おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(9)

「他者を知る」までが前期の条件とするならば、7巻は他者との距離感の変化から外界を経由した自己(否定)の発見といえます。

7巻では6巻の相模南の件から、変化として存在を悪い意味で認識されて衆目に晒される比企谷八幡の居心地の悪さが描かれています。6巻の顛末から浮いてしまった比企谷八幡をネタ的に共通言語のようにイジることは、彼が大衆に認識されることと同時に意識的に排除されることもマイルドに示しているといえるでしょうか。周囲からのべったりした視線がそうでしょう。

 

受け入れがたい何かを受け入れる際、どのように折り合いをつけるかといえば笑い話にするしかない。集団内での異物が存在を許されるために必要な工程だ。(…)

こうした形骸化した儀式はまんま宗教的な儀式に置き換えるとわかりやすい。かつては由緒なり謂われなりのあるはずだった行いが、もともとの意味が忘れ去られている。例えば盆踊りとかクリスマスとかの由来をよく知らずとも皆が楽しみ、受け入れているのと同じだ。

それらはやがて、集団のアイデンティティや、一つの文化となり、その集団の結束の再確認、再認識のために行われる。(P15)

 

もちろん作中で言明されている通り、ネタ化によって「アンチ性」は脱臭されています。まさしく形式化している。「形骸化した儀式」は集団のアイデンティティを補強するためのネタとなっています。そのような「儀式」はネタ化を通して集団内の共同性(「友と敵」)を培養していき、しかし純粋な悪意を内包しているわけでもなく、所詮ネタはネタでしかない「空気」に収斂していく。いうまでもなくネタ化自体はアイロニカルなものであり、ある種の切断を促します。ここでは「マジ」な悪意はもはや切断されており、脱臭されたネタ化の顛末は「形骸化」であり、「友と敵」の戯画化の延長ともいえるのっぺりした「空気」が漂うばかりです。

「人の噂も七十五日」といったように相模南の件から幾分か熱は冷めています。だからこそ悪意は脱臭されているわけですが、存在を認識された比企谷八幡をネタとして扱うことで落ち着いていくアイロニカルな日常が記されています。ネタへと変換することで「空気=ネタ」に帰する同調性は、イジメではなくイジりでしかないとする「ネタ」としての加害的なロジックが一方では無邪気にはたらきますが、比企谷八幡自身にはイジメられた自覚がないためにイジメ認定するものではありません。その意味では文脈がデフォルメ化したかのような「ネタ=空気」にはたらくアイロニカルな同調性が可視化され、すべてが「空気」に収斂していくようなマジョリティの理屈を眺める弱者視点は痛烈ともいえます。

もちろん自覚の有無を問わず、ネタはネタとして先行する「空気」を確信的に蔓延させるという意味では純粋な悪意とは表裏一体的でもありますが、ここでは捨象されているといえるでしょうか。

「人と関わると必ず軋轢が生じる」。

比企谷八幡による人間関係の警戒であり、デタッチメントであることの根拠でしょう。微妙な彼なりの気遣いでもあるには違いませんが、捻じれた臆病さともいえます。ディスコミュニケーション的な価値観とでもいえるでしょう。

クラス内では他人からの距離感や視線、ネタ化を経たコミュニケーションによって「空気」が可視化されていきます。相変わらず比企谷八幡の孤立も変わらないとはいえても、しかし周りからの距離感や視線、「空気」は以前とは質的に異なります。悪い意味で存在が認識されている。その孤立は主体的なものであるのではなく、異物として周りから浮いてしまっている受動的であることを引き受けなければなりません。

しかし、他者との距離が拡大化する一方で縮まることもあります。奉仕部内のコミュニケーションは6巻を乗り越えたことで共同性が確かに育まれ、内輪性――突き詰めれば「友と敵」によって反動的に形成されています。

