おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(10)

8巻では修学旅行後の決定的に「まちがえて変化した」日常が描かれていきます。物語として6巻のようなある種の「成功」という反復を許さないようにして、そこからの「前進」の自覚(「他者を知る」こと)を欠いた「まちがった」反復的構造に陥ったことを示す転換点だったことを突き付けるのが7巻だったとするならば、8巻は「まちがった」連続的な日常への違和感を記すことに尽きるでしょう。

 

例えば。

例えばの話である。

例えばもし、ゲームのように一つだけ前のセーブデータに戻って選択肢を選び直せたとしたら。人生は変わるだろうか。

答えは否である。

それは選択肢を持っている人間だけが取りうるルートだ。最初から選択肢を持たない人間にとって、その仮定はまったくの無意味である。

(…)

こんな世界のどこに正しさがあるというのか。まちがっている世界における正しさなど、正しさとは呼べまい。

ならば、まちがっている姿こそ正しかろう。

失われることがわかりきっているものを延命させることになんの意味があるのか。

いずれすべては失われる。これは真理だ。

ただ、それでも。

失われるからこそ美しいものもある。

いつか終わるからこそ、意味がある。停滞も閉塞も、つまりは安息も、きっと看過して甘受していいものではない。

必ず喪失することを意識すべきだ。

いつか失ってしまったものを時折そっと振り返り、まるで宝物みたいに懐かしみ慈しみ、ひとりそっと盃を傾けるような幸福も、きっとある。(P10)

 

 

引用した独白には、人生の一回性が語られています。取り返せないリセット不可能性の人生とゲーム性(リセット可能性・複数性)との差異を自覚しながら、一回限りの選択の残酷さから喪失や諦念を引き受けることが「成熟」であるほかないように。

複数的・分岐的な可能世界(ゲーム)ではなく、リセット不可能な単一的な感覚(小説)は人生の一回性の表象となりますが、もちろんその都度に表れるミクロな分岐や可能性はそれぞれの内面的な個別的選択に常に秘められています。選択の連続と、可能性の喪失の連続という「取り返しのつかない」残酷さが一回性的であり、だからこそリセット不可能性的「まちがい」を起こしてしまう。その経験が成熟と喪失に不可分なように。

そして、比企谷八幡は「まちがっている」ことで喪失することが「正しい」ともいう。ここで指摘されているのは7巻から明るみになったといえる「先送りの病」の欺瞞であり、その一方で「喪失の美学」でもありますが、かつて自分自身が忌避していたノスタルジーと何が違うのか、それこそナルシシズムではないか、という問いは成立するでしょう。喪失したものを美化して、自分を慰める。感傷に耽りながら、自己欺瞞的であると指摘していたはずの「嘘」に囚われようとしていることも含めて、再帰的な自意識の揺らぎがみえます。

ある意味では「まちがい」が正しく、「まちがった」がゆえに潔癖的ジレンマのようにして、7巻の自己否定と自己肯定の裂け目が烈しい自意識を炙り出している告白となっているといえるでしょう。

 

比企谷小町が7巻後の兄の「変化」に気付きます。主観と客観のズレ、差異がみえるにもかかわらず「変わらない」と思い込んでいることを自己強化するように内面化しようとしている比企谷八幡ですが、手に触れた「冷たい水」への違和感のように寒くなってきた季節柄だけではない、日常への違和感の侵入が描写されています。気付こうとしていない、気付けない主観性と、いつも通りに振る舞おうとする自己正当化のロジックが認知バイアス的にはたらいて、ある種のマチズモを形成しているともいえるでしょうか。

 

だが、それを事細かに小町に説明する必要はない。俺さえわかっていればそれでいいことだ。(P20)

 

7巻から引き続いて他者性の欠落とでもいえます。徹底的に独我論的であり、「交通」の脱臼が行われている。コミュニケーション自体のズレというよりも、他者と「分かり合う」という次元にまでにいかずに、むしろ他者性の欠落からディスコミュニケーション的な「分かり合えなさ」を見つめることで独我論的に決着している様子は、他者との距離によるアイロニーでもあります。

 

 

