おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(7)

5巻では、比企谷八幡が相対的な「他者」と触れ合いながら孤独の肯定を反復的に行い、そして潔癖的倫理観が独我論とイコールである、と平塚静に指摘されることが印象的です。これまでの「潔癖」は5巻から引用してきたものでしたが、その「一人性」を正確に突き付けたのは平塚静でした。

同時に、家族の話が前景化してくるのも5巻でしょうか。家族、「家」の話は2巻の川崎沙希の件でもありましたが、「家」というプライベートな空間における一つの閉鎖性は「内部」を構成しては「外」を遮蔽します。自然と「私」と「公」の二層構造と重なっていきます。学校が夏休みであるから「家」を主題にしているとも言えますが、家族も「他者」であるけども他とは距離感が異なることは川崎姉妹や比企谷家、雪ノ下家から見えてきます。一貫しているのはたとえ家族であっても不一致的で、距離自体は「他者」そのものである点でしょう。家族同士でもすれ違いはまま起きる。「他者」としての遠近感における「分からなさ」「見えなさ」は「内」に所属していても通底していていると言えるでしょう。

さらに4、5、6巻を一つのパッケージと捉えるならば、「他者を知るとは何か」を問うているのが特徴です。4巻では前述のとおり、葉山隼人比企谷八幡の相互認識を描いていましたが、これ以降は絶対的な「他者」としての雪ノ下雪乃との距離感が明示されていくのは3巻の延長とみることができるでしょう。

 

これまで比企谷八幡が孤独を自己肯定することは反復的に語られてきました。一人であることの心地よさや、「他者」への不干渉という尊重(デタッチメント)はディスコミュニケーション的な距離感における処世術ともいえます。そのようなデタッチメントはある種の「空気を読む」に通じる態度ですし、他人との距離を測りながら自己防衛をしているとも言えます。

また、比企谷八幡の一人であることのアイロニカルな内面の語りを通して、簡易的に「みんなと一人」の二項対立が提示されていく。一人であることの主体性を比企谷八幡でもって語り、「みんな」は没個性的なように主体性がないといった記号的に描くことで、逆説的には「夜」としての内面を抱えながらも一人であるからこそ主体的に自立して、記号から離れることができるようにして特権的に語ることが可能と言えるでしょう。

記号的に捉えてしまう問題は、まさしく「認識」を問うことにつながっています。

 

俺たちはいつだって見たいと思ったものしか見ない。

解釈の仕方は人の数だけあるものだ。映画の感想でも、人の印象でも。

だから、理解しているとかわかってやれるなんていうのはおこがましい。理解した気になるのは罪であり悪だ。

それなのに、俺たちはわかったふりをして生きないといけない。

理解していると、理解してもらっていると、不明瞭なお互いの認識をもって自らという存在、あるいは相手という存在をつどつど定義し直し、喧伝して生きていかないといけない。(P85~)

 

認識する際に、記号やレッテルから離れることができません。認知バイアスの問題でありますし、解釈に幅がある宙吊り的感覚を記号として収めることで暫定的に理解の蓋をするものでしょう。理解した気になる、とはそういうものですから。そのような解釈に自由性がある場合、それぞれの解釈は差異となり、多様なものを相対的に形成していきます。一人一人のバラバラさが差異と重なっていくことでモザイク的な複雑性を立ち上げていきますが、他方で現実的な膨大な複雑性そのままを受容することはできません。個々人の認識フレームの問題によって情報レベルの解像度をある程度に落とさなければなりませんし、厳密には現実と言葉がズレるからこそ一時的に記号的に処理することで、絶対的な「分からなさ」に対して錯覚的に「分かったフリ」をする――現実の態度として受容することが認識をやり過ごすこととなっています。だからこそ「他者」を理解することは非対称的で相対的な結果であり、その「理解」は記号的であるために暴力的に映ってしまう。その加害性(痛みと躓き)を引き受けることで「他者」との「交通」ははじめて開かれるわけですが、比企谷八幡はむしろコミュニケーションにある暴力性を潔癖的倫理として読むことで踏み止まる――それさえも「空気を読む」に近い不干渉(デタッチメント)を経由することで一人性の肯定に回収されるようにして、一人でいれば「他者」を傷つけないし、自分は傷つかない、という暴力性への責任からの逃走における孤独で自閉的な論理がディスコミュニケーションを促進させます。