6巻の「まちがい」を起点に「他者を知る」までが前期の清算であったとするならば、微温的なコミュニケーションは雪ノ下雪乃によって淹れられる「紅茶」に代表されるように相互認識による距離感の縮小と温度感でしょう。後期の特徴としては、奉仕部内で注がれる紅茶にあるように「温度」も重要な要素となっていきます。「体温」や「空気感」として五感を刺激する微温性。具体的な他者の温もり。紅茶を入れる雪ノ下雪乃と、それを囲む部室のまったりとした雰囲気や感触は関係性の良好・居心地のよさを示す要素となっていき、これがのちの「温存と依存」に繋がっていきます。

 

そんな奉仕部に依頼が飛び込んできます。依頼内容は戸部翔の恋愛相談でした。グループ内の関係性の前進を図るであろう戸部翔の行動は、必然的に内輪が形成されつつある奉仕部にも重なるところであり、「上位」も「下位」も関係ないグループの二重化がみられるでしょう。そこには「上下」もないスクールカーストの無効であり、人間関係(コミュニティ)の多義性と差異だけがある。

「人間関係のリスク=軋轢」は7巻を象徴的に――前期の「他者を知るまで」の文脈を保持しているからこそ、コミュニケーションの前進と停滞を描ける輪郭を作ったと整理できます。

7巻では葉山隼人・海老名姫菜と戸部翔たちのコミュニケーションのズレと人間関係の内包するリスクをやり過ごすための「温存」と「平穏」が重要であり、その背後にある微温的なコミュニケーションの「嘘」と「自己嫌悪」が露わになるともいえるでしょうか。メタ的にいえば「青春」を隠れ蓑にしている「欺瞞」でもあるわけですが、もはや内輪に組み込まれている比企谷八幡は「正しく」指摘することができないのが前期とは異なったアイロニーでしょう。

 

 

本来なら戸部と海老名さんは違う階層にいたはずだ。戸部が属するグループは基本的に派手で目立つ。海老名さんはどうかといえば、確かに顔だちは整っているし、ちょこまかと可愛らしくはあるが、三浦と比較した際には、その『可愛い』の定義が少しずれているように思う。

一般的概念に照らし合わせれば海老名さんは『俺だけが知っている超可愛い子』みたいなポジショニングであり、序列一位グループの下位集団から密やかに好かれ、また中間層、果ては最下層あたりの男子までもが『ひょっとして俺でも付き合えるんじゃね?』くらいの願望を抱くようなタイプの女の子だと思うのだ。(P68)

 

 

確かに海老名さんは上位カーストにいるだけあって、顔は確かに可愛い。ただ、その特殊な趣味ゆえに男子からは敬遠されがちだ。けれども、そうした趣味をわざわざ喧伝し、オープンにするのは彼女なりの防衛策なんじゃないかと感じなくもない。本物はそういうのを隠すと思うし。(4巻P168)

 

 

海老名姫菜の公然とした「腐女子」を前景化させた造形は「キャラ化」=ネタ化による自己防衛であることが窺われています。4巻の時点で、比企谷八幡は彼女の「オープンさ」に懐疑的でした。キャラ化の前景化というアイロニカルな自己防衛は、ある種の理論武装に近いともいえるでしょう。その身振りで他者を寄せ付けない。一種のディスコミュニケーションの戯画化ともいえるような共振性は海老名姫菜と比企谷八幡の共通的でありますが、その自己欺瞞に自覚しているかどうか(突き詰めていくか)の差異があります。その差異と同一性はある意味では今後の物語の軸を牽引するものですが、7巻では物語の重要な情報を共有していたのは海老名姫菜と葉山隼人の二人となる構成が取られています。

グループ、関係性の「温存」を海老名姫菜や葉山隼人は望み、戸部翔は「前進」を純粋に願う。戸部翔の行動によって得られるであろう人間関係のリターンとリスクは彼自身が無意識的であり、それ故に純粋に厄介でもあるといえます。