他人は自分を映す鏡であるという。つまるところ、他者も所詮は自分というフィルターを通して見た虚像にすぎないということであり、故にあるのは自分という存在だけ。

隣の人が何をしているか問う行為はその他人と自信を比較検証し、では自分はどうであるかと考える行為に外ならない。

他人を利用して自己を立証しようとするのは誠実さに欠ける。そんな求め方は間違っている。

故に、孤独こそは正義で孤高こそは正解だ。

自転車はからからと、音を立てて進んでいく。時折、どこか錆びついたような軋みをあげた。

それでも構わず、ペダルを踏み込んだ。(P24)

 

 

他者(外界)に対する再帰的な自己の(再)発見のような「夜」の肯定の延長線でしょう。「夜」の肯定そのものは前期で発露したものでしたが、そこからの他者との「前進」を受容できていない姿が描かれています。

ここでは、他者を用いる承認欲求を撥ねつけています。むしろ、承認のためだけに他者を求めることは誠実ではなく、他者との距離を必然的に取る「孤独」は「正しい」としています。デタッチメントの根拠でもあり、独我論的なゆえんでしょう。他者の不在も、潔癖性をも相変わらず表象していますが、「軋みをあげた自転車」の違和感のように比企谷八幡の主観性に対する示唆が間接的に外界を経由した形で語られています。変わらず「ペダルを踏み込んだ」としても、正常のように振る舞っていても「軋み」は存在する。違和感の侵入が内面とのズレのように記されています。比企谷八幡自身の内省の声にはないから、軋んだ自転車に代弁させている描写ですが、その示唆に一人称的には語るものの気付こうとしない現実と解釈のズレは、小説的にいえば言葉で過不足に表現してもなお欠乏してしまって表象しきれないリアリズム(描写)の限界ともいえますし、あるいは現実そのままに対する「言葉の信用ならなさ」という貧しさの観点から「語ることの恐怖」や切断性といった語り切れなさは「豊穣な矛盾を孕んだ貧しき言語的格闘」を経ることでしか、「内面」と「外界」との関係性としての「小説」は紡がれないことを端的に示しています。

比企谷八幡は「変化していない」ことを、否定しないために日常のように振る舞う。

しかし、それは比企谷八幡が潔癖的に拒絶する「虚飾」と変わらないのではないか。「まやかし」ではないか。ましてや温存の自己愛(ナルシズム)とも相似であり、そのことは7巻の「先送り」に露わになったようにある意味では「青春」と重なってしまうのは皮肉的ではあります。どういうことか。温存は自己愛的であり、感傷的なノスタルジーへの前段階でもあります。葉山隼人たちの「選択」は、依頼の二重化を経て「選択」した比企谷八幡にも重なるところがありましたが、イマ・ココがすべてのような空間の閉鎖性、モラトリアム性は「先送りの病」そのものであり、「青春」の持つ箱庭的なイメージは自覚的か無自覚的な差異はあったとしても、その表象に乗っかるようにして「先送り」にしてイマ・ココを甘受する内部化=内面化があります。

前期までは、アンチテーゼとしてはたらいてきた比企谷八幡の告発はもはや空転するかのように、関係性のなかに組み込まれている――それすらも「青春のエコシステム」に対する潔癖的ジレンマとしての自己欺瞞的な裂け目が広がっており、そのことがロマン主義的な心性(「本物」)に結びつくといえるでしょうか。

もちろん、その瑕疵にも半ば自覚的でありながらも、端からみれば意地を通して抵抗している状態でしょう。「普通」であり、「正常」であると振る舞っていても。

しかしながら、物語はその「正しさの違和感」への侵入を試みていくことになります。

 

 

「お互いを知っていたとしても、理解できるかはまた別の問題だもの」(P38)

 

前期からの前進が「他者を知る」までの相互認識であるならば、雪ノ下雪乃のセリフは6巻との結びつきを強く印象付けます。

しかし7巻を間に挟んだように、「嘘」と自己否定と告白を経た今では、「知る」と「分かる」の間には隔たりがあるのはこのセリフに表れているように、「他者を知って」いても「理解」できない他者への遠近感があるといえるでしょう。その意味では絶対的な位置を取ってしまう他者性への手触りがあり、そのざわめきが距離感を遠近的に攪乱させるともいえるでしょうか。

そして、比企谷八幡は「変わらない」ことを提案します。ある意味では確立した自己規範が「普通であること」をエクスキューズにすることで、「変わる」ことを要請されている「空気」を拒否しているとも取れます。これは再帰的に自己強化された自意識のマチズモでもありますが、もはや「変わってしまった」現実とのズレのような自意識の空転が見られるでしょう。独我論的で温存という欺瞞でもあり、「先送りの病」の表象の一部でもありますが、そのことに気付いていません。