 

「君は存外潔癖だな」

(略)

「潔癖さや衛生面の話ではないよ。物の道理の話さ。もっとも、あくまで君を中心に置いた道理でしかないが」(P107)

 

 

前述した通り、平塚静の指摘が一つのポイントとなっています。比企谷八幡の物の道理や価値基準が潔癖的であることは欺瞞を唾棄すべきと許容できない態度として表れていることは既にみてきた通りです。青春が抱える欺瞞を「嘘であり、悪である」としたのは1巻の冒頭にあったように、自己意識として一貫していると言えるでしょう。

確かに平塚静が述べた「潔癖」とは、潔癖的であるがゆえに周回した結果のマッチョさは「他者性」を経由しないことによるある種の独我論的でもありますし、比企谷八幡「夜」としての語り(ナラティブ)との親和性から「個人の精神性」をストレートに導き出されたものです。それこそ「みんな」を対置するようにして一人であることが主体的に確立したものとして。

比企谷八幡の潔癖的倫理観について、平塚静は「許せるときがくる」と諭します。潔癖は独我論的な許容できない故の価値基準であり、だからこそ「正しく」もあり「まちがっている」わけでもありますが、そのような自意識と距離感の非対称性も含めたある種の生きづらさが「潔癖」であるがゆえに「本物」を求め、「他者」との剥き出しな応答が後期では自意識の葛藤とともに記されていくように、モラトリアム(未成熟)と結びつくようにして、「許容する日がくること」がイコール「成熟」の道標として提示されています。

しかし、重要なのは平塚静(他者)から「潔癖」を指摘されてもなお、比企谷八幡にはピンと来ていないことでしょう。当然、自分のことさえも「分からない」ことがあり、「他者」からみた自分と自分が思う自分は異なります。つまり、自分が思い描く自己像と「他者」からみた自分という像が一致せずに噛み合わないことで差異が生まれ、「交通」が開かれることで相対的な結果として主観的にモザイク的な解釈が立ち上がる。上記の記号の話と重なりますが、主観とのズレが多々起きることで5巻の記号的ではない――「他者を知るとは何か」という問題設定が掘り下げられていると言えるでしょう。

 

6巻の重要なキャラである相模南が登場するのが5巻です。

相模南はスクールカーストの「中間層」――作中では用いられていない表現ですがキョロ充とも呼べるような二軍に位置しているキャラです。『俺ガイル』では「中間層」を意図的に捨象していました。

前述のとおり、2巻では上位は下位を意識しない相互不干渉が語られ、4巻では別々のコミュニティを無化するようにして「ごちゃ混ぜ」に投げ込まれた結果の相互認識を経て、葉山隼人(最上位)と比企谷八幡(最下位)の暫定的な二項対立を提示するところから「脱構築」していくことが一つに挙げられるでしょうし、厳密には記号的にスクールカーストを描くことが目的ではないことから、サイレントマジョリティである「中間層」は表象されず、ある種の空気のように省略されていたとみるべきでしょう。膨大なサイレントマジョリティであるからこそ表象不可能とみることは可能ですが、スクールカーストの緻密さに重点を置いていないことのほうが重要ではないか。もちろん、相模南の登場は記号的な二項対立を留保するかのように描かれ、『俺ガイル』にスクールカースト性なるものがあるとするならば、彼女の存在感が際立つ5巻と6巻が顕著になるでしょうか。

スクールカースト最上位と最底辺ならば、互いに不干渉で済むことは2巻で記されていましたが(もちろん何度も言いますが『俺ガイル』にはスクールカースト性に意味はありません)、相模南のような「中間層」は「上」も「下」も意識しているのが特徴的です。「間」に挟まれているからこそ「空気」を読むようにして記号的に意味を読んでいる。自分たちが所属している立ち位置を把握し、レッテル=記号でもって、序列やステイタスを理解するのはアイロニカルに「他者を知るとは何か」を記号的に捉えることとなります。まさしくテーマとは相反するかのように「他者」を理解するまでの距離感を記号的に回収するか否かを問うているからこそ、相模南の記号的な「軽さ」は逆説的に要請されたとみるべきでしょう。

