おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(11)

8巻で「まちがい」彷徨した行方の「守りたかった日常」は、9巻では「空虚な時間」として記されています。8巻が7巻の「まちがい」によるディスコミュニケーション的空間であったとするならば、9巻では8巻の関係性を「空虚」に、それこそ「形式的」に取り繕った結果、別の「まちがい」を多重的に「先送り」にしたことで「まちがい」の重複性がみえます。コミュニケーションの失敗という「まちがい」に「まちがい」を重ねた結果、取り返しがつかなくなった戻れない日常をどのように取り戻すのではない形で――なぜならゲームのようにリセットはできない人生の一回性なのだから――どのように新たに「問い直して」いくのかが問われるように。

まさしく9巻冒頭、停滞している関係性と距離感にある「凍てついた部室の空気」と同一化するような空虚な時間。「沈黙」と冷えた空気との違和感の侵入がありながらも、「何も変わっていない」と誤魔化しながら茶番にも似た日常という馴れ合いが繰り広げられます。

雪ノ下雪乃の非対称的に「微笑」を湛えるようにした沈黙の裏返しにある諦念の姿は、8巻からの「知る」と「分かる」の隔絶を意味しています。「飛躍できなさ」から「分かり合えなさ」というズレと他者性(外界)との距離感をみています。上手くいかないコミュニケーションの非対称的距離感を「空気」によって可視化するように、冬の冷たさが日常を脅かしている。

 

たぶん、俺が葉山たち視線を向けていたのは、虚飾だと、欺瞞だと思っていた人間関係がそこにあることを知っていて、それを今の自分に重ねていたのだ。

戸部はグループ内の不穏な空気を感じて無自覚に行動していたのかもしれないが、海老名さんは自覚的に溝を埋めようとしていたのだろう。

些細な行き違いや小さな違和感を少しずつ擦り合わせて、三浦や葉山も戸部も海老名さんも納得できる互いの妥協点を探って、彼らなりの在り方を調整しているように俺には思えた。

そんなやり方も、あったのだ。

彼らでさえも、本当は自分たちのコミュニケーションに疑問を抱き、悩みながら手探り状態でいる。

――なら、いったい、どちらが偽物だったのだろうか。(P36)

 

「空気」を読んで、コミュニケーションの調整が上手いとされる「リア充」な彼らでさえも模索している描写です。葉山隼人らの問題は遠近法的に比企谷八幡たちの問題と重なり、もはやこれまで見てきたようにスクールカーストの上部/下部構造は失効しているといえるでしょう。そのようなフレーム(仮構)は解体されています。
ここでは、比企谷八幡が現状への違和感を吐露しています。「まちがった」感触が残り続けているからこそ、遠近法的な他者をみて答えを求める。
「まちがい」=コミュニケーションのズレ、「言葉と現実」の差異とするならば、そもそも「他者の不在」から倫理的な問いをも「先送り」にしてきたのが7巻と8巻だったわけですが、ディスコミュニケーションな「まちがってしまった」後悔と他者とのズレを意識しているために、守ろうとした日常の「偽物性」を認識しています。

失ってしまったことを、言い訳にしないために。理不尽さに屈して認めないために。だから、いつもより気を張って、いつもよりいつも通りであろうと振る舞う。

それはきっと欺瞞だろう。

けれど、選択したのは俺だ。

選び直すことは許されていない。時は常に不可逆で、取り返しがつかないことも多々ある。嘆くことは過去の自分に対する裏切りだ。

後悔するのはそれだけ大きなものを自分が持っていた証拠だ。だから、嘆いたりしない。本来、持ちえなかったものを手にできていた。その事実だけで満たされるべきだ。(P42-43)

 

「持たぬ者」であるならば過去を肯定することは、現在持たぬ自分自身に捧げる祝福であるかのように、過去を否定せずに自己肯定しようとする意識は再帰的に増長していきます。これまで「自意識のマチズモ」と呼んできたものとさして変わらないでしょう。「変わらないこと」、また本来ならば持ちえなかった財産があった事実に対して満足するべきだと、現状の「持たぬ者」として過去に目を向けることで「自分は恵まれていた」記憶で自己充足すべきだと比企谷八幡は語っています。人生の一回性による選択の残酷さから、喪失してしまったことを嘆かず、むしろそれを保持していた事実を甘受しては選択の自己正当化を図るように「回復」する内面は喪失のナルシシズム的ではあります。あきらめによるアイロニカルな幸福観。自分自身の選択を後悔するのではなく、喪失を受け止めた上で過去や経験を否定しない自意識のマチズモにもみえますが、他者性を欠落したままの「持たぬ者」としてアイロニカルに倫理的な問題に対してねじれているともいえるでしょうか。

この自意識と関係性の箱庭に閉じ込められるようにして、倫理的な問いを内包しながらもモラトリアム的な意味で「先送り」にした結果としてコミュニケーションの非対称的な「まちがい」を反復的・多重的に組み込んだのが『俺ガイル』だといえます。安易に物語的に進まない停滞感を醸し出す反復性と自意識の呪縛は「自意識の化け物」たる青春=モラトリアムと成熟の葛藤を描いた証拠でしょう。