しかし雪ノ下雪乃は、比企谷八幡の「他者の不在」を察知しています。そこに他者はいるのか、と。7巻からはじまった倫理的な問いが「先送り」されているとでもいえるでしょうか。

かつて柄谷行人は、夏目漱石を論じた際に「存在論的位相」と「倫理的位相」の主題の乖離を指摘しました。「存在論的位相」は文学的な意味での「私」の問題(大塚英志的にはキャラクターとしての「私」)であり、「倫理的位相」は「社会」や「他者」との関係性のなかでの問題でしたが、もちろん「私」も「社会」も仮構された主題であるにしても、その意味ではまさしく比企谷八幡には生々しく他者性の欠落から「私」の問題――「存在論的位相」に留まっていることが引き裂かれた形として倫理的な問いを「先送り」して再発見する構造となっています。

 

 

また、一色いろはが本編に登場するのは8巻から(正確には7.5巻)です。彼女を見たときの比企谷八幡の警戒アラートが鳴り響きます。

 

……やはり危険だ。

見られることに慣れ、その上で自分に求められているキャラクター性を発揮している「女子高生」という生き物だ。穏やかな気性とやや控えめな女性らしさを全面に出し、その裏を覗かせまいとする作為的なものを感じる。(P50)

 

「女子高生」というキャラ、装いに対する比企谷八幡なりの解答をくだしていますが、もちろんそれすらも記号に対する記号的理解の一部であります。「記号と他者」は、仮構された二項対立のようなもので、前者は「単純化」であり、後者は「複雑化」の象徴です。つまり、他者という複雑なプリズムをいかに記号(印象論)から離れて複雑なまま知り得ることができるか、という距離感が問われていきますが、「記号と他者」を経由して比企谷八幡の捻じれて素直な視点を借りることで「主観と客観」のズレをアイロニカルに問うものが『俺ガイル』とすることはできるでしょうか。

 

依頼は一色いろはの生徒会長選挙に纏わることでしたが、比企谷八幡一色いろはの信任投票の応援演説をスケープゴート化することで相対化させようと提案します。そのズラし方は7巻との反復を彷彿とさせ、「効率化」というロジックをエクスキューズに適任を引き受けようとする、相変わらず比企谷八幡独我論的な「変わらなさ」が強調されているといえるでしょう。

そして、雪ノ下雪乃と決定的な衝突が起こります。コミュニケーションの上手くいかなさと軋むような空気感。それぞれの相対化した意地であり、論理でもありますが、ある種の「個人主義」的な見方から抜け出ていないのは確かでしょう。独我論的です。

 

「君のやり方では、本当に助けたい誰かに出会ったとき、助けることができないよ」(P77)

 

他者(外界)との関係性から倫理が問われるならば、比企谷八幡は他者を反復的に見ていません。「私」というマチズモ的な自意識が再帰的に強固になり、倫理的な他者との非対称性は拡大化しながらも正常であるかのようなバイアスがはたらいては距離感が広がり、ディスコミュニケーションの根拠が内的に担保されていく。

 

雪ノ下陽乃の両面性は初登場時から暗示されていました。「完璧」だけではなく、「理想」そのものが嘘臭いと。

彼女は物語の主役ではありませんし、平塚静のような徹底的な「成熟」した外部にもなれない。雪ノ下雪乃の「家族」という事情と比企谷八幡らが通う「学校」を繋ぐ中間的な存在であり、物語後半になればなるほどに雪ノ下家の問題が前景化していくので存在感は増していきます。両面的な顔を複雑にみせるように懐疑的でもあるから、中間的存在として「家」の問題に対しても比企谷八幡たちの問題についても関わることができる。

物語としては、彼女の存在は「イベント=非日常的」であり、つまり奉仕部内の日常的な会話から生じない情報を与えるトリックスターともいえるでしょう。

しかし、決して「機械仕掛けの神」ではありません。作中では12巻にあるように完璧ではないことも示される。まだ見ぬ「本物」への期待と、そして自分では獲得出来なかった諦念の両義性を持つ存在は、表面的な完璧さからは距離を生む現実的な存在としての感触でありますし、そのような彼女でさえも「成熟」を引き受け切れていないところに読み込みの可能性があるともいえるでしょうか。