相模南が比企谷八幡に向けた目線は、スクールカーストの値踏みでありました。「評価経済」的かつ記号的判断の代表例ともいえる描写になるでしょう。相模南の価値基準は、スクールカーストが意味を持つかのようなラベリング、評価経済にあります。その意味ではスクールカースト性をそのまま引き受けているキャラともいえるでしょうか。

「他者」を安易に理解するように値踏みをする目線が持つ一定の暴力性は、比企谷八幡が感じるものだけに留まりません。そのような暴力性によって捨象されていく記号的理解が、本来的な意味での「他者を知る」とどのようにズレているのか。主観性の問題を投げかけているといえるでしょう。このような眼差しの持つ生々しさは葉山隼人や三浦優美子にはありません。「上位」はそこに気を取られません。相模南のように「中間層」であるからこそ芽生えるポジショニングへの自意識でしょう。「部分的」であるからこそ「全体」を意識してしまうように、「空気」の一部であるためにグロテスクに自分の立ち位置を常に保持している評価経済的な競争意識の産物です。ですから、「他者」を知らないものを知らないままに保留(判断停止)するのではなく、記号的に型や枠に嵌めることで「理解したフリ」をしていく。「他者を知るとは何か」から距離を置いたインスタントな理解ですが、4、5、6巻の「他者を知る」までには、まさに相模南のような記号性は必要不可欠な要素とみるべきでしょう。

 

比企谷八幡にとって由比ヶ浜結衣は相対的な距離を持つ「他者」です。絶対的な「他者」の雪ノ下雪乃との差異であり、由比ヶ浜結衣の距離感の「近さ」は比企谷八幡にコミュニケーションの緊張をもたらします。それは彼女の存在が、彼にとっては「未知」なる「他者」だから。

3巻で「始め直した」二人の距離感は、意味や行動に「物語」を読み込まないようにする比企谷八幡の自意識過剰を敢えて抑制してみせる語りを通して、由比ヶ浜結衣との非対称性として表れています。

由比ヶ浜結衣は交通事故の一件以来から意味や運命、つまり「物語」に必然的な過剰さを読み込んでいますが、他方で比企谷八幡は現実的に斥けている。過大評価であると。彼女のような過剰にではなく、3巻の延長として「仮定」がない一回性の現実の結果として必然ではない――偶然性を引き寄せた語りをすることで自意識過剰を抑え込んでいます。必要以上に意味を読まないように。もちろん、そのことさえも自意識過剰であると読むことは可能ですし、それを含めた非対称性に基づいたリアリズムが二人の差異としてみることができるでしょう。

思い返すと2巻のすれ違いのアイロニーから分かることは、リスクヘッジをするかのように現実的にズレないように警戒して距離を取っている比企谷八幡の自己防衛がアイロニカルな経験則から導かれた「持たぬ者」の理屈でした。「持たない」から「分からない」。それを保存するかのようにアイロニーとして距離を置く――ある種の「断念と起点」があります。その距離感を見てもコミュニケーション(言葉と現実)の可能性と不可能性には非対称的にズレてしまう隔たりとしての「理解」があるでしょう。その結果、コミュニケーションを通した「他者」への距離感として立ち上がり、「他者を知るとは何か」を問うものとなっていきます。改めて「他者を知る」とは、ある種の暴力性を引き受けることとなります。相手を知る、知りたい距離があって、主観的に記号的に回収することで「他者」を傷つける可能性を常に保持していると言えます。4巻で比企谷八幡葉山隼人の相互認識のように。あるいは相模南の下した記号的判断のように。

「他者」に踏み込むことで距離感を埋めることさえも暴力性の一つとして働くこともありますし、ある種のコミュニケーションの非対称的な権力関係にある加害性を引き受けるかどうかが問題となりますが、少なくとも前期の比企谷八幡はデタッチメントですから、「他者」に踏み込まない「持たぬ者」のアイロニカルな経験則が優先されています。ある意味では「空気を読む」行為と重なる不干渉(デタッチメント)で、そのこと自体が孤独の肯定(個人の精神性)と結びついていますから、「他者」が「分からない」ならばそのままを温存する。その「遠さ」は由比ヶ浜結衣の「近さ」とは対照的でしょう。そのような距離感のアンバランスさが、由比ヶ浜結衣の「近さ」も相まって緊張感を形成していると言えます。