 

物語としては一色いろはの依頼に対する反応はさまざまでした。雪ノ下雪乃の「沈黙」は語らないことによる「分からなさ」であり、非対称的な歩み寄りではない8巻からの連続性としての妥協と諦念の産物(ディスコミュニケーション)でありますし、由比ヶ浜結衣は依頼を受けることで「以前のような日常」を前景化しては「かつての微温的な日常」を取り戻そうとします。空虚さへの打破といえるでしょう。

しかし、比企谷八幡は奉仕部としてではなく個人的に依頼を受けます。8巻の一色いろはへの責任に対する態度表明で、依頼を奉仕部として受けることでこの空間をこれ以上「劣化」させないように守ろうとした結果でした。

もちろん、雪ノ下雪乃への責任も感じています。彼女は「沈黙」していて正確には分からないけども、比企谷八幡はそのように認識している。

8巻では奉仕部を守ろうとしたが、果たして守ることはできたのか。倫理的な問いが「先送り」にされる「他者の不在」のまま、迂遠的なコミュニケーションによるズレ=「まちがい」を「分かり合えなさ」として表象されているように、雪ノ下雪乃の語らない「沈黙」=諦念が決定的な非対称性を露呈しているといえます。

一色いろはの依頼を受けて生徒会のサポートとして合同会議に参加した比企谷八幡ですが、そこで彼が目にしたのは玉縄を中心とした空虚ともいえる「意識高い系」の存在であり、ジャーゴンを使用するだけの上滑りする会議でした。空虚な会議に飛び交う曖昧で記号的な言葉。会議を回しているという自意識を埋めるための時間と空転は、自分たちが恰も「何者」かになったかのようなパフォーマンスの確認作業であり、社会的使命を果たしているように錯覚するための時間に過ぎません。まさしく空中的に飛び交っている言葉と経験のズレは、意識高い系という「何者でもない」キャラクター的な空洞ともいえるでしょう。さらに言い換えるなら「言葉と現実」のズレでもあり、言葉を振りかざしても空虚さは晴れません。むしろ言葉と経験の隔絶があるのがみえてしまう。

曖昧で不確かなコミュニケーションを取り繕うとは停滞している「空気」と、本質的な意味での他者とのコミュニケーションの失敗による距離感の喪失が可視化されている会議の「空虚さ」はその点において奉仕部とも重なって読めるでしょう。

 

――俺はまちがえはしなかっただろうか。

あれからずっと問い続けたその答えはもうとっくに出ている。

きっとまちがえたのだと思う。

生徒会選挙からの日々がそれを如実に語っている。(…)

だから、責任をとらなければ。自身の行動に責任をとるのは当たり前のことだ。

自分のまちがいを正すのに、他人を当てにしてはいけない。さらに人に迷惑をかけてどうする。安易に人を頼って、またまちがえて、その人に徒労を強いることは信頼に対する何よりの裏切りだと思えた。(P140-141)

存在論的な「夜」の肯定から、潔癖的かつ個人的であろうとしている責任感が肥大化しています。「まちがえて」自己責任的に、あるいは潔癖的にさらに「まちがえない」ようにするために一回限りの選択の残酷さから責任を引き取れる範囲内としての個人主義的な姿勢と受け取れますが、他者への一方向的な気遣いであることには違いありません。もちろん他者がそのように望んでいるかは「分からない」ように、依然としてコミュニケーションを介していないディスコミュニケーションによる「分からなさ」の距離感があり続けます。

雪ノ下雪乃への責任を感じては「彼女のため」に依頼を遠ざけましたが、果たして彼女が望んだことかは「分からな」ければ、奉仕部を現状からさらに「劣化」させないための自己満足だったのではないかというアイロニカルな懐疑も透けている。

 

「……俺は君が思っているほど、いい奴じゃない」(P154)

俺の葉山隼人への認識は何かが違うのだろうか。

いい奴なのだと思う。一方でただ者でないことも理解している。皆が仲良くあれるよう、その目的のためにときに非情な表情をして見せる。それが葉山隼人なのだと思っていた。

けれど、あの笑顔は少し違った。柔和で優しげな微笑は一見、完璧に見える。だが、隙がなく完璧だからこそ、底が知れなくてうすら寒い。

あれによく似たものを俺はどこかで見ているはずだ。(P156)

葉山隼人の複雑性は、前期から「リア充」のイメージを攪乱するように取り扱われていました。

端的にいえば、「リア充と非リア」の二項対立(分断)を脱構築しようとしている。もちろん、そのために二項対立もとい権力関係が温存されてしまう構造が作品に内包されてしまいますが、生々しい他者の捉えきれなさとして葉山隼人は単純なイメージを撥ねつけます。