 

比企谷八幡がかつて好意を寄せていた折本かおりが登場するのも8巻からです。比企谷八幡の過去を知るキャラであり、作中唯一の過去からのつながりがあるといえます。もちろん、過去のつながりがあるだけで、「知っている」かどうかの次元にすらなかったわけですが。

かつての折本かおりの行為を「優しさ」や「気安さ」と取り違えた非対称性について、解釈は受け手に委ねられることでズレと距離感を生み出していき、ある種のミクロな暴力性(権力関係)を内包するといえます。このズレは決定的なディスコミュニケーションを形成します。2巻が代表例でしょうか。

折本かおりから、比企谷八幡が過去に抱いていた好意をネタに消化されては空転する気持ちも、あるいはネタとして自虐的になれない比企谷八幡の振る舞いも、現状に至るアイロニカルな経験から防衛心理(デタッチメント)を作り出した過去の傷跡が見えてきます。比企谷八幡は「敗北の歴史」による自意識の強化こそが、敗北することはないデタッチメントというロジックを作りました。もちろん理論武装的であり、独我論的な根拠ともいえます。ディスコミュニケーション的な現実(態度)に対して、単純めいているが、しかし他者の無邪気さと「分からなさ」――折本かおりのように悪意(裏)がないためにグロテスクな非対称性として表れていきます。絶対的な距離感としての他者の生々しい存在が横たわっているともいえるでしょう。「分からなさ」という隔たりから、他者(倫理的位相)と独我論存在論的位相)の距離とねじれがみえます。

 

 

いつも意味なんかない、先送りにして引き延ばしにして結局全部台無しにする。俺のやり方はそういう類いのものだ。今更誰かに指摘されるまでもなく、自分で理解している。

だが、それでしか解消し得ない問題があり、それがもっとも効率の良いやり方であるケースが存在する。

それは確かな事実だ。(P131)

 

 

「先送りの病」に対する自覚的なアイロニーの発露(告白)といえます。比企谷八幡の「相対化」は効率化を優先し、「持たない者」が選択した痛みを内包したものともいえるでしょうが、雪ノ下雪乃による7巻の「嘘告白」への決定的な指摘も含めた問いかけは他者を巡る倫理的なものでした。

「先送り」にすることで、ある種の宙吊りを行うことで回避してみせることは責任の所在さえも相対化するようにしてスケープゴートを効率よく引き受ける図式が成立します。

しかし、以前(前期)とは他者の存在感が異なる。まさしく平塚静が6巻で言ったように、そのように傷を、軋みをあげる姿を見たくない者(他者)がいる。ただ、比企谷八幡には「他者の不在」が当然であり、もっとも独我論的に効率的なやり方を切れるカードがあるというロジック(内面)が先行している形でしょう。

 

 

『君はまるで理性の化け物だね』(…)『そっか。じゃあ、自意識の化け物だ』

確かに度し難いほどの自意識が己の中に渦巻いている。おそらくは自身の自意識すらも否定したくなるほどの自意識が。(P147)

 

 

 

「君は面白いね、いつもそうやって言葉や行動の裏を読もうとする。そういうの、わたし結構好きだよ」(…)

「悪意に怯えているみたいで可愛いもの」(P197)

 

雪ノ下陽乃のセリフは比企谷八幡の内面を正確に捉えたものでしょう。「自意識の化け物」として、「言葉と現実」が常にズレてしまう非対称性を意識することが現実的な態度であるはずなのに、比企谷八幡のズレを読み込む態度はコミュニケーションそのものへの怯えとして表象されていて、そのディスコミュニケーションという切断性さえも見抜かれています。

また、変わらない「夜」の肯定の延長にある、自意識的なマチズモは独我論的でもあり、潔癖的でもありますから、そのジレンマとしての隘路にはまさに逃げ場の無い自意識だけが絡めとられるように再帰的に肥大化していき、ままならない他者との距離感(デタッチメント)と内面のみっともなさ(自己否定)が過剰になっていく。内面の告白が過剰さと空転を往還するようにして。

 