そんな戸部翔の依頼を察知して、海老名姫菜も自己防衛的に奉仕部に依頼を持ってきます。ここでは依頼の多重化が行われるわけですが、それ自体が意味するのは「暗号的」でもあり、海老名姫菜の言うこととの意味内容(コミュニケーションのメッセージ性)が不一致を起こしている。その「暗号」は言葉の裏を読む比企谷八幡だけが理解していて、海老名姫菜が依頼する内容と言葉のメタ・メッセージがズレているからこそ、つまり「言葉と現実がズレていること」を分かっているというアイロニーが共振的な鍵となっているといえるでしょうか。

 

 

二重化した依頼を受けながら比企谷八幡たちは修学旅行に赴きます。

由比ヶ浜結衣の「近さ」は他者としての現実的な温もりを与えるであろう具体的な距離感であり、相対的なものです。その近さに勘違いをしないように、つまり2巻の経験を踏まえながらも意味とズレないように自意識を抑制する様子は――それすらも自意識過剰的であり理論武装的でもある気恥ずかしさを孕んでいますが――期待と勘違い、現実と解釈のズレを内包するリスクを端的に示し、コミュニケーションの非対称性と不均衡が露わになっています。由比ヶ浜結衣の近さ(行動)は無意識的にもコミュニケーションの権力関係(非対称性)を意味しており、受け手からすれば常に「言葉と現実」がズレてしまうことによる不自由さは他者という現実のままならなさ・もどかしさと自然と重なっていくでしょう。

他方で雪ノ下雪乃との距離感はこのような描写があります。

 

俺と雪ノ下は、決して隣に並ぶことはないけれど、触れそうなくらいつかず離れず、歩いていた。(P177)

 

雪ノ下雪乃が他人の目を気にしているシーンでは、語られていないが部屋を飛び出してきた理由――比企谷八幡が関係していることは暗に示されており、二人きりで歩いていることについて周りを気にしているのは3巻とは異なった展開ともいえるでしょう。関係性の変化です。

もちろん、比企谷八幡もそのことを察してから自意識めいてしまうことで、微温的なラブコメの距離感が形成されている。由比ヶ浜結衣との「接触」もそうでしたが、他者の温もりが現実的な手触りとして表現されています。

 

まぁ、人の印象など見方によって変わる。

例えばこの石庭。配置された一五の石はどの角度からも一度にすべてを見ることができないのだそうだ。見る角度によってその在り方を変える。(P204)

 

引用した石庭のシーンは「他者を知る」までが前期であるからこそ、主観的な他者への距離感、パースペクティブとしての人間の観方の比喩となっています。他者というプリズムであり、小説的にいえば描写の際限のなさ・多角性が間主観性として表れるような他者との遠近感とでもいえるでしょうか。

また、5巻の雪ノ下雪乃についてのモザイクのように、人の数だけ印象や角度は変化します。相対的かつ遠近法的な産物であることが窺われます。まさしく石庭の描写では、他者性が接続されたからこその語りによる風景と内面の一致があります。風景に経験が照射されている。

「他者との具体的な関係性」が後期であるならば、6巻までに引き出された「夜の肯定」から他者性の接続としての経験的な告白に他なりません。もちろん、一面的な比企谷八幡の語りと他者のズレは語り切れなさやままならなさといった「未知なる不自由」として出現します。「不自由」であるからこそ、主観的なバイアスが印象や記号に回収しては意味を限定させることで他者(現実)を都合よく引き寄せるものですが、ありのままを捉えるようにして複雑的なメタデータを単純化しないように「記号から離れる」ことで他者の印象を描く。しかし、膨大で複雑極まりない「現実」を描くにはある種の単純化が避けられない通過儀礼が「記号」でもあり、リアリズム(描写)の限界とでもいえるでしょう。それこそ、物語という「空間」においてパースペクティブ的でもあり、間主観的な他者の像をモザイクとしてスケッチしてみせることで輪郭を掴もうとする他者との距離感が関係性として浮かび上がり、コミュニケーション(「交通」)の非対称性のなかで共通了解を編み直していく相対的な関係性でしか描けないのが他者との距離であり、「小説」ともいえるでしょうか。

 

 

「人生にやり直しはきかない」。

人生という一回性であり、リセット不可能性を示しています。ゲームのようにリセットはできない。「まちがって」も取り返しはつかない。「現実」たる所以とでもいえるでしょうか。