比企谷八幡の主観では経験的に雪ノ下陽乃を連想させていますが、葉山隼人の遠近感によるものでしょう。4巻で相互認識した比企谷八幡葉山隼人は、6巻、7巻、8巻を経ることで「絶対的な分かり合えなさ」としての距離感を形成しています。他者との非対称性ともいえる。現実や他者をそのまま捉えることができないメタデータの膨大さから、ナラティブを引き出すことで見るしかない認識論的な意味での「言葉と現実」のズレが主観のねじれとして現前化するように、捉えきれない他者のプリズムが、それすらもナラティブとしてある種の「物語化」を経由しているわけですから現実とそのまま重なるわけではありません。このズレは認識に対する「物語化」の暴力性とも重なり、小説的な意味でのジレンマとして浮上します。さらに言えば、ねじれとしてイメージ的に肥大化するジレンマがあるでしょう。そのことがより一層に認識的に「言葉と現実」の差異を突き付けます。

 

「先送りの病」の一つでもある鶴見留美が登場したのは4巻でしたが、9巻で彼女が再登場します。相変わらず鶴見留美は孤独な状態のままで、「保留」にした結果が清算的にある種の負債として追いかけてくるような事実の迫力がある。

ですから、9巻でいえば比企谷八幡の責任は多重化しています。雪ノ下雪乃一色いろは、鶴見留美に対するそれぞれの責任があり、いうならば後期は「先送りの病」の反復性・多重性の結果のコミュニケーションの多義的な失敗=「まちがった」負債的事実が遅れて追いかけてくるズレに対して、どのように選択していくのかという他者との倫理的問題が描かれていきます。

また、自己目的化したような安易な「成長」や肩書きによる上書きを許さないのは6巻でもありましたが、『俺ガイル』がそのようなインスタントな「歩み」を排しているように見えるのは、もちろん比企谷八幡の潔癖性のマチズモと他者と自意識のせめぎ合いによる「語り」の緊張感によるものでしょうし、自他含めた「信じられなさ」ともいえるでしょうか。

7巻、8巻の「他者の不在」に対するねじれの現前化には「そうであるべき」の潔癖的倫理観という独我論的な「依怙地」な自意識が根付いているのは、存在論的な「夜」の肯定とその再帰的な連続性であることはこれまで見てきた通りです。

だからこそ、後期ではねじれるようにして他者と倫理が問題として浮上していきます。柄谷行人の用語を借りると、「存在論的位相」と「倫理的位相」の関係性の二重性から倫理的に読むことで問われるのが「文学」であるとするならば、他者との倫理的な交通形態から自ずと求められていくことで存在論的にも引き裂かれていく自意識のねじれが見えてくるでしょうし、さらに他者を見ることの難しさはイメージを経由した眼差しの暴力性とナラティブの倫理的問題が小説的に内包されていきます。コミュニケーションにしてもディスコミュニケーションにしても発生する倫理的な権力関係にも表れるように、倫理的に「読む」ことが要請されます。言うならば、比企谷八幡の相対化や「まちがい」は、ズラすことによってズレてしまったことによる倫理的問題とコミュニケーションの責任の多重的な可視化ともいえるでしょうか。

 

さて物語は、雪ノ下雪乃との決裂を予感させるものとなっていきます。

「けど、別にもう無理する必要なんてないじゃない。それで壊れてしまうのなら、それまでのものでしかない。……違う?」

その問いかけに俺は今度こそ黙ってしまった。

それは、俺が信じていて、信じきれなかったものだ。

けれど、雪ノ下は信じていた。あの修学旅行のとき、俺が信じきれなかったものを。

あのとき、俺は一つの嘘をついた。変えたくない、変わりたくないというその願いを、嘘で歪めた。

海老名さんと三浦、そして葉山。

彼女たちは変化のない幸福な日常を求めた。だから、少しずつ嘘をつき、騙して、そうまでして守りたい関係なのだろう。それを理解してしまった以上、簡単に否定することはできなかった。

彼らの出した結論、守ろうとするがための選択をまちがっているとは思えない。

俺は彼らを自分と重ね、その在りようを容認してしまった。俺は俺であの日々をそれなりに気に入っていたし、失くすのは惜しいと感じ始めていた。

いつか必ず失うことを理解していたのに。

だから、信条を歪めて自分に嘘をついた。大事なものを替えが利かない。かけがえのないものは失ったら二度と手に入らない。故に守らなければならないと、そう偽って。

俺は守ったのではなく、守った気になって、縋っていたのだ。(P214-215)

他者との非対称的な決定的なコミュニケーションの発露といえるでしょう。

7巻の「他者の不在」から、今や他者としての距離感が倫理的に問われている。同時に上辺ではない、偽物でもなく壊れない「本物」のような関係性。「言葉と現実」の非対称性でもズレることがない理想が浮上していきますが、後述します。

葉山隼人たちの問題は奉仕部との二重写し的であるというのは再三記していますが、嘘を吐くことで守った気になる居場所への「温存」という欺瞞が一回性の選択の残酷さから、現実に引き裂かれるようにしてアイロニカルに導かれていることを指摘しているでしょう。

比企谷八幡雪ノ下雪乃に対して「沈黙」してしまったことがパフォーマティブな意味合いを含有してしまうことで、ある種の共通了解が取れそうになっているのは皮肉的です。その残酷さから目を離すことはできないように。

 

雪ノ下雪乃からの最後通牒を受けた比企谷八幡平塚静と出会い、夜のドライブへとそのまま流れていきます。平塚静とのドライブシーンは、時間的余裕の無い現状を整理するのみならず、物語が問うている「イマ」を映し出す時間となります。