8巻ではさまざまなキャラクターが入り乱れますが、一つの主題として葉山隼人比企谷八幡の7巻で明らかになった遠近感があるでしょうか。決して客観的な共通項ではなくとも、比企谷八幡の主観を通した間主観的な差異(「絶対的な分かり合えなさ」)があり、「リア充と非リア」ではもはや括れない複雑でありながら、建前的には機能してしまう虚構的なフレームがありますが、剥き出しな自己と他者の対峙があってスクールカースト(仮構されたフレーム)は存在しません。2巻、4巻、6巻、7巻を踏まえた上での個人と個人の剥き出しの現実(評価)であり、比企谷八幡と同様に葉山隼人も「先送りの病」というモラトリアムに閉じ込められています。

7巻を経た葉山隼人比企谷八幡に対する「同情や憐れみ」は傷(スケープゴート)への上塗りといえます。絶対的な距離感だけが横たわっている。7巻で、どこかでぐるりと一周して接近してしまうがゆえに確かな隔たりがある2人は「プリズムとしての他者のグロテスクさ」や「イメージの裏切り」と複雑さが距離感として反映されていました。遠近的であっても、非対称的に差異が純粋培養されるようにして。

 

 

「君は自分の価値を正しく知るべきだ。……君だけじゃない、周りも」

(…)

「犠牲?ふざけんな。当たり前のことなんだよ。俺にとっては」

(…)

「いつも、ひとりだからな。そこに何か解決しなきゃいけないことがあって、それができるのは俺しかいない。なら、普通に考えてやるだろ」

俺の世界には俺しかいない。俺が直面する出来事にはいつも俺しかいなかった。

「だから、周囲がどうとか関係ねぇんだよ。俺の目の前で起きることはいつだってなんだって俺の出来事でしかない。勘違いして割り込んでくんな」

世界は俺の主観だ。(…)

自己犠牲だなんて呼ばせない。

数少ない手札を切り、効率化を極め、最善を尽くした人間を犠牲だなんて呼ばせない。それは何物にも勝るほどの屈辱だ。必死で生きた人間への冒涜だ。

誰が貴様らのためなんかに犠牲になってやるものか。

形にしなくても、声に出さなくても、言葉にはならなくても。

俺は確かな信念があったのだ。

おそらくは、誰かとたった一つ共有していて。

今はもう失くしてしまった信念を。(P200~P204)

 

 

葉山隼人比企谷八幡の「絶対的な分かり合えなさ」という意味では4巻を連想させますが、それ以上の隔たり、決定的なズレが主観的に交差しています。

葉山隼人も、彼なりに7巻の負債を清算しようとしていました。「取り返し」がつくように。ゲームのようにリセットできない人生の一回性に対する抵抗として。

葉山隼人比企谷八幡の行為を「自己犠牲」と呼びます。そして、同情を投げかけるようにして、自分自身の価値を知らないであろう比企谷八幡に直接的に突き付けることで、自分の価値を見直すべきだと諭すシーンですが、その視線は他者による身勝手な比企谷八幡への理解(単純化)であり、「憐れみや同情」と呼ぶに等しい屈辱的な感情を呼び起こすものであり、このような眼差しの暴力性と解釈のズレ――他者とのコミュニケーションの複雑さが「まちがい」をもたらしています。

このような複雑で主観的に入り乱れるコミュニケーションにおけるディスコミュニケーションへの転倒は、至るところに散見されているでしょう。そのたびに多重的に「まちがう」。物語は「まちがい」の多重化から反復的構造と接近していき、遠近的な他者との相似形も、差異と隔たりを一定の反復性に閉じ込められているがゆえに重なるように見えてしまう「ねじれ」があるでしょう。

葉山隼人には「自己犠牲」と映り、比企谷八幡の主観では効率的だとしても、前提にあるリソースの違いから生じる食い違い。2人ともに「選べない」結果は同じであれ、持つ手段は異なります。行為の結果として表象されうるものはひどく「自己犠牲」のように映ってしまうジレンマがあるといえるでしょうか。

しかし、比企谷八幡にとっては「普通のこと」としています。その独我論的な主張も他者の不在から一方向的にズレを引き起こすものであり、それぞれの言葉と内面が組み合っては空回りしている印象を受ける。