一回性の上で「リスクや責任を引き受けられるか」という他者との倫理的な問いを抱え、たとえ「まちがった」としても、そのリスクを受け止めるほかありません。この「まちがい」はコミュニケーションのズレであり、あるいは「言葉と現実」の差異、ある種のリアリズムの限界がコミュニケーションとディスコミュニケーションを往来せざるを得ないという「いかに生きていくべきか」と倫理的な問題と重なる。だからこそ倫理的な問いを措いとくようにして、「まちがえない」ように温存する海老名姫菜と葉山隼人たちの依頼の二重性が効いてきます。

ある意味、二人は予定調和のエンディングを目指しています。それは関係性の維持、箱庭の温存を図ることを示す。海老名姫菜も葉山隼人も、そして三浦優美子も「変化」を望んでいません。「イマ・ココ」に充足している。そこに戸部翔の気持ちは含まれていません。グループとしての温存や居心地のよさを優先させているといえるでしょう。なぜなら、告白は関係性を押し進めるか、壊すことにつながるからです。

戸部翔が海老名姫菜に告白をするといった舞台裏では、二重化した依頼を受けた奉仕部、特に比企谷八幡が持っている情報レベルはそれぞれ異なり、依頼の意味――つまり「暗号」をトレースしていくような試みは「探偵的」であり、6巻の相模南の件を彷彿とさせるでしょうか。この「探偵的」は「自己犠牲」と一体化したかのような「アンチ・ヒーロー性」を引き受けた形の反復として表れることになります。

「暗号的」に言葉や態度の裏側を読み取る比企谷八幡に、依頼を通して期待をする海老名姫菜との共犯関係は葉山隼人も入り組んだ図式でもありますが、ある意味では同類だからこそ分かる「空気」の読み合いがあります。これはリア充と「空気」の多義性を記しており、もちろん2巻同様にリア充も人間関係に苦悩している描写の蓄積とでもいえるでしょう。「空気」を作る側でもありながら「空気」に流されてしまうように、他者の気持ちも完全にコントロールすることはできません。そういった現実的なままならなさこそが他者の手触りであり、引き裂かれるようにしてコミュニケーションのズレを生み出していく。依頼の二重化のように。

関係性の前進を図りたい気持ちと維持しておきたい気持ちのせめぎ合いは「上手くやる」葉山隼人の葛藤として描写されていきます。

 

「…それで壊れる関係なら、もともとその程度のもんなんじゃねぇの」

「そうかもしれない。けど、……失ったものは戻らない」

それはまるで過去にそうした経験があるような言い方だった。(…)

「何事もなかったように過ごすことはできるかもしれない。そういうのは苦手じゃないからな」

「それでもなかったことにはならないぞ」

俺はすぐに切り返す。知らず、声には確信が満ちていた。

世の中、どんなに悔やんでも悔やみきれないことがある。

取り返しのつかない一言だったあるのだ。(P239)

 

 

結局のところ、俺も葉山も何かが損なわれることを前提に話していた。そして葉山は言っているのだ。

いつか失うことがわかっているから、どんな関係にも終わりはあるから。本当に大事だと思うのなら失わない為の努力をするべきだと。

ただ、それは詭弁だ。(P241)

 

戸部翔の気持ちや行動よりも、葉山隼人たちは自分自身のグループの秩序を優先させているエゴイズムの発露ともいえます。グループ内の調和を図るように「上手くやれる」葉山隼人でさえも「上手くやれない」。変わりたくなければ、失いたくもない。「変化」への抵抗が「絶対的に分かり合えない」比企谷八幡葉山隼人のどこか捻じれて一周回ったところで共通的になっているのは皮肉的でもありますが、相互の立ち位置としての「絶対的な距離感」を意味しているともいえます。

 

 