作中では外部的であり、成熟した大人として関わる平塚静の立ち位置を意味しています。悩める彼らにヒントを与えることができるし、依頼を促すことはできますが、「魚を穫ってあげるのではなく獲り方を教える」奉仕部の理念に通じる存在でしょう。

奉仕部に課せられたのは「自己変革」であったように、魚の獲り方のサポートをするのが奉仕部であるならば、奉仕部自体に「自己変革」を促すように、ある意味では「奉仕的」に関われるのは平塚静しかいないことも指しています。

たとえば、何度か挙げている朝井リョウなどに現れる局所的な「健全な文学」という相対化も、従来の「夜の文学」を対置してみせながら、これまで文学的に描かれてこなかった就活や学校の人間関係の葛藤は、その時間の「モト」を過ぎれば恰も問題解消してしまえる問題でもありますが、その状況はイマ・ココ的であるがゆえに当事者を近視眼的に視野狭窄に陥らせ、認識を歪ませてしまう。まるでイマ・ココの問題が「人生のすべて」であるかのように。そのようなイマ・ココ性に対して、介入できるのは外部的な存在に他なりません。内部化していない存在。まさしく平塚静のような「成熟」した存在であり、彼女が関わる状況は得てして「イマ・ココ」の問題を肥大化させたモラトリアムとも重なります。一過性的な問題の肥大化は「先送りの病」=モラトリアムを許容する写し鏡のようなものですが、『俺ガイル』でいえば「先送りの病」に対して暫定的にピリオドを打つことが14巻までのプロセスとしてあるといえるでしょうか。「選べなかった」彼らが「選ぶ」までの作品であるために、一時的かつ局所的な問題の文学化=「健全な文学」の相対化に対して、イマ・ココ性をある程度は甘受しながらも「自己変革」を通した存在論的な位相から他者との倫理を描くことができるかどうか。

以下は長いですが、平塚静とのやり取りを引用します。

「……よく見ている。君は人の心理を読み取ることに長けているな」

そんなことはない。(…)

「けれど、感情は理解していない」(P225-226

 

「心理と感情は常にイコールなわけじゃない。ときにまったく不合理に見える結論を出してしまうのはそのせいだ。……だから、雪ノ下も、由比ヶ浜も、君も、まちがえた答えを出す」(P226) 

 

俺は結局何も見ていない。人の気持ちを考えたつもりで、俺は表層的なところしか見ていない。推測でしかないものを真実だと仮定して、行動している。それは自己満足と何が違うのだろうか。

なら、俺にはたぶんずっとわからない。

「けど、……それって考えてわかるもんじゃないじゃないですか」

メリット・デメリット、リスク・リターンで考えるものならわかる。それは理解できる。

欲望や保身、嫉妬に憎悪。そんなありふれた醜い感情に基づいた行動心理なら類推できるものだ。醜悪な感情のサンプルなど自分の中にいくらでもあるから。だから、想像することは容易い。それに近しい類いのものであればまだ理解の余地はある。理論をもって説明ができる。

けれど、そうでないものは難しい。

損得勘定を抜きにして、論理も理論も飛び越えた人の想いは想像しづらい。手がかりが少なすぎるし、何より、今までまちがえすぎた。

好意とか友情とかあるいは愛情だとか、そうしたものはいつも勘違いしか生んでこなかった。きっとこれがそうだと思うたびに、またまちがえる。(P227)

 

「わからないか。ならもっと考えろ。計算しかできないなら計算しつくせ。全部の答えを出して消去法で一つずつ潰せ。残ったものが君の答えだ」(P228)

非対称性、権力関係を内包するコミュニケーションにおける「言葉と現実」が常にズレてしまうことへのジレンマと葛藤の告白ともいえるでしょうか。ズレてしまう言葉を伴うコミュニケーションに対する倫理を問うています。

「感情」の分からなさは「他者」の分からなさと重なりますが、言葉が現実に対して厳密でもなければ必ず遅れてズレてしまうように、リアリズム(描写)やナラティブ(語り)やイメージ(記号)、そして他者さえも捉えきれない一時的な留保であり、その複雑性を「先送り」するように担保することでしか認識することはできません。

しかし、このズレは「絶対的な分かり合えなさ」として現前化します。それでもなお「分かり合えなさ」を抱えながらコミュニケーションをするということの誠実さはあるでしょう。

感情を理解することは、目の前の他者を見ること。「先送り」にしてきた倫理的問題を捉えること。隔絶を見据えた他者を捉えることは倫理を問うこととなります。

8巻の際に「なぜ奉仕部を守りたかったのか」を問わずに、比企谷小町の言い分をエクスキューズとしてしたのは「まちがい」だったと思いますが、倫理的に指摘されています。

 

「でもね、比企谷。傷つけないなんてことはできないんだ。人間、存在するだけで無自覚に誰かを傷つけるものさ。生きていても、死んでしても、ずっと傷つける。関われば傷つけるし、関わらないようにしてもそのことが傷つけるかもしれない……」(…)