比企谷八幡は「青春劇」の非対称性を告発します。もちろん葉山隼人の「同情」も含まれています。勝者がいて、敗者がいる――ゼロサムゲームというリアリズムにおいて、その覚悟を引き受けることでしか現実は動かないという諦念は現実主義的でもありますが、「青春」という「嘘」のぬるま湯に包括される欺瞞を指摘しながらも、その「演劇」に自分自身がゼロサムゲームとして組み込まれてしまっていることへの吐き気と非対称性の抱える権力関係が露呈しています。

 

また、8巻から奉仕部3人によるバトルロワイアル化が意識化されていきます。それぞれのやり方があり、想いがあり、すれ違っては交差していく。そのような過程のなかにある複雑でままならない他者との「絶対的な分かり合えなさ」が浮かび上がりますが、その問いは「知る」と「分かる」の隔たりと重なっていきます。

雪ノ下雪乃の生徒会長選挙への立候補。これも効率化というエクスキューズでもあり、比企谷八幡が用いていたロジックでもありますが、彼の場合は自意識過剰な――それこそ「自意識の化け物」という自己防衛的な身振りでもあるなかでの「先送り」による相対化と結びついた形で、アンチ・ヒーロー性とスケープゴートの同一化というアイロニーがありました。

比企谷八幡には立候補した雪ノ下雪乃の行動を否定する理由がありません。むしろ、彼女の存在が適当に思えると納得してしまっているにもかかわらず、比企谷八幡は違和感を抱いている。その感情を理論化できないことへの諦念と切断が、まさしく非対称性として雪ノ下雪乃との距離感にある絶対性が――5巻とは異なる意味でのロマン主義的ではない――現実の絶対的な他者として「分からない」ように位置している。比企谷八幡からしても介入の余地がない、相対化する必要性を感じない程に圧倒的な現実と意思が屹立しているのは雪ノ下雪乃の他者性によるものでしょう。

 

 

誰かに役を押し付けてしまうのは、苦しい。

大切に思っているものを守ろうとして、その結果手放してしまう。そんな彼女の姿を見ることは、それはとても苦しいことだ。

何かを犠牲にすることなくして、青春劇は成り立たない。そう知っていながら。

自分は犠牲なんかではないから憐れみも同情も必要ない。そう偉そうにのたまっていながら。

なんてひどい矛盾だろう。(P237)

 

 

自覚的なスケープゴートとの差異を「矛盾」という潔癖的ジレンマとして描いた独白になります。「青春劇」という犠牲と欺瞞を知りながらも、ゼロサムゲームのリアリズムを自分では了解していてもなお他人がやることには違和感がある。ここで「他者の不在」だった個人主義的な観点が他者に目線が向いているといえます。そして、他者(外界)と倫理が浮上する。今までは重ねてきたように徹底的に独我論的でしかなく、動機も「依頼」という受動性が徹底していました。デタッチメントの根拠として機能するように。終始、存在論的(「夜」の肯定)であり、他者や社会との関係性の編み目としての倫理的な問い(倫理的位相)がありませんでした。「不在」といった、それさえも「先送り」にされているように。「他者の不在」は孤独な内面のマチズモを非対称的に拡大化することでアイロニカルな語りとの親和性を示したといえるでしょう。それこそ前期からの延長を意識づけるような「変わらなさ」として。

比企谷八幡は犠牲に対して「矛盾」を抱えています。アイロニカルに効率化と最適化である、という自己防衛した理論武装がありましたが、その空転が起きている。具体的な他者という存在を目の前にして内面が引き裂かれています。

由比ヶ浜結衣という他者に目線が向いています。奉仕部という居場所を守るために、彼女も立候補を決意します。

そして、ある種の焦燥感を抱きます。雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣の立候補は公的には歓迎されるものでありますが、私的には違和感がのこる。しかし動く理由がない。デタッチメントであるから、まさにその負債を払うようにして動けない。依頼が機能しなければ受動的でありますし、そもそも「問題がないという問題」があります。

今、まさに他者をみつめては、存在論的な問いに拘泥していたことによるねじれが自意識の空転を引き起こしているともいえるでしょうか。

なぜ、動かないといけないのか。その問いは「比企谷八幡は奉仕部をどうしたいのか」と重なります。「なぜ奉仕部の変化に抵抗したいのか」と。

その理由――肝心の動機の言語化は9巻に至るわけですが、比企谷八幡を取り巻く関係性の変化が奉仕部にあるならば、対照的に映るのは理由がいらない「家族」の不変性だといえるでしょうか。 

 

 