変わりたくないという、その気持ち。

それだけは理解できた。

理解してしまった。

想いを伝えることが、すべてを打ち明けることが本当に正しいとは限らない。

踏み出せない関係。踏み越えることが許されない関係。踏みにじることを許さない関係。

ドラマもマンガもいつもそれを踏み越えてハッピーエンドを描く。けれど、現実はそうじゃない。もっと残酷で、冷淡だ。

大事なものは、替えが効かない。かけがえのないものは失ったら二度と手に入らない。(P243)

 

 

葉山隼人は選べない。あまりに多くのものを持っていて、どれもこれも大切だから。

比企谷八幡は選べない。そもそもの選択肢がなくて、一つの行動しかとれないから。

皮肉なことに、俺と葉山は「選べない」という結論だけが一致していて、他のすべてが違っていた。(P244)

 

 

「青春=犠牲=嘘=欺瞞」の図式を撥ねつけるようにしてカウンター的な構造を引き寄せて演出していたのが比企谷八幡ですが、アイロニカルに「選べなさ」や「持たなさ」という点においては葉山隼人とぐるりと重なるようにして、あるいは遠近法的な他者の表れとして差異ばかりが拡大化していきながらも、どこか接近してしまう。この時点でスクールカーストの「上位」や「下位」は事実上失効しており、不一致性や差異を残してままならない他者として在るだけといえます。グロテスクな他者性。あるいは人生の一回性、またはモラトリアムとしての「狭い世界」と「先送り」は取り返しのつかなさを遠ざけたいリアリティ(現実的手触りとしての欲求)であり、自己欺瞞的であるとアイロニーとして切断できない他者の心情に理解を示さざるを得ない遠近感だけが露呈している。

この時点ではまだ描かれていませんが、葉山隼人たちの問題はいつしか比企谷八幡たちの問題にもなっていくことが重要でしょう。その予見性が「選べなさ」という共通理解から物語の分岐(差異)を作る。すべてを選ぶために結果的に「選べない」葉山隼人、選択肢がないから選ばざるを得ないという「選べない」比企谷八幡は両者ともに結論が重なるようにして重なってしまっている点も含めて「狭さ」=モラトリアムな未成熟さを感じさせます。

二重化した依頼の情報レベルの差異を「探偵的」に認識していく比企谷八幡。戸部翔の想いと海老名姫菜が言外に含ませた意味は重なるものではありません。むしろ相反するものです。

また、葉山隼人が望んだ「詭弁」を撥ねつけることができなかった比企谷八幡は「変化への抵抗」という点でも共通的であったといえるでしょう。それこそ自己欺瞞的でもありますが、ここでは依頼における「共犯関係」に気付いている者と気付いていない者の狭間で「選べないから変わらない」という選択は予定調和的でもあり、帳尻を合わせるという温室的なものです。葉山隼人や海老名姫菜、三浦優美子が望んだ「変化しない」ことは箱庭的な「狭さ」を意味しています。

葉山隼人は誰も傷付けたくないから動けない。「上手くやる」ための方便が効かない。だからこそ、比企谷八幡が痛みを引き受けることでしか成立しない。その報酬としての「変わらず、壊れない」関係性は葉山隼人らにとっては都合がいい温室的な産物となり得ます。「大切なもの」だから。その関係性を整えるための比企谷八幡による「嘘告白」は相対化であり、「空気」の転倒を促すものでした。まさしく結論を先延ばしにするための「先送り」でしかなく、その決断はモラトリアム的とも評することはできるでしょう。「先送りの病」に他なりません。「狭い」からこそ通じる宙吊り。

ある意味では、比企谷八幡が「嘘告白」をすることは6巻の反復のような「スケープゴート化」を引き受けた姿と重なります。「嘘告白」という相対化によって、言葉や想いは未決定のまま「先送り」にされるべくして宙吊りになります。

比企谷八幡の「決断」は「分かり合えなさ」を想起させます。他者への倫理的な問い――雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣の気持ちや言葉よりも、彼の行動は決定的に他者性を欠落させてしまっている。痛々しい現実だけが転がっています。小説の一人称視点でもある比企谷八幡の「分かり合えなさ」ではなく、むしろ彼へのベクトルが他者性と結びついて向けられていることに対する外界を経由した倫理的な問いを無視した「分からなさ」といえます。他者からの目線を引き受けて自己を再発見するように、他者性から自己の内面を見つめるようになる。外界から「見られている私」として他者が契機となり得る。それにもかかわらず、他者性が決定的に欠落している。