「けれど、どうでもいい相手なら傷つけたことにすら気づかない。必要なのは自覚だ。大切に思うからこそ、傷つけてしまったと感じるんだ」(…)

「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ」(P232)

 

非対称的・権力関係を内包するコミュニケーションのズレ、その暴力性への自覚を促す平塚静の言葉は、本質的な意味で『俺ガイル』の他者との関わりを避けてきた(デタッチメント)ことへの倫理的解答となっています。この言葉の意味を獲得していくまでの倫理が『俺ガイル』といっても過言ではないでしょうか。

さきに小説的なジレンマとして挙げたように、関わること、あるいは表現することで立ち上がる暴力性は必ず付き纏います。何かしらを言葉でもって立ち上げることは、同時に何かを切断してしまう。相対化も権力関係を含んでしまうように。「言葉と現実」の差異から、その結果「まちがえる」かもしれない。「傷つけてしまう」かもしれない。ズレという暴力性。そのような暴力性によって倫理が要請される。「人を傷つける覚悟」が求められるように、コミュニケーションの加害性・権力関係を自覚すること。倫理的に責任(覚悟)を引き受けることで、他者と向き合うことができるように「先送り」にしてきた倫理的問題が現前化しています。

「現実」に対して、遅延してズレてしまう抽象的な「言葉」に託すしかないことはある種の暴力でもありますが、果たして相手に届くかどうかも曖昧で不確かなものです。言葉は現実をゆらゆらと漂うようにして解釈は受け手に委ねられますし、言葉の意味内容自体が抽象的であるために届いて欲しい相手に正確に届かないかもしれない。あるいは偶然的に想定外の方向に届くかもしれない。暴力的にはたらきます。そのような抽象的であるがゆえに暴力性が非対称的に内包されているからこそ、「命がけの飛躍」は「命がけ」でもあり、他者への倫理的な責任(覚悟)が問われる構造となり得る。

 

「君たちにとっては、今この時間がすべてのように感じるだろう。だが、けしてそんなことはない。どこかで帳尻は合わせられる。世界はそういうふうに出来ている」(…)

「この時間がすべてじゃない。……でも、今しかできないこと、ここにしかないものもある。今だよ、比企谷。……今なんだ」(…)

「考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。――そうでなくては、本物じゃない」(P234-235)

 

「先送りの病」ではなく、イマ・ココしかないかけがえのない時間・空間があると平塚静は促します。モラトリアムであるからこそ、逆説的に「先送り」できないイマしかないこともあるように。まるで7巻、8巻までに「先送り」にしてきた倫理的問題から呼びかけられるようにして、平塚静の「他者と倫理」を巡る言葉は『俺ガイル』の本質を指し示しながら、現実的に切実な響きを持っています。このコミュニケーション自体の響きも「命がけの飛躍」には違いありません。平塚静の言葉には他者への倫理的な態度が見えることで、その切実な響きが「飛躍」を可能としていることは見逃せないでしょう。

もちろん、このシーンがそうであるように非対称性を含みながらも「飛躍」は他者との倫理的な応答可能性として「命がけ」的に体現しているといえます。

 

あの生徒会選挙のときの俺は、小町に理由を与えてもらっていた。小町のために、奉仕部を存続させるのだと、そう建前をつけて動き出した。

だから、あの時に俺はたぶんまちがえたのだ。

俺が見つけ出した、俺の答え、俺の理由で動かなければならなかったのに。(P240)

8巻の「まちがい」を自覚するモノローグですが、比企谷八幡が自身の受動性とエクスキューズによる「主体性のなさ」として覆われて見えなくなっていたことに気付きます。

なぜ、動いたのか。

比企谷八幡自身が動く理由を見つけ出す必要があったのに、それを「先送り」にしてズラしていたのが「まちがい」であったと総括されています。

本来、動くべき理由だったのは「欲しいものがあったから」とすることで、雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣への比企谷八幡の依頼=告白が行われます。

比企谷八幡の「告白」。

「告白」は遅れるようにしてズレて行われるものです。必ず言葉は遅延化する。7巻の「嘘告白」からの自己否定の露呈も遅れてきたように。だからこそ、遅れることで取り返しはつかなくなるともいえるでしょう。

また、ある種の相対化でもあり、「先送り」とは真逆の構図となるといえるでしょうか。

もちろん、「先送り」の負債も遅れて気付くものとなっていますが、時間軸が相対的にいえば「先送り」や「遅延」によってズレることで自己意識的に発覚するものでしょう。ズレることで言わなければならないことが生じることが「告白」であるならば、もちろんそれを言うか言わないかの選択も別問題としてありながらも、「告白」は非対称的に遅れて言うことで切実な響きを奏でる。秘めた遅延的な言葉が内面を押し出すことを「告白」というのだとしたら、比企谷八幡は「告白」したといっていいでしょう。

しかし、比企谷八幡の「依頼」について「自己責任」だと雪ノ下雪乃は指摘します。

そして、それは違うと否定するのは由比ヶ浜結衣でした。由比ヶ浜結衣は、比企谷八幡に相対化、「先送り」のツケを押しつけてきたことと同時に自分自身を含めた雪ノ下雪乃の言い方は「ズルい」と言います。これは依頼を遂行するために比企谷八幡のパフォーマンスに依存してきたことを指していますが、ここでは「責任」という言葉の隔たりを巡って相互に認識がズレていることが重要でしょう。