ぼっちは人に迷惑をかけないように生きるのが信条だ。誰かの重荷にならないことが矜持だ。故に、自分自身でたいていことはなんとかできるのが俺の誇りだ。

だから、誰も頼りにしないし、誰にも頼られない。

ただ一つ例外があるとすれば、家族くらいのものか。

家族にだけはどれだけ迷惑をかけてもいい。俺はどれだけ迷惑をかけられても構わない。

家族相手であれば、優しさや信頼、可能不可能をさしおいて、何はなくとも手を差し伸べるし、遠慮なく寄りかかる。

(…)

その関係は理由を必要としない。

むしろ「家族だから」をすべての理由にすらできる。(P241)

 

 

 

「だからさ、小町のために、小町の友達のために、なんとかなんないかな」

「……妹のためじゃしょうがねぇな」

たぶんそう言われなければ動き出せない。

どこかでずっと理由を探していた。

俺があの場所を、あの時間を守ってもいい理由を。(P250)

 

 

「家族」という関係性は権力関係における非対称性を乗り越える対称性として提示されています。また、コミュニケーションの理解に対してズレがさほどない類似性として。「言葉と現実」の差異、非対称性をも乗り越える可能性として「家族という他者」にはそこまでねじれがない。素朴な距離感の近さが絶対的ともいえるようにスケッチされています。もちろん、ここでの「家族」への素朴なスケッチを批判することは可能でしょう。雪ノ下家の問題によって、そのような「素朴さ」は相対化されているともいっていいでしょうが、ここでは措いておきます。

ここに、他者という可能性がみえてきます。「交通」の果てに隔絶を乗り越えられるかどうか、という倫理的な問いに対して、「家族」とは異なる意味で、ある種のロマン主義的な文脈とリアリズムの衝突から「本物」(9巻)が浮上していくでしょう。「本物」という言葉が具体的に用いられたのは8巻が最初になるでしょうか。

そんな比企谷八幡の主観から「本物」への希求は、懐疑的に「先送り」にしてしまう自意識へのラジカルで潔癖的な応答にも映ります。自己防衛的でもなく、理論武装的でもなく、比企谷八幡の主観からはじまった「まちがえる」ことなく交わすことができる乗り越え可能性としての超越的な位置にある「本物」という唯一無二な交通応答性は、潔癖であるがゆえに転倒して求めてしまう飛躍によって「言葉と現実」の差異から導かれたロマン的な文脈に読めます。他者の絶対性と「本物」は不可分でしょうし、差異や非対称性を乗り越える「命がけの飛躍」を担保するリアリティ(感触)を比企谷八幡は求めている、と言い換えることはできるでしょう。

さて、比企谷小町のために奉仕部を守る動機を得た比企谷八幡ですが、「依頼」がなければ動けないことを端的に示しています。

しかし比企谷八幡は内面を過剰に掘り下げるべきでした。自分自身で動機を探さずに、「なぜ奉仕部がなくなるのが嫌なのか」を突き詰めずに「小町という家族のため」を目的にしたのが「まちがい」であり、他者という視点から奉仕部と比企谷八幡の関係性(倫理的な問い)をも「先送りの病」に組み込まれていくのが特徴といえます。

たとえば、材木座義輝から「なぜ2人(雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣)を当選させないのか」と問われた際に、比企谷八幡は言葉を濁します。「個人的な理由」であることには他なりませんが、感情的でもある「説明のできなさ」が重要であるのにもかかわらず、この時点では詭弁と「妹のため」をエクスキューズに用いることで能動的なコミュニケーションを意図的にはぐらかします。その行為に他者はいるのか、という倫理的かつ誠実的な応答とは言い切れない「効率化」が先行してしまっている印象を受けるでしょう。これも「先送り」の一種であることには違いありません。

「依頼」という形を通してしか関わることができない主観性が引き起こしたコミュニケーションのズレという「まちがい」。それは主観の歪みであり、ジレンマでしょう。ある意味では他者との共同主観性こそが倫理的にあたりますが、ズレ(差異)によって「他者と現実と言葉」の複雑さを意味しています。

他者といっても由比ヶ浜結衣は意図を十分に語り、雪ノ下雪乃は「沈黙」している。それぞれのコミュニケーションの非対称的な多義性が主観によってねじれていき、「まちがい」を反復的に多重化していきます。コミュニケーションにあるズレという「まちがい」の反復性、多重性は人生の一回性における選択の残酷さを意識せざるを得ません。再帰的にねじれが現前化していくように。