比企谷八幡の「変わらなさ」やモラトリアム性が「夜の肯定」を引き出したのが前期であるならば、後期は自己欺瞞を潔癖的に自己否定せざるを得ない様に関係性に没入することで他者性によって内面が引き裂かれていきます。コミュニケーションとディスコミュニケーションの産物として価値転倒していく。

比企谷八幡のズレや「分からなさ」は他者との距離感によるものです。言葉の裏側を読むがズレてしまう。他者の不在。人の気持ちを措いとくようにして「嘘告白」も効率化という建前、正当化という欺瞞が滲み出てしまう。

 

 

「解決を望まない奴もいる。現状維持がいいって奴もいて、みんなに都合よくはできないだろ。なら、妥協できるポイントを探すしかない」

言っているうちに自覚してしまう。ああ、これは詭弁だ。自分の行為の責任を、実態のない誰かに、何かに仮託するための言い訳でしかない。俺がこの世で最も嫌った、欺瞞だ。(P259)

 

 

比企谷八幡は潔癖的に自己欺瞞であることには気付いています。5巻で指摘された潔癖的倫理観が独我論的でありましたが、ある意味では他者性を欠落したままだったともいえる。後期では、その潔癖性として他者との結びつきを経由することで自己の厭らしさ(自己否定)を再発見する図式です。

しかし、もはや「他者を知」っています。相互認識状態であり、引き受けた傷(スケープゴート)を見たくない者がいるのは、明らかに6巻の平塚静の言葉の延長線でもあります。

 

「比企谷。誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならないよ」

(…)

「……たとえ、君が痛みに慣れているのだとしてもだ。君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気づくべきだ、君は」(6巻P343)

 

 

この反復性は「まちがっている」。その視点(他者性)が決定的に抜け落ちている。潔癖的倫理観が独我論的でもある所以でしょうか。ある意味では現実=他者と自己評価のズレともいえます。相対化という暴力性を引き受けながらも、自身に向けられている他者の目線(非対称性)は決定的に喪失している。

6巻の「まちがい」から関係性の構築は「友と敵」の延長(反動)でした。それこそ箱庭的でもありますが、7巻の「まちがい」はコミュニケーションのズレによる分断が「分からなさ」として露呈しました。相反する依頼と共犯関係に対する宙吊り――「先送り」にする折衷案は「選べない」ことから無理に引き出すためもので潔癖的には自己欺瞞であったとしても、自己犠牲的に引き受けることでしか「選べない」比企谷八幡の選択はもはや6巻以前とは異なり、既に「他者を知る」ことで他者から「傷ついて欲しくない」フェーズに前進しているからこそ「まちがっている」。明快にズレてしまっている。

7巻は明確に6巻を起点とした「まちがった」反復です。依頼への形式上の「成功」に対して、人間関係の前進した比企谷八幡たちにとっては「他者を知って」いるからこそ、明確に「まちがって」いるという地続きを描いてみせたといえるでしょうか。文脈的には6巻のような痛みを引き受けた形式の7巻ですが、比企谷八幡を取り巻く状況、関係性自体が相互認識として「変化」しているのだから、以前のようなある種の「到達」を見ながらも「まちがえる」反復による手触りはまったく異なります。これが前期と後期の違いでしょう。 

決定的に「言葉と現実」がズレているからこそ、差異と非対称性といった距離感がある。だからこそ「分かり合えな」ければ、「信じる」こともできない。言外に、現実に意味が過剰性を帯びてしまっている。メタデータが氾濫して決定できないように。