しかし、物語は由比ヶ浜結衣という相対的な「近さ」よりも、「遠くで沈黙」している雪ノ下雪乃という「他者」にカメラ(語り)が向けられていきます。「他者を知るとは何か」は実質雪ノ下雪乃を問うもので、5巻は「沈黙」している雪ノ下雪乃という実像的な「他者」に対して、共同的に、モザイク的に虚像を立ち上げていくための相対的な物語だったと整理できるでしょうか。雪ノ下雪乃自身は一切を語らず、周囲が彼女をそれぞれ語ることで記号的ではない――多角的にモザイク的に意味を構築していくものでした。雪ノ下雪乃という絶対的な「分からなさ」にある距離感の明示であり、3巻と4巻の「沈黙」の応答としてみることができるでしょうが、すべては記号的ではない「他者を知るとは何か」までの距離を表すまでのモザイク的な意味の集積として相対化(沈黙への物語化)されています。

 

俺は自分が好きだ。

今まで自分のことを嫌いだと思ったことなんてない。

高い基本スペックも中途半端にいい顔をもペシミスティックで現実的な思考も、まったくもって嫌いじゃない。

だが、初めて自分を嫌いになりそうだ。

勝手に期待して勝手に理想を押しつけて勝手に理解した気になって、そして勝手に失望する。何度も何度も戒めたのに、それでも結局直っていない。

――雪ノ下雪乃ですら嘘をつく。

そんなことは当たり前なのに、そのことを許容できない自分が、俺は嫌いだ。(P224)

 

 

比企谷八幡の潔癖としての許容できなさが素直に語られています。何度も「まちがい」をループするかのように自家中毒による自己嫌悪の様は、雪ノ下雪乃という絶対化を象徴するようであり、その逸脱を許容できない理想(記号)の押し付けにもなっています。

比企谷八幡は「嘘」を嫌がるからこそ、そのカウンターとして「正しさ」を独我論的に保持している理屈が「青春」や「リア充」へのアンチテーゼとして働いているわけですが、「嘘」を許容できない潔癖かつ潔白さが唯我論的な倫理で、自意識の捻じれとみることができるでしょう。

「嘘を吐かない」雪ノ下雪乃を絶対化=理想化することで、比企谷八幡の潔癖ゆえの語りをある種のロマンチシズムとして担保するかのような一方向的な押し付けがあり、その現実とのズレ(差異)から自意識の歪みが引き起こされています。比企谷八幡が持ちえないものを持っている強者としての雪ノ下雪乃との対比がありながら、潔癖としての共通性を取り出している一面的な語りに「他者はいるのか」という問いは成り立つと思いますが、この独白では彼が勝手に「理解したフリ」をして、期待をして、自戒をしていたのに、超越的な存在として雪ノ下雪乃を据えた自分自身の都合が潔癖的に捻じ曲げた形の自己嫌悪として描写されています。

夏休み明け、二人がすれ違うシーンでは立ち止まる雪ノ下雪乃と歩き出す比企谷八幡の非対称的な距離感のズレが肥大化していくさまがフィジカルとして記されています。「他者」との距離を拡大化するところは、自意識の歪みと重なっては「交通」の不全となり得る。雪ノ下雪乃のモザイクを立ち上げたように、相対主義的であるからこそ個人のイメージは非対称的に林立して、その反動として絶対的な意味を求めてしまう。「本物」の準備とみることができるでしょうか。

5巻の「相対化」は顕著だと思いますが、4巻以降、比企谷八幡の独白の「質量」が目につきます。構成上、前期から後期への橋渡しの準備になるものでしょうが、許容できない比企谷八幡が抱いた自己嫌悪は独我論的な潔癖的思考性であり、比企谷八幡が「本物」を掲げながら「自分自身と他者」を許せるかどうかの話になっていくことは、まさしく平塚静が語ったように、相対的に成熟的な「許容」と未成熟としてのモラトリアム性が構造的に重なっていきます。

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