比企谷八幡が、本質的な意味での他者とのコミュニケーションを棚上げ(「先送り」)していることに比企谷小町は気づいています。

「他者といかに向き合うべきか」が欠けているのは何度も記したように倫理的な問いを内包しており、選挙を「ゲーム的」にハックして相対化しても、本質はそこにあるわけではありません。

一色いろは比企谷小町の「依頼」の二重化は、7巻同様にバッティングを起こしています。もちろん、「妹のため」や奉仕部の方が大事であり、「なぜ大事であるのか」=他者性を自覚しているかどうかは問題ではありますが、依頼を取り巻く状況を整理しながら依頼自体を相対化するようにして、一色いろはを「転向」させる比企谷八幡

しかし、比企谷八幡の相対化には「奉仕部を守る」という目的はあっても、その過程を巡るところに関係性としての他者がいません。「知る」と「理解」の隔たり。アイロニカルな切断とディスコミュニケーション的すれ違い。

 

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」(P332)

 

 

もしも、そこに本音があったのだとしたら。

たくさんの言葉の中に紛れ込んでしまった本音から俺が目を逸らしていたのだとしたら。

彼女の行動原理を俺が都合よく解釈して、希望的観測で動いていたのだとしたら。

問題を与えられなければ、理由を見つけることができなければ、動き出せない人間がいる。

未だに不確かではあるけれど、それでも確かに想いがあって、だがその不確かさゆえに動き出せない人間がいる。

そのことを俺はよく知っている。なら、他にもそういう奴がいたっておかしくない。

それなのに、俺はその可能性を除外していた。

実際のところはわからない。

言葉を交わしたわけじゃない。言葉を交わしたってわからない。

ただ。

自分が何かをまちがえたのではないかという、その疑念だけが残った。(P334)

 

 

 

理解されているという幻想はどこまでも生ぬるく心地よい。(…)

理解しあうという、その錯覚は手ひどいまやかしだ。

その幻覚から目を覚ました時、どれほど失望するかわからない。

些細な違和感や疑念は棘となり、しこりとなり、いずれすべて台無しにする。

俺は気づくべきだったのだ。

俺が欲したのは、馴れ合いなんかじゃない。

きっと本物が欲しくて、それ以外はいらなかった。

何も言わなくても通じて、何もしなくても理解できて、何があっても壊れない。

そんな現実とかけ離れた、愚かしくも綺麗な幻想を。

そんな本物を、俺も彼女も求めていた。(P341)

 

 

 

雪ノ下雪乃への意思疎通(コミュニケーション)をしないまま、他者との切断されるようにしてディスコミュニケーション的な前提のズレを無視した「依頼の相対化」も、「先送りの病」に表れるような宙吊り的な感触を残しています。取り返しがつくように「正しく」あろうとした結果の「まちがい」=コミュニケーションのズレであり、ディスコミュニケーションと主観的な歪みによる他者の不在は、存在論的不安による「先送り」と変わらないざらついた余韻があります。思う通りにならない他者が存在して、言葉と解釈のズレは現実と同様にままならなさや複雑さとして重なっていきます。

もはや部室に微温的なコミュニケーションの象徴であった「紅茶」はありません。6巻と7巻の間の「日常」という反復を偽るようにして、それこそ作為的な「温存」という欺瞞でもあり、演出してみせる「茶番」という馴れ合い(偽物)は「本物」ではないように。

他者へのディスコミュニケーション的な遠さから、本質的に「他者の不在」というねじれに気付きます。「分かり合えない」「分からない」ことを方便として、他者を避けてコミュニケーションを迂回しては倫理的な問いに対する「先送り」がズレの多義性を決定づけているといえるでしょうか。取り返しのつかなさ、リセット不可能性という一回限りの選択が必然的に何かしらを喪失してしまうことによるズレを孕む現実とアイロニーがグロテスクな感触を残すようにして、存在論的なざわめきが漂っています。

7巻を起点にする「まちがい」の多重的構造から、他者の不在の存在論的な問いを掘り下げることで、引き裂かれている他者への「命がけの飛躍」をするための倫理的な問い自体を「先送り」にした「まちがい」が8巻だったといえるでしょう。

futbolman.hatenablog.com