しかし、依頼そのものはメタ・メッセージも含めて仮託するから成立する願いのようなものでもあります。7巻の二重化した依頼はダブル・バインドともいえるような状態に引き裂かれています。決定不可能であるからこそ「先送り」にするほかない。他者という倫理的な問いを「先送り」にすることで、そのアポリアを突き付けたのが7巻だともいえるでしょうか。グロテスクな現実の複雑さに対して「選べない」から「先送り」にして箱庭に安住するほかない。

葉山隼人たちの「変わらない」ことに固執している関係性の温存も、比企谷八幡の「個人の精神性」も文脈的には奇妙に一致しており、変わってしまったら壊れてしまう「変化への抵抗」と取り返しがつかないことによるリセット不可能性が前提にあるためでしょう。現実という一回性から「まちがい」たくない。「まちがう」と失ってしまうから。壊れてしまうから。「変わらなさ」は固有性を保持し、それを温存するためならば嘘や詭弁や欺瞞も厭わない葉山隼人の精神とぐるりと一周回ってアイロニカルに共振してしまったのが比企谷八幡でしたが、本来ならば前期のような潔癖的倫理観において唾棄すべきだったのでしょう。潔癖性がカウンター的にはたらいてきたのは前期の比企谷八幡だったとすることは可能でしょう。もちろん独我論的であったから、つまり「他者の不在」という「個人主義的」な価値観だったことも大きい。そうであるはずなのに、彼の選択は他者性を欠落したまま自己欺瞞的でありました。その意味では宙吊りにされたのは比企谷八幡の姿そのものでもあります。同様に他者との倫理的な問いも「先送り」にされました。潔癖的倫理観には倫理的であるはずなのに他者がいません。その欺瞞や都合の良さは「個人的」であることに他なりません。「変わらなさ」も潔癖的である所以ですが、それを温存することの方便も自己欺瞞的であると自己否定的に噴出したのが7巻でしょう。

 

 

大事だから、失いたくないから。

隠して、装って。

だからこそ、きっと失ってしまう。

そして、失ってから嘆くのだ。失うことがわかっているなら手にしない方がマシだったと。手放して死ぬほど悔やむくらいなら諦めたほうが良かったと。

変わる世界の中で、変わらずにはいられない関係はたぶんあるのだろう。取り返しがつかないほどに壊れてしまうものも、きっとある。

だから、誰もが嘘をつく。

――けれど、一番の嘘つきは俺だった。(P265)

 

 

 

5巻の「自己嫌悪」とは異なります。雪ノ下雪乃という他者に向けた現実とイメージとのズレが肥大化した結果でした。雪ノ下雪乃の絶対性を幻想的(ロマン主義的)に捉えていたことは「他者を知る」とは異なるものであり、そのことが他者に対してモザイクとしてのスケッチを必要としましたが、5巻の自己嫌悪は比企谷八幡のエゴイズムが潔癖的に増長したものともいえます。

しかし、7巻の「自己嫌悪」は潔癖的ジレンマといえるでしょうか。他者の目線――突き付けられる他者からの目線から、自己の内面を、自分の「嘘」と欺瞞と向き合わざるを得ない。欠落した他者性が再帰的に問いかけるようにして、雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣の言葉がそうであるように。

一方で、他者に対して建前のようなロジックを言い訳にすることで正当化している様子も自己欺瞞そのものでしょう。潔癖的に「偽物」を嫌いながらも、欺瞞的行為に委ねるしかなかった「選べない」自分への自覚的な嫌悪感は「本物」や潔癖のマチズモ(ロマン主義的)として強化されていきます。そうであるが故に潔癖性は自己欺瞞を許容できない。そのことを見逃していたことさえも自己嫌悪として表れていきます。

他者との距離感を欠落させたままの宙吊り。「先送りの病」という欺瞞。潔癖性がアイロニカルに自己欺瞞を指摘している。自己嫌悪的に集約された告白ともいえるでしょう。後悔や告白は常に遅れてきますが、ある意味では温存は取り返しのつくように「先送り」にしたにもかかわらず、取り返しがつかない結果としての現実と他者からの目線が内面を抉り出しています。自己欺瞞的な「先送り」に対して遅れてくるようにして。

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