たとえば雪ノ下雪乃の「沈黙」もズレを生み出したものといえます。由比ヶ浜結衣の奉仕部をつなぎとめるための自己目的化したような空虚なコミュニケーションもそうでしょう。隔たりの可視化。その埋めがたいズレに対して、比企谷八幡は「告白」をします。

 

誰もが『言わなきゃわからない』と口にするのだ。言うことや伝えることの辛さも知らずに、どこからか借りてきた他人の言葉を鵜呑みにして。(…)

「言ったからわかるっていうのは傲慢なんだよ。言った本人の自己満足、言われた奴の思い上がり……、いろいろあって、話せば必ず理解し合えるってわけじゃない。だから、言葉は欲しいんじゃないんだ」(…)

「だけど、言わなかったらずっとわかんないままだよ……」

「そうだな……。言わなくてもわかるっていうのは、幻想だ。でも……。でも、俺は…」(P252-253)

 

俺は言葉が欲しいんじゃない。俺が欲しかったのは、確かにあった。

それはきっと、分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、話したいとか、一緒にいたいとかそういうことじゃない。俺はわかってもらいたいんじゃない。自分が理解されないことは知っているし、理解してほしいとも思わない。俺が求めているのはもっと過酷で残酷なものだ。俺はわかりたいのだ。わかりたい。知っていたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい。わからないことはひどく怖いことだから。完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。

けれど、もしも、もしもお互いががそう思えるのなら。

その醜い自己満足を押しつけ合うことができて、その傲慢さを許容できる関係性が存在するのなら。

そんなこと絶対にできないのは知っている。そんなものに手が届かないのもわかっている。

手が届かない葡萄はきっと酸っぱいに違いない。

でも、嘘みたいに甘い果実なんかいらない。偽物の理解や欺瞞のある関係ならそんなものはいらない。

俺が欲しいのはその酸っぱい葡萄だ。

酸っぱくても、苦くても、不味くても、毒でしかなくても、そんなものは存在しなくても、手にすることができなくても、望むことすら許されなくても。(P253-254)

 

「俺は、本物が欲しい」(P255)

 

平塚静の言葉を受けて、「考えてもがき苦しみ、あがいて悩んだ」結果の「本物」という言葉の響きが偽りない誠実さを含んでいます。

コミュニケーションにおける非対称性を乗り越える飛躍的可能性として、他者への戸惑いや躓きがない開かれた関係性を「本物」とするならば、他者との絶対的に対称的な関係性とすることができるでしょう。

既に8巻では「家族」の類似的可能性は提出されていましたが、「本物」の持つ対称性は他者に開かれているといえます。まさしく「命がけの飛躍」を乗り越えられるような距離感であり、「分かり合えなさ」としてのズレを見つめる空虚な差異を埋めてしまうほどの対称性が他者と向き合う倫理的な呼びかけといえるでしょう。

「本物が欲しい」と言った比企谷八幡の感情。「本物」という抽象性の高い曖昧な言葉は、受け取る他者にとって真意が掴みかねる恐れがあり、それでも「本物」としか言えないような言葉の遅延化――「告白」の距離感といかに切実であっても生じてしまうズレという暴力的なジレンマがあります。たとえ意味内容として言葉の意味が厳密に伝わらなくとも、その告白した姿に意味は宿るように、その隔絶に「命がけの飛躍」を見出すことができます。言葉が現実や意味内容に対して厳密に追いつけないとしても、それでも言葉で言うほかないねじれやジレンマを抱えているのが後期『俺ガイル』であり、そのジレンマは「小説」が言葉でもって描かれざるを得ない矛盾と重なるのは明白でしょう。もちろん、そのことが意味するのは「言葉と現実」のズレであり、非対称性です。これまで見てきたように『俺ガイル』は物語的に(ディス)コミュニケーションによる他者との関係性の非対称性を倫理的にみることができますが、その非対称性は小説的に敷衍すると「言葉と現実」の差異と倫理であり、文学的なジレンマとして重ねて読むことができます。そういう意味では素朴に「文学的」といっていいでしょう。

言葉の不自由さに躓くこと。言葉の空虚さに戸惑うこと。言葉がいかに不自由であり、遅れるようにしてままならなくとも、その隔たり、ズレを意識することから小説的な言葉の蠢きとしての「命がけの飛躍」を生み出すための基盤となり得る。文学的なジレンマとしての否定神学をみることから言葉との関係性は始まります。伝達不可能性なアポリアやある種の空虚さを見つめることとなるように。そのようなざわめきを(ディス)コミュニケーション的に物語に組み込んだのが『俺ガイル』でしょう。「本物」なんて見たことがないから。願望でしかないから。正確に届くかも分からない。届いても伝っているかとも限らない言葉のズレ。

しかし、伝わってなくても応答可能性がコミュニケーションにはあります。他者との可能性。分からないから、分かろうとすること。それでもきっと分からないかもしれないが、分かろうとする倫理的な姿勢こそが漸近的な理解であり、その都度コミュニケーションは非対称性を内包しながら宙吊りとなる。その宙吊り(不安)に耐えること。ざわめきが隔たりとなり、「飛躍」を「命がけ」とさせます。

そもそもコミュニケーションには権力関係が内包されている段階で、他者との関係性は倫理的にならざるを得ないように要請されます。だからこそ他者への覚悟(責任)が求められる。この時点で本当の意味で他者に「目が合った」といえるでしょうか。これまでの「他者の不在」は9巻で他者性と接続されることで、比企谷八幡の「私」と「他者」を巡る隔たりへの倫理的な位相へと明確に動いたことが分かります。

9巻以降、曖昧な語りや言葉の遣り取りが増えていくのは言葉によって規定されてしまう「仮構」そのものを宙吊りにするように、抽象化することで安易な決定可能性を乱立しない意図が込められています。「言葉と現実」の非対称性による「言葉への信用ならなさ」といっていいでしょうか。

しかし言葉を用いるほかないのも事実であり、矛盾としてある。だからこそ「言葉」への懐疑をみつめていくのは決定不可能性を生み出していく作業でもあり、その応答は「言葉」そのものの不確かな磁場と輪郭を迂遠的になぞる倫理的、文学的な行為となっていきます。

後期『俺ガイル』が物語的には他者とのコミュニケーションと倫理の地点からみやることで、文学的に「言葉が持ってしまう空虚さ」に対する矛盾であるねじれを物語と並走するような「遅延化した歩み」が文学的な意味でのジレンマの輪郭として表象されているともいえるでしょう。

「あなたの言う本物っていったい何?」

「それは……」

俺にもよくわかってはいない。そんなもの、今まで見たことがないし、手にしたことがない。だから、これがそうだと言えるものを俺は未だに知らないでいる。当然、他の人間がわかろうはずもない。なのに、そんなものを願っているのだ。(P260)

 

誰かは遠回りで捻くれた虚実混ざった理論しか振りかざせなくて。

誰かは抱いた想いをうまく言葉にすることができずに黙り込んで。

言葉なしには伝えられず、言葉があるから間違えて、だったら俺たちはいったい何がわかるんだろうか。

雪ノ下雪乃が持っていた信念。由比ヶ浜結衣が求めた関係。比企谷八幡が欲した本物。

そこにどれほどの違いがあるのか、俺にはまだわからないでいる。

けれど、素直な涙だけが伝えてくれるのだ。ただ、今この時は間違えてなんかいないと。(P262)

 

引用した上記のシーンは「空中廊下」が舞台となっています。比企谷八幡の「告白」に対して、「分からない」として部室を飛び出した雪ノ下雪乃を追いかけた先が空中廊下でした。学校の造りによって設けられている空中廊下はなにも遮るものがなく、海風が吹き付ける丸裸で宙づり的な場所は「先送り」にできない自意識そのものであり、あるいは「橋」=「交通」のメタファーでしょう。剥き出しな他者との開放性。文字通り「命がけの飛躍」をして、それでも正確には伝わらなくとも「素直な涙だけが伝えてくれる」ように姿勢は伝わる。言葉が持ってしまう複雑性が物語の抽象化を促すように。

ある意味では意味自体を「先送り」にするように、そして「告白」は遅延化して後から追いかけてくるようにメッセージの時間的なズレは「言葉と現実」のズレと重なるようにしてアイロニカルに「言葉は現実を捉えきれない」といった「言葉の信用できなさ(ズレ)」とリアリズム(描写)の限界を指摘しながらも、それでも言葉の持つ他者性を用いるほかないジレンマはまさしく文学的な意味での矛盾としての「言葉の空虚さ」になるでしょう。

「言葉の空虚さ」をみつめること。「無=場所」としての空白地帯から匂いやざわめきを感じ取ること。現実とズレて引き裂かれてしまう言葉の他者性。言葉の意味内容のコンスタティブとパフォーマティブの揺らぎがありながら、言葉は現実に対してズレることで空虚的であるジレンマや暴力性を孕んでいます。「小説」というナラティブはそれらを引き受けなければなりません。

言葉(発話)の非対称性から、主観(意識と記憶)という時間的・空間的なねじれが組み合わさることで、本質的な意味での内面と外界との「関係性」を取り巻く磁場としての「文学」が浮かび上がるように、逆説的にいえば「言葉と現実」のズレや矛盾、「空虚さ」があるからこそ成立する「語り」といえる。

たとえば、北村薫がいう「小説が書かれて、読まれること自体が人生の一回性への抵抗運動」となり得るように、言葉が言葉であるがゆえに、このトートロジーさえも空虚的であるからこそ逆説的に磁場を構築できるねじれが「文学」たるゆえんでしょう。否定神学的に乗り越える可能性としての小説的な矛盾が生まれる言葉を攪乱する運動性。そのようなズレを読み込むところに小説の倫理的な「場」が生まれていきます。

 

「告白」を経たあとで距離感がぐっと縮まるというよりも、むしろ距離感が「分からず」にギクシャクしているところに人間関係の非対称性の妙があるといえるでしょうか。「命がけの飛躍」をしても非対称性はパフォーマティブにある種乗り越えられたように思える錯覚的であっても、その手触りは刹那的な結果であるという生々しさが横たわっています。正確に「本物」の意図は伝わっていない――分かっていないのですから当然であるという見方はできるでしょう。

物語的には雪ノ下雪乃の「いつか、私を助けてね」は彼女が零した初めての「願い」ともいえるでしょうか。「本物が欲しい」という「告白」=依頼と秘密の共有を経たコミュニケーショの表れです。

しかし、二重の意味で非対称的であることには注意が必要でしょう。雪ノ下雪乃の言っていることはあくまでも抽象的であり、解釈は受け手に宙吊り的に委ねられるという――これまで重点的にみてきた「言葉と現実」のズレが一つ。

gendai.ismedia.jp

2010年前後のラブコメでは、極論すると、学校で変な部活を作ってバカをやったあとで女子の暗い過去を聞いてピンチから救うことを何人か繰り返せばハーレム状態ができあがっていた。

 

そしてもう一つは上で引用したように、男性主人公が「カワイソーな女性」を助けるボーイ・ミーツ・ガールの権力関係と主体性を巡る点がステレオタイプ的に温存されているところは見逃せません。

比企谷八幡目線でいえば、ある意味では「本物」は対称的な産物であって、「飛躍」による応答可能性をもって権力関係を無化するはたらきを本来的には持つはずですが、雪ノ下雪乃の「言葉」は「本物」とは異なるように、むしろ非対称性を構造的に温存してしまうところがあります。

もちろん、この「願い」は雪ノ下雪乃の言葉であり、比企谷八幡の「告白」と重なる必要性はないわけですが、比企谷八幡を語り手として位置している以上、「本物」を巡っていく物語構造自体がボーイ・ミーツ・ガールの権力関係を刻印してしまうジレンマを内包していることには注意が必要でしょう。それは決定的に非対称性を伴ってしまうものだから。「本物」が他者との非対称性、不均衡な構造を乗り越える可能性があるかどうかの物語の結末はここでは詳しく論じませんが、さきに注意を投げかけときます。

 

「曖昧な言葉で話をした気になって、わかった気になって、なに一つ行動を起こさない。そんなの前に進むわけがないわ……。何も生み出さない。何も得られない。何も与えない。……ただの偽物」(P390)

 

比企谷八幡の「依頼」を受けて会議に参加したときの雪ノ下雪乃のセリフですが、さきの「本物」を受けて「偽物」という言葉が明確に用いられています。ある意味では比企谷八幡に倣って、雪ノ下雪乃も「偽物」を使うことによって、「本物」という抽象性に対置するようにして「偽物」という共通認識を共有していることが見て取れるといえるでしょうか。

しかし「偽物」が分かっているからといって、そのまま「本物」が分かるかというとそうではありません。現に、雪ノ下雪乃比企谷八幡の願いについて「分からない」と当初は拒絶をしました。

しかし「偽物」を消去法的に引いていった過程で最終的に残ったものが「本物」であるとするならば、平塚静が語ったロジックがある意味では重なるのが分かりますが、ここでは「本物」という抽象性からロマン主義的な文脈に接続して対置してみせることで現実的な「偽物」という差異を、自分たち自身を省みながら指摘しています。「偽物」を糾弾しながら、玉縄たちの会議の空虚さと重なる自分たちの関係性と「言葉の空虚さ」が二重写しとなっては戒めとなっています。

「告白」を経て、共通了解(具体的に理解していなくても、感情の振れ幅は共有している関係性)が瞬間的に立ち上がることで、恰もつながったかのような感覚。「本物」から差し引いたような「偽物」を抽出するような認識によって共同主観的に一致しているといえるでしょうか。

4巻で「先送り」にした鶴見留美の件を清算するのが9巻とすることができますが、自立することで他者と向き合えることが描かれています。

「自他」の輪郭が際立ち、倫理的な問いが生じる。つまり応答可能性としての「責任」が生まれては、言葉のズレやコミュニケーションに潜む暴力性から、「命がけの飛躍」がその都度倫理的に問われていくように、「まちがい」を内包しながらも他者と向き合うことで飛躍可能性が開かれていくとするならば、他方で平塚静が指摘した「余人に理解されない幸福は閉じた幸福」=箱庭は閉鎖的な歪みといえるでしょう。物語的な外部への前進が内部に回収されてしまうような、外部が内部に転換する内面化のねじれ。「外部のない」ことへの危険性とでもいうべきでしょうか。

物語的には「言葉と現実」のズレからコミュニケーションの失敗という多重的な「まちがい」をしてきたからこそ「まちがえない」ために選択しては、結果的に「まちがってしまう」という一回限りの選択の残酷さは、多重的なズレを生み出しては9巻の「告白」である種の共同性(共同主観性)を獲得してみせましたが、「箱庭」「温存」の欺瞞との近さを暗示していることは見逃せないでしょう。

つまり、「本物」という飛躍可能性にある開放性・対称性とは決定的に異なってしまうのではないか。

そのような問いが成立するようなアイロニーが隠されていることを「言葉の不自由さ」から読むことができます。

futbolman.hatenablog.com