を借りてまでいいあらわそうとする熱量を感じる一方で、改めて「『俺ガイル』は文学である」と言うものだろうか。

たとえば「夏目漱石の『それから』は文学である」とは言わないだろう。トートロジー的であり、自明であるから。「『俺ガイル』は文学である」は、素直に受け取れば自明ではないから改めて言われるのだ。

いや、そうと言うしかなかった?

ライトノベルだから?サブカルチャーだから?

もちろん、「文学」という言葉を用いて昇華させようとする試みもひとつ担っているだろう。

またジャンル的な意味で、『俺ガイル』にみられる不安定な位置を「文学」として安定させたい心でもあり、「文学」としか言えない〝何か〟でいいあらわそうとしている。

ここに素朴な「文学」への信仰があるように思える。

言葉への不信感、軋みは『俺ガイル』が度々取り上げてきた。作中の彼らの関係そのものを超えて、言葉の在り方自体を疑うようにして。読者はその言葉にある、なんともいえない〝何か〟を垣間見たはずだろう。言葉で言葉を描く矛盾、衝突、立ち上がる印象と裂け目の運動。あるいは言葉で、言葉以上の、現実以上の〝何か〟に触れるような、真に迫ろうとする肉感。言葉の言えなさにある欠落を埋めるほかない非在としての言葉と沈黙の在り方を問いかけながら。

言葉を徹底的に疑いながら他者とのコミュニケーションを描いたのが『俺ガイル』とするならば、その一端に「文学」としかいいあらわすことができない無数の言えなさを睨むことで「『俺ガイル』は文学である」の「文学」とはその言えなさを意味するだろう……

しかしそれは「文学」という言葉をあまり疑わずに信用しすぎてはいないか、という疑問がある。

『俺ガイル』読者であるならば、なおさらそのような言葉さえも疑うべきではないだろうか。あたかも「文学」という言葉を用いることで『俺ガイル』を昇華させようとしながらも、その一方ではやはり「文学」としかいいあわらすことができない、そのことが自明ではないことも把握しているからこそ強調しているだろう。

「文学である」、とそのようにいうほかない貧しさと向き合うことの素朴さと反発心。いや、それでも「文学」としかいえない「非力さ」が言葉であるともいえるのだろうか。その「力」のかけ方、それ自体が言葉と主体を引き裂く運動とでもいうように。

「文学」とは、言葉で言葉以上のなにかをいいあらわそうとする自己運動と沈黙の確認による裂け目といえるか。沈黙はすぐ近くにある。言えなさの塊を背負いながら、虚空に向かって言葉を放つほかない。何かを言いながらも、何も言えていない痛みを抱えながら。言葉が確定できる次元以上の〝何か〟を思いながら、言葉でしかないことを確認しながら。

「『俺ガイル』は文学である」という言葉は、言葉への不信感ではない。いや、現状への「不満」ともいえるのだろうか。『俺ガイル』が「文学」とみなされないことへの。

たとえば、真に肉迫するために言葉を徹底的に疑うのが「文学」であるならば、言葉で、その言葉を捉えようとするねじれこそが「文学」の運動であり、そのこと自体がねじきれそうになる裂け目といえる。

「『俺ガイル』は文学である」としかいえなさは情動のまっすぐさ、そうとしかいえない実感のたしかさ。『俺ガイル』の言葉へのジレンマを経由してもなお言葉に縋らざるを得ない、「文学」という言葉を用いて切実さに近づこうとする、寄る辺のなさへの運動をみることができるだろう。そこに言葉への寄りかかり方がみえる。そうでなければ僕らは生きていけないように。沈黙とともに歩きながら、僕たちは言葉で確定していく。無数の言えなさにある疑いや「非力さ」を伴い、言葉を血肉化していく過程で僕たちははじめて「話す」ことができるのだろうから。

この前、「本物」について書いた。僕のなかでは同じようなことを書いている感触がある。「本物」も「文学」も、僕が捉えようとしている言葉と沈黙の裂け目の問題であり、たしかに重なっている。「本物」や「文学」としか言えなかったことの縁は言葉、それ自体を問うているのだから。曖昧な輪郭を細くなぞることしかできないように。

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「『俺ガイル』は文学である」としかいいあらわすことができなかった読者に向けて、僕は文章を書いた。危機感?使命感?はわからないが、「『俺ガイル』は文学である」はなにも言っていないに近しく、しかし〝何か〟を強烈にいいあらわそうとしていることにはちがいなく。

そうとしか言えないこと、言えなさについて、僕は書いてきたのだろう。

21万字超をかけた「サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』」もそうであるし、今回の2万字超の「橋と交通と他者と」もそうであるように。

これからも簡単には言えない、言えなさに向き合っていく。沈黙の暗闇に覆われた言葉という微力な灯火を探すように書いていく予感だけがある。

ふと、そんなことを